指定された時間に六階のナースセンターに顔を出すと、たまたま居合わせた長身の担当医師がまっ先に顔を上げ、一人で来たのか、とでも言いたげな表情で私を見た。
十四年ぶりの大阪南医療センターの整形外科病棟だった。一度目の股関節部分の人工骨置き換え手術を受けたときには、病院そのものが建て替え前だったから随分と様変わりしてはいるが、実は三年前、母親も人工骨を入れているのだが、そこに菌感染をおこし約七ヶ月間ここでお世話になっていたから、それなりに馴染みある病棟だと言えなくもなかった。
昨年末のことであった。朝起きると左足が突如不安定になっていた。二階が自分の部屋になっているのだが、十二段しかない階段を下りるのが一苦労だった。壁や柱に両手を突っ張り、そろりそろりと降りる始末だった。
前日は年末も一週間を切ったこともあって、朝から年内最後の墓参りを済ませ、銀行も三軒ほど回った。おまけに友達二人と忘年会と称して深夜まで飲み歩きもした。多分それがいけなかったのだろう。
担当医師とは母親が世話になったときからの縁になる。本来人工骨の手術を受けた者は、少なくとも年に一度は診察を受けなければならないのだが、以前の執刀医が別の病院に移ってしまったこともあって、二年ほどで通院は辞めてしまっていた。それが母の病気をきっかけに自分も診てもらうようになったのである。
あらためてレントゲンを撮るようになって二度ほどは、さすがに医師の関心はより母親に向っていたようだ。それが二年前の秋の診察から様変わりするようになって、昨年には、ついに母のほうは一年後でいいのに、私だけ半年後の予約を入れられた。もっとも、その前の診察時には早くも再手術の言葉は出ていたので、自覚症状が出てしまったからには選択肢はなかったとも言える。
わざわざ断るまでもないことだが、手術を受けることはあまり気持ちのいいものではない。むろんリスクを伴うし、人任せという点では、これほど人任せの事はない。が、奇妙に思われるかも知れないが、さすがに心待ちとまでは言いかねるが、今回の入院を楽しみにする思いも私のどこかにあった。
今回は四十日余りの出来事だったが、十四年前は三ヶ月以上を要する長い入院生活だった。何しろ術後一ヶ月ほどはベッドから降りることすら許されなかったのである。食事もベッドの上なら、排泄もそこで済ませなければならない。必要にかられるとナースコールを押して看護婦さん(当時はそう呼んでいた)の世話になるのである。これがはなはだきつかった。
前回は術後二週間は個室を与えられたのだが、二人部屋に移ってから、それまでなんとか出来ていた大のほうが完全に止まってしまった。水分を多めにとろうが、下剤を投与されようが不首尾なのである。とうとう、十日あまりの後車椅子に乗ることを許されてはじめて可能になるという有様であった。便秘知らずの身には、あの時ほどほっとした思いと痛さは忘れられるものではない。
尾籠な話ばかりで申し訳ないが、そもそも術後三日目ほどは、小さいほうさえすることがかなわなかったのである。まあ、それなりの手術を受けた人はおわかりになるとは思うが、家族の者や看護師さん達の待つ病室に無事帰還すると、患者本人は大抵全身管だらけで、多くの場合大事な排泄を請け負う前の部分にもしっかりと一本装着されている。今回もそうだった。ただ、前回と違っていたのはその時間で、むしろ十四年前の方が、その管に三行半を与えられるのが早かったような気がする。たしか、次の日には看護婦さんが抜きにきてくれたはずである。あまり付けたままにすると自分で出来なくなるから、などと言われて。
それが苦しみの始まりだった。抜いたはいいがうまくいかなかったのである。まだ二十代も半ばと思われる若いナースキャップを被った女性が、寝たままして下さい、というのである。終われば持っていきますから、と微笑んで。妙齢の彼女のせいだったのか、それともやはり、三時間以上を要した手術のなんらかの影響だったのか。その種の器具を懸命にあの部分に押しつけようが、まったく応えてくれないのである。
