たゆたい考   奥野 忠昭


 俺は、車を駐車場に預けると、次の取り立て先へ行くために道を歩きだした。普通なら、取り立て方を考えながら歩かなければならないところだが、先ほど訪れた安アパートの女の顔がやたら浮かんで来てしかたがなかった。
 女は返済期限をすでに四ヶ月も過ぎていた。電話でいくら催促してもだめだったので、家にまで押しかけることにした。最近、架電(電話で催促すること)での俺の成績が芳しくない。以前は、みんなから井口さんの架電は凄い、われわれの迫力とはまったく違うとよく言われたものだ。
 俺が架電した次の日、返済金が振り込まれると、無性にうれしかった。ガッツポーズさえ出た。自分の力が確認されたような気がしたのだ。だが、最近、そんな喜びが起こらなくなった。先輩にそのことを言うと、「仕事に慣れてきただけだ。お前も一人前になってきたってことだな」と一笑された。だが、俺の言葉には以前ほどの迫力がなくなったことは確かだ。このままだとやばい、そんな気がする。
 俺は、女が家にいることを電気メーターで確かめると、インターホンを鳴らして彼女に扉を開けるよう要求した。女は案外あっさりと扉を開いて、寝不足のようなむくんだ顔を突きだしてきた。しかもパジャマ姿のままでだ。まだ、三十歳をわずかに過ぎた年齢だと思うのだが、すでにやつれた顔をしていた。髪もまだ寝起きのままのようだ。俺は女に訪ねてきた訳を話すと、女は「だから今月の十五日まで待ってよ。十六日には必ず払うから」と言った。
「先月、電話したときは、月末には必ず払いますって、だのに、一週間待っても払い込まれてはいません。これはどういうことなんですか」と俺は精いっぱいの力を込めて言う。しかし、女はまったく動じる気配はない。「今度は絶対間違いないって」と大きな眼で俺を睨み付ける。「せっかく家までおじゃましているんですから、利子の一部でもご返還願えませんか」と俺は言葉は丁寧だができるだけドスのきくように言う。だが、何の効果もない。
 俺はどこかで後ろめたさを感じているような気がする。まるで、この女に金をむしんに来ているような。俺はそれに抗うようにして女を睨み付ける。
「だから、今度は絶対払うって言ってんだから」と女は怒りの声を出した。
「絶対って、何か、証拠でも?」
「だからさ、働き口を変えたんよ」
「変えたって?」
「たくさん金が稼げるところへ」
「ええ?」
「わかってんでしょう。そういうところって」
「いいえ? あのう?」
「わかってるじゃん。女がたくさんお金を稼げるところって」
「ええ、まあ」
「そこの店、お給料、半月払いなんだから」
 とうとう、この女もそんなところへ行くことになったのか、と俺は思う。だが、どこへ勤めようと、俺の知ったことか。そんなことを考えていたら、俺たちの仕事はやっていけない。だが、彼女の話を聞いて、これ以上、この女を追いつめる気力が急激に萎んだ。
「わかりました。じゃあ、絶対、間違いないんですね」
「間違いないって。新人にしちゃ、かなりやるなって、店長に褒められてるんだから」
 俺は、利子の一部、例え、千円でももらって帰るつもりだったのに、そんなことはもうどうでもよくなった。店の名前、所在地、源氏名、電話番号などを聞き出し、できれば、その場で店に電話して、本当にそこに勤めているのかどうかを確かめなければならないところだが、そんなことをする気力も起こらない。この女と話し続けるのが嫌になった。「本当に、絶対、約束を守ってくださいよ」と言って女との交渉は打ち切った。
 俺は、広い通りから、路地と言うには少し幅のある道へと曲がった。だが、まだ先程の憎々しげな女の顔がちらつく。これではまるで俺が悪いことをしているようではないか。まったく気分が悪い。こんな感情になっていることを同僚にでもしれたらお笑い種だ。俺は二年前に、渉外に行った小学校の副校長が、次の日、自殺したのを知ったときでさえびくともしなかった。その様子を知って、支店長は、「お前もようやく一人前の消費者金融の社員になれたなあ」と言って褒めてくれた。彼が死んだ結果、リボルビング団信からの保険が入り、その月の支店の成績がよくなった。みんなから感謝され、俺は得意げだった。そんな俺がどうしてあんな小娘に振り回されるのだ。
