日本人   西村 郁子


 

 東日本大震災にまつわるニュースで、この混乱の中よく暴動が起きないものだと海外メディアが報じているのを目にする。そういえば、震災の翌朝の東京山の手線のホームにはきちんと整列して電車を待つ人たちの姿が新聞に載っていた。
 最近も、瓦礫の中からみつかった金庫がほぼ全部警察に届けられ持ち主にもどったという事実も海外メディアを驚かしたのは記憶に新しい。
 日本が褒められるとうれしいものだ。
 しかし、ドイツでは東日本大震災を人類史上最悪の出来事と報じている。これに対してみんなもその通りだと思っているのだろうか、どこかから抗議の声があがるのではないのかとニュースを注意してみていたが、そのことが大きく報じられることはなかった。
 すると、疑問に思うようになった。報じられていることがではなく、先の暴動が起こらないことも、ホームの整列もそして最悪の事故を起こしたと言われて抗議しないことも何か同じ精神構造でそうなっているだけであって、意識的にそうしているわけではないのかもと思ったのだ。
 また、震災直後に思ったことのひとつに、ロシアや中国、韓国との間にある領土問題が、この未曾有の危機に瀕した日本に対して、向こうから譲歩がなされ復興の後押しをしてもらえるのではないかということだった。それが正反対のさらに領土を要求する態度にでられたのも驚きだった。わたしだったら、いまは何もせず待ってあげるのがフェアなやり方じゃないのかと。
 そう、このわたしだったらというのが、日本人ならではなのかなと思うのである。誰にも言われていないけれど、ここでこういう行動をとれば、まず、誰からも卑怯だとは言われず、おのれの良心もいたまないところ。それが空気を読むという日本人ならではの習性なのではないだろうかと思うのだ。
 もともと日本の会社は終身雇用で会社は親のようなもの、社員は子のようなものと位置づけ、お父さんが会社のために家族をかえりみずモーレツに働いていた頃から、やがて能力主義にうつりかわり、終身雇用もなくなり、習性だけが残ったと。
 変化に一番弱かったのは、「お父さん」だったのではないか。会社に軸足を置いていたのに、地面がなくなり、振り返って家をみると妻も子も動物的嗅覚でもって、もうこの人に仕える意味はないなとばかり、尊敬もしなくなる。
 わたしの子ども時代をふりかえるなら、父のおかずがわたしたちより一品多かったのが、ある時から、「おっさん」と母が父を呼ぶようになった。
 結論がある話ではないのだが、日本人は終身的な雇用に戻る方がいいのではないのかと思う。信頼関係で築かれたものは強くて、日本人の資質にあっているように思うからだ。ただひとつ、会社は社員の給与管理はせずに、ひとりひとりが申告するようにする。そう思ったのは、定年退職後に確定申告をしている父の意識の違いをみたからだ。無関心ではいられなくなるようだ。


 

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