余白   おのえ 朔


 
 素子はフックに掛けておいた半纏をパジャマに羽織って浴室を出た。廊下は予報どおりにやってきた寒波でしんと冷たい。
 仕事帰りに寄った知依の絵画塾で右足の指を痛めたが、家に戻り靴を脱いだ途端に痛みは消えた。足先から頭のてっぺんまで電気が貫いたような衝撃が消えてしまうなんて変だ。素子はスリッパから右足を抜き、そろりと体重をかけながら、板張りの廊下を踏みしめてみる。変わりはない。素足やスリッパなら平気な症状なんて初めてだ。
 ファミリーレストランのロッカーにしまっている黒のローヒールが頭に浮かぶ。副店長をする素子は明日も早番で店に出なければならない。紺の制服にあわせたあの靴で、朝から夕方まで店の中を歩き回る自信はない。
 明日は休ませてもらおう。足を治して仕事をこなさねば。美術科のある高校に知依を進学させるにはお金がいる。さしあたっては冬季講習の費用。それに毎月の授業料も受験コースになると割高になる。それにしても先生が知依に打診したのは先週だというのに黙っているなんてどういう了見なのか。
 遅れていた月謝を届けに行った絵画塾で、野井先生から勧められた美術科のある高校のことで素子の頭はいっぱいだった。
 あす一番で病院に行く。営業中に具合が悪くなって早退するより、開店前のミーティングで欠勤を知らされるほうが、残った者の仕事はしやすい。なぜか疲労感も違ってくる。ウエイトレスをして十一年になる素子の経験だった。
 欠勤を決めた素子は玄関の門灯を切ろうとスイッチに手をかけ、ためらう。『師走に入りました。防犯のため門灯点灯にご協力ください』という回覧板がまわってきたのはおとといのことだ。
 五歳の頃から一緒に暮らしている知依との住まいは、建て替えの噂が流れては立ち消えになる市営住宅の一軒だ。色の落ちたスレート屋根にモルタルの外壁、数年に一度塗り替えられる板塀も木目が浮き出て毛羽立っているが、小さな庭のあるちんまりとした三部屋の平屋は、一戸建ちの体裁を整えている。
 ブランコと砂場のある遊び場を囲んで二十軒がコの字に並び、大通りに通り抜けはできない。陽の落ちた路地に入ってくるのは住んでいる人だけで、ほとんどが顔見知りだ。それに外灯も明るい。改めて防犯と言われなくても、と素子は思う。
 門灯はいつも素子が風呂上がりに消している。回覧板を見たおとといの夜は、寝る前に消すつもりでいたのが忘れてしまった。きのうの夕方、点灯しようとして点けっぱなしだったことに気づいた。今朝もそうだった。習慣にないことは忘れてしまう。
 風呂に入る前「点灯って何時ごろまですればいいのかしら」と呟く素子に、知依は「御近所さんの軒先を偵察するのがおすすめ」と関心のなさそうな声で言い「あたし寒いのはカンベンカンベンね」と動かなかった。
 門灯のほの黄色い明かりを引き戸のガラス越しに見ながら素子は、寒いのは誰だって同じことよね、とスイッチを落とした。

 居間に入るとストーブにかけた薬缶の口から湯気があがっていた。先に風呂をすませている知依は、夕食の片付けの終わった終ったダイニングテーブルでデッサンをしている。
 藍色の半纏の下にグレーのスエット、首もとから赤いチェックのパジャマの襟がのぞいている。
「門灯消しといたけど」
「いいんじゃない」
 唇をわずかに開き、知依はテーブルに置いた握り拳ほどの白い石から目を離さず尻上がりに言う。手元も休めない。
「テレビ観ていい?」
 知依は合わさった唇の先で、いいんじゃないのと答える。目も向けないのはいつものことだから気には障らない。素子もすぐにリモコンを手にするわけではない。気が向いたらテレビを観るからねと言ってみたまでだ。
 テーブルをはさんだソファーに膝をかかえて座った。八人がけの楕円形のダイニングテーブルは、知依の父親の仁木と結婚したばかりのころ、閉店した喫茶店から彼が譲り受けてきたものだ。食事をするのはもちろん、丸みの大きい端の席は、知依がスケッチブックを広げる指定席になった。
 被写体は、拾ってきた小石でも台所の玉しゃもじであっても、『今日のモデルさん』『あしたもモデルさん』と上に付くことばを変えて素子と知依に呼ばれ、役目が終わるまで同じ場所に置かれた。
 知依は鉛筆を斜めに持ち替えた。首を傾げ、さりさりと紙を掃くようにしては指で押さえている。影を滲ませているのだ。手首の微妙な力加減は、音の変化で素子にも分かる。柔らかな芯の先からうまれた曲線が、生き物みたいに縦横に動いている。素子は知依の鉛筆がたてる音に耳をやり、知依を眺めながら膝に組んだ右足を撫でていた。