 そんなことも考えながら歩いていると小さな公園に突き当たった。
 その入り口あたりを、横目で見ると、端っこの方には、幾本かの背の高い木が植わっていたが、木と木の間には、手入れが行き届いていないのか、雑草が生い茂っていて、茎がやたらと長いタンポポの花が見えた。茎の長さに比べて花がかなり小さい。可憐な花と言いたいのだが、黄色の色合いが少しきつすぎるように思う。だが、それが辺りの雑草と闘っているようにも思え、健気な姿にも映る。ふっと、少年時代の田舎のあぜ道に咲いていたタンポポの花を思いだす。あのタンポポは地を這うように咲いていた。だが、今のタンポポはひょろひょろっとしてたよりなげだ。タンポポではないのかも知れない。だが、それを見るために一瞬立ち止まった。以前は道端の花など見向きもしなかったのに、最近、やたら花に目がとまる。それに夢にまでお花畑が現れたりする。一面、れんげ畑が広がっていて、わあきれいと、大声を上げて、その声に驚いて目を覚ましたこともある。まるで、十七、八の女の子みたいだ。しばらくじっとタンポポを眺めていると、女の顔が消え、落ち着いた気分になった。
 と、突然スーツの内ポケットで着信音が鳴り、和らいでいた気分を一気に吹き飛ばした。
 慌てて携帯を取りだし、ボタンを押して、もしもし、井口ですが、と受信の合図を送ると、副支店長の大きな声が聞こえてきた。
「おい、井口か? えらいことだ。ウチの支店はビリから三番目だよ」
「ええっ、そうですか。みんな頑張っているんですが」
「第一、稼ぎ頭の君が、ここのところ、スランプのようだから、何とか、以前のような成績を上げてくれないかな」
「支店の成績が下がったのは私のせいですか」
「いや、そこまでは言わんが、キャッシングの方はまあまあだが、どうも回収の方がね」
 俺は何となく花の方を向いていたのを、前方に目を向けた。だが、意識は内の方へと向かっていく。感情が高まり、腹立たしさが高まる。これではいけない、と、感情を抑えながら、できるだけ声を和らげた。確かに、俺のせいでもある。俺が以前のような成績を上げておれば、もう少し上のランクに行けたかも知れない。
 俺たちの会社は世間で俗に言う「サラ金」だが、これでは、後二ヶ月後にひかえた夏のボーナスにもかなり影響が出てきそうだ。そう考えると、若い何人かの同僚の顔がちらついた。ほとんどのヤツは家のローンや車のローンを抱えている。ボーナスが少なければたちまち彼らは困るだろう。俺たちの会社は固定給は少ないが、それをボーナスで補っている。ボーナスの率が他の業界に比べてダントツに高いのだ。しかも、成績を各支店ごとに競わせて、その成績によって支払われる額に大きな差をつけてくる。それに、以前は成果発表が月末の一回だけだったのが、数ヶ月前からは、月の半ばに中間発表なるものが行われるようになった。ここのところ、貸金業法が改正され、規制が厳しくなり、貸出額も返還率もかんばしくなくなってきた。それで、各支店ごとにいっそうの競争意識を高めるためにそのような方法がとられるようになった。噂では、いくつかの会社はつぶれるだろうと言われている。そうなれば「サラ金」が「サラ金」に金を借りなければいけないことになる、とみんな言い合っている。
「支店長は、何としてでも、真ん中より上に行け、って機嫌の悪いこと、悪いこと」
「そうですか、ここ、何ヶ月は落ち込んでいますからね」
 俺は副支店長に言葉を合わせながら、八年前も違った職場で同じような言葉を聞かされていたように思う。八年前は医療機器メーカーの販売部門で営業をやっていたのだが、販売が伸びず、「営業は何をやっている。しっかり売らんか」といつもハッパをかけられていた。それでも、俺は、この機器は医療に必ず役立つ、俺は社会に役立つことをやっているのだ、と言い聞かせて、必死で頑張ったのだが、ある日、突然、会社が倒産し、俺はわずかばかりの退職金をもらって解雇された。
