た  がれ 
 誰そ彼どき   奥野 忠昭



 月例の所長会議が終わったので、備え付けのノートパソコンを使って重要事項のメモを自分の営業所に送った。機器を使い慣れていないためかえらく時間がかかった。
 ドアを開け、廊下に出ると、すでに人気はなく、辺りはしんとしていた。私は奥まったところにあるエレベーターには乗らずに、資料室横の階段を降りた。
 窓は、上方に一つあるだけで、電灯は灯されておらず、まだ四時だというのに辺りは薄暗く、両側の黒っぽい壁が周りを圧迫していた。何だか、今の自分の状況を象徴しているようで、やはりエレベーターに乗ればよかったかな、と思った。
 ここ数ヶ月、私が所長を務める営業所の損保契約高はよくなかった。それでも、今回は、私のところよりも悪い営業所がいくつかあったので、かろうじて追及を免れた。だが、それは、ただ運がよかっただけで、いつ何時、私がやり玉に挙げられないとも限らない。
 野球選手だって調子のいいときもあれば、スランプの時もある。スランプは飛躍するための準備期間で、スランプのない選手は伸びないと言われている。それに、わずかだが成績が上向き出した。来月はさらによくなるだろう。そんな言い訳を何度も自分に言い聞かせた。それに、会議はすでに終わったのだ。あと一ヶ月、このような会議はないのだと思うと、ようやくほっとした気分になれた。
 ただ、会議の冒頭で、営業本部長が、吉岡という所長がしばらく病休に入ると告げた。そのことがかなり気にかかっている。みんなも一様に驚いたようで、一瞬、会場は緊張した。
 吉岡はいったい何の病気に罹ったのだろう。長期休養を要する病気なのだろうか、それとも、短期の休養で復帰することのできるものなのだろうか。しかし、いずれにしても、彼の経歴には傷がつく。出世ラインからは外されるだろう。
 私は、階段を一歩一歩、慎重に降りながら、痩せ気味で色白な彼の顔を思い出した。一見ひ弱そうだがよく見ると芯のありそうな顔だ。
 私よりも少し年下なので、彼とは深い付き合いがなく、どのような人物なのかはあまり知らない。だが、以前、私がまだ平の所員だった頃、一度だけ、彼が撮影した写真を見たことがある。大学の写真クラブのOBたちが集まってやっている写真展に於いてだ。私も以前、少し写真に興味があって、写真教室に通っていたことがあったのだが、そのとき、同じ教室に、吉岡を知っている人間がいて、私を誘ったのに違いない。ただ、そこに展示されていた数点の写真も本当に吉岡のものかは定かではない。写真を撮った人間の名前が作品の下に書かれていたのだが、それは彼の名前ではなかった。彼がカメラをやっているという噂も聞いたことがない。ただ、私を連れていった人間が、彼はあなたと同じ会社の社員だといい、本当の名は吉岡幸介だと言った。それだけははっきりと憶えている。会社に彼が写真をやっていることを知られたくないので別名を名乗っているのだと言った。帰ってから、いろいろと調べてみると、ある営業所に彼の名前があった。
 彼の写真は他のものとは少し違っていて、どれもみんな、火の写真だった。奈良のお水取りの写真はよく憶えている。高い棟の上の松明から火の粉が夜空に舞う瞬間を下からアップで撮ったもので、見ているものの上に火の粉が覆い被さってくるようだった。それから、野焼きの写真もあった。炎が渦巻き、高々とまるで何匹もの龍が怒り狂いながら空へ舞い上がっていくような写真だった。どこか撮り手自身が何かを燃やしつくそうといった気迫のこもったものだった。その他、いくつかの火祭りの写真もあった。お札なのか、よく燃える木なのかはわからないが、小山のように積み上げられ、それらから炎が高く吹き上がっていた。日中に撮られたもので、陽は炎の上にも降っていたのだが、陽よりも炎の方が強かった。ただ、赤々とした炎の裏に、かすかだが、その明るさとは正反対の暗い闇も見えるような気がした。また、その前で、白っぽいはっぴのようなものをつけた中年男が両手を合わせ必死に祈っている姿も写っていたが、私には、彼は、炎にではなく、その後ろの闇に向かって手を合わせているような気がした。いずれにしても、どれにも迫力があり、今、会社で見る彼からはとても想像することのできないものだった。彼はその気迫を密かに心の奥底に仕舞い込んで生きてきたのか。それとも、ひょっとして同姓同名の別人のものかもしれない。
 最近、会議に提出される吉岡の営業所の成績は悪かった。彼は、これまで、かなりいい成績をあげてきた。いわば営業部門の優等生だった。だのにここ数ヶ月、急に落ちだした。本部長はしきりに、何故だ、どうなっているんだ、と問い詰めていた。前回の会議では、何か家庭に不幸でもあったのか、それとも好きな女でもできて、それに心が奪われているのか、とかなり怒りのこもった声で追及していた。
 吉岡は眉間を極端に縮めて困惑の表情をした。「所長の心の乱れは、すぐに所員の成績に跳ね返る。もっと、集中して事に当たれ、成績の悪いやつは容赦なく叱責しろ」と本部長は鋭い声で言った。彼はただうなだれて聞いていた。しかし、それは他人事ではない。私の営業所でも、成績の浮沈はしょっちゅうである。半月ほど前、私もそのような追及を受けた。「君はいったい所長になって何年になる。もう八年ではないか。それが、一年も経っていない所長に負けるとはどういうことだ。うちはね、やる気のない所長なんか要らないんだ」とさげすんだ眼で見られたことを思い出した。二度とあんな状態になるのは御免だ。何とか一件でも多く新規契約を取り付けなければならない。そんなことを思っていると、ようやく階下にたどり着いた。
 ロビーの広場を横切り、正面のドアのところまできた。
「ちょっと武田君」
 後ろから突然私の名前が呼ばれたので振り返ると、営業本部次長が微笑みを浮かべて立っていた。
「急いでいるのかね。ちょっと時間をとってくれないか」と次長が言った。
「はい、いいですよ」
 次長に呼び止められるなんてろくなことはない、嫌なことだ、と思いながらも私は承諾した。
「時間はそうとらせないから。ちょっと、聞きたいことがあってね」
 次長は、すぐに、私を引率するようにして歩き、エレベーターに乗ると四階で降り、部長室横の応接室へと私を導いた。
 中に入ると、真ん中にガラス板のテーブルを挟んでソファーが二つ置かれていて、テーブルの上には造花の花が飾られていた。座ることを促されて、私は、次長と向かい合って座った。
「会議が終わってほっとしているところを呼び止めて、申し訳ない」
 次長は、ゆっくりと話し始める。どうも、いつもとは調子が違う。いつもなら、もう少しぞんざいな言葉遣いをする。
「先週の火曜日、ベテランの営業所長だけが呼び集められて営業戦略に関する意見聴取の会のようなことをやっただろう。あの日、会議の休憩時間に階段脇の資料室でぼや騒ぎがあったことは知っているな」
「はい、知っています。それが何か」
 営業不振でも追求されるのかと、やや不安に思っていたので、ちょっとほっとした。
「それについて、本部長がえらく気にしてるんだ」
「だって、あれは、誰か、資料室で喫煙したやつがいて、たまたま火の消えていない吸い殻を誤ってゴミ箱に捨ててしまって、これもまた、たまたま後から誰かが入ってきて印刷機の印紙を捨て、それに火が移って燃えたのだということじゃなかったのですか」
「まあ、そういうことになっているが、そして、消防署にも通知しないで身内だけで処理できてよかったのだが、本部長が言うには、あれは誰かが故意に火をつけたのじゃないかって」
「じゃ、放火ってことですか」
「いいや、そうは断定出来ないのだが、しかし、仮にたばこの火の不始末にしたって、それを誰がやったのかは不明だろう。もう少し調べてみろって。そのお鉢がこちらに回ってきたわけだ」
 次長は突然立ち上がると、窓際近くの棚の上に置かれているポットのところへ行き、湯飲み茶碗二つにティーバックを入れてから、湯を注ぎ、湯飲みをトレイに載せて持ってきた。
「まあ、お茶でも飲んで話そうや」
「はあ」
 私は、次長にお茶など入れられたことがないので少し戸惑った。なんだか気持ちが悪かった。それに、自分がどうして次長に呼び止められたのかがまったくわからない。ぼや騒ぎと私とがどう関係するのか? 
