画道遥かなり   津木林 洋


 朝餉(あさげ)を終えると、訥言(とつげん)は朝の勤行には向かわずに服を着替えた。墨染の衣を身に付け、白脚絆を巻く。汗でにじまないように二枚の仏画を油紙で包み、頭陀袋(ずだぶくろ)に入れる。この日のために何枚も模写した中から前夜選んだものである。
 訥言は網(あ)代(じろ)笠(がさ)を手に、僧坊の上がり框に立った。樹木を通して夏の光が差し込んでいる。草鞋を履いていると、足音がした。寺の絵所頭(えどころがしら)の行雲である。
「訥言、水を持っておるか」
「いや、持っておりませぬ」
「京まで近いと思うたらひどい目に遭うぞ。これを持て」
 行雲は手にした竹水筒を差し出した。訥言は恐縮してそれを受け取った。訥言とて、京までの道のりを馬鹿にしたわけではない。ただそんなことに意識が行かないほど、自分の模写した仏画の出来映えが気になっていたのだ。
 今日、二人で向かうのは、鶴沢探鯨(たんげい)の教えを受けた狩野派の絵師で、京五条に一家を構える石田幽汀(ゆうてい)の所である。彼にまみえた時、自分の画才を強烈に印象づけねばならぬと訥言は考えていた。ただの入門とは違う。幽汀が身を乗り出し本腰を入れて、自分の才能に惚れ込まねばならぬと気負い込んでいた。その向こうには、円山応挙(まるやまおうきよ)の姿があった。幽汀に応挙を超える画才の持ち主であると思わせることが今日会うことの目的だった。訥言十七歳の時である。

 田中訥言は明和四年(一七六七)、尾張の清洲(きよす)に生まれた。貧しい百姓の子供で、貧窮ゆえ幼少の頃に近在の日蓮宗の寺に預けられた。習字の時、いろは、ではなく武者絵や鍾馗(しょうき)の絵を描き散らしていた訥言を見て、住職は絵仏師にしたら面白かろうと考え、比叡山延暦寺に修行に出した。僧侶の修行の傍ら、絵の修練にも励み、十歳を過ぎる頃には、その画才を見込まれて仏画の模写や障壁画の修復に携わることになった。
 彼が円山応挙という絵師を身近に感じるようになったのは、一年前、一乗寺にある円光寺で竹林図屏風を見せてもらったのがきっかけだった。もとより応挙の名前は洛中洛外に鳴り響いており訥言も知ってはいたが、それまでは所詮絵を売って自身を養う一介の町絵師に過ぎぬ、仏の道を衆生に伝える自分の仕事とは全く違う世界であると考えていたのである。
 それが竹林図屏風を見た瞬間、変わってしまった。六曲一双の一方には雨に打たれる竹林を、もう一方には風に吹かれる竹林を描いているのだが、雨も風も一切描かれていない。竹の葉の広がり、幹のしなり具合だけで、雨を描き、風を描いているのである。白地に墨の濃淡と配置の妙だけで奥行きを持った竹林が現前している。
 訥言は顔に雨が当たり、僧衣を風が揺らすのを感じた。住職が側にいるにもかかわらず、訥言はひとり竹林の中に立ち尽くしていた。
 呆然とした一時が過ぎると、筆運びのどこかにごまかしがないか、ためらいがないかと顔を屏風に近づけた。そこには自分が町絵師の絵に圧倒されたことを恥じる気持ちがあった。それが訥言にむらむらと反発心を起こさせたのだ。
 住職から顔を近づけすぎていることを注意されると、訥言は袂を口に当て息がかからないようにしながら、隅から隅まで見て回った。それこそ雨中の向こうに消えかかって白地とほとんど区別のつかない薄墨の竹の葉一枚一枚にまで目を凝らした。しかしどこにもごまかし、ためらいの線がなかった。すべての線に気力、勢いがあるのだ。
 訥言は体を起こすと、ふうっと溜息をついた。
「さすが訥言殿。細かいところまでよくご覧になりますなあ」
 住職の言葉に一瞬皮肉を感じたが、その声音には素直な気持ちが表れていた。住職は続けて言った。
「絵心のない者にはそこまで近づいて見ることなどできやしません。絵全体から受ける迫力に近づくことさえ恐ろしい気がしますものを」
「これは失礼いたしました。画道を学んでいる者にとって、どうしても筆使いが気になるものですから」
「それはそうでしょうなあ」
 住職は感に堪えたように大きく頷いた。
 それからというもの、訥言の脳裡に竹林図屏風が居座ってしまった。仏画の模写だけではあんな筆使いは到底身に付きそうもないと焦りにも似た気持ちが芽生えてきたのだ。
 ここはどうしても先達に師事して教えを請わなければと訥言は思い詰め、行雲にそのことを伝えた。ただし、竹林図屏風を見て影響を受けたことは一切告げなかった。
 行雲は誰に師事するかと尋ねてきた。土佐か狩野か。かつての勢力は衰えたものの未だ絵所預(えどころあずかり)として御用絵師を賜っている両家のどちらかに学ぶのが妥当と行雲が考えたのも無理はなかった。
 しかし訥言は意外な名前を口にした。
「石田幽汀(ゆうてい)先生に学びとうございます」
「なるほど。幽汀殿は狩野の流れを汲むお方なれば、それもようございましょう」
 行雲はそう言ってから、はたと気づいた顔をした。
「幽汀殿にされるくらいならば、その弟子であった応挙殿にされたら如何か。その技倆はすでに幽汀殿を超えておるし、門弟の数も今や凌いでいると聞いておるが」
 確かに応挙はその頃、光格天皇の兄に当たる妙法院宮真仁法親王(しんじんほっしんのう)の知遇を得て、皇室の御用絵師のような仕事をしており、大寺院からの注文にも次々と応じていた。
「いや、幽汀先生の教えを請いたいと思います」
 訥言にそう言わしめたものは、竹林図屏風を見た時に感じた反発心に他ならなかった。応挙の許で学べば、応挙を超えることはできない。応挙の師事した幽汀に学んでこそ、彼を超えることができると考えたのだ。

 訥言と行雲が東本願寺近くの石田幽汀の屋敷に着いた時には、すでに昼近かった。涼しい夏にもかかわらず京の町は蒸し暑く、休み休み来たものの僧衣の下は汗びっしょりで、竹水筒はとうに空になっていた。
 屋根の付いた門の扉は開け放たれており、二人は水の撒かれた敷石を踏んで玄関先に立った。大きな衝立があり、鯉の滝登り図が墨一色だけで描かれてあった。唐画風の荒々しい滝に比べ、鯉は大和絵風の柔らかな線で描いてある。かと言って弱々しくはなく、しなやかな力強さが感じられる。涼風が吹き渡ってくるようであり、訥言は幽汀の心遣いを感じた。
 玄関に出てきた女中に来意を告げ、下男の持ってきた木桶の水で体を拭い足を洗うと、二人は女中に案内されて廊下を渡った。
 奥座敷にはすでに幽汀がいて、座椅子にもたれ片足を投げ出している。
「こんな恰好で失礼とは存じますが、歳を取ったせいか近頃膝が痛くなりましてなあ」
 幽汀に勧められて、二人は円座に腰を下ろした。開け放たれた障子の向こうに灌木の生えた庭が見え、そこから風が吹き抜けていた。
 幽汀はこの時すでに還暦を過ぎており、白髪を下ろした顔は訥言には好々爺に見えた。ただ眼光に鋭さがあり、訥言はそれに負けないように自分の眼に力を込めた。
 行雲は会っていただけたことに謝意を述べ、天台座主の添え状を手渡した。行雲の目配せで、訥言は頭陀袋から油紙の包みを取り出し、中に入っていた半紙大二枚の仏画を広げた。手紙を読み終えた幽汀は目の前の仏画に目をやると、小さく何度も頷いた。訥言は固唾を呑んで幽汀の表情を窺った。
「如何でしょうか」と行雲が尋ねた。
 幽汀は顔を上げ、一つ大きく息を吐くと、
「これはこれでよく描(か)けているが、後で実際に描いているところを見せてもらいましょう」
 と言って手を叩いた。
 訥言は拍子抜けがした。この一ヵ月、寝る間も惜しんで模写を繰り返してきたのは何のためだったか。しかしすぐに、確かにもし自分が一家をなして誰かを弟子に取る時には、実際の筆使いを見るだろうなと気づき、内心で苦笑した。
 女中と下男が膳を運んできた。載っている二つの鉢には四角く切った西瓜と素麺が入っていた。
「暑い時はこういう水の物がよろしかろうと思いましてな。砂糖もありますゆえ、存分に」
 幽汀は木匙で小壺から砂糖を半盛りほどすくうと、西瓜にかけた。そして、その砂糖壺を二人の方に押し出す。砂糖を常備しているとは、町絵師とはそれほど金のあるものなのかと訥言は驚いた。
 手を出しかけて行雲を見ると、西瓜を箸でつまんで口に入れている。仕方なく自分も砂糖をかけず、西瓜を食べた。甘くはないが、清涼な水気が渇いた喉を潤してくれた。素麺は寺で食べるものとは違って、糸のように細かったが、腰があり、舌触りがよかった。
 幽汀と行雲は先日起きた浅間山の噴火の話をしており、天変地異でますます冷害がひどくなって飢饉が広がるのではないかと心配していた。岩絵具の値段も高騰してと幽汀は渋い顔をした。
 昼餉がすむと、幽汀は二人を隣の画室に案内した。十二畳ほどの板敷きの間で、意外に狭い感じがする。奥に毛氈が敷いてあり、その上に薄い座蒲団が載っている。毛氈の端にはいくつかの木箱が整然と置かれ、その中には、硯や大小の筆、絵具皿、岩絵具の入った紙袋などが入っていた。乳鉢も横にある。
 実技をすることになるとは思ってもみなかったので、袂をたくし上げる紐を持っていなかった。それで幽汀に頼んで細帯を借り、僧衣を襷掛けにしてから、促されて訥言は座蒲団に腰を下ろした。幽汀が棚から和綴じ本を一冊持ってくる。それをぱらぱらとめくると、これがいいと呟いて見開きのまま本を訥言の前に置いた。牡丹の白描画が両頁に描かれている。
 幽汀は半紙を本の横に置くと、「これを見ながら描いてみなさい」と言った。
「写し取るのですか」
「いや、臨写すればよろしい」
 訥言は合掌してから硯に水を垂らし、ゆっくりと墨をすり始めた。
 今まで戯れに梅や桜を描いたことはあったが、花そのものを絵の中心に置いたことはない。自分が仏画の模写に明け暮れてきたことを見抜いて、幽汀はわざと牡丹を出してきたのに違いない。そう思うと、訥言は身の内に力が漲ってくるのを感じた。
 墨をすり終えると、逸る気持ちを抑えるように訥言は目を閉じた。どこかの寺の境内で見た牡丹の姿が浮かんでくる。真っ赤な花弁が折り重なって、少しの風にゆるりと首を振っている。その独特の匂いまで甦ってきた時、訥言は静かに目を開いた。
 数ある筆の中から細筆を取り、墨をつけると、粉本(ふんぽん)(手本)の白描画を凝視してから、花弁の一つをためらうことなく一筆で描いた。さらにもう一つの花弁。筆使いが分かると、訥言の手の動きが速くなった。前で見ていた幽汀が訥言の後ろに回った。
 花弁を描き終わると、重なり合って密集している葉、わずかに見える茎を一気に仕上げた。
 終わって訥言は一つ大きく息を吐いた。描き始める前は幽汀に自分の力を見せつけてやろうと思っていたが、いざ筆を取ると、そんな思いはどこかに飛んでしまい、ただ牡丹の姿を写すことだけに集中してしまった。仏画を模写する時の没入の仕方とそれは同じだった。
 幽汀はしばらく言葉を発しなかった。行雲もじっと訥言の描いた牡丹に見入っている。
 訥言は合掌して筆を置いた。途端に自分がひどく汗をかいていることに気づき、懐から手拭いを取り出して顔を拭った。

 訥言の臨写した牡丹は手本より生き生きしていると門弟たちの間で評判になった。幽汀は即座に入門を許し、訥言は十日に一度の割で幽汀の許に通うようになった。もっとも直接幽汀が指導するのではなく、部屋頭の門弟が見るのであるが。
 勉強方法はもっぱら数多くある粉本の絵を写すことだった。今まで狩野派の絵を見たことはあっても、描いたことのない訥言にとってはまさに宝の山に入った心持ちだった。通う日は朝早くから比叡山を出て、昼餉もそこそこに画室に戻り、月明かりのある時には日が暮れてから帰途につくこともあった。寺にいる間も暇を見つけては唐画の筆法を何度も練習し、二ヵ月も経たないうちに部屋頭の技倆を上回ってしまった。
 そんなある日、訥言が画室で鶏(けい)頭(とう)の臨写をしていると、幽汀と連れだって一人の男が入ってきた。背は低いが小太りで貫禄があった。頭は大半がはげ上がり、残った髪の毛で小さく髷を結っている。
 訥言の横に立って彼の臨写を見ていた部屋頭が小走りに二人の許に近づいていった。
「これはこれは、応挙先生。お久しゅうございます」
 と部屋頭が頭を下げた。男は鷹揚に頷いて見せた。
 あれが応挙か。訥言は上目遣いに応挙を見た。幽汀の眼光鋭い絵師然とした風貌に比べ、大店の隠居のようなゆったりとした表情をしている。
 幽汀と応挙が近づいてきた。訥言は居住まいを正し、再び臨写を始めた。部屋頭が二人よりも先に来て、「訥言、我らの大先輩である応挙先生じゃ。挨拶せい」と訥言の肩を叩いた。
「構わぬ、構わぬ。勉強の邪魔はしたくない」と応挙は手を振った。
 二人が後ろに立つ。応挙を意識すると筆先が思うように動かなくなった。それを恥じて無理に動かそうとすると緩急がおかしくなった。訥言は筆を半紙から離し、墨をつけ直した。
「訥言殿。鶏頭なら庭に咲いておるよ。それを写したら如何か」
 応挙の声がした。訥言はきっとして後ろを振り返った。応挙の微笑んでいる顔が目に入る。
「わたくしは鶏頭を描いているのではございません。筆法を学んでいるのでございます」
「ほう、筆法をな。それは感心なことじゃ。さすれど、筆法というのは飽くまで絵を描くための手段に過ぎぬ。描く物の真に迫るには実物を写すのが一番だと思うが、如何かな」
 真写という言葉で町人たちに絶大な人気を誇っている応挙だったが、それは今まで、見えない仏を描いてきた自分の仕事を否定することに他ならなかった。心の中を写せずして何が絵師かと、訥言は内心で吐き捨てた。
「訥言」と幽汀が言った。「応挙殿の言うとおり、真写をしてみなさい。真写というのは自分の学んだ筆法がどれほど身に付いているかを測るのにちょうどよいのじゃ。それに臨写ばかりしておると、退屈するじゃろう」
 師にそう言われれば、反対のしようがない。しぶしぶ訥言は硯箱と筆を持って隣室の濡れ縁に出た。十坪ほどの庭に小振りの松や南天が植えられており、奥には石灯籠があった。万年青(おもと)の鉢が並べられていて、その向こうに紅い鶏頭がいくつか咲いていた。
 部屋頭が半紙を貼り付けた画板を持ってきてくれる。訥言は庭下駄をつっかけ、画板と硯箱を持って鶏頭に近づいた。
 その時「わしも鶏頭を描いてみようか」と応挙が言い出した。
 幽汀が部屋頭に命じて、もう一つの硯と筆と画板、それに茣蓙(ござ)を持ってこさせた。
 鶏頭の側に茣蓙を敷き、訥言と応挙が並んで坐る。訥言は応挙の真意を測りかねた。自分に真写の手ほどきをしようというのだろうか。あるいは、自分の、町絵師に対する反発を分かっていて、その鼻をへし折ってやろうとしているのか。どちらにせよ、その筆使いを見てやろうではないか。真を写す応挙とて何ほどの者かあらん。訥言は気持ちが昂ぶるのを感じた。
 応挙は鶏頭にじっと目を据えたまま、なかなか筆を下ろそうとはしない。その顔は先程までの隠居然としたのとは打って変わって、恐いくらいに厳しい表情になっている。
 応挙に負けじと訥言も鶏頭を凝視した。粉本と違って実物には輪郭線がない。どの部分をどのような筆使いで描けば、花の姿を写すことができるのか。描き損じたら新しい半紙をもらえばいいのだろうが、応挙がそうしない限り、自分も絶対にそれはしたくない。
 訥言は頭の中に鶏頭を描いてみた。細く柔らかく描く所と太く強く描く所の釣合いを保ちながら、紅い色の華やかさを墨一色で描くにはどうしたらよいか。何度も頭の中で描き直しをする。
 その時、応挙の筆が動いた。訥言はそちらに目をやろうとして思い留まった。見れば必ずそれに惑わされる。そうなれば自分の絵を描くことができなくなる。
 訥言は一つ深呼吸をしてから、筆を取った。ゆっくりと墨をつけ、頭の中の鶏頭と目の前のそれを二重写しにするように形を取っていった。手本を臨写する時のように素早く筆を動かすことが出来ない。もどかしさを感じながら、花、茎、葉と描いていった。
 終わって応挙を見ると、すでに穏やかな顔に戻っており、訥言の描いた絵に目を落としている。
「なるほど、幽汀先生がおっしゃるとおり、その才は疑うべくもないな」
 応挙が呟くように言った。自分の画才を応挙が認めた、訥言は一瞬得意になりかけたが、応挙の絵を見て愕然となった。
 墨で描かれた鶏頭を見詰めていると、その奥から紅い色が浮かんでくるのである。それは竹林図屏風を見た時とは違った衝撃だった。あの時はどこかに大きさに圧倒されたという意識があったが、今回は半紙大である。描かれているのは小さな花。しかも自分も同じ花を描いている。
 訥言は二つの絵を見比べた。どう見ても自分の絵には躍動感がない。形を取ることに汲々として、応挙の絵のように風が吹けば、今にもそよぎそうな動きが感じられない。一言で言えば、線が死んでいるのである。
 幽汀はなかなかのものだと言ってくれたし、部屋頭も遜色なしと誉めてくれたが、訥言は穴があったら入りたい心境だった。負けた、心底そう思った。
 訥言の勉強方法はそれから一変した。粉本の臨写は自分が筆法に疑問を抱いた時だけに限定し、もっぱら真写に専念した。実物を真写することが遠回りのように見えても、結局、見えないものの真の姿に到達する最善の道ではないのかと気づかされたからだった。
 訥言は庭にある草花をことごとく真写し、また同じ花を何度も描いては、幽汀を呆れさせた。

  二

 幽汀の許で修行すること三年、訥言の中で絵に対する意識が徐々に変わっていった。仏画の模写から始まって、それが本分だと思っていたが、応挙に出会い、真写を繰り返すうちに絵そのものを追求したくなった。有り体に言って、絵というものが分からなくなったのだ。狩野派は唐画の流れを汲んでいるし、応挙の真写も元を正せば和蘭(オランダ)画の影響を受けている。その中で自分はどういう絵を描けばいいのか、考えざるを得なくなった。
 そうしてたどり着いたのが日本古来の大和絵だった。細い線で繊細に描くという筆法は仏画にも通じている。さらに言えば、真写では捉えきれない美しさが描けるのではないかと考えたからだった。応挙には描けないものを自分は描くという意気込みがあった。
 そんな頃、幽汀が病を得て、故郷の明石に帰ってしまい、その地で亡くなるということが出来(しゅったい)した。
 同じ頃、故郷の寺から書状が届き、訥言の生家が離散したことを知らせてきた。長年の飢饉の影響が一家にも及んだと住職の仙海が書いていた。
 もとより父母の愛情をあまり受けずに育った訥言にとって、それほどの衝撃ではなかったが、それでも幽汀の死と相まって、自分が根無し草になってしまったという漠とした思いが湧いたのも事実だった。
 それを振り払うには、画業に打ち込むしかない。しかし、それにはどうすべきか。
 訥言は、門人たちと今後のことをどうするか話し合ったが、なかなか結論が出ない。
 そんな時、訥言に声を掛けてくれたのが応挙だった。自分の門に入らないかという誘いである。
「お言葉はありがたいですが、私は土佐の絵を学ぼうと思っております」
 土佐というのは咄嗟に出た言葉だった。しかし大和絵を本格的に学ぼうと思えば、土佐の名前が出てくるのは必然だった。
「私の所に来ても禁裏の仕事はできるよ」
 応挙の目元が笑っている。訥言はむっとした。絵所預の土佐に入って栄達を願っているのであろうと言われているのに等しい。
「禁裏のことなど関係ありません。私は大和絵を学びたいと思っているのです」
 思わず声が大きくなった。
「まあ、そうムキになるな。冗談じゃよ、冗談」そう言って応挙は笑った。「それにしても今さら大和絵を学びたいとはどういう心境の変化なのかな」
「新しいものばかりを追い求めても、所詮は根無し草。大和絵という大地に根を下ろさねば、真の絵は描けないということです」
 今度は訥言が口元に笑みを浮かべる番だった。新しもの好きの応挙を皮肉っているのだ。
「わしだって、大和絵ぐらい勉強しておるよ」
 応挙は渋い顔をして言い返した。

 訥言は土佐光貞に入門を申し出た。
 光貞は土佐の分家だが、本家の光時はこの時まだ二十二歳になったばかりで、さすがにその年齢の絵師に教えを請う気にはなれない。その点光貞はもうすぐ五十歳に届こうかという年齢で、しかも絵の評判は光貞の方が上だった。
 光貞は返信の中で、幽汀門下の何人かに尋ねたところその画才を褒め称える者ばかりだったと述べ、「三顧の礼を持ってお迎えしたい」と書き添えていた。
 この返信は異例中の異例といえた。歴代続く禁裏の絵所預と一介の画学生では、その地位に天と地ほどの差があるのだ。無視されても不思議ではなかった。
 九月、訥言は寺町丸太町にある光貞の屋敷の前に立っていた。隣には本家の屋敷があり、どちらも檜皮葺の優雅な門構えだった。
 案内を請い、女中に奥の間に通されると、ほどなくして細面の公家のような顔立ちの男がまだ年端もいかぬ男の子を連れて現れた。光貞の羽織袴姿を見て訥言は恐縮した。まさかそんな姿で迎えられようとは思っても見なかったからである。
 訥言は手をついて頭を下げながら、自分の僧衣をちらと窺った。比叡山からの旅装姿で汗臭く土埃にまみれている。礼を失するかと思ったが、自分には着飾る衣服もないし、仮にそうしたところで似合うまいと居直りにも似た気持ちが生まれた。
 光貞は訥言の僧衣姿に頓着することなく、「よう、お出でなされた」と訥言の両手を取った。香のいい匂いがふっと鼻をかすめた。
 上座の座蒲団に腰を下ろすと、光貞は隣にちょこんと坐った男の子の頭に手を置き、「そなたも挨拶をしなさい」と優しい声で言った。
 男の子はきちんと両手をつくと「虎若丸(とらわかまる)と申します。お見知りおき下さいませ」と頭を下げた。光貞には一人息子がいると聞いていたが、年恰好は孫に見える。
「よしよし、よくできた」光貞が相好を崩した。
「訥言でございます。こちらこそお見知りおき下さいますようお願い申し上げます」
 訥言も丁寧に礼を返した。
「この子は玄蕃頭(げんばのかみ)様に是非にとお願いして申し受けて参った子でなあ」と光貞が話し出した。「ご存じかもしれませぬが、わしには子がなくてな。このままではせっかく分家したのに一代で絶えることになる。悶々としておったところ、ちょうどこの子に巡りおうて。小さいながらもその画才には目を見張るものがありましてな」
 なるほどと、訥言は光貞と虎若丸の年齢差に合点がいった。
「虎若丸を教育するに当たり、わしが画法を手解きすると、どうしても甘くなってしまう。弟子たちにさせてもいいのだが、年寄りが相手では根気が続かず、すぐに遊んでしまう。そこで虎若丸と年があまり離れず、なおかつ画才に優れた者がいないかと探しておったところなのだ」
 光貞の返信の異例なわけが分かり、訥言は苦笑した。自分の才能が認められたというより、息子のお守りに選ばれたわけか。しかし、自分には僧侶としての勤めがあるわけで、お守りの役が果たせるとは思えなかった。
 そのことを述べると、光貞は脇息に肘をつき、顎を掌に載せて目を閉じた。
 少し経って、「おう、そうじゃ」と光貞は明るい声を出した。
「訥言殿、還俗なさらぬか」
「え」
 訥言は不意を突かれた。話がまさかそこに来るとは思ってもみなかったからだ。
「そうじゃ、それがよい。叡山を下りられて、是非この近くにお住まい下され。還俗されるのなら、この光貞、いくらでも力をお貸しいたしますぞ」
 光貞の声には自信が漲っていた。このことは今思いついたのではなく、前もって考えていたのに相違ない。断るなら即座にすべきだが、訥言は躊躇した。この話に乗ってみようかという気持ちがすでに芽生えているのだ。
 元々僧侶というのは自分がなりたくてなったわけではない。子供の頃の口減らしとして、その運命を受け入れてきたのに過ぎない。絵師として生きていくことが出来るのなら、応挙と同じ土俵の上で戦うことが自分に課せられた運命ではないのか。
 訥言は光貞にしばらく考えさせてほしいと答えて、屋敷を後にした。
 僧侶をやりながら大和絵に打ち込むべきか、それとも還俗して、すべての時間をそのことに費やすべきか。答えは自ずと見えていたが、なかなか決心がつかない。
 訥言は思いあまって、絵所頭の行雲に心の内を打ち明けた。
 目を閉じて訥言の話を聞いていた行雲は、顔を上げると「よくぞ、話してくれた」と言った。
「わしもいずれこういう時が来るのではないかと思っておったのだ。そなたを失うのは大きな痛手だが、代わりの者がよりいっそう精進してくれるだろう。還俗なされ。修行は何も叡山だけでするものではない。画道において修行をすればよいのだ」
 訥言は深々と頭を下げた。行雲は訥言の姓を、生まれ故郷の村の名から取って、田中とするように勧めてくれた。

 光貞の計らいで、訥言は屋敷近くの長屋の一室に住処を構えた。そこから毎日、光貞の許へ通う日々が始まった。
 光貞は分家ながら、粉本の数は幽汀のところの比ではない。再び粉本を模写する日々が始まった。
 土佐家には花鳥風月の粉本もあったが、肖像の禁裏絵師と言われるとおり、人物画の粉本を多数蔵していた。それらを細い筆で細密に模写していくと、大和絵の血が自分に流れ込んでくるような厳粛な気持ちになるのだった。
 訥言は並んで粉本を模写する十四歳年下の虎若丸を可愛がった。親や兄弟と睦み合った記憶のない訥言にとって、虎若丸の手を取り、運筆の手解きなどをしていると、弟とはこういうものかと心温かくなった。
 もちろん真写も続けていた。虎若丸はすぐに模写に飽きてしまうので、そんな時は筆と紙を持って、庭に出、咲いている草花や飛んできた雀を写生した。
 光貞は真写よりも模写を大事にする、いわゆる伝統を重んじていたので、二人が庭で写生していると顔をしかめた。
 しかし訥言は光貞に、「絵を生かすも殺すも線です。真写は生きた線を描く、絶好の練習になるのです」と言って譲らなかった。虎若丸が嬉々として写生しているので、光貞もそれ以上文句を言うことはなかった。

 訥言が光貞門下に入って二年目の正月晦日のことだった。
 昼過ぎ、模写も一段落して食事をしようとしたところ、表が騒がしい。門人たちと連れだって出てみると、大八車に荷物を満載して引っ張っていく者や大きな風呂敷で包んだ荷を背中にくくりつけて歩いている者が南から陸続とやって来る。
 門人の一人が二人の幼い子供の手を引いている親子連れを呼び止めた。
「何かあったのか」
 疲れ切った顔の父親はこちらを胡散臭そうに見ると、「火事に決まっとる」と吐き捨てるように言って去っていった。
 訥言は思わず南の方に目をやった。遠くに茶色い煙が立ち籠めており、強風を受けて煙が西に向かってなびいている。
 火事の規模が大きそうだということは分かったが、果たしてこちらの方まで延焼するかどうかは分からない。
 寒風の吹く中、訥言は避難してくる大勢の人々に逆らって南に急いだ。三条を過ぎる辺りから急に木材の焼ける臭いが強くなり、頬を撫でる風も暖かくなってくる。女の泣き叫ぶ声がしている。通りのずっと向こうでは両側の家から吹き出た炎が道を塞いでいるのが見えた。その手前で動いている一団は所司代の火消したちだろうか。
 火事見物に集まった野次馬たちの間を抜けて、訥言はさらに近づいていった。空を焦がす炎を見ていると、粟田口の青蓮院で見た不動明王二童子像を思い出した。あの時は模写が叶わず、ただ見るだけだったが、炎の描写に時が過ぎるのも忘れて見入ったのだ。
 途中で、こちらに走ってくる十数人の火消したちとすれ違った。火事場頭巾に半天姿で、鳶口や鎖を持っている。きなくさい臭いが鼻腔を包んだ。頬を赤くした男が、険しい顔をして訥言を睨む。これ以上行くなと言うことだろうと思ったが、訥言はそれを無視して前に進んだ。
 四条辺りまで来ると、火炎が渦を巻いて空中に吹き上がっていた。大小様々な火の粉が舞い上がり、大きな物は火の礫となって下に落ちてくる。
 傍の商家では、ずぶ濡れになった丁稚たちが屋根に上り、下から木桶を受けて、飛んでくる火の粉を水で流している。他にはどこにも消火をしている様子はない。
 背中から吹いていた強風が急に向きを変え、それにあおられるようにして商家の屋根に乗っていた丁稚の一人が地面に転がり落ちた。下にいた者たちが一斉に、倒れ伏した丁稚の周りに集まってくる。その様子を眺めていたかったが、熱風が吹いてきて、訥言はたまらずその場を離れた。
 訥言は土佐家に戻ると、三条から南は辺り一面火の海だと光貞に伝えた。
 光貞は取り敢えず粉本文書の類をいつでも持ち出せるように荷造りすることを命じ、訥言たちはそれに追われた。
 夕方になって二条城にまで火が回ったことが偵察に行った門人からもたらされ、隣の本家と相談した光貞はようやく避難することを決意した。
 借りておいた大八車に画材道具、米、味噌、寝具などを積み込み、粉本の包みは訥言たちが手分けして背負った。訥言が持ち出した自分の物といえば、模写した絵の束と衣服と筆、硯くらいだった。
 日の落ちた空を煙が覆い尽くしていたが、周囲の火炎を映してほんのりと明るく、道を行くのに支障はない。避難する大勢の群衆に混じって、訥言たちは東に向かった。吹く風は熱く、時折風向きが変わる。その都度、きなくさい臭いが強く顔をなぶった。
 虎若丸は泣き出すこともなく、光貞に手を引かれて一団に従った。
 本家の光時ら一行と共に訥言たちがたどり着いたのは南禅寺だった。所々でかがり火の焚かれる暗い境内には、荷物を抱えて逃げ延びてきた大勢の人々が影絵のように蠢いていた。来た道を振り返ると、洛中の至る所から橙色の火炎が吹き上げており、空を染めていた。
 罹災者の世話をしていた僧侶たちは、訥言ら一行が土佐家だと分かると、急いで住職を連れてきた。
「これはこれは土佐家の方々でいらっしゃいますか。さぞかし大変だったことでございましょう」
 住職はかがり火に照らされた顔を綻ばせながら合掌した。
「お休みいただけるところをご用意いたしましたので、どうぞこちらへ」
「かたじけのう存じます」
 光貞と光時が揃って頭を下げた。
 訥言は禁裏絵所預の力を見せつけられた思いがした。

これが天明の大火、通称団栗(どんぐり)焼けと呼ばれる近世の京都で発生した最大規模の火災である。二昼夜に渡って燃え続け、当時の京都市街地の約八割が焼失した。御所も焼失して、幕府に衝撃を与え、老中松平定信が再建に当たることになった。
 訥言たちは南禅寺で半年余りの避難生活を送った。その間、お礼の意味を込めて何枚かの書画を描いて寺に寄進した。訥言も他の門人たちと共に光貞の描いた白描画に彩色を施すのを手伝った。
 洛中では諸国からの大工や瓦師、左官の雇い入れが特例として許されて、あちらこちらで普請の槌音が響いていた。早くから復興に取りかかったのは造り酒屋や材木問屋などの富裕層で、寺社仏閣がそれに続き、土佐家も元あった場所に屋敷を再建した。
 十月には訥言が法橋(ほっきょう)に叙せられることが決定した。法橋というのは僧位に準じた位で、仏師や絵師、医師などに与えられる第三位の称号のことである。光貞が尽力して取らせてくれたことに訥言は感謝したが、なぜそのことを急いだかについては、十分に分かっていた。御所の新造営が始まるからである。
 新たに造る御所は古式に則った壮麗なものにしなければならないとする朝廷側と、財政難と近年の大飢饉を理由にそういうものは建てられないとする老中松平定信の間でせめぎ合いがあったが、結局朝廷側が押し切った形になった。
 それを受けて、御所修築の惣奉行に命じられた松平定信は、平安朝の故実の復古に力を注ぎ、大和絵を重用する方針を打ち出した。それまでの内裏の障壁画といえば、江戸から唐画の流れをくむ狩野派の御用絵師たちを大挙上洛させて制作に当たらせてきたのだが、今回は大和絵の土佐派がその任を担うことになった。そこには京洛の絵師たちを使う方が、制作費用を安くできるという思惑もあったのだ。
 御所の再建では、新たに障壁画だけでも千八百面ほど必要となる。土佐家だけでは務まらないのは明らかで、京の大和絵師のみならず、町絵師にも応援を頼まなければならない。そして、その制作の総指揮は絵所預の土佐家、なかんずく年長の光貞が執ることは明らかだった。そのため画才に秀でた門人を一人でも多く制作陣に組み入れておかなければならない。入門してまだ二年足らずの訥言に障壁画を描かせるには、法橋という位がどうしても必要だった。
 また、光貞は虎若丸にも何か描かせたいと願っていたから、その絵の監修役として訥言以外に適任者はいない。光貞自身に虎若丸の絵を見る余裕などない。とにかく法橋を取らせておいて損はないのである。
 訥言にとっては、法橋などという位はどうでもよかった。絵師は位で描くのではない、ただ描かれた絵のみによって評価されるべきだと考えていたからである。ただ、光貞の思惑も理解できるので、叙せられることには素直に従った。

