金曜日、仕事終わりの帰宅途中の電車の中で私は、仕事の事を考えたくなくって、頭を楽しいことに切り替えようとロヒプノールの事を思っていた。
早く家に帰りたい。服を脱ぎ捨てて、化粧をしっかり取って、ドラマを見ながらワンカップとロヒプノールで跳んでいきたい。あぁ、もう電車、早く着かないかな。電車のドアがぶしゅ、と開く。駅に降りる人たち、早く降りてよ、この電車に乗る人たち、早く乗ってよ。早く電車よ、発車して。知らない人にイラついてつり革を爪でコツコツ音を出してしまう。
あ、ロヒを飲む前に、返信しなきゃいけないメールはしとかないと。土曜日は、夕方からマリオに会うから、待ち合わせの時間と、おやすみなさいの電話を先にしとかないと。今週は疲れたといって早く電話を切ろう。電話を切ったらすぐにロヒとワンカップ。よし、頭の中に入った。お酒とあてはローソンで買おう。私の一週間のうちの楽しみは、ロヒプノールとお酒で跳ぶ時だけになっている。ロヒプノールの事を考えていると、まだ飲んでいないのに胸がドキドキしているのがわかる。ふと顔をあげて、つり革を持つ私が窓越しに映る。目の下に皺が、口の周りにはくっきりと法令線が、口はへの字口、肌は皮脂が沢山でておでこと鼻がてかっている。が、目はギラギラとしていた。私であるはずなのに、私ではない人がそこにいる。うずうずしている私。とにかく、早く帰りたいのだ。ふくらはぎが浮腫んできつきつになっているブーツを脱いで、肩がこるブラジャーのホックを取って現実から解放されたい。
「ただいま」
ドアを開けるとリビングに弟がテレビを見ながら背をむけて、おかえりと言った。私はブーツを脱いで自分の部屋に行き服を脱いで部屋着に着替え、洗面所で化粧を落とした。アイメイクをしっかり落とそうと目の周りを入念に指で回しながら、マリオに電話、友達にメール、と思いながら、それからだ。もうすぐだからね、と言い聞かせながら化粧をとった。洗面所に、洗顔とともに落ちたマスカラのカスが散らばる。それを流しながら自分の顔を見る。何も被せていない私は電車にうつる私よりも生き生きとしている。
「ちょっと電話してくる」
弟に言ってベランダに出た。外は寒いがロヒの事で頭いっぱいになっている私には熱さましの効果があって冷静になれる。まずは、友達への返信メールを打つ。文面の最後には『おやすみー』と入れる。もうメールしてきても返信しないよ、という合図。それからマリオだ。携帯電話を頬にあてると、携帯電話のほうが熱を持っていて私の頬が冷たくなっているのが分かった。プップップと携帯電話がマリオにかけている音を聞きながら、ロヒ、ロヒ、マリオ、ロヒマリオとリズムをとってマリオに繋がるのを待った。飲まなくっても、充分ハイテンションで跳びかけている。
「はぁい」
「はい、マリオ、私。お疲れ様」
「うん。お疲れさまぁ。今日は、飲み会じゃないのん?」
いつものゆっくりとしたマリオの喋り方に少しほっとし、ロヒの事がかすれて少しテンションが下がる。
「うん。今週は仕事頑張ったからね、だから早く帰ってもう寝ようと思って」
「そうなんやぁ。俺、まだ店」
「そうなんやぁ。大変やなぁ。明日、大丈夫?」
うん、あとちょっとしたら帰るわぁーといって、明日の待ち合わせ時間と場所を決めた。マリオと話をしているとゆっくりとした口調がうつってしまう。ゆっくりとしすぎじゃなかろうか、というくらいゆっくりな話しかた。マリオの一秒はみんなにとっては三秒くらいだなぁって、最初のころは言っていたなぁ。マリオと話していてそんなことを思いながら、
「んじゃぁもう、寝るね」
「はーい、おやすみぃ。あぁ。もうアイスも帰ってきてるんー?」
アイスとは、弟の事だ。私は、うん。帰ってきてテレビみてるー、代わろうか? と言ったが、マリオは、ううん、いぃーと言った。
電話を切った。
弟とマリオは小学生の時からの友人だ。アイスというあだ名は弟が、アイスキャンデーが大好きで、マリオと遊んでいる時にガリガリとかじってテレビゲームやカードゲームをしたりして遊んでいたからついたあだ名だった。
転校生だった私たち姉弟に、マリオはあだ名をつけてくれた。小学生が付けるあだ名は簡単で、後から考えたらすごく残酷なあだ名だった。ほっぺたが赤いから、トマトだったり、目の下にクマがでてるからパンダ、だったり。だいたい三文字ぐらいで終わるのが多い。私は肌が焼けて茶色だったので、紅茶のねぇちゃん、と呼ばれたり、アイスのねぇちゃんと呼ばれていた。今はそうは呼ばないけれど。マリオも、あだ名だ。ゲームのスーパーマリオのシリーズを全部持っているからか、マリオが上手なのか知らないけれど、見た目とは関係なくマリオ、とついた。
マリオが付けてくれたあだ名は二クラスしかない小学校に浸透し、マリオのおかげで弟は転校してすぐに馴染んだ。いつも周りに友達がいて、勉強もできて、かけっこもいつも一位で年上の私の学年でも、「あの子、かっこいいよね」といわれるくらいだった。小学生の私でも、マリオが今いちばん輝いている男の子だとわかった。
携帯電話をもう一度頬にあて温度差を感じる。マリオの事を想い、いやいや、これからもっと楽しいロヒプノールの時間だ、と頭を切り替える。マリオからロヒに。薄い赤から青を足してどんどん紫に変化していく。外の景色は前に見えるマンションの部屋の灯りと、星だけだ。冬の良いところは、星が澄んで見える。空気が冷たくて一人ぼっちの気分になれる。部屋を見る。弟が、何? と言った感じの顔を向けてきたので、私は笑顔で、暖かい弟と、寒くないリビングに入っていった。
弟と私は二人でマンションを借りて暮らしている。もう六年になる。私たちは二十九歳と二十七歳になり収入も余裕がでてきたので最近自分の部屋がある部屋に引っ越した。両親とも仲が良いが、やはり社会人になってから、でていく方が都合がよかったのと、当時大学生だった弟もそう思っていたので、二人で暮らす、と言ったら父は、しょうもない男が入り込むよりかはいい、といい、母は、わけのわからない女が入り浸るよりかはいい、と快諾してくれた。