「で、私がどうして?」
 思い切って尋ねてみた。
「いや、火事を見つけたのは、たまたま、資料室に印刷に来た女子社員なんだが、その子が、君を資料室の近くで見たって言うものだから」
「私を見たって? じゃ、私がたばこの火を」
「いや、そうじゃないんだ。君もそこで何かを見たんではないかと思って」
 次長は、テーブルに手を伸ばし、今、自分が持ってきたお茶をうまそうに飲んだ。湯気が彼のゴルフ焼けをした鼻先に漂った。
「いいえ、私はただ……、いや何も」
 私は少しうろたえた。確かに休憩時、資料室隣の倉庫部屋のさらに対面奥にある給湯室に行った。それはたまたま口の中がからからになるというか、変になったので、口をゆすぎに行っただけだ。それに騒ぎのあったときはすでに会議室に戻っていて、ぼやが生じたというので、みんなといっしょに資料室へ見に行った。ただそれだけだ。誰も見ていない。廊下はしんとしていた。いったい、どこから私を見ていたのか?
「でも、資料室の近くに行ったことは確かなんだな」
「はい、給湯室へ行きました。でも、水道水で口をゆすいで、そう、水をいくらか飲みました。それからすぐに会議室に戻りました」
「でも、お茶は会議室で出ていたのでは?」
「口をゆすぎたかったので、会議室では水を吐き出せませんから」
「そう言えばそうだな。でも、なぜ、口をゆすぎに」
「口がねばねばして、どうしてそうなったのかは私にはわかりません。それに、私はたばこは吸いませんし、持っていません」
 私はどういうわけか会議があるといつも途中で喉がからからになる。身体全体から水分がなくなってしまうような感じだ。
「いや、たばこには関係がないんだ。一応、たばこの火の不始末ということになっているのだが、実は、ゴミ箱からはたばこは見つかっていないのだ。紙に火がつけられて、それが放り込まれた可能性が高いんだ。それに、その紙もどうもこちらで使われている紙ではないらしい」
「紙など、いろんなところで手にはいるでしょう。この本部の社員だって、どこかで別のところで使われている紙を持っていることだってあるでしょうに」
 私の声が少し高まった。これでは私が動揺をしていることを示すようなものだ。ちょっと探りを入れたら、ひどく動揺してね、などと本部長に告げられかねない。
「それはそうだ、もう一度聞くが、君は誰も見ていないんだね。でも、不思議だな」
「……」
「だって、そうだろう。君を見たっていう女子社員は君がその子のほうをじっと見ていたって言うじゃないの」
「いいえ、私は誰も見た記憶が……。だって、そちらに顔を向けたって、視線は別の方に」
「そう言われればそうだが、ちょっと不自然だと思わないか。だって、……。いや、いいんだ。それはたいしたことではないんだ。大事に至らなかったのだし、外部にも漏れてはいないし」
「でも、私は何も。確かに誰も見ていません」
「わかった。何も君を疑っているわけじゃないんだから。ただ、何かを見たんじゃないかって」
 私は資料室を思い描く。ふっと資料室の中で影が動く。いったい誰が? でも、それは私ではない。資料室は、一番紙の多いところだが、どういう資料が保管されているのかは知らない。本棚もあり、書類がその中に詰め込まれているのだろう。それに、印刷用の紙も棚にはたくさん置かれているはずだ。最近、印刷にはコピー機がよく使われるが、一枚や二枚はいいとして、たくさんのパンフレットを作るには印刷機が使われる。火をつけるとすればあそこが一番いい。それに部屋のしきりはみんな燃えやすい化学合板でできている。ビルはすべてコンクリートで出来ていると思ったら大間違いだ。それに、会社でストレスを感じているやつが、その鬱憤晴らしに火をつけるなんて、まったく平凡な話で、話のネタにもならないくらいだ。だが、それが私だとなれば話は別だ。私はそんなことは絶対にやっていない。私にはそうする理由なんてない。確かに、今はスランプだ。何をやってもうまくいかない。私の営業所の成績も悪い。しかし、それはただの偶然だ。気にはなっていないと言えば嘘になるが回復する自信がある。それよりも気にかかっていることは、営業成績のよくない部下を少し手荒に叱ったら、そいつが鬱病気味になり、会社をやめてしまったことだ。
 しかし、不思議なことに、資料室などへ入ったことがないのに、その部屋の様子がわかるような気がする。入って窓に突き当たったところを右に折れたすぐのところに印刷機やコピー機が置かれている。右側の奥の壁のところに鍵のかけられたステンレス製の整理箱がある。何だかおかしいなあ。確かに、ぼや騒ぎの時、入り口付近までは行った。でも、ドアの外から眺めていただけだ。中には入っていない。だから、奥の様子などは見ていない。それなのに奥の様子がわかっているような気がする。それにまるで私が火をつけたようなざわめきを覚える。いや、ふっと快感のようなものさえ走る。不思議なことだ。
 ひょっとしていつか入ったのかもしれない。入ったことは忘れているが、部屋の様子は憶えている。ありそうなことだ。それに、どこの資料室だって似たようなものだ。どこか別の資料室を思い描いているのかもしれない。
「えらく青ざめているね。そんなにそのことを聞かれるのが驚きかね」
 次長はえらの張った四角な顔を少し傾ける。
「いいえ、ただ、何だか、私が疑われているようで」 
「だから、何度もそうではないと言っているじゃないか、ただ君がちょうどそのとき資料室近くにいたものだから」
 私は自分でも驚くほど興奮する。身体が震えるほどだ。それが表情に出てはまずい。何としてでも食い止めねばならない。私は何も知らないし、まったく関係がない。
「いや、わかった。帰ろうとしているときに、時間をとって申し訳なかった。もう帰ってくれていいよ、ああ、そうそう、ちょっと、気づいたんだが、先程の会議の席で、君が、ときどきライターをポケットから出して、いじっていただろう。たばこを吸わない君がどうしてライターを」
 次長は、私を再び詰問するような目で見た。ええっ? そんなことをしていたのか。自分のことなのにそれを聞いて驚く。まったく憶えていない。やっぱり、次長は私を疑っている。
「それは、あのう」
 声の震えを必死で止める。
「それで、私が?」
 不安が表れないように力を込めて言う。何という小心者か。
「違うよ。ただ、ふっと疑問に思っただけだ」
「あれは先日、父の命日で、久しぶりに墓参りをしたとき、線香に火をつけるために、途中、駅の売店で買って、それがポケットに入っていて、ただ何となくいじっていただけで」
「ああ、そういうこと、いや、それならいい。いろいろへんなことを尋ねて、ごめん」
 次長はしばらく私を見つめた。言ったことが本当かどうか探っているようにも見えた。やがて次長はソファーから立ち上がった。私も立ち上がるが、身体が揺れる。まったくだらしないなあ。いつもとは違う自分を見せつけられたようでたいへん不愉快だった。

「やあ、君も残されていたのか」
 帰宅のため、電車に乗ろうと道を急いでいると、後ろから声をかけられた。振り返ると同期で隣街の営業所長でもある田野が作り笑いをしながら立っていた。彼は同期でも一番早くに営業所長になった出世頭だ。かなり強引な営業をやっているという噂もある。若いときは同期というよしみもあり、彼とはかなり頻繁に会っていた。飲みに行ったり、麻雀をしたりした。だが、最近は付き合いはとぎれている。なぜだかわからないが、おそらく、お互いに忙しくなったためだろう。
「次長にでも呼び止められて、転勤でも打診されたのかい?」