 翌寛政元年(一七八九)の二月、御所の造営が始まった。紫宸殿の賢聖障子は幕府御用絵師の狩野典信(みちのぶ)が担当することになったが、その他の殿舎については土佐家を中心に、狩野派の鶴澤探索(つるざわたんさく)や狩野永俊(かのうえいしゅん)、さらには円山応挙、岸駒(がんく)らが加わって総勢七十三人の絵師が筆をふるうことになった。
 弱冠二十三歳の訥言にとっては初めての大仕事であり、制作陣の中に応挙がいることで、否が応にも気持ちが昂ぶるのは仕方がなかった。
 訥言の受け持ちは、常御殿南廂東方の杉戸という小さな場所だったが、応挙は常御殿一之御間と御小座敷、さらには仙洞御所常御殿御小書院を担当した。土佐家の一門人に過ぎない訥言と、円山派として一家を構え、今回の内裏障壁画制作にも三十人を超える門人たちを送り込んでいる応挙とでは、違いがありすぎた。
 しかしそんな違いも訥言を萎えさせはしなかった。大きな絵を描いて人を惹きつけるのは容易いこと、小さな画面でも精緻に描いて見る者を驚かせて見せようと訥言は意気込んだ。
 他の杉戸を担当する絵師たちと画題を調整した結果、訥言は東南面に木芙蓉(もくふよう)と翡翠(かわせみ)、西面に海棠(かいどう)と瑠璃鳥(るりちょう)の花鳥図を描くことになった。十歳になる虎若丸は清涼殿の障子に墨絵名所図を、また仙洞御所に花鳥図を描くことになり、その全面的補佐を光貞から頼まれた。
 土佐家の画室では光貞が門人たちの助けを借りながら大きな襖絵を描いており、足の踏み場もない。そのため訥言は虎若丸の自室に絵筆や硯を持ち込んで、虎若丸の手助けをしつつ、自分の下絵の準備を始めた。
 しかし、粉本を模写していくつか下絵を描いてみたが、納得のいくような絵にはならない。粉本の鳥には羽を畳んで首を捻っている程度の動きしかなく、花もただそこにあるというだけで風のそよぎも感じられない。こんな絵では応挙をあっと言わせることなど到底できそうもない、そう思うと、粉本を使うのが嫌になった。光貞は怒るかもしれないが、今回は徹底的に真写に拘ってみようと訥言は決意した。
 早速鳥刺しに頼んで翡翠と瑠璃鳥を一羽ずつ手に入れ、それぞれ竹で編まれた鳥籠に入れて、虎若丸の自室に持ち込んだ。虎若丸は手を叩いて喜び、墨絵の練習もそっちのけで鳥籠を覗いている。
 鳥の声を聞きつけて光貞が姿を現した。たくし上げた袖から出ている腕が墨で黒くなっている。
「訥言、何をしておるのだ」
 光貞は険しい顔をした。
「一日中絵筆を握っておりますと、虎若丸様が飽きておしまいになるので、息抜きにと思いまして」
「何を言うか。お前の魂胆は分かっておるぞ。その鳥は翡翠と瑠璃鳥であろう。応挙の真似をして真写とやらをするつもりであろう」
「粉本にはろくな鳥がおりませぬゆえ」
「その鳥を使って、さも生きているように描くのが絵師の腕であろうが」
「わたくしにはそのような腕はございません」
 光貞が明らかにむっとするのが分かった。その時、虎若丸が二人の間に割って入った。
「父上様、この鳥を所望したのはわたくしでございます。訥言ではありません。ですから訥言を責めないで下さい」
 訥言は虎若丸の肩に両掌を置いた。光貞の顔がますます渋くなった。
「……訥言、虎若丸のことはお前に任せたぞ」
 そう言うと、光貞は厳しい顔つきのまま戻っていった。虎若丸が振り返って笑いかけてくる。訥言も笑い返しながら小さく頷いた。
 虎若丸の墨絵の手解きをしながら、その暇を見つけては翡翠と瑠璃鳥の写生をした。時には虎若丸も墨絵の太い筆を細筆に持ち替えて、訥言と一緒に鳥の姿を写したりした。
 そのうち籠の中だけでは止まり木にとまっている姿ばかりで変化がない。訥言は鳥を部屋の中に放すことを提案し、虎若丸も面白がったので、二つの鳥籠の出入り口を開けてやった。
 最初に出てきたのは翡翠だった。出入り口のところに止まると、不思議そうに首を動かしてから一気に飛び立った。その瞬間、翼の裏の薄茶色と表の青色が弾けるように交錯し、訥言の目を射った。これだ。訥言は明るい障子に向かって飛んでいく翡翠を追った。それが障子にぶつかって戻り、羽ばたきながら空中に制止し、高い桟に止まるまで目を凝らして見続けた。翡翠がもう飛ばないと分かると、訥言は急いで紙に、飛んでいる翡翠の姿を描き付けた。
 虎若丸が袖を引っ張った。目を上げると、瑠璃鳥が群青の翼を煌めかせて飛んでいる。しかし訥言はそれにちらりと目をやっただけで、再び紙に筆を走らせた。目の奥に刻みつけられた翡翠の姿が何枚もの絵を描かせた。
 鳥を放すのはいいが、それを鳥籠に戻すのは大変だった。虎若丸と二人で追いかけても、逃げ回るばかりで到底捕まらない。仕方なく一枚の着物を広げ、それを網代わりにすることでようやく捕まえることができた。
 鳥の餌を集めることも手間のかかることだった。鳥刺しに教えられた通り、翡翠にはメダカ、瑠璃鳥にはミミズやウジを与えたが、それらを取りに行くだけでかなりの時間を要した。
 四日間が限度だった。虎若丸は駄々をこねたが、これ以上飼うと父上に叱られますと言い聞かせて、翡翠と瑠璃鳥を放してやった。
 訥言の手許には、二羽の鳥の下絵が何枚も残った。これがあれば少なくとも形だけに囚われた絵にはなるまいと訥言は自分を納得させた。
 木芙蓉と海棠も同様だった。粉本を写しつつ、花の咲く時期になれば、外に出て行って写生を繰り返した。
 そうやって描き溜めた下絵を元に構図を考え、二枚の杉戸絵を完成させたのは寛政二年の十月のことだった。光貞に見せると、腕組みをしながらしばらく目をやってから、「これでいいだろう」とほとんど表情を変えずに言い放った。真写について全く触れないのは、それを認めていることなのかと訥言は頭を下げながら、笑いを噛み殺していた。
 人足を雇い、杉戸絵を桧の香りも新しい御所に運び込んだ。十一月の御所の竣工を目指して、次々と障壁画が搬入されている時期で、自分の絵を所定の場所に納めた絵師は他の絵を見て回る。さながら絵師が客になった画会のようであった。
 その中で一番多くの絵師の注目を集めたのは、やはり応挙の絵であった。訥言も常御殿の南廂東方に杉戸絵を納めると、すぐ近くの一之御間に足を運んだ。東側にある遣り戸と北側の襖がすでに入れられており、五人の絵師たちが部屋の真ん中から観ている。
「さすが、応挙殿。金に糸目は付けませんな」
「全く。これほどの群青をよく集めたものですな」
 二人の絵師が小声で話している。訥言は絵師たちの傍に立って、遣り戸絵と襖絵を眺めた。
 二つは直角に交わっているが、一体となって一つの早春の風景を現前させている。遠くに山々を望み、広々とした海を隔てて手前には柔らかな柳。山々の一つは富士だろうか。遣り戸には襖絵から続いている海といくつかの帆掛け船、岩礁が描かれており、直角になっていることによって風景の奥行きが強調されている。そして目を引くのが群青引だった。雲が棚引くように空と海に群青が引かれており、早春の気が溢れている。
 さすがだと訥言は思った。平面ではない遣り戸と襖を使って一つの風景を描く大胆な発想に感動さえ覚えた。しかしすぐに、大画面を与えられたら自分にもこのくらいの絵は描けるという気持ちも湧いてきた。
 その時廊下で物音がした。見ると、人足たちが襖を運んでくるところだった。その後ろには応挙がいて訥言も見知っている弟子たちが大勢付き従っていた。
 応挙は自ら指示して人足たちに襖を入れさせた。南と西に襖絵が入り、一之御間が応挙の絵によって囲まれた。新たに入った絵は先程の絵と一体をなすもので、岩山と麓に生える松が描かれていた。つまり部屋の中に立てば、遠くに山並みと海、足下に海岸が迫り、背後には岩山がそびえている風景の中に身を置くことになる。
「先生、思惑通りになりましたな」と弟子の一人が応挙に話し掛けた。
「うむ。実際にこうやって囲まれてみると、自分で言うのも何だが、うまくいったようだな。安心したぞ」
 応挙はわずかに残った髷頭を巡らせて、障壁画を見回した。その時訥言と目が合った。訥言は軽く頭を下げた。
「おお、これは訥言殿、お出でであったか」
 応挙が近寄って来た。
「絵を納めに来ましたゆえ」
「確か、この御殿の杉戸絵を任されたとお聞きしたが……」
「南の廂でございます」
「それは後から見せてもらうとして、どうかな、わしの絵は」
 訥言は今一度ゆっくりと体を回して、障壁画に目をやった。弟子たちが話をやめ、訥言が何を言うのかと窺っている。
「四面を使って一つの絵を描くという発想はなかなか素晴らしいものだと感心いたしました。わたくしにはとてもこういう発想は出て参りません。しかし」と訥言はそこで一旦言葉を切った。「一枚の絵の中に春夏秋冬を入れるのは、さすがに無理がございましょう。わたくしなら一面ごとに季節を描き分けることでしょう」
 遠くの雪を頂いた山々から手前の春の海、背後の緑なす松から秋の岩山と四季を描いていることにも実は驚いたのだが、そのことを素直に述べるのは何としても癪だった。
「わしもそれは考えた。しかしそれではいかにも面白くない。百代二百代と残ることを考えたら、大胆な発想をしなければならないのだ」
 そんなことは分かっている、心の中で反発を覚えたが顔には出さず、訥言はただ頷いただけだった。
 応挙は障壁画に近づいて指差しながら弟子たちといろいろと話し合ってから、それでは訥言殿の絵を見せていただきましょうと笑いかけてきた。訥言は臆することなく応挙たちを南の廂に案内した。
 応挙の障壁画を観た後では二枚の杉戸絵はいかにも小さくみえた。応挙は少し離れたところから眺めてから、顔を絵に近づけた。
「訥言殿。これは粉本を見て描かれたのか」
「いいえ」
「ということは、この鳥も実物を見て……」
「鳥刺しから手に入れました」
 応挙が笑いを噛み殺すような顔で頷いている。
「お前たち、よく見なさい」と応挙は弟子たちに向かって言った。「訥言殿の絵と他のやつを。飛んでいる鳥を描いているのは訥言殿のみ。それがまさに真の姿を写したように生き生きと描かれておる。どちらが優れているか一目瞭然だろう。土佐にあって真写をよくする訥言殿にお前たちも負けてはいけませんぞ」
 弟子に言う形を取りながら、どうだ、土佐の粉本重視よりも真写の方が優れているだろうと自分に言っているに違いないと訥言は思った。確かに花鳥図ではそうかもしれない。しかし絵は花鳥図ばかりではあるまいと訥言は心の中で呟いた。
 訥言の杉戸絵は応挙が誉めたこととあいまって、絵師たちの間で大層評判になった。虎若丸の墨絵名所図と花鳥図も年若の手になるものとは思われないと持てはやされた。訥言が後見したことは周知のことだったが、聞かれる度に「わたくしは胡粉をすって顔料を用意しただけでございます」と答えるだけだった。

 内裏の仕事によって訥言の画名も大いに上がり、時折開かれる画会に小品を出してもそこそこ売れるようになった。しかし土佐の一門人である限り、寺の障壁画や富家の屏風絵などの大きな注文は来るはずもない。かといって訥言には独立して一家を構えるという気持ちは全くなかった。まだまだ修行の身であるという意識もあったし、何より大和絵の神髄を極めることが自分に課せられた使命であると気負っていたからである。
 そこには応挙には描けない絵を描くという気概とともに、貴紳に持てはやされ、多くの門人を抱え、優雅に暮らす応挙の生活振りに対する反発も見え隠れしていた。
 訥言は土佐家に蓄積された膨大な粉本を模写するだけでは飽き足らなくなった。その根底には、粉本の絵を様々に組み合わせて一つの絵を描くだけで事足れり、とする光貞や他の門弟たちに対する大いなる疑問があった。その姿は、過去の遺産に安住し、自ら何ら新しいものを生み出していこうとしない死んだ絵師のごとく訥言には映った。絵所預という立場を守りさえすれば生活に困らないと考えている姿が情けなくもあった。
 それに比べて応挙は、確かに世の中の、見える物の姿をそのまま見たいとする風潮にうまく乗ったとはいえ、真写という新機軸を打ち出している。そのことに対しては訥言は大いなる評価を与えていた。
 訥言は大和絵の神髄を古(いにしえ)の絵巻物に求めた。というのも、たまたま粉本の原本である絵巻物を目にして、その違いに唖然とさせられたからだった。ある古寺のさほど名の知られていない絵巻物だったが、粉本ではすっかり失われている線の力強さ、流麗さがそこにはあったのだ。これでは粉本をいくら模写しても、笊で水を掬っているようなものである。
 訥言は粉本を捨て、自分で神社仏閣の絵巻物を求めて洛中洛外を回り始めた。そんな時、土佐家の門人という立場は大いに力になった。光貞に書いてもらった紹介状を見せ、大和絵の古の姿を勉強していますと訴えれば、大抵の寺社は快く縁起絵巻を見せてくれた。ただ、その場での模写は許してくれる所もあったが、持ち帰ってとなるといくら紹介状があっても無理だった。そのため何日も通ったり、遠い所だと近くに宿をとって通い詰めなければならなかった。
 そんなある日、訥言は紀伊の粉河寺から縁起絵巻閲覧の許可を得た。喜び勇んで出かけようとしたが、路銀が底をついていた。次に開かれる東山展観は三ヵ月も先である。
 訥言は最初光貞に借金を申し込もうと考えていたが、ふっと応挙に頼もうかという思いが芽生えた。実入りのいい応挙なら二つ返事で貸してくれそうだったし、何より訥言は自分が古絵巻物の模写をしていることを彼に知らしめたかったのだ。
 訥言は早速自分の模写した絵巻物の白描画の中から、出来の良い物を束ねて、四条堺町にある応挙の屋敷を訪ねた。この前の大火以降、新築なった応挙の屋敷に出向くのは初めてだった。四脚門は瓦葺きで以前よりも大きく立派になっている。土佐家の門よりも金がかかっているのは間違いない。
 訥言は複雑な気持ちになった。自分は応挙のようになりたいと思っているわけではないが、こうして金を借りに来るのは、どこかでそれを望んでいるからではないかと。一瞬引き返そうかと思ったが、ままよ、応挙の懐具合を試してやれという気持ちで門をくぐった。
 屋敷も以前の倍もあろうかと思われる程大きく、庭には石で囲われた広い池もあった。
 玄関先には一目で応挙の手だと分かる虎の衝立があり、案内を請うと弟子が奥の間に通してくれた。
 応挙は脇息にもたれ、にこやかに訥言を迎えてくれた。訥言は金が入り用の事情を話し、その担保として白描画を差し出した。
 応挙は一枚一枚をざっと見ていった挙げ句、
「なるほど、訥言殿の温故知新にかける熱情はよく分かったが、それだけでは今の世の中が求めている絵にはなりませぬぞ。例えばここに描いてある人物を見てみなさい」
 と、一枚の白描画の一点を指差した。
「人体の形を頭に置いて描いたとは思えないほど奇妙な姿になっているだろう。今の絵師たる者、衣服を着ていたら裸の姿を、裸の姿ならその中の肉や五臓六腑まで頭に置いて描かねば本物とは言えないのではないか」
 確かに応挙の指摘した人物は体の釣合いが取れていなかった。片足立ちでもう一方の草鞋の鼻緒を結び直そうとしているのだが、体が歪んでいるので、そのままでは横に倒れてしまう。
「なるほど、おっしゃる通りでございます。筆勢を写し取ることばかりに集中しておりましたゆえ、そこまで見ることが叶いませんでした。ご指摘、感謝いたします」
 訥言は素直に頭を下げた。古絵巻物に描かれている有職故実に応挙が目を向けないことに情けなさを感じてはいたが、今は借金を願い出る立場なのでそのことは腹の中に収めた。
「それでいかほど必要かな」
「五両ばかり」
「五両?」
 路銀は二両もあれば十分だったが、訥言は自分の模写した絵巻物にはそれだけの価値があると自負していた。
「さようでございます」
 応挙はしばらく考えていたが、「わかった」と頷くと手を叩いた。姿を現した弟子に五両を持ってくるように言い、訥言は和紙に包まれた小判を受け取った。秋の東山展観に絵を出展して、その画料で返すことを述べて、訥言は応挙の屋敷を後にした。
 粉河寺の縁起絵巻を模写するのは、思っていた以上に大変だった。焼損しているとは聞いていたが、それが全編上下に渡っているのである。消失部分が大きいので、おそらくこの線はこういうように続くのだろうと想像して補うことができない。どうしてもそのまま模写していくしかなく、作業は遅々として進まない。おまけに逗留している宿屋の飯盛女と馴染みになり、酒色にふけって次の日は全く仕事にならないことも度々だった。そのため十日の予定が一ヵ月近くかかってしまい、粉河を去る頃には、路銀をすっかり使い果たしてしまった。

 二ヶ月後の画会に向けて、訥言は三枚の着色画をじっくり仕上げた。水墨画を多く描いて安値で売るという考え方もあったが、せっかく上がった画名を貶めるような真似はしたくない。念入りに下絵を準備して、花鳥図と福禄寿図、それに絵巻物の模写から材を取った風俗図を描いて出展した。
 それぞれ強気の三両という値付けだったにもかかわらず、一日目で三枚とも売れてしまった。次の日、訥言は手数料を引かれた残りの金のうち五両を袱紗に包んで懐に入れ、意気揚々と応挙の屋敷を訪れた。
 応挙はすでに訥言の絵が売れたことを知っていた。応挙自身は出展していなかったが、弟子の何人かが出していたのだ。
「訥言殿の絵はなかなか評判がよかったようですな。弟子から聞きましたぞ」
「恐れ入ります。東山展観に出してお返しすると約束した手前、必死でございました」
 訥言は懐から袱紗を取り出して、応挙の前に差し出した。応挙は中身を確認すると、手を叩いて弟子を呼び、預かっている白描画を持ってくるように言った。
 弟子が木箱を持ってくる。訥言は前に置かれた木箱の上蓋を両手で持ち上げた。そして一番上の白描画を見て、愕然となった。着色されているのである。訥言は絵の束を取り出し、急いでぱらぱらと捲ってみた。すべての白描画に淡彩ではあるが色が施されている。
「どうだ、その方が絵が生き生きとして見えるだろう」
 応挙が笑っている。訥言は頭に血が上るのを感じたが、それが言葉に出ないように何とか自分を抑えた。
「お言葉ですが、装束の色は身分、儀式によって決まっておりますゆえ、このようにただ絵の見た目だけで違う色を塗るのは許されません」
「それは分かっておる。しかし有職故実を分かって絵を見る人間などほんの一部であろう。それならば、絵を生かす色使いの方が大勢の人間を楽しませるのではあるまいか」
 俗工の屁理屈め、と訥言は心の中で痛罵した。日本古来の大和絵に目を向けず、俗受けのする新しい絵ばかりを描いて、何が当代随一の絵師か。訥言は応挙に対して故実に目を開かせようとした自分の行為を恥じた。応挙とは絵の道が決定的に違うことを、この時はっきりと自覚したのだった。
 翌年の北野天満宮の梅花祭でのことだった。名だたる書家や絵師たちが書や絵を奉納した中に、応挙の絵があった。菅原道真が牛に乗って太宰府に下る図で、上空には雷神がいて雷光を轟かせている。光貞の描いた道真の肖像画に比べて動きがあり、人の目を引く構図だった。実際、応挙の絵には人だかりがしていた。
 しかし訥言から見れば、お付きの貴族たちの衣装は時代が違うし、色使いも派手なだけで出鱈目であることが一目瞭然だった。訥言は苦々しい思いで、絵を褒めたたえる人々の様子を見ていた。こんなものが大和絵だと思われたらかなわないという気持ちが訥言を突き動かした。
 絵の前に進み出ると、「わたくしは土佐の門人で田中訥言と申す者です」と声を張り上げた。
「有職故実を勉強しているわたくしから見ると、この絵には多くの間違いがあります。例えばここ」と訥言は貴族の冠を指差した。「纓(えい)の形が違うし、衣冠の色目や紋様も出鱈目です。時代に合わないし、位にも合わない。思うに、応挙殿は夢の中ででも道真公に会われたのでございましょう。それを真写したため、このような図になったものと思われます」
 人々の間から笑いが起こった。それでも光貞の絵よりも応挙の絵の方に多くの人が集まった。
 後日、応挙が道真雷神図を引き裂いてしまったと聞いて、訥言は溜飲を下げたが、一方で大人げないことをしたという気持ちが湧いてくるのをどうすることもできなかった。

 応挙の姿を頭の中から追い払い、訥言は古絵巻物の模写に没頭した。その一つの成果が三十六歌仙絵巻の模写だった。
 内裏新造営の参考にするため、各藩所蔵の絵巻物が宮中に集められたが、三十六歌仙絵巻もその一つで、秋田藩佐竹家から召したものだった。その模写を宮中から命じられた土佐家では誰が担当するかと詮議になり、古寺を自ら回り模写を繰り返す訥言に白羽の矢が立った。
 訥言は模写で鍛えたおのれの技倆を試す絶好の機会とばかりに、全力を投入した。
 訥言の取った方法は絵をそのまま写すこと、粉河寺縁起絵巻で行ったように剥落した部分や色落ちした部分を書き加えることなく写すことだった。これは言うは易く、実際に行うとなると非常に手間のかかることだった。線の勢いに任せて描こうとしても、途中に剥落があるとそこで止めなければならない。かといって剥落を意識して線の勢いを緩めることはできない。訥言は原本に覆い被さるように目を近づけ、全神経を集中して筆を動かした。
 朝、日が昇り明かりが差し込み始めると平机の前に坐り、日が落ち始めると筆を置いた。夜、燈火をつけて仕事をすることは、火事が怖くてできなかった。
 そうして出来上がった訥言の模写は光貞を驚かせた。一見したところ、どちらが原本か分からなかったからである。
 これならということで、三十六歌仙絵巻に続き、土佐家に模写のため預かりになっていた伴大納言絵詞も訥言が担当することになった。それは千年ほど前に起こった応天門の変を題材にした絵巻物で、常磐光長(ときわみつなが)が描いたとされていた。その評判は訥言が土佐家に入門した頃からよく耳にしていた。
 全三巻のうちの上巻を開いてみて、いきなり絵が描かれていることに訥言は驚いた。今まで模写してきた絵巻物はまず最初に、物語の流れを書いた詞書があって、その後に絵が来るものなのに、これはそうではない。
 まず小脇に木の矛を抱えた下部(しもべ)が後ろを振り返りつつ走っている姿が描かれ、それに重なるように栗毛の馬に跨がって手に弓を取り、振り返っている鎧姿の検非違使(けびいし)の隋兵(ずいひょう)。次々と騎馬武者の隋兵が現れ、さらには腰に刀を差した下部たちの群れ、その先には松明を掲げた火町(かちょう)が検非違使たちを先導している。
 事件現場へと急ぐ検非違使たちの緊張と混乱がこちらにも伝わってきて、巻物を持つ手が震えた。
 さらに巻物を解くと、烏帽子を手で押さえながら走る者、指貫の裾をからげて急ぐ者、馬に乗っている公卿は直衣(のうし)という普段着である。朱雀門が現れ、そこを走り抜けようとする人々、そして中に入ると、いきなり群衆が立ち止まって前方上空を見上げている。どの顔も頬が赤く染まっている。群衆たちの視線の先には、紅蓮の炎を上げて火の粉を撒き散らしながら燃え盛る応天門が描かれている。訥言は天明の大火の時に見た炎の凄まじさをありありと思い出した。
 それぞれの人物の異なる表情や動作がためらうことのない筆の勢いで生き生きと描かれ、色使いも細部に渡ってきめ細かく選ばれている。訥言はその出来映えの素晴らしさに戦慄を覚えた。
 これは三十六歌仙絵巻よりもはるかに大変だと訥言は溜息をついた。というのも、剥落部分が段違いに多いからだ。
 しかしすぐにめらめらと闘志が湧いてくるのを感じた。よし、これを三部模写してやろうと訥言は決意した。一部は宮中、一部は土佐家に残し、そしてもう一部は自分が所持するために。
 再び一日の大半を模写に明け暮れる生活が始まった。
 秋に入ったある日、土佐家の画室で平机に向かって模写に取り掛かろうとしていると、廊下を走ってくる足音がした。現れたのは門人の一人である。
「応挙が死んだそうだ」
 画室にいた他の門人たちから、ほうという溜息とも感嘆ともつかない声が漏れた。訥言はあまりのことに声が出てこない。
「これで少しはこちらに仕事が回ってくるかもしれん」
「いやいや、ことはそう単純ではないぞ。呉春(ごしゅん)とか源g(げんき)がおる限り、やつらの画風を求める者は後を絶たん」
「芦雪(ろせつ)もおるしな」
「あの妙ちくりんな絵は、大丈夫だ」
「それもそうだ」
 門人たちは一斉に笑った。訥言は憮然となって模写をする気も失せ、広げていた伴大納言絵詞を丸めた。それを桐箱に仕舞い、筆も硯も箱に戻した。
 立ち上がって画室を出ようとすると、「訥言殿、今日は模写はされんのか」と一人が声を掛けてきた。訥言は振り返り、門人たちを睨みつけた。
「今日一日は、喪に服します」
 そう答えて廊下に出た。「何だ、あの態度は」「模写が少しくらいうまいからといって、いい気になるな」という声が聞こえてきた。
 土佐と応挙、その門人の違いを思うと、情けなくなった。絵を糊口をしのぐ手段と考えている限り、ろくな絵しか描けないのは道理である。門人たちに絵を追求する気概のないことに、今更ながら腹が立った。
 家に帰って、四条の方角に向かって正座をし、手を合わせていると、応挙が亡くなったことが次第に身に染みてきた。
 応挙とは違う絵の道に自分は足を踏み入れたとはいえ、この道を取らせたのはまさに応挙に他ならない。はるか前を行く応挙の背中を見ながら、何とか追いつき追い越そうとして、ここまで来た自分。その背中が忽然と消えてしまった。これまでの応挙との出会いが走馬燈のように頭に浮かび、突然胸の奥が熱くなった。自分は何か大変なものをなくしたのではないかという思いがよぎった。あれだけ反発した応挙の生活振りにさえ懐かしいものを感じている自分がいた。何よりもう二度と応挙の新作を見ることができないことに気づいて愕然となった。
 応挙が死んだ今、自分の目指すべきは古画の復活しかないと思い定めた。狩野派で学んだ水墨、応挙から学んだ真写、それらを生かして大和絵を復活させるのが自分の使命であるとはっきりと自覚した。

    三

 応挙の葬儀は四条大宮にある悟真寺で盛大に行われた。広い境内は門人たちで埋まり、さらに応挙の死を悼む人々が寺の周りに列をなした。
 残暑の日差しの中、訥言も葬儀に出ようとしたが、人が多すぎて境内の中に入れない。仕方なく、外から手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱えて応挙の冥福を祈った。
 その時、列が乱れて人々が押し合いになった。見ると、大勢の侍たちがそれぞれ一間ほどの棒を持って、参列者を道の脇に押しやっていた。
 しばらくして、遠くから輿(こし)のやって来るのが見えた。周りを脇差しを差した侍たちに取り囲まれ、黄色い狩衣を着た担ぎ手に担がれた輿が、ぽっかりと空いた空間にしずしずと進んできた。輿の四方が御簾で覆われているので中の姿は見えない
「妙法院様に違いない」と誰かが囁くように言う。背伸びをして輿を見ようとする者もいる。
 皇族の者が町絵師の葬儀に出てくる姿を訥言は初めて見た。真仁法親王(しんじんほっしんのう)が応挙の葬儀にわざわざ列席するのは、長年の親密度合いからいっても不思議ではなかったが、それが応挙の栄達の俗を象徴している気がしてならなかった。