部屋には私たちの都合のいいものがたくさんある。引越してもこの居ごこちの良さは変わらない。洗濯の仕方、冷蔵庫の使い方、生活のリズム、干渉してもいいこと、悪いこと、姉弟だから許せること。この二人暮らしはどちらか将来の伴侶、というものが見つかるまでは崩す事がないのも、お互いわかっている、もうずっと私たちは、そんな人たちに出会えてないし、あきらめかけているけれど。
浮き足だって中にはいって来た私をみて弟は、
「何。良いことあったん」
と聞いた。
「うんー、無いよ。今から眠るから邪魔せんといてなぁ。あ、明日マリオに会うけど、なんかいうことある?」
弟は、ぶっきらぼうに、無い、といってまたテレビを見つめた。私は携帯電話を下駄箱の中に閉じ込めた。これで大丈夫、今から私の頭の中に携帯電話というものは存在しない、と。さて次は、やっと、やっと、あれが飲める。
「なぁ、あとどれくらい残ってるん」
笑顔でテレビ台の中に隠してある瓶を探している私に、弟は聞いてきた。私は、んー、といって蓋をあけて、
「だいたいやけどなぁ。あと八錠くらいかなぁ。一ミリと二ミリ混ざってるけど」
弟は、ふうん、とだけ言った。私は、今日は疲れたから二ミリにしとこうといって丸い錠剤を一つつまみだし、蓋をし、丁寧に元の場所に戻した。
ロヒプノール二ミリを一錠、口に入れ、さっき買ってきたワンカップの蓋を開ける。少しお酒がこぼれた。もったいなくてお酒がこぼれた跡をべぇーっと舐めた。舐めながら瓶の淵に口つける。それから薬が早く溶けるようにと、ゴクゴクと瓶の半分を一気に空けた。残り半分になったお酒のあては魚肉ソーセージ。ソファに座っている弟の隣でかじりながら、ゆっくりと私は、跳んでいく。
テレビを眺めている。
魚肉、酒、酒、弟を見る。なぁテレビ、おもしろい? 黙っている弟。酒、酒、酒、魚肉。もうワンカップのお酒が無くなった。魚肉に用は無い。弟にあげる。弟は親指しかない魚肉ソーセージを一口で食べた。私は弟が反応してくれたことに嬉しくて笑ってしまう。テレビから音楽が聴こえる。女の人の声だ。日本人なのに、日本語がわからんよ、ねぇなんていっているの。私、日本人なのに、この人が言っている言葉がわからんよ。下に日本語書いているのに、この女の人のいってることがわからんよ。
弟は適当に相槌をうつ。
私は弟の肩に寄りかかる。
なぁ、きいてよ、今週はしんどかってん。嫌や、なんで仕事以外で悩まなあかんのん。いややぁ、いややぁ。女の人なんていややぁ。上の人も下の若い子もいややぁ。男の人なんか全員嫌やけど、仕事やったらまだ割り切れるわぁ。この人達と仕事終わってからのご飯なんかいきたくないもん。もうすぐある社員旅行にもいきたくないもん。月曜日は仕事始めやから疲れて早く寝れるやろう、火曜日は残業、水曜日あたりに会社の人としょーもない悪口大会を兼ねたご飯食べるやろう、木曜日も金曜日のために残業、で、待ちに待ってた金曜日やで。誰にも邪魔させへん。あ、一週間が終わったわ。私の一週間が終わったわ。短いんか長いんかようわからん一週間。実りあるんか、ないんか分からん一週間が、終わりました。
弟は、はいはい、といって私の髪の毛を撫でる。心臓がドクドクしてきたのが自分の耳から聴こえる。話している事がだんだんおかしくなっているのも分かる。やった、薬が効いてきた。
ふふふん、今からもっと何ゆうてるか、わからんで、もっと髪の毛、触っていいよ。
歌っていた女の人が司会者の人と会話しだしたのを聞きながら弟の膝に頭を落とした。また女の人が歌う。目を瞑りながら歌を聴き入っていると、どうでもよくて、私の考えていることなんてどうでもいいことばかりで、今週一週間の会社であった嫌なことより弟の膝枕の加減が丁度よくて、スエットの上からでもわかる固い太ももが頬にあたる。髪の毛を撫でられていると眠たくなってきた。頬からも、頭からも気持ちいいのが伝わってきてサンドイッチにされてる、私、うふふ。このまま、このままがずっと続けばいいなぁ。
しばらくすると違った声が流れてきた。固い口調。節目節目に大きな音。ニュースにチャンネルを変えたみたい。私は突然、やらなければいけない事があったような気がする、と思い立って、居ごこちのいい膝から離れて明日の朝に洗濯機を回す為の準備をした。ニットを洗濯ネットに入れて、下着と一緒にドライで洗おう。その他の私のものと、弟の洗濯は先に一緒に洗おう。それから、明日はゴミの日だから玄関に置いておこう。弟が持っていきやすいように。
やらなきゃいけないことはやったし、もう一回、居ごこちのいい膝にいこう。私は弟の所に戻った。弟は何も言わない。肩をポンポンと軽く叩いてくれた。
目が覚めると私は自分の部屋のベッドに寝ていた。時計を見ると十一時半になっていた。布団の中で目が開いたこと以外は考えることができない。薬がよく効いたなぁと感じながら足を伸ばす。もう少し、ぼーっとしておこう。このまま脳みそが目が覚めるまで、毛布の感触を首と肩で感じて。
脳がゆっくりと起きだしてきたので考える。昨日は何もしなかっただろうか。携帯電話は触ってないだろうか。誰かにメールはしてないだろうか、電話はかけてないだろうか。枕の周りを確認する。ベッドに携帯電話がないから下駄箱の中だ。よし、大丈夫、誰にも迷惑かけていないし、飲んでいる事はばれていない。
一時になって尿意を感じて部屋から出ると、玄関にゴミは無く、洗濯機が回っていた。弟は居なかった。下駄箱に仕舞った携帯電話を取り出し、トイレで用を足しながら着信やメールが来ていないか確認する。マリオから朝十時ごろ着信があった以外は何も無かった。まだ頭がよく回っていないのでかけなおさないでおこう。