 額に猫毛で癖のある髪がふわりとかかっている。そのせいで大人びた顔立ちに見えるのか、中背の素子を超えてからは、私服でいると年嵩にみられた。五年生のときは中学生。いまは高校生と間違えられることも度たびだった。
 小さいころは目と鼻と口が顔の真ん中にまとまっていて、輪郭の幼い丸さが目についたが、いつのまにか、それぞれが適当な場所に落ち着き、どちらかというと細面の父親似になってきた。
「ねえ、ハッカイキってあるの?」知依が手を休めずに言う。
「お父さんのこと? 今年七回忌の法事をしたから、こんどはわたしたちだけでお墓参りをするつもりだけど」
 ストーブの薬缶が湯玉をたぎらせ、ごろごろと鳴った。
 立ち上がった素子は蓋をずらせて音を鎮めるとソックスを履いた。台所から持って来たマグカップをテーブルに置き薬缶の湯で就寝前の柚茶をいれると、手前のマグカップをとってソファーにかけ直した。
「足、どうかしたの? 玄関に転がってたブーツ、端に寄せといたよ。お風呂も長かったし、なぁんかあったかなって」
「ありがと、気にしてくれて」口ごもるように言い、間をおいた。「絵画塾に月謝を届けにいったのよ、あんたに声かけずに帰ったけど。野井先生と久しぶりにゆっくりお話ができたよ」
 両手で持ったマグカップに息を吹きかけて冷ましていた知依の動きが止まった。
「あのビルってエレベーターないでしょ。三階建てだからしょうがないけど。降りるときに最後の段で空足踏んじゃった。ほんとバリリってかんじ。足の裏が割れたかって思った。でもね靴を脱いだらなんでもないの。不気味だわ。あした病院に行ってみる」
 知依がマグカップを手にしたまま、まっすぐに素子を見た。口元が強く結ばれている。その顔をみつめてから素子は続ける。 
「野井先生から進学のこと聞きました。チイちゃんあんた受験コースで勉強しませんか。先生がね、一年あればやれるってよ。だからお願いしますって頼んできた。まず手始めは冬休みの特訓コース。三学期が始まったら日曜日の通常コースに行ってちょうだい。今行ってるクラスは当分お休みね」
 知依は手元に視線をおとし、ひとことも発しようとしない。素子は続ける。「月謝の心配はいらない。日曜日のウエイトレスの仕事、あんたに留守番させたくなかったから断ってたけど、勉強にいくなら好都合。引き受けることにする。収入アップです」
「勝手に決めないで」知依が遮った。「あの高校は進学校だから学科の点数も高くて、普通科はクラスでも上位の生徒しか受験できない。無理っぽいの」
「そのことも先生に断りずみです。普通科はそうだけど美術科は実技試験があるから、いい点もらって学科の不足分を補えるってこともありなのよ。中学校の美術の先生は野井先生の後輩らしいよ。よく相談しなさいって」
 知依がとつぜん涙声になった。
「あたしだって行きたいけど、おとうさん死んじゃったしあたしのアタマはパーだし、頑張っても無理かも。落ちたら、うちじゃ私立なんていけないよ」
 はぁ、この子が泣くんだ。素子はため息を胸で押しとどめ、こっそりと吐き出した。仁木が死んで素子と二人になってから、知依は泣かなくなった。素子と衝突し形勢が悪くなると、ごめんなさいとは言うが悔し泣きはしない。うっかりと深追いをしてしまうと、怒りや屈託が昂じてなのか、白目が青ざめて見えた。
 仁木と暮らした二年の間知依は呆れるほどよく泣く子供だった。原因は、絵にまつわることが殆どだった。風呂を急かされているのにいつまでもクレヨンを使っていたり、続けて書きたくてご飯がうわのそらになったりして父親に大きな声をだされべそをかき、素子が片付けを手伝ってことがすむ。あとは転んだり、保育園に迎えに行くと、子供どうしの喧嘩で泣いていた。おもえば七歳からぷっつりとこの子の泣き顔をみていない。
 洟をすする知依にティッシュペーパーの箱を押しやった。素直な仕草で手を伸ばす。鼻をかむぷーんという音に思わず口元が緩んだ。小さかったころの知依のままだ。しかし素子はすぐに口元を引き締めた。知依はティッシュペーパーで涙を拭くのに気をとられている。
「それでね、あたし考えたの。落ちたら定時制に行こうって」鼻声でティッシュペーパーを丸めて言った。
「はぁ?」素子は呆れた声で応じる。野井先生にいわれてからの一週間、不合格の場合どうするかを考えていたのだ。あんたの涙はオカネの算段ができないからなのね。受験したいのだ。素子は毅然として言った。
