思い返してみると一九七一年から阪神大震災に会うまで、ほぼ三十年間ずっとマンション暮らしだった。十年に一回ずつ、引っ越しをしていたが、いつもエレベーターのない四階か五階だった。おかげで足腰は十分鍛えられた。
三十代のころは狭い公団住宅で、ベランダに洗濯物を干せばプランターを置くゆとりもなく、園芸には何の関心もなかった。吹田のちょっと広いマンションに引っ越したころ、通勤電車の窓から見えるマンションのベランダに垂れ下がって覆うピンクや紫の花を見て、突然ベランダ園芸に目覚めた。
日曜日にNHKで放送している「趣味の園芸」のテキストを買い、園芸店を回って、あの花がペチュニアであることを知った。テキスト通りに土や肥料を配合し、苗を植え付ける。洗濯物干しや取り入れのついでに花に水や液肥を与えると、どんどん大きくなって電車の窓から見える家のとおりになった。休日に園芸店を回るのも新しい楽しみだった。園芸書が本棚の一角を占領し、ついでに「山と渓谷」社の野草や樹木やキノコの図鑑も一番手の届きやすい棚にやってきた。
娘時代におけいこ事として習っていた小原流のいけばなもフラワーデザインも教室を探してまた習い始めた。花のにおい、木の枝の青臭いにおい、土のにおいが好きだった。花中毒にかかっていたのかもしれない。
ついに会社を退職して花屋までやってしまった。商売は何の商売もしんどいものだろうが、花屋の仕事の過酷さは想像以上だった。花市場デビューの日、仕入れに来ていたおばあさんが「花屋はえらい商売やで。しまいに醤油を醤油つぎに移すこともでけへんようになって、大きな瓶のまま漬物にかけるようになる。それくらい体がえらいで」といった。
花屋は仕入れたものを店に並べる商売ではなく、原材料の葉を取り、とげを取り、茎を切ったり叩いたり焼いたりして製品にして販売するものだということを身に染みて知った。おまけに仕入れたものの売り時はほんの数日間だ。華道教室、フラワーデザイン教室にはすでに先輩同業者がしっかり食らいついている。それでもせっせと新地のクラブに活け込みに通い、大口需要先を開拓し、「花の定期便」と銘打った宅配サービスも始めたけれど、ますます忙しい。立ちっぱなしはまだいいが、母の日、お盆前、年末の繁忙期は夜遅くまで翌日の準備で、睡眠時間は二、三時間となった。親指の付け根はリューマチのように痛み出し、五十歳も半ばになるとついに音をあげて、辞めた会社の社長からも一度帰ってこないかといわれたのをきっかけに、店をたたみ、少々気恥ずかしかったが、元の会社員に戻った。会社員は体が楽。しみじみそのことを知った。
それでも、花が好きだった。園芸についてもずいぶん勉強しただけに、ベランダ園芸だけではやはり物足りなかった。
庭がほしい。広い庭がほしい。ガーデニングの本を買い込み、庭の設計図をあれこれ頭の中で描いてみた。幼い孫たちが遊ぶ芝生の隅には煉瓦でバーベキューコンロを作ろう。ベランダにはブドウ棚を作って、台所の前にはキッチンガーデン……。
定年後は庭のある家がほしいなあ。夢は膨らむが、吹田や大阪ではとてもそんな土地は買えない。たまたま夫の田舎、但馬へカニを食べに行った帰り、道に迷って、大きな看板の立っている場所でUターンした。看板を見上げると分譲地の広告だった。町の事業で分譲するだけあってずいぶん安い。何よりも竹野川沿いの景観の素晴らしさに思わず「これだ!」と叫んでしまった。
その翌年、一九九五年、阪神大震災が起こり、芦屋のマンションは全壊判定を受けた。よくぞ前の年に土地を買っておいたものである。アユもアマゴもいる竹野川を見渡す土地に家を建て、マンションの家具を運び込んだ。
定年までの間は勤務先に通える場所に住み続けなければならない。下新庄の被災者用住宅に入居できたのは幸いだった。一年だけの契約で提供されたその住宅は昭和三十五年建築の最古の部類に入るテラスハウスだった。昔の公団は敷地をゆったりと取ってある。住み捨てられて数年は経つ、木筋コンクリート造りの家はぼろだが、春になると団地いっぱいに桜の大木が花をつけ、庭にはぼけ、水仙、あやめ、紫蘭、アガパンサス、紫陽花、菊など、誰も手入れしなくとも季節の花が咲き誇っていた。
秋には田舎で地鎮祭をして、百坪の土地の北側に家を建て、南半分は念願の庭にした。プレハブの家は一日で立ち上がり、内装に二か月ほどを要しただけだった。
