肩に歯をたてられて、
「痛い」
と身を離した。
「好きなくせに」
と言いながら、亮はわたしの身体を捉え、肩に、背中に、歯をたてる。
「痛いったら」
再びそう言って身をよじりながらも、彼の腕の中から抜け出そうとは思わない。
「こうしたら感じるやん、いつも」
終わったばかりでまだ汗の残る身体を噛まれると、身体の内側からポッと火がつくように火照る。
「もう、止めてったら」
腕に、胸に、わき腹に。歯痕が増えるたびに、皮膚はやわらかくなる。その皮膚に、亮の皮膚が触れ、絡み、わたしたちの肉体が溶けていく。
もう幾度も、二人の身体が溶けるような、そんな瞬間を経験していた。経験を経るごとに、わたしの皮膚はやわらかくなり、しまいにはベッドの上で二人が液体になってしまうのではないかと恐くなる。
「ほんとは、止めてほしくないんやろ?」
亮はそう言うと、わたしの身体を再びベッドに組みしいた。
猫が瀕死のねずみを弄ぶように、彼はわたしの皮膚に口をつける。わたしは、観念したねずみのように、されるがままになっている。
けれど、首筋に強く歯をたてられるのを感じた瞬間、わたしは、
「駄目」
と彼の身体をはじめて強く押しのけた。
玄関の引き戸をあけると、笑い声がこぼれてきた。
「なに、どうしたの?」
パンプスを脱いで、声のするキッチンへ向かうと、直人が家族の真ん中で鍋に蟹を入れているところだった。
「あ、おかえり」
わたしの姿を見て、直人がそう声をかけた。
「来てたん?」
「うん、近くまで来たから」
わたしたちの会話が終わるのを待たず、
「直人さんがな、」
と祖母が口をはさんだ。
「蟹を動かすんよ。生きてる、生きてるって」
直人は残った蟹を掴んで、器用に左右に動かした。
「直人さんは、面白いな」
八十を超えて軽い認知症のある祖母が笑うことは珍しいことで、最近の食卓は暗くなりがちだったのだけれど、だから、こうして明るい空気に変えられる直人を、すごいと思う。
「典子、遅いから、先にはじめとったで」
父は、笑顔のまま、食卓から顔をあげた。
「お休みになるといっつも、ふらふら遊びに行くんやから」
母はぶつぶつと小言を繰り返す。
「しょうがないやん、直人が来るって知らんかったし」
台所の流しで手を洗って食卓につくと、直人が黙ってお椀に蟹を載せて、目の前に置いた。
高校の同級生だった直人とは、もう十年近い付き合いになる。補習の後に一緒に帰宅するようになったのがきっかけで、なんとなく付き合いだしたのだけれど、家が近所なのもあって、その頃からお互いの家を行き来している。今ではお互いの家の、皿や調理器具の場所まで熟知していた。
「そやけど、何度も電話したのに、全然繋がらんかったで」
母は文句を繰り返す。
「そうなん? 気付かんかったわ」
携帯をマナーモードから戻すのを忘れていた。帰りの電車の中でも、考え事をしている間に、バッグの中で携帯が震えていたのかもしれない。
「すみません、僕が急に来たのが悪いんで」
直人はとりなすようにそう言うと、鍋の具材を祖母に取り分けた。
「直人さんは悪くないんよ。いつでも来てくれたらいいんやから」
両親の、直人に対する評価はめっぽう高い。高校時代から知っているというだけではなく、不器用な父の代わりに、家じゅうに祖母のための手すりを取り付けてからは、娘のわたしに対するよりもずっと重い信頼を抱くようになった。直人は、そんな理想の息子としての役割を、嬉々として受け入れているようにも見える。
「典ちゃん、蟹食べんの、下手やなぁ」
直人はわたしの手の中から蟹を奪うと、器用に身を掻きだしてお椀に戻した。きれいな形の残る身を、箸でつまむ。
「典子は、もう。直人さんにそんなんさせて」
母は嫌な顔をしてわたしを睨む。
「いいんです。僕はもう、食べましたから」
会話を聞き流して、蟹の身を食べることに専念する。茹であがった蟹はぷりぷりしているくせに、口の中で溶けてしまう。殻から身をほぐす手間もなく、この味を味わえるのは、とても得した気がする。そうして、文句も言わずに進んで殻をむく彼氏がいるということは、幸福なのだと自分に言い聞かせた。
カーテンを開けて窓の外を眺めると、雪がちらついていた。
大阪で雪が降るのは珍しいことで、そのためか、雪が降るのを眺めていると、飽きることがない。
自室の窓辺に立ったまま、携帯をひらくと、二件のメール着信があった。
一件は、さっき帰った直人から。
――今日はご馳走様。お礼言っといてな。あと、雪降ってんで。
雪だるまの絵が踊っている。
もう一件は亮から。
――次いつ会う?