お風呂にはいっていると、やっと自分の身体がはっきりと自分の身体である意識がでてきた。熱いお湯につかるまでは自分の指や足の感覚が少しずれていてコップが上手くつかめなかったり、ドアにぶつかったりふらついてしまう。それも、いつものことだ。
洗濯ものを干して、マリオに電話をかける。
「はぁい」
「はい、マリオ、おはよう。今洗濯もの干し終わったところ。さっきまで寝てたの。ごめん。どうしたん?」
マリオの声は言いだしにくそうな声を出していた。はぁい、の声の出し方だけでわかる。
「今日なぁ、急に友達が会いたいって言うてきて。なんか困ってるみたいやし、相談みたいで……で、なぁ、ごめんやねんけど」
ごめん、って言う前に、
「あぁ、いいよ、分かったぁ。今日は一日ゆっくりしとくし、もし、早く終わったら、また電話ちょうだい。家にきてもいいよ、弟もおらんみたいやし」
とかぶせて言った。マリオは、分かったぁ、ありがとう、といってまた、ごめん、といいそうだったので、ご、で電話を切った。
意味のないごめん、は聞きたくない。土曜日、せっかく有給使ってくれたのに。日曜日もあるからいいけど、マリオ、三連休どうするんやろう。
さてと、何をしようか。こんな事ならお風呂に入らなかったらよかった。昨日のまま、汚いままでいて、日曜日の夜まで部屋から一歩も出ない生活をしたかったなぁ。二日間、お風呂に入らなくて顔も歯も磨かなくて、鏡もみないという実験がしてみたい。弟は嫌がるかな。ソファに横になる。ふとテレビの下に隠してあるロヒプノールの入った瓶を見る。
今日は飲まないし、二日続けて飲んだら次の週の金曜日には薬の効果があまりでないかもしれない。あと八錠しかないんやし。大事にしないと。
私がこの薬を持っているのは、貰ったのだ。友達に。正確には、マリオに。
◎マリオと私
今から六年前、私が社会人一年目のころ。
あまり気の進まないクラブに友達と行ったら、マリオと偶然にあった。大きな音楽の中、やっと耳が慣れてきたころに身体に似合わない大きな白いTシャツを着た男が声を掛けてきた。「アイスのねぇちゃんやぁ」
ゆっくりした独特の口調だったので、マリオだと気付いた。
「マリオ?」
マリオは頷く。
頷いているのにマリオだとは思えなかった。最後に見た中学生のマリオとは違っていた。太陽のように綺麗だった茶色の目の輝きは、妖しい輝きに変わっていた。あご髭も生やしていて、髪の毛が私より長く、一つに束ねていた。これが、今のマリオだということに頭を整理するのに時間がかかった。
「何しにきたの?」
と聞かれる。私は、今日は友達の彼氏がここでイベントするから、付き添いで来た、と言った。そこから友達の彼氏が回す音楽を聴きながら、懐かしいいなぁ、アイスは今なにしてんのん、と言いながらマリオと話をした。
マリオが高校一年生の時に両親が離婚したのを弟から聞いていたので、多少はあらくれているだろうと思ったが、話を聞くと、高校もやっと卒業できて、大学はお父さんが頼むからいってくれ、と言われて行っているぐらいだった。時折みせるマリオの笑顔は十代の笑顔には見えない、頬に笑いじわがあった。痛々しい。
「マリオ。今、何処に住んでるん?」
「前に住んでた家は広いから、親父とマンションに変わってん。でも、親父はあんまり帰ってこないけど」
きゅん、と胸が痛くなる。私の知らないマリオ。弟にも聞かなかった事。
「ご飯は、どうしてるん?」
「あんまり食べる事に興味がないねん。適当や」
またきゅん、となる。だから顔に皺ができるんや。
「寝れてるん?」
「寝たいのか、寝たくないのかもわからんねん、もう」
疲れた笑いをみせるマリオの髪の毛を撫でたいと思った。
音楽がうるさいので私とマリオが近づいて話している。鼻に髪の毛の匂いがチラつく。良い匂いではなく、最近お風呂に入っていない匂いがした。粉っぽい頭皮の匂いを嗅いで、また胸が痛くなった。この胸の締め付けは、恋じゃないのも感じていた。マリオと喋っていてもドキドキしないから。ただ、心配なだけだ。
「お酒、おかわりいる? とってきたんで」
カウンターに向かうマリオの後ろ姿や、知り合いと話しているマリオを遠目でみていた。
それから私と弟は、マリオとまた仲良くなることになる。私は誰も帰ってこないマリオの家にときどきご飯を作りに行くようになっていた。マリオは男、というよりはもう一人の弟の感じだったので心配だったし、さびしい、といえば会いにいっていた。家に行き、世間話をする。何処の服が可愛いとか、最近好きな芸能人の話。仕事の愚痴。弟と普段話している事と同じ話。何もお互いに気持は無かった。私は太陽の輝きが、漫画から出てきたような人に戻って欲しかった。マリオは大学を卒業した後、美容師見習いとして働き出していた。マリオ自身は相変わらずゆっくりと時間が流れている。
◎弟と私
私が社会人三年目。弟はある日、私に告白をした。
両親がいない間に、弟から電話がかかって来た。声が沈んでいたので、泣いているのが分かった。
「どうしたん、はやく、帰っといでよ」
「俺、もう、あかん」
このままでは電話で話しをしだしそうだ。私は、今、お母さんたち、おらんから、帰っといで。ちゃんと聞くから、家まで帰っといで。
「私は、あんたの味方やねんから、あかんことなんかないんやから。聞いてから判断するから。家、帰ってこれそう?」
迎えにいくのが面倒だったから、初めて、味方や、とか臭いこと言ってしまったけど、まぁいいや。弟は、帰れる、という。後一五分くらいで、帰るから、と言った。ただ事ではない電話。両親はその時帰ってこなかったのが救いだった。両親は二人で食事をしに行き、盛り上がったのでそのままホテルに泊まるといっていた。仲がいい夫婦だと思う。けど、そんなことよりも、弟は、ちゃんと帰ってきてくれるだろうか、胸がざわつく。しっかりしなければ。
帰ってきてから弟の口はもごもごしている。
「どうしたん、何があったん?」
目を見る。弟は泣きそうだ。
「俺は同性愛者なんや」
泣いている。