「あんたこそ勝手に決めなさんな」
 知依が顔を上げてまっすぐに素子を見た。涙は乾いている。洗われたような白目が青ざめ新しい涙が湧いてきた。見開かれた瞳の輪郭がふっと深くなった。
「親でもないのになんでなの。それって親切にしてくれてるってこと」
 叩きつけるように言って顔をそむけた。声が裏返っている。
「わたしはあんたの絵のファンなの。ここで、あんたのおとうさんがあたしたちにプレゼントしてくれたこのおっきなテーブルで、広告の裏に書き散らしているガキンチョのころから、チイのファンなの。おぼえてる? 五歳のあんたを連れて小学生の絵画教室に頼み込んだのはわたし。掻き集めて持っていったあんたの絵を見てくださったのは野井先生じゃないの。いったい何年あのビルに通ってんのよ。先生とのお付き合いは、わたしとあんたとより半年短いだけなのよ。ってことは、あんたのこと、お父さんが地震で死んじゃったってこと、うちの経済状態、みんな知ったうえで勧めてくださってるのよ。親でなくちゃいけない? ファンでいいじゃない。親はいてもファンのついてる子は、そうざらにいるもんではないよ。シンセツ? ええそれでじゅうぶんよ。私立がいいんだったら、お金はなんとかすると言ってるでしょ」
 ファン? わたしは知依の絵のファンなのか。口からとびだした言葉に、発した素子自身が戸惑っていた。知依は俯いている。ぼそっと低い声がした。
「わかった。でもおばあちゃんも圭ニイもいやだよ」
「えっ」
「お金借りるの嫌だって言ってるの」

 布団に入ってからも、祖母と叔父の圭二を拒む知依の真意を考えていた。母親と二歳半で別れた知依は、素子と三人でこの家で暮らす前は仁木の実家で育てられていた。素子が結婚した当時圭二は学生で、十歳ちかく離れた二人を見ていると、兄貴と弟分という印象だった。
 新婚の兄に命じられ友達から借りた軽トラックでダイニングテーブルを運んできたのも圭二だった。
「兄ちゃん、置くのは壁際でいいか?」
「おう、モトコに聞いてくれ」
 外でした声に、台所でお茶の用意をしていた素子が、はいと返事をして振り向くと、はにかんだ表情の圭二がいた。
「おねえさん」口元がもごもごしている。「置く場所ここでいいですか」
 すぐに義姉という文字が頭に浮かんだが、年上の圭二の呼びかけに実感が伴わない。素子が曖昧に頷いたところへ知依が割って入ってきた。
「おねーさんだって。圭ニイはお名前知らないんだ。モトコさんだよ」
 乱暴に圭二の腕をとり、揃えた両足を軸に体を力任せに左右に振る。素子には目もくれない。圭二はよろけそうになりながら、「チイちゃんは力持ちだな」と付き合っている。
 知依のやきもち。素子は目を瞠るおもいで突っ立っていた。おとうさんは仕方ないけど、圭ニイには近づくな。この子の怒りはあたりまえだ。素子は小さな体が回るたびふわりとスカートの裾が広がるのを目で追っていた。気づくと仁木が脇に立っていた。ぽんと素子の肩を叩き、知依を後ろから抱き上げると、圭二を見た。
「昼メシ行くか」
 その時から、お母さんでもお姉さんでもないモトコサンという呼び方が定着した。けれど中学生になってからは人がいるときに限って「おかあさん」と言う。場所と相手によって使い分けているようだ。家の中や友達のまえ、祖母や圭二のいるところではモトコさんだ。
 大好きな人たちだから負担を掛けたくないのだろうか。

 明け方、素子は自分がもらした声に驚いて目をあけた。枕に頬が押しつけられていた。地震の夢をみていた。おじゃみを入れた缶を両手にし、顔の前で上下に振っているのは素子。缶に閉じこめられ、破れたおじゃみからとびだして揺すぶられている小豆も素子。あのときの体感だ。
 俯せで丸まった体に胸が圧されている。手足をほぐすように伸ばし仰向きになるが、木枠に囲われたように硬い。眠れそうにない。腹で大きく呼吸をし足元に掛けた半纏を羽織ると起きあがった。
 冷蔵庫からミネラルウオーターをとり、ペットボトルから直に飲んでドアポケットに戻す。庫内の白い明かりが足元を照らしている。胃に溜まった冷たい水が寒気になってあがってきた。牛乳パックの奥から、ワインのコルク栓がみえた。料理用の廉価なものだ。いつからあるか覚えもない。呑んで少し温まろう。瓶を手にぶら下げドアを閉めた。
 居間の豆球は点けたままにしている。ストーブに点火すると、部屋がやわらかな明るさになった。『あしたもモデルさん』の白い石の向かいの椅子にかけた。