 あの職を失った数ヶ月の苦痛がふと思い浮かんできた。ハローワークに通う駅で、商社に勤めているという同じゼミ出身の友人に会った。「おい、今、何しているの」と聞かれたが、まさか、失業中とも言えず、医療機器を大きな病院に売り込みに行っていると言うと、「君はいつも社会に役立つ仕事をしたいって言っていたからね、理想通りだ。それに、君はいいよ、日本で仕事ができるんだから、俺は、来月から海外赴任で、カナダに行くんだ」とさも得意げに言った。「彼女が外国へ行くのを喜んでくれたのがせめてもの救いだよ。いっしょに行きたいって言うから」
「へえ、結婚したんだ」
「君も知っていると思うけど、二年下におっただろう、吉岡恵美子」
「ああ、ミスキャンパスに選ばれた人」
「そう、あいつといっしょに」
 彼は再びにやりとした。ゼミでは吉岡恵美子はみんなの憧れの的だった。
「そりゃ、おめでとう。頑張ってよ」
「君もな、お互いに、またいつか会おうぜ」
 あれからすでに八年が過ぎた。あの頃は、他の業種はすでに不景気に喘いでいたのだが、「サラ金」は景気がよかったので、中途採用でも雇ってくれた。就職が決まったときは、ほっとした。もう失業は嫌だ。俺には頼るべきものは何もないことがわかった。母親は俺が最初の就職した翌年に死んだ。兄弟もいないし妻もいない、もちろん財産もない。あのときの不安といったらなかった。就職できたときはうれしかった。何としてでもここにしがみついてやるぞと思ったものだ。会社こそ俺を支えてくれる唯一のものだ。
 額から少し汗が滲み出てきた。副支店長の言葉を聞いたからか、それとも、昔のことを思いだしたからか。
「とにかく、ウチは回収率が悪いんだ、人情屋さんが多いのかね、何とかしろよ、おい、聞いているのか」
 副支店長の言葉が続く。
「はい、聞いています」
「ウチの渉外係では君が一番の年配なんだから、君が率を上げてくれないと下に示しがつかないんだ。頼むよ。回収率百パーに上げてくれって。支店長が君にそう言えって」
 取り立てに行くことを我々の世界では渉外に行くと言っている。
「百パーですか」
 それは無理ですよ、と言いかけて止めた。無理だなんて考えることがそもそも弱気になっている証拠だ。
「とにかく頑張ってくれ。少なくとも、今日行く渉外は、一〇〇パーにしろよ。いいな」
「はい、頑張ります」
「よし」
 ようやく副支店長の電話は切れた。だが、俺は、しばらくの間、携帯を耳に当てたまま歩いた。
 道と言っても、片側が公園に沿っているのだが、片側は終戦直後に建てられたような古ぼけた家が多い。歩いている人も少ない。たまに会えば、みんな老人だった。時々、軽自動車の小さいのが通るが少し大きな車だとこの広さでは到底無理だ。
 俺は歩きながら、支店長の口癖を思い出す。
「いいか、最初に貸し出す金は、あれは金ではない、ただの商品だ。代金後払いで売る商品なんだよ。最高でも、その価格は仕入れ値の二十%を上乗せするだけだ。銀行への利子を差し引くと、実質はさらに低くなる。しかも一年もかかってだよ。我々は暴利を貪っているように世間では言うが、商売で、小売値が、卸値の十数%の上乗せなんて、まったく薄利に近い。五十%や、すごいのになると一〇〇%だってある。それに、代金後払いで、代金が振り込まれなければ、それを請求し、取り立てに行くのは当たり前ではないか。払わないヤツが悪いんだ。君ら渉外係はいわば正義の味方だ。犯人を追い詰める警察官のようなものだ。サラ金があるので助かったやつは大勢いる。口説いていた女の子が、ようやく海外旅行にOKを出したのに、金がないのでちょっと待ってくれ、なんて言わないですむのだからな。助かったときのありがたさを忘れて、金を返さないやつなんか最低だ。そんなやつを絶対許しちゃいけない」
 まったくその通りだ、俺たちが仕事をやらなければ会社はあっという間につぶれるだろう。
 俺は携帯をポケットにしまうと、再び、公園の縁を眺めた。公園の縁には、楠やヒマラヤ杉が植えられているのだが、ところどころに根元から切られて、根の部分だけになった切り株があった。切り株の真ん中は空洞になっていて、土などが入っている。だが、切り株の周りからは緑色の初々しい葉っぱをつけた枝が伸びている。切り株はけっして枯れてはいないようだ。このままにしていたら、それらは新しい木となって育っていく。すごいなと俺は感心する。
 上方に目を移すと、緑の葉っぱから光が漏れてくる。風が吹いてきて、葉が揺れると、まるで緑色の水がゆらめいているようにも見える。