不思議と私は驚くことがなかった。昔からそういう漫画や映画を好んで読んでいたからだろうか。それよりも、泣きながら弟が告白しているのを受け止めてあげたかった。きっとつらかったに違いない。ずっとずっとため込んで、ため込んで自分を否定し続けていたに違いない。漫画や映画でよくある苦悩しているシーンだ。大丈夫、姉は、弟を受け止める準備はできている。
「俺、女の子とも何人か付き合ったけど、あかんみたいやねん。俺、ゲイやと思うねん。で、今日初めて、男の人にあってきて確信した。俺は、普通じゃない。」
うん。
うん。
「で、今日あった男の人とはずっと前からメールで相談してて、俺、だんだんその人に会いたくなってきて、あってん。けど、会ったらその人、やるだけが目的やったみたいで……凄く哀しかった」
弟を抱きしめる。少し、恥ずかしい。手を握ってあげるくらいにしとけばよかった。
「うん。ありがとう、いってくれて。今まで黙っててしんどかったね。私がおるから大丈夫」
握手をした。
弟はそこから今までしてきた恋愛を話してくれた。初めて出来た彼女から、セックスの話、違和感と否定。今は好きな人がいる。ゲイの恋人の作り方。どこで知り合うのか、芸能人でいったらあの人もゲイやし、歴史上の人物でいったら織田信長もそうやねんで、流行は全部俺らの世界からくるんやで。若いゲイ、それ以外のゲイ、若い女の子、おねぇ、の順番やな、とか。安心したのか急に饒舌に話をした。私も話した。少ない経験だけれども。
私は男の人があんまり信じられない。初めて付き合った人はバイト先の二十八歳の人だったけど、その人、風俗いくし。その次の人は、私の事、二番目とか、愛人、とか陰でいってたんやで。自分の数少ない恋愛話なんて改めて振り返ると結構悲惨なもんばかりやわ。男の人なんか、嫌いやって思うけど、しばらくしたらまた、違う人をちゃんと好きになってたりするもんなぁ。自信もないけど。
おねぇも、たいがい男には苦労してるな、といって最後には笑って握手をした。で、あんたは、タチなの、ネコなの? どっち? と聞いた。そうしたら、
「一応タチやけど、リバかもしらん」
と言った。リバってなんなん? と聞くとリバーシブル、と答えた。
一つだけお願いをした。両親には黙っておいてほしい、と。弟は、分かっている、と言った。そのかわり、
「おねぇ、結婚して、子供つくりや。俺には出来ひんから。でも、俺、子供は好きやねん。おねぇの子供、めちゃ可愛がるから。それも、約束」
「私にできるかなぁ」
話してくれて嬉しい気持ちと自分の恋愛観を改めて告白をすることで、男の人を信頼したことがない自分が分かってショックなのと、高校生までしょうもない事でずっと喧嘩してきた弟と、今こんなに打ち解けあい、分かりあい、助け合うことが出来ることに驚いて、姉弟がいて良かったと思って、泣いてしまった。
その夜、私は考えた。
私が小学生のころからそういう漫画を読んでいて、それを弟も普通に読んでいたから私の影響なのかな。弟が高校生の頃、私が服は、ズッカやA.P.C.を着ている人が良いって言ったりして服装にこだわらせたり、髪型もあれが似合うとか言ったりしたからかなぁとか考えた。
その日から私たち姉弟は、恋愛やセックスの話を隠さずに話すようになった。
毎年、私たち家族は一泊旅行に行くのだが、去年、食事の時にお父さんが少し照れながら、
「お前たちは、結婚とか考えているのか? もうそろそろ三十になるやろう。彼氏や、彼女を、お父さんたちにいっこも紹介せぇへんけど、おるのか、そういうのん」
最後の方は尻すぼみになっていて、顔が真っ赤になっていた。私たちは、お父さんが話しだして途中からどんな返事をしたらいいのか、男の人を心から信頼出来たことのない私と、ゲイの弟に、どの答え方がいいのか、頭を回らせた。すると弟が真っ先に、
「俺、結婚に興味ないから」
ときっぱり言った。私は、
「私は、まだ、待ってほしい、なぁ。ちゃんと出来たら、紹介するから」
と言った。両親の安堵の表情が印象に残った。その夜、私たちは二人だけの部屋で布団を並べ、
「大丈夫かなぁ、私。結婚して、子供つくれるかなぁ」
「大丈夫かなぁ、ゲイってバレへんかなぁ、俺」
からはじまり、両親が死んだらどうする? まで話し込んだ。
部屋の空気は冷たくて、電気も消していて、周りには誰もいない。私と弟の二人だけ。話しているうちに私たちは、体が死んで声だけが生きていて宙に浮いているような気分になった。
俺、心折れて、どっか遠くにいきそうや。
私が結婚しても近くに住んでね、離れたりバラバラになったりしないでおこう。たった、二人だけの姉弟やもん。
あんたが海外転勤になったら、私を召使にしていいから、連れて行って。
そんときは理解ある上司ができたら、言うわ。
結婚相手の条件は、あんたのことを理解してくれる人がいいなぁ。あと、あんたの永遠のパートナーが出来たらいいなぁ。
おねぇに合う人は、年上の人やと思うで。しかももて無さそうなひと。それか、外国人。
なんや、それ。おおまかすぎるし、逃げてる感じするわ。
あぁ、葬式、こんな私らでもちゃんとあげれるかなぁ。私、結婚できないまま、二人死んだら不憫やで、あんないい親、おらんもん。
なぁ、そうやなぁ。
私ら
俺ら
『両親を一番大事にしよう』
と、結局原点に話しは戻って、最後は、何もまとまる事なく、着地点として、寝た。ただ喋っただけの旅行で、何も解決策がない夜だったが、お互いの意識を確認できた夜だった。
◎弟とマリオ
私に告白して半年後に、弟はマリオに同じことを告白した。
「なんでマリオにゆうたん」
「言ってみたくなってん。おねぇ以外の人に。どんな顔するんか知りたかったし、マリオも絶対に、俺と同じ世界の奴やとおもったからや」
さわやかに弟はさらっと言った。
「おねぇ、マリオにご飯作りに行ったりしてるんやろう、じゃぁ分かるやろ、違うって」
確かに、男を感じることは無かったけど。