 応挙の死によって受けた衝撃を忘れるかのように、訥言は伴大納言絵詞の模写に没頭した。その異常な打ち込み振りに、身体を壊さないかと光貞が心配したほどだった。
 半年余りかかって三部の模写を終えた訥言は、精も根も尽き果てたかのように一日中ぼうっとしていることが多くなった。模写の出来が原本よりも本物らしいと大評判になっても、訥言は人ごとのように聞いていた。元服して名前を光孚(みつざね)と改めた虎若丸が手を引っ張って粉本の臨写に誘っても、「若お一人でおやりなさい。訥言はこうして横になって見ていますゆえ」と動こうとしなかった。
 そんな折り、有職故実を研究している藤貞幹(とうていかん)から東大寺、法隆寺などにある古宝物調査に同行してそれらを写生してくれないかという誘いを受けた。藤貞幹は『好古小録』という古画、古物を調べ上げて考証した書物を出版しているが、新しい版には図を載せることを望んでいた。
 訥言は途端に生気を取り戻し、喜んでそれに応じた。
 その時、江戸から来て調査に同行したのが、谷文晁(ぶんちょう)だった。文晁が、尚古の志に厚い松平定信の知遇を得て、彼のお抱え絵師として諸国の古書画や古宝物の写生を行っているという話は訥言の耳にも届いていた。
 今回も松平定信の命による調査であり、参加の要請を受けた藤貞幹がそれに便乗する形で訥言を招聘したのだった。
 藤貞幹の自宅で訥言は初めて谷文晁に会った。細身の体で、髷を結い、脇差しを差した姿は紛れもなく侍である。
「谷文晁と申す者でございます。お目にかかれて光栄でございます」と文晁は丁重に挨拶をした。落ち着いて見えるが、自分と同じくらいの若さである。
「田中訥言でございます。文晁殿のお噂は常々伺っております。定信侯の仕事を支えておられるとか……」
「わたくしは殿の命に従い、各地に出向いているだけでございますよ。訥言殿の方こそ、三十六歌仙絵巻や伴大納言絵詞の模写は大変でございましたでしょう。わたくしも拝見させてもらいましたが、原本と寸分違わぬ写しには舌を巻きました。殿も、内裏の杉戸絵をご覧になった時から訥言殿は本物だと仰せでしたが、全くその通りで……」
「恐縮至極に存じます」
 文晁も古書画の模写から筆法を学んでいるので、訥言は同志を得た気持ちだった。
 酒席になって、藤貞幹や柴野栗山(りつざん)などの学者たちは時代考証の是非に花を咲かせていたが、訥言と文晁はもっぱら狩野派や南蘋画(なんぴんが)の筆法の話をした。
 文晁の目元がほんのりと赤くなってきた頃、
「そうそう、訥言殿にお土産がございました」
 と文晁が隣の部屋に何かを取りに行った。
 戻ってきた文晁の手には半紙大の紙が何枚かあって、赤や黒の色がちらちら見えている。
「これが今、江戸の町人の間で大人気の、錦絵というものですよ」
 文晁は持っていた紙の束を訥言の前に広げてみせた。歌舞伎役者が舞台の上で大見得を切っている姿を写したものだ。ひと目で多色刷りの版画であることが分かる。今までいくつか浮世絵を見たことはあるが、これだけの色を使っているのは初めてだった。
「なかなか色鮮やかですな」
「そうでしょう。町絵師の中には錦絵の原画を描く者がいましてね」文晁は一番上の絵を指差した。「これは歌川豊国という絵師で、大層人気があるのですよ」
 続けて何枚かめくり、文晁は女の上半身を描いた浮世絵を抜き出した。
「これは喜多川歌麿という絵師の描いた美人画ですよ。しかも遊女ではなく町人の娘を描いているので、大評判になっているのです」
「なるほど、これなら男が買いそうですな」
「いや、男ばかりではなく、女たちも髪型や着物の柄が参考になると買い求めるらしいですよ」
 訥言はぱらぱらと版画を捲っていき、一枚の役者絵のところで手を止めた。歌川豊国の絵と違って、役者の上半身だけが描かれており、しかも頭が異様に大きい。絵の端に東洲斎写楽という号が入っている。
「これはまた奇妙な絵ですな」
「ああ、その東洲斎写楽というのは近頃売り出し中の絵師ですよ。役者好きの町人にはなかなか人気があるようで……」
「それにしても手や上半身に比べて、首が大き過ぎますな」
「誇張しているのでしょう。町人はそういうのを好みますから」
「この写楽という絵師はきちんと絵の修行をしたのですか。線は確かなようだが、形の収まりがまだうまくないように見えますが」
「分かりますか。さすがは訥言殿。聞く所によると阿波藩お抱えの能役者だとか。手すさびで絵を描いていたらしいです」
「手すさびで?」
「さよう。そういう素人を蔦屋重三郎という版元が採用して売り出したんですよ」
「なるほど……」
 浮世絵という最下等の絵ならばこそ、素人の活躍する場があるのかと訥言は考えたが、それにしても手すさびでこれだけの線が描ける写楽という男はただ者ではない。
「この男が本絵に取り組んだら、どんな絵を描くのか見てみたい気がしませんか」
 と文晁が言った。まさに自分の思っていたことなので、訥言は「しかり、しかり」と頷いた。
 文晁と共に古宝物調査に加わり、同じ物を写生するのは緊張を強いられる作業でもあり、また文晁の作画を見て勉強させられるところも大いにあった。ふたりで速さと精確さを競っていると、学者たちが感心して、写生した絵のどちらがいいか言い争うこともあった。
一ヵ月かかった調査が終わると、訥言は伴大納言絵詞の模写後の虚脱状態からすっかり脱していた。谷文晁と東洲斎写楽という二人の絵師の存在が訥言の背中を押したと言っても過言ではなかった。
 再び模写の勉強を始めたある日、訥言は文晁からもらった浮世絵を何気なく眺めていて、ふとこれを臨写してやろうかという気になった。それまでは浮世絵のような下司な絵を模写をすれば正統な筆使いが乱れるという気持ちがどこかにあって考えもしなかったのだが、浮世絵といえども絵には違いない。手すさびとしても面白いのではないか。
 早速浮世絵の束を持って、訥言は土佐家に行った。
 画室で歌川豊国の絵を横に置いて臨写していると、光孚(みつざね)が現れた。
「やあ、訥言が勉強している」
 そう言うと、訥言の手許を覗き込んだ。
「綺麗な絵だなあ」光孚が感嘆の声を上げた。「それは何なの」
「これは今、江戸で流行っている浮世絵ですよ」
「ふーん」
 光孚は、横に置いてある浮世絵の束を一枚一枚見ていった。
「これ、面白い」
 訥言が顔を上げると、光孚が一枚の浮世絵を手に持って見せた。懐から両手を出して見得を切っている役者を描いた写楽の絵である。
「面白いですか」
「うん。家にある粉本とは全然違う」
「どこが違いますか」
「首が大きいもの」
「それは人の目を惹きつけて売るための工夫でしょう」
「こんな風に描いてもいいのか、訥言」
「我々、本絵を描く者からすれば邪道ですが、町人の慰み物ですからどう描いてもいいのです」
「邪道なものをどうして訥言は写しているのだ」
「これはほんの手慰み。しかしその写楽という絵師の描く線はなかなか面白いですぞ」
 光孚は手に持った浮世絵をもう一度見た。
「こちらの歌川豊国という絵師の絵と比べると、同じ浮世絵といっても絵師によってかなり違うことが分かります。いかがですか」
 光孚はそれぞれの絵師の絵を左右に並べて見比べた。
「こちらの方が」と光孚は豊国の絵を指差した。「頭と体の釣合いが粉本に近いな」
「他には?」
 光孚はうーんと言って考え込んでいる。
「写楽の方が顔の描き方は写生に近いと思いませんか」
「そう言われれば、皺とか後れ毛とかを描き込んでいるな」
「そうでしょう。二つを合わせると、我々の描く本絵になるというわけです」
「どうしてそうしないのだろう」
「若は、買うとしたらどちらを買いますか」
 光孚は二つを見比べ、「こっちかな」と豊国の絵を指差した。「しかしこっちの写楽の絵も面白いから、一枚は買うかな」
「浮世絵というのは町人相手に何百何千と売らなければならないから、そうやって特長を出しておるのですよ」
 その時、光貞が姿を見せた。訥言と光孚の前に広げられている浮世絵を目にすると、光貞は顔をしかめた。
「訥言、そんなものを模写してどうするのじゃ」
 光貞の声に怒気がある。訥言は平然とした表情で、
「ただの手すさびでございます。ただ、同じ絵師として学ぶところもございます」
「何を言うか。それは版画ではないか。そんなもの、絵ではない。学ぶところなどあるはずがないではないか」
「父上、この絵などなかなか面白うございますよ」
 光孚が写楽の絵を取り上げた。光貞は一目見るなり、
「何じゃ、その奇妙な絵は。そんなもの、素人の絵ではないか」
 訥言は写楽の絵を手本にして、臨写を始めた。
「訥言、止めなさい。この土佐家にそんな下らない絵を持ち込むことは一切禁止じゃ。さっさと持って帰りなさい」
 師からそう言われれば、さすがにそれ以上臨写を続けることはできない。訥言は筆を置き、浮世絵を集めた。光孚が写楽の一枚を所望したが、光貞に怒鳴られて手を引っ込めた。
 訥言は自宅で浮世絵の臨写を続けた。俗の中の俗の絵など本来唾棄すべきものなのだが、どこか惹きつけられるものがある。鮮やかな色使い、誇張された形、それらはすべて町人たちが何を好むかだけを考えて描かれている。自分の写意を考えず、売れるかどうかだけを考えて描く絵師たちのぎりぎりの表現が訥言を動かしたのだ。
 訥言が浮世絵師に転向するという噂が土佐の門人たちの間で流れたのは、その頃である。浮世絵の盛んな江戸に行くという尾鰭までついた。
 光貞が「噂は本当か」と尋ねる始末だった。
 訥言は笑って否定したが、かえって光貞の疑心を生んだようだった。
 それからほどなくして、土佐家に出入りしている道具屋から訥言に縁談が持ち込まれた。訥言の浮世絵師転向を本当に心配した光貞が、結婚させて京に定住させようと密かにあちこちに声を掛けたようだった。
 それを知った訥言は噂をいくら否定しても無駄なようだと考え、素直に縁談に応じることにした。物心の付かないうちに家庭というものから引き離された訥言にとって、それまで所帯を持つことは眼中になかったが、ここらで身を固めるのも悪くないと思ったのだ。
 相手は四条烏丸にある小間物屋の娘で、お市といった。訥言より十歳下の二十歳で、商売人の娘とは思えないほどおっとりとしていて、口数も少なかった。無口な自分にはぴったりかもしれぬと、訥言はそのぽっちゃりとした顔を眺めながら思った。
 祝言を挙げた二人は嵯峨に草庵を借りて新生活を始めた。といっても訥言の生活は一人の時とほとんど変わらなかった。浮世絵の模写を通して勉強する気を取り戻した訥言は、再び古絵巻物の模写に取り組み始めた。もっとも模写では金にならず、持ち出すことの方が多いのは相変わらずだった。
 縁談を持ち込んだ道具屋が心配して、富家からの絵の依頼を取り持ってくれたが、訥言は自分の気に入った画題しか引き受けなかった。
 そんなある日、苦労して取ってきた絵の依頼を断られた道具屋の勘助は、いつものように悄然と帰ることなく、着物の裾をぽんと叩いて訥言の前に腰を下ろした。
「先生、今日という今日は言わせてもらいますわ」と勘助は切り出した。「先生はお市ちゃんとの暮らしをどう考えてはるんですか。一家の主たる者、女房に銭の心配をさせて平気なんですか」
「何のことだ」
「先生は模写に明け暮れて銭になる絵を描こうとしやはりません。私が取ってきた注文もあれがいや、これがいやと駄々をこねてお描きになりまへん。そんなことで暮らしていけるとお思いなんですか」
「現にこうして暮らしているではないか」
「それはお市ちゃんが実家に無理を言うて、用立ててもらっているからでっせ」
 初耳だった。訥言はお市を呼んで問いただした。お市は黙って頷いた。何たることだ、訥言は思わず怒鳴りつけようとしたが、道具屋の手前でもあり、憮然として口をつぐんだ。
「先生、私の身にもなってくれはりませんか。田中訥言というお方は若いけれども今や土佐家の筆頭弟子、これからますます高名になって、いずれその名を残すお方に間違いないと勧めたんでっせ。それが実家からの借金で生活してるなんて、私はお市ちゃんのお父さんに顔向けできまへんわ」
 道具屋風情に何が分かると反発を覚えたが、これがおそらく世間の目だと思うと、どこかしら納得するところがあった。
 訥言は吉祥図など描く気はないとした前言を翻して道具屋に絵の依頼を引き受けると告げた。
 彼を帰らせてから、傍に控えているお市に実家からの借金は全部でいくらだと尋ねた。
「二十両でございます」
「どうしてそんなにあるのだ」
「硯をお買いになったから……」
 お市が消え入るような声で言う。
 二ヵ月ほど前、別の道具屋が唐物の硯を土佐家に売り込みに来たことがあった。さる大名からの拝領品が流れてきたらしくて、一目見て端(たん)渓(けい)硯(けん)の老(ろう)坑(こう)水(すい)厳(がん)であることが分かった。紫色を秘めた黒い色はまるで玉のような深みがあり、石紋も美しい。縁に施された雲龍の彫りも精緻を極めている。光貞も興味を示したが、訥言はどうしてもそれを譲って欲しいと懇願し、家にあった金を全部持ち出して道具屋に支払った。お市の抗議にも、絵師が道具に金を掛けるのは当たり前だ、何が悪い、と怒鳴りつけたのだ。
 次の東山展観まで一月もない。半年後なら余裕で絵を出展できるが、それまで借金を返せないのはどうしても我慢ができない。かといって、あの道具屋に絵の斡旋や販売を依頼するのは、死んでもしたくない。
 訥言は依頼も含めて一ヵ月に五枚の絵を描く決心をした。それらがすべて金に換われば、借金は返せる。
 画題を考えている暇がないので、すべて吉祥を表す花鳥図にした。南天や牡丹、梅花などに雀や鶯を配置すれば、売れる絵になることは間違いなかった。
 今まで観てきた応挙やその弟子たちの絵の構図を思い浮かべ、粉本や自分の描いてきた下絵を参考に、時には実際の花々や鳥たちを写生して、同時並行的に五枚の絵を描いていった。最後の数日は燭台に高価なろうそくを灯して、夜遅くまで制作せざるを得なかった。
 道具屋の取り次いだ絵なら吹っかけてもよかったが、訥言は他の四枚の値付けと同じく、五両で引き取らせた。
 東山展観では、すべて花鳥図なのですぐには全部売れないだろうと訥言は思っていた。ひょっとしたら売れ残りが出るかもしれない。
 しかし訥言の思惑に反して、展示して数刻のうちに完売してしまった。
 売立人の口上は「土佐家にあって絵巻物模写の第一人者、田中訥言がその腕を駆使して描いたものですぞ。応挙、呉春に勝るとも劣らない花鳥図、めでたい吉祥図が一枚たったの五両。これを逃せば、こんな逸品は二度と手に入りませんぞ」というものであり、苦々しい思いで訥言はその言葉を聞いていたが、それが功を奏したのかもしれなかった。
 その日のうちに金を懐に入れ嵯峨の草庵に戻った訥言は、お市に、これで借金を返すようにと二十両を手渡した。
「もう売れたんどすか」お市は驚いた顔をした。
「売れる絵を描いたからな」
「そうどしたら、これからも売れる絵を描いて下さいまし」
 訥言はかちんと来た。お市を目の前に坐らせると、
「お前は俺という絵師が分かっていないな。今回俺が売れる絵を描いたのは、借金を返すためでもあるが、そんな絵は一月で五枚も描ける程度の物であることを示したかったからだ。そんな物を描くのは俺の本意ではない。俺は百代、二百代先にも残る絵を描きたいのだ。分かったか。これからは二度と実家に借金をするでないぞ。もしもう一度借金をしたら離縁するからな」
 訥言の大きな声に、お市はひれ伏した。
 お市の実家からの用立てがなくなると、途端に毎日の食事が貧しくなり、画材の購入にも支障を来すようになった。仕方なく訥言は売れる絵を描いたが、それは最低限の生活を維持するためだけのものであった。
 そんなある日、勢州長島藩に仕える植村高政と名乗る中年の侍が訥言の草庵を訪れた。さる富家の隠居から依頼を受けて、絵巻物の揮毫(きごう)を頼みに来たと告げた。
 絵巻物の製作依頼は訥言にとって初めてのことだったので、それだけで彼の胸は高鳴った。
「ご隠居は先生の絵巻物の模写に賭ける情熱にえらく心を打たれ、是非とも新作をお願いしたいとおっしゃっておりまして」
 と言って、植村高政は懐から紙切れと小判の五十両包みを取り出した。
 紙切れには画題、竹取物語となかなかの達筆で記してあった。
 竹取物語とは! 訥言の頭の中をいくつかの場面が鮮やかな絵となって通り過ぎていった。
 訥言は喜んで依頼を受けた。
「必ずご希望に添うよう十分に想を練って揮毫いたしますが、ただこれについては一つの条件がございます。それはこの絵巻の完成に期限を設けていただきたくないということでございます」
 植村高政は、それは、と呟いて考え込んでしまった。
「絵巻物では有職故実を厳密に調べなければなりませんので、時間がかかるのです。期限がございますと、その辺りがいい加減になってしまいます。もちろん画料は作品が出来るまでそちらでお預かりいただければ結構ですので」
 先生がそうまでおっしゃるのならと植村高政は小判の包みを懐に戻した。
 侍を丁重に返すと、訥言は着替えをして光貞の屋敷に向かった。そこには竹取物語絵巻の写本が全三巻揃っており、挿絵入りの物語本もある。訥言はどの場面を絵にしようかと想を練りながら、模写とは違う高揚感を感じていた。
 訥言の意気込みとは裏腹に、竹取物語絵巻の制作はなかなか進まなかった。いやむしろ意気込みが空回りしていると言った方がよかった。
 写本とは違う場面を絵にして、なおかつ物語を劇的にせねばならない。たとえ同じ場面を描くにしても、違う角度からより美しく描かねばなるまい。そう考えていると、下絵一枚描くにも時間がかかり、故実に少しの疑問でもあれば、それの検証に数日を要することもあった。
 そんな折、お市が身籠もっていることが分かった。結婚すれば子をなすことに何の不思議もなかったが、それを聞いた時、訥言は呆然となった。お市という女が全然違う人間に変わってしまったように感じ、自分が父親という立場に置かれてしまうことへの漠然とした不安もあった。
 それを振り払うように訥言は竹取物語絵巻の下絵作りに励んだ。
 お市は実家に帰って男子を産み、父親が佐市良(さいちろう)と名付けた。
 生後三ヵ月の佐市良を連れてお市が草庵に戻ってきた時、ようやく訥言は下絵を元に絵を描き始めているところだった。昼間作画に没頭し、夜は泥のように眠る主人の邪魔をしないように、夜泣きをする佐市良を負ぶってお市が夜通し外を歩き回ることもあった。
 そんな頃、前触れもなく植村高政が再び訪れた。出来上がればこちらから連絡するという約束になっておるのにと思いながら、訥言は彼を迎えた。
 高政は部屋に通されると、「それで絵の方はどの辺まで進んでおりましょうか」と尋ねた。
 作画に取りかかり始めたところだと答えると、いきなり高政は畳に両手を突き、深々と頭を下げた。
「先生にお願いしたき儀がございまして……」
「何でございましょう」
 高政は面を上げた。
「実はわたくしは長島藩で納戸役を仰せつかっている者でして、この前隠居と申しましたのは実は我が主君増山正賢(ましやままさかた)侯のことでございます。君侯こたび江戸参観のために出府いたすことになりまして、つきましては、是非先生の絵を江戸にて貴顕の皆様に御披露いたしたく思し召しがございまして、何とぞ来月の十七日までに頂戴いたしたく、こうやってお願いに参った次第です」
来月の十七日ということは、二十日余りしかない。
「それは無理でございます」
「そこを何とか……」
 高政は懐から紫色の袱紗を取り出し、訥言の前で広げて見せた。五十両の包みが二つある。
「画料でしたらこの通り、最初の依頼の倍額をご用意いたしました。何とぞ期日までに仕上げていただきますよう伏してお願い申し上げます」
 高政は再び両手を突いて頭を下げた。
 訥言は画料が倍になったことに言いしれぬ怒りを感じていた。画料を上積みさえすれば喜んで急ぎの仕事をすると思っておるのか。他の町絵師ならいざ知らず、俺はいくら金を積まれても手抜きの仕事など絶対にしない。
 それに、最初隠居の依頼だとしていたことにも訥言は腹立ちを覚えた。最初から大名だと明かせば百両以下の注文などできまい。それを隠居だと偽って安くしようとした魂胆がいやらしい。
「貴殿、わたくしが約束の日に何と申したかお忘れか。期限を決めずにと申したはず。それを今さら、主君出府のために日を限って揮毫せよとは無体にも程がある」
 訥言は突然立ち上がって画室に行くと、平机にある未成の絵を剥がして奥の間に戻った。
「絵師の苦心を知らない主君にこれを見せよ」
 と怒鳴ると、訥言は絵の描かれた紙で小判の包みをつかみ、侍に投げつけた。小判は侍の肩に当たって、畳の上に落ちた。斬られるかもしれないと思ったが、そのときは立派に斬られてやると居直りにも似た気持ちで高政に背中を向けた。
 画室に入って寝転んでいると、お市が入って来た。
「お前さま、どうぞこの仕事をお引き受け下さいまし。時間がなければ、わたくしも手伝いますゆえ」
「口出し無用」
「百両といえば大金どす。親子三人で何年も暮らせる額どす。お前さまも無理に売れる絵を描くことなく、好きなお仕事に専念できるやおへんか。どうしてそんな機会を蹴っておしまいになるのか、わたくしにはさっぱり分かりませんわ」
 訥言は上半身を起こした。お市は怒った顔をしている。彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。
「お前は俺がこの仕事にどれだけ時間を掛けてきたか知らないわけではあるまい。それを最後の最後になって拙速に絵を仕上げることなど出来るはずがないではないか」
「ですからわたくしもお手伝いしますゆえ」
「何人(なにびと)が手伝おうとも、最低三ヵ月はかかるから無理に決まっておる。そう申してさっさとあいつに帰ってもらえ」
 そう言うと、訥言は再び仰向けになった。
 結局、竹取物語絵巻の完成は幻に終わった。下絵や故実の資料が残っているので、お市は何とかして描かせようとしたが、ケチの付いた仕事は出来ぬと訥言はそれらを二度と行李から出そうとはしなかった。

 訥言にとって自分の子供ほど扱いにくいものはなかった。どう接したらいいのか皆目分からない。応挙の真似をして童子図を描いてみようかと佐市良を写生してみたが、得体の知れない生き物のように感じる心では、到底真写の域まで達しない。線に躍動感が全く乗らないのである。
 佐市良が歩くようになると、勝手に画室に入って来ては訥言が絵を描いている邪魔をするので、本気で叱りつけたこともあった。
 これではいけないとさすがに訥言も反省し、佐市良に筆を持たせて遊ばせることにした。しかしいくら筆の持ち方を教えても、拳骨のまま握ることしかできない。その握り方で半紙に出鱈目な線を描き、しまいには小さな掌を硯に突っ込んで墨を付け、半紙を黒々に塗り潰してしまう。
 お市がやって来て「あらあら佐市良、お父様のお仕事の邪魔をしてはいけまへん」と子供を抱き上げ、画室から連れ出した。
 しばらくして調子はずれな笛の音が響いたかと思うと、佐市良のきゃっきゃっとはしゃぐ甲高い声が聞こえてきた。訥言は溜息をついた。どうやらあれは母親の血を継いでいるようだ。
 それでも訥言は機会あるごとに佐市良に筆を持たせ、縦一本の線や丸や四角を描かせようとしたが、同じ太さの線が描けるはずもなく丸も四角も形にならなかった。訥言が叱ると、佐市良はぷいと筆を投げ捨て画室から走り去った。
「筆で絵を描かせるのはまだ早過ぎます」とお市が言うと、「俺はあの年には筆で落書きをしていたのだ」と訥言は憮然として答えた。
 親子三人の生活を維持するために、訥言は書籍の挿絵のような仕事も引き受けた。中でも松本愚山の著した『菅家寔録(かんけしょくろく)』には力が入った。菅原道真の伝記で、松竹梅の三冊物に計十六葉の挿絵を描いた。自分の持っている有職故実の知識を総動員して、細密の筆使いを遺憾なく発揮した。
 挿絵の画料は小さく、家計を潤すまでにはいかない。そんな頃、道具屋の勘助が絵の揮毫の話を持ってきた。思うに、実家に借金の出来ないお市が常々主人に絵を依頼するお金持ちがいないか頼んでいたようだった。
 依頼主は三条の材木問屋主人で、新築した屋敷の床の間脇にある袋戸に何か揮毫して欲しいというものだった。喜んで訥言が承諾すると、道具屋は金箔地の袋戸を二枚持ってきた。
 さて何を描くべきか。画題を任されても、これといった考えが浮かばない。季節は早春。外を歩いて咲いている花でも見たら思いつくかもしれないと、訥言は写生道具を携えて、嵯峨野から嵐山にかけて山野を渉猟した。
 黄色い福寿草や赤い万両の実、あるいは満開の梅や咲き残った水仙などを写生していったが、これといって胸に迫るものはない。
 大堰川まで来た所で疲れ切ってしまい、日の当たっている堤の斜面に腰を下ろして、握り飯を食べた。その時、視線の先に、ひょろっと伸びている一本の緑が目に入った。一尺には足らないが、他の芽吹き始めた草とは伸び方が違う。よく見ると、それは蕨(わらび)であった。周りにはいくつかの小さな背丈の蕨も生えていた。
 山菜のお浸しとして食べることはあっても、こうして自生しているところを見るのは初めてだった。今夜のおかずに摘んで帰ろうかと思いながら、竹筒の水を飲み、訥言は斜面に仰向けになった。目を閉じると、日の暖かさが身にしみて、足の疲れも抜けるようだ。
 ふと、蕨を描いてみようかという考えが浮かんだ。地味な植物なので絵にならないと思ったが、その思い込みは絵師としての自分の狭さを表しているのではないかと気づいたからだった。
 訥言は起き直ると、道具を広げ、一番大きい蕨を写生してみた。先端のくるっと丸まったところは面白いが、後は一本のただの棒である。やはりだめか。訥言はがっかりしたが、それでも角度を変えて何枚も写生した。近くにある短い蕨も同じ画面に描いてみた。
 翌日も訥言は大堰川の堤に向かった。蕨に絵師としての力量を試されている気がしたのだ。
 しかし同じ所に昨日と同じ姿の蕨はなかった。たった一日でどれも背丈が伸び、新しい蕨も顔を覗かせていた。訥言はその生命力に撃たれた。そしてこれは絵になると確信したのだった。
 それから訥言は十数日掛けて、嵐山だけではなく洛北や洛東を跋渉し、蕨の群生を見つけると写生を繰り返した。蕨は芽が出て最初のうちはぐんぐんと伸びるが、葉が出始めると背丈は止まり、葉が繁るようになる。まるで人間の一生を見ているような心地がした。
 そうやって数百茎の蕨を写生した中から、三本の蕨を描くことに決めた。芽吹いたもの、伸びつつあるものを一つの袋戸に、もう一方には葉を広げたものを配置した。一番姿のいいものを選び出したのは言うまでもない。
 揮毫が完成したのは、依頼を受けてから半年も経った頃だった。
 知らせてやると、勘助がやって来た。
 袋戸を前にして「蕨でございますな」と言ったきり、勘助は黙ってしまった。戸惑いの表情を浮かべている。期待した絵とは違ったのだろうと思いながら、訥言は口元に笑いを浮かべてその様子を眺めていた。
「もう少し色目がおましたら、よかったのではないですか。赤とか群青の」
「草色だけでは地味だと申すのか。よく見てみなさい。草色の中にも様々な種類があるのを……」
 勘助は顔を近づけ絵を子細に見てから、ひとつ大きく頷いた。
「それで御揮毫料は如何ほどに」
「十両ほどいただきましょうか」
「十両?」
 勘助の声が大きくなった。
「そうだ」
 勘助は口を固く結んで懐から大判の風呂敷を取り出すと、袋戸二枚を包んで帰っていった。
 翌日、十両を持って勘助がやって来た。小判の包みを訥言の前に差し出すと、
「先方は蕨の絵をことのほか気に入っておいでですが、たった三本を描いただけで十両とは、ちと高いのではないかとおっしゃっておりました」
「分かった。ちょっと待て」
 訥言は画室に行くと、押し入れから大きな畳包(たとうつつみ)を取り出した。
 それを持って奥の間に戻ると、「これを持っていって、先様にお見せしなさい」と道具屋の前に置いた。
 勘助が畳包を開けると、中から分厚い紙の束が出てきた。
「それはこの春、私が歩き回って写生した蕨だ。おそらく数百本はあるだろう。それでも高いとおっしゃるのなら、画料は先様の言い値で結構だ」
 勘助は平身低頭して畳包を持ち帰った。
 数日経って、勘助が材木問屋の主人を連れてやって来た。
 主人は訥言の前に両手を突くと、
「先生がこれほどのご苦労をされているとは露知らず、ご無礼なことを申しました。平にご容赦下さい。つきましては同じ蕨の図を掛軸にしていただきたく、こうしてお願いに参りました」
 と頭を下げた。訥言は上機嫌で主人の依頼を受けた。下絵があるので、画料は五両ということにした。
 早速制作に取りかかってみると、袋戸の下絵は全く使えないことが分かった。掛軸では上の空間が空き過ぎるのである。どうしようかと考えて、訥言は最初に蕨を見た大堰川堤の斜面を思い出した。
 紙本の下方に斜めの線を引き、その線を堤に見立てて三本の蕨を配置すると、構図が決まった。袋戸よりも大胆な分、蕨の生命力が強調されていた。
 訥言はその構図で三枚の絵を描き、そのうちの一枚を道具屋に持たせて掛軸に仕立てさせた。材木問屋の主人からは、絵を絶賛する言葉を書き連ねた礼状が届いた。
 それから半月余り経った頃だった。勘助が風呂敷包みを持って現れた。また、絵の依頼かと思いながら、訥言はにこやかに道具屋を奥の間に通した。
 しかし勘助は浮かぬ顔をしており、坐るやいなや、風呂敷包みを解いた。中には一本の掛軸があり、勘助は巻緒を解いてそれを広げてみせた。蕨の図である。
「先生、これは一体どういうことなんでっしゃろ」
 返却に来たのかと思ったが、納めた絵とは若干違うことはすぐに分かった。しかし構図といい筆使いといい、自分の描いたものに間違いない。
「道具屋仲間からこの絵を見せられた時は、あっと驚きましたわ。田中訥言ともあろうお方が同じ絵を二枚も売るとは、信じられまへん。いくらお金にお困りでも、やっていいことと悪いことがあるのと違いまっか」
 訥言は署名と印章を見てみた。印章は本物だが、署名が違う。似せて書いてあるが自分の手ではない。すぐにお市の仕業だと気がついた。
「すまぬ」と訥言は頭を下げた。「その絵は材木問屋に納めたものとは少し違うが、同じと言われても仕方がない。同じ構図で描いたものの一枚で、表にでるはずのないものが手違いで出てしまったのだ。是非、買い戻させていただきたい」
 道具屋仲間は二両で引き取ったということだったので、訥言は三両を出して買い戻した。
 勘助が帰ると、訥言はお市を呼びつけ、掛軸を広げて見せた。
「これはお前が売ったのであろう」
 腹立ちを抑えながら、静かに言った。訥言と勘助のやり取りを聞いていたのだろう、お市は慌てる素振りを見せなかった。
「さようでございます」
「どうして、そんなことをした」
「どうして?」お市は顔を上げた。「お金が必要だからでございます」
「金なら今度の仕事で十五両も入ったではないか」
「そんなお金、いつ出て行ってしまうか分からしません。欲しい物があれば硯でも筆でも家計に頓着なく買ってしまわれるのに。百両の仕事さえも蹴っておしまいになる絵師の女房としては、佐市良との暮らしを守るためにお金になることは何でもするつもりでおります」
 お市の強い言葉に、訥言はたじたじとなった。
「しかしお前のしたことは、俺の顔に泥を塗ることだぞ」
「泥を塗った覚えはあらしません。お前さまの描いた絵を売ることがどうして泥を塗ることになるのでございましょう」
「それが浅はかというものだ。絵師は依頼されたら最高のものを納める。その時何枚か描くことがあるが、納めたもの以外の絵を売ることは、自分の名を汚すことに他ならない。そんなことが分からぬのか」
「分かりまへん」
「離縁だ」
 訥言は言い放った。
「分かりました。ただし佐市良はわたくしが引き取ります」
「ああ、いいだろう」
「お前さまはどうしてそんなに頑ななんどすか。四条にお住まいの絵師たちのように暮らすこともできますものを」
 応挙の流れを汲む松村呉春が四条に住み、その画風を慕って多くの弟子が周りに集まっていた。いわゆる四条派は人気の絵師集団なのだ。
「あんな呉春のような俗工と一緒にされたら迷惑だ。あいつは蕪村の弟子だったのが、その貧乏に嫌気がさして応挙に寝返ったのだ。金のために描く町絵師がよかったら、とっととそいつらと一緒になれ」

    四

 お市が佐市良を連れて実家に帰ってしまうと、草庵は火の消えたように寂しくなった。頼まれた挿絵を描いていても落ち着かず、それから逃れるように訥言は住まいを嵐山にある大悲閣に移した。大悲閣は保津川の開削工事をした角倉了以が建立した寺で、文化五年(一八〇八)に黄檗宗に改宗されるまでは天台宗であった。天明の大火の後、ほんの一時仮寓したことがあって、訥言はその頃の初心に戻ろうとしたのだ。
 山の中腹にある客殿からは眼下に大堰川の流れが見え、嵐山を隔てて、京の町がわずかに望見できる。さらに目を上げると遠くには比叡山の青い山影が見え、あそこから京に降りて、今それに対峙するように嵐山に住まうようになったことに、訥言は感慨を覚えた。
 再び古画の模写に没頭し始めた。その作業に疲れると、写生道具を携えて嵐山を歩き、草花や木々を写した。そのうち出没する鹿に興味を引かれ、それを熱心に写生するようになった。
 そんな頃、旅装姿の谷文晁がひょっこりと大悲閣に現れた。四年ぶりの再会だった。前回できなかった古刹の古宝物の調査に上洛してきており、その合間を縫って訥言の肖像を描くためにやって来たのだ。松平定信が、自分が名家だと思う人間の肖像画を集めて出版する計画を立て、文晁がその任に当たっていた。
 旧交を温めた後で、文晁が「この四年間いろいろあったと伺いましたが」と水を向けてきた。土佐家の誰かから聞いたのだろう。
「所帯を持って子供ができましたが、離縁いたしました」
 と訥言はあっさりと答えた。
「ほう、それは波乱でございましたね。それで、お子さんはどうされました」
「女房が連れて実家に帰ってしまいました」
「それは残念なことをされましたね。手元に置いておいて、絵師の道へ導かれたらよかったのに……」
「いやあ、息子は女房に似て音曲を喜びましてな。筆を持たせてもすぐに放り出して、笛をつかむ始末でして……」
「なかなかうまくいかないものですね。私のところは去年妻を亡くしてしまいました」
「それはまことですか」
「ええ、突然の病であっけなく……」
 文晁の妻は結婚後彼から絵の手解きを受けて、人気絵師に名を連ねるほどになっていたのだ。前回、文晁からそのことを聞いて、訥言は羨ましく思ったことを思い出した。
「それは本当に惜しいことをしましたな」
「さよう。絵師になって、絵師の苦労が分かる女はそうそうおりませんからね」
「お互い、一人になって絵の道に精進するしかないということでしょう」
「まことにその通り」
 そう言って、文晁は笑った。
 肖像は絵を描いている時の服装の方がいいということだったので、着替えもせず文晁の前に正座した。
 文晁は道具を用意すると、半時もかからず墨で肖像を描いた。それを見ると、なるほどよく似ている。線にためらいがなく流れるように描いている。
「坊主頭であるゆえ、描くのは易しかったのではありますまいか」
 と訥言は頭をひと撫でした。
「なんの」と文晁は応えた。「人の特徴は目に表れますゆえ、そこを描くのに苦労いたします。目がなければどれほど楽なことか……」
 それから二人だけの酒宴になった。もっとも大悲閣は寺なので、酒を般若湯と言い換えて酌み交わしたわけだが。
「ところで前回お土産にいただいた浮世絵は、大変参考になりました。何枚か模写して、訥言、活を入れられました」
「そうでしょう。訥言殿ならその良さが分かっていただけると思って差し上げたわけです。本絵を描く絵師は浮世絵と聞いただけで頭から馬鹿にしますが、なかなかどうして、大したものです」
「あの東洲斎写楽という絵師は、まだ活躍しておりますか」
「写楽はあの後、姿を消しました。役者絵としては結局余り売れなかったようですし、版元の蔦屋重三郎が病を得て後ろ盾ではなくなったのが大きいでしょうね」
「そうですか。それは残念なことですな。写楽という男、本格的に絵の修行をしたら、本絵の世界でも一角の絵師になれたはず」
「あの男は異能でしたから浮世絵の世界では生きていくのが難しかったかもしれません」
「今、江戸で人気の浮世絵師は誰ですか」
「歌川豊国は相変わらず人気があるようです。美人画の喜多川歌麿は少々画力が落ちて参りましたね。私の見るところ、北斎という絵師がなかなか面白い絵を描くので注目しているところです。狩野派とか唐画に学んだのがよく分かる絵を描きますからね」
「ほう。ほくさいとはどういう字をかくのですか」
 文晁が懐から紙を取り出して墨で「北斎」と書いて訥言に渡した。
「北斎は妙見さんを信仰していて、その印である北辰星から号としたようですよ」
 訥言はその名をじっと見た。狩野派や唐画に学ぶというのは自分と同じ道を通っているのだ。最下等の絵師といえどもそれなりの修行をしているということが、北斎という男を身近に感じさせた。
 途中で鹿の鳴き声が聞こえてきた。訥言が、模写の合間に鹿を写生していることを口にすると、文晁は是非その絵を見せてほしいと言う。
 そこで写生した紙の束を持ってきて見せると、文晁はその出来映えに驚きの声を上げた。特に、鹿が頸を捻って後ろを向いている姿の一枚を賞賛した。
「この眼が生きておりますね。驚いて警戒している様子が眼に表れている」
「鹿を写生しておりますと、毛色や角が季節によって変わることが分かって参りました。特に晩春から初夏にかけてが一番微妙で、この時期の鹿はとうてい画筆に移すことができませぬ。今は秋に入りましたので、また写生できるようになりましたが」
「そのように事物を注意深く見るということは、やはり応挙殿の影響を受けておられるのですか」
「若い頃身近に接し、真写の教えを受けたものですからな」
「わたくしも応挙殿の絵で、ずいぶん勉強させていただきましたよ」
 文晁は十年ほど前の上洛の折、一度だけ応挙に会ったことを話した。好々爺の町医者のような風貌のどこに、あれほどの絵を描く力が秘められているのか不思議な気がした、という文晁の感慨に、「筆を持てば、その顔が夜叉に変わるのでござるよ」と訥言は笑顔で応えた。

