あのドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』が、音楽としては案外につまらない、という文章にであったことがある。
新世界交響曲といえば人気のある楽曲で、クラシック音楽に馴染みのない人でも一度ならず聴いたことがあるに違いない。ことに題名からのイメージに負うところが強いのだろうが、年開けのコンサート会場ではさかんに取り上げられる。年末の第九と同じく、一月のクラシック音楽のステージでは、毎日どこかで鳴り響いている、といって過言ではない。
一月だけではない。新世界は音楽の親しみやすさも手伝って、今でも屈指の人気曲で、もしかすると、月に一度ならず日本のどこかで演奏されているのではなかろうか。
むろん、案外につまらないと評する限りはその理由もしっかり書かれてあった。第四楽章を取り上げてのことだったはずだが、メロディーの展開に乏しく、音楽としては凡庸すぎるというものであった。
なるほど、改めて指摘されると、そんな思いにもなってくるから不思議である。たしかに新世界の最終楽章は盛り上がりはするけれど(盛り上がらないフィナーレなど、むしろそちらのほうが珍しいのだが)結局のところ同じ主題ばかり繰り返されている気がする。
これが贔屓のモーツァルトやブルックナーの音楽についてのことなら、もしかすると、おいおいそれはないだろう、なんて口出ししてみたくなるかも知れない。が、ことはドヴォルザークである、妙に納得させられてしまったようなところがあった。
しかし、はたしてそうだろうか。メロディーの展開に乏しく、凡庸すぎる!?
ここでまっ先に頭をよぎったのは北欧の作曲家シベリウスである。先にあげた二人ほどではないが、彼の音楽も好きである。ことに人気のヴァイオリン協奏曲や一連の交響詩などは、時折無性に聴きたくなる。七つある交響曲も、独特の透明感と静寂がはびこっていて、なるほど白夜をもつ国はこのような音楽を持つのかと思ったりもする。
そのシベリウスの交響曲でもっとも人気を誇るのが第二番で、さすがにドヴォルザークの新世界ほどではないまでも、この曲もけっこう耳にしている人は多いはずである。殊に北欧の自然の奥深さと広大さを感じ取らせる終楽章はこの曲の白眉である。
が、ここでふと思い至ったのだが、この曲のフィナーレも、けっこう同じメロディーの繰り返しに終始しているではないか。むろん楽器のパートも移り、音の強弱や、伴奏の仕方も変わっては行くが、とどまるところ主題の繰り返しに過ぎないのではないだろうかと。
いや、もしかすると、ドヴォルザークやシベリウスだけではないかも知れない。
つい先日のこと、たまたまつけたBSのテレビ番組でチャイコフスキーの音楽をやっていた。『はじめてのクラシック』ということで、普段クラシック音楽に馴染みのない若い人達にコンサート会場に来てもらい、実際に生演奏に触れてもらおうというものだった。作曲家三枝成彰の解説付きだったが、そこで取り上げられていたのが、チャイコフスキーの交響曲第四番の第四楽章、フィナーレであった。冒頭のシンバルの一撃から始まり、やたらフォルテばかりが続くまことに賑やかな曲である。
解説者曰く、「チャイコフスキーの音楽はわかりすぎるほど分かりやすい。そこがかえって、一部の専門家と言われる人達には軽くみられるところがある」
その分かり易すぎる例として取り上げたのが、第四楽章の主題の各パートによる繰り返しだった。まったく同じメロディーが楽器を変えて次々と移っていくのである。敢えて伴奏を抜いて演奏されたものだから、その繰り返しがあまりにもあからさまであった。
ドヴォルザークの新世界交響曲を批判したのは、おそらく音楽評論家と称される人だったと思うが、ここにいたっては、どうもはなはだその説はあやしげになってきた。ドヴォルザークを責めるなら、シベリウスもチャイコフスキーもまったくの同罪ではなかろうか。
そう思えてくると、にわかにひとつ疑問が生じてきた。はたしてこのことは、音楽という一分野での特殊な出来事と取るべきものだろうかと。
三年ほど前のことであったと思うが、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を手に取ってみたことがあった。科学関連の本など滅多に読まないのだが、あまりに方々の書評欄を賑わしていたこともあって、読んでみたくなった。理解出来ないところはかまわずはしょればいいと思い立って。ようするに話題性に負けてしまったのである。
ところが、読んでみるとこれがやたらに面白かった。下手な読み物より、というより、かなり上出来の小説よりも数段の読む価値有りだった。専攻が分子生物学らしいが、この人の文章力は相当なもので、とにかく一気に読み終えてしまった。
ことにDNAの発見にまつわる話はまさしく出色で、とびきりの人間ドラマ、といって過言ではなかった。
このDNA、日本語に訳せば遺伝子である。先の著書の中で使われていたかは不明だが、人間の設計図という言い方も出来る。
おそらく誰もが経験済みのことだろうが、ふとしたときにかいま見せる自身の仕草や表情に、自分の親の影を見ることが時としてある。
あれは、親父を亡くしてまもなくのことだったと記憶しているが、たまたま遊びに来た中学の同級生の男が、何を思ったのか、手持ちのカメラで畑仕事から引き上げてきた私を撮ったことがあった。外での作業の後だったこともあったのだろう。あるいは、今から思えば、その訪問が迷惑な思いもどこかに働いていたせいかも知れないが、妙に不機嫌な表情の私が後で手渡された写真の中にいた。やぶにらみ、とでも言えば適当なのだろうか。上目遣いのかたい顔つきが、紛れもなく、何度となく昔馴染んだはずの親父の表情にかさなって見えた。
しかし、このことは、DNAのことを知っていればなんの不可思議もないことなのである。誰も親の遺伝子で作られているに過ぎないのだから。設計図という言い方が適切かどうか分からないけれど、何事も元となるものがなければ、次が派生しようがないのである。それは人間においても、むろん例外ではあり得ない。
一時、いや今も一部では批判に晒されていることが多い中のひとつにクローン、複製ということがある。クローン羊やクローン技術を使った食品などが時折マスコミを賑わしたりしているが、人そのものが、乱暴な言い方に聞こえるかも知れないが、神があみ出したクローンの賜物ではないか。私達人間も大きな意味で複製のひとつの例であり、繰り返しの連鎖の中に組み込まれている、と言うしかない。
人の営みは人が作っている。その人の存在そのものが複製の賜物であり、言わば繰り返しの恩恵の中に立ち上がっているものだろう。
作曲家たちが、繰り返しを多用して作品を作り上げていくことは、当たり前と言えばごく当たり前のことなのである。人の成り立ちの根源に、繰り返しのシステムが大きく関わってしまっているのだから。
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