「ま、あいつはバイやって言い張ってたけど、完璧にゲイや、こっちやわ」
ふうん。そうか。私は驚きよりも、マリオがそうならますます漫画の世界やなぁとマリオの周りに薔薇を敷き詰めて想像して面白く思った。
「髪の毛、切ったらもてると思うのになぁ、マリオ」
「俺もそう思う」
「マリオは、私に言っていいってゆうてたん」
「うん」
そうかぁ。で、これでますます、私ら三人仲良くなったなぁと言った。
「で、マリオのことは恋愛対象なん?」
弟はくっくっと笑い、眉毛が下がる。
「まさか、全然俺、タイプちゃうんわかってるやん。ちょっと不器用な人が好きやねん。マリオみたいな世渡り上手は、嫌や。おねぇは?」
笑ってしまう。
「まさか、全然。タイプちゃうんわかってるやん。私はメガネを掛けたスーツ着てる人が好き」
お互いマリオは兄弟みたいなもんよな、小学二年生からの知り合いやし、といって納得しあった。
それから私と弟は家をでて二人で暮らすようになった。そこで私は彼氏を連れてきたり、弟の彼氏というんだろうか、恋人と呼ぶべきだろうか、 パートナーを連れてきたりした。彼氏には、弟がゲイだとかは言わない。ただ、恋愛話やセックスの話もするよ、というと仲がいいねぇとよく言われた。近所の人も私たちの事をどう思っているのだろうか。私たちは、姉弟としてみられているだろうか、恋人同士だと思われているだろうか。そう思われてたらちょっと嬉しいんだけどな。
◎私とマリオ
私はマリオに髪の毛を切ってもらう。マリオが練習に切ってみたいと言ってきたので、いいよ、といった。場所はマリオの家のベランダで。
マリオの髪型は清潔感がある短髪に変わっていた。こまめにカットされてあって毛も染めてある。私はしたい髪型が無かったので髪の毛が背中まであった。
マリオの家のベランダは多肉植物ばかりだ。これ、何ていうん? ときいたら多肉植物、としか言わない。名前は? 種類は? 聞いても全部、それ。キャベツのような形や、薔薇の花のような葉がぷっくりとしていて栄養満点にみえる。ある多肉植物は白い花を咲かせているが葉に栄養がいっているみたいで花がとても小さく、主役ではない。
「多肉が好きやねん。名前聞いてもすぐに忘れるしなぁ、見て育ててるだけでいいねん。多肉、っていう響きがいい。さ、はじめようやぁ」
マリオが私の髪を触る。変な感じ。
「じゃぁ、お任せしますわ。今からサロン気分でいくから。イメトレやね」
目を瞑る。お店の人に貰ったというハサミでチョキチョキ、たまに、ザクザク、切っていく。どんなんが、好きなん? と切り始めてから聞く。面倒なので、おかっぱでいいよ、という。おかっぱ、一番難しいんよなぁ。他は? うーん。だから、任せるし、聞かんといて。
「あ」
チョキ
「あぁ」
チョキ、サキ、サー
途中で何回かいう、あ。マリオの使うハサミと櫛のぎこちない音。気にしていても仕方ないので黙っている。
「あ、ねぇちゃん、白髪(しらが)があるぅ」
「うん。小学生からあんねん、私。頑張っている証拠やねんけど、それ」
「ふふ、なに、それ。誰がゆうたん。じゃぁ、これ、切っとくね」
サク
昔からある白髪。弟も白髪がある。高校生のときに、白髪がある、といわれても平気だったが、この歳になると言われると気分が悪いし、弟も私も昔よりかは増えた様な気がする。この際、みえる所は全部切ってといった。
サク、サー
マリオが櫛を通す。だいぶハサミを使う回数が減って来た。椅子の下を見ると髪の毛が沢山おちている。終わるころだろう。
「なぁ、アイスのねぇちゃん」
「ん、終わった? 早く鏡、みしてよ」
うん、というとマリオが私の耳たぶを触り、もんだ。
「なに、すんの」
「ねぇちゃんの、ここ、あれみたい」
指をさしたのはマリオの多肉植物。ずっともんでいる。
「触りすぎやねんけど」
マリオはまだもんでいる。いやらしい気持ちになるじゃないか。
「気持ちいいなぁ」
ため息混じりでマリオが答えてきた。
私は振り返る。触っていた手が離れる。
「やめてよ。気持ちわるい」
マリオはくすくす笑って、出来たよ、髪の毛、といって手鏡を見せた。私の髪型はおかっぱでもなく、肩につく長さでもなく、ひとつに束ねることもない中途半端な髪型だった。顔にまばらに毛が付いている。毛を払って、とマリオにいう。マリオは私の顔を触る。気に入ってくれた? と聞く。私は、うん。まぁまぁ。という。左手でマリオは私の顔についている毛を払って、右手で私の耳たぶをもんだ。
「いやらしい」
「え、触り方が?」
「いや。私がいやらしい気持ちになるから、やめてや」
目を瞑りながらいう。もうそういう気持ちになっていた。
「いいで」
「マリオ、やめてや」
「嫌」
頑張って目を開けようとするけれど開けられない。開けても薄く眼が開くだけて、見えるのは、マリオの腕とその先にみえるキャベツのような多肉植物だ。
それから私たちは付き合うようになる。マリオも私の事をアイスのねぇちゃん、とは呼ばなくなった。
面倒な事に私には付き合っている人がいた。その人となかなか切れなくて、私はだめだなぁ、なんでこうなるんだろう、それをマリオに言うと、マリオは怒ることもなく、がっかりすることも無く、このままでいいんじゃぁない? といった。
しばらくして、私は眠れなくなる。身体と心がぴったりあっていない。二人の人と付き合っていくのは体力も能力も才能もいる。不正出血もでた。切れない人と会って、その二時間後にマリオにあう。そんな週末が続く。二人にあうのは仕事で疲れている癒しなのに、二人にあうのがしんどい。不正出血してる女なんかとやれないし、私はしたいけど、痛いんだよ。マリオが隣にいても、誰が隣にいても眠れない。けど、独りはもっと嫌だ。そうしてると月曜日がくる。また一週間のはじまりで、仕事のことばかり考える毎日が始まる。昔は十二時間は眠れていたのに、今はよく寝た、と感じない。すぐに目は覚めるし、悪いことばかり考えてしまう。月曜日から金曜日までは仕事のこと。土日は二人に罪悪感。眠りたい。何も考えなくていい、思ったとおりになる夢の時間がほしい。それもマリオに言うと、クローゼットに仕舞ってあった靴箱から薬を取りだした。