一瞬だけ迷ってから、亮から先にメールをする。
――来週の土曜は? 昼過ぎには難波に行けます。
送ってすぐに返信がくる。難波は、彼が友達とルームシェアして暮らす街の近くで、わたしたちがいつも利用するホテルのある場所だった。
――わかった。
亮からのメールには絵文字はないし、用件以外の内容もない。これできっと土曜まで、彼からメールが来ることはない。
それは彼と出会った半年前から変わらない。亮がメールでのコミュニケーションが好きではないということもあるのだろうけれど、わたしたちの関係を暗に示しているようで、それを考えるとなぜだか少し心がざわざわする。そういう関係を望んでいるのは、わたしでもあるのに。
亮からの過去のメールをスクロールしていく。どれもこれも愛想のない用件だけのメールの中、唯一数ヶ月前の、
――誕生日おめでとう。
というメールに、ケーキの絵が踊っていた。
用件メールだけしかもらっていないと思っていて、こういうメールがきたことはすぐに忘れてしまう。
誕生日の夜、直人は残業もせずに帰ってきて、ホテルのレストランに連れて行ってくれた。亮からきたこのメールは、トイレに行ったときに確認した。正直に言えば、豪華なディナーよりもこのメールの方がうれしかったのに、それでもわたしはディナーを断ることもできなかったし、亮からのメールに返信することもできなかった。
――亮、あのね……。
亮へのメールを打ち始めてすぐ、メールを削除する。自分でも何が言いたいのか、よくわからなかった。
それでも、雪が降り続ける窓を見ながら、今度は直人のメールを開いて、返事を打つ。
――蟹、剥いてくれてありがとう。おばあちゃんが直人と一緒にご飯食べられて喜んでたわ。
蟹の絵をつけて、返信ボタンを押す。
すぐに、
――おばあちゃんに、帰らんで一緒に住めばいいって言われたわ(笑)
という返信が帰ってきた。
バスタオルを巻いて、ホテルのバスルームから部屋に戻ると、亮が難しい顔で携帯の画面を睨んでいた。
「どうしたの?」
「ん? いや、仕事を探してるんだけど、登録してもなかなか見つからないから」
フリーターをしている亮は、しばしば職を変える。バーで出会った頃は、レンタルビデオショップで働いていると話していたが、今は飲食店で働いている。
最近では携帯電話で職探しサイトにエントリーできるらしく、時折彼は携帯でそういうサイトをのぞいている。
「今度はどんなバイト?」
尋ねると、
「うーん……まあでも、自分には、関係ないやろ?」
と彼は携帯画面を見つめたままそう言った。
たしかに、それはわたしには全く関係のないことだった。
亮は、事務職をしているということ以外の、わたしの職場や仕事内容や、住所や生い立ちだって知らないし、聞かない。わたしもまた、彼がわたしより二つ年下だということ以外、彼の家族や友人関係も何も知らない。わたしたちが共有しているのはお互いの情報ではなく、ただ、一緒に過ごすこの空間と、それに付随するもののみだった。
「ああ、もう、ええわ」
投げつけるように携帯をテーブルの上に置いて、亮はわたしに向き直った。
「もう、消えた?」
バスタオルを剥ぎとって、わたしの身体を触る。
部屋の壁一面の鏡には、薄くなった青い痣が残る皮膚が映っている。その痣ひとつひとつに亮が唇をつけるのを、わたしは鏡ごしに眺めた。
「まだ、たくさん残ってる」
亮の言葉に返事をしようとして口を開くと、声にならない声が、喉の奥から漏れる。消えかけた痣のひとつひとつに、スタンプをつけるように彼は再び歯痕をつけていく。
ふらふらと動くわたしの身体を抱きかかえると、亮はベッドにわたしを放り投げ、その上に覆いかぶさった。
「こんなふうにされんの、好き?」
わたしの皮膚はよりなめらかになり、彼の筋肉質な身体に密着していく。
こういう行為は嫌いじゃない、と思う。それは亮と出会う前からで、直人と経験してから何人かの男と行為をして、快楽も得てきた。