これには参ってしまった。尿意がないわけではなかった。むしろその逆だった。が、出てはくれない。時間が経とうが、人が変わろうが駄目だった。ついにその日は、せっかく用無しになったはずのカテーテルを再び挿入される、という始末にあいなった。
管の世話になると、ほとんど自覚症状もないのに出てしまうのがいかにも不思議なことではあったが。むろん、思うに任せないとはいえ、再び装着したままというわけにはいかない。二時間もすれば再び尿意が襲ってきた。が、やはり駄目だった。これには本当に焦ってしまった。
見かねた夜勤担当の先輩格の看護婦さんが、本当は駄目なんだけどと断りながら、入れたての熱いインスタントコーヒーを持ってきてくれた。これで出るようになる人もいるからと言って。もちろん、有り難く頂いたが、申し訳ないやら恥ずかしいやらで、コーヒーの味などまったく分からなかった。結局その心尽くしのおかげもあったに違いない、ようやく深夜近くになって、ちょろちょろと尿瓶に音を奏でることが出来るようになった。
翌朝先の看護婦さんに聞いたのだろう、導尿してくれた看護婦さんがわざわざ病室を訪れ、満面の笑顔を浮かべ、出来たんですってねえ、よかったです、といって声を掛けていってくれたりもした。
一年前担当医師から暗に再手術を勧められたとき、入院するのは仕方ないが、最初の一ヶ月がどうしても、と思わず口を滑らしたのは、術後の身体のきつさ以上に、その時の排便の辛さが甦ったからであった。もっとも、その日の担当医は外来看護師の顔を見て、珍しく笑顔をのぞかせて続けたものであった。新しい足なら次の日から立てるよ。あなたの場合二度目だから、三日目から車椅子だろうけど、と。
これには驚いてしまった。信じられなかった、というのが正直なところである。実際私は思わず聞き直しもした。本当に三日目からなのかと。
人というものはえてして過去の経験を基準としてしまうところがある。実際に再手術を受け、十四年前と同じ病院のベッドに身を横たえるまで、その日の医師の言葉を疑っていたところがあった。
たしかに三日目だった。当日の担当看護師が車椅子を病室に持ち込んできて、乗り移れますか、と微笑んで尋ねてきた。まだ全身管だらけで、尿道にも一本繋がったままであった。手術した左足に体重を掛けずに(この時の看護師さんのチェックがなかなか手厳しい)どうにか移ると、彼女はそのまま私を身障者用のトイレに連れて行き、そこで導尿管を抜いてくれたのである。医師の言葉に嘘はなかったのである。と同時に、これはこれで又狐にでも摘まれた思いになったのも事実。昔経験した一ヶ月間の不自由さと苦しさが単なる危惧に過ぎなかった事を証明された瞬間でもあったのだから。
信じがたいという点においては、なにもベッドから解放される時間だけではなかった。術後の身体のきつさもまるで嘘のように軽かった。たしか前回は痛みや熱で三日ほどまともに眠ることさえかなわなかったはずである。これが十四年の時の流れというものだろうか。今回身体に倦怠感ときつさを覚えたのは、術後麻酔が切れてきて、水分をとることが許された後にじんわりと襲ってきたときだけだった。それさえも、二年目にしては随分と手慣れた様子の若い看護師さんに深夜座薬を入れてもらい、酸素吸入の管を鼻に装着されると、たいして時間をおかずに軽減してしまった。医学の進歩、という奴だろう。
先の入院時と違っていたことの一つにリハビリのことがある。おそらく以前も病院にリハビリ科はあったはずだが、一度として世話にならなかった。(当時トップ同士が犬猿の仲だったとか)車椅子の扱い方から、歩行訓練まで、病棟の看護婦さんたちがすべて受け持ってくれた。