 田野は何かを探るような顔つきで尋ねてきた。
「まあ、そんなところかな。ところで、君は部長に?」
 田野もまた会議の後、誰かに呼び止められ、何かを話していたようだ。ひょっとして、本社に呼び戻され、どこかの次長にでもなるのだろうか? いや、きっとそうに違いない。何しろ同期の出世頭だからなあ。しかし、私は咄嗟に嘘をついた。嘘をつくのはあたりまえだろう。放火犯に疑われて、尋問みたいなことをされていたなどと誰が言えるものか。
「俺も、まあ、そんなところかな。ところで、俺のことを何か聞かれなかったか?」田野が尋ねた。
「何? 君のことを」 
「いや、聞かれなかったらそれでいいんだ」
「いや、別に何も」
「そうか、それならいいんだ」
 田野はほっとしているような気がした。いったい何なのだろうか。ひょっとして、田野に私のことが尋ねられ、それで、逆に、自分のことを私に聞かれたのかと思ったのかもしれない。例えば、最近の武田を君はどう思うかねとか、最近、武田の様子がちょっとへんなんだが何か噂でも聞いていないかとか。
「じゃ、私のことを君に何か尋ねたのかね」今度は私が尋ねた。
「いいや、別に、だって、なぜ、君のことを」
「だって、なぜ、君……? いやあ、だったらいいんだ。ただ何となくそう思っただけで」
 待てよ。自分のことを「何か尋ねなかったか」などと言っておきながら、「なぜ、君のことを」なんてよく言えたものだ。
「ところで、話が変わるけれど」
 私が少しむっとした表情をしたのを察知してか、あるいは、この話を続けることに危険を感じたのか、田野は、突然、話題を変えた。
「今日、吉岡がしばらく病気で休むって話があっただろう。俺は、あれは嘘だと思うね。君はどう思う? 彼は、病気なんかじゃないよ」
「病気ではないんだって?」
「俺はそう思うね。どうも、黙って、家からいなくなったらしいんだ」
「ええっ? どうして、どうして君がそれを」
「いや、噂なんだけれどね」
「噂? 誰から?」
「ウーン」
「誰からなんだ、それを漏らしたやつは?」
「なんだ、君も知っていたのか」
「いいや。知らないよ。君から初めて聞いたんだよ」
「でも、今の口ぶりじゃ、何だか君も知っていたようじゃないか」
「冗談じゃないよ、何も知るものか、で、いったい誰から?」
 私はそう答えながらも、不思議なことに、一瞬、そう言われればそれを知っていたような気がした。
「みんなそう言っている。彼の友人だった営業所長のところへ、奥さんから電話がかかってきたらしいんだ。『昨晩、いっしょに飲みに行かなかったか?』って」
「で、奥さんは、そのとき彼がいなくなったって言ったのかい」
「いや、それは言わなかったらしい、だって、おかしいじゃないか、『昨晩いっしょに飲みに行かなかったか?』って。電話を受けた彼は飲みになんか行っていないのだから」
「遅かったから、その理由をただしたら、いろいろ説明するのが煩わしくなって、それでつい友だちといっしょに飲みに行ってきたと言ったのかも。奥さんは度々遅くなるので、女でもできたのかと疑って、それで」
「君もそう思うだろう、それで、その所長は、奥さん、心配はいりませんよ、彼に女などできる訳はありませんよ。彼はまじめで、営業のため、夜遅くまで仕事をしているだけなんです。我々は忙しくって、そんな暇なんかありません。私が保証します、と言ったらしいんだ。そうしたら、奥さんはえらく怒って、私、主人のことを一度もそんなふうに疑ったことはありません、て、そりゃヒステリックな声を出したらしいよ。そして、すぐに電話を切ったって、何だかおかしいと思わないか」
「そりゃ、突然、そんなことを言われたんじゃ、誰だって、かっとするんじゃないか」
「それはわかるよ。それは、疑っていない場合だよ。もし、疑っていたら、それを聞いた途端ほっとして、そんなにヒステリックな言い方をするかね。とすると、奥さんは、そんなことを疑っていなかったということだ。きっと、彼はいなくなったので、その手がかりを捜していたのさ」
「なあんだ。吉岡がいなくなったというのは、ただ、君がそう推測したというだけのことか」
「いいや、間違いない。彼はいなくなったんだ」
「そうかな、それはかなり強引な想像だよ」
 田野の考えは間違っている。飲みに行かなかったか、と尋ねたのなら、その晩は帰ってきているのだから、行方不明になっているなんて考えるのはおかしい。そう思いながらも、田野の言うこともまんざらではないなと思った。
「それに、第一、病気で長期に休まなければならないほどの者が夜遅く帰ってこないなんておかしいとは思わないか」と田野はつづけた。
「それはそうだが、まだ、その時は自覚症状がなかったのかも」
「私だけじゃないよ、電話を受けた吉岡の友人の所長だってそう思ったんだから」
「だって、彼もまた、ただの推測だろう。それに、会社だって、訳もわからないことに病休なんて認めるかね」
「おおありさ。損保会社の所長が失踪したなんてことになったら、週刊誌が興味を示し、あること、ないこと、書かれないとも限らないからね。そうなりゃ会社の信用にも関わる。とにかく、俺たちの業界は信用が第一なんだから。こんなことは絶対隠すって」
 確かに、失踪以前に、心療内科にでも二、三度かかっておれば、診断書なんて簡単に書いてもらえる。それに、あの、ぼや騒ぎにしたって、消防に知られなかったのは何よりだと次長が言っていた。奥さんだって病気としておく方がよほどいいにきまっている。見つかれば復帰だって可能なんだから。
 しかし、吉岡が失踪したって言うのはただの憶測で、病気だと考える方がずっと確率が高い。家族も会社もそれを認めているのだから。そう思ってみても、徐々に田野の言うことの方が正しいように思えてくる。だって、主人がいなくなりました。彼のことについて何か知りませんか、なんて、同僚の友人には尋ねられない。だから、主人と飲みに行かなかったかって尋ねたのだ。そう考える方がよほど筋が通っている。それに、おかしなことだが、私は何だかそうあって欲しいと願っている。
「まあ、吉岡のことはさておいて、今日はいつもより会議が早く終わったんだから。帰宅まで時間がたっぷりあるし、君と話すのも久しぶりだから、ちょっとそのへんでもぶらぶらしないか」
 田野が私の方を窺った。
 ひょっとして、田野は私にまだ言いたいことがあるのかもしれない。彼に何か尋ねられても正直に答えるつもりはないが、田野と話すのもまんざらではない。吉岡のことで他に何かを知っているかもしれないし、田野の残された理由も探ってみたい。
「ああいいよ。どこへ行こうか?」
「どこへ行こうかって?」
 田野はそこで言葉を詰まらせる。私も、他人に咄嗟にそう聞かれたら、困るだろう。家に帰る以外、これといった行き場所は見つけられない。
「そうだな、ウーン」
 田野は考えている。
「どこがいいかな」
 私も適当なところが見つからない。
「居酒屋でも捜しながら、そこらへんを歩くか」
 私が言うと、「ああ、あそこがいいや」とどこかを思いついたように田野が言った。それから今までの向きを反転させ、私を先導するように歩き出した。どこか目当ての居酒屋でも思いついたのか。まあ、どこでもいいや、彼と話さえ出来れば。私は田野に従った。
 私は歩きながら田野に尋ねた。
「何を部長と? 人事のことか? 人事部から打診でもあったのかな?」
「まあね。それは君の想像にまかせるよ」田野は気のない返事をした。
「本部へ帰ってこないかって? 次長でか、どこの部署なんだ?」私はさらに探りを入れた。
「そんなの、今の段階で、言える話じゃないよ。君もそう言われたのか」