被災者用住宅は取り壊すため、あやめも紫陽花も紫蘭も無花果も新しい庭に持ってきて見事に活着した。ホームセンターでベランダのセットを買ってきてペンキを塗って組み立てた。芝生も張った。小さな菜園も作った。
ところが、ところがである。好事魔多し。
五年が過ぎるころから近所の人だけでなく但馬での付き合いが広がり、たくさんの友達もできた。夫の健康増進のために無料で広い畑も借りた。
思ってもみなかった伏兵は過疎の町は人が少ないということだった。当たり前のことなのだけれど、今まで住んできた町では、神戸でも、茨木でも、吹田でも、芦屋でも、私は大勢の市民の中の一人にすぎなかった。ちょっと好奇心を起こして文化センターやサークルをのぞいてみても、すぐにサヨナラしようと思えばできる。誰も気にしない。みんなストレンジャーだ。行きずりの町、親しくしようと思わなければそれでよい。
但馬に来た時、ここでも同人誌があればのぞいてみようと思って、本屋で見つけた同人誌に電話して文章教室に出席してみた。会長というでっぷり太った紳士と絶えず咳込んでいる痩せた事務局長氏は根掘り葉掘り私の身上調査をした。「この町には誰か親戚がおりんさるかな? ほう、ほう、○○先生がご主人のおじさんで。そうですか、○○先生は私の上司じゃった。ふむ、ふむ」断れないまま同人誌の校正など手伝うと、半年後には同人誌『野火』の編集も文章教室も私に押し付けて事務局長氏は亡くなってしまった。
顔を出すところすべてがこの調子だった。「この町はみんな親戚やね。うっかり近寄ると抜け出せない」と夫にぼやいたが、楽しんでもいた。
ある日、竹野の浜で出会った人と話をしていたら、いきなり、「あんた、吹田のCIハイツのむすめさんか?」と聞かれた。確かにCIハイツには私の母親が住んでいた。彼はそのマンションの住民だったが実家に帰っており、今もそのマンションに住んでいる妻から成田さんの娘は竹野に移住したと聞いたのだそうだ。大阪から最近移住してきたというからには、CIハイツの……と推理したらしい。しかも、あたっているから怖い。
彼に誘われてキリスト教会に顔を出した。牧師夫人が私の同窓だということだ。私は高校、大学とミッションスクールに通って、自然、日曜日も教会に通っていた。クリスチャンの夫と結婚する前に受洗もしている。少人数の学校だったから同窓生のつながりは強いが、この町で同窓生に出会ったことはない。牧師夫人が淋しがって、同窓生の私に会いたがっていると聞いて行ってみる気になったのだ。神戸で私が通っていた教会は大きい。三百人はいただろう。親しい先輩や友達ならともかく、行っても行かなくても自分の問題である。ところが、行ってみて分かったのだが彼は教会員ではなく、教会員は私より一つ年上の女性たった一人だけだった。昔のキリシタンのように、たった一人でこんな田舎で信仰を守ってきたのかと思うと、はい、さようならというわけにもいかない。
教会だけでなく、コーラスも、その他、あらゆる人間関係が、つたの成長点のようにたちまち伸びて私をぐるぐる巻きにしてしまう。パソコンのできる年寄りは少ないが、みな真面目に都会並みの行事をこなそうとする。行政も補助金をやるから申請を出せとしょっちゅう言ってくる。申請書を書いたり、チラシを作ったり、発送用のラベルを印刷したり、パソコン仕事ができると見込まれたのが運のつきだった。こっちのチラシが終わればあっちの機関紙の原稿、恐ろしく読みにくい手書きの原稿のパソコン打ち、ポスターの原稿まで頼まれて、それが終わらぬうちに、大量の発送用のラベル……。もちろん全部完全ボランティアだ。
庭どころではない。ほんとに。
体力も古希を過ぎたころから急激に落ちてきたのがわかる。整形外科の先生は庭の草むしりが一番膝に悪いという。鍬を振ると肩が痛む。
数年前から庭が重荷になってきた。春には花を植えて楽しもうとするが、夏にはもうもうと生い茂る草に敗北してしまう。やはりマンションが楽だ。
しかし、春、山が真っ白になるほどコブシが咲き、野には薄水色のヤマエンゴサク、妖精のように真っ白な一輪草、紫の握り拳のようなラショウモンカズラ、小さな黄色の笛のようなキケマンなど、都会では見られない花が咲くと、まだもうしばらくは田舎に住みたいとも思う。
|