「眠れないなら、これ、あげる」
丸い錠剤、十二錠のシートが三枚あった。小さく、高揚感が湧いてきた。
「これ、俺が飲んでたやつ。ロヒプノール。もう飲まないからあげる。きついから、最初は半分に割って飲んで。あと、飲んだ次の日はしばらくぼーっとするから気をつけて」
マリオ、薬のんでたん? なんで? いつから? 目の前にある薬を見て聞いた。
「大学ぐらいから、たまに。眠られへんくて。ひどい時は毎日のんでたけどもう、飲むことないし。飲まんでもこの仕事してたら、すぐ眠れる」
私は薬を受け取ろうとした。
「試しに、一錠、頂戴」
いいよ、といってプチっと穴を開けて、マリオは半分に割って私の口の中にいれてくれた。
苦い。
「マリオ、水。苦い」
水を出すのが面倒なのか、マリオが近づいてきてマリオの唾液で飲み込んだ。
「はやく帰ろう。二十分もしたら、眠たくなるから」
その日はマリオに送って貰って、そこから覚えてない。よく眠れて夢も見なかった。見たとしても目が覚めた時に全部忘れてしまった。疲れも取れた感じがした。なにより、ちゃんと眠れた、目覚めるとお昼近くになっていた。
こんなに眠れたのはいつぶりだろうか。ちょっとした物音で目覚めることもなく、しょうもない夢もみることなく、起きてもしばらくは何も考えられなくぼうっとしていられて、身体が充分に休憩したといっている。たった一錠飲むだけで、私はぐっすり眠りにつけて、仕事の嫌なこと、人間関係のこと、両親の事を考えなくてすむ。
次の日、マリオに全部欲しいといった。
「んじゃぁさぁ、もう、俺だけにしときぃ。しんどいんやろう? あと、アイスに俺らの事を言ってほしいねんけど」
マリオとの事は弟には言っていなかった。最近、よく行くなぁっては思っていたと思うが、弟には、マリオにも黙っておいてほしいといった。自分の奥底に、弟には知ってほしくないという想いがあった。
弟に報告してから私たちのベランダに多肉植物がひとつ、増えた。弟には薬の事も言った。マリオの事でも十分嫌な顔をされたが、薬も同じく嫌な顔をしていた。
「それ、アメリカでは麻薬と一緒で服用禁止になってる薬やねんで」
弟が昔、付き合っていた人も同じ薬を飲んでいたらしく、弟は跳んでしまった人を近くでみていた。跳んでいる人をみたことがある弟が近くにいることは私には、都合がいい。大変な思いをしたらしい。何よ? 大変な思いって、と聞くと、
「こっちの世界は特に、精神的に弱い人が多いんや。ちょっとした事で、凄く、傷つく」
といった。とても簡潔で分かりやすい一言で納得した。
毎日飲んだら仕事が出来ないので金曜日に、一錠の半分を飲む。それが効かなくなってきたら一錠、まるまる思い切って飲んだ。そうしたら、効いて眠れる。
一錠がまた効かなくなる。というか効いているけれど意識を跳ばして思いっきり寝たい、という日には一錠とお酒を一緒に飲むようになった。寝てしまった重い私の身体の始末は弟か、マリオがしてくれた。弟は私のベッドに、マリオは、リビングに私を運んだ。
飲み始めた頃は、眠るための薬だったが、今では違う意味で飲んでいる気がする。眠らなくてもいい時に薬を飲んだら、携帯電話で友達に電話をかけたりして、ろれつが回らなくなって自分が何を言っているか分からなかった。ふわふわ浮かれた気分で、なんでもできる様な気がした。嫌いな人には、あんたなんて嫌い、といえそう。飲んでいるいまだけなら、言えそう。
友達は、最近私が週末になるとおかしくなってんなぁ、といってきた。言われた時は焦って、ばれてはいけないと思った。ここ最近は仕事で嫌なことがあったからお酒のんでよっぱらってるねん、と言い訳をして携帯電話は、下駄箱や、洗面所の下に隠しているようにした。ロヒプノールの存在がばれると私の数少ない友達がいなくなってしまう。飲みつづけたかったら、この気持ちを週に一回味わいたかったら、深いところまで眠りにつきたかったら完璧にしないと。あと半分だけあるロヒプノールを大事にしないと。これを飲みきったら、やめる。飲んでいる間は妊娠しないようにしないと。あと、飲みきった後も半年ぐらいは気をつけないと。薬を身体から抜ける日まで、どれくらいなんだろう。
◎今の私たち
金曜日のロヒプノールが習慣になって五カ月が過ぎた。
残りは八錠。マリオとも続いている。マリオなら、私たち姉弟の願う条件に一番合っていると思うようになった。信頼できる、男の人で、弟の事を理解してくれる人。
ある日の土曜日の夜、洗濯ものを干していて弟に話しかけた。
「なぁ、やっぱり、冬が一番、星が綺麗にみえるんやけど、みてみぃ」
振り向いて弟に話しかける。弟は私の髪を見ている。
「おねぇ、白髪(しらが)、あるやん」
え、そう。どこらへんに? 髪の毛を撫でる。ここ、といって左後ろの髪の束ねる。
「塊であるやんか」
かたまり、で? そんなこと今までになかったのに。
「あんたも、あるやん。ほら、前髪のほうに」
対抗して言ってしまう。
「マリオに切ってもらってるんちゃうん」
弟は、怒っている。
「増えすぎて、切られへんのんかなぁ」
「何、それ、ロヒのせいちゃうん。飲みだしてから増えたんちゃうん」
口調がきつい。
「そんなことないって。副作用に白髪が増えます、ってかいてなかったもん」
星、見てほしいのに。
「ちょっと中にはいっといで。自分で鏡、みてみ」
腕を引っ張って洗面台に連れて行かれた。
鏡に映る私の左後ろに、束になって白髪があった。黙ってしまう。こんなに、あったことは今までに無い。
「な?」
何も言えない。
「な、わかったやろう。老化かもしらんけど、ロヒのせいかもしらん」