「いいや、とんでもない。でも私も今の段階で言える話じゃない」
「で、他に何か言われただろう。例えば」
 田野が私を探るような視線になる。
「例えば?」
 私は尋ねる。例えば、この間のぼやのことなのだが……、と咄嗟に思いつく。
「いや、もういい。この話はこれで置いておこう」
 田野はしばらく何かを考えているようだが、意を決したように言った。
「そうだな」と私も同意した。
 私は、田野の話しぶりで、彼もまた資料室のぼやのことを尋ねられたのに違いない、と思った。本部の庶務の女の子が資料室のところで見かけたのは実は田野ではなかったか。例えば女の子が部長にこう言ったと考えられる。「見かけたのはAブロックの所長さんでした」Aブロックには五営業所があるが、あの会議に出席していたのは、田野と私だけだ。女の子の見かけたのが田野なら、私が彼女を見なかったことにもつじつまが合う。それで、部長が私と田野の双方を呼んで事情を尋ねたのだ。
 でも、まさか田野が放火に関わるなんて考えられない。それに、これはあくまでの私の推測だ。いや、もうこの話は止めておこう。考えると頭が痛くなる。
 私たちは、両側に建て売り住宅の並んでいる狭い道に入った。大通りと違い、四時をまわるとすでに夕暮れの感じがする。西日も家に阻まれて、道は陰の中に沈んでいた。人が通る気配もない。無人の廃墟の街に迷い込んだような錯覚を覚える。前を歩いている田野の姿が、突然、不気味な人影となる。
「前回の所長会議が終わった後のことなんだけど」
 田野は突然前を向いたまま言った。ええっ? と聞きかえす。
「本社ビルを出たすぐのところで吉岡に会ったんだ」
田野はまた吉岡のことを話し出す。
「吉岡が珍しく部長にとっちめられた日だな」
「そう。彼は私より後からビルを出てきたらしいのだが、正面玄関の階段を下りて、さらに通りへ向かうところで私の横をものすごいスピードで走り過ぎていったんだ。彼の体が私の腕に当たったのだが、吹っ飛ばされそうな感じがしたよ。すごいスピードだった」
「急ぎの用事でもあったのかね」
「いや、そうじゃないね。だって、あの日は、今日のように会議が予定よりはやく終わったんだから。何だかへんだった」
「よほど、部長の叱責がこたえたのかなあ」
「吉岡はそれまで順調だったからね。でも、確かにあれは尋常ではなかった。ただ、不思議なんだ。それを見た途端、俺もまた彼といっしょに走り出したくなったんだ。彼の後ろを必死で追いかけたくなった」
 そのとき初めて田野が後ろを向いて私の方を見た。彼の表情はどこか今までとは違っていた。どことはっきり言えないのだが、何だかいつもの顔の裏側を見ているような感じがした。
「それで、いっしょに走ったのかね」
「まさか」
 田野がまた前を向いた。だが、田野が吉岡といっしょに走りたくなった気持ちが何となくわかるような気がした。もし私がそこにいたら、やっぱり同じように走りたくなったのではないか。
 と、突然、話を遮るように私の携帯が鳴った。
「ちょっと、失礼」
 私は慌てて、田野から離れて、すぐ後ろにある電柱の後ろに行って、受信のボタンを押した。
「国友だが、武田か?」という声がした。
 国友とは、大学のサークルでの友達で、学部もいっしょだった。今、私の担当している地域の市役所に勤めている。仕事の上でも重要な男だ。
「ああ、私だ」
「また、頼むよ、例のやつ」
 彼から情報を得る代わりに、彼が持ち込んでくる知人の保険料の支払いの件で便宜を図ってやっている。
「仕方がない。君に頼まれれば嫌とは言えないから。それで今回は何だ? 加害か、被害か?」
「被害さ。ショベルカーが突っ込んできて庭の槇の木を倒したらしい。市議会の議長の家の。以前、総務部長の交通事故の後始末で、君に頼んでうまくやってもらっただろう。それを知っていて、部長が、自分の知り合いで、U損保に顔のきくやつがいるので、任しておいてくださいなどと議長に言いやがってさ、俺にお鉢が回ってきた訳だ」
「仕方がないな。何とかやってみるよ」
「すでに査定が入っているのだが、その査定が気に入らないらしい。何しろ、市会議員なんて何とかして金を稼ごうと思っているんだから。それで補償の金額が少なすぎるって。少なくともその二倍が欲しいって」
「二倍か。そりゃきついな」
「そこを何とか、やってみてくれないか」
「まあな、しかたがないな。努力してみるよ」
 また、調査部の連中の嫌な顔を見なければならない。査定は低く抑えろと、彼らは彼らなりに上から圧力を掛けられている。あんたの持ち込む案件を高くしたために、誰かが不当に安くさせられるのだから、と言わんばかりの顔つきだ。どうして、同じ会社の中でお互いにいがみ合わなけりゃならないのか。
「じゃ、詳しいことは本人から君に連絡させるから。よろしく頼むよ。そのお礼と言っちゃ何だが、今度、K不動産とA建設が、丸川地区にかなり大きなマンションを建てるそうだ。今日認可が下りた」
「そうか。その情報はありがたい」
 いい情報を得た。これをうまくやればスランプから脱出できるかもしれない。ただ、情報を得たからといって、すぐに成果が上がるわけではない。建築会社とは工事保険などの加入契約を取り付けなければならないし、マンションができあがれば内覧会への出席許可をもらい、住民への売り込みをしやすくしなければならない。それが至難の業だ。ただ、情報が早いほど、打つ手が他社よりも早くできる。それに、彼から他の市の建築主事や建築課の職員も紹介してもらっている。やはり国友は私にとっては掛け替えのない存在だ。
「それに、議長はK不動産やA建設に顔が利く。うまく処理できたら、議長に君のところの会社が工事保険をとれるように、また、内覧会への出席がうまくいくように頼んでもらうから」
「そうか、それはありがたい。頼むよ。こちらのほうは何とかするから」
「わかった。で、それはそうと、君とのこのようなやりとり、誰にも漏れてはいないだろうな。会社内でも絶対秘密にしておいてくれ。隣の市で、認可の情報を誰かに漏らしたというだけで、役所を首になったやつがいるのだから。それも同じ会社の同僚がたれ込んだというじゃないか。信じられんよ、本当に」
「わかった。安心しておいてくれ、君に迷惑をかけるようなことは絶対しないから」
「間違いないな。俺だって、危ない橋は渡りたくないんだ」
「わかっている。絶対間違いないから」
 電話が切れた。ようし何としてでも契約を取ってやるぞ、これで契約件数が増やせて、業績のアップに繋がるぞと喜ばなければならないところだが、今日は、どうもそういう気分にはなれない。国友に負担をかけていると思うからか。いや違う。私は一方的に国友に迷惑をかけているわけではない。彼だって私を利用しているのだ。
 だが、私の心は重い。いやな仕事を一つ引き受けたといった感じだ。
 そんな思いを抱きながら私は田野の元へと帰って行った。田野は道の片隅で手持ちぶさたを紛らわすように足をぶらぶら振っていた。
「会社からか」
「いいや、親戚から。法事の話さ」
「へえ。親戚付き合いもたいへんだな」
 田野は私の言ったことを信じたらしい。私たちは、再び狭い道を歩き出した。両側の民家はバブル時に大量に建てられた建て売り住宅の道に入った。両側の道はいっそう狭くなる。陽は東側の二階のベランダには当たっているが、道はすでに薄暗い。こんな道を行っても居酒屋はないだろう。だが、曲がり角にくると田野はいかにも熟知しているように迷わず左右のどちらかに曲がる。どうも彼は居酒屋なぞに行く気はないようだ。ではどこに?