 大悲閣に三年ほど暮らした後、訥言は伏見街道にある田中明神の近くに引っ越した。愛読している古今著聞集に、和泉式部が伏見稲荷に詣でる途中、この社前で時雨に遭い、田を刈っていた一人の童子の袷(あわせ)を借りて雨を凌いだという逸話があり、名前が同じ田中なので気に入ったのだ。
 伏見街道に移ってから、訥言は「文永賀茂祭礼絵巻」の模写や、その絵巻物を観た妙法院宮真仁法親王(しんじんほっしんのう)からの依頼で、人物を妖怪仕立てにした「異形賀茂祭礼絵巻」を描いた。
 他に畑民部の「四方の硯」や伴蒿蹊(ばんこうけい)の「門田の早苗」に挿絵を描いたりした。
 伴蒿蹊は近江八幡の富裕な商家の養子になっていたが、若くして家業を譲り隠居、剃髪して京に住んでいた。平安四天王の一人と称される程の歌人で、訥言と知り合った頃は七十歳を過ぎていた。
 蒿蹊は、国学や和歌の勉強をしたいのなら手解きをしてやるぞと言ってくれたが、書物は苦手で、もっぱら絵から学びたいと訥言はそれを固辞した。その代わりというわけではないが、蒿蹊は島原で茶屋遊びを教えてくれた。
 ある日、蒿蹊に伴われて揚屋に上がり、芸妓二人を呼んで投げ節や踊りを堪能しつつ酒を呑んだ。興に乗って訥言が三味線を弾く芸妓とその歌に合わせて踊る芸妓の姿を写し、蒿蹊が和歌の賛を入れた。その席画が芸妓二人の取り合いになり、仕方なくもう一枚を描いて渡した。
 酒席が終わると蒿蹊は帰り、訥言は馴染みの娼妓を待った。
 しかししばらくして揚屋の女将が来て、夕顔は先約があって来られないので、別の置屋から一人呼んだと言った。
「夕顔が来ないのなら帰る」と訥言は立ち上がった。酔いが回っているのか、足元が少しふらついた。
「まあ、そうお言いなさらんと」女将が引き留める。訥言が仕方なく腰を下ろすと、女将は隣の部屋に通ずる襖を開けた。蚊帳が下がっており、女将はその端を上げて中に入ると、枕を持って来た。
「これを当てて、しばらく待っておくれやす」
 訥言は横になって箱枕に頭を乗せた。
 うたた寝していると、襖の開く音がして、「お待っとうさん。みつ女でございます」という雲雀の鳴くような声が聞こえてきた。
 顔を向けると、年の頃二十二、三の娘が入ってくるところだった。紅を引いたおちょぼ口は好みである。訥言は起き上がって、胡座をかいた。
「よろしゅうおたの申します」
 訥言の側まで来て三つ指をつき、みつ女はゆるりと頭を下げた。
 その時、鬢付け油が強く匂い、訥言は顔をしかめた。
「何とかならぬか、その匂い」
「髪の毛でございますか」
「そうだ」
 みつ女は島田髷の側面に掌を当てて、その手を自分の鼻先に持っていった。
「ほんに少し強うございました。次は気をつけますさかい、ご勘弁を」
「今宵は夕顔の代わりに来てもらったのだから、次はないぞ」
「そないなことをお言いなさらず、これからもどうぞご贔屓にしておくれやす」
 みつ女は再び頭を下げた。そして顔を上げ、ふっと横の残り肴のある膳に目をやると、
「あら、蠅が……」
 と頓狂な声を出した。と同時に膳の上で両手をせわしく打ち鳴らした。それまでの優雅な動きに比べ、まるで犬を追い払うような仕草に、訥言はすっかり興を削がれてしまった。
「用事を思い出したから帰る」
 訥言が立ち上がると、みつ女が腰にすがりついてきた。
「後生どすからお帰りにならんといて。お客はんを怒らせたとなりましたら、うちの立場があらしまへん」
 娘の柔らかな手が訥言を思い留まらせた。
 わたくしのお酌でまずは一献とみつ女はちろりを取り上げたが、中身がない。それで女中を呼んで酒を持ってこさせ、訥言の杯に注いだ。
 醒めかけていた体に新たに酒が入って、再び気持ちがよくなってきた。自分の杯を渡し、みつ女にも酒を注いでやった。みつ女はそれをくっと呑み干した。
「お客様はお坊様どすか」
 杯を置くと、みつ女が聞いてきた。
「昔は坊主をしておったが、今はあれだ」
 訥言は少し離れた所に敷いてある毛氈を指差した。店の用意してくれた硯と筆入れが見える。みつ女は筆で書く真似をして、
「歌詠みの方どすか」
「そうではない。絵師だ」
「あら、うれしおす。うちも、絵が大好きでおますの」
「ほう、そうか」
「それで先生はどういった絵をお描きどすか。四条の先生方と同じどすか。それとも浮世絵とか……」
 訥言はいささかむっとしたが、顔には出さない。
「わしは田中訥言と言ってな、土佐の絵師だ。禁裏にもわしの絵があるぞ」
 そう言うと、みつ女ははっとした顔をし、両手をついて深々と頭を下げた。
「知らぬこととは言え、えらいご無礼をいたしました。どうぞ許しておくれやす」
 その恐縮の仕方は娘が絵に詳しいことの証しだ。
「よい、よい。こんな風体で坊主頭では、誰も土佐だとは思わぬのが当然だ」
 それでもみつ女が頭を上げないので、訥言は優しく彼女の肩に触れた。
「どうだ。そちの姿を描いて見せようか」
 みつ女は顔を上げると、「滅相もあらしまへん」と手を振った。
「うん、その姿が面白い」
 訥言はみつ女を毛氈の前に座らせ、燭台の灯りが綺麗に照らすように位置を変えた。そして毛氈に坐ると、残っていた美濃紙を目の前に置き、墨を擦って筆を取った。
 みつ女に手を振るように言い、その姿をじっと見ていた訥言は、筆を下ろすと一気に描き上げた。
「どうだ」
 訥言が出来上がった絵をみつ女に渡した。
「先生、すごい」
 みつ女は絵に見入っている。訥言はその姿を今度は浮世絵の大首絵のように描いて見せた。それもみつ女を喜ばせた。
「こんな絵、うちにも描けますやろか」
「画才があって修練次第では描けるようになる」
「ちょっとうちにも描かせて下さいまし」
「彩管を取ったことがあるのか」
「ほんの戯れに幾度か……」
 みつ女は帯を解き、腰紐を外すと着物を脱いだ。緋色の長襦袢姿になり、腰紐を襷掛けにして袖が垂れてこないようにした。
 その姿で毛氈の上に坐ると、訥言の描いた絵を横に置いて写し始めた。しかし筆捌きを学んでいない者にとっては、さっと描かれた絵を臨写するのはかなり難しい。
 みつ女は筆を戻して同じ所をなぞったり、速く動かす所を慎重に描いたりして苦労していたが、時折おやっと思わせる線を描いて訥言を驚かせた。
「ちょっと筆捌きを伝授してやろう」
 そう言うと、訥言はみつ女の後ろに回り、筆を握っている上から手を覆うようにつかんで、新しい美濃紙に線を引いた。手首の返し方、強弱の付け方、細い線太い線……。始めは鬢付け油が強く匂ったが、次第にそれは気にならなくなり、汗混じりの娘の匂いが鼻腔を打った。体の密着度合いがまるで褥の中のように感じられて、訥言は思わずどきりとした。
 手を離し、脇から運筆を見る。少し教えただけなのにもう筆使いを自分のものにしている。なかなか筋がいい。
 みつ女は一心不乱に筆を動かしている。燭台の灯りに照らされたその横顔がはっとするほど美しい。自分から娼妓を褥に誘うのは矜持が許さないので、訥言はみつ女が絵を描くのに飽きるまで、その様子を見守り続けた。

 訥言は島原での馴染みを夕顔からみつ女に替えた。今までより頻繁に、それでも訥言の収入では七日に一度くらいが限度だった。その都度写生道具を携えていき、褥に入る前に絵の手解きをした。外出自由の身であれば弟子として通わせるのだが、島原から出られないのでそうはいかない。
「年期が明けたら毎日でも先生の許に通い、思い存分絵を描きとうございます」と言って、訥言を喜ばせた。しかし、それまであと五年もある。
 みつ女の画才が並ではないと知るにつけ、訥言は彼女を側に置いておきたいと思うようになった。谷文晁の妻は彼に見出されて一角の絵師になったではないか。みつ女がそうならないと誰が言えようか。訥言はみつ女に箕帚(きそう)を執らそうかと本気で考えた。
 それにはみつ女を身請けしなければならない。代金は百両。島原通いを止め、一年間売れる絵を描くことに専念すればできない金額ではない。それとも借金をして、ただちに身請けするべきか。
 訥言は伴蒿蹊(ばんこうけい)の許に相談に行った。借金ができるならば身請けを考えてもいいと思っていた。蒿蹊は訥言の話を聞き、百両は大金なので本家と相談して決めなければならないと応えた。
 数日後、蒿蹊に呼ばれて屋敷に行くと、「あの女は止めた方がいい」といきなり言われた。
「あの女には心に決めた男がおるそうじゃ」
「誰がそんなことを……」
「知らぬは、訥言、おぬしだけだぞ。それに身請金を倍額払ってでもと言っている大店の旦那もいるらしい。あの辺りの女将に聞いて回ったが、どうやら本当のようじゃ。店では逃亡を恐れてかなり警戒しているようじゃのう」
 訥言には信じがたい話だった。逢っている時、そんな素振りは微塵も見せなかったからだ。もっとも、それは娼妓という商売上、当たり前のことだとはいえたが。
 翌日、訥言は島原に行ったが、先約があってみつ女には逢えず、次の日出直した。
「先生、今回はお早い御目見得で」と言いながら、みつ女が部屋に入ってきた。彼女を目の前に坐らせ、訥言は単刀直入に「みつ、お前には心に決めた男がおるそうだな」と聞いた。
 みつ女は一瞬目を見開いたが、すぐに口元に手を当てて笑い出した。
「先生、いきなり何をお言いやすかと思うたら、そんなこと。うちは遊女でございますえ。心に決めたとお客に思わせるのが仕事でございます」
「ということは、単なる噂だと……」
「もちろんでございます。今まで書いた起請文の枚数など数知れず。うちが一等好きなのは先生でございます」
 そう言いながら、みつ女は訥言の手を両手で握ってきた。演技だとは思いながらも訥言はうれしくなり、身請けしようと考えていたことを話した。
「うれしおす」とみつ女は抱きついてきた。白粉の匂いが訥言を包み込んだ。
「先生と一緒になれば、毎日絵が描けるんどすさかい、それだけで涙が出て参ります」
 しかしすぐに体を離すと、ふっと溜息をついた。
「そやけど、今ではもう無理。倍額出すというお客が現れたんどすよって」
「それは本当か」
「ええ。九条にある三国屋という材木問屋の旦那さんどす。今のところ話だけ通してあって、お金の工面はまだどすけど……」
 材木問屋と対抗するのは、一介の絵師ではとうてい無理である。
「九条ならわしの家からも近い。身請けされたら通ってくることもできるではないか」
「そうどすわ」みつ女の顔が明るくなった。「先生のお弟子さんになって通えばええんどすな。そうしたらうちも絵師になれますやろか」
「なれる。わしが保証しよう」
「うれしおす。絵師になるのがうちの子供の頃からの夢やったんどすえ」
 みつ女は、お稽古、お稽古と言って、訥言の周りを見た。しかし生憎、今日は話をするだけのつもりで来たので、道具を持って来ていない。みつ女は店に硯と筆を持ってこさせ、毛氈を敷いた。そしてその上に膝を折って坐ると、三つ指をついて頭を下げた。
「うちを今日から先生の正式な弟子にさせていただきとうございます」
 その夜、みつ女はなかなか筆を置こうとはしなかった。訥言の指導も熱を帯び、燭台のろうそくを替えること、数度に及んだ。

 それから七日後の夕方、訥言は写生道具を携えて島原の大門をくぐった。軒先に吊された飾り灯籠に火が入り、通りはほの明るく照らされている。そぞろ歩きをする町人たちに混じって馴染みの店に急いでいた訥言は、四辻で横から走ってきた数人の男たちとぶつかりそうになった。
「先生!」
 そのうちの一人が大声を出した。いつもみつ女に付き従っている男衆である。目が血走っている。
「みつ女、見かけはりませんでしたか」
「いや、今来たところだから。みつ、どうかしたのか」
「消えてもうたんでさあ」
 訥言はどきりとした。まさかと思う。みつ女が足抜けなどすることがあるのか。
 男衆たちは足音を立てて、通りを駆けていった。
 訥言は落ち着かない気持ちのまま、馴染みの揚屋に登楼して部屋に入った。酒肴を頼み、一人で酒を呑みながら、みつ女を待った。何事もなく彼女が現れるのを願った。
 しかし半時が過ぎても、みつ女は姿を見せない。訥言は酒を追加したが、少しも酔いが回ってこない。
 さらに半時が経った頃、女将がやって来た。
「先生、堪忍どすえ。みつ女はん、先約が入ってしもうて。替わりに別の娘(こ)をお呼びしますさかいに」
 訥言はその申し出を断り、勘定を払って揚屋を出た。向かう先は、みつ女を抱えている井桁屋である。
 すっかり暗くなり、釣灯籠の灯りが輝きを増した通りをしばらく歩くと、丸に井の字の入った灯籠が見えてきた。格子柵の手前に出入り口があり、引き戸が開いていて中の灯りが漏れている。
 訥言は屋号の入った暖簾をかき分けて井桁屋の中に足を踏み入れた。
 帳場には主人と女将がおり、三和土にいる三人の男衆と何やら声高に話していた。入っていった訥言を見て、女将が近づいてきた。畳敷きの端に膝をつき、小さく頭を下げる。
「先生、すんまへん。すぐに替わりの娘、用意しますさかい」
「みつ女、足抜けしたのか」
 女将は口に二本の指を当て、顔をしかめて見せた。
「滅相なこと、言わはったらあきまへん」
 訥言は腰を屈め、男衆たちに背を向けて、女将の耳元に口を近づけた。
「みつ女はひょっとしたらわしのところに寄るかもしれんから、その時は戻るように説得するつもりでいる。それでもし説得に応じたら、今度のことはなかったことにしてくれんかな」
 女将は少し間を置いてから、
「分かりました。よろしおす。先生が力を貸してくれはったら、そのようにさせてもらいます」
 訥言はみつ女が戻っても折檻を加えぬよう念を押してから井桁屋を出た。
 それから数日間は、みつ女が姿を現すのではないかと絵筆を握っても模写に集中できなかった。風が戸を鳴らしても、ひょっとしたら彼女ではないかと表に出て確かめる始末だった。
 いよいよみつ女が現れないと分かると、居ても立ってもいられなくなり、井桁屋に足を運んだ。
 暖簾をくぐると、帳場の奥に坐って書き物をしていた女将が立ち上がって、急ぎ足で近づいてきた。
「先生、お気を使わせてすんまへんどした。あの娘(こ)、あかんようになってしもうて……」
「………?」
「昨日、大津のお役人から知らせがあって、あの娘、心中したんどす。御殿浜ちゅう琵琶湖の畔で見つかったんだそうどす。男はんと手足を結んだ姿で。うちの旦那が早駕籠で検分に行きましたんえ」
 訥言は何か言おうとするが、言葉が出てこない。
「お役人が言わはるには、膳(ぜ)所(ぜ)城の近くから身投げして、それが流れて浜に着いたんちゃうかということでした。そやさかい、ここを出てすぐに男と待ち合わせ、身投げしたんとちゃいますやろか」
 女将は憮然とした顔をした。
「もうちょっとで身請けされるところやったのに、あほなことして」
 また別の娘を贔屓(ひいき)にしておくれやすという女将の声を背に、訥言は足取りも重く店を出た。
 三日ほど経って書状が届いた。井桁屋の娼妓からのもので、「みつ女姉さんから、私にもしものことがあったら、この絵を田中先生の許に届けてほしいと頼まれていたんどす」とあり、折り畳まれた紙が同封されていた。
 広げると全懐紙大の鳥の子紙に、空を飛ぶ二羽の雁と地上でそれを見上げる小さな人物が描かれていた。背景に月と霞みを配し、淡彩で仕上げてあった。絵の静けさが心に染みた。
 右上に賛があり、「かりそめに ふでとるわれのてをひかむ ひとこひしきといはましものを」と流麗な字で書かれてあった。
 訥言はその賛を何度も読み、落涙した。
 翌日、訥言は琵琶湖畔に向かった。心中死体は埋葬されず経も読まれないと聞いていたので、自分の手で懇ろに葬ってやることができたらという気持ちだった。
 御殿浜の集落で道行く村人に心中のことを聞いてみたら、さすがに大事件であったらしく、二人の上がった浜まで案内して、その場所を教えてくれた。ただその死体がどこに運ばれたかは知らなかった。
 冬の琵琶湖は灰色の雲に覆われており、その色を映した鈍色の湖面はひっそりと静まりかえっていた。古ぼけた小舟が一艘、陸揚げされているだけの寂しい浜だった。
 近くのいくつかの寺に足を運び亡骸が運ばれていないか尋ねてみたが、どの寺の住職も首を振るばかりだった。
 訥言は浜に戻り、懐から取り出したみつ女の絵を湖に流した。折から吹いてきた冷たい風に絵はゆっくりと湖面を漂っていく。
 訥言は目を閉じ、両手を合わせて南無妙法蓮華経を唱え続けた。

 それ以後、訥言は二度と島原に足を踏み入れることはなかった。

 文化三年(一八〇六)二月、土佐光貞が六十九歳で逝去した。この時光孚(みつざね)は二十七歳。本家の土佐光時はすでに四十四歳で、叔父の光貞に代わって絵所を引き受け、土佐派を率いて行くにはちょうどいい年齢だった。
 となると分家はどうなるのか。禁裏の御用をはじめ、各所からの依頼画を調整し、門人たちを束ねていくのに、光孚では力不足なのは明らかだった。土佐家に入門して二十年、四十歳の男盛りで画力も抜きん出た訥言が光孚の後見の役割を担うのは必然といえた。
 光貞が死の間際、「訥言、後を頼む」と言った言葉を訥言は噛みしめていた。自分に還俗を勧め、大和絵の絵師の道を拓いてくれた師に報いるには、光孚を盛り立てていくしかないと覚悟を決めた。
 ただ、自分が土佐家に留まると、却って光孚の独り立ちを阻害すると考え、一家を構えつつ後見の任に当たることにした。
 その時、土佐門下にいた二十八歳の渡辺清が最初の弟子となった。渡辺清は生まれが訥言と同郷の名古屋で、十四歳の頃から吉川英信やその子一渓の教えを受けていたが、土佐派の画風に憧れ、同郷の訥言を頼って上洛してきた。訥言の紹介で光貞門下に入り研鑽を積んでおり、訥言は画才に優れている彼を何くれとなく面倒を見てきたのだった。
 一家を構えると、訥言の画名の高さに惹かれて入門を希望する者が絶えなかった。しかし、応挙のように来る者拒まずという方針は取らず、自分の目から見て見込みのありそうな者しか弟子にしなかった。畢竟、弟子の数はごく少数に留まり、月々の収入を支えることはほとんどなかった。渡辺清が、もう少し緩やかにして門人を増やしたらと、それとなく進言しても、訥言は頑として受け付けなかった。
 そんな折、一人の少年が祖父に連れられてやって来た。名は浮田一(いっけい)といい、まだ十三歳だった。真っ直ぐこちらの目を見てくるその少年を訥言はひと目で気に入った。少々画力が落ちようとも、この子なら弟子にしようかと思ったが、すぐに、いやいやそんなことをしたら今まで門前払いにした入門希望者に面目が立たないと思い直した。
 祖父が言うには、一宸フ両親は彼を学者にしようとしているが、彼はどうしても絵師になりたいということで、自分が付き添いとして来たということだった。
 祖父は袂から折り畳まれた紙切れを取り出し、「これを見ていただきたい」と広げようとした。しかし訥言はそれを制した。
「わたくしの所では、実際に絵を描いてもらって入門を決めますゆえ」
 二人を画室に案内すると、一宸いつも自分が仕事をしている席に坐らせ、その前に半紙を置いた。粉本をぱらぱらとめくり、何を写させようかと考えていた訥言は、牡丹の白描画のところで手を止めた。そう言えば、幽汀先生のところに最初に行った時、牡丹を臨写したことを思い出した。
「これを写してみなさい」と粉本を半紙の横に置いた。
「はい」
 一宸ヘ姿勢を正し、ゆっくりと墨を擦った。それから筆箱の十数本ある筆の中から、何本かの筆先を確かめ、一本の細筆を手に取った。粉本をじっと見る。数呼吸の後、筆先に墨を含ませると、一宸ヘ筆を下ろした。曲がりくねった花弁を描き終えると、後は一気に筆を走らせた。
 一宸フ後ろに立ってその様子を見ていた訥言は、こいつは本物だと興奮を覚えた。今までの入門希望者とは比べものにならない。ひょっとしたら自分の若い時よりも上かもしれない。清よりもおそらく才能があるだろう。
 一宸ヘただちに入門を許され、ほぼ毎日のように訥言の許に通ってくるようになった。
 ある日、一宸フ模写している様子を眺めていた訥言は、騎馬武者絵の粉本の端に、黒い小さな染みを見つけた。墨が飛んだのかと指で触ろうとすると染みが消えてしまう。あれと思いながら、視線を一宸フ手元に戻すと、再び粉本に染みが現れた。指先を近づけるが、またしても染みはかき消えてしまう。
「先生、どうされたのですか」
 一宸ェ顔を上げた。
「この粉本、汚れておらぬか」
「いいえ」
 訥言はまさかと思った。自分の目のせいなのか。
 一宸フ側に置いてある半紙を手に取ると、訥言はその白い紙をじっと見た。すると右側の視界の端に、先ほどと同様の黒い染みが浮き上がった。片手で右目を隠すと、消える。左目を隠すと、はっきりとした染みになった。何度繰り返しても、同じである。
「先生、目がどうかされたのですか」
「いや、何でもない」
 訥言は半紙を置き、しっかり勉強するようにと一宸ノ言ってから、自分の部屋に戻った。
 座椅子にもたれながら、一体いつごろからこの症状が現れていたのかと訥言は考えた。ずっと以前から現れていて、今日気づいたということならば、症状の進行はゆっくりということになる。しかし、そうではないとすると……。
 背筋に冷たいものが走った。思わず、座椅子から背中を離す。今まで、目を悪くしたため絵筆を取れなくなった絵師を何人か見てきている。そのうちの一人に自分が入ってしまうのか。これといった絵も残せずに画道を絶たれてしまうのか。だが、治療をしてよくなったという絵師の話も聞いたことがある。確か応挙もよくなったはず。
 その日のうちに、訥言は知り合いの町医者に相談に行き、そこで紹介してもらった眼科専門の医者の許に通い始めた。
 医者は、この病の進行を遅くするためには目を酷使せず休めることだと忠告してくれたが、それは訥言にとって絵を描くなというのに等しかった。医者の忠告は聞かなかったが、治療は毎日欠かさず、半里の道を歩いて通った。治療といっても内服と目洗いだけで、一ヶ月続けても症状の改善は見られなかった。黒い部分が少しでも小さくなっていることが実感できれば、治療する張り合いもあるのだが、そうではないので次第に嫌になってきた。目に御利益のある神社にも通い、暗い部分があるという意味の晦存(かいそん)や求明という画号も使って、何とか良くなることを願ったが、無駄だった。それでもさらにもう一ヶ月治療を続けたが、それが限界だった。ただ治療を始める前と黒い部分の大きさがほとんど変わらないのが救いだった。
 進行がゆっくりしている、そのことが訥言に一息つく余裕を与えた。盲になった時はなった時だ、その時は死ぬまでだと覚悟を決めることで、不安を追っ払った。
 それから半年後、一宸フ次に入門を許した石翠(せきすい)が目を悪くした。一宸謔閧熄\歳ほど年上で画才は並だったが、熱心さに負けて入門を許した男だった。目がかすんで、細かいところが見えないと言う。
 大して絵の修行もしないうちに目を悪くするとは、運の悪い男よと思いながら、訥言は自分の通った目医者に診てもらうように言いつけた。
 石翠が憔悴した顔で画室に姿を現した時、訥言は平机に向かって餓鬼草子の模写をしていた。向き直って石翠と対峙すると、
「医者はどう申しておった」
「内障らしいです。目を酷使しないようにと言われました」
「そうか。それでお前はどうするつもりだ」
「どうしたらよろしいでしょうか」
「絵師になりたいか」
「はい」
「そうしたら、今まで通り勉強することだ」
「これ以上悪くなれば、いずれ盲(めしい)になると言われました」
「何を迷っておる。絵を描き続けて盲になるなら本望ではないか」
「盲になれば、絵師として生きていけません」
「その時は、死ねばいいのだ。その覚悟なくして、どうして絵師を志すのか」
 石翠の顔が歪んでいる。
「迷っておるようなら、さっさとやめてしまえ。お前には所詮その程度の才しかないのだ」
 石翠は唇を噛んで立ち上がると、画室を出て行った。入れ替わるように一宸ェ入ってきた。
「先生、石翠様をお止めしなくてもいいのですか」
「放っておけ。盲になるのが恐くて絵師になるのを諦めるくらいなら、たとえ続けてもろくな絵師にしかなれまい。やめた方がむしろあいつのためだ」
 一宸ヘ何か言おうとしたが、すぐに口をつぐんで硬い表情を見せた。
 石翠はそれ以後姿を見せなかった。

 文化五年(一八〇八)、訥言は松平定信から宇治平等院鳳凰堂の絵戸及び壁画の模写を依頼された。使いの者の持ってきた書状には、壁扉(へきひ)画の剥落が著しく、こういう状態の絵を模写できるのは世の中広しといえども田中訥言殿しかいないというようなことが書かれてあった。
 余りの持ち上げように訥言は苦笑を禁じ得なかった。おそらく谷文晁が辞退したため、自分にお鉢が回ってきたのだろうと推察した。
 早速、翌日、渡辺清を連れて宇治まで行き、鳳凰堂の中に入ってみた。格子戸を外し、三方の大扉を開けてもらったが、やはり堂内は狭くて暗い。十尺を超える阿弥陀如来坐像と光背の後ろに隠れている壁画はさらに暗い所にある。雨の日には壁画の模写はできないと考えた方がいいだろう。期限が設けられていないからいいものの、果たして本当に完成することなどできるのだろうかという不安がもたげてくる。
「先生、少し暗すぎるのではありませんか」
 と心配そうに清が言う。
「仕方あるまい。いざとなったら、鏡を使って手許だけでも明るくできるだろう」
 壁画と扉画は全部で十五面。大きいもので高さ十尺ほどある。何度か兵火をくぐってきたせいか、破損部分を補修した所もあるし、年代を経て摩耗、剥落した部分も数多くある。さらには落書きも所々に見受けられる。
 それでも観無量寿経から取材した九品来迎図(くほんらいこうず)には平安の頃描かれた大和絵の力強さが感じられ、訥言は粛然となった。
 大判の写し紙や脚立の手配に手間取り、実際に模写に取りかかったのは一ヵ月も後だった。その間に、渡辺清が病母の看病をするため名古屋に帰ってしまったので、訥言は十四歳になった一宸助手に起用することにした。
 絵を覆う一枚の大きな紙の上辺を貼り付け、手で押さえると密着して原画の線が見える。その線をよく観察した後、わずかに紙を離して薄い墨で線をなぞるように引く。色も同様の方法で塗っていく。手の届く所は立ってできるが、上の方は両側に立てた脚立に太い木板を通し、そこに尻を載せて模写をする。
 平机の前に坐って平らな絵巻物を模写するのと違って、垂直の、しかも凹凸のある壁扉画の暗い中での模写は何倍も疲れるし、集中力が続かない。
 顔を壁に近づけて半時も描いていると、目が熱を帯び、視界が霞んでくる。それで一宸フ用意した濡れ手拭いを瞼に当て、しばらくしたらまた模写に取りかかる。それの繰り返しだった。
 一宸ェ訥言の目を心配して「私が代わりましょうか」と申し出ても、一筆たりとも任せなかった。 
 日の光の弱い冬や春の間は大扉を開いて堂の外で扉絵を模写することにした。それでも作業は遅々として進まなかったが、半年経った頃には、何とか十五面中十面の扉絵の模写が完成した。夏になって日差しが強くなり、堂内も以前より明るくなって仕事がしやすくなったが、暑さが訥言の体力を奪い、これまでの疲労の蓄積と相まって茣蓙(ござ)に仰臥する時間が多くなった。
 そんなある日、横になって一宸ノ団扇であおいでもらっていると、「田中先生はおいででございますか」と大きな声が聞こえてきた。一宸ェ立って堂の外に出て行く。
 少し経って戻ってくると、一宸ヘ「小林香雪という方がお出でです。先生に是非お目にかかりたいとおっしゃっておられますが」と告げた。
 目にのせた濡れ手拭いを取り、訥言は上半身を起こした。はて、定信侯が進み具合を確かめるために家来でも寄越したのかと思いながら外に出てみると、紺の頭巾を被り、白い顎髭を生やした十徳姿の男が立っていた。小刀を差しており、一見して医者だと分かる。
「わたくしが田中訥言ですが」
「これは、これは、田中先生でいらっしゃいますか。わたくしは尾張藩の典医で小林香雪と申す者でございます。お目にかかれて光栄に存じます」
 小さく畳んだ手拭いで額の汗を抑えつつ、香雪は深々と頭を下げた。
「して、わたくしに何用でございますか」
「実はわたくし、この先の放生院にあります断碑を十数年前に再建した者でございます。この度姫の嫁入りで京に随行して参りましたが、碑がどうなっているのか懐かしくて見に参りましたところ、鳳凰堂壁画の模写をしている絵師がおられると聞きまして、これは是非見学させていただこうと思いまして……」
 宇治橋断碑というのは千年以上前に僧の道登が宇治橋を架けた由来を記した古碑であり、長い間行方不明になっていたのが、寛政の時に上部の三分の一が見つかって、下部の三分の二を古文書の文献に従って補刻したものである。鳳凰堂の壁扉画を模写する前に断碑を見た訥言は、碑の裏に陰刻された再建の由来を読み、その尚古の志に大いに心を揺さぶられたものだった。
「あなた様でしたか、下の部分を継ぎ足して再建されたのは……」
「わたくしの他、四名の同志で行いました。書を嗜んでおりますゆえ、放っておくことができませんで……」
 訥言は喜んで香雪を堂内に案内した。外よりも幾分ひんやりとしている。一宸ェ濡れ手拭いを絞って差し出してきたが、訥言はそれを受け取らず、「こちらの方が私の模写の様子をご覧になりたいとおっしゃっている。すぐに用意しなさい」と命じた。
 作業は左の壁画の上部にかかっており、訥言は脚立に上って差し渡してある木板に腰を下ろした。尻を滑らせ、やりかけの部分に体を持ってくる。下から一宸ェ硯箱と筆箱を上げてくる。それを受け取って横に置き、細筆に薄い墨をつけて訥言は模写を開始した。
 作業を始めると香雪が見ていることなどすぐに忘れてしまって、線を写すことに没頭した。
 手の届く範囲の輪郭を写し取ると、次は着色である。
「一宦A緑青の小三番を用意しなさい」
 瞼の上から目を揉みながら訥言は声を出した。しかしなかなか絵皿が上がってこない。下を見ると、一宸ェ香雪と何やら話している。
「一宦vと訥言は大声を出した。
「緑青の小三番だ」
 訥言が怒鳴ると、一宸ヘ慌てた様子で絵具を用意する。
 上がってきた絵皿の緑青を慎重に塗ってから、訥言は足場から下りた。
「いやあ、絵の模写というのは大変な作業でございますな。わたくし、感服いたしました」
「何の、ここでの仕事は特別でございますよ。普通は机の前に坐ってする仕事ですからな」
「ところで、今、一專aから伺ったのですが、先生も尾張ご出身とのこと。こんなところで同郷の士と巡り会えるとは思ってもみませんでした」
「なに、物心のつく前に出ましたので、尾張出身と申しましても……」
 その時訥言は相手が医者であることを思い出した。
「実はわたくし、数年前から右目の一部が見えにくくなっておりまして、医者にかかったのですが、とんとよくならず放置しております。このままにしておいて大丈夫なものかどうか心配しております」
「わたくしは本道(内科)ゆえ、目のことは分かりませんが、おそらく使い過ぎによる内障でしょう。尾張に明眼院という眼科の治療を専門にしている寺がありますので、一度そこへ行かれたら如何でしょう。円山応挙がそこで治療をしてよくなったという話も聞いていますし……」
「やはり明眼院ですか」
「おそらく日本一でしょう。よろしければいつでも紹介状をお書きしますよ」
「それはありがたい。その節は是非よろしくお願いいたします」
 しかし訥言は積極的に目の治療をしようとはしなかった。症状の進行が気づかないくらいゆっくりだったこともあるし、何より仕事が立て込んでいたからだった。

 壁扉画の模写が完成したのは、年が明けてすぐのことだった。ほぼ一年かかったことになる。
 訥言はその熱の冷めやらぬうちに、勝絵の模写を始めた。勝絵というのは、男の陽物くらべと放屁合戦をそれぞれ一巻ずつ描いた絵巻物で、元は東寺金勝院の所蔵であったものが、借金の形に冨小路西側の白粉屋又兵衛の許に流れたのだ。白粉屋でそれを見せてもらった訥言は、鳥羽僧正の「鳥獣戯画」にも匹敵する出来映えに驚嘆した。群衆ひとり一人の表情がどれも違うように描き分けられており、人間の滑稽な動きも筆勢鋭く描かれている。
 訥言は又兵衛に頼み込み、鳳凰堂の模写の疲れも忘れて日参した。平等院の仕事に比べれば、平机の前での作業は何ほどのものでもなかった。腰に弁当をぶら下げて嬉々として白粉屋に向かう訥言の後を、一宸ェついて歩いた。訥言の体、特に目の具合を心配した一宸ェ、しばらくお休み下さいませと進言しても、訥言は全く聞かなかった。古画との出会いは一期一会というのが訥言の口癖だった。