 七年前、仁木は寝室にしていた和室で死んだ。素子が無事だったのは、知依の部屋で寝ていたからだ。知依が風邪気味だったから一緒にいたと近所の人や仁木の母親と弟には言ったが、風邪だなんて嘘だ。
 仁木の終電車での帰宅は、その一カ月ほど前から度たびあった。納期の迫っている仕事が片づかないと説明されても、会社で仮眠しているうちに終電に乗り遅れたと電話があっても、度重なれば言い訳に受け取れた。
 あの夜も、最終バスの時刻を過ぎても仁木は帰ってこなかった。駅からタクシーを使うかもしれない。最終電車を待っていたが、眠くてたまらなくなり、寝室に敷いていた布団を引きずって、知依のベッドの下で寝た。
 ダイニングテーブルに鞄を置く音で彼が帰宅したのは気づいていた。布団は寝室の隅にたたんである。自分で敷けばよいと放っておいた。風呂をつかう音が聞こえていた。
 コトコトっと机の上のものが硬い音をさせた。床が震えていると感じた瞬間、窓ガラスが、小刻みな振れから波打つ音に変わった。真っ暗ななかで、はっきりと目が覚める間もなかった。家屋がもう我慢できないといって地団駄を踏み身震いして耐えている。微震のゆさゆさとはちがった。立ち上がれない。ベッドに這い登り知依をとらえて、ふところに押し込もうとした。知依は硬くて骨張った固まりになって素子の腹におさまった。
 音が大きくしなう粘りのあるものに変わり、家が左右に揺れ始めた。「おとうさんのところに行くからつかまって」素子は脇に知依をしがみつかせ、揺れる方向が変わるたびに転げながら、四つん這いで廊下を進んだ。
 寝室の襖は閉まっていた。仁木が帰ってきたと思ったのは空耳だったのかと、一瞬思う。背中に乗ってきた知依の腕が喉にくいこんでくる。座り込み知依を降ろし抱きしめて襖を開けた。目の前にあったのは黒ぐろとした大きなものだった。布団も人のかげもなかった。延ばした手に布団の端があった。
 知依のつんざく泣き声があがるまで、その場に座り込み畳に手をついて、揺れる体を支えていた。

 仁木が死んだときから数日の記憶は、ぼんやりしている。今に至ってもそのままだ。
 地震の翌日からガスは止まっていた。風呂を使えず電気ポットの湯で体を拭いていたが、初七日をすぎたころ、知依の背中と腹に湿疹がでた。祖母に預けたときは、もしかしたら行きっきりになるかもしれないと内心で覚悟をし、車で迎えにきた圭二に着替えの入ったバッグと絵画教室の布袋を渡した。それが週末のことだ。帰ってきたのは平日の夜だったから一週間もせずに戻ってきたことになる。
 十時ちかくに玄関のチャイムが鳴り、モトコさんと呼ぶ知依の声が外からした。引き戸を開けると、にっと笑い顔をつくった知依が立って素子を見上げている。
「ただいま」頬をもちあげてとびきりの笑顔をつくると、素子の横を擦り抜けて上がっていった。あとに困り顔の圭二と呆気にとられた素子が残された。
 知依はパジャマの上に来ていたセーターとズボンを脱いできれいに畳むとソファーに置いた。素子はおもわず普段のように言う。
「おしっこ行って歯磨きしてね」
 寝る時間はとっくに過ぎている。知依の布団は日に干してベッドに重ねてある。素子のはその下に敷きっぱなしだ。
 素子は知依のベッドを整えると、居間にあがった圭二と向き合い、トイレの水の流れる音、洗面所を使う気配にじっと耳を傾けていた。静かになった。
「おじさんにお礼は」
 知依は廊下の角からちょっと顔をのぞかせるとすぐに引っ込めた。おやすみなさい、と小さく言った。
 圭二は口ごもりながら事情を話しはじめた。彼らの住むマンションの六階は激しく揺れたが、半日停電しただけでガスや水道に支障はなかった。仁木の母親は子供のころにも被災していて、蘇った恐怖と長男の死が受け入れられなくて混乱している。
「家事もできるし、チイちゃんにアトピーの石鹸を使うのもわすれません。でもぼくは母の状態の深刻さを考えないでいました。チイちゃんを怯えさせてしまいました。すみません」
 繰り返し嘆く圭二を、素子は黙ってながめていた。話の成り行きは知依の今後に移った。別れた実母は再婚して子供もいるが、知依を引き取るつもりでいてくれる、と圭二は言った。わずか数日のあいだに彼はことを運んでいた。
「知依にきめさせましょ。嫌だと言ってもあの子を説得する気はありません。ここで今までの暮らしを続けるとして、わたしと二人食べてはいけます。まとまったお金はありません。進学の援助はしてください」