「先程の話だけど」
 田野は歩く速度をゆるめながらぽつりと言う。
「先程の話って?」
「吉岡が脱兎のごとく走り去ったっていう話さ。後があるんだ。俺は彼の後をつけたんだ」
「何だって、でも、君は先程、まさか、って言ったじゃないか」
「彼といっしょには走りはしないさ。でも、気になってね。彼がどこへ行くのか、早足で彼の後を追ったよ。彼は俺よりもずうっと先を走っていたけど。どこで曲がったぐらいはわかるさ。それに、彼だってそう体力はつづかない。途中でゆっくりと歩き出した。だから、かなりの間、彼の後を追えたよ。彼はこっちの方へ来たんだ。もちろん、しばらくして見失ったけれど」
「では、このあたりへ来たのは君は二度目なんだなあ」
「彼がいないかと思ってね、かなり捜した。でも、結局見つけることは出来なかった。だけど」
「だけど?」
「だけど、結構楽しかったよ。子どもの時分、かくれんぼをしていて、ここに隠れてはいないかと思って辺りを捜すの、けっこうおもしろかっただろう。あの気分さ」
 田野は、そのときのことを思い出したのか、軽く笑った。
 何を暢気なことを。大の大人のすることじゃないな、と思いながらも、私もふと吉岡と出会った日のことを思い出した。あれは確か私が追及を受けた会議の帰りだった。おまけに、補償問題がこじれていて、その解きほぐしのために、すぐには家に帰れず、交渉相手の所へ向かっていた。かなり落ち込んでいたように思う。吉岡も、駅の方向ではなく、反対方向へ歩いていた。
「今日は散々でしたね、気分はいいことはないでしょう。私はそんなとき、気分直しに、次の筋を左に曲がって、堤防近くの街へ行くんです。あそこはいいですよ。うらぶれた工場街で、まだ田畑も多いし、夜になると、街灯もなく、家の窓もシャッターがおり、闇の街になるんです。そんな街を歩いていると、いつもの自分とは違った自分になれますよ。憂鬱な気分なんかすぐに吹き飛びますよ」と言った。「そうですか。私も気が向けば行ってみます」と答えた。「ぜひ、そうされたらいいですよ」と吉岡はつづけた。吉岡はこれからその街へ行くのだろうか、私にも行けだって、冗談じゃない。私はそんな街よりネオンの街の方が好きだ。今日は、仕事が終われば、そこへ行って、酒を浴びるほど飲んでやるぞ、と思った。
 田野が急に立ち止まる。
「それに、おもしろいものに出会えたしね。あれだよ」
 田野が指さした。廃屋に近いような工場の跡地が見えた。錆びた鎖で、入り口がふさがれているが、それを跨いで中に入ろうと思えばいくらでも入れる。その向こうには、炭状になった柱の残骸が折り重なっていた。見た途端に火事跡だということがわかった。
「火事にでも出会ったのかい」と私が言った。
「そうさ」
 田野は、得意げに言った。運がよかっただろうという顔つきをした。
「あそこに工場の事務所が建っていたんだ。それが燃え始めていた。火事さ。火事に出会ったんだ。こんなことはあまりないことだよ。かなりの大きさの建物だった。窓や屋根から猛烈に煙が噴き上がり、その中から、突然、炎がぱっと光りながら現れるんだ。熱風が我々にも襲ってきてね、けっこう興奮したよ。消防車がサイレンを鳴らして近づいてくるだろう。あれもたまらんね」
 田野は少し興奮気味にしゃべった。
 火事は人々を高揚させ、活気づかせる。そう言えば、今日、次長が私を取り調べるときも、何だか楽しそうだった。いつもの次長とは違っていた。
「俺がここへ着いたときはすでに人が集まり出していて、消防や警察が着いたときには野次馬でごったがえした。そして、その中に俺は確かに吉岡を見た。もちろん、彼はこの辺りに来ていたのだから、火事を聞きつけて見に来たのも何の不思議もないわけだが、火の見方がちょっとへんだった。身体を硬直させ、まるで、今から火の中へ飛び込んでいきそうなほどじっと見ていた。まさかそんなことはするまいと思ったが俺はひやひやしたよ。それに、炎を前にして彼を見ると、彼の後ろに闇のようなものがあって、彼がそこから現れてきたようで何だか不気味だった」
 吉岡なら火事を凝視するのはあたりまえだろう。あの、火や炎の写真を撮りつづけた彼なんだから、待てよ、まさかその家に吉岡が……?  そう言えば、二ヶ月ほど前にもこの付近の河原で芦が燃やされたという記事を読んだことがある。……? ばかな、そんなことはあるはずがない。
「それに、炎の様子に見とれて、少しの間、彼から眼を逸らしたら、もういなくなっていてね。俺に気づいたのかな。……」
「あれっ? おい、あれを見ろよ、あれは何だ?」田野が驚いたような声を出した。
 顎で方向を示した。見ると、火事跡のある広場の奥にはそれもまた元工場だったような建物があり、隣には大きな倉庫が建っていた。その隙間から、これも工場跡地のような広場が見え、そこで黒い野球帽を被り、色あせた作業服の男が廃材のようなものを積み上げていた。
「偶然だな。また、火が見られるかもしれないぞ」
 田野がいかにも興味ありそうに言った。
 野球帽の男は廃材を積み終わった。彼はポリタンクのようなものを持ってきて、廃材の上に灯油のようなものを撒いた。
「おい、間違いないぞ。あれに火をつけるんだ」
 田野はうれしそうに言った。
「よし、見に行こう」
 田野はそう言うとすぐに走り出した。私も彼の後を追った。倉庫の角の路地を曲がり、廃材のよく見えるところまでやってきた。
 そこも工場跡地のようで、地面は枯れ草が覆っていた。街の中の穴のような感じがする。その真ん中あたりに、乾いてよく燃えそうな柱や木ぎれがかなりの高さに積み上げられていた。
「倉庫でも壊したのかな。廃材を処理するつもりだ」
 田野はますます興奮する。
「枯れ草に火が移ると危ないなあ」と私が言った。
 だが、そう言いながらも、枯れ草が燃え、火がそれを伝って向こうに見える倉庫に届き、それが燃えてくれればいいのに、と思った。
 私たちは、野球帽の男に気づかれないように、倉庫の陰から彼を見つめた。
 彼はポケットから何かを取り出した。おそらくライターだろう。突然、炎が上がった。廃材の上を這うように炎が走り、それから黒い煙が立ちのぼり、しばらくすると白い煙に変わり、さらに煙の中から炎が見え始めた。
 私は、それらを凝視した。廃材はよく乾燥していたのか、すぐに火の勢いが増し、白い煙とともに、炎が激しくのぼった。何だか、それが心の奥底と共鳴するような気がした。それに、この光景はどこかで見たことのあるようにも思った。記憶の底に沈められてはいるが、しっかり思い出さねばならないことのような。しかし、それはどのようなことだったのかはわからない。
 しばらく見ていると、突然、上に積まれていた一本の柱が、火の粉を舞いあげながら、まるで燃えるのを嫌がっているように崩れ落ちた。
 あれっと思った。そうか、私は炎ばかりに気がとられていたが、燃やされるものもあったのだ。炎を上げながら無くなっていくものもあったのだ。
「吉岡のことなんだけど」
 田野が言った。
「これも俺の友達から訊いたんだが、吉岡は最近人をひとり殺したそうだ」
「なにっ、人を殺したって」
 田野が何を言おうとしているのかがわからない。