でも、亮との行為は、そんな小さな波のような快楽ではなく、もっと自分を覆い尽くすような、自分が溶けてしまうような、そんな恐ろしさのある快楽だ。
「好き」
亮の背中に、腕をまわす。
指先に力を込めると、背中に回った彼の腕にも、強く力が入った気がした。
改札を抜けると、そのすぐ前に、直人の姿が見えた。
もうすぐ夜の七時だけれど、繁華街の明かりが、昼間のように明るい空間をつくりだしていた。
駆け寄ると、彼は首に巻いていたマフラーを外してわたしの首にかけた。
「寒いやろ?」
寒がりのわりに薄着を好むわたしの性格を知っていて、直人はよくそうしてマフラーを首に巻いてくれる。
「ありがと」
口元まで覆うと、呼気でマフラーが湿った気がした。
「仕事、延長できそうなん?」
並んで歩きはじめると、すぐに直人が口を開いた。
「うーん、まぁ、無理ちゃう?」
鮮やかなショーウィンドーを眺めながら、そう答える。
自宅が近い直人とは、お互いの家に行くか、直人が買ったコンパクトカーで外出を済ませてしまう。電車を使えばそんなに時間はかからないのに、大阪市内のこの街で落ち合うのは、本当に久しぶりのことだった。
「無理って、そんな。なんでなん?」
金曜の夜のアーケードは人で溢れている。ぶつからないように右に左に動いていると、直人の姿を見失いそうになる。キョロキョロと姿を探していると、手をぎゅっと掴まれた。
「最近、業績悪いらしくて。派遣とか契約は切るらしいわ」
大学の卒業時にうまく就職できなかったわたしは、バイトや派遣や契約で、職を転々としている。今の職場は派遣で二年近く勤めているのだけれど、業績の悪くなった会社では、派遣は今後契約の更新がされないという噂が広がっていたし、既に契約の更新をしてもらえなかった同僚も何人かいる。
「そしたら、どうすんの?」
目的のレストランは駅から少し距離があるらしい。地図を見ながら、直人が道順を確認する。
「また仕事探さなあかんのちゃう? 面倒やけど」
大した資格もない、専門的な知識もないわたしが、景気のよくない時期に仕事を探すのはひどく困難に思え、溜息が出る。今の営業事務の仕事は、たいして給料はよくないけれど、こうなってから考えると、こんなわたしが続いた、貴重な仕事だったのかもしれない。
「契約、いつ切れるん?」
「三月末で」
「そっか」
わたし以上に、直人は残念そうな顔をした。大学時代に成績も良く、いくつかの資格をとった彼は、出身大学の事務職に採用された。地味な仕事だとは言うけれど、そんな安定した職業に就いている彼が、わたしには羨ましい。もっとも、大学時代に遊んでばかりいたわたしが悪いのだけれど。
「そしたら、海外旅行に行こうって言ってたけど、無理?」
「うーん、就職活動せなあかんし、お金もないしなぁ」
大通りから一歩それて細い路地に入ると、ガラス貼りの外観の、レストランが見えた。
直人が店の名前を確認してドアを開けると、
「こっち、こっち」
と呼ぶ声が聞こえた。
奥のテーブル席で、誠と里香が座っている。
近づくと、テーブルの上にはパンフレットが広がっていた。
「今日はごめんね」
里香が、わたしたち二人に手を合わせる。
「いいよ。それより、打ち合わせしよう」
と直人が席に着いて水を飲んだ。
誠と里香はわたしたちの高校時代からの友人で、結婚が決まってから、わたしたち二人が二次会の幹事をすることになった。このレストランはその会場で、ご飯を食べながら打ち合わせをするというのが今日の目的だった。
「もう、大変で」
と里香は運ばれてきた「二次会メニュー」を口に運びながら眉を寄せた。
「どうしたん?」
わたしは里香の少しやつれた頬を眺めた。
「決めることが多すぎて」
誠も一緒に溜息をつく。
「そんなに大変なん?」
「そうやで。自分らのときも、覚悟しときや」
「うちらは、まだ、そんな」
わたしがそう言うと、
「まあでも、俺らも、同い年やで」
と直人が笑った。
「そうやで」
と誠も同調する。
「けど、わたし、また転職するしなぁ」
「そんなん、わたしだって一緒やで」
と同じように派遣で働く里香が言う。