 次の朝知依は、「おばあちゃんおばけになっちゃうの」と秘密を明かすようにこっそり言った。「そう、あんたもたいへんだったね」素子は質問も諭しもしなかった。
 圭二は休日に車で来ると、湯船が幾つもあって食堂や休憩室、サウナルームもあるスーパー銭湯に二人を連れて行った。電話は気まぐれにしか繋がらない。
 ある日曜日、祖母を助手席に乗せて圭二がやってきた。
「不意打ちですみません。母が露天風呂に入りたいっていうもんで」
 素子が背中を流し、三人で露天風呂につかった。祖母の口数は少なかったが、知依の背中から尻に手を当て、よくなったねと呟いた。
 祖母の異変は食事のさいちゅうにおきた。横に座った知依が素子のセーターの脇を引っ張り、見てというように向かいの席の祖母に顎をやる。行儀が悪いと言いかけ、素子の箸がとまった。目元から皮膚が垂れ下がったように弛緩し、口元が緩んで下顎が前にでている。横にいる圭二には見えていない。知依がテーブルにのりだし大きな声で言う。
「おばあちゃん、ねえねえ、ワープしちゃってるよ。チイはここだよ。はやく戻ってきてよ」
 圭二が自分の皿からエビの天ぷらを移し、穏やかに話しかける。祖母の垂れた頬が横に広がり笑顔があらわれた。
「なんだかぼおってなってたね。お湯にあたったのかしら」手元の皿に目をやる。「あらエビが二匹いるよ」
「いいから食べなよ、かあさん。エビは好物だろ」
 帰りの車で圭二は黙りこんだままだった。素子は祖母に話しかける知依に加勢して、家に着くまでずっと喋り続けた。
 数日後ようやく繋がった電話で素子は圭二に言った。
「わたしはあの子と暮らしたいです」電話口の返答はない。「知依が十八になってもわたしは三十四歳。結婚も出産もそれからでいいです、なんってちょっと冗談がすぎるかな」
 圭二がなんと返事をしたか覚えていない。たぶんありがとうだったと後になって思い返す。

 空は薄雲っていた。普段どおり二人分の弁当を詰めているのを見咎めた知依が、どうして病院に行かないのと口を尖らせた。欠勤の連絡はしたけど、もし行けたら店に出るつもりだと答えた。「だってね、ウエイトレスはみんなバイトさんよ。私は副店長で正社員。がんばらなくては」
 総合受付で、整形外科にまわされた。昼近くまで待って、簡単な問診と触診のあとレントゲンを撮った。名前を呼ばれて診察室に入ると、医師がレントゲン写真の一枚を天井の電気に透かして見ていた。素子が椅子に掛けると、立ち上がって壁の照明台に写真を固定させ、残りの二枚もそこに並べ椅子に戻って腕組みをした。
「なにかありますなあ」
「えっ」写真を見上げた素子にも、捜すまでもなく黒いものを見つけられた。角度を変えて撮影されたあとの二枚にも確かにあった。二つある。
 くるぶしの少し上までの骨格が写っている。その周りを薄い影のような筋肉らしい形が覆う。あの足首のかたちはわたしのものだと、素子は確認する。指の骨から少し離れたところに小さなものが浮かんでいる。骨よりも何よりも黒くて歪で頑固そうな固いもの。
「二つですか」奇異なものだ。「筋肉のなかでつくられたものですか」胆石のように体内でできた石のようなものかと質問する。
 意外な答えが返ってきた。
「外部から入ったものです。なにか踏んだということはありませんか」
 医師は腕組みを解かずに続ける。
「異物が悪さをしてるんだから、摘出するとなると手術だね」
 そう言われても、いつどこから紛れ込んだのかと腑ににおちない。踏んだら痛いはずだ。医師の足元のフローリングをみつめながら、素子は思い出そうとする。
 医師の説明は手術法に移っていた。
「実物はごく小さなもので、局部麻酔ですませたいけれど、それでは薬液で移動してしまいかねない。取り残してはいけないから半身麻酔でやります」
 素子はついっと顔を上げた。
「先生、何年もずっと前に入ったってことありますか」
 問い返すように口を挟もうとした医師にかまわず、続ける。ぬめった血の感触が指の間でよみがえる。足の指が、とっくに塞がった傷口を探るようにスニーカーのなかで動いた。
「あのわたし、地震のときガラスで中指を切りました。足です。痛くなかったんです。血がでてなかったら気がつかないくらい。いえ、ほんのちょっとなんですよ血なんて。あんなのケガなんてもんじゃないし、ほんとに。けどそれが今ごろになって現れるって、そんなことってありえないですよね」
 医師は背もたれに体をあずけ素子を見た。胸に外科部長の名札がある。
「K市にいたの」