「彼は、ある建設会社に通い詰め、事故が起こったと聞きつければ、例え他社の保険であっても親身になって有利な査定を受けられる方法を教えてやったりしていたらしい。それで、社長にえらく気に入られ、とうとう、その会社の損保全部をうちの会社が獲得したらしい。そうしたら、前の損保の担当者が、社内でえらくとっちめられて、鬱病になって自殺したらしいのだ」
「へえっ、それはショックだな。それは困る」と私は思わず言った。
 途端、私が叱責したために会社を辞めていった若い部下のことを思い浮かべた。「君にはやる気が足らない。もっとやる気を出して頑張ってもらわないと困る。同期の連中の半分も成績を上げていないじゃないか」と詰め寄ったときの彼の悲しそうな、苦しそうな顔がちらついた。まさか、自殺などしないだろうな。しないでくれよ。
「吉岡の成績が急に落ちだしたのはそれからだと思うな」と田野がつづけた。
「彼には何の落ち度もないのにね。正当な営業活動をして、困るんなら、もう方法がないよ」
「彼の気持ち、わからなくはないが、そんなことで落ち込んでいたらどうしようもない」田野は苦々しそうに眉間に皺を寄せた。
 そういえば、田野だって、以前、他者の営業マンを殺したという噂を聴いたことがある。タクシー会社の自動車保険の獲得で、強引にその会社の保険をうちの保険に乗りかえさせて、それで他社の営業マンが鬱病になって自殺したとか。
「それは所詮他人のこと、そんなことを気にしていたらどうしようもないよ。この過酷な競争社会で生きぬいてはいけないよ、なあ、武田、どう思う?」
「まあ、そういうことかな」
 私は曖昧な返事をした。
「自分のことの方が大切だよ。うかうかしていたら自分の首が危ないよ。すでに、会社は合理化に入っている。営業所だって、統合するらしい。今にそれが押し寄せてくるぞ。営業所の成績なんて、首を切るのには絶好の材料なんだからな。部下の仕事場を守るためにも、お互いに頑張らなければな。そうだろう、武田」
 武田、と言うところをいやに力を入れて言う。私の顔を見てにっと笑う。彼は今日の私の成績を知っているのだ。彼のところは上位だった。私を脅かすつもりか。そのためにここまで連れてきたのか。
「悪いけどさ、吉岡が倒れてくれて、競争相手が一人減った。あと、三、四人倒れてくれないかな」田野が付け加える。
 まさか自分がそうなるとは思わないだろう。武田、しっかりしないとだめだぞ、首を切られるのはお前だぞ、と言いたいのだ。冗談じゃないよ。子どもはいないが、女房はいる。首など切られてたまるものか。だが、安泰なんて思っていたらたいへんなことになる。長年同じ会社で働いていたから、明日もまた同じことが続くと思っていたら大間違いだ。それに、部長が言っていた「やる気のない営業所長なんか会社には要らない」、あれは脅しではなく、何かを暗示する言葉かもしれない。資料室のぼや騒ぎにしたって、私が資料室に入ったのを見たと言ったやつがいるのかもしれない。あれは私をおとしめるための策略か? 友人の国友が言っていた「会社の同僚からの密告があった」と。会社は警察ではない。証拠があっての確定は要らない。疑わしいというだけで十分だ。例えそれがあやふやなことであっても、疑われるような脇の甘いやつは会社には要らないと思われる。疑わしきは罰する、これが会社の掟だ。
 田野のやつ、私が、次長にぼや騒ぎで疑われていることを知っているのか? 「俺のことで何か言われたか」なんて、それをぼやかす言葉? いや、そうじゃなくて、田野を密告したやつがいるのかもしれない、田野が資料室に入ったと。私と同じように彼もまた尋問されたのではないか? 
 待てよ、私が給湯室からぼんやり廊下の向こうを眺めたとき、確かに資料室の扉が開かれて誰かが出て来たのを見たような気がする。逆光だったので、顔も姿も黒々としていて、はっきりしなかった。まるで影のようだった。だが、それを見た瞬間、あれ、田野が? と思った。影も私をちらっと見た。いや、本当にあのとき田野と思ったのか、違うように思う。あれは吉岡だと思ったのではないか? 今日は吉岡はいないのになぜだって。わからない。どちらを思ったのかまったくわからない。
 だめだ、そんなのはただの思いつきだ。私は誰も見ていないし、誰もいなかった。第一、私は水で口をゆすぎ、少し水を飲んだことまでははっきりと憶えているが、あとのことは何もわからない。はっきりしているのは、会議室に入って机に座っているとき、外で、火事だ、火事だ、という声を聞いたことだ。それまでのことは意識が飛んでいる。きっと、叱責して会社を辞めていった部下のことを考えていたのだ。
 ひょっとして、私が資料室へ? まさか、それは絶対にあり得ない。確かに私はときどき、無意識に何かを行い、それに気づいてうろたえることがある。電車に乗るつもりで歩いていて、はっと気がつくと、いつも散歩に行く公園の入り口に立っていたり、郵便物を入れるためポストへ向かって歩いているつもりが、気がつくと、いつも乗る電車の改札でカードを捜していたりすることがある。しかし、それは、意識が何かに集中していて、無意識に習慣めいた行為をやってしまうということだ。火をつけるなんて習慣的なことではない。だからまったくあり得ないことだ。だが、誰かが武田さんが資料室に入っていくのを見ました。そっと中を覗いてみたら武田さんが火のついた紙をゴミ箱に放り込んでいました、などと告げれば、絶対にそんなことをやっていないと否定できる証拠はあるのだろうか。 
 やめた、何て馬鹿げたことを考え始めたことか。
 私は、大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐いた。それでもまだ嫌な気分が残っている。もっと内へ向かう意識を剥がさなければとんでもないことを考えてしまうかもしれない。
 私は意識的に広場の方を見た。
 広場での黒い野球帽の男は、どこから運んできたのか、また、いくつかの廃材を火の中へくべ始めた。火花が散り、火の勢いはしばらくは衰えたが、新しい廃材が燃え出すと、以前よりもいっそう勢いのいい炎が上がり、炎の上には陽炎が透明な揺れを現出していく。
「廃材はよく燃えるなあ」
 田野は炎を食い入るように見つめながら言う。
「要らないものは燃やすに限るね」田野がつづける。
「やる気のない所長なんかうちの会社には要らない」部長の声が蘇ってくる。
 と突然、叔父の葬儀で斎場に行ったときのことが思い浮かんでくる。棺を焼く建物に入ると、ごうごうという音がしていた。今、死体がすさまじい勢いで焼かれているのだ、と思った。すると、周囲から炎を吹き付けられ、死体の額からも鼻の穴からも炎が出ている光景が思い浮かんだ。胸や足からも炎が出ている。恐ろしかった。いずれ、私もあんなふうに音を立てて焼かれるのだと思うと身が震えた。
「会社にも廃材がいっぱいあるからね」田野が言う。
 私は会社にとって廃材なのか、それとも廃材を燃やす側にいるのか? いや、会社にとってではない、今の自分にとって燃やしたい廃材とは何か? 会社の中の競争で、一喜一憂しているこの自分そのものなのか? 