高校の同級生同士で付き合って、社会人になった今も続いているカップルは少ない。誠と里香、そして直人とわたしはいまだに続く二組だけのカップルで、何かあるとこうして顔を突き合わせている。
派遣で働くグチを言い合っていると、テーブルの上は「二次会メニュー」であふれそうになった。
「これなら、量も大丈夫ちゃう?」
里香は満足そうに笑った。
「とりあえず、俺らは出欠ハガキを集計して、まとめたらええねんな?」
直人はめずらしくビールを飲んで、顔を赤くしている。
「悪いけど、お願いするわ」
誠はそう言って頭を下げた。
「あんたらのときは、わたしらがするし」
と里香が付け足す。
返事はせずに、消化不良の不思議な気持ちをどこに持っていけばいいのかと考えた。
このままいけば、わたしと直人は、誠と里香と同じ場所に行くことになるのだろうか。
誠と里香は、そうなるのが当然のように感じている。そして、わたしの家族や直人の家族も、わたしたちを知る、その周囲の人たちも――口の中に残る料理とワインの味に、胃がむかむかとし、わたしはペーパーナプキンで口を拭った。
「どうしたん? 顔色、悪いで」
里香はナイフとフォークを持ったまま、わたしの顔をのぞきこんだ。
「あ、うん……ちょっと飲みすぎたかも」
答えると、
「お酒弱いからなぁ、典ちゃんは。お水飲んどき」
直人はそう言って、わたしのコップに、ピッチャーから水を注いだ。
「まあ、もしそういうことになったら、」
と直人は先ほどの話を続けた。
「幹事は二人に頼むわ」
「申し訳ありません。僕が、明日、きちんと送っていきますので」
直人の言葉が終わる前に、受話器から母の大きな声が響いた。言葉は明瞭ではないが、なにやら謝っているらしい気配が感じ取れる。
クチパクで、ダイジョウブ? と直人に聞くと、うなずいてから、
「はい、よろしくお願いします」
と通話終了ボタンを押して、わたしの携帯を閉じた。
「なんか言ってた?」
「直人さんと一緒なら安心ですって」
ふうん、と答えて、広いベッドにゴロリと横になった。
食事の後、飲みに行って、満員電車で帰るのが面倒になったわたしたちは、繁華街近くのラブホテルに泊まることにした。口うるさい母の相手をするのがおっくうで、わたしが酔い潰れたことにして、かわりに直人に電話をかけさせたのだ。
「直人は信頼されてるからな、うちの親に」
「そうか? 身元がハッキリしてるからな」
直人が携帯を投げたので、横になったまま、手を伸ばしてキャッチした。ついでに、シークレットフォルダにメールの着信がないことを確認して、マナーモードとキー操作ロックをかける。
「直人、眠いし電気切るで」
枕元のパネルで電気の電源ボタンを触る。部屋中の明かりがついたり消えたりして、やがて部屋が暗闇に包まれた。
「典ちゃん、暗くない?」
「明るいと眠られへんやん」
ごそごそとベッドにはいってくる気配がして、背中から、直人に抱きしめられた。
そのままじっとしていると、頬に彼の唇があたるのがわかる。服の上から身体を触られていると、その皮膚に亮が触れたことを思い出した。暗闇の中で、亮が付けた歯痕が浮き上がってくるような気がする。
けれど、亮のものではない指が運んでくるのは、快楽というよりも、子供どうしのじゃれあいのような、たわいのない、たよりない感触だけだった。
「直人……」
「何?」
「トイレ」
こうやって直人と一緒のベッドにいるのは嫌ではなかったけれど、触れられれば、どうしても、亮を求めてしまう。
パジャマの前をしめ、携帯をとって手探りでトイレに向かう。
トイレに入って携帯の画面を開くと、「着信あり」マークと「メール着信」マークがピカピカと光っていた。
着信三件はすべて亮から。
そして、同じく亮からきたメールには、
――今すぐ会いたい。
とだけ書かれていた。
――ごめん、今から出かけるのは無理やわ。
返信すると、すぐに
――じゃあ電話して。
という返信が帰ってきた。
――ごめん、電話も無理っぽい。
――なんで?