 俺は公園にちょっと寄ってみたい気持がしたのだが、そうもしていられない、まだ、三軒も渉外に行かねばならない。
 俺は、公園の横の道路をさらに進んだ。公園の後ろは小高い山に接しているのだが、道路はそちらには曲がらず公園からそれ、今までどおりの広さの道とさらに狭い道とに別れている。狭い道の方へと入った。俺はこの道をすでに知っている。前回の取り立てのとき、一度通った道だ。
 そのときのことを思い出す。取り立てに行く男は、五十歳を少し過ぎたぐらいだ。髪の毛にはかなり白髪がある。日に焼けた頬は少し痩せてはいるが柔和な顔つきをしている。俺が少年時代過ごした山村でよく見かけた顔だ。前回行ったときは、「今日はこれだけのお金しかないので」と言って、男はわずかばかりの金を俺に手渡した。「これじゃ困りますね」と言ったが、「申し訳ない」と言って、何度もお辞儀をした。何でも、数ヶ月前に男の会社が倒産したという。それまでにも、給料が遅配していて、預貯金も使い果たし、給料をもらったときに返せばいいわとサラ金から少し金を借りていたのだが、そんなとき、車で事故を起こし、任意の保険に入っていなかったので、手術費、治療費、入院費と多額の費用がかかり、再びかなりの額の金を借りたらしい。会社は必ず盛り返す、と信じていたのだが、彼の入院中に、大口の取引先が倒産して、あおりを食らい、彼の会社も倒産した。今は、失業保険で食いつないでいるようだが、それも、近々打ち切られるようだ。
 俺は倒産と聞くと弱い。それに、彼の済まなさそうな表情を見ていると、それ以上の言葉は出なかった。それに、彼には何だか独特の雰囲気があり、不思議なことだが、彼の傍にいると何だか心が安らぐ。彼とは金のことではなく世間話でも喋っていたいような気がした。彼もまた「ちょっとお茶でも飲んでいきませんかね」と俺を誘ったが、彼と喋っていると、また返済金のことを喋ってしまいそうなので、それに、まだ三軒もの渉外先が残っていたので、「いや、今日はそんなことはしておれませんから」と言って断った。だが、
それが未だに何だか心残りになっている。
 俺は、彼の家に近づくにつれて、ますます、歩く速度が落ちた。もう少しスピードを上げなければと思うのだが歩みがのろくなる。足がだるいというわけではない。急に意欲が落ちるのだ。以前は、誰の家に向かうときでもそんなことはなかった。取り立て額のナンバー・ワンを数ヶ月つづけたこともある。ボーナス額も、支店一番になったこともある。誰も取り立てに行けなかった暴力団の組長の家にも乗り込んで、「お前はたいしたヤツだ」と彼を驚かせ、全額払わせたこともあった。絶えず、支店の取り立て額一番を目ざして、頑張っていた。だが、最近、その意欲が急に落ちるときがある。そんなときは、俺は、山奥の村での少年時代のことを思い出すことにしている。すると、こんなことではいけないと、不思議に力が沸いてくる。
 俺が六歳の時に父親は癌で死んだ。それで、母親と二人で、彼女の郷里の山村へ引きこもり、母親が育ったという家で、自給自足に近い生活をした。母親は自律神経が変調をきたし、病気がちだったが、体調のいいとき、町の縫製会社から回されてくるわずかばかりの縫製の仕事をして、現金収入を得ていた。生活保護をもらってはどうかという人もいたが、母親は、それは絶対嫌だといって拒んだ。親戚もそんなことは絶対させられないと言って反対した。ただ、米がなくなると、「米がなくなったので何とかしておくれ」と言って親戚へもらいに行った。それが俺の役目だった。「この米を作るのにどれだけ苦労したかわかってんのか、感謝しないで食べたら罰が当たるぞ」と伯母は米を入れながら言った。また、「米を買う金もようもうけんと、おまえの母親はかいしょなしや、もっと働けって言っておけ」とも言った。母親の病気がみんなには理解されず、ただぶらぶら遊んでいると言って怒った。俺は何度も「ありがとうございます。済みません」と頭を下げた。
 うかうかしていると、あんな状態になるぞ、と、俺は、昔を思いだすごとに、そう思う。すると突然、渉外への意欲が涌いてくる。何としてでも取り立てを成功させてやるぞと思えてくる。