 医師は被害の大きかった震源地に近い都市の名前を言った。「そうだったの」ため息のような余韻があった。
 素子はあわてた。この町で、生きて焼かれた人はいないし、押し潰されて死んだのは、知依の父親だけだ。『T市死者一名』と新聞の死亡者欄に載った仁木だけだった。
「いいえ、ここです。この町。家はついそこです。ここから歩いて行けます。近所で壊れた家はあるけれど、火事とかはなかったんです。うちは壊れていません。でも家具が倒れました」
 医師が、そうだったのというように何度も頷く。
「ここにも患者さんが送られてきましたよ。待合いにベッドを入れて、廊下までいっぱいになってね。ぼくも医療班としてK市に入りました。でもだいぶ落ち着いてからですからね。本当の現場をみたとは言えません」
 医師はふっと遠い目をして黙った。何人もの人がここで死んだのだ。医師が立ち上がった。
「もういちど診せてください」
 素子は診察台に腰掛けた。ソックスを脱いでジーンズの右足をだす。
「これだとおもうんですけど」
 中指の付け根に残る一センチほどの傷跡は、これと示されなければ皮膚の横筋に紛れるものだった。医師の手が触れた。暖かい。一瞬足を引っ込めそうになった。レントゲンを撮影する前にひっくり返したり圧したりしたのと同じ手が、血の通った手に感じられた。素子は叫びたくなった。(夫は死にました。この町でたった一人の死者なんです。何日たっても、新聞のT市の死亡欄には夫の名前だけ。夫の名前、その下に括弧で括った年齢。あとは余白。周りはびっしりと名前があって真っ黒なのに、彼の名前の下は白く抜けてて。そんなふうに白いのって、なんだか間が抜けて見えません? そんなの可哀想でしょ)
「ありうるね」
 医師は穏やかな口調で言う。素子はソックスを履き、右足をスニーカーにもどすと、医師の次の言葉を待った。
「七年かかって神経までたどりついたわけか。だとしたら肉を巻き込んでるな。けっこうやっかいだよ。取り残すといかん。半身麻酔できまりだね。二泊三日です。がんばってください。あとは手術日の相談。病院に入るのは夕飯食って風呂に入ってからでいいよ。七時ごろまでに来たらいい。入院の手続きについては看護師からきいてください」

 廊下に近い壁際のベッドで、素子は目をあけた。隣のベッドとの境を仕切るカーテンが半分ほど引かれていて、枕もとはほの暗い。
 おわりましたよ、お部屋に戻りますからね、と看護師に声を掛けられ、俯せのまま、ありがとうございましたと返事をしたことは覚えている。しかしそのあとの記憶はない。いつ手術着からパジャマに着替えたのか。どれくらい眠っていたのか。下肢はもちろんのこと肩から腕までも麻痺したように重い。動くのだろうか。
 入り口の扉は広く開けられている。体を屈めたガウン姿の年配の女性がすり足で入って来た。隣のベッドの人だ。ゆうべ知依を伴って病室に入ったときに挨拶をした。
 そのすぐ後ろから点滴台を押してひょろりとした知依がついてくる。白いセーターにジーンズ姿だ。孫が祖母に手を貸しているようで、しっくりと収まってみえる。
 知依のシンセツだ。見てはいけないものを見た。素子は咄嗟に寝たふりをしてやり過ごした。二人はものを言うでもなくしずしずとした足取りでカーテンの向こうにまわった。
 手洗いに行くのを手伝ってあげたのだろう。トイレの壁に点滴バッグを掛けるフックがあるが、台からはずしてフックに掛け用を足すのは病人には一仕事だ。知依がしていることは、相手に煙たがられないなら、誰に見られても不都合のない親切だ。
 隣のベッドに戻った患者がくぐもった声で礼を言っている。知依が来たら、さも今目覚めたように振る舞おう。しかし自然に目を閉じるのはなかなか難しい。
 知依が戻ってきたのか、丸椅子を動かす音がする。何をするつもりだろう。かけ毛布の下で長ながと伸びている健康な左足に凭せ掛けるものがある。ということは、よかった、足の感覚はもどっている。
 薄目をあけて見ると、知依がデッサン帳を左足にのせている。ベッドの足元の柵に知依のモスグリーンのジャケットが掛かっていて、しきりにそちらの方に顔を上げては手元を動かしている。病人ばかりの部屋で何を見つけたのか。
「なに描いてるの」
 うん、と生返事があった。
「かあさん、ウソ寝でしょ」
 知依は手を休めず言う。そうか、ここでは私はカアサンなんだ。
「どうしてわかった」
「だって笑いそうな口してるんだもん。だれだってわかるよ」
「ばれてましたか」