「髪の毛、白髪が先に抜けたらいいのに。なんで見た目が健康な黒い毛が先に抜けるんやろう。なぁ、そう思わん? 白髪って、栄養ないのに、しぶといよなぁ」
違う答えが返ってきて弟は黙る。
何かいい方法はないか、考える。弟の怒りが収まる安易な答え。
「髪の毛、染めよう。あんたも、一緒に染めよう。一緒にやったら、いいやん」
弟は、ため息まじりに、いいよ、いまから薬屋にいこうといって一緒に出かけた。星、みてみて、といったけど、弟は黙ってみてくれなかった。
冬の星はよく見えて、あれと、これが、繋がって、ひしゃくの形になるんやなぁ、と上をみながら独りごとを言っていると、弟は危ないといって手をつないでくれた。
手を繋がれていると昔は、私が繋いであげていたのに、いつから繋がれているんだろう、なんで、弟の手はこんなに大きくて、背も大きくなって、力も、喧嘩も、口げんかさえも勝てなくなって、立場も逆転してしまったんだろうか。星をみながら、ひっぱられながら思った。
私は五番の比較的明るい茶色の白髪染め、弟は七番の一番黒くなる白髪染めを選んだ。
お互いに肩にバスタオルを巻いてゴムで縛る。まずは私が弟に白髪を染めてあげる。椅子に座る弟の髪の毛は固く、やはり前髪に白髪が集中していた。
短髪なので贅沢に全体的にまんべんなく液をつけてあげた。
「前髪、集中的にしてあげる」
弟の髪の毛をオールバックにしてみたり、リーゼントにしたりして遊んでいるとクリーム色だった液がだんだん黒くなってきた。小さい頃プラレールの新幹線で頭を叩いた時を思い出したり、頭にほくろがあったことも思い出した。
「あぁ、そういや、あんた、ほくろ、あったなぁ、懐かしい」
「そやで。そこ、いつも櫛でとかれたら痛いねん」
誰にとかれるねん。いつも、って。
「ちゃんと染まりますように」
最後は髪の毛をたててソフトクリームのようにしてあげた。弟は笑っている。
「あんたもマリオに切ってもらったらいいのに」
というと笑顔が消えた。マリオ、の言葉は今日はいってはいけない言葉らしい。もう、言わないでおこうと思った。
「はい、次おねぇ。交代」
弟に髪の毛を触られる。頭皮で弟の指を感じる。マリオの細くて長い綺麗な指とは違う、太い指。第二関節までしかわからないけれど、親指が太いなぁ。髪の毛をほぐされた後、液をたらされる。
「櫛、使わんと、手でして」
もうちょっと指で触られたいと思った。弟の指って、観察したことないから、こうやって頭皮で感じるのもおもしろいなぁ。マリオとは違う指の感触、腕の重たさを感じた。弟は私の白髪をみつけては、ここ、ここ、ここも、という。
「やっぱり、多いで」
「わかったから、ここ、っていわんといてや」
撫でられ、ツンとする匂いをかぎながら、気持ちいいなぁと思った。
十五分待つ。私に付けられた液体も黒くなっている。やっぱりお互いのバスタオルも黒く汚れてしまった。
「先にお風呂はいりぃや」
弟に促す。
「いや、まだいい。しっかりと染めたいからあと、一五分は待とう。おねぇも、待ち」
黙って一五分待つ。弟は喋らない。星、みにいく? ときいたら、いい、といわれた。弟の口がもごもごしている。何かいいたいサインだ。言いたくても言いだせない癖だ。
「何、なにかいいたいん」
促す
「……」
無言で促す。もうそろそろ、言う頃だ。私たちに隠し事はできない。弟は、
「……なぁ、お風呂、一緒にはいらん?」
私たちが最後に一緒にお風呂に入ったのは何歳だったっけなぁと思い返す。たしか家族旅行で加賀温泉にいったときに家族全員でお風呂に入った。あれは、確か私が五年生で弟は三年生だ。発育が良かった私は下の毛も生えてたし、胸も膨らんでいた。弟が好奇な眼差しでみて私をからかった。恥ずかしくなってもうそこから一緒には入っていない。
弟はゲイだし、女の裸をみてもなんとも思わないし、むしろ気持ち悪いと感じるのに。
「何、裸、みたいのん?」
「違うけど」
ため息まじり。
「じゃぁ、何で。わからんのんやけど」
「一緒に入ってみたいなぁと思ったからゆうたんやけど」
弟の素直な言葉は胸に突き刺さる。別に、姉弟だから、いいか。と思う家族だもの。お母さんと入っていると思えば、妹と入っていると思えば、いいもの。
しばらく考えて、いいよ、と言った。
私が恥ずかしがっても余計に恥ずかしいだろうから、ここは堂々として姉の威厳というものを見せつけようと先に入っていった。裸を見るなら、見るがいい。弟も淡々と服を脱いで私の後についてきた。
彼氏、彼女のように裸を見あったり、触ったりせずに身体に湯をかけあう。髪の毛が重要なので無言で髪の毛を濡らす。
弟からは黒い汁が、私からは茶色い汁が流れ出す。排水溝に茶色と黒が混ざる。黒が勝つ。弟は湯船のお湯を、私にはシャワーをかける。
「茶色や」
「俺、黒や」
まだ、弟の裸を見れない。見えるのは胸板と首のラインだ。マリオの細い首とは違う、太い男の首だ。ある程度流してシャンプーをする。髪、洗いっこ、する? と聞いたら、うん、と言った。なんなんだ、今日のあんたは。余程言いにくいことがあるんだな、いつゆうんだろう、髪の毛をごしごし洗う。私の胸が弟の肩に当たる。当たってんなぁと思うけど、気にしたらいけない。弟も私の髪の毛をごしごし洗う。下を向いていたら弟の性器が見える。すぐに目を閉じる。目に焼き付いている。これで何人の身体の中にはいったんだろう、女の人も含めて、何人と。聞いてるだけでも私より、多い。
髪の毛を流してもらって、私たちには黒い汁も茶色い汁も流れなくなっていた。
湯船につかる。彼氏のように、マリオのように後ろに来られると、変な感じなので向かい合って入る。大きな浴槽ではないので窮屈だ。これに意味はないが、弟にはこれが、いうチャンスなんだろうと思って我慢してはいる。
沈黙。水音と呼吸だけが聴こえる。
口がもごもごしだした、早く、言え。
「こ、この間、俺マリオに会ってた」
この間って、私とマリオが会う日やって、何も無くなった日?