 しかし、最近はそれを思い出しても、意欲が湧かなくなった。むしろ、かえって意欲が減退する。かなり疲れてきたのだろうか。でも今日は違う、今日の相手はかなり大口の滞納者だから、ここへ来ただけのものはもらって帰らないと、俺のプライドが許さない。
 俺は腹に力を入れ直して、狭い道から、さらに細い路地に入った。その一番奥にある一軒家だ。周りの家よりはるかに古い。
 家に到着すると、玄関が開けられていて、中から、荒々しい声が聞こえてきた。
「今日という今日は何としてでも払ってもらわんと、俺は帰らんからな。なめたらあかんぞ」
 大声は開けられた玄関から路地を通って、辺り一面に響き渡る。すでに別の取り立て屋が来ているようだ。それも、かなりたちの悪い筋のようだ。闇金かもしれない。
「第一、お前の根性が気に食わん。今度渡す、今度渡す、と何遍俺に空足踏ませる気や」
 近所に取り立て屋が来ていることをみんなに知らせるための嫌がらせの手法を使っている。俺もまた、よく使う手だ。
 玄関から斜めに取り立て屋の男の顔を見た。まだ若そうなのに老醜が漂っている。それほど大きくはないが、眼が開かれ、眼光が刃のように男の頬を刺している。殺気立っている取り立て屋の顔は、人の顔とは思えない。殺人者がこんな顔付きをするのではないか、と思わせるほどだ。ひょっとしたら、俺もあんな顔付きをしているかもしれない。
「払う方法はいくらでもあるやろう。あんたにはれっきとした娘がいる。その子にでも借りてきたらどうや」
「子どもには関係がない」
「だったら、自分が払え。自分がよう払わんと、えらそうな口をきくな」
「借金が払えないのは俺のせいじゃない。会社が倒産したからや。俺は会社に未払いの給料がいっぱい残っている」
「だったら会社から取ってこい」
「俺の会社も悪くない。別の会社が倒産したからや。別の会社が俺とこの会社に金を払わなくていいのなら、俺もあんたに金を払わなくていいはずや」
「何、お前、俺をなめとんのか。この野郎」
 取り立て屋は男の襟首を掴み、締め上げようとする。おかしなことに俺の首が熱くなる。首が痛い。おい何をする。やめておけ。
 俺は、咄嗟に、取り立て屋の腕を持ち、それをねじ上げる。
「痛い」と 取り立て屋が叫んで俺の方を見る。
「そんなやり方は許されてませんよ」
 取り立て屋は驚いたように俺を見る。俺は彼の腕をはなさない。こんなとき、高校時代にちょっと齧った柔道が役立った。
「わかった、わかった。痛いやないかい。はなせ」
 俺は、汚いものを振り払うようにしてはなす。
「痛いな。ほんまに。誰じゃ。お前は」
「同業者です」
 取り立て屋は眼を縮めて、まじまじと俺を見る。
「ええ。どこの会社じゃ」
 俺は、会社名を言う。
「ふん。お前も、取り立て屋か」
「はい」
「大きな会社はいいな。そんな悠長な取り立てをやっていても、やっていけるんやから。俺らところみたいに小さいとこは、そうはいかんのや」
「ちょっと待ってくれたら、絶対、払うから」
 男が言葉を挟んできた。
「いつまでや。払わん気やったら、こっちにもまだ打つ手はいくらでもあるんやからな。娘の旦那の会社もわかっている。そこに押しかけるという手もあるんやから」
「それはいけません。違法ですよ。娘さんに言っておいてください。そんなことがあったらすぐに警察に連絡するようにと」と、俺は言う。
「警察を怖がっていたら、俺たちの仕事はやっていけるか」取り立て屋は憎々しげに言う。
「一ヶ月、待ってくれ。失業保険もまだ出てるから」
「今月分はどうした?」と取り立て屋は尋ねる。
「家賃を払ってしまって。来月はもう払わなくてすむから」
「何でや?」
「……」
「わかった。じゃ、こいつとこより、ウチに、先に金を払ってくれるな、そう約束してくれるな」
 俺は腹が立ってくる。
「ああ、いいですよ。こいつに先払ってやってください」
 取り立て屋は、にやりとする。いいとこみせやがって、とあざ笑う顔付きだ。お前はもうすぐ首だな、とでも思ったかもしれない。副支店長が見ていたら、即座にそうなるだろう。
「約束を破るな。もし、そんなことになったら、娘さんまで迷惑がかかることになるんやから」
 取り立て屋はそう言うと、玄関から出て、唾を路上に吐くと、身体を左右に振りながら、去っていった。