「おい、あそこ、ちょっと見てみろよ。俺たちと同じように、陰に隠れて火を見つめているやつがいるぞ」
田野は、顎をしゃくった。対角線の向こうを指す。確かに、建物の陰のところで影が動く。ただ、すでに西日は薄れていて、路上近くまでは陽が届かない。かなり薄暗い。時々陰から顔が覗くが、見えるのは輪郭だけであとは何もはっきりとはしない。
「なあ、誰かいるだろう」田野が言う。
「いるね」私が答える。
 あれ、吉岡ではないのか、と私は思う。顎の出っぱり、細面の顔の輪郭、やせ形の体格、よく似ているな。着ているスーツも似ている。この辺りで、スーツ姿の男などそうざらにはいない。
「吉岡に似ていないか」田野が言う。
「ウーン。確かに。でも、他人の空似かな」私が言う。
 吉岡なんてあまりにもできすぎている。
「やっぱり吉岡だよ」田野が再び言う。
「おい、さっきからそこでこっちを見ているやつら、何をしている」
 突然、廃材を燃やしている男がこちらに向かって声をあげた。燃えさしの長い廃材を松明のように掲げながらこちらに向かってやってきた。
「お前達、何者だ。置いてある銅線でも盗みにきたのか」
「おい、逃げよう」田野が言う。私たちは何のやましいことをしていないのにひどくおびえた。
 私たちは慌てて顔を引っ込め、もと来た道の方へと走った。先程の工場跡地の前まで来て、そこで息を整えた。少し落ち着くと、また田野が言葉を出した。
「でもさ、さっきのやつ、やっぱり吉岡だったよな」
「確かに」
「確かめるか。もう一度」
「ああ」
 まったく異存はなかった。いや、確かめると言うよりも彼の傍へ行きたかった。
 横にはまだ操業している工場がある。その脇に路地がある。それをまっすぐ行けば、スーツ姿の男がいた道に出られるはずだ。
 私たちは操業中の工場脇の路地を歩き出した。黒いトタンの壁に沿って、路地を直進した。少し歩くと、先程、家の陰から覗いていた男がいた路地に突き当たった。路地の先を見渡す。誰もいない。川の土手が壁のように見える。私たちは、その道を歩いて工場跡地の広場に近づく。今度は反対側から、工場跡地を覗く。火を燃やしていた黒い野球帽の男は相変わらず、広場の真ん中にいる。すでに廃材は燃え尽きたのか、炎は消えている。男は鉄の棒で、それらをかき回すと、火の粉だけが舞い上がる。田野は再びそれをじっと見つめた。
「この間の火事はすごかったよ。あんなのじゃなかった」
 田野は火事の光景を思い出したように空を見上げる。
「私も見たかったな」
 本心そう思う。炎が狂ったように大きく天空に舞い上がる光景が見たい。
「おい、あれを見ろよ」
 田野はすでに逆の方向を向いている。田野の視線を追うと、今までとは反対側の道の向こうにスーツ姿の男が見える。ズボンの裾をひらひらさせながらゆっくりと路地を遠ざかっていく。
「やっぱり吉岡だ」
「そうだな」私が答える。
 だが、サラリーマンなんてみんなどこか似ている。
 田野はすでにスーツ男の方へ歩き出した。私も田野の後を追う。スーツ男は路地を左に曲がる。私たちは曲がり角で、立ち止まって、陰から男を覗く。男は、戦後すぐに建てられたような古びた家の前で立ち止まっていた。玄関先には、段ボールが折りたたまれて置いてある。ガラスの扉が破れている。男はじっと段ボールを見つめている。段ボールに火をつけて、割れた窓から中に放り込むのではないか、そう思うと、それは確実なように思う。顔の側面がすでに暗くなりかけている中でも横側の輪郭だけは浮き上がって見える。頬の痩け具合は確かに吉岡に似ている。最近は、頬の痩けた男などそういるものではない。
「やっぱり吉岡だよ。おい、やるよ、あいつ、きっと」
 田野が言う。私と同じことを考えていたらしい。
「確かに」と私が言う。
 スーツ男はしゃがんだ。上着の裾が路上に触れて影の中に溶け込んだ。手が段ボールに近づいている。それから、辺りを見回そうとする気配を感じる。私たちは慌てて顔を引っ込める。しまった。彼の顔を真正面から見るチャンスを失った。
「やっぱり吉岡で間違いないよ」私が言う。田野はウーンと呻る。私たちが再び家の角から顔を出そうとする。瞬間、私の携帯がまた鳴った。何ということだ。田野の方を見ると彼はさも迷惑そうな顔をした。私は携帯をポケットから取り出すと、慌てて後ろを向き、以前と同じように電柱の陰まで走っていって柱の陰に身を隠す。受信のボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「もしもし、武田ですが」私が言う。
「所長ですか、内田です」
 部下の内田からだ。
「何だ、どうした」
「すみません。森田建設の工事保険、とれませんでした」
「何だって? あれは先日、君があそこの総務部長と会って、ほとんど確約してきたんじゃなかったのか」
「はい、それで、今日、連絡が入り、正式の契約をしてくれるものとばかり思って行ったんですが、お宅とは契約しないって」
 森田建設の情報も国友からもらったものだ。いったい何があったのか。
「どうしてなんだ、いったい」
「よくわかりませんが、ただ」
「ただ、何だ?」
「お前のところの会社、どうなってんだ。一度、君ところの所長の接待を受けたのが、もううちの会社に漏れているって、えらい剣幕で叱られました」
「何? 誰がそんなことを」
 そう言えば、一度だけ、彼をちょっとした料理屋へ招待したことがあった。今電話をしてきた内田といっしょにだ。誰が告げ口をしたのか? 他社のスパイになっているやつがいるのか。これは、資料室のぼやよりもたちが悪い。だが、待てよ、もし営業所内の誰かが告げ口をしたとすれば私に責任がある。軽はずみに外へは出せないな。それに、ひょっとしてそれは口実かもしれない。何らかの事情で森田建設が別の会社の損保に入らなければならなくなって、その口実にそんなことをでっちあげたのかも。それとも私をおとしめようとするやつがいて、それで、契約の妨害に出たのか? いったいそれは誰? 何故?