「うん、そう」
ため息。
「やめてほしかってん、マリオとつきあうのん」
黙って聞く。
「で、マリオにあって、おねぇのこと、どうするんか話しようとして、会っててんけど」
うん。
「マリオ、と、やってん、俺。マリオ、おねぇのことも、俺のことも大事やゆうて、なんか将来の話しか、おねぇの結婚とか話してたら、そうなって、お酒、飲んでたのもあったし、マリオの雰囲気もおかしかった。あぁ、それは言い訳やな、ごめん。でも、やったのは、本当」
うん、とは言えない。けど、マリオなら、ありえるし、出来そうだし、弟も、できるんじゃないかなぁと、頭のどこかで思っていたことがあったので、大丈夫、まだ何となく、大丈夫、聞き入れる。良かった! 自分が想像力が豊かで。しょうもないこと想像してて良かった。
「聞いてる? 聴こえてる? おねぇ、おねぇちゃん!」
うん、聞いてるよ、と返す。が、涙が出てきそうなので弟に後ろに回ってもらう。彼氏の立ち位置。浴槽の座り位置。弟の性器が私の腰にあたる。大きいなぁと思う。マリオとはえらい違いや、と。
「……マリオ、おねぇのこと大事やねんて。俺はマリオはおねぇの相手とはおもわれへん」
後ろから抱き締められる。
「ほら、肌の張りが違う。前はこんなんじゃなかった。年齢のこともあるかもしらんけど、おねぇ、マリオからロヒもらってからや、こんなに艶と張りがなくなってしまったんも。顔かって、ロヒ飲む前はいきいきしてるけど、飲んで起きたあとのおねぇの顔、俺、見てられへん。犬みたいやで。しんどそうなブルドックみたいになってるんやで。そんな顔じゃ、無かったのに、そんな顔みたくない、そんなんにしたんは、マリオや。俺は、マリオが許されへん」
続く。抱きしめる力が強い。痛いから放してほしいっていうてんのに、やめてくれない。
「マリオにいうた。おねぇと離れてって。俺ら姉弟に近づかんといてほしいって」
ふうん。
「あいつは、なんでなん、アイス、って。俺からまた離れるのん、全部とっていくのんっていうねん。泣きだしてん。俺、鬱陶しくなって、腹がたって帰ろうとしたら、いかんとって、っていうて、しがみついてきてん」
髪の毛を撫でてくる。
「また独りになるっていうて、嫌やていうて、死にたい、っていうて、混乱しだして、本とか投げつけたり、ヒス起こしだして。こっちも混乱してきて、落ち着かせようって思って、お酒でも飲もうってなって、沢山飲んで、話しして、話ししてたら眠たくなってきて、気が付いたら、マリオとしてた」
二の腕を捕まれる。
「やりながら思っててんけど、おねぇにこのこというたら、マリオの事嫌になるんちゃうかなぁっておもった。……俺の事も嫌になるんやと思う」
黙っている。私も、弟も黙っている。私は弟の言っていることを頭に聞き入れることだけで、相槌もうてなかった。弟は、答えを待っている。それは分かるけど、なんて答えたらいいんだろう。とにかく、この湯船から出たい。
「ちょっと、待ってって」
湯船から出て私はリビングに行き、テレビの下に隠してあるロヒプノールの瓶を持って、また弟がいる湯船につかった。
「これ、あと八錠で、終わり。半分に割ったりしてるやつあるけど、これをここに入れる」
私は湯船に残りのロヒプノールを入れた。半分に割ったやつは直ぐに無くなったが、一錠丸々残ってるのはなかなかとけないので指でこすって溶かした。よく混ぜる。
「私と、あんたは、今からこのお湯を一口飲む。どれくらいの濃さかわからんし、効き目もわからん。一口だけでいい。あんた、ロヒ、飲んだ事ないんやろう。私はこれで最後にする。ロヒ、やめる」
両手で湯船を掬って、ほら、と弟と向き合う。
「飲んで」
弟は一口、飲んだ。私は手のひらに残ったもの全部を飲み干した。
「出よう」
弟の手を引っ張ってお風呂から出て、身体を拭きあい、髪の毛を乾かしあい、服も着せあって、リビングに行った。
効き目は無かった。全然いつものロヒプノールの飲んだ感じのフワフワ感がなかった。ソファで弟の肩にもたれかかる。
「ここで寝よう」
毛布を二枚持ってきてくれた。
私は弟の肩に頭を預ける。弟はその私の頭に自分の頭を乗せる。手はつないでいる。
やっぱり、居ごこちがいい。目をつむりながら弟が、弟じゃなかったら良かったのに、って今まで何回思ったんだろうかと思った。今、この時で何回目だろう。まだ、私たちが幼稚園児だったころ、弟とキスはしたらあかんって、わかっていたから、舌を舐めあってたこと、あったんだけど、さすがにそれは弟は覚えてないだろうなぁ。いま考えたら大変なことだよ、キスよりも、変だよ。私たち、変だよ。
弟も、私が姉じゃなかったら、って思ってくれているかな。頭の上で弟が寝息を立て始めた。私は弟を膝枕してあげて、トントンと肩をゆっくり叩いた。弟の顔には涙の跡があった。
錯覚をみたい。私と弟が兄弟じゃない錯覚。私がマリオが恋人じゃない錯覚。弟とマリオが友達じゃない錯覚。私だけじゃなく、弟もマリオも想像したことあるのかな。あぁ、でも錯覚は、いつか現実に戻るんだっけな、だから錯覚というんだ。じゃぁ、ロヒを飲んでいるときだけが錯覚なのか。
眠りの中と起きている中を交互にくりかえしながら、弟の体温を感じて。
そんな夜を過ごした。
朝が来て、私たち二人はびくっとどちらかがなって、起きた。
「おはよう」
「おはよう」
ご飯、どうする? 食べる?
「その前に、言わないといけないと思うんやけど、私、ロヒプノール、飲むのやめる」
それ、昨日聞いた
「で、マリオのことは、今日、マリオ仕事やから、終わってからきてもらう。月曜日休みやし」
離れへんの?
「ん。離れるよ、でもマリオ、きっと今、寂しいんやとおもう。そう思うから、ここにきたらいい」
それがあかんと思うんやけど。離れるっていうて離れたためしないやんか。いつもむこうに嫌われるまでおるやん、自分が嫌でも、相手にいわすまで、おるくせに。
「ちょっとずつ、離れていく。最初から突き放したりしたら、また、マリオ、離婚したときみたいにおかしくなると思わん?」
そうやけど……そこまでする必要あるかな。
「あと、あんたのこと嫌いになるわけないやん。マリオの事も嫌いちゃう」
そんなこと聞いても?
「ん。そう。あんたは、私の弟。マリオはあんたの友達。それだけにしよう。もう、これ以上の関係にはならない、あんたも、私も、マリオも」
沈黙になる。弟はうん、とも何も言わない。
「じゃぁ、マリオに夜、来るようにメールしとく。私らは月曜日仕事やからはよ、寝よう」
肩を叩く。
「な、終わり」
肩を叩かれて弟はその手を払いのけた。
「今起きたばかりやのに、もう寝ること考えてるやん」
といってトイレに行った。
立ち上がったときに顔が近づく。良かった、弟の髪の毛はちゃんと黒く染まっていた。
「なぁ、私の髪の毛、ちゃんと染まってるかみて」
私は弟の後を付いていく。振り返り、弟は私の耳たぶをもんできた。
「マリオが、おねぇのここが、一番、ゆうてた」
それだけ言ってトイレに入ってカギを閉めた。私もトイレに近づく。中で水を流す音が聞こえる。そういうとこがあんたやな。
マリオの時とは違う感覚をわたしの耳たぶが感じた。どちらも気持ちいいと思ったが、弟は眠たくなりそうな落ち着く気持ちよさで、マリオは心が跳びそうな気持ちよさだ。
たまに弟が耳たぶをもんでくれたら、たまにマリオが耳たぶをもんでくれたら、私の薬はここにあるじゃないか、と思った。ということはマリオとも、弟とも離れないと、私は、薬づけでおかしくなっていっちゃうのかな。トイレから離れてベランダの多肉に久々に水をあげよう。ひとつしかない多肉植物に水をあげながら、こいつが枯れたら離れてみようと思った。鉢と受け皿から水が溢れて素足にあたった。
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