    六

翌文化七年(一八一〇)の秋、名古屋の渡辺清から書状が届いた。清は京に帰ってくることなく故郷で絵師として一家を構えていた。
 書状は、彼の有力な後援者である大脇佐兵衛という豪商が是非とも訥言にお会いしたいと願っているので、一度こちらに遊びに来ていただけないかというものだった。
 弟子のこれからの画業のためには、後援者によろしく頼まなければなるまいと訥言は即座に行くことを決めた。
 返事を書いて旅装を整え、十日後には長者町にある清の家の前に立っていた。門構えのしっかりした一軒家である。
 玄関を入って訪うと、女中に続いて清が現れた。
「先生、お久しゅうございます。ようこそお出で下さいました」
 二年半ぶりに見る清は体に肉が付いたせいか、絵師としての自信に溢れているように見えた。
「なかなか立派な家ではないか」
「いえいえ、この家は両親が建てたものでして、私などまだまだ……」
 奥の間に寝ている清の母親に挨拶してから、居間で彼の画業の近況を聞いた。尾張には名古屋城の障壁画を担当する狩野派や南画の絵師はいても、大和絵を描く絵師はいないので、「私のような絵師でも仕事がございます」と清は照れながら言った。
「富豪たちは茶道を好み、文雅を愛する風流人たることを自負しておりますゆえ、先生の御作品は歓迎されること請け合いでございます」
「それでは、お主の仕事を取ることになりはせぬか」
「私はまだ修行の身。先生のお仕事を傍で見られるだけで幸せでございます」
 その晩は清の家で一泊し、翌日、杉野町にある大脇佐兵衛の屋敷に行った。大脇家は屋号を桔梗屋といって、質屋と味噌、溜まりの醸造を手がけており、町方御役所御用達の商人として尾張藩主の御目見も許されている豪商だった。
 その敷地は町内の一郭を占めていた。瓦屋根の門の両側には白壁が続いており、ちょっとした小大名の邸のようだ。
 横木戸が開いており、そこから清の後に続いて中に入った。飛び石の右側には前栽があり、左側には生け垣を通して池のある広い庭が見えた。
 玄関には、南天と若竹を描いた衝立が置いてあり、清という一字だけの落款が入っている。
 訥言はそれをつくづくと眺めた。
「上出来」と言葉をかけると、神妙にしていた清は「ありがとうございます」と笑顔になった。
 玄関に出てきた女中に案内を請うと、すぐに奥から茶色の小袖に藍色の羽織をまとった年老いた男が現れた。
「これはこれは先生方。お待ちしておりました」
 男は腰を低くして二人を迎え入れた。
 通された客間は十二畳もある書院造りで、床の間には掛軸が掛かっている。墨一色で竹と一羽の雀が描かれており、落款から応挙の作であることが知れた。
「なかなかいい軸をお持ちですな」
 勧められて上座に坐るなり、訥言は言った。
「先代が揮毫してもらったものでございます。先生が応挙殿と同門であると伺いましたので、倉から引っ張り出して参りましたんや」
 清には同門であったことは話したが、俗工と自分が見なしていることは話していない。そのことを伝えていたら、ここには応挙の絵は掛かっていないだろう。
 女中が茶と茶菓子を持って入ってき、それぞれの前に置いた。
 訥言は煎茶を飲みながら、応挙の思い出話を語った。出会いからその風貌、一緒に写生をしたこと、真写という考え方等々。さんざん誉めておいて、最後に北野天満宮での道真雷神図に触れて、有職故実に疎い応挙を一刺しし、「結局応挙殿には大和絵が描けませんでしたな」と締めくくった。最初は頷きながら聞いていた佐兵衛だったが、最後には困ったような表情を見せた。
 突然、庭の方から女の悲鳴が上がった。見ると、竹箒を持った女中が逃げてくる。その後から男の子が何かをつかんだ両手を前に差し出して追いかけてくる。
「これ、お客様の前だで」
 佐兵衛が一喝した。その声で、女中と男の子は立ち止まった。
 その時、男の子の手の中から何かが飛び出した。どうやら大きな蝦蟇(がまがえる)のようだ。女中がまた悲鳴を上げた。そして竹箒を放り出すと濡れ縁にあわてて上がり、奥に引っ込んでしまった。
 取り残された男の子は下に落ちた蝦蟇を捕まえようとしている。
 訥言は立ち上がって、その様子を見に行った。蝦蟇は沓脱石の端にいて、ぎょろりと目を剥いている。男の子の手が伸びてきて触れるか触れないかという瞬間、蝦蟇はひと跳びして床下に逃げ込んでしまった。
 訥言の横で見ていた佐兵衛が「徳太郎、もういいからあっちに行ってなさい」と怒った声で言うと、男の子は舌をちょろっと出して走り去った。
「申し訳ございません。孫は近頃悪戯ざかりでございまして……」
 訥言は蝦蟇の姿に感興を覚えた。
「ご主人、何か書くものはございませぬか」
「と申しますと……」
「筆と硯と紙をご用意下され。ちょっと蝦蟇の絵を描いてみたいと思いましてな」
 佐兵衛は急いで硯箱と紙を何枚か持って来た。硯箱は鳳凰の金細工を施した漆塗りで、一目見て、高価な物であるのが分かる。紙は半切大の美濃紙である。
 訥言は濡れ縁に正座をすると、何本かある上等な筆の中から、筆先のしっかりした太いものを選んだ。美濃紙を前に置き、硯に水を垂らす。
 訥言は墨を擦りながら、構図を考えていた。子供の手は省略するが、沓脱石は描く。蝦蟇は飛び立つ寸前の姿がいい。
 硯の上で筆のしなり具合を確かめてから、墨をたっぷりつけると、筆を下ろした。顔面は細く、腹から脚にかけては太く一気に描く。後は指先にちょんちょんと筆を入れ、最後に目玉を黒々とした墨で描き入れた。沓脱石はごく薄い墨でひとはけするだけである。その間、ほんの数呼吸だった。
 出来映えを眺めてから訥言は署名だけの落款を入れた。まあまあ自分の思い描いたように描けている。
 清と佐兵衛は言葉もなく蝦蟇の絵を見詰めていた。ようやく口を開いたのは佐兵衛である。
「いやあ、神業ですな。信じられません。絵に魂が宿るというのはこういうことを言うのですやろな。まるで今にも跳ね出しそうな蝦蟇に見えますな。それをほんの一瞬で描くなんて……。佐兵衛、感服いたしました」
 佐兵衛はこの絵を買いたいので画料はいくらかと尋ねたが、訥言は、酔狂で描いたものゆえ画料はいらないと言って、蝦蟇図を佐兵衛に進呈した。佐兵衛は感激して、この絵を掛軸に仕立てて家宝といたしますと述べた。
 その後の作画の依頼では、佐兵衛の口調に熱っぽさがあった。
 訥言は話を聞いた上で、
「わたくしは未だ土佐家の門人でありますゆえ、まずは主の揮毫を仰ぐのが本筋と考えております。それに禁裏の絵所預の落款が入りますと、絵の格もぐんと上がること請け合いですぞ」
 佐兵衛はさらに感激して、願ってもないことと頭を下げた。
 近いうちに光孚(みつざね)を伴って名古屋に来ることを告げて、大脇家を辞した。
 帰り道、清が感に堪えたように、
「久しぶりに先生の筆使いを拝見して、まだまだ自分は未熟だと痛感いたしました」
「鳥羽僧正大先生の『鳥獣戯画』のお陰じゃよ。あれを模写している時、何度も実際の蛙や兎を写生したからな」
 訥言は悪戯っぽく笑ってみせた。
「それにしても『鳥獣戯画』は線描でしょう。先生のお描きになったのは水墨。余程違うと思いますが」
「同じじゃよ。線描も水墨も一気の筆使いというところは共通しておるよ。すべては模写の中にある」
 清は大きく頷いた。
「それにしても先生、光孚様は来ていただけるのでしょうか」
「間違いなく来ます。土佐家も禁裏の仕事だけではその家格を維持していくのは大変でな。それ以外の仕事は四条の連中に食われることが多いし」
「そうなのですか」
「このことは内密に頼むよ」
 そう言って訥言は笑った。
 それから五日間ほど清の案内で名古屋の物見遊山をし、生まれ故郷の清洲(きよす)田中村まで足を伸ばした。
 四十四歳の訥言にとって、ほぼ四十年ぶりの帰郷だった。日蓮宗の寺に預けられたのは二年足らずで、すぐに延暦寺に移ったので、それ以来一度も帰る機会がなかったのだ。
 おぼろげな記憶をたどりながら、訥言は清をつれて田圃の広がる畦道を歩いていった。
 清洲城址を目印にして、大体の方角は分かっていたが、行けども行けどもそれらしい風景には出会わない。一家離散の知らせを受けてからでも、二十年あまり経っているので、すでに家屋はなくなっているのかもしれなかった。
 途中で目についた農家があったので尋ねてみたが、その人たちも飢饉の後に入って来たので分からないという返事だった。ただ、日蓮宗の寺がこの近辺にあるかどうかの質問には、一里ほど西に行った所にあるということだったので、二人はそちらに向かった。
 少し丘になった辺りに、寺を囲む木々が見えてきた。近づくにつれ、見覚えのある景色が現れてきた。次第に急ぎ足になり、寺の門の前に立った時には、まさにここだと胸が震えるのを覚えた。確かに田中村がわが故郷だと言える建物が残っていたのだ。
 門をくぐり、おぼろげに記憶のある本堂をしばらく眺めてから、横に回って庫裡に行った。
 木戸を開け、声を掛ける。
 しばらくして、若い僧侶が姿を現した。
「わたくし、ほんの子供の頃、ここでお世話になっていた者でございます。四十年ぶりにこの地に参りまして、一言ご住職にご挨拶申し上げたいと思っておるのですが」
「お名前は?」
「田中訥言と申します。子供の頃は敏(とし)と呼ばれておりました」
「かしこまりました。しばらくお待ち下さい」
 若僧(にゃくそう)が奥に引っ込んだ。
 訥言は鼻から大きく息を吸った。味噌のせいなのか、独特の塩気のある匂いが訥言を幼児の頃に誘(いざな)った。なぜか泣きたいような気持ちが胸を満たした。
 再び現れた若僧の「どうぞお上がり下さい」という言葉に、二人は草鞋を脱いで堂内に上がった。
 若僧の案内で奥の一室に入ると、白鬚を生やした老僧が座椅子にもたれていた。皺だらけの顔で、どことなく昔の仙海の面影が残っている。
 若僧が老僧の耳元に手を当てて、「覚えておられますか」と大声を出した。
 老僧はじっと訥言を見ると、「いつ頃のことじゃ」としわがれた声を出した。
「四十年前の明和の頃です」
 訥言の返事を若僧が大声で伝えた。
「今はなにをしておる」
「絵師をしております」
 これで思い出してくれるのではと思ったが、老僧はただこちらの顔を見るばかりである。
 訥言は思いついて、若僧に筆と硯と紙を所望した。
 それらが来て墨をすると、訥言は幼い頃を思い出して武者絵を描いた。墨一色でも迫力があり、若僧が感嘆の声を上げた。
 その絵を老僧に手渡すと、始めはじっと眺めていたが、そのうち表情が急に崩れ、涙が目尻の皺を伝わった。
「……敏か」
「さようでございます」
 仙海がゆるゆると手を伸ばしてきた。訥言はにじり寄るとその手を両掌で包み込んだ。
「よう生きておった」
「和尚様のお陰でございます」
 そう言うと、訥言の目にも涙が溢れてきた。
「飢饉がひどうてな、お前の父母を助けてやれなんだ……」
 仙海がまた涙を流した。訥言は握っていた両手を小さく振って、何度も頷いた。
「どこかに落ち着いたら、きっと寺に便りを寄越せよと言うておいたんじゃが、それっきりになってしもうて……。敏のところには何か言うてこなかったか」
 訥言は首を振った。
「やはり、そうか。済まぬことをしたな」
「和尚様、そんなことを仰って下さいますな。叡山に入りました時点で世を捨てたと思っておりますので、父母のことは釈迦牟尼仏にお任せしております」
 それから訥言は、仙海の意に反して還俗し、絵師の道に入ってしまったことを詫びた。仙海は、よいよいというように頷いた。
 いずれまた来名する折があるので、その時は襖絵か何かを描かせてほしいと伝えて、訥言と清は寺を後にした。
「先生、ようございましたな」
 と清が言った。目を赤くしている。
「これでようやく故郷に帰ってきたような気がする」
 訥言は晴れやかな気持ちで帰途についた。

 京に戻ると、光孚(みつざね)の許に内親王から襖絵の依頼が入っており、それを仕上げて光孚が訥言と共に名古屋に行ったのは、年が明けてからだった。
 今度の来遊は作画をしなければならないので短時日には帰ってこれまいと考えて、訥言は一宸土佐家に預けた。その際、一宸ノ、自分の模写した伴大納言絵詞三巻を手渡した。
「本当は本物を見るのが一番いいのだが、今はもうそれも叶うまい。わしが模写した絵巻物の中で、これがおそらく一番の出来だと思うので、眺めれば何かの参考になろう」
 絵巻物の入った桐箱を持つ一宸フ手が小刻みに震えている。
「これをどうしろと……」
「それを手本に描き写すもよし。直接紙を当てて模写するもよし。好きにしなさい」
「こんな大切な物、私が預かるわけには参りません」
 一宸ヘ絵巻物を返そうとした。
「所詮わしが勉強のために模写した物。そちの勉強になるのなら、もって瞑すべしだ」
 そう言って、無理矢理一宸ノ三巻を引き取らせた。
 三月の始め、根雪の溶け始めた東海道を時には駕籠に乗りながら、訥言と光孚は名古屋に向かった。
 清の家に着いたのは夕方で、その晩はそこに泊まり、次の日、清を連れて大脇家を訪れた。床の間には訥言の描いた蝦蟇図の掛軸が掛かっている。
 光孚がその絵に目を留めた。
「訥言、これはお前が描いたのか」
「さようでございます。この前お邪魔した時に酔狂で描いたものでございます」
「席画か」
「まあ、そんなところで……」
 佐兵衛がその時の様子を口を極めてほめちぎった。光孚が困ったようなうれしいような微妙な表情で佐兵衛の話を聞いているのを、訥言は見逃さなかった。
 佐兵衛は下にも置かないもてなし振りで、肴には平目の刺身や鮑の煮物、寄せ豆腐などが並び、酒は伊丹の酒いわゆる丹醸であった。京の甘ったるい酒と違って、淡麗辛口のすっきりとした飲み口で全国的に人気があり、簡単には手に入らない。それを出してくるあたり、桔梗屋の商売の手広さが分かるというものだった。
 途中から岡谷惣助という中年には少し若い男が合流した。物静かで、見た目の若さに似合わない落ち着きが感じられる。岡谷家は六代続く金物商で、傾きかけた家運を惣助が一代で盛り返したのだ。家業の他に新田開発などをして尾張藩の御台所御用も務めていると佐兵衛が紹介しても、この男のどこにそんな力が秘められているのか、訥言にはよく分からないところがあった。
 宴もたけなわになってきた時、佐兵衛が席画を所望してきた。この前の自分のやったことを見ていれば、そんなものは容易いと思われても仕方がないが、この場では少しまずい。
 案の定、光孚は渋い顔をしている。
「佐兵衛殿」と訥言は言った。「席画は本来南画などの水墨を得意とする絵師たちの余興でして、線描着色の土佐の絵とは相容れないのでございますよ」
「でも先生はこの前……」
「わたくしは狩野を学んでおりました頃、水墨も勉強いたしましたゆえ、あんなことをしましたが、それはつい蝦蟇の姿に絵心を動かされたせいでして……」
 佐兵衛は納得のいかない顔をしている。
「そんなことより、土佐家当代の主に何を描いてもらうかをお決めになった方がよろしいかと存じますが」
 訥言のこの言葉で、場が画題の話に切り替わった。
 佐兵衛は来年還暦を迎えるので寿老図を、惣助は商売の神様としても知られている関羽図をそれぞれ依頼した。
 そこへ前掛けをした老人が入って来た。佐兵衛に何やら耳打ちをし、「それでええ」という佐兵衛の返事を聞いて出て行こうとした。
「亀さ、お前も土佐の先生に何ぞ絵を頼んだらどや」
 佐兵衛に言われて、男は、滅相もございませんと激しく手を振った。
「画料のことなら心配せんでもええぞ。記念にわしから進呈するで」
 それでも男はじっと俯いている。
「この男は」と佐兵衛が言った。「長年家に仕えている番頭でして、暖簾分けも求めずにこの歳になるまでよお働いてくれましたんや。来月には店を辞めて隠居になりますんで、何ぞ記念の品でも贈ろうと思っておりましたんやが、ちょうどええ機会やので、どうか先生方、絵を描いていただけませんか」
「名前は何とおっしゃるのかな」と訥言が聞いた。
「亀三郎と申します」と男が答えた。
「かめとは生きているかめのことですかな」
「さようでございます」
「そうしたら、名前にちなんで亀三匹の図ではいかがですかな。それに賛をつけてもらえば長寿を寿(ことほ)ぐ図になりましょう」
「それがええ、それがええ。亀さ、いい物を描いてもらえるな」
 佐兵衛が手を叩いて喜んだ。
 そうやって三枚の絵を光孚が描くことになった。
 佐兵衛は二人を屋敷に泊めて、画室も提供し、そこで描いてもらうことを提案したが、光孚はそういうことを今までしたことがないという理由で固辞した。
「光孚様はまだお若いので、遊びに行く所を見られたくないのでございましょう」と訥言は佐兵衛に耳打ちして、結局訥言一人が大脇家の世話になることになった。
 佐兵衛は少し離れた柏屋という宿屋に光孚の部屋を取り、その滞在費用を全部持つことになった。
 柏屋は川の畔の、周囲を樹木に囲まれた閑静な場所にあった。光孚の部屋は二階で、二室取ってあり、その一つからは夕方の川の流れが見えた。
 訥言はひと渡り部屋の中を見回してから、ここなら長期滞在しても息が詰まることなく作画に専念できると安心した。
「いやあ、屋敷に泊まれと言われた時は心底驚いたぞ」
 隣の部屋に荷物を置いて出てきた光孚がほっとした声を出した。
「佐兵衛殿にはその方が物入りにならずにすみましたものを」
「大尽だからいいだろう。ここなら、お前が全部描いても誰にも分からないから、俺は楽が出来る」
「絵所預の肩書きが泣きますぞ」
「冗談ではないか。でも関羽とか寿老図とか、粉本がなければ、そう簡単には描けまい」
「ですからそれはわたくしが下図を描きますので、若は亀の絵を……」
「咄嗟にあんな画題を思いつくなど、さすがに亀の甲ならぬ年の功だな」
そう言って光孚は声を出さずに笑った。
「若ももっと粉本の臨写に精を出して、席画であろうと何であろうと、さっと描けるようにしなくては」
 光孚はあらぬ方向に目をやっている。
「こんな子供の頃は」と訥言は手を胸の辺りでひらひらさせた。「若もわたくしに倣って粉本を書き写したり、庭の小鳥を写生したり、勉強熱心でございましたのに、いつの間にか先代と同じようにおなりで……」
「名古屋くんだりまで来て、説教はもうよいではないか。言っておくが、禁裏の絵は町絵師の描くものとは違って様式さえ整っておれば誰も文句を言わないのだ。父上が粉本を守れと口を酸っぱくして言い続けたのは、そういうことだ」
 そんな考え方だから土佐の描く絵は力を失い、古画に負けるのだ。そう言いたかったが、今ここで光孚と喧嘩をしても何の益にもならないので訥言は口を閉ざした。
 次の日から早速作画に取りかかった。
 亀の絵は光孚も書き慣れているので、下図から着色まですべて一人で行い、冷泉為泰という歌詠みに賛をしてもらうために、そちらに回した。
 関羽図は下図を訥言が描いて、本図を光孚に描かせようとしたが、光孚がこんなふうには描けないと拒否したため、訥言が関羽と従者の周倉の両方を描き、関羽の落款に光孚を、周倉の落款に訥言の名を書き入れた。
 寿老図も描くのが難しい寿老人は訥言が担当し、側に寄りそう白鹿を光孚が描いた。しかし落款は逆にしておいた。
 こうやって、十日ほどで三枚の絵が完成した。
 大脇佐兵衛も岡谷惣助も大いに喜んでくれ、亀図の箱書きを訥言が引き受けた。画料は訥言の場合の大体五倍で、それが絵所預従五位上という格の値段だった。
 三枚の絵で光孚の画力を計ったのだろう、佐兵衛が早速二曲一隻の屏風絵を依頼してきた。金地に四季折々の草花を描いて欲しいという注文である。草花は光孚の得意とするところだが、粉本がなければどうにもならない。訥言にしても、一つや二つの花ならば描けないことはないが、四季折々となると難しい。本当なら実際の草花を写生して下図を作るといいのだが、そんな余裕はない。
 結局、土佐家に書状を出して、草花の粉本と、ついでに不足している色の岩絵具を持ってくるように伝えた。
 それが届くまで光孚は物見遊山をし、熱田神宮近くの伝馬町の遊郭が気に入って、そこに通うようになった。京の島原では土佐という名前が邪魔をしておおっぴらに遊べないが、ここでは誰も知らないので羽を伸ばせる。そのことが分かっていたので訥言も一緒に登楼して遊んでいたが、あまり頻繁になると何のために光孚を名古屋まで連れてきたのか分からなくなってしまう。
 それで訥言は釘を刺した。粉本も金地の屏風も届き、作画の態勢も整ったので、光孚も腰を落ち着けて制作に取りかかった。たまに息抜きで遊郭に行くことには、訥言も目を瞑った。
 今回、訥言は最初の構図決め――どの花を選んでどのように配置するか、の相談に乗っただけで、下図からすべて光孚が描いた。訥言は胡粉を乳鉢で擦ったり、色の調合を整えたりと、助手に徹した。
 出来上がったのは、二ヵ月後の五月半ばだった。光孚の得意とする図だけあって、金地に草花の色が冴えている。一つ一つの草花を見ると粉本を写した生硬さが線に表れ、生き生きとした躍動感に欠けるが、巧みな配置がそれを補っている。
 これなら依頼主も大満足だろうという訥言の読み通り、佐兵衛は目を見張り、完成祝いの宴を開きたいと申し出てきた。
 ところが屏風を納めた次の日に京から早飛脚で、光孚の母が病に倒れたという知らせが届いた。光孚にとっては養母に当たるのだが、子供の頃から可愛がられて実母のごとく慕っていたので、その動揺は訥言から見ても大変なものだった。
 急遽光孚が帰京することになり、その日のうちに画料の支払いが行われた。
 その後、光孚の母がいよいよ危ないという知らせが届き、訥言も慌ただしく京に帰った。
 数日後、光孚の母が亡くなった。訥言は本家の土佐光時と協力して、葬儀一切を取り仕切った。
 その喪が明けた頃、二人の男が訥言の家を訪ねてきた。一人は小林香雪で、彼とは三年前に鳳凰堂で初めて会って以来、何度か詩筵(しえん)に誘われ、訥言はそこで席画を描いたり、訥言の描いた絵に香雪が賛を書いたりする仲であった。
 もう一人は全く見知らぬ顔で、香雪の息子といってもおかしくないくらいの若い男である。手に酒瓶を提げている。
 香雪はその男を、頼山陽といって今売り出し中の詩人であると紹介した。
「今日突然お邪魔しましたのは、小林先生から田中先生が有職故実の知識に関しては右に出る者がいないとお聞きしたからです。是非先生の御謦咳(けいがい)に接したく、こうして参りました」
 男は礼儀正しく背筋をぴんと伸ばして頭を下げたが、その目は獲物を狙うようにこちらを睨んでいる。自分も若い時はこんな目をしていたかも知れんと訥言は内心で苦笑した。
 二人を客間に上げ、山陽の持参した酒で呑むことになった。下女に言って、酒の肴にするめと田楽を買いにやらせた。
「訥言殿」と香雪が言った。「この男は今、『日本外史』という平家から徳川までの武家の歴史書を書いておるのですが、これが何とも面白くて、しかもちょっと危険な香りがする書物なのです。御政道を批判するような……」
「御政道を批判するつもりは毛頭ございません」山陽が気色ばんだ。「ただ武家の歴史を調べておりますと、天皇親政の理想を歪める過程であったことがはっきりといたしますゆえ、そこは正直に書かざるを得なくなったわけです」
「さあさ、それが御政道の批判と取られかねないと……」
「香雪殿、よいではございませんか」と訥言は口を挟んだ。「天下に媚びず、自分の信じることを書く。そうでなくては書く意味がないでしょう」
「いや、わしはそれがいけないと言っておるわけではないですぞ。宮仕えのわしがこんなことを言うのも何ですが、そこが面白いと思っております。ただ警世の書も咎(とが)を受けてしまえば、世に広まることもないゆえ、そこは十分注意した方がよかろうと言いたいわけです」
「小林先生のご忠告、肝に銘じておきます」
 山陽は両手を膝に置いて頭を下げた。
 下女がするめと田楽を手に戻ってきて、それを肴にさらに酒が進んだ。
 香雪が「この男は十年ほど前にも京に来たことがあるのですぞ」と言い出した。
「ほう、いくつの頃ですか」
「今が確か三十二だから、二十一か二十二の頃だろう」
「先生、そのことは……」
「いいではないか。わしはそのこともお主の勲章だと思っておるのだから」
 香雪の話によると、山陽の父親である頼春水も詩文や書に秀でた儒学者で、広島藩の学問所に登用されているという。十年ほど前、山陽は文名を上げたくて脱藩し京に来たが、見つかって連れ戻され、廃嫡の上自宅に幽閉された。その間に書き上げたのが『日本外史』である。その後菅茶山という儒学者の開いている塾の塾頭に招かれたが、そこを飛び出して再び京に来た。今は真塾という家塾を開いて生計を立てているが、台所はなかなか苦しいらしい。
「ほれ、訥言殿も名前は聞いたことがございましょう、村瀬栲亭(こうてい)という儒学者を」
 訥言は頷いた。栲亭は京の詩壇の中心的人物である。
「彼が、京に来たばかりでは収入の道も乏しかろうと心配して、この男に家塾の講師の仕事を世話しようとしたのだが、何とこの男はその申し出を断ってしまったのだよ。見知らぬ土地で塾を開こうというのに、そこの親玉と喧嘩してどうするんだ」
「喧嘩なんかしておりません」と山陽が口を開いた。「わたくしは京の詩壇では派閥争いが常に行われていると聞きましたので、そんなことに巻き込まれたら勉強が出来ないと考えたまでです」
「しかし、結果的に京の詩壇を敵に回してしまったわけだろう」
「それはわたくしの不徳の致すところでございまして……」
「でも、わしは、山陽殿のそういうところが好きであるな」
 香雪の言葉に、訥言は同感だった。世渡りなど頭になく、直情だけで前に進む頼山陽という男に惹かれるものを感じていた。
 山陽は話を有職故実の方に向けた。源平合戦の頃の馬飾りについての質問である。
「そんな細かいこと、書いてあったか」と香雪が首を捻った。
「書いてありません。しかし、そういう細かいことを知って書くのと、知らないのとでは、雲泥の差があります。作者が臨場感に浸って書くと、たとえ細かい部分を書かなくても、文章が生き生きとしてくるのです」
「なるほど、そういうものなのか」
 訥言は言葉で説明するよりも絵に描いた方が早いと考えて、画室から硯箱と紙と半畳ほどの羅紗布を持ってきた。墨を擦り、羅紗の上に広げた半紙にささっと馬を描く。胸懸(むながい)に飾りを付け、鞍と鐙(あぶみ)もその頃の形を描き入れた。
 山陽が目を見張っている。
「先生のこういった知識は、やはり絵から得られたのでございましょうか」
「古(いにしえ)の絵巻物や障壁画をずっと模写しておると、自然と身に付くものでござるよ。中には書物を紐解いて勉強する絵師もいるが、私は絵を見て疑問に思ったことだけ書物で調べるようにしている」
 山陽は馬飾りの色を質問し、そのうち自分でも描いてみたいと言い出した。筆を渡すと、山陽は訥言の描いた馬の絵を写そうとするが、なかなかうまくいかない。それで訥言が、あれこれと筆法の手解きをした。
 山陽が嬉々として何枚もの紙に馬の絵を描いている時、一宸ェ訪ねてきた。客間に入らず外から声をかけてくるので、中に入るように言うと、襖が開いた。手に風呂敷包みを持っている。
「お預かりしていた伴大納言絵詞をお返しに参りました」
「一宦A入って来なさい」
 訥言がそう言うと、一宸ヘ膝を折った姿勢のまま、摺り足で近づいてきた。訥言の横に坐り、風呂敷包みを差し出す。
「どうだ、写してみたか」
「わたくしには、まだ眺めるだけで精一杯でございます」
「そうか。それなら仕方がないな」
 その時山陽が絵を描くのをやめて、こちらを見た。
「伴大納言とは、あの応天門の変の……」
「よくご存じで……」
「ちょっと拝見させてもらってよろしいですか」
 山陽が風呂敷包みに手を伸ばした。しかし一宸ェ取らせまいとして、それを自分の胸元に引き付けた。
「これは先生が精魂を傾けて模写された物。そう軽々と手に取るものではございません」
 山陽がむっとした顔をする。
「一宦Aよいのだ。この人は今、歴史書を書いておられる方で、私の所へ有職故実を尋ねに来られたのだから」
 一宸ヘしぶしぶ風呂敷包みを山陽に渡した。山陽は包みを解くと桐箱の蓋を開け、上巻を手に取った。紐を解いて畳の上にそれを広げる。瞬間、山陽の口から「おう」という声が漏れた。香雪も絵巻物に見入っている。
「これは本当に模写された物ですか」と山陽が聞いた。
「そうです」
「本物よりも本物らしいと言われております」
 と一宸ェ自慢げに言った。
 山陽が絵巻物に顔を近づけた。
「所々、線が消えていますが、これは……」
「本物をそのままの状態で模写するのが、私のやり方でござる」
 三巻をそれぞれ見ていき、山陽と香雪は、この炎が素晴らしいとか民衆の動きが面白いとか口々に感想を述べ合った。
 絵巻物を訥言に返した後、「ところで、一專aはいくつになられた」と香雪が聞いた。
「十七でございます」
「どうじゃ、この男の塾で儒学を学んでみる気はないか」
 一宸ヘ困った顔をした。
「香雪殿」と訥言が言った。「一宸ヘ両親が学者になれというのを断って、絵師の道を志しておるのです。いまさら儒学というのは……」
「絵師が儒学を学んでも損にはならんと思うが……」
 訥言は一宸ノ紙を渡し、馬の絵を描いてみるように言った。一宸ヘ羅紗布の上に散らばっている山陽の描いた絵を一つにまとめて横に置くと、半紙を置き、筆を取った。そして訥言の絵には見向きもしないで、ほとんど一筆書きのように馬を描いた。それも後ろ脚を跳ね上げている図である。山陽も香雪も、一宸フ筆使いを感嘆の面持ちで眺めていた。
「彼の絵を見ていると、自分には絵の才はないとつくづく気がつきました」と山陽が笑いながら言う。
「なるほど、これだけ天賦の才があるのなら、訥言殿の言われる通り、絵の道に専念した方がいいですな」と香雪も感心しきりだった。
 宴もお開きになり、月の出た夕暮れの道を帰っていく香雪と山陽を見送りながら、訥言はふと光孚(みつざね)のことを考えた。
 土佐という家柄に安住している光孚と、安住を拒否し、自分の道を切り開こうとしている山陽。同じ年齢なのに、その違いの大きいことよ。

 訥言はその後山陽の漢詩をいくつか読み、香雪の言が世辞でないことを知った。それで自分の描いた絵に客が画賛がほしいと言った時には、必ず山陽に回した。また、土佐や他の絵師たちにも画賛が必要な時は頼山陽という男がいることを折に触れて耳に入れるようにした。

    七

 秋になって、大脇佐兵衛から訥言の来名を乞う書状が届いた。尾張在住の風雅を嗜む富家を集めて茶会を催すので、是非訥言にそこで席画を描いてもらいたいという内容だった。その裏には、訥言に顧客を紹介したいという意図があるのは明らかだった。
 訥言は光孚に声を掛けた。しかし、光孚は席画と聞いただけで嫌な顔をし、母親が死んだことを引き合いに出して、名古屋は方角が悪いからという理由で断ってきた。
 訥言は自分一人が行くことを伝え、茶会の前日に大脇家に旅装を解いた。
 茶会には、岡谷惣助を始め、本町の呉服商小出昌芳、本町広小路角の呉服商小川雅宣、鳴海の酒造家下郷伝芳、清洲の豪農早川清太夫の五人が客として来ていた。
 茶会の後、客間に移動して席画が始まった。床の間にはこの前の寿老図が掛けられており、床脇には光孚の描いた四季草花折枝図屏風が広げられていた。
 佐兵衛を含め六人が画題を出す。花鳥図、風俗図といった大まかなものから、源氏物語の一場面をという限られた画題まで様々あったが、訥言はその一つ一つに丁寧に応えていった。水墨だけでは自分の特長が出ないので、淡彩を施し、いわゆる水墨大和絵を描いてみせた。それでも六枚の絵を仕上げるのに、一時(いっとき)とはかからなかった。
 佐兵衛や惣助は言うに及ばず、他の四人も訥言の技倆に感嘆し、席画をただちに購入した。しかも一枚十匁という破格の安さである。
「訥言殿、もう少し高くてもええのでは……」
 と佐兵衛が言うと、
「いや、即興で描くとこの程度ですな。もちろんじっくりと描いた場合は、この何倍もなりますぞ」
 そう言って訥言は笑った。
 佐兵衛が掛軸の絵を依頼すると、他の五人も我も我もと絵を頼んだ。中でも、小出昌芳の注文は変わっていて、今度眠燈台(ねむりとうだい)を新調したので、その反照盤(てりかえし)に何か絵を描いてほしいというものだった。眠燈台というのは、火皿に灯油を満たして灯芯を浸し、それを支柱の台の上に載せた燈台の一種で、背後に風よけも兼ねて円板が取り付けられている。法隆寺にも同様の品があり、二人の童子が机に伏して眠っている姿から、眠燈台と称されている。
 以前藤貞幹(とうていかん)や谷文晁と古宝物調査をした際、その眠燈台を見たことがあり、同じ図柄では曲がないと、一人の男童には琵琶を弾かせ、もう一人の女童がその音を聞きながら裁縫する場面にした。
 そういった制作を、すべて大脇家の離れ座敷を画室にして行った。
 翌文化九年(一八一二)の春にも佐兵衛に招かれ、「和朝曲水図」ほか数点の掛軸を手がけ、その後、早川清太夫の懇願により、清洲の早川家に寄寓することになった。
 早川家と訥言の故郷田中村は歩いて半時もかからない所にあり、早速訥言は仙海の寺に挨拶に行った。
 しかし出てきたこの前の若僧(にゃくそう)は、仙海が病に伏せっていることを告げ、訥言に引き取るように言ってきた。
「病と聞けば、なおさら帰るわけには参りません。どうかひと目でもお会いしてお見舞い申し上げることはできませんか」
 訥言が強く頼むと、若僧は仕方がないという顔で堂内に上がることを許してくれた。
 仙海はこの前の部屋で寝ていた。若僧が仙海の耳元で、訥言の来たことを大声で告げると、仙海はゆっくりと目を開けた。そしてわずかに頭を動かして訥言を認めると、小さく頷いた。
「心の臓が弱っておいでです」と若僧が言った。
 訥言は夜着の中に両手を入れ、仙海の手を握ると、「きっとよくなります。心を強く持って病を打ち払って下さい」と声を掛けた。
 仙海が頷くのを見て手を抜き、顔を上げると、襖が目に入った。何も描かれていない白地である。訥言はここに絵を描いたらと思いついた。
 若僧は訥言の提案に驚いた顔をしたが、恩返しとして描かせてほしいと頼み込むと、許可してくれた。
 早速次の日から画材道具を持ち込み、制作に取り掛かった。白地の襖を同じ大きさの別の部屋のものと入れ替えて、それを本堂に持っていって描くのである。
 画題は鍾馗図と決めていた。唐の皇帝玄宗が病に罹った時、夢の中に現れ邪気を祓って治したとされるのが鍾馗である。
 右側の二面に大きく鍾馗を描き、左の二面には長く伸びた鍾馗の剣とそれを恐れて逃げ惑う小鬼たちを描いた。その墨一色の絵を訥言は六日間寺に通い詰めて描き上げた。仙海のためにも早く仕上げなければならないので、早朝から夕方まで本堂にこもり続けた。
 仙海は鍾馗図を見ると、わずかに微笑んだように見えた。そして震える指先を上げて絵を指し示し、何事か呟いた。若僧は驚いて仙海の口元に耳を近づけたが、それ以上仙海は声を出さなかった。傍にいた訥言にも何を言ったのか聞き取れなかった。
 仙海が亡くなったのは、それから六ヵ月後のことだった。医者は五日も持てばいいと言っていたのが、それだけ延びたのである。近隣の者たちは、葬儀の際、鍾馗図の出来映えに驚き、住職の寿命を延ばしたのはこの絵のせいだと噂した。