「ごめん。お分かりのように、そういうことなんで」
 男は俺に顎をしゃくりながら、ごく普通の調子で言った。
「とにかく、理由は何であれ、貸した金はきっちり返してもらわないと」
 俺は、どう言えばいいのか戸惑いながらそう言った。
「わかっているよ。まあ、現実は思った通りにいかんもんで。せっかく遠いところまで来てもらって、本当に申し訳ないと思っているんだが、事情が事情なんで。どうです。一杯、お茶でも」
 男は、取り立て屋が去ったのでほっとしたような感じだった。俺のことはもう眼中にないのだろうか。だが、不思議と、俺は腹が立たなかった。もう、どうでもいいや、という感じだった。それに、「払えないのは自分のせいじゃない。会社のせいでもない。倒産した会社が払わなくていいのなら、俺だって払わなくったっていい」という彼の論理に太刀打ちできる論理を俺はまだ見つけてはいない。
 男は、家に入り、しばらくすると、トレイの上に、急須と茶飲み茶碗を載せて玄関に持ってきた。トレイを玄関先に置くと、玄関先で胡座をかいた。
「ああ、借金取りを追い返すのも一苦労だな」と男が言うと、俺にお茶の入った湯飲みを手渡した。
 俺は立ったまま、それを受け取ると、何も言わないでお茶を飲んだ。熱い湯が心地よく喉を下った。それにつれ、両肩が解れていくような気分にもなった。
「ああ、うまい」と思わず言ってしまった。このようなお茶を飲むのは久し振りだ。子どものころ、田舎の家の縁側に座り、向かい側の低い山にかかっている靄を眺めながら母親といっしょにお茶を飲んだことを思いだした。
「まあ、ここに座れや」と男が言う。俺は素直に彼に従う。俺は、先月も、ここを訪れ、利子の一部を返してもらった。あのとき、俺は、次回はぜひATMへ振込んでくださいとは言わないで、「来月も近くに来るので、もらいに寄りますよ」と言ってしまった。あれはこの男にもう一度会いたかったからかもしれない。男だって、「いや、わざわざ来てもらわなくったって、会社に払い込んでおくよ」とは言わなかった。
「まあ、もう一杯どうや」
 男は急須から茶碗にお茶を注いでくれた。俺はそれを飲んだ。最近、熱いお茶を飲む機会がなかったことに気づいた。いつも、コーヒーか紅茶かウーロン茶だ。
「失業保険が切れたらどうしますか。ハローワークにでも行って早く仕事を探さないと」
 実際、俺はそれを心配していたのだ。そういつまでも失業保険が入るわけではない。彼の借金が全額払い終わるまで、到底持たない。
「いや、しばらくは、働くのは止めた」と男は言った。
「働くのを止めたって?」
「一生懸命働いたって、このざまだからな」
「でも、……」
「でも、それならウチの借金はどうする、と言いたいんだろう?」
 男は笑い出した。その声はいやに澄んでいた。
 働く気配はまったく感じられない。いったいどうするつもりか。
「心配するなって、あんたところの借金は全額ちゃんと払ってやるから」
 男は再び笑う。
「ウチの金はともかく。暮らしは? 借金を返さないと、もう新しい借金はできませんよ」
「わかっている。そう焦るなって、あんた、そうとう疲れているな。金を返してもらうのもたいへんだろうけれど、あんまりむりするな。もう少し、力抜いたほうがいいで。わしはあんたみたいな顔の男を何人も見てきた。脅かすようやないけど、あんた、気がおかしくなるような顔をしてるで」
「そんな、あほな。俺は元気ですよ」
 この男にそんなことを言われたくなかった。この男こそ、気がおかしくなる状況ではないか。みんなから、借金を返せ、借金を返せと責め立てられて、気がへんになっても仕方がない状況である。俺は、借金などしていないし、誰からも責め立てられてはいない。
 だが、そう思った途端、いや、違うなと思った。俺だって、いつも誰かから責め立てられている。
「みんな自分は元気や、問題ないと思っている。無理してるのや。そう言っていて急に気が変になったやつをわしは何人も見てきたからな」
 男は俺をじっと見た。悲しそうな眼をしていたが、一方で、この男はいやに落ち着いているなあ、このようなせっぱ詰まった状態にもかかわらず、ゆったりとしている、と思った。
「今、忙しいか?」と男は尋ねた。