――ごめん。
メールを打ちながら指が震えた。
彼から、今すぐ会いたいと言われるのも、電話してと言われるのもはじめてのことだった。
――ごめん、ちょっと立て込んでんねん。
送信ボタンを押してしばらく、返信を待つ。けれど、十分経っても返信は来ない。
あきらめて、トイレから部屋の中へと戻った。
「どうしたん?」
眠そうな声で直人が尋ねる。
「ちょと、お腹痛くて」
答えて、ベッドにもぐりこんだ。
「大丈夫なん?」
「うん、まぁ」
直人は小さく溜息をついて、寝がえりをうった。
「典ちゃんみたいなわがままな女の人は、僕がついてないとあかんと思うで」
ふうん、と返事をして見えない直人の背中を眺める。
もうずっと、じゃれあうばかりで、彼ときちんとセックスしていないことに気付いた。
「……あかんのかな」
背中に、つぶやいてみる。
声は、彼の寝息にかき消された。
バーのカウンターに座ってカクテルを飲んでいると、待ち合わせの時間から少し遅れて、スーツ姿の亮が現れた。
「どうしたん?」
思わず尋ねると、
「仕事、決めたんや」
とネクタイをゆるめながら亮が並んで座った。
「契約社員で、警備の仕事やけど、頑張ったら正社員にしてくれるって」
出会ってから今まで、ラフな姿の彼しか見たことがなかったけれど、思いのほかスーツ姿も似合っている。
「おめでとう」
「そんなん言ってくれんでええねん」
亮は不機嫌そうに、顔をしかめた。
「でも、よかったやん」
「そんなことよりな、」
と、彼はブランデーを口に運ぶ。
「自分、男おるやろ?」
横を向いたまま、亮はそう尋ねた。
「いや……俺も、別に彼氏違うしな。最初はそんなん別によかったんやけど」
黙ったまま、わたしはグラスを手の中で弄んだ。
「俺、もう、嫌やねん。こういうの」
口を開くけれど、言葉が出てこない。
「だからな、決めてん。自分が今すぐ男と別れへんのやったら、もう会わへん」
「わたし……わたしは……」
直人とは別れるから一緒にいてほしい、という言葉が出そうになる。けれど、その言葉は胸につかえた。
最初に、祖母の顔が浮かんだ。父や母の顔も。そして、誠や里香や、わたしたちを知る、たくさんの人たちの顔が。
足元がぐらぐらと揺れるような錯覚を覚え、わたしは言葉を続けられなくなった。
「無理やろ? 自分には無理やって思ってたわ」
口の端で笑って、亮は再びあおるようにブランデーを飲んだ。
グラスを置き、指でとんとんと机をはじく。
「ちょっと待ってよ」
「待たれへん」
そのまま、彼は立ちあがって会計を済ませると、大股で店の外に出て行った。
慌ててわたしも彼の姿を追う。
地下にあるバーの扉を開け、階段を駆け上がる。
繁華街の道を左右に眺めても、彼の姿を見つけられない。
携帯をかける。
「亮、亮……」
携帯に向けて名前を呼んでも、コールは鳴らず、電話がつながらない。
「ちょっと待ってよ……」
あてずっぽうに道を歩きながら、携帯をかけ続ける。
昼間より明るい繁華街のあかりに眩暈がして、わたしはそのまま道にしゃがみこんだ。
――月がきれいやで。寒いけど(笑)
直人からのメールを見て、部屋の窓を開けた。
冬の冷気が頬を撫でる。
――きれいやな、ほんとに。
澄んだ空に、満月が輝いて見える。
――典ちゃん、今度僕と一緒に見よう。
返信しようとして携帯の画面を見たら、涙がぽたぽたと雨粒のように落ちた。
――直人、ごめん。
吐く息が、白く、窓の外に消えていく。
――どしたん?
指がかじかんで、返事が打てない。
わたしは亮を失った。直人のやさしさに触れるたび、そんな風に思う。
――ごめん……。
震える指で、メールを打つ。
もっと早くに、こうするべきだったのだ。直人との日々をこんなに積み重ねる前に。亮と出会う前に。
居心地のいい空間を抜け出すのが恐かった。けれど、本当は、直人のやさしさに甘えていただけなのかもしれないとも思う。
きっと、わたしは、大切なものを失ったはずだ。直人より、亮よりももっと大切なものを。
音がしないように溜息をつくと、白い息が月に届くような気がした。
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