 早川家から南西に一里ほど行ったところに尾張四観音の一つである甚(じ)目(もく)寺(じ)という寺がある。寺内には釈迦院という比丘尼寺があって、そこの尼僧と早川家が懇意にしていた。
 そのため、その年の秋、訥言は清太夫に頼まれて釈迦院の襖絵を揮毫することになった。最初のうちは早川家から通っていたが、往復する時間がもったいなくなって、渡辺清と共に宿坊に泊まり込んだ。
 ある日、清太夫が様子を見にやってきた。
 襖四面に訥言は「夕影山水図」を描き、清は裏に「竹図」を描いていた。
 順調に進んでいるのを見て、清太夫が、息抜きに今日はどこかで一献やりませんかと声を掛けてきた。清は描きかけているところを仕上げなければなりませんのでと断ったが、訥言は喜んで応じた。
 清に後を頼んで、二人は駕籠で名古屋の市中に行き、大須観音近くの清太夫馴染みの茶屋に入った。二階建ての大きな店で、初秋の庭にはわずかに色づきかけた紅葉がいくつか見えていた。
 芸妓を二人呼んで大いに呑んでいると、二階から時折嬌声を含んだ歓声が聞こえてくる。清太夫がそれを気にして、料理を運んできた女中に何をしているのかと尋ねた。
「江戸の浮世絵師がお出でで、皆が似顔絵を描いてもらっているのです」
 女中は膳から鯛の刺身の載った皿を取り出しながら答えた。
「その絵師の名前は何と言う」と訥言が聞くと、
「たいと、とかおっしゃっておりました」
「たいと? おかしな名前だのう。訥言殿はご存じですか」
 訥言は首を振った。
「こちらの方はな」と清太夫が訥言に掌を向けた。「田中訥言とおっしゃって土佐絵の名人であるぞ。土佐というのは禁裏の絵を描く御用を務めている名家や。よく覚えておくように」
 女中は配膳の手を止めて、恐縮したように両手をついた。
「いいから行って、もう少し静かにするように言うてきてくれ」
 女中はすべての皿を配り終えると、膳を手にあわてて出て行った。
 しばらくすると、歓声が聞こえなくなった。これで落ち着いて呑めると言いながら、清太夫は訥言の杯に酒を注いだ。
 その時、「お邪魔してよろしいやろか」という男の声が襖の外から聞こえてきた。
 どなたと清太夫が問うと、襖が開いて、恰幅のいい男が膝を折って深々と頭を下げた。
「わたくしは本町で書物の版元をしております永楽屋と申す者でございます。この度はつい興に乗ってしまい、ご迷惑をおかけいたしました。つきましてはお詫びの印に、一献差し上げたいと存じますで、是非お二階の方にお越し願えませんやろか」
「訥言殿、どうします」
 たいとという絵師がどんな似顔絵を描いているのか覗いてみたいという気持ちから、
「折角のお申し出なのだから、お受けしましょう」
 と訥言は答えた。
 女中を呼んで、持って来た酒肴を二階に運ぶように言うと、二人は永楽屋に案内されて階段を上がった。
 二階の部屋は二十畳ほどの広さがあり、二人の男と四人の芸妓がいた。一人の男は羽織を着て侍然とした身なりだが、もう一人の年かさの男は縦縞の甚平のような着物に柿渋色の半天を羽織っている。髷は結っておらず、蓬髪(ほうはつ)である。
 訥言たちが入っていっても、その男は顔を上げず、毛氈の上で絵を描いていた。訥言は近づいていって男の筆使いをじっと見た。正面に坐った芸妓の顔を写している。
 その躊躇いのない線は男が相当な修行をしたことを示している。墨だけで描かれた芸妓の顔はよく特徴を捉えており、描き終えた絵を、ほれと言って男は芸妓に渡した。
「よく似てる」
 芸妓が感嘆の声を上げた。他の芸妓たちも寄ってきて「先生、お上手」などと褒めそやした。
 訥言が芸妓たちに近づき、その絵をじっくり見せてもらおうと手を伸ばした時、
「触るでない」
 と男が鋭い声を発した。一瞬、場がしんとなった。訥言が男を見ると、睨んでいる。
「まあまあ、ほんなことを言わんと、先生」永楽屋が立ち上がった。「こちらの方は土佐絵の名人。どちらも絵を描くのがご商売なんやから、仲良く仲良く」
 永楽屋は訥言の体を押して、浮世絵師のそばから離そうとした。
「ふん、何が土佐絵の名人だ。粉本丸写しで禁裏の御用などとふんぞり返っているだけではないか」
 そこまで言われると、さすがにかちんと来るものがあった。浮世絵という最下等の絵を描いている者の僻みとばかりは言えなくなった。
「粉本丸写しと言われて引き下がるわけにも参りませんので、私にも何か描かせてもらいましょうか」
 蓬髪の浮世絵師がにやりと笑い、立ち上がった。訥言は彼の坐っていた所に腰を下ろすと、気息を整えた。
 まず、先程浮世絵師の描いた芸妓を写した。ただし顔中心ではなく、着物を着た体全体を描いた。顔を大きく描くと、似ている似ていないが評価の中心になるので、それを避けたのである。筆は淀みなく動き、数呼吸のうちに芸妓の艶やかな姿が墨一色で絵になっていた。
 芸妓たちが取り合いで絵を眺め、感嘆し、わたしも描いてもらおうと次々に目の前に坐った。
 訥言は他の三人の姿もたちまちのうちに絵に仕上げ、さらに、二本の若竹の背後に霞のかかった月の絵を、水墨で描いた。浮世絵は線描なので水墨画は描けないだろうという読みである。
 侍然とした男が若竹図を見て唸った。
「わたくしは牧墨僊(まきぼくせん)と申します。尾張藩に仕えておりますが、一介の絵師として浮世絵も描いております。恐縮ではございますが、先生のご尊名をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「田中訥言と申します。土佐家の門人をしておりますが、縁あってこちらで絵を描かせていただいております」
「先生には、今、甚目寺の釈迦院で襖絵を描いてもらっておりますんや」
 と清太夫が口を挟んだ。
「なかなかのもんだが、これくらいならわしにも描けるぞ」
 そう言って浮世絵師は訥言と入れ替わって毛氈に腰を下ろした。
 筆を取ると、松を何本か描き、背景に富士をさっと入れた。そして次に岩山から流れ落ちる瀑布の絵を描いてみせた。どちらも見事な水墨画だった。
 訥言は驚いた。浮世絵師風情がまさか水墨の技を身に付けているとは思ってもいなかったのだ。彼は身の内にめらめらと対抗心が湧いてくるのを感じた。相手が浮世絵師であることなどどこかに飛んでしまった。
 今度は訥言が深山渓谷の山水画を描き、一転して線描で公家の乗った牛車を伴の者たちを加えて描いてみせた。すると浮世絵師は武者の乗った暴れ馬を描き、大輪の牡丹を描いた。
 花鳥図なら望むところと、訥言が芍薬と蝶、菜の花に雲雀を描くと、浮世絵師は杜若(かきつばた)に鴫、毬で遊ぶ子犬を描いた。
 周りの者たちは、驚きながらそんな二人の競争を唖然と見守っているばかりだった。
 訥言は描いているうちに、心楽しくなってきた。浮世絵師が様々な筆法を駆使できるのは、自分と同様に、様々な絵の模写をしてきたのに違いない。訥言の脳裡に、ふっと写楽の絵が浮かんだ。写楽があれから修行をしていたら、このくらいの絵師になっていてもおかしくはない。
「ひょっとしてあなたは東洲斎写楽という方ではありますまいか」
 と訥言は聞いた。
「わしが写楽だと?」浮世絵師は歯を剥き出しにして笑った。「あんな素人と一緒にしてもらっては困る。わしは戴斗(たいと)。少し前までは葛飾北斎と名乗っておったがな」
 北斎? 訥言はすぐに十年ほど前の谷文晁(ぶんちよう)の訪問を思い出した。
「谷文晁という絵師をご存じですか」
「もちろん知っとるよ。写山楼という画塾でふんぞり返っているやつだろう。若い頃はいい絵を描いたが、今は全く駄目だな」
「文晁殿からあなたのことを聞いたことがありますぞ。狩野派や唐画から筆法を学んだ面白い浮世絵師がいると。あなたでしたか」
「文晁がそんなことを言っておったか。世の中の森羅万象を描き写すためには、あらゆる画法を身に付けなければならん。そんなことは当たり前だろう」
 浮世絵師からそんな言葉が聞けようとは思っても見なかったので、訥言は正直驚いてしまった。
「それだけの覚悟がおありなら、どうして浮世絵なんぞを描いておられるのか」
 にこやかな北斎の顔が一変した。
「浮世絵なんぞ? ふん、それが本絵を描く絵師の本音か。よし分かった。花鳥画なんぞでは埒があかん。ワ印で勝負しよう」
 ワ印というのは春画のことである。訥言は一瞬、言葉に詰まった。
「さすがにそれはご遠慮いたしましょう」
「それ見ろ。本絵ではワ印は描けんだろう。森羅万象を描くには浮世絵に限るのだ」
 そう言って北斎は大笑いした。なるほど、うまい理屈だ。訥言も思わずつられて笑ってしまった。
 絵の競争はそこで打ち止めになり、訥言は清太夫と一緒に永楽屋や牧墨僊(まきぼくせん)と酒を酌み交わした。北斎は下戸らしく一人毛氈の上で茶を飲みながら、絵を描き続けている。
「先生には」と永楽屋が北斎に顔を向けた。「様々な絵を描いてもらい、それをまとめて絵手本として出版する手筈になっておるんですわ。北斎漫画という書名を付けようと思うとります」
「それはなかなか面白そうな本ですな。是非私も買わせていただきましょう」と清太夫が応えた。
 北斎はこちらの会話には全く知らん顔で絵を描いている。
 訥言はその姿に、痴(し)れ者という言葉を思い浮かべた。癡翁(ちおう)という印を押している自分と重なるところがある。本絵師と浮世絵師という立場の違いを超え、訥言は北斎に同志的な親近感を覚えた。
 二日後、永楽屋と牧墨僊が甚目寺の釈迦院にやって来て、訥言の襖絵制作を見学した。牧墨僊の質問に答えて、筆の使い方や絵具の調合の仕方などを説明した。二人は渡辺清の絵も見て、「先生はいい弟子をお持ちですな」と感心して帰っていった。
 北斎が一緒ではなかったことに、さもありなんと納得するところがあった。
 北斎が釈迦院を訪れたのは、襖絵が完成してから一ヵ月も経った頃だった。尼僧が清太夫に伝え、それが訥言の耳に入った。その時襖絵を見た北斎は言ったそうである。
「土佐にも少しはましな奴がおるようだ」と。

 訥言が右目の視界の中心に黒い影を感じるようになったのは、釈迦院の襖絵制作が半ばを過ぎた頃である。今までは視界の端の方だったので、絵を描くことに支障はなかったが、中心となるとそうはいかない。使い過ぎかとしばらく目を休めてみても、黒い影は取れない。しかも時々ずんとした痛みを感じるようになった。
 いよいよ病が進行してきたか。初めてその症状に気づいたのが四十の時だから、それから六年経って中心まできたわけか。この調子で右目が見えなくなっても左目がある限り、絵は描ける。左目にまだ症状の現れていないことが訥言を支えていた。
 清に相談すると、是非明眼院で治療してもらうようにと進言された。幸い、明眼院は釈迦院から南に半里ぐらいしか離れていない。訥言は以前の小林香雪の言葉を思い出し、紹介状を書いてくれるように尾張に戻っている彼の許に書状を送った。
 数日後、見舞いの言葉と共に紹介状が届いてからも訥言は襖絵の仕上げに忙しく、制作が終わったのは十日後だった。襖絵の後に、清太夫から二曲一隻の屏風絵を頼まれているが、それは目の治療の後にすることを清から清太夫に伝えてもらい、訥言は荷物をまとめて釈迦院を後にした。
 馬嶋村の明眼院に着いた訥言は、まず大きな仁王門があることに驚かされた。仁王像を見上げながら門を入ると、生成りの単衣を着た人々が三々五々歩いていた。中には、妻らしき女に手を引かれている者もいる。境内は広く、どこに受付があるのか分からない。正面に本堂が見えるので近寄ってみると、単衣姿の男たちが手を合わせているが、ここは受付ではなさそうだ。
 男たちに尋ねてみると、右手の門を入って左に行けば本社(ほんやしろ)があると教えてくれた。言われた通り門を通り、また広い境内に出た。左手には甍屋根の本社とそれに隣接する建物群が見えた。すぐ隣の建物の前にはいくつもの縁台が置かれ、単衣姿の人達が大勢腰を下ろしていた。
 本社に行き、受付の僧侶に紹介状を差し出した。僧侶は中身を読むと、「小林先生のご紹介ですか。これはこれは」と立ち上がり、しばらくお待ち下さいと奥に引っ込んだ。
 少し経って薄茶色の僧衣を着た男が現れた。袖をたくし上げ、紐で襷掛けにしている。訥言よりもいくらか年上に見えた。
 男はここの住職だと自己紹介した後、今患者を診ています、それが済めば次にお呼びしますので、しばらくここでお待ちをと言って、あわただしく戻っていった。訥言は受付の中に入って、そこに腰を下ろした。
 四半時ほど経った後、僧侶の案内で裏の方から隣の建物に行った。僧侶の開けてくれた木戸を入ると、そこは六畳ほどの部屋で、大きな障子窓のせいかやけに明るかった。いくつかある棚には磁器皿や壺、和綴じ本などが載っていた。先程の住職が床几に坐っており、「さあさ、こちらにどうぞ」と前の床几を手で示した。
 訥言はそこに腰を下ろす。住職が巻紙と筆を手に問診を始めた。訥言は質問に答えて、症状に気づいた年齢や痛みの始まった時期、自分の絵師としての仕事の内容などをありのままに話した。
 訥言の言葉を書き留めて問診が終わると、住職は立ち上がり、訥言を障子窓の方に向けさせた。瞳の中を覗き込み、瞼の上から眼球を軽く押さえて、痛むかどうか聞き、次に瞼を裏返した。そして訥言自身の手で左目を隠し、右目で住職の鼻を見詰めたまま、住職の動かす指先がみえるかどうかを答えさせた。
 診察が終わって床几に再び腰を掛けた住職は「どうやら、あおそこひのようですね」と診断した。
「治りますかな」
 住職はうーんと言って考え込んだ。
「右目の影だけでも取れたらいいと思うとるんですが」
「しばらく逗留してもらって、治療いたしましょう。その間、酒を飲むのはもちろん、目を使う仕事も一切禁止ですよ」
 小林香雪の紹介ということで、普通の患者の泊まる眼疾寮ではなく、客殿に部屋を取ってもらった。
 治療は内服薬と薬草抽出物による目洗い、それに鍼灸だった。ここのところずっと絵を描き続けてきたため、それがぽっかりと抜け落ちると何をすればよいのか全く分からなかった。治療時間は一日のうち半時もないので、大半はぶらぶらしているしかない。
 真っ先に行ったのは、客殿の隣にある書院だった。円山応挙の残した絵を見るためである。
 廻り廊下を歩いて、開け放した障子から部屋に入った。十八畳の広い部屋で、襖とその上部の壁全体に、芦と雁が水墨で描かれていた。隣の部屋には床の間があり、襖に老梅図、床壁には松と岩が、これも水墨で揮毫してあった。寛政の新御所造営の時に見た、部屋全体を一つの絵と見なす考え方が、これを描いた頃すでに応挙の中に芽生えていたことに、訥言は感慨を覚えた。
 どの絵も墨の濃淡が生かされ、迷いのない筆致はさすが応挙を思わせた。ただ、今の自分にこれだけの大画面を与えられたら、これ以上のものは描けるという自信はあった。
 応挙は治療で目がよくなったから、お礼の意味を込めて描いたのだろう。もし自分の目がよくなったら、住職に頼んでどこかの襖にでも絵を描かせてもらおうか。そんなことを考えて、訥言は自分を慰めた。
 客殿の横には小堀遠州が造り直したとされる庭があり、池の周りを巡っていると、吾亦紅(われもこう)や女郎花(おみなえし)が目に付いた。訥言は知らず知らずのうちに頭の中の半紙にそれらを写し取っていた。見る角度を変え、花の姿が一番よく見える位置を探っている自分に気づくと、思わず苦笑した。と同時に愕然となった。目が見えなくなれば、こんなことさえもできなくなるのだ。
 大して症状のなかった時は盲になれば死ねばいいなどと放言していたが、いざそれが迫ってくると途端にうろたえている。人間とは得手勝手なものだと訥言は自分を笑い飛ばした。
 そんなある日、渡辺清が早川清太夫を連れて見舞いにやってきた。
「先生、目の具合はいかがですか」と清が言った。
「痛みは取れたが、右目の影は取れん」
「お医者様は何と……」
「あおそこひという病らしい。治療している間、絵を描くことは禁止されておるから、退屈で仕方がないわ」
「先生」と清太夫が口を開いた。「そしたら、わたくしのお願いしている屏風の絵はいつできあがるのでございましょうか」
「分かりませんな。医者に聞いてもらわないと……」
「そんな……」清太夫は困った顔をした。
 注文を受けた時、茶会に使うとは聞いていたが、日時は聞いていない。
「茶会はいつでしたかな」
「十月十五日でございます」
 あと十日しかない。
「それでは以前私の描いた屏風を使っていただくしかないですな」
「そうですか。みんな、先生の新作が見られると楽しみにしておるのですが……」
 そう言われると、何とかしようという気になるのが訥言である。
「分かりました。描きましょう。ただし手の込んだものは無理ですぞ」
「先生、いいのですか」と清が言う。
「なあに、医者に黙っていたら分からんよ」
 清太夫は喜んで、お願いしますと頭を下げた。
 何を描くか全く頭にないが、取り敢えず清に、清太夫の用意した屏風に銀箔を貼っておくように指示した。いざとなれば、金泥でそこに二本線を描くだけでも絵になるという思いがある。
 二人が帰ってから、訥言は絵の構想を考え始めた。途端に退屈な時間はどこかにいってしまった。岩絵具を使った着色画は時間的に無理なので、水墨ということになるが、水墨なら背景は金箔の方がよかったか。いやいや、茶会ならやはり銀箔だろう。いっそ、何も貼らずに白地で行くか。そうなると淡彩を施すのも面白い。医者は仕事をするなと言ったが、少々目を使っても差し支えあるまい。いや医者の忠告を守るとすれば、最初の思い通り金泥二本で秋を感じさせる手もある。
 構想はなかなか決まらなかった。むしろ決まらないことを楽しんでいるふうでもあった。
 前々日、清太夫の使いが来て、本当に描いてもらえるのか返事がほしいということだったので、必ず行くと答えた。結局二本の金泥を斜めに引くということに決めた。
 ところが翌朝起きた時に、清太夫は確か囲碁が好きだったはずということが、ふと頭に浮かんだ。その途端、黒と白の碁石の配置されている図が一瞬にしてできあがった。
 朝の治療が終わって、清洲の早川家に向かう道すがら、訥言は石の配置を頭の中で何度も動かしてみた。しかしどう見ても、最初に浮かんだ配置が一番いい。これで行こうと決めた時、ちょうど早川家の前に来ていた。
 早川家にはすでに清が待っていた。清太夫もほっとした顔を浮かべて、訥言を迎え入れてくれた。
 画室代わりにしている座敷に入ると、銀箔を貼られた二曲一隻の屏風が寝かされている。清に胡粉と墨を用意するように言って、訥言は屏風の前に立った。頭の中の図を実際の屏風の上に置いてみる。配置が決まった。
 用意できましたという清の声で、訥言は筆を取り、墨をつけた。屈み込んで屏風の下部に黒丸を散らしていく。それが終わると、今度は胡粉で白丸を描いていく。どちらも、あっという間の作業だった。
 色が乾いたところで、清に屏風を立てるように言った。少し離れた所から、全体を眺める。まさに朝思いついた図がそこにできあがっていた。
 清が訥言の傍に来て、屏風に目をやった。
「どうだ」
 清はひとつ大きく息をした後、
「龍安寺の石庭を見る思いがいたします」
 と答えた。さすが我が弟子、訥言は笑って頷いた。
 そこへ清太夫が現れた。
「できましたですか」
「あれです」と清が手で屏風を示した。
 清太夫はそれを見て、複雑な顔をした。どう言っていいのか分からない表情である。
「これで終わりですか」
「終わりです」訥言は即座に答えた。
「……ちと、寂しいような気がいたしますが」
 訥言は少し考えて、「銀箔は余っておるか」と清に尋ねた。
「はい、補修用に残してあります」
 それを用意するように言って、訥言は屏風を再び畳の上に寝かせた。黒石を一つ隠して、その違いを見せようというのである。屈み込んで碁石の図を見、隠すべき黒石を決めると、清の持ってきた銀箔の薄紙をめくった。そこに赤うつし紙を乗せ、銀箔を密着させてから、両手で引き上げ黒石の上に乗せる。指先で軽く押さえて赤うつし紙をゆっくりと剥がすと、一つの黒石が隠れてしまった。
 そうしておいて、また屏風を立てた。
「これではいかがですかな」
 清太夫はじっと眺めているが、まだ険しい顔をしている。
「清、今貼った銀箔を剥がしてみなさい」
 清は箔ばさみを手にすると、屏風に近づき、ただ乗せてあるだけの銀箔を慎重に剥がした。
 清太夫の表情が急に弛んだ。
「これは……」と言ったきり、言葉が出てこない。しばらく間があってから、
「何だか不思議な感じがいたします。たった一つの黒石があるかないかだけで、こんなにも絵の感じが違ってしまうなんて。うまく言えませんが、この絵には茶の湯の侘び寂びに通ずるものがあるように思います」
清太夫が屏風絵の完成を祝って酒肴でもてなしたいと言うのを、医者から止められているからと断って、訥言は明眼院に戻った。
 後で清から聞いた話によると、茶会では訥言の屏風絵は大評判だったという。初見では首を捻る客も、清が訥言に倣って黒石を隠してから見せるということをすると、誰もが驚いたらしい。中には「これは神品だ」と唸る客もいたという。

 入院治療も一ヵ月を超えると、さすがにうんざりしてきた。徐々にでもよくなっているのならまだしも、右目の影は少しも薄くならない。住職は、症状が進んでいないのは治療の効果が出ているからだと主張するが、訥言に言わせれば、それは目を使っていないからということになる。
 さらに治療費の問題もある。特別待遇は金がかかるということでもあった。さすがに金子(きんす)が底を突き始めた。
 日本一の眼科治療院でも治らないのなら、この目は治らないと覚悟を決めるべきなのだろう。
 結局訥言は、盲になれば死ねばいいという覚悟を本当に腹の底に仕舞い込んで、退院することを決めた。住職には、痛くなった時だけ治療をお願いすると告げて、明眼院を後にした。

    八

 早川家に戻ると清太夫は大いに喜び、快気祝いの宴をしようとしてくれた。しかし目の病が治ったわけではないことを知ると、それを詩筵(しえん)の会に替えてくれた。そこで席画をしようというのである。
 席上で、訥言は「絵師たる者、絵を描き続けて盲になれば本望。さすれば、皆様方、ご遠慮なくわたくしに大作をお命じ下さいますようお願い申し上げます。わたくし、全身全霊を傾けて彩管をふるう覚悟でございます」と言い放った。
 その言葉に応え、早速六曲一双の屏風絵を依頼してきたのは、大脇佐兵衛だった。
 佐兵衛は訥言に「先生のお描きになりたい画題がございましたら、いくつか上げていただきとうございます。その時、それぞれの画題でいくらの画料になるのかお示しいただければ、わたくしも選びやすうございます」と申し出た。
 訥言はじっくり考えた末、佐兵衛に書状を送り、画題として次の五つを上げた。
「四季の源氏、八両。十二月源氏、十一両。源氏宇治十帖、十両。つれづれ草十段、八両。古今著聞集十段、十両」いずれも極彩色の仕上げである。
 こう書けば、佐兵衛はおそらく源氏のどれかを依頼してくるだろうと考えていたが、意外にも彼の指定してきたのは古今著聞集だった。
 古今著聞集というのは鎌倉時代に編纂された説話集で、三十段の中に七百余りの世俗話が収められている。
 源氏やつれづれ草なら大抵の人々がその内容を知っているので、どんな話を絵にしてもそれなりに親しみの湧くものになるだろう。しかし古今著聞集は今昔物語ほど読まれていないので、絵そのものに面白みがなければならない。訥言はさんざん考えた挙げ句、「祝言」「蹴鞠」「魚虫禽獣」「和歌」「管弦歌舞」「馬芸」「遊覧」「草木」「好色」「相撲強力」の十段から十一話を選んで絵にすることにした。
 十二月半ばに屏風と金箔代の八両が届き、訥言は千六百枚の金箔を買うために京に戻った。
 土佐家での年末年始の行事を済ませ、次の日、名古屋に行こうと旅の支度をしていた時、一人の若者が訪ねてきた。月代(さかやき)の剃り跡もまだ青く、格子模様の袷(あわせ)に茶色の羽織を着ている。
「何用かな」
 若者はこちらを睨むばかりで答えない。
「今日は忙しいので、大した用でないのなら、後日にしてもらえまいか」
「佐市良でございます」
「さいちろう?……ああ、お前か」
 そういえば、目元の辺りにお市の面影がある。若者は相変わらず鋭い目付きでこちらを凝視していた。
「そんなところに突っ立ってないで、まあ、中に上がれ」
「ここで結構でございます」
「そうか。……ところでお市は達者か」
 一年ほど前、道具屋の勘助からお市が病に伏せっているという噂を聞いたことがあった。
「死にました。去年の夏に」
「そうか、それは残念だったな」
「それだけでございますか」
「うん?」
「母はよく申しておりました。お前のお父様は高名な絵師だが、家計のことなど全く顧みず、高価な絵具や古い絵巻物をぽんぽんと買ってくる男であったと。実家に頼ることも止められ、嵯峨みたいな田舎で何の楽しみもなく、毎日泣いて暮らしていたと。百両の仕事を蹴っておしまいになったことも聞きました。挙げ句の果ては、屁理屈みたいな理由で離縁されたこと。母はずっと恨んでおりました」
 二十年近くも前の話ではないかと思ったが、そのことを言っても通じまい。かといって、その頃の自分の気持ちを説明しても弁解と取られるだけだろう。
「それで、なぜここへ来た。お市の恨みを伝えるためか」
「それもありますが、わたくし、来月江戸に常磐津(ときわづ)の修行に参ります。つきましては、その餞別をいただきとうございます」
 常磐津か。こいつはまさにお市の息子であった!
「わしがお前に餞別を渡す義理がどこにあるのだ」
「出す気がないのなら、いただかなくても結構です」
 訥言は佐市良の顔をじっと見た。わしに甘えるでもなく、母親の恨みを伝えて餞別を要求する。その態度はまさに自分の子であることを証明しているようなものだ。
 訥言はなぜか愉快な気持ちになってきた。
「分かった。待っておれ」
 そう言って奥に入ると、振り分け荷物の中から大財布を取り出した。路銀の十両が入っている。それを持って玄関に戻った。
「ほれ、これを持っていけ」
 佐市良は財布を受け取ると、重さを量るように掌を上下させてから懐に仕舞った。
「それではこれで」
 礼も言わずに佐市良は玄関を出た。
「修行、頑張れよ」
 訥言が声を掛けると、佐市良が振り返った。
「今生(こんじょう)ではもうお会いいたしませぬ」
 そう言い放って、佐市良は去っていった。
 それと入れ替わるように、一宸ェ姿を現した。
「お客様でしたか」
「いや、物売りだ」
「それにしても怖い顔をしていましたが」
「わしが物を買わなかったからだろう」
 一宸ヘ両親から託された頭痛や下痢止めの薬を持ってきたのだ。
「明日、いつごろお発(た)ちですか」
「明日は発たぬ。路銀がなくなった」
「え」
「物売りにくれてやった」
 一宸ヘ怪訝な顔をして玄関の外に目をやった。
 結局、佐兵衛に書状を出して屏風絵の画料の前借りを頼み、送られてきた為替を五両に替えて、ようやく名古屋に発つことができた。

 佐市良の出現に微塵も心揺さぶられることなく、訥言は古今著聞集図の制作に没頭した。実際に描いてみて、伴大納言絵詞の模写で得られた人物描写、色彩配合、有職故実の知識、それらすべてを投入できる恰好の画題であることに気づいた。佐兵衛がこの画題を物珍しさで選んでくれたことに感謝さえした。
 一双のうち一つには五つの場面、もう一つには六つの場面を上下に配置して、その間に切った金箔を振って霞とした。
 清の助けを借りながら、屏風絵の仕上がったのは注文を受けてから半年後の六月始めのことだった。二十代、三十代を絵巻物、古画の模写に費やしてきた訥言の集大成ともいえる作品で、訥言自身も自分の最高傑作と言えるかもしれないと自負するところがあった。
 その自信通り古今著聞集図は大評判を呼び、大脇家では屏風見たさに人が大勢集まってくるほどだった。訥言と清はたびたび茶会に招かれ、そこで席画を所望されることもあった。
 尾張藩士の黒田家から六曲一双の屏風絵を依頼されたのもその頃である。一方には朝日、もう一方には夕月を描いて欲しいという以外に注文がつかなかったので、訥言は二つ返事で引き受けた。すぐに、波間から上ろうとする朝日と川の上に佇む三日月の構図が浮かび、古今著聞集図の細密描写から一転して大胆な筆致で描けること、それが目にも負担を掛けないことを喜んだ。
 屏風に金箔を貼り、下図からいよいよ本図を描こうとしていた時、金物商の岡谷惣助から早川家に逗留している訥言の許に書状が届いた。六曲一双の屏風絵を依頼したいという内容である。画題その他の詳しい内容が書かれていないので、訥言はその日の制作を中断して鉄砲町の岡谷家に向かった。庄内川を越え、一時ほどの道のりである。
 岡谷家の屋敷は大脇家に勝るとも劣らない敷地があり、両側に白壁板塀の続く門も同様に瓦屋根である。横の通用門を叩くと、しばらくして竹箒を持った下男が出てきた。訥言が名前を告げると、少し待つように言って扉が締まり、次に開いた時には若い女中が笑顔で迎えてくれた。
 女中の案内で庭に囲まれた飛び石を踏んで、数寄屋風の大きな屋敷の玄関に入った。衝立は狩野派の虎である。
 訥言が草鞋を脱いでいると、「これはこれは、先生」という声がした。見ると、岡谷惣助がにこやかな顔で衝立の横に来ていた。
「わざわざお越しいただかなくても、お呼びいただければこちらからお伺いしましたものを」
「ご主人は仕事でお忙しいと思いましてな」
「恐縮でございます」
 女中の持ってきた手水で手足を拭ってから、訥言は惣助の案内で奥に入った。濡れ縁を渡る時、左手に広大な庭が見えた。
 客間の床の間には、訥言の描いた関羽図がかかっている。
 訥言を上座に坐らせ、惣助は下座にかしこまる。世間話の苦手な訥言だが、惣助が本題の口火を切らないので、屋敷の造りや庭を褒め、惣助の仕事の情況などを尋ねた。そうしているうちに女中が茶を運んできて、それを一口飲むと、ようやく惣助が絵の話を始めた。
「先生のお描きになった古今著聞集図、大評判でございますな」
「自分でもあれはよくできたと思っております」
「あれを見ていますと、わたくしも同じようなものが欲しくなりまして、是非先生に描いていただきたいと……」
「そうでしたら、源氏物語かつれづれ草はいかがですかな」
「うーん……わたくしはもっと別なものを描いていただけたらと」
「別なもの?」
「さようでございます。佐兵衛さんのところとは違う画題で、先生の畢生(ひっせい)の大作を描いてもらいたいのですのや」
「ご希望の画題がございますのかな」
「佐兵衛さんのところに四季の草花を描いた屏風がございましたやろ」
「二曲一隻のやつですか」
「そう、それ。わたくしはあれを六曲一双にすればさぞかし華やかなものになるやろうと常日頃思っていたのでございます」
 訥言は自分の耳を疑った。この男は、光孚(みつざね)の粉本丸写しの絵がいいというのだろうか。そんな絵を六曲一双にまで広げて、それがわしの畢生の大作になると本当に信じているのだろうか。模写で培われてきたわしの技倆をほとんど発揮できない画題で傑作をものにしろというのだろうか。
「それでしたら、土佐家の光孚殿にご依頼されたらよいのではないですかな」
「いいえ、わたくしは是非先生に描いてもらいたいですのや」
 光孚では画料が五倍になると考えているのだろうか。しかしそのことは口にせず、
「源氏やつれづれ草ならば、今描いている仕事が終わりましたらすぐにでもお引き受けいたしますが、四季の草花となると、しばらく考えさせていただきたいですな」
 そう答えて、訥言は岡谷家を後にした。屋敷を出る時には、すでに引き受けないと決めていた。
 惣助の依頼などすっかり忘れて、日月図屏風の制作に取りかかった。その合間には、早川家のために扁額や息女の嫁入り衣装にまで彩管をふるった。
 振箔の技法をふんだんに取り入れた日月図屏風は十月半ばに完成した。古今著聞集図とは対照的な作風が文人たちの間で大いにもてはやされた。

 十一月に入ったある日、訥言が離れで掛軸の絵を描いていると、お客様がお出でですと女中が呼びに来た。
「誰かな」
「それが名前をおっしゃいませんので……」
 筆を置いて玄関に出てみると、頼山陽と小林香雪が立っていた。
「やはりここにお出ででしたか」と香雪が言った。
「どういう風の吹き回しですかな。お二人がこんなところにお見えになるとは……」
「実は」と香雪が訥言の耳元に顔を近づけて囁いた。「揮毫の旅の途中で、私は尾張でのお供をしておるわけです」
 つまり、出稼ぎに来ているというわけである。
 二人を上げて離れの画室を見せ、それから清太夫に紹介した。清太夫は早速山陽に揮毫を頼み、その詩は主人を大いに感服せしめた。それで詩を好む富家を何軒か紹介してもらい、訥言が紹介状を書いた。酒肴でもてなされた後、二人はその日は早川家に泊まり、次の日の朝紹介された先に向かった。
 数日後、山陽から書状が届いた。御礼の意味を込めて一席設けましたので御足労いただきたく、とあり、料理屋の名前が書いてあった。清太夫も知っている店で、不案内な訥言のために宴会当日、下男を道案内に付けてくれた。
 本町通りにある料理屋の二階に上がると、すでに二人は来ており、他にもう一人若い男がいた。香雪はその男を藩医の後輩で林良益だと紹介した。
「こいつはな、こう見えてもこの若さでなかなかの茶人でな、書画も大好きなのじゃ。一度訥言殿にお会いしたいと熱望しておってなあ」
「先日、黒田家の大茶会に招かれた際、先生の日月図屏風を拝見いたしました。雄渾(ゆうこん)壮大、寂寞(せきばく)哀愁、両者がものの見事に表現され、時が経つのも忘れて見入ってしまいました」
 あまり褒められると逆に、本当に分かっているのかと皮肉の一つも言いたくなる訥言だったが、この青年の目には曇りがなく、その言葉が素直に入って来た。
 酒席が進み、皆の酔いが回ってきた時、山陽が突然、床の間の掛軸を指差し、
「こんな絵では酒がまずくなるというものです」
 と言い出した。狩野栄信(ながのぶ)の花鳥画だったが、訥言も香雪も、その通りと手を叩いた。
 山陽は立ち上がって掛軸を外して来、それを裏返しにすると、ここに合作しようと提案してきた。良益は、悪戯が過ぎるのではと止めようとしたが、訥言も香雪もそれは面白いと興に乗り、早速訥言が山陽の筆を借りて、雨中の嵐山を描いた。香雪は渡月橋をくぐろうとする小舟を描き、山陽が七言絶句の賛を書いた。
 それを再び床の間に掛ける。
「この方がよほどいい。酒がうまくなるというものです」と山陽が自賛した。
 止めようとしていた良益も、その絵を見て感心することしきりだった。
「田中先生、一專aとは合作されないのですか」と山陽が酔いの目を向けてきた。
「どういう意味ですかな」
「一專aは絵もうまいが、和歌もいい。是非合作されるべきです」
 一宸ェ和歌を好きなのは知っていたが、所詮は手すさびである。
「山陽殿の詩に比べたら、素人同然ですからな」
「そんなことはありません。我が塾生の中でも和歌に関しては第一等ですぞ」
「我が塾生?」
「そうです。彼の両親が彼を学者にしようとしたことは、あながち間違っていなかったと私は思っているわけです」
 一宸ェ山陽の塾に入っていることは初耳だった。正月に会った時にはそんなことは一言も言っていなかったので、入塾したのは今年か。酔いがいっぺんに醒めてしまい、訥言は合作の絵を見ながら、憮然とした顔をした。
 早川家に戻ると、訥言はただちに一宸ノ書状を送った。入塾のことには一切触れずに、土佐家にある絵巻物の粉本、三十六歌仙絵巻と餓鬼草子を模写するように言いつけた。