「森田建設の社長はそんなことが大嫌いだそうで、それが聞こえてきた時点で、さっさとあんたとことは縁を切らせてもらったって」
「ウーン。誰だ、そういうことを相手に知らせたやつは」
「わかりません」
「困ったことだ」
「困ったことです」
 役所にいる国友が会社の同僚からの密告があったと話していた。それを思い出させた。私は国友に「君のことは絶対ばれない」と保証している。本当に大丈夫だろうか。どこからかそれがばれて、役所に告げ口でもされたらたいへんだ。でも、そうされないという保証はどこにもない。
「わかった。ご苦労。善後策はまた明日にでも」
 携帯を切った。森田建設の件で、私が気を遣い、時間を使い、労力を使ったそのエネルギーはどこへ消えたのか? そして、これからもこんなことがずっとつづく。
 携帯をポケットにしまい、電柱の陰から出て、元のところへ帰ろうとした。今先程いたあたりを見ると、そこには誰もいない。おかしい。田野がどこかへ消えた。 
「田野、田野」
 私は呼ぶ。すでに日は暮れた。空にも光はない。夕闇が急激に深まっていく。あまり遠くは見えない。路地の奥を捜すがどこにも人影がない。いったい、何というやつだ。ちょっと待っていてくれてもよさそうなものを。
 私は家の角から、スーツ男が立っていた辺りを眺める。そこにも人はいない。スーツ男も消えている。ひょっとして田野は彼の後を追ったのかもしれない。いや、そうに違いない。それならわかる
 ただ、段ボールは相変わらずそこにある。
 私はそれに向かって歩きだす。段ボールの前まできて吉岡とおぼしき男と同じように蹲って段ボールを見つめた。
 まだ、寒くはないのに、下から冷気が上がってくる。
 私は、両手で段ボールを触った。思ったよりも柔らかく、すべすべしていた。何だか昔ふれた藁束の感触に似ている。少年時代、慣れ親しんだ藁束の群れを思い出す。同時に、当時住んでいた、森と棚田に取り囲まれた山村の景色も。
 と、突然、おい、タケやん、という懐かしい声が聞こえた。段ボールの手触りが、少年時代の私の呼び名を掘り起こした。
 ひょっとして、思い出さねばならないこととはあのことではなかったか。
 声の主は学校での唯一の友人だったノロの声だ。彼は何をやらしてものろい。成績もよくない。みんなから馬鹿にされ、野乃上という名字をもじってノロと呼ばれていた。私も途中で、父が亡くなり、母親の故郷であるこの山村へ転校してきたので、村の子どもたちとはなじめず、孤立していた。よく似た境遇からか、お互いに友達になった。タケやん、おもしろいものを見せてやるから、絶対、夜の七時に、神社の鳥居の前に来いや、絶対にやぞ、とノロは学校の帰り、私の背後から近づいてきて言った。その日、七時に村の子どもたちは校庭で花火大会をしようと話し合っていた。クラスのボスが花火をたくさん買ってもらったらしい。でもノロも私もその仲間には入れてもらえなかった。
 私が、鳥居の前に行ったときは、すでにノロは来ていて、私を待っていた。さあ、こいや、と言って、鳥居のところから道を下った。私もノロも懐中電灯は持っていたが、辺りはすでに暗く、電灯に照らされるわずかな空間しか見えない。闇の中へ入っていくようで怖ろしかった。しばらく歩いたところでノロは立ち止まった。ここや、ここで俺たちの花火大会をやるんや、と言った。私は何のことかよくわからなかった。でも、ノロが私をその場所に誘ってくれたことがうれしかった。それに、何が起こるのかわからないことが心をわくわくさせた。ここは誰の田圃かわかるか、と言った。わからないと言うと花火をたくさん買ってもらったというクラスのボスの子どもの名を挙げた。彼の家は村一番の金持ちやとも言った。ノロは乾いて枯れ木となった大豆の木の束を私に見せ、これらをみんな田圃の真ん中へ集めてくれや、と言った。私は畝の上に束にされて干されている大豆の木を田圃の真ん中へ持って行って積み上げた。さらには、ノロのまねをして、すでに脱穀されて、竿のような木に干されている藁もそれから外して持って行った。二十分もしないうちにかなりの量が積み上げられた。ようし、これでいいやろう、とノロは言った。ノロの動きは学校では考えなれないほどきびきびしていた。さあ、これに火をつけるのや。ノロはマッチを取り出し、さあ、やってみろと、それを手渡した。こんなん燃やして怒られるのと違うか。まだ、豆がさやに入っているし、と私は躊躇した。そんなん、かまうか、つけるの怖いのか、あかんたれや、と言って、私からマッチを取り上げた。私は、火をつけるのは怖かった。それに、こんなに積み上げられたものが燃え上がったら誰かが気づき、やってくるに違いない。捕まれば、こっぴどく叱られ、警察にまで行かなくてはならないかもしれない。そんなことを思うと怖くてしかたがなかった。えらいところへ来たものだとも思った。一刻も早く、そこから立ち去りたかった。でも、せっかくノロが私を呼んでくれたのにそれは出来ない。それに、豆の木や藁束が燃えるのを見たかった。さあやるで、ノロはマッチに火をつけると、最初によく乾いた一本の大豆の木に火をつけた。大豆はすぐに燃えた。ぱちぱちと気持ちのいい音を出し、布状の炎を出した。柿色の炎の中に何筋もの白い糸のような炎もあった。ノロはもう一本、同じように大豆の木を燃やして私に手渡した。さあ、これで、あっちから火をつけてくれや、と言った。私はそれを持って、ノロとは反対側へまわったが、結局、火はつけられなかった。ノロは私の側へも回ってきて黙って火をつけた。ノロのつけた火は、すぐに、他の大豆にも移り、ぱちぱちと音を鳴らしてさやから大豆をはじけ飛ばせた。その音は花火の音とは全く違っていたが、さわやかで美しかった。炎は藁にも移り、激しく燃えて周りを明るくした。すると、余計に周りの闇が深くなった。ノロが辺りをぐるぐる回るが、炎の向こうへに行ったとき、ノロが闇の中へ入っていくように思った。どこか違う世界へ行ってしまうような気がした。私も炎の周りを回るが私はいつも明るいところにいた。熱風が時々私の頬を打つ。黒い灰が無数の虫のように炎の中を飛び交う。どうや、あいつらの花火よりはよっぽどきれいやろ、とノロが言った。こっちのほうがきれいや、絶対、と私は言った。おおい、藁が燃えとるぞ、と鳥居のあたりから声が聞こえた。誰や、火をつけたのは、という声もした。何人かの大人たちが道を下りてくるのがわかった。おい逃げるぞ、こっちや、とノロは指さした。私はノロの後を必死で逃げた。後ろを振り返ると、炎がいっそう激しく夜空に向かって立ち上っていた。火をつけたことは誰にも言ったらあかんぞ、とノロが言った。わかってる、と私が言った。次の日、村では大人たちが誰が火をつけたのかと言い合って、さかんに調べていたがわからなかった。ノロも私も知らん振りを通した。誰も私たちを疑わなかった。それ以後も相変わらず、私たちはみんなの仲間には入れてもらえなかったが、ノロは今までとは違って、どこか堂々としていた。ノロの方がみんなより強そうだった。
 突然、目の中がちかちかし出して、私の前にうっすらと煙の帯がたなびいた。驚いて、段ボールの上の方を見ると一番上の段ボールからかすかだが炎が立っている。いつの間にか私はポケットからライターを取り出している。おそらく私が火をつけたのだろう。私はライターを持ったまま、火のついた段ボールの切れ端を持ち、それを斜めに傾け、炎がもっとよく燃えるようにした。それを段ボールの下の方へと持って行き、下のものにも火をつけた。段ボールからどんどんと朱色の帯が広がっていく。炎は勢いを増す。それは、展覧会で見た吉岡の野焼きの炎とは比較にならないほど小さいが、やはり美しくて力強い。かすかだがごうごうという音も聞こえる。私の身体のどこかが燃え出しているのかもしれない。
 タケやん、あかんたれでなくなったや、というノロの声が聞こえてきた。私はうれしくなる。暗いところへ行くのも怖くないぞ、と自分に言い聞かせる。炎はますます強くなる。
 私は顔を上げた。辺りを見回すと、廃屋のガラス障子にも炎の影が映っている。
 ガラスの向こうにも炎が上がっているように見える。ふっと、背後に人の視線を感じた。誰かが、今、どこかから、じっとこちらを見ている。だが、それは誰なのかがわからない。田野なのか? それとも吉岡なのか?                                                了


 

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