「いいえ。まだ、行くところは残っていますが、必ずしも今日でなくても」と答えた。
 男の前で、忙しい、とは言えなかった。
「まあ、ちょっとぐらい、油売っててもいいやろう」
「ええ、かまいません」と俺は答える。だが、その時、おい、何をしている、早く行かんか。できるだけ多くのお客さんのところを回れ。そうでないと、回収率があがらんぞ、という副支店長の声が耳元で聞こえる。
「そんなら、ちょっと、あんたを連れていきたいところがあるんやが」と男は言った。
「ああ、いいですよ。どこへでもついていきますよ」と俺は答えた。
 遅れても予定の家を訪問しさえすればいい。遅れていく方が、在宅率も大きいし、それに相手も、俺に早く来てほしいと思っているヤツなんか誰もいない。居留守を使われるのがおちだ。それをどうやって防ぐかが、俺たちの腕の見せ所だ。
 いつ行こうが、仕事さえちゃんとやっていればいいんでしょう、と心のなかで副支店長に答えた。
 男は玄関先で運動靴を履くと、外に出て歩き出した。玄関の扉は開けられたままだった。
「玄関が?」と俺はあわてて言った。
「盗るものなんか何もないわ」と男はおもしろそうに笑った。
 俺は、男の後から、今先ほど来た道を、今度は逆方向に歩いた。このままだと公園に辿り着く。だが、公園のすぐ近くで道を逸れた。公園の裏側の方へ行くようだ。公園とその後ろにある小山に沿ってあぜ道のような細い道があり、男はそこを歩く。歩きの中にリズムがあって何だか楽しげである。
 道の脇には少し深い溝があり、さらに小山を囲って金網が張り巡らせていて、その向こうに雑木が繁っている。
 男が立ち止まった。金網には穴があいていた。男はその穴へ頭を突っ込み、身体をするりと向こう側へ抜けさせた。彼が足をおろしたところから林を縫って細い道のようなものが上につづいている。男は少し上に歩き、俺の方を見て手招きをする。身体には木漏れ日が当たり、身体が輝いて見える。俺も彼と同じようにした。
 中に入ると、空気がこれほど変わるものかと思わせるほどすがすがしい。木々からの酸素が充満している。ああ、これは昔、俺が常に吸っていた空気だ。子どもの頃の俺の仕事は、山へ行って、枯れ枝を拾い、松林に行って、松の落ち葉をかき集めることだった。村の多くではすでにプロパンガスを使っていたが、母親はそんな必要はないと言って必要な燃料はすべて周りから調達した。あの森の中に入ったときに吸い込んだ空気だ。まるで清水を飲んでいるようだ。今、うまい水が売られているが、うまい空気は売られてはいない。うまい空気を吸おうとすればこんなところへ来るしかない。
 俺は何度も深呼吸をし、貪るように空気を飲んだ。すると、古い肌が自然と剥がれていくような気がした。空気と肌がじかに触れ合うような。肌もまた、空気を味わっているような。俺はあの時は何も感じなかった。こんないい空気をいつも吸っていたなんて。こんな空気の贅沢さの中にいたなんて。
 俺は、薪拾いや落ち葉拾いを嫌っていた。そんなことをしないで、本でも読んでいたい、友だちと野球をしていたいと常に思っていた。いや、俺は自分の少年時代は嫌なものだと思いこんでいた。だが、それは少し訂正しなければならない。
 男は細い道を頂上に向かって登っていく。俺はそのあとをつづく。細い枝と柔らかな葉が頬を撫でる。これも落ち葉掻きをしたときと同じだ。
 急に道の勾配が緩やかになり、雑木も少なくなった。やや狭い広場のようなところに出た。そこで男は立ち止まった。どこから調達したのか、手には杖より少し長い程度の竹棒が握られていた。棒の先が二つに裂かれていて、間に短くて細い棒が挟み込まれている。これもまた昔俺が持っていたものと同じだ。柿の実がついている枝を、その割れ目に挟み、ねじると枝が折れて、柿の実がとれる。高い木の先の柿の実をその竹の棒を器用に使ってとった。ふっと、甘い柿の実の味わいが俺の口の中でする。もぎたての柿を食べなくなってもう何十年も経つのに、味わいが舌の記憶となって蘇ってくる。しかし、今は柿の季節ではない。俺は辺りを見回す。男は、俺を見てまたにこやかな笑いを送ってきた。
「せっかく俺の家まで来てくれたのに、何のもてなしもしないで帰すわけにはいかんからな」