 絵の仕事を早めに切り上げ、訥言が京に戻ったのは、年も押し詰まった頃だった。
 早速、一宸呼び出した。
「絵巻物の模写はもうすんだのか」
「いいえ、まだ取り掛かったばかりでございます」
「それはおかしいな。わしが命じたのは一ヵ月も前のこと。一巻くらいはすんでいてもおかしくはない頃だが」
「そうはおっしゃいましても、わたくしには難しゅうございますから」
「ところで、山陽殿の塾は年内はいつまでじゃ」
 一宸フ口が急に重くなった。
「名古屋でたまたま山陽殿に会ってな。お前のことを和歌に秀でており、塾生の中で第一等だと褒めておったわ」
「先生に黙っていたこと、申し訳ありませんでした」
 一宸ヘ両手を突いて深々と頭を下げた。
「いつ入ったのじゃ」
「去年の秋でございます」
「わしがいなければ絵の勉強はできぬのか」
「絵の勉強はしております」
 一宸ェきっとなった。
「でも実際には模写が進んでおらぬではないか」
「絵の勉強をおろそかにした覚えはございません」
 訥言は立ち上がって画室に行った。棚の上の書き溜めてある下図の束をめくり、その中の一枚を抜き出すと、客間に戻った。
「これを見てみなさい」
 手に持った下図を一宸フ前に広げた。
「瀧でございますが……」
「わしが瀧の図をよく描くのは何のためだと思う」
「………」
「それは自戒のためなのじゃ。瀧というのは細くて小さな渓流がいくつも集まって、山上から流れ落ちるから名瀑布となる。渓流を集めずそのまま流しても、そんなものは人知れず消えていくのみだ。一芸を以て世に立とうとする者は、力を一道に集中して百世の後までも人を感じせしめる作品を残さなければならない。分かるか」
「頼先生の元で学ぶことが絵を描くのに邪魔になると言われるのですか」
「誰も邪魔になるなどとは言っておらぬ。国学の知識は、絵に精進する中で疑問に思った時、書物を繙(ひもと)いて得(う)ればいいのじゃ。絵師を志す者が絵に精進しなくてどうする」
「わたくしは絵に対して努力を怠ってきたことはないと信じておりますが、先生からそのように見えるということは、まだまだ精進が足りなかったということだと、自戒いたします。さらに古画の模写に努めます」
「うん、よく言うた」
 一宸ヘ瀧の図をいただきたいと申し出て、それを懐に仕舞った。
「わしはな、お前が並の画才ならば、こんなことは言わん。好きにさせておく。しかし、お前には天稟(てんぴん)の才がある。その画才を花開かせるのは天から与えられたお前の使命であるぞ。分かっておるか」
「肝に銘じておきます」
 一宸ヘ再び深く頭を下げた。

 翌文化十一年(一八一四)、年が明けて早川家から伏見街道の訥言の家に書状が届いた。岡谷惣助が訥言の帰りを待っているというのである。
 四季草花の屏風絵の依頼をまだ諦めていないのかという驚きと共に、あるいは画題を源氏かつれづれ草に変えてくるかもしれんと淡い期待を抱きつつ、訥言は早川家に戻った。
 惣助に書状を出すと、日を置かずして彼がやって来た。紋付き羽織袴の正装で、しかも脇差しを差している。その姿に並々ならぬ惣助の決意を感じた訥言は、自分も小刀を腰に差して対峙した。客間に同席した早川清太夫は一緒に茶を飲んだ後、早々に退席した。
「先生、わたくしが先生に屏風絵をお願いしてから、すでに四ヵ月が経たんとしております。お引き受けいただけるのかいただけへんのか、ご決意のほどをお聞かせください」
「引き受けかねます」
「なぜ」
「なぜ? ならばこちらからお伺いいたしましょう。なぜ四季草花に拘るのか、なぜ源氏やつれづれ草ではいけないのか」
 惣助が考え込むように口をつぐんだ。そしておもむろに口を開いた。
「商人としての勘、とでも申しましょうか。六曲一双の四季草花の図はなかなか見かけるものやない。世の中にあまりないもんを手に入れる。そういうことでございます。何よりもあの大脇家の屏風を見た途端、これの六曲一双がほしいと思ってしまったのでございます」
 訥言は自分より十歳も年下の男の顔をつくづくと見た。茫洋とした表情の中で、目だけがすべてを見通すような光を帯びていた。この男には小手先の言い訳など通用しないだろう。
「わたくしがなぜ返事を四ヵ月も引き延ばしたのか、その理由を正直にお話ししましょう」
 と訥言は話し始めた。
 光孚の描いた四季草花折枝図は粉本をそのまま下図にしたもので、あれでは生きた姿を描いたことにはならない。自分が描くとすれば、すべての草花を自分で写生して下図を描く。二曲一隻で二十種類なら、六曲一双ではその六倍の百二十種類。切りのいいところで百種類を描くとしても、一つの季節で二十五種類にもなる。そのうちのいくつかは今まで写生したものがあるが、描くとしたら自分としては一から写生し直したい。そうなると最低でも一年はかかる。順調にいっても、一年半はかかるだろう。
「それだけお待ちいただけますかな」
「もちろん。いつまでとは期限を設けませんので」
 新たな写生をして細密に描くだけの体力があるかどうか、特に目が酷使に耐えられるかどうか。それが訥言にとって一番の不安材料だったが、それを伝えることは潔しとしないという思いがあった。それを伝えて相手が依頼を引っ込めたら、絵を描いて盲になるなら本望といういつかの宣言が嘘になる。
「費用の点はよろしいか。百種類の草花を描くにはかなりの量の岩絵具を用意しなければなりませんからな」
「その点もご心配には及びません。金には糸目をつけませんから」
 金に糸目をつけないだと? その言い方に訥言はかちんと来るものがあった。もとより本当に無制限に使ってよいということではなく、いわば言葉の綾であることは訥言も分かっているのだが、大脇佐兵衛のように画題と画料を勘案して注文してくれる方がどれだけ清々しいことか。惣助の言葉に豪商の傲慢を感じてしまったのだ。
「それなら」と訥言は言った。「箔代と絵具代で三十両ほど用意してもらいましょうか」
 普通の三倍である。もしこれで少しでもためらう素振りを見せたら、直ちに断ってやろうと訥言は惣助をじっと見た。
「分かりました。すぐにご用意いたします」
 惣助はにこやかな顔で即答した。
 もやもやとした気持ちのまま、訥言は百花百草図屏風を引き受けることになった。他家の仕事のために一年以上も早川家の離れを借りることはできないので、訥言は惣助の勧めもあって岡谷家に移った。早川家よりもさらに大きい離れで、屏風を広げて描くには十分な広さがあった。
 惣助から三十両の金子を渡され、訥言は画材を買うために京に向かった。ところが熱田に着くと、海上が時化で荒れていて、桑名への船が出ない。急ぐ時は陸路で佐屋宿まで行き、そこから海岸沿いに木曽三川を渡り桑名まで行く方法もあったが、かなり遠回りすることになる。別に急ぐ旅でなしと訥言は船が出るまで熱田で待つことにした。伝馬町の遊郭街は、同じように考えている旅姿の男たちや神宮詣での帰りに立ち寄った町人たちで賑わっており、どこからともなく三味線の音も聞こえてくる。
 光孚と来て以来、京への行き帰りにたまに顔を出す店がある。その前まで来ると、「せんせ」と一人の女が格子戸から手を伸ばしてきた。馴染みの遊女である。
「お久しぶり。お寄んなさいな」
 もとよりそのつもりなので訥言は登楼し、他にも何人か女を呼んで酒を呑み、大いに騒いだ。少々散財しても懐には十分な金子があると構えていた。
 次の日も船は出ず、流連することになり、三日目海上が治まった時には二日酔いで体を動かすのも億劫になっていた。迎え酒と称して酒を呑み、夜にはまた大宴会で金を使った。
 結局四日間で三十両を使い果たしてしまった。さすがに、まずいことになったと訥言は思った。しかし一方では、この程度の散財は大作をものにする前の景気づけだと居直る気持ちもある。金に糸目はつけぬと言った惣助がどのような対応を見せるのか、じっくりとみてやろうという気持ちで岡谷家に戻った。
 惣助を前にして、訥言は何ら悪びれることなく、熱田の遊郭で金を費消したことを告げた。惣助は笑いながら訥言の話を聞くと、「先生もなかなか隅に置けませんな」と言って、ただちに三十両を用意させた。訥言の行為を非難する様子は微塵もなく、本当に面白がっているとしか思えなかった。
 三十両を懐に、再び訥言は京に向かった。熱田では足止めになることなく無事に桑名に渡り、東海道を歩いていった。
 道中、訥言の胸の中には、まだもやもやとしたわだかまりがあった。確かに、わしの行為を怒ることなく再び三十両を出したことは、惣助の度量の大きさを示すことにはなる。誰が見てもそうだろう。しかし、それは形を変えた傲岸さを示してはいまいか。三十両といえば大金である。いくら豪商といえども、それは一分二分という金が集まったものだ。その金を稼ぐ苦労も十分分かっているはずだ。それなのに、そんなことはおくびにも出さず、わしの行為を面白がる。そこにどこか正直でないにおいを感じ取ったのだ。
 訥言としては、自分の背信行為に怒り、商売の苦労を諄々と説いてくれる方がまだよかったのだ。もっとも、惣助がそういう態度に出たら、これ幸いとばかりに屏風絵の依頼を蹴ってしまうことになっただろうが。
 大津に着き、明日は京に入るという時になって、このまま唯々諾々と惣助の言いなりになってはいけないという思いが急速に膨れ上がってきた。
 訥言は以前小林香雪と遊んだことのある茶屋に寄った。珍しい人が来たと歓待され、そこで連日の宴会となり、再び三十両を使ってしまった。
 今度こそは顔色を変えるだろうと、惣助が怒ることを密かに期待しながら、訥言は名古屋に戻った。
 しかし今度も惣助は顔色一つ変えることなく三十両を用意し、あろうことか路銀として六両を足してくれた。
 負けたと訥言は思った。ここまで来ると、傲岸もむしろ潔いと思えるほどだった。何度繰り返しても惣助の態度は変わらないだろう、そう思わせるものがあった。
 胸のもやもやも綺麗さっぱり拭い去られ、清々しい気持ちで訥言は京に赴いた。
 金箔、岩絵具など三十両全部を使って最高級のものを調達した。そして自分の家に寄って書き溜めた草花の下図を全部持って、名古屋に戻った。その下図を使うわけではないが、最初に構図を決める時に使うつもりだった。仮決めしておくと、実際に写生する時にどういう姿を写したらいいのかはっきりするのである。
 屏風の紙は檀紙(だんし)にした。檀紙というのは縮緬状のしわのある紙で、普通は紙本には使わない。壇紙では金箔を貼るのも時間がかかるし、しわがあると筆が滑らないため線が伸びないのだ。
 それでも訥言が拘ったのは、金箔を貼った大画面をどう処理をすれば、絵が引き立つかを絶えず考えていたからである。「古今著聞集図屏風」では振り箔という技法で各場面を区切り、「日月図屏風」では金銀砂子を振って陰影を出すという画面処理をしている。今度はどういう処理をすればいいのか、いろいろ考えた挙げ句、金箔に皺をつけたらと思いついたのだ。
 助手をすることになった渡辺清は、どうして鳥の子紙を使わないのかと批難めいた口調で聞いてきた。
「確かに鳥の子紙のほうが描きやすい。しかし今回わしはあえて描きにくい壇紙にしたのじゃ。でこぼこがあると一本の線にも陰影が出て、絵に趣を与えてくれるかもしれんと考えてな。まあ、失敗したら失敗した時のことじゃ」
「でも先生の目の状態を考えたら、描きやすい方が絶対にいいと思いますが」
「わしの目のことなど心配せんでいい。何事もやってみるのだ」
 そう強い口調で言うと、清は仕方がないというように口をつぐんだ。
 描く草花を何にするか。持ってきた下図と植物図譜を見ながら、名古屋近郊で写生できるものを決めなければならない。
 ただ雑然と配置するだけなら、どんな草花を選んでもいいが、それでは絵にはならない。背の高いもの低いもの、横に広がるもの広がらないもの、花のあるなし、その大小、地面から生えるもの、枝から垂れ下がるもの……。
 構図に悩んでいたある日、惣助が、面白い書物を見つけましたと画室にやって来た。手に大判の和綴じ本を持っている。見ると、表紙に『北斎漫画』とある。
 訥言は、蓬髪(ほうはつ)で、笑うと歯が剥き出しになる葛飾北斎の顔を思い出した。あの時書肆の男が話していた本がこれかと感慨にふけりながら、本を捲った。
 そこには七福神の絵から始まって、様々な人物像、動物、植物、建物から瀧の絵まで、何の脈絡もなく雑多に詰め込まれていた。最初はその観察眼の確かさに感心しながら、面白く見ていったが、次第に息苦しくなってきた。森羅万象を写すと言った北斎が、まさにそれを実践していると感じられたからである。言葉の綾ではなく、愚直にそれを行っている。北斎からお前はどうなのだと突きつけられている気がした。
 よーし、わしは百花百草を北斎以上に精密に、しかも雑然とすることなく、一幅の絵として観ることのできる屏風絵を描いて見せよう。
 訥言はそれから何十通りもの構図を実物大の紙に描いて、ようやく次の種類を選んだ。
 まず右側の屏風には、春蘭、鯛釣草、蕨(わらび)、蓮華草、土筆(つくし)、すぎな、大根の花、大麦、菜の花、菫(すみれ)、藤、福寿草、竜(たつ)田(た)撫(なで)子(しこ)、紅・白・桃色の石竹、八重芥子(けし)、芥子、なずな、立葵、鳶尾(いちはつ)、鉄砲百合、姫百合、薮蘭、露草、双葉葵、鷺草(さぎそう)、野(の)萱(かん)草(ぞう)、犬稗(いぬびえ)、桜草、蚊帳吊り草、蒲(がま)、藺(い)草(ぐさ)、面高(おもだか)、白・紫の杜若(かきつばた)、檜扇(ひおうぎ)、鷹羽薄(たかのはすすき)、千日草、昼顔、仙翁(せんのう)、花菖(しよう)蒲(ぶ)、花(はな)蓼(たで)、菱、河骨(こうほね)、疣(いぼ)草(ぐさ)、未(ひつじ)草(ぐさ)、刈萱(かるかや)、山百合、野(の)薊(あざみ)、透(すかし)百合、秋海棠(しゅうかいどう)、水(みず)葵(あおい)、浮草、など五十四種。
 左側には、鳥兜(とりかぶと)、駿(す)河(るが)蘭(らん)、屁糞蔓(へくそかづら)、槍(やり)鶏(げい)頭(とう)、鶏頭、犬(いぬ)千(せん)振(ぶり)、難(な)波(に)薔(わ)薇(いばら)、葉鶏頭、藤袴、釣船草、葦、沢(さわ)桔(ぎ)梗(きよう)、南蛮煙管(なんばんぎせる)、穂の芒(すすき)、朝顔、芙蓉、桔梗、白・紫の二重桔梗、野(の)紺(こん)菊(ぎく)、黄蜀葵(とろろあおい)、白・紅の菊、萩、吾亦紅(われもこう)、女郎花(おみなえし)、撫子、金盞花(きんせんか)、雌(め)日(ひ)芝(しば)、寒牡丹、寒菊、井の元草、葛、竜胆(りんどう)、山帰来(さんきらい)、石蕗(つわぶき)、万年青(おもと)、口紅水仙、八重水仙、など四十種。
 計九十四種の草花の配置を決めてから訥言は写生道具を携えて岡谷家を出た。季節は早春。風はまだまだ冷たいが、訥言は寒さを感じなかった。若い頃、草花の写生で嵐山や東山を歩き回った記憶が甦り、何やら初心に戻ったような興奮を覚えた。
 堀川端に土筆を見つけ、早速紙と絵筆を取り出した。写生を始めるとつい何枚も描いてしまうのは若い時からの習い性のようなものである。気がつくと日が頭上に昇っており、訥言は岡谷家の賄いで作ってもらった握り飯を頬張り、瓢箪の水を飲んだ。
 昼から川向こうの里山で福寿草を見つけたが、その後はいくら歩き回っても収穫がなく、訥言はしょんぼりとして鉄砲町に戻った。季節がまだ早いということよりも、自分の視力が衰えていることが原因だと考えてしまうのだ。右目の視界の真ん中に居座る暗い部分が徐々に広がっているのを自覚せざるを得なかった。
 岡谷家の離れで写生してきた下図を調べていると、惣助が顔を出した。
「先生、写生の方はいかがやったですか」
「いやあ、慣れない土地なのでどこにどういう草花があるのか、なかなか見つけにくいものですな」
「それでしたら、店の者に手伝わせましょう」
 惣助は店の者に植物図譜を回し、外に出かけた時草花を見つけたら知らせるように言いつけた。さらに、花好きの女中に草花探しの役目を与え、一種類につき一分の報奨金を出すと約束した。
 訥言は報告があるとその場に行って写生をし、その下図を元にただちに屏風に絵を描くのである。
 今回は輪郭線を描かず、形と色を一度に描いていく没骨法(もっこつほう)を採用するので、今まで以上の集中力が要求される。屏風に渡した木板の上に腹ばいになり、下図を見て目を屏風に近づけ、筆を慎重に動かす。色の調合は訥言が言葉で指示し、清が行った。渡された絵皿の絵具を一旦襖と同様の試し紙に塗って確かめてから、本図に使う。訥言の印象と違うと、何度も調合のし直しになる。
写生でも本図でも気がつくと左目を使っており、集中して描き続けていると熱を持ってくる。その度に畳の上に仰向けになり、清の用意してくれた濡れ手拭いを目に当てる。曇りの日だと障子を開け放しても光が弱く、さらに目を近づけて制作しなければならない。曇りの日は描かずに目を休められたらと清は進言したが、そんな言葉を聞くような訥言ではなかった。
 四ヵ月ほど過ぎて春の草花をほぼ描き終わった頃、清がお願いがございますと訥言に言った。
「この絵は先生の畢生の大作になることは間違いないとわたくしは思っております。つきましてはわたくしが助手を務めたという印をどこかに残したいのですが、駄目でしょうか」
「そうか。お前も絵具の調合だけでは退屈であろう。惣助殿がいいと言われるのなら、裏に何か描いたらどうか」
 清は大いに喜び、惣助の許可を得て、裏面に雲母と胡粉で鳥襷文(とりだすきもん)を描くことになった。
 秋になって屏風の半双が完成すると、訥言は明眼院に行くと言い出した。少し前から右目が再び痛くなっており、半双描くまではと我慢していたのだ。
 突然の申し出に、清も惣助も驚いたが、「なあに、痛みが取れたらすぐに戻ってくるゆえ、心配なさらぬように」と笑って岡谷家を出た。
 明眼院では住職が診察し、病状が進んでいることを告げた。この前と同様に長期の入院を勧められたが、訥言は五日間の治療で痛みがなくなると、さっさと岡谷家に戻ってきた。
 惣助は驚くと同時に困惑した表情を浮かべた。
「先生、目のためにもしばらく休養されたらいかがやろか。私の方はいつまででもお待ちいたしますから。何やったら、できあがっとる半双だけでも構いません。先生のお体が心配や」
「そうおっしゃっていただけるのはありがたいですが、絵を描こうと描くまいとこの目は治りません。どちらにしても失明するのなら、描くしかないということですな」
 訥言が静かに言うと、惣助はそれ以上何も言わなかった。
 秋の草花が急に見つからなくなったのは、その後だった。惣助が制限しているのに違いないと考えた訥言は、本図に描き写す下図がなくなると、自ら草花を求めて外に出た。それこそ朝早くから夕方遅くまで。却って体力を消耗することになり、惣助は訥言に謝って再び店の者に探させることになった。
そんな折、朝早くから訥言が屏風に渡した木板に腹ばいになって絵筆を動かしていると、離れの外で足音がした。ようやく清が来たかと思って、襖の開いたのに目をやると、渡辺清の他に二人の男が入って来た。清と同じような年恰好である。一人はがっしりとした体躯で丸顔、もう一人は細身の体で顔も細面。二人ともどこかで見たことがある。
「先生、遅くなって申し訳ありません。この二人がどうしても先生の仕事ぶりを見たいと言うものですから」と清が言った。
 訥言は葉の一枚を描き終わると、体を起こした。
「お二人にどこかでお会いしたことがなかったですかな」
「二年前に、東山展観でお会いしたことがございます」
 とがっしりした方が答えた。
「ああ、そうじゃった」と訥言は大きく頷いた。「山本梅逸(ばいいつ)殿でしたな」
「お見知りおきいただき、ありがとうございます」
「そして、そちらが中林竹洞(ちくとう)殿でしたな」
 細面の男が静かに頭を下げた。
「先生がこの二人をご存じだとは知りませんでした」と清が言う。
「あの時の画会では、お二人の絵が群を抜いていましたからな。こちらでもお二人の名前は、いろいろな方々から聞いておりますぞ」
 二人はともに訥言とは違って南画を描いており、水墨の技に目を見張ったのだった。
「この二人とは竹馬の友でして、土佐の絵を学ぶことを強く勧めてくれたのもこいつらです」と清が言うと、
「漢学を学んでいる我らはもとより南画を描くのが使命ですが、清は狩野から入ったので、それなら日本古来の土佐の絵を目指せとけしかけたわけです」
 そう言って、梅逸は笑った。
 二人が、描き上がっている半双の屏風絵を見たいと所望したので、隣室に行き、清が畳んで立てかけてある屏風を広げてみせた。障子に射す朝の光を受けて、金色の地に色鮮やかな草花が浮かび上がった。
「ほう」と声を漏らしたのは梅逸である。竹洞は近づいていって、目を凝らしている。
「どうだ。すごいだろう」
 清が自慢げに言った。
「これを観ていると、自分も土佐絵を勉強したくなるなあ」と梅逸が言う。
 中腰で屏風に目を近づけていた竹洞が、険しい目をして振り返った。
「梅逸、何を言うか。我らは気韻、写意を第一等とする南画を描いているのを忘れたか。土佐絵のように粉本を押し頂く絵とは対極にあるのだぞ」
 ほほうと訥言は思った。土佐絵に対する痛烈な批判だが、不思議と腹は立たない。自分の信じるところを真っ直ぐに主張する竹洞の姿にむしろ好感を持ったほどだった。
「竹洞」と清が語気を強めた。「この絵が粉本を写しているというのなら、それはお前の大いなる勘違いだ。ここに描いてある草花はすべて先生が自ら写生したものだ」
それを聞いて竹洞は再び襖絵に目をやると、
「なるほど、道理で生き生きとしているわけだ」
「分かっておるではないか。それなら土佐絵を馬鹿にするような物言いは慎むべきだ」
「誰も馬鹿になどしておらん。しかしここに描かれているのは、応挙の言う真写だろうが、それも気韻がなければ、ただの俗受けする絵に過ぎまい」
 竹洞の主張は正論だが、事はそう単純ではない。訥言は画室に行って、下絵の束の上に置いてある『北斎漫画』を手に取ると、隣室に戻った。
「竹洞殿はこの書物をどうご覧になるかな」
 と訥言は竹洞に『北斎漫画』を手渡した。
 竹洞はそれをぱらぱらと捲ると、「なかなか面白い本ではありますが、所詮は絵手本でしょう」と言って、返してきた。
「これは葛飾北斎という浮世絵師が、森羅万象を写してみせるという意気込みの下に描いた物。その意気込みは竹洞殿の言われる気韻に当てはまるのではありますまいか」
 竹洞は、しばし沈黙してから、
「意気込みは認めますが、それを気韻とは思いません。所詮本を数多く売るための手段に過ぎない。そういう俗な思惑を排したところにあるのが気韻です。浮世絵師にそれがあるとは到底思えません」
「わしは浮世絵師にもそれがあると思っておるのだが……」
「先生がそういうお考えなら、わたくしとは全く相容れません。これにてご無礼いたします」
 竹洞が部屋を出て行こうとするのを梅逸が止めた。しかし竹洞はその手を振り切って、出て行ってしまった。
「先生、竹洞の振るまい、お許し下さい」
 狼狽した声でそう言うと、梅逸は竹洞を追っていった。清も後に続く。
 残された訥言は『北斎漫画』を手に、緩やかな笑みを浮かべた。竹洞の姿に、応挙に対した時の若い頃の自分を見たのだ。
 しばらくして清が戻ってきた。
「先生、大変申し訳ありませんでした。普段はあんな男ではないのですが……」
「清、お前は良い友を持っておるな」
「は?」
「竹洞も梅逸も素晴らしい絵師じゃ。大事にせえよ」
「はい」
 清がほっとした顔をした。

 竹洞の言った気韻というのは、自分にとって草花の命を絵に吹き込むことだと解釈した訥言は、さらに精神を集中させて彩管を取った。
 目に熱を帯びることがしばしばとなったが、寸時の休憩でそれをしのいで、描くことに没頭した。失明するまでまだ時間はあるだろうとは思いながらも、訥言の中に焦る気持ちがあった。とにかくこの「百花百草図屏風」だけは何とか仕上げておきたい。訥言は年末年始も名古屋に留まって制作を続けた。

 翌文化十二年(一八一五)の初夏、一年余りに渡った屏風絵がついに完成した。誰よりも喜んだのは岡谷惣助であり、それが画料百両に表れていた。いくら細密といえども百両というのは、普通の五倍である。土佐家の筆頭弟子とはいえ無位の訥言がもらう額ではない。
 それまでの訥言なら、それを富家の傲岸と取ったかも知れない。しかし今回、訥言は素直に受け取った。惣助が自分の体のことを心配してくれ、しばらく休養したらどうかという暗黙のうちの勧めであると感じたからである。
 それにしても多すぎた。訥言は清に「半分はお前のものだ」と小判の五十両包みを差し出したが、「とんでもない」と清は手を振った。
「惣助殿からすでにいただいております」
「そうか。そこまで気をつかっているのか」
 過分の画料に応えるには、絵を描くしかない。訥言はもう一つ六曲一双の屏風絵を描いて岡谷家に進呈することに決めた。画題は自家薬籠中の人物行事画。公家や民間の行事を一月から十二月まで月ごとに一つ描いて屏風に仕立てる、いわゆる十二ヵ月図屏風である。
 惣助は画材代や画料も払うと申し出たが、訥言はそれを固辞した。
 しばらくして、「百花百草図屏風」のお披露目茶会が開かれ、出席した茶人たちは「古今著聞集図屏風」に勝るとも劣らない出来映えに賞賛を贈った。訥言もその席に呼び出され、口々に褒め言葉を聞いたが、終わった仕事よりも今描いている十二ヵ月図屏風のことが頭にあるため、適当に受け流し、後は清に任せてさっさと離れに引っ込んだ。
 十二ヵ月図屏風は水墨淡彩なので清の助けも借りず、一人で制作した。右目が見にくいので左目だけで描いていたが、三ヵ月後、完成した時には、右目の視力を完全に失っていた。さらには左目にも端の方から黒い影が侵入していた。

    九

 その後、大脇佐兵衛のために、靱猿(うつぼざる)図、菊に鳩、さつきに孔雀の双幅を描いたが、大作の注文はぱったりと来なくなった。それは訥言の右目が失明していることを、皆が知っているからであり、病状の悪化を懸念して注文を出さないのであった。
 もっとも、「百花百草図屏風」のような注文が来ても、訥言にはそれに応えられるだけの体力、視力はすでになかったのだが。
 自ずと名古屋よりも京に滞在することが多くなった。彩管をふるう機会が少なくなったのは寂しいが、その分一宸フ指導に力を注げるのが楽しみだった。
 しかしその一宸フ画力がここのところ伸びていないことに訥言は気づいていた。三十六歌仙絵巻と餓鬼草子の模写の後、鳥獣戯画と勝絵絵巻の模写を課題として与えておいたのだが、持って来た写しを見て、訥言は愕然となった。
「何だ、これは。線がまるで生きていないではないか」
 訥言は手にした紙を一宸フ目の前で振って見せた。一宸ヘうつむいている。
「わしに見せなければならないから急いで描いたのであろう。なぜ、そういうことをする。模写は形を写すのではない。心を写すのだ。線をなぞることによって、それを描いた絵師の心を感じることなのだ。今まで何度も言ってきたであろう」
 一宸ヘ顔を上げ、「先生」と静かに言った。「確かに私は急いで描きました。おっしゃるように心を写す余裕もなく模写しました。しかし、今の私には古(いにしえ)の絵師の心を感じる気持ちにはなれないのです。今の私は今生きている人間の心を感じたいと思っているのです」
「何を言うのだ」
「先生、絵とは一体何でしょうか。私には絵を描くということがどういうことなのか分からなくなってきました。頼先生の塾に出入りしておりますと、自分が何も考えていなかったということが、よく分かります。歴史や儒学、国学を学ぶことは今の世の中を考えることなのです。絵ではどうしてそれができないのでしょう」
 山陽の書いた『日本外史』に一宸ェ影響を受けていることは明白だった。他の塾生たちも山陽の天皇親政への志向を受けて、御政道への批判を強めているのだろう。英吉利(イギリス)の船が和蘭陀(オランダ)の船と偽って長崎の出島に入港した事件や、露西亜(ロシア)の船が蝦夷地に現れた話など、訥言も名古屋の豪商たちから聞いたことがあり、一揆も各地で多発して、ちょっと前には越後で大規模な騒動があったことも耳にしていた。将軍家斉(いえなり)は大奥に入り浸って、政務は幕閣に任せきりで、俗物中の俗物と揶揄されていた。そういう噂と相まって、公然と幕府の弱腰が批判されるとなると、一宸フような若い者たちが山陽の言葉を受け入れるようになるのは無理からぬところがあった。
「一宸諱Aお前が世を憂うのは分からぬでもない。しかし絵師が絵を捨てて何をするのじゃ。山陽殿とて今の言葉が直ちに生まれたのではないぞ。古の万巻の書を読んでようやく出てきた言葉なのじゃ。お前が絵の何たるかも分からぬうちに絵を捨てて他の何かを求めても、それが身に付くと思うのか。古画に筆法を求め、それが身に付いた先に、世を動かす絵が描けないとどうして言えようか。それを目指せばよいではないか」
「先生のおっしゃること、分からないではありません。しかし私にはそれが遠回りのような気がしてならないのです」
「急がば回れという言葉もある」
「ほら、先生も人を動かそうとされる時には、そのように言葉を使われるではありませんか。今の世で人を動かすには言葉の方が絵よりもはるかに力があると思います」
 訥言は一瞬言葉に詰まった。
「揚げ足を取るでない」思わず怒鳴り声になった。「お前が悩んでおるから、それに言葉で答えようとしておるのではないか」
 一宸ェきっとした顔をした。
「とにかくこんな気持ちのままでは、絵に向かうことはできませんので、しばらく休ませていただきとうございます」
「何と、それは本心か」
「さようでございます」
「以前、わしが、天稟(てんぴん)の才を花開かせるのは天から与えられたお前の使命だと言った時、お前はどう答えたか覚えておるか。肝に銘じると答えたのだぞ」
「覚えております。しかし、自分には天稟の才がないことがはっきりしましたゆえ、決して嘘をついたわけではありません」
「馬鹿者! 自分の才を自分で決める馬鹿がどこにおる」
「ここにおります」
「もうよい。とっとと出て行け」
 訥言が怒鳴ると、一宸ヘ一礼して走り去るように出て行った。
 しばらくして興奮が治まると、弟子の迷いを打ち払う明確な言葉を持たないことに、歯ぎしりする思いが募ってきた。
 それから五日経っても十日経っても、一宸ヘ姿を現さなかった。訥言は次第に不安になってきた。まさか絵を捨てるわけはあるまいと思っていても、万が一ということもある。しかし師匠としてこちらから折れるような真似はできない。
 思い悩んだ末、訥言は塾の終わる時刻を見計らって二条通高倉東入にある山陽の家に行った。山陽の妻、梨影(りえい)の案内で塾部屋に入ると、山陽は文机の前で書き物をしていた。
「田中先生、目の調子はいかがですか」
 そう言いながら筆を置き、訥言の前に座り直した。
「何とかまだ左目は見えておりますが、いずれこの目も見えなくなりましょう」
「治療はお受けになっているのですか」
「痛くなければほったらかしです。医者には治しようがないですからな」
「そんなことをおっしゃらずに、根気よく治療された方がいいのでは」
 訥言は笑って応えない。
 梨影が茶を運んできて、静かに出て行った。山陽は湯飲みを手に取ったが、訥言はそれには手を付けず、いきなり畳に両手を突いた。
「山陽殿、一宸破門にはして下さらぬか」
 茶を飲もうとしていた山陽は怪訝な顔をして湯飲みを下に置いた。
「破門とは穏やかならぬ言い方ですね」
「それは分かっております。しかしここで破門してもらわねば、一宸ヘ絵を止めるかもしれませんのじゃ」
「絵を止める?」
「そうです」
 訥言は先日の一宸ニのやり取りを話して聞かせた。
「なるほど、それで破門してほしいということですか」
「一宸ヘ必ずや一流の絵師になる男です。ここでその道を絶ってしまうのは、どう考えても惜しい」
「田中先生、先生のおっしゃることはよく分かりますが、天の赴かせる所にしか人は赴かないという言葉をご存じですか」
「……一宸フ好きにさせろと」
「その通りです。彼が絵の道を断念するのなら、それはそれで仕方がない。天の赴かせる所に従ったまでです」
 その時杉戸がわずかに開き、梨影が「旦那様、ちょっと」と声をかけてきた。山陽が立って廊下に出た。
「田中先生のお言いやす通り、一宸ウんを破門になさいまし」梨影の潜めた声が杉戸越しに聞こえてきた。「旦那様も一宸ウんの絵の才能をお認めになっていたではおへんか。うちも一宸ウんは絵の道に進むべきだと思います」
「梨影もなかなか言うのう」
 山陽の余裕のある声がそれに応じた。
 すぐに戻ってきた山陽は、「一專aを破門にはいたしません。私に言えることはそれだけです」と言うと、腕を組んで黙ってしまった。
 とりつく島がないとは、このことである。訥言はもやもやした気持ちを抱えたまま、山陽の家を後にした。
 それからまた数日が経った頃、山陽が一宸連れて現れた。
「今日は一專aも入れて、三人で飲み明かそうと思いましてな」
 山陽は手にした酒瓶を持ち上げてみせた。一宸煢スやら包みを下げている。
「途中でうまそうな鰻の蒲焼きを売っていましたので、買って参りましたぞ」と山陽が得意そうな顔をした。
 下女に用意をさせて、三人で酒盛りになった。思えば訥言にとって一宸ニ酒を酌み交わすのは初めてのことだった。
 訥言の杯に一宸ェちろりで酒を注ぐ手つきがぎこちない。
「ところで」と山陽が言った。「一專aは田中先生の門下に入られて何年になるのかな」
「十年でございます」
「それで先生の域に少しでも近づけたかな」
「いいえ、とてもとても……」
 一宸ェ首を振った。
「そうであろうな。何年か前、尾張に揮毫の旅に行った際、先生の屏風絵を見せてもらったことがあるが、その時ほど自分に画才がないことを残念に思ったことはなかったよ。言葉は時代と共に変わっていくが、絵は変わらない。優れた絵は永遠ではないかと。自分の文才と先生の画才を取り替えてほしいと思ったほどだよ」
「山陽殿も画才がおありではないか」と訥言は言った。
「いやいや、私のは所詮素人芸です。修行を積んだ絵師に勝てるはずがない」
 山陽が間接的に一宸ノ、絵の道を捨てるなと言っていることに訥言は心の中で感謝した。
「一專aも一度尾張に行って、先生の屏風絵を見たらどうか。先生の模写した絵巻物もすごいが、それで身に付けた筆の力を存分に生かした絵は、もっとすごいですぞ」
「できれば見とうございますが……」
「私が揮毫の旅に出かけられるのなら、すぐにでも連れて参るのだが」
 訥言にしても名古屋から招聘があれば、助手として一宸連れて行けるのだが、そうでなければさすがに路銀を自費で賄うのはかなりの出費になる。
 渡辺清に書状を書いて一寤齔lだけでも名古屋に行かそうかと考えていた矢先、尾張藩藩医の林良益から書状が届いた。尾張在住の訥言の絵の愛好者を一堂に集めて、訥言の新作の公開と即売会を開きたいと書いていた。良益は何度も訥言の目のことを心配してくれていたので、その治療費やこれからの生活費を即売会で賄おうと意図しているのだろう。そのことは訥言も理解した。しかし自分にはもう細密な絵は描けない。となると絵は高くは売れない。
 そのことを良益に伝えると、細密でなくても構わない、その代わり数で驚かせましょうと、二百幅画会を提案してきた。あらかじめ百幅ほどを用意しておいて、残りの百幅は席画で描いたらどうかと言うのである。会費を二百疋と低額にして、二百幅すべて売れたとして表装代を差し引いても五、六十両にはなるだろう。
 訥言は良益の提案を受けることにした。金が必要なのはもちろんだが、この仕事が最後の大仕事になるという予感があったからだ。
 画会の日を半年後に設定し、その日に向かって少しずつ描き出した。画題を考え、構図を決めることは無上の喜びだったし、筆を動かしていると右目も見えず、左目の視界も狭まってきた憂愁を忘れることができた。
 二百幅と聞いて始めは心配していた一宸セったが、密画ではなく構図の面白さで見せる絵ということで納得し、絵具の調合などを手伝ってくれた。画題が浮かばない時も一宸ニ絵の話をしていると思いついたりした。一宸フ行く末については一切言及しなかった。山陽の言うように、天の赴かせる所に赴けばいいという心境になっていた。
 絵が二十枚ほど描き溜まると、良益の元に送る。良益はそれを表装して掛軸にしてくれるのである。
 そうやって最後の絵を送ったのが夏の終わりで、画会の二十日前だった。目の調子も休み休み描いたせいか悪化することもなく、この分なら席画も十分にこなせそうだった。
 画会にはもちろん一宸助手として連れて行くことにした。向こうでは清も手伝ってくれるので、もし自分が席画を務められなくなったら二人に任せることもできる。それは訥言にとって心強いことだった。
 画会の前日は歓迎会が催されることになっていたから、その前に着くよう余裕を見て京を出発した。一宸ノとっては長旅そのものが初めてだったので、街道沿いの風物に盛んに興味を示し、その都度訥言が教えてやった。旅姿で一緒に歩いていると、日頃の師弟という関係が薄れ、親子のような気持ちになっていくのが訥言には何とも面はゆかった。
 歓迎会の前日は清の家に泊めてもらい、翌日、三人で会場となる本町の料理屋に向かった。
 二階の大広間にはすでに十数人の客たちがおり、中には大脇佐兵衛や岡田惣助、早川清太夫の顔が見えた。林良益が「ようこそお出で下さいました」と言いながら、訥言たちを上座に案内した。
 膳に載った料理が運ばれて来、酒も用意されると、良益が訥言の来名を歓迎する口上を述べた。
「明日からの画会では、一幅でも多く売れますように皆様方のお知り合いにも声をかけていただいて、数多くの方々に足をお運びいただきますようお願い申し上げます」
 続いて訥言が挨拶に立った。
「思い起こせば、わたくしが名古屋に来るようになってから早七年になります。その間ここにおいでの皆様方のご支援を得て絵の制作に励むことができましたことは、訥言、一生の喜びでございます。しかしながら近年の宿痾の眼病により彩管をふるうこともままならず、今回の画会を最後に京に戻るつもりでおります。今後はここに控えます一番弟子の渡辺清、二番弟子の浮田一宸お引き立て下さいますよう、特に清は名古屋在住ですのでよろしくご支援のほどお願い申し上げます」
 訥言は腰を下ろし、両側の二人を促して一緒に頭を下げた。
 それから宴会になり、佐兵衛や惣助、清太夫がやって来て口々に訥言の帰洛を惜しんだ。