 素子は上体を起こしながら、左右の腕を軸にして下半身を引き寄せようとした。
「かあさん待ってよ。もうちょっとだけそのままにして」
 知依は素子を見もせずに言う。視線の先にあるのは、包帯でぐるぐる巻きにされた右足の甲だった。指がのぞいている。
 左足は毛布の中にかくれている。さっきは毛布の裾を折り返して右の足首まで見えるようにしていたのだ。触れられても麻痺した足が眠ったままなのをよいことに。
「いやだ、足を描いているの」素子は呆れて言った。
 手洗いにいきたい。歩けるだろうか。指を動かしてみた。
「動いてるよね?」
 知依が手を止めた。デッサン帳は広げたままだ。
「ひとつずつやってみて、かあさん」
 顎を引き鉛筆の先でさして言う。素子はさされた順に指を動かす。知依がささやくように言う。
「はい親指、うん、元気ね。次は人差し指、まあまあです。はいお兄さん指。うーん、もうひとつ動きがわるいね。お姉さん指はどうですか」
 薬指は包帯に半分隠れた小指といっしょに動いた。
「手じゃないんだもの、足の指なんて誰だってそんなに器用に動かせないでしょ」
 素子は掛け毛布からそっと右足を引き出し、曲げた膝に顎をのせてじっと見る。ゆうべ、剥げたペディキュアを落とし、爪を切りヤスリで磨いてから風呂で洗い上げた指が、色をなくしている。
 デッサン帳を丸椅子に置いてそばに立った知依がのぞき込んで言う。
「指、白いでしょ、痩せちゃってかわいそう」
「しなびちゃったわね。でも裏っかわは腫れておでぶになってる」
 素子は包帯できつく固められた足の裏に指を這わせる。知依が急き込む口調で言う。
「切ったのはどこ? 異物ってでたの。やっぱり地震のときの」
「裏よ、足の裏からだとおもう。手術台で俯せでいたから」
「見たい。とれたもの見たい。診察ってあした早くでしょ。来てもいいでしょ」
「えっ?」素子は眉を寄せて知依を見上げる。知依が出入り口を向く。看護師長がまっすぐに素子のベッドに来た。
「かわりありませんね。足は下げないで。座るときは椅子に上げておいてくださいよ。明日、外来診療開始のまえに先生からお話があって、退院の手続きになりますから。朝食はでます」
 素子が礼を言った。知依も神妙な表情で頭を下げる。戻りかけた師長が言い忘れていたというように知依を見た。
「お願いしときましたよ。おかあさんにお渡ししましょって。先生が忘れていらっしゃったら、あなたから言ってくださいね」
 師長はにこやかに病室を出て行った。二人は頭を下げてうしろ姿を見送った。素子は知依に体を寄せて小声で言う。
「あんた、なんか魂胆あったりして?」
 知依が、具合の悪い現場を見られて言い訳をする声になる。ぼそぼそした声だ。
「モトコさんが眠ってるときに師長さんが来て。異物って、ホルマリン漬けとかになって病院に置くんですかってきいたの。そしたらうーんって。あたしね、いらなかったらくださいって言ったの。そしたら先生にきいときますって」
「あした学校あるでしょ。どうするつもりなの」
 重おもしく聞こえるよう低い声で問い返す。
「期末試験おわってるもん、授業なんてどうってことない。休んだりしないよ、遅刻しても平気だよ」 
 あんたね、受験生でしょ。ほんとにやるきあんの、と言いかけたとき、にわかに廊下があわただしくなった。いかにも慣れた仕事をしているきびきびとしたゴム底の足音が部屋の前で止まった。肩の高さまである配膳車が素子のベッドからも見えた。
「晩ごはんだわ。もらってくるね」
 小言を聞かされずに助かったというように知依が行く。素子は目でそれを追う。
 知依は隣のベッドにまわって声をかけ、白い上下を着た配膳係の女性からトレイを受け取った。それを下から抱えるように胸に寄せ、隣に運ぶ。そしてまた配膳車まで戻ると、次のトレイを抱えて素子のベッドに戻ってきた。トレイを片腕で抱えたまま枕頭台の引き出しからマグカップと箸箱を出し、天板を引き出す。はじめての手伝いにしては手際がよすぎる。
「お茶もらってくるからね」
 トレイには汁椀とどんぶりの白ご飯。二品のお菜の小鉢がのっている。デザートはキウイの薄切りだった。全体に彩りが淡い。
 隣のベッドのカーテンが開けられた。
「お嬢さんによくしてもらって。ありがとうございます」
 軽い会釈が素子に向けられる。お辞儀を返す。戻ってきた知依を見上げ、「トイレに行く」とだけ言った。
「肩かそうか」
「だいじょうぶ一人で」
 麻酔は抜けている。右足はかかとを着ければかろうじて庇って歩ける。知依が寄り添ってくる。