今回は入院した日に早くもリハビリステーションに行くことを指示され、そこで母親の面倒を見てくれた理学療法士さんと顔合わせした。彼女が私も担当してくれると言うことで、これは心強かった。次の日には若い作業療法士さんとの面談もあった。理学も作業も日にわずか二十分足らずだったが、この二人にはほぼ毎日世話になったから、その時々の身体状況の把握という意味では、病棟のナース以上だったかも知れない。
以前の入院時と変わらないものがあるとすれば、それはやはり、病棟の風景とでも言うべきものかも知れない。十四年たってもやはり、同室になった多くの患者は年上だったが、皆部屋を訪れる看護師さん達に、さかんにありがとうの言葉をかけているのである。入院間際は、このことがちょっとした驚きであった。いかにも癖のありそうな強面の患者でさえも、食事を運んできてくれているだけにもかかわらず、看護師さんの顔を見あげ、うれしそうにサンキュウーなんて口にしているではないか。まあ、慣れとはおそろしいもので(!?)、この違和感はすぐさまなくなり、私も普段使い慣れない感謝の言葉を使いこなすようになってはいたのだが。
ここで思い出したのが前回の入院時、ことに車椅子生活になってからのことであったが、病室を訪れる看護婦さんに対し、どうにかして一度は笑わして帰そうと懸命になっていたことである。このことは当時の私のひそかなノルマだった。もっとも、笑いをとるといっても、愚にも付かない駄洒落をとばすぐらいが関の山だったが、ベッド脇に立ったナースが笑顔を見せればよしと思い、歯を見せて大笑いでもすれば内心ガッツポーズものだったのである。
身体が段々に回復に向かうにつれ、病棟の看護師さんの手を煩わす頻度が落ちてくる。次から次へと患者は入ってくるし、手術も毎週行われている。それだけより彼女達の助けを必要とする人達が後を絶たないということであり、動けるようになった人にわざわざ手をさしのべるいわれなど、いくら看護師といえどもない。そんなことはよく分かっている。
が、身体がよくなるのは嬉しいことだが、入院当初ほど彼女達にかまってもらえなくなると、奇妙なことに、一抹の寂しさみたいなものが生じて来るのも又事実であった。もしかすると、前回入院したとき、ナース達に笑いをとろうと懸命になっていたことの意味が、どうやらこのあたりにあったのかも知れない。
この一抹の寂しさは、どうやら私だけのものではなかったようで、もしかすると回復期にあたる整形外科の病室においては、ことごとく蔓延していた気がする。看護師さん達がやってくる度に、誰もが何か言わずにおれないのである。ここは自身のことを棚上げにして述べさしてもらうが、皆必要以上に何かを訴え、彼女達を容易に帰そうとしないのである。まあ、どこが痛い、このあたりがだるい、などというのは病院だから当たり前だが、打ち切られたはずの錠剤がひとつ欠けると、なぜ無くなったと聞いてみたり、朝食にキャベツの刻んだサラダが出ると、俺はウサギではないよ、なんて食いついたりするのである。断っておくが同室になった人達は高齢者が多かったが、いたって頭脳明晰な人ばかりであった。
極めつけが前のベッドに陣取っていた七十前後とおぼしき禿頭の男性患者で、退院後の生活の聞き取りと注意点を伝えに来た美形の看護師さん相手に、俺は昔からよくもてたんだ、などとあまり面談の趣旨とは関係ないことを言い出した。彼女がそうでしょうねえ、なんて笑顔で答えると、一晩に四回も五回もしても平気だった、それが何日も続いても大丈夫だったんだ、なんて妙な自慢を始める始末。腰の手術を受けたこの人は何年か前に奥さんを亡くされ、今はマンションで一人暮らしのようだが、相手の看護師さんは大人っぽい顔つきではあるものの、まだ二十七歳の妙齢で、どう考えてみても、この患者の孫ぐらいの年齢なのである。私は二人の会話を聞くとはなしに聞いていて、あぜんとなったり、物悲しくなったりしたものであった。
やはり、前回同様、看護師さんは大変だなあ、と認識をあらたにした瞬間でもあった。
|