 二百幅画会の会場は門前町の極楽寺で、朝、訥言たちが到着すると、すでに多くの人たちが受付の順番を待っていた。
 本堂では訥言の絵の掛軸が須弥壇を取り囲むようにずらりと掛けられていた。訥言は本尊に手を合わせてから、その前に用意されていた毛氈に腰を下ろした。清と一宸ェ硯や筆、絵具皿、水鉢などを用意した。
 時間が来て、客たちが次々と入って来た。ぶら下げられている掛軸を一つ一つ見ていく。そのうち一人の客が本堂の真ん中で見ていた画会の番頭に声を掛けた。番頭が近づいていって、客の前の掛軸を下ろした。
 中には掛かっている絵には見向きもせずに、すぐに訥言の傍にやってきて、吉祥図を依頼する客もいた。訥言はただちに南天の絵に取り掛かった。水墨の濃淡で葉と枝を描き、実には赤い色を入れる。仕上げるまでに四半時も掛からない。それを見ていた他の客たちも次々に描いてもらいたい画題を言い、訥言は即興で描いていく。墨をするのは一宦A清は訥言の描く絵に合わせて絵具を合わせていく。
 その日の後半になって疲れてくると、金泥を二本引いて霞とし、その上部に雲雀を一羽小さく描くといった省筆になった。
 半年掛けて描いた百幅は五日間ですべて売れ、席画は結局八十幅余りを訥言一人で描き切った。どこへも出かけず一日が終わると宿屋で眠るだけだった。一宸ヘ清に連れられて大脇家や岡谷家、あるいは黒田家にある訥言の屏風絵を見に行った。
 終わって次の日は訥言が林良益や画会の世話をしてくれた人たちを招いてお礼の宴会を開き、翌日一宸ニ帰洛の途についた。
 七里の渡しで熱田から桑名へ向かう船に乗った時、遠ざかっていく街並みを眺めながら、
「今回、先生とご一緒できてよかったです」
 と一宸ェ口を開いた。
「先生の席画や屏風絵を見て、自分がまだまだ絵の道の端緒にもついていないことがはっきりと分かりました。絵の道に踏み入れてもいないのに、それを捨てるなどとは滑稽ですよね。京に帰ったら、気持ちを入れ直して絵の勉強に励みたいと思います」
「一宦A一緒に住むか」
「え?」
「そうしたら、一日中お前に絵を教えることができる」
「はい、お願いします」
 一宸フ声が弾んでいる。
「山陽殿の塾にも通いなさい」
「はい」
 京に帰ると、早速借家を探した。今の家では一宸ニ共に住むには手狭なのだ。
 富小路錦小路上ルに二階建ての出物があり、そこを借りて一宸ニ共に移り住んだ。
 伴大納言絵詞の模写を命じ、今度は付きっきりで一宸フ疑問に答えた。
 庭には梅の木と若竹の他は草花に乏しかったので、庭師を入れ、撫子や海棠、蘭などを植えた。目が悪くなければ、外に出て一宸ニ一緒に写生をするのだが、そうもいかず、せめて庭の草花を写生することで真写の意味を教えようとした。
 一宸フ指導に一日の大半を使いつつ、訥言は色目に関する書物を出版することに力を注いだ。今まで溜めてきた各種の色を見本として摺り、その横に名前と簡単な説明を付ける。巻末には「この色目のくさぐさは、名家の記録に定めおかれたるを拾いあつめたり……」と跋文を入れた。「色のちくさ」と名付けられた書物は、文政元年(一八一八)の夏に出版された。
 一宸ヘ跋文に、もっと訥言自身のことを書き加えたらどうかと提案してくれたが、訥言はそれを退けた。
「身、画事をもって世に立つ、遺すべきはただ絵あるのみ、他の私事に至っては一も伝ふることなかれ」という信念を貫いた。

    十

 七年間、名古屋ばかりで絵を描いていた間に、訥言の名は京都画壇からすっかり忘れられていた。東山展観その他の画会からもお呼びがかからず、訥言はそれまでの蓄えで何とか生活をしていた。
 絵の注文がなくても、一宸ニ並んで絵巻物の模写をしているだけで充実感があった。
 しかし蓄えも徐々に少なくなり、もっと安い借家に移らざるを得なくなった。
 文政四年の二月に両替町二条北に転居し、一宸ニの同居も解消した。ただ、一宸煖゚くに家を借りて住んでくれたので、勉強する日常は変わらなかった。
 訥言の窮状を山陽も心配してくれ、四月には木屋町から同じ両替町の二条を挟んだ南の押小路上ルに転居してきた。そして、時折どこからか取ってきた絵の注文を訥言に回すようになった。
 そんなある日、山陽から酒を酌み交わしつつ席画を楽しみませんかという誘いを受けた。訥言は一宸伴って、近くの山陽の自宅に向かった。
 梨影夫人に迎えられ、塾部屋に行くと、山陽の他に三人の男たちが談笑していた。山本梅逸(ばいいつ)、中林竹洞(ちくとう)、浦上春琴である。
 梅逸と竹洞とは、七年前に岡谷家で会って以来の再会である。春琴も文人画を描く絵師で、以前山陽の紹介で会ったことがある。
 三人とも京では四条派と人気を二分するほどの絵師になっており、画会で何度か彼らの絵を観たことのある訥言は、その技倆が抜きん出ていることを認めていた。
 唐画の模写から水墨の技を学んだ訥言にとって、四条派の連中よりも彼らに近しいものを感じるのは当然だった。
「先生、さあ、こちらへどうぞ」と山陽が上座を勧めた。
 訥言が躊躇っていると、
「遠慮なさらずに。先生は我らの中で一番年長ですし、絵師の先達でいらっしゃるのですから」
 山陽にそう言われると、上座に坐らざるを得ない。一宸ェ輪から少し外れて坐ろうとするのを、山陽が中に入るように促した。
 梨影が甲斐甲斐しく酒肴の用意をする。
「田中先生」と竹洞が居住まいを正した。「ずいぶん以前に名古屋でお会いした折、大変失礼なことを申し上げました。お許し下さい」
 そう言うと、竹洞は膝に手を置いて頭を下げた。
「いや、南画を描かれる竹洞殿にしては、当然のことを言われたまで。謝るには及びませんぞ」
 山陽が何のことかと聞き、梅逸が手短に説明すると、山陽は大いに笑った。
「土佐絵の名人に向かってそのようなことを申すとは、さすがに竹洞だけのことはある」
 竹洞は苦笑いを浮かべつつ、訥言に顔を向けた。
「あれから北斎という浮世絵師が気になっておりましたところ、何年か後に西掛所の境内で百二十畳の大達磨絵を描く絵師が現れまして、わたくしも見に行ったわけです。ざんばら髪の戴斗(たいと)とか申す絵師で、名前を売り出すための方策だとは分かっておりましたが、なかなか大した達磨絵を描きまして。後からそれが北斎だと知って、なるほど先生が良しとされたのもむべなるかなと、自分の凡眼を恥じた次第です」
「わたしも実際に北斎に会っていなければ、竹洞殿と同じような思いを抱いたままだったでしょうな」
 そう言って、訥言は茶屋での北斎との出会いを語った。聞き終わると山陽が、
「浮世絵師といえども、真に力のある者は侮ることができませんな」
 と感に堪えない声で言った。
 酒が入ると、梅逸が饒舌になった。
「ずっと以前から、尾張では先生のお名前が世間に喧伝されておりまして、さてもどういう絵を描かれているのかと清の手を煩わせて、百花百草図屏風を制作中の先生をお訪ねしたのが、七年前だったでしょうか。それ以降も、いろいろな所から先生の絵を見に来いと言われまして、行きました」
「日月図屏風は観たか」と山陽が聞いた。
「もちろん観ました。その他に古今著聞集図屏風や若竹鶺鴒(せきれい)図屏風も。私が驚いたのはそれら四つの屏風がまるで別人が描いたかのように、それぞれ違うことです。先生が有職故実に通じた大和絵の絵師であることは知っておりましたので、古今著聞集図屏風はさもありなんという素晴らしい出来でありましたが、日月図屏風の大胆な構図、若竹鶺鴒図屏風の柿渋地を背景にした洒脱さ、百花百草図屏風の精緻な写実も、目を奪うばかりの出来でした。どうして一人の絵師があのように違う絵を描くことができるのか。自分はまだまだ修行が足りないと自覚させられました」
「お褒めいただき、恐縮至極に存じます。私は幽汀先生から狩野派を学び、唐画から水墨を学びました。写実は応挙殿に教えていただきました。しかし何より学んだのは古画の模写でございます」
「先生は今でもわたくしと一緒に絵巻物の模写をされています」と一宸ェ口を挟むと、一堂がおおという声を上げた。
「先生のあの四つの屏風がもし京にありましたら、四条派の絵師たちを凌ぐ名声が得られていたことでしょうに」と梅逸が言った。
「名声とは移ろいやすいもの。大事なのは、百代後の世に残る絵を描こうと全精力を傾けることではありますまいか」
「先生は国学とかを学ぼうとされたことはないのですか」と竹洞が聞いてきた。
「伴蒿蹊(ばんこうけい)先生と親しくお付き合いをさせていただいた頃、先生から学んではどうかというお誘いを受けたことがありますが、私はやはり文字よりも絵が好きで、非才を思い知らされたわけでございます」
「しかし、絵とは描く対象を通して、絵師の心を描くもの。心を磨くには書物を読むのも大事では……」
 酒が入ったせいか、竹洞が鋭く迫ってきた。訥言は内心で、竹洞ならそうこなくてはいけないとにやりとした。
「確かにその通りです。しかし絵師には二通りありましてな、書物から学ぶ者と先達の絵から学ぶ者。私は後者でござるよ」
 堅い話はそれくらいにして、席画に移ろうという山陽の一声で酒器が片付けられ、毛氈が敷かれた。
 まず山陽が山水画を描き、それに合わせるように春琴が竹林図、梅逸が梅に鶺鴒を描いた。竹洞は目を悪くしているからと遠慮したので、訥言が筆を取り、左目を紙にくっつけるようにして、斜め下に飛び去ろうとしている燕を描き始めた。
「先生も目がお悪いのですか」と竹洞が驚いた声を出した。訥言は燕を描き終えると、顔を上げた。
「右目はもう見えません。左も真ん中は見えず、周りの見える所で描いておる次第で」
「治療はされたのですか」
「十年ほど前、馬嶋の明眼院で診てもらいましたところ、あおそこひと診断されましてな。目を酷使しないように言われましたが、絵師としてはそうもいかず、逆に酷使してこのようになってしまいました」
「今からでも養生して、失明だけは避けられた方が……」
「絵を描いて失明するのなら、それも本望……」
 訥言の言葉を聞いて、山陽が大きく頷いた。
 訥言は筆を太いものに持ち替え、薄い墨をつけると、燕の尾にほとんど触れるか触れないかのところに斜めに線を二本引いた。
「雨中飛燕図ですかな。席画はその人の人柄が出ると言いますが、先生は本当に異状がお好きですな」
 その後、一宸煬えて馬の絵の合作をしたりして遊んだ。
 竹洞が画論を書物にしていると聞いた訥言は、山陽にその書物『竹洞画論』を借りて自宅に帰った。
 十日ほど経って『竹洞画論』を読み終えた訥言はそれを返しに行った。
「どうでしたか」
「気韻、写意を第一位とし、筆法、形似(けいじ)はその下に来るという考え方はなるほどと思いますが、筆法、形似が優れていなければ、気韻、写意も表しがたい、つまりそれらは分かちがたく結びついていると考えるのが自然ではありますまいか」
「なるほど、竹洞に伝えておきましょう。……ところで先生から見て私の絵はいかがでしょうか」
「私の見るところ、山陽殿の絵は文人画の中では第一等だと思いますが」
 山陽がおやという顔をした。
「春琴や梅逸や竹洞よりも上だと言われるのか」
「さよう。他の三人には絵にしぶとさがありません。山陽殿の絵にはそれがありますゆえ」
「それでは私ももっと上手になって、しぶとさが消えるようになると、三人に近づけるというわけですな」
 そう言って、山陽は笑った。

 左目の視界がますます狭まってくると、絵巻物の模写も難しくなった。訥言は竹洞の画論を受けて、心を養う方法として禅を始めた。禅画という気韻重視の絵を描くのが目的だったが、もちろん失明への不安を和らげたいという気持ちもそこにはあった。
 わずかな光明の中では筆法や形似に拘っていては絵が描けないということであった。つまりは何としても絵を描き続けたいという執念に他ならなかった。
 文政五年(一八二二)は禅画を描くことに終始した。禅画といっても訥言の描くのは仏画に近く、文殊菩薩や羅漢、あるいは太い筆で達磨を描いたりした。思えば比叡山で修行していた頃は仏画ばかり描いていたので、ぐるっと一巡りして元に戻ったということでもあった。筆を握って線を描いている間だけは、目が見えなくなっていることを忘れることができた。
 月四、五回の参禅には、一宸ェ手を引いてくれた。
 しかし翌文政六年の二月には左目も完全に光を失い、禅画を描くことも不可能になった。訥言は一宸竡R陽にこれ以上迷惑はかけられないと嵐山の大悲閣に移ることを決心した。一宸ヘ大反対したが、訥言の決意は変わらず、書き溜めた禅画をすべて大悲閣に寄進し、下男と共に転居した。
 その時、自分の模写した伴大納言絵詞三巻を一宸ノ与えた。
「こんな大切な物をわたくしが頂戴してもよろしいのでしょうか」
「目の見えなくなったわしには、もう無用の長物じゃ。いつかお前が本物を模写する時が来たら、わしがいかにそれから学んだかがよく分かるじゃろう。それまでお前の手許に置いておいてくれ」
「一生の宝物にいたします」
 一宸琥c言を追って、嵐山の麓に借家を借りた。

 冷たいすきま風の吹く中、訥言は体を起こし、敷きっぱなしの蒲団の上に坐り直した。光のない世界では、今が何時か分からない。瀧の流れ落ちる音が微かに聞こえてくる。
 目が見えていた頃は角倉了以像の安置された月見台から京洛の絶景を楽しんだものだったが、今ではそこに立っても吹き渡る風を感じるばかりだった。
 ふと鹿の遠音が聞こえたような気がした。しかし次に耳を澄ませても、二度と鹿の鳴き声は聞こえてこなかった。幻聴か。
 訥言はお市と離縁してここに移ってきた時、その憂愁を慰めるため、嵐山を歩き回って盛んに鹿を写生したことを思い出した。今は冬だから鹿の毛の色も落ち着いていることだろう。目が見えさえしたら、その姿を写生できるものを。そう思うと、瞼の裏に、驚いたように見開いた目をこちらに向けている鹿の姿が浮かんだ。尻尾をぴんぴんと振っている。首を捻っているその姿態、訥言は思わず右手で筆を取ろうとした。しかし手はむなしく蒲団の上を撫でるばかりだった。その瞬間、鹿の姿は消えてしまった。訥言は溜息をつき、再び蒲団の上に横になった。
 うつらうつらしていると、襖の開く音で起こされた。
「白湯を持って参りました」と下男の三吉の声がした。朝のようだ。
 訥言は手に乗せられた湯飲みを両手で包むようにして口をつけた。絶食して七日、空っぽになった胃の腑を内側から撫でるように湯が通っていった。白湯を飲み干すと下男に手を引かれて厠に行く。それが日課だった。
 厠から戻ってまた横になると、眠るでもなく起きるでもなく幽冥境をゆらゆらしている心地だった。
 何時か経って、「お客様がお出でになりました」という三吉の声がして襖が開き、畳を踏む音がした。
 訥言は蒲団の上に起き上がった。
「先生、ご無沙汰しております」
 太い声である。しかし聞き覚えがない。声の主が訥言の前に腰を下ろす気配がした。
「さて、どなたでしたかな」
「石翠(せきすい)でございますよ。ずっと以前、先生の弟子をしておりました……」
「おお、お前か。これは懐かしい」
 訥言は手を伸ばして石翠に触れようとしたが、その手を払われた。
「先生は盲になられたとお聞きしましたが、それは本当ですか」
「そうなのじゃ。今年になって左目も見えなくなり、厠へ行くにも一人では行けぬ有様になってしまって……」
「それではもちろん絵も描くことができないでしょう」
「それが何としても辛くてのう。頭の中に絵の構想は浮かぶのじゃが、それを実際に描けないのは羽をもがれた鳥のようでな」
「ええ、ええ、よく分かりますとも。私も先生の許におりました頃、にわかに目が見えなくなって大層苦しみましたから」
「そうであったか」
「お忘れですか。私が悩んで先生に相談申し上げたところ、先生が何とおっしゃったか」
 訥言はようやく思い出した。
「死ねと言ったのであろう」
「そうですよ。先生は死ねと言ったのですよ。絵師たる者、盲になれば死ぬしかあるまいと」
「その通りである」
「私は幸い治療の甲斐あって盲にならずにすみました。医者からは目を使う仕事は避けるように言われて、別の仕事に就いて今日まで無事に過ごして参りました。しかるに先生は絵の仕事を続けて盲になってしまわれた。私に死ねとおっしゃった言葉は先生ご自身には当てはまらないのでしょうかねえ」
 石翠がその時の恨みを晴らしに来ていることは分かったが、別に腹も立たなかった。むしろ目が治って無事でいたことを喜んだ。
「お前が絵の仕事を止めたのは何としてもよかった。それで目が助かったのだから。死ねと言って死ぬ覚悟で絵を続けていたら、お前もわしのように盲になっていたかもしれん」
「死ねとおっしゃったのは、私に絵を諦めさせるための方便であったと……」
「いや、そうではない。それは言葉通りの意味である」
「だったらおかしいではありませんか。先生はこうして盲になってしまわれたのに、まだ生きていらっしゃる……」
「わしはこの通り頑丈な体をしておってな。七日くらいの絶食ではなかなか死ねない。やっと脈が乱れてきたくらいじゃ。後十日もすればあの世に行くはずじゃから、その頃お経でも上げに来てくれ」
 そう言うと、石翠の立ち上がる気配がした。
「どうした、石翠。もそっとお前の話を聞かせてくれんか」
 訥言は手を伸ばして石翠を止めようとしたが、空を切るばかりだった。襖の開け閉めする音がして、部屋の中は再び静かになった。
 翌日、一宸ェやって来た。訥言が「昨日、珍しい者が訪ねてきてのう……」と言いかけると、それを遮るように「先生、少し痩せられましたか」と一宸ェ口早に聞いてきた。
「いや、そんなことはあるまい」
「まさか、断食をされているのでは……」
 訥言が黙っていると、一宸ェ立ち上がって部屋を出ていく気配がした。
 しばらくして戻ってくると、「やはり食を絶っていらっしゃるではありませんか」と一宸ェ詰る口調で言った。
「一宦Aまあそう怒らずにわしの話を聞け」
「いや、聞けません。先生は自ら命を絶ってしまおうとなさっています。先生がいなくなったら、残された私はどうすればいいのですか」
「こんな目になってしまっては、もうお前に何も教えることはできぬ」
「そんなことはありません。筆を持たなくてもまだまだ教えていただくことがいくらでもございます」
「いや、わしがいなくてもお前はもう十分に一人でやっていける。教えることは何もない」
「そんなことはございません」
 一宸ェ訥言の手を両手で握ってきた。冷え切った手が次第に温かくなってくる。その温かさを感じていると、もう何も言えなくなった。
「先生、食を絶つのは止めて下さい」
「うむ」
 仕方なく訥言は頷いた。
 一宸ェ立って行き、四半時ほど経って戻ってきた。部屋の中に炊飯の匂いが漂った。
「重湯を作って参りました」
 一宸ェ息を吹いている音がし、唇に何かが当てられた。口を開けると散り蓮華の先が入って来、温かい重湯が流れ込んできた。胃の腑がきゅっと鳴った。これで死ぬ日が延びてしまったと訥言は、その美味しさとは裏腹に沈んだ気持ちになった。
 三口食べたところで訥言は首を振った。一宸ヘもっと食べさせようとしたが、胃の腑が受け付けないからと口を閉じた。
「三吉に申し付けておきますから、夕方も重湯を召し上がるように」
 椀を盆に置く音がした。
「一宦A昨日珍しい者が参ってな……」
「誰でしょうか」
「石翠じゃよ。お前も覚えておるじゃろう」
「ああ、覚えております。確か目を悪くされて門を去られた……」
「そうじゃ。今は目が治って別の仕事をしていると言っておった。どんな仕事か聞きそびれたがのう。その石翠がわしに恨みを言いに来よった」
「恨み?」
「わしが、絵師たる者、盲になれば死ぬしかあるまいと言ったことをずっと覚えておったのじゃ」
「しかしそれは絵師としての覚悟を示した……」
「そうではない。それはわしの本心じゃ。絵筆を持てなくなれば、この世に何の未練もない」
「また、そんなことをおっしゃって。わたくしのためにも、どうか生きていらっしゃって下さい」
 訥言は大きく溜息をついた。
「思えば、子供の頃から絵を描くのが好きで、この道に入ったが、本物の絵を描くにはまだまだ修行が足りない。せめてあと十年、この目が持ってくれたら、少しは鳥羽僧正や常磐(ときわ)光長に近づけたものを」
「先生は大和絵に水墨を持ち込み、大和絵を立て直されたではありませんか」
「そんなことをしても古画の力強さには勝てないのだから、情けないものよ。人間の一生など、やりたいことの万分の一もできない短いものだから、一宸熕Sして勉強せねばなるまいぞ」
「はい」
 一宸ヘそれから三日連続して大悲閣を訪れ、重湯がお粥に変わったのを見届けると、安心したように帰っていった。
 訥言は体に力が戻ってくると、生に留まろうとする気持ちがわずかに芽生えてくるのを感じていた。このままではいけない。
 夢の中では全く失明をしておらず、嬉々として彩管をふるっているのに、目覚めれば闇の中に閉ざされている自分を発見する。
 幽汀の許で牡丹を臨写した時のことや応挙と並んで鶏頭の写生をした時のこと、粉河寺の焼け残った絵巻物の模写に苦しんだこと、また平等院鳳凰堂の暗い中での模写、伴大納言絵詞の模写が大火の光景を甦らせたこと、名古屋での数々の屏風制作。夢の中に出てくる自分はその時の腕の震え、心の震えも感じながら絵を描いているのだ。
 その晩は久しく忘れていたみつ女が現れた。場所はどこか分からないが、燭台の灯りがぼんやりと点る中、訥言は一人の女と相対して坐っている。緋色の長襦袢姿の女は腰紐を襷掛けにして袖をくくり、紙の上に上半身を覆い被さるようにして筆を動かしている。
 一体誰だろう。その時鬢付け油の匂いが鼻腔をかすめ、はっとして、
「みつ女か」
 と声を掛けた。女は少し間を置いてから、ゆっくりと面を上げた。紅を差したおちょぼ口はまさにみつ女だった。
「お久しゅうございます」
「お前、生きておったのか」
 身の内に温かいものが流れた。
「先生の弟子にしていただいたんどすから、もっと教えていただかんと」
 みつ女が媚びるような目付きをする。
「よしよし」
 訥言はみつ女の背後に回って、筆を持っている手を上から握った。そうして半紙に雁の絵を描いていく。みつ女の体から白粉と鬢付け油の香りの混じった匂いが立ち籠め、それに包まれながら筆を動かしていく。
 と、急に手の動きが軽くなったと思ったら、みつ女の姿はなく、訥言一人が絵を描いている。
 そこで目が醒めた。目の前に広がるのは暗闇ばかりである。手にはみつ女の温もりが残っているというのに。
 あの世でみつ女に絵を教えるのも悪くはない、そう思うとふっと心が軽くなった。
 訥言は起き上がり、蒲団の上で胡座をかいた。もう終わりにしよう。
「一宦A赦せ」
 訥言はそう呟くと、歯の間に舌を差し入れ、頭を思い切り頷かせるようにして噛んだ。
 文政六年(一八二三)三月二十一日、享年五十七であった。

    十一

 一宸ヘ戸を激しく叩く音で起こされた。一瞬嫌な予感がした。
 立って行って心張棒を外し、戸を開けると、三吉が息を弾ませて立っており、
「ご主人様が、自害されました……」
 と途切れがちの声で言った。
 先生を一人にしておくのではなかった!
 一宸ヘ寝間着姿のまま草履をつっかけると、着物の裾を尻からげにして走った。あれほどお願いしたのに……痛恨の思いが一宸急き立てた。
 朝ぼらけの中、大堰川の流れを右に見ながら、川岸を駆けていく。途中で草履が脱げ、構わず一宸ヘ裸足のまま土道を踏んだ。冷たい風が剥き出しの尻や太腿を抜けていくが、寒さは感じない。石段のふもとに着いて、二段ずつ駆け上がっていくと、さすがに息が切れてきて、踊り場のところで膝に両手を突いて何度か深呼吸をしなければならなかった。
 大悲閣に着くと、本堂は静まりかえっており、客殿から読経の声が聞こえてくる。一宸ヘ垂れ下がった寝間着の裾を直すのももどかしく客殿に上がり、杉戸を開けた。
 中では三人の僧侶が蒲団に寝かされた訥言の周りでお経を唱えていた。そのうちの一人である住職が一宸ノ気づいて立ち上がった。
「一專a、私たちがついていながらこんなことになってしまい、大変申し訳ありません」
 と住職は頭を下げた。一宸ヘ深呼吸をして息を整えようとしたが、なかなか声が出てこない。
「舌を噛んでの自害でございました」
 一宸ェ近づくと、二人の僧侶が場所を空けてくれた。訥言は白い着物を着せられ、胸元まで夜着が掛けられていた。両膝をつき、手を伸ばして訥言の頬に触れた。まだ温かい。落ちくぼんだ両目の周りは薬のせいか赤く腫れているが、表情は穏やかである。一宸ヘ掌全体で頬を撫でた。無精髯が当たってざらざらする。
「先生」
 そう呟くと、不意に涙が溢れてきた。
「先生!」
 一宸ヘ訥言の胸の上に突っ伏した。一宸フ号泣を包み込むように、読経が流れた。
 しばらくして起き上がると、一宸燉シ手を合わせ、南無妙法蓮華経を唱えた。
 目を閉じ、題目を口ずさんでいると、訥言に初めて会った日から今までの、十六年間に渡る光景が走馬燈のように浮かんでくる。
 一見すると入道のような容貌だが、自分には優しかったこと、宇治平等院鳳凰堂での模写では、その打ち込み方の尋常ではないことに恐ろしささえ感じたこと、絵師の道に疑問を感じ、反発したこと、名古屋で描かれたいくつかの屏風に圧倒されたこと、名古屋から戻られて一緒に勉強できた幸福な時間……。
 その中でも一宸フ脳裡に深く刻まれているのは、つい一年前の出来事だった。
 東山の禅寺に参禅に行った時のことだ。座禅が終わって本堂の階段を降り、草鞋を履いていると、訥言の姿が見えない。立ち上がって廊下を見渡すと、法堂の前で訥言が扉をゆっくりと開け閉めしている。その度にギーという音が聞こえてくる。
「先生」と呼び掛けても、こちらを見向きもしない。
 仕方なく、履きかけていた草鞋を脱ぎ、一宸ヘ階段を上がった。そして近づいていき、帰りましょうと声をかけようとしたが、訥言は目を閉じ、扉の立てる音に聞き入っている。その姿を目にすると、一宸ヘ何も言えなくなった。廊下の向こう側では、一人の僧侶が一宸ニ同じようにじっと訥言を見ている。
 訥言は何度も扉を開け閉めする。先生の聞いている音は一体何なのだろうか、そう思うと一宸ヘ自分が訥言に全く近づけない気がした。いくら教えてもらっても、先生の絵には遠く及ばないのではないか、先生は一人自分の世界におられるのではないか。
 笙の音に似たその響きは、僧侶が声をかけるまで途絶えることがなかった。

頼山陽が姿を見せたのは、陽が昇ってしばらくした頃だった。
 一宸ェ訥言の頬を触り、その冷たさにはっとして再び題目を唱え始めた時、足音高くやってくる者がいた。
 顔を上げると、山陽が怒ったような表情で立っていた。その横には三吉がいる。
「先生!」
 山陽はつかつかと部屋に入ってくると、一宸フ横に腰を下ろし、両手を合わせて瞑目した。しばらく口の中で何やら念仏を唱えた後、一宸ノ顔を向けた。
「舌を噛んで自害されたと聞いたが……」
「はい」
「それにしても穏やかな顔をされておる」
「先生」
 再び悲しみが溢れてきて、涙声になった。
「泣くな、一宦B田中先生は最後まで絵師としての信念を貫かれたのだ。先生の衣鉢を継ぐのは、一宦Aお前しかおらんのだぞ」
「………」
 山陽が懐から半紙の束と二本の矢立を取り出した。
「一宦Aこれで先生の死顔を写し取れ。私も写すから」
「え?」
「先生を永劫に忘れないためだ」
 一宸ヘ紙と矢立を受け取り、山陽の指示で訥言の顔を挟むように反対側に移った。
 筆を取り出し、墨壺の墨をつける。訥言の死顔を凝視し、畳の上に置いた紙にそれを写し取っていく。最初は、死顔を通して訥言の生きている時の顔が甦ってきて心が乱れたが、次第に写生することに集中していった。
 気がつくと、いつの間にか周りで読経が始まっていた。向かいの山陽も一心不乱に筆を動かしている。
 一宸ヘ三人の僧侶の読経を聞きながら、再び写生に没入していった。

     *

 百花百草図屏風は、一見すると百種類近くの草花が無造作に配置されているように見えるが、しばらくその前に立っていると、雑然さが消え、非常に精妙な構図として目の前に現れてくる。壇紙に貼られた金箔の縮緬状の皺が、観る角度によって画面に柔らかな陰影を与え、その上に最上等の岩絵具を使って描かれた草花は、全く色褪せることなく、まるで昨日描かれたごとく生彩を放っている。
 様式的な描き方はいっさいせず、写生に徹した草花からは、まさに生き生きとした命と呼ぶにふさわしい力強さが伝わってくる。それは土筆(つくし)や蕨(わらび)といった小さなものも同じである。いや、小さなものにこそ、大きな命が宿っているようである。


[主要参考文献]

 山田秋衛『田中訥言』(曾保津之舎 一九三八)
 村松梢風『本朝画人傳』巻一〜三(中央公論社[中公文庫] 一九七六)
 伊藤「百草屏風」(作家社『作家』一月号 一九七三)
 木下稔「田中訥言と復古大和絵」(徳川黎明會『金鯱叢書』第三輯 一九七六)
 吉川美穂「田中訥言と尾張のパトロン」(徳川黎明會『金鯱叢書』第二七輯 二〇〇〇)
 徳川美術館編『復古大和絵―田中訥言とその周辺』(一九七八)
 名古屋城特別展開催委員会編『尾張のやまと絵 田中訥言』(二〇〇六)
 吉田俊英『尾張の絵画史研究』(清文堂 二〇〇八)
 毎日新聞社・NHK・大阪市立美術館編『円山応挙』(二〇〇三)
 中村真一郎『頼山陽とその時代』上中下(中央公論社[中公文庫] 一九七六)
 見延典子『頼山陽』上下(徳間書店 二〇〇七)
 川合玉堂『日本畫の描き方』(京文社書店 一九三三)


 

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