「あんた、いつからここにいるの。長期入院患者のベテラン家族ってかんじじゃないの」
 廊下の手すりを伝いながら聞くが知依は答えない。
「お隣のかたに、親切にしていただいてありがとうございますって、言われちゃったよ」
 素子は隣の人が使わなかった親切という言葉をわざとらしく強めて言った。
「ごめんなさい、今日はお昼で早退したの」
 知依の口調は素直だ。
「着いたのはモトコさんが手術室に入ってからだったけど」
「担任の先生には許可もらってるんでしょうね」
 知依が頷く。素子は追いかぶせて言う。
「ふうんそっか、で、どうなの。明日遅刻するってことも先生にはとっくに了解もらってるんだ」
 そして意地悪く付けくわえる。
「言っとくけど、あたしが早退や遅刻をあんたに頼んだんじゃないからね。うちに帰ったら友達に電話して宿題がでてないか確かめるのよ」
 トイレを出ると、待っていた知依が入れ替わりに入った。
「談話室にいるよ」
 トイレの入り口から大きな声で中に向かって言った。
 談話室ではテレビがつけっぱなしになっていた。低いテーブルがあり、窓にはブラインドが降りている。見回すが誰もいない。足が悪くなければ消しに行くのだけれど。画面は年が明けるとまる七年になる震災の特集番組を映していた。当時のK市の惨状が流れている。音量は低いが、ナレーションのうしろで響く消防車のサイレンが耳にささる。
「お待たせしましたぁ」
 知依の声が、テレビの画面に引き込まれかけた素子を制した。
 ベッドに戻ると、食事をする素子におかまいなく、知依はデッサンの続きをはじめた。包帯の足や毛布の襞をデッサン帳と見比べては直す。
「あんた晩ご飯は」
「帰って食べる。カレー残ってるから、ご飯もある」
 ようやく足と毛布の具合が元通りに落ち着いたらしく、鉛筆を使いはじめた。
「お昼はどうしたの」
「うちに帰ってパン食べてから来た。だから手術に遅れた」
 目の前に無防備に晒されている知依の背中と首筋の動きを見ながら素子は箸をすすめる。背中が静かになった。素子も箸を止め、口の中のものをゆっくり咀嚼し、のみこんだ。
「ねえ、モトコさん、シンセツって言わないで」 
 茶をすする音、咳払いやベッドの軋り、話し声。人がたてる気配がふっと素子から遠のく。気がつくと、鉛筆は深く厚い紙を擦り上げるような音に変わっている。
「おばあちゃんが訊くの。モトコさんはシンセツにしてくれるか、モトコさんはシンセツな人だから若いのにチイの世話してくれるんだって。でもそれはチイが十八までだよって。チイが高校を卒業したら、モトコさんは結婚する。おばあちゃんも圭ニイもチイも知らない人と結婚して赤ちゃんを産むんだって。生まれたあかちゃんはチイの弟でも妹でもない赤の他人だからねって」
「いつのこと?」
「夏休みに行ったとき」
 父親の墓参りに一人で行かせたときのことだろう。
「そういえば圭二さんにそんなこと言ったかな。でもねおばあちゃんの解釈、それはちがうよ。親切心から暮らすってできないよわたしには」
 わたしが親切な人だったら、仁木がうっかり箪笥の下に布団を敷かないよう、ちゃんと床を延べていた。外泊が続いても、たとえ恋人がいたとしても。わたしはただ仁木が好きだっただけだ。でもそんなことは中学生の少女に説明できない。死んだのはあの子の父親なのだ。知依にどう思われるか怖い。困惑した気持ちが素子の足指に伝わって、グウとパーを繰り返していた。
「だめじゃん、動いちゃ」
 知依が振り返った。声に活気がもどっている。素子はお茶を一口飲むと、アニメーションの声を真似て言う。
「モトコさんはシンセツを好まないヒトですよ。でも、この足にはもう少し早くシンセツが必要でしたよ」
「いやだぁふざけて」
「わるいけどこれ下げてくれる」
 知依は受け取ったトレーを枕頭台に置くと、足の方を向いて描き続ける。素子は右足をモデル用にのばしたまま仰向けに寝た。あのこが生きたものをモデルにするのは、この足がはじめてだ。
「地震のときに潜りこんだモノかもしれないって言ったかな?」  
 素子は天井を見ながら知依の背中に向けて言う。
「半信半疑だったよ、さっきまで」
「あら、小娘に鎌掛けられたんだわたし」
 ふふんっと知依が笑う。デッサンの鉛筆の音は知依の呼吸のリズムだ。おなかもくちくなって眠い。鉛筆の音が遠ざかっていく。


 

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