 男は、竹の棒を持って少し左の方の道へ入る。そこに背丈の二倍程度の木が二本あり、靴底ほどの大きさの葉っぱがついている。そのところどころに新聞紙で作られた大きな袋で覆われたものがくっついている。
「この小山には俺が植えた木がいくつもある。こいつもその一つや。ここはわしの庭みたいなもんや」
 男は竹の棒を突き出して、紙袋の下の茎のところを割れ目に挟み込み、くると捻る。茎が折れて枝から離れ、それを獲物をつり上げた魚釣りの竿のようにして紙袋をおろし、それを取る。紙袋を開けると中から数個の金色のびわが出てきた。透きとおった朱色の果皮が日の中で輝く。
「うまそう」と俺は思わず言う。今度は甘いびわの味が口いっぱいに広がる。再び、俺は少年時代に帰る。俺の家にも、竹藪と家との境のところに、崖に沿うようにして二本のびわの木があった。確かに今頃は収穫の時期だ。鳥がつつきに来るのを防ぐために実には厚い紙袋を被してあった。俺は、わら草履ぐらいの大きさの濃紺の葉っぱとその上に乗っかかるような紙袋を見たとき、なぜすぐにそれがびわの木だと気づかなかったのか。俺は、罰当たりなことをしたような気がした。誰かにお詫びをしたいような気分だ。いったい誰に? おそらく、自分の過去にだ。
 男は一塊のびわを俺に渡すと、もうひとつ紙袋を同じようにしてもぎ取り、それを自分用にした。二人は近くの雑木の根に腰を下ろして食べた。甘い果汁が時々下あごを伝って零れた。びわの実は少し温かいが、それがもぎたての味をいっそうひきたてる。このような食べ方をしたのは何年ぶりだろうか。
「これが終わったら今度は桃や。桃の木もあるねん。今度来たときには味あわしたる」と男は言った。
 それを聞いた途端、びわから桃、桃から梨や葡萄、梨や葡萄からトマトやスイカ、トマトやスイカから柿へと果実や野菜をふんだんに食べつづけた少年時代が再び蘇る。
「さあ、行こうか」
 男は、木の根っこからゆっくりと立ち上がるとさらに奥へと歩き出した。いったいどこへ行くのか。ちょっと不安な気がした。しかし、男の背は大きくて逞しく見えた。
 木々が少なく、狭いが広場になっているところへ来た。そこには植わっている木々をうまく利用してテントが張られ、一寸した小屋ができていた。丸太をうまく利用して湿気が上がらないような床も作られ、その上に、どこで調達してきたのか藁が敷かれ、さらにその上にござが置かれている。隅には寝袋まである。
 男はテントの中に入り、寝袋の上に胡座をかいた。
「さあ、入れや」
 男が言った。俺は何の躊躇もなく、まるで、自分の家に帰ってきたような感じで中に入った。
「高校時代の友人で、山岳部に入っていたやつからテントはもらった」
「ここは?」
「明日からわしの寝床や。家賃も電気代もいらん。森は市のものだが、めったに調べにはこん。ここで十分住めるわ。風呂は公園へ行って水道で拭いたらしまいや」
 男は寝袋の上へ身体を倒し、伸びをする。
「人間て、そう簡単にはくたばらんで。人間は、長い間、こんな生活をしてきたんやから」
 俺も、男のまねをしてござの上に仰向けになった。近くに木々の気配がする。微かに小鳥の声も聞こえてくる。
 昔、俺は、板の間で寝転がることが好きだった。背中からひんやりとした木の感触が伝わるからだ。
 あのとき、顔を横に向けると、土間の向こうの壁は完全に崩れていて、壁がわりに立てかけた腐った畳もずり落ちているのが見えた。家に沿って生えている竹の群生が壁がわりをしている。ときどき吹いてくる風にそれらが水面のように揺れる。葉擦れの音も聞こえてくる。
 俺は狐が来ないかと土間の裏口の方を見渡すと、土間のあちこちが膨らんでいて筍の先が見えている。
 確かに、昔の俺の家はこの小屋よりずっと大きかった。ぼろ畳も敷かれていた。しかし、雨が降ると雫がいたるところから漏った。壁もほうぼうで崩れていた。井戸もなかった。風呂もなかった。この小屋とほとんど同じ雰囲気が漂っていた。
 俺は、今まで、うかうかしているとそのような生活に戻るぞ、と絶えず恐れながら生きてきた。あんな生活は嫌だ。腹が減るし、不快で、惨めで。そんな生活から何としてでも抜け出したいと頑張ってきたように思う。親戚中を頼みまわって金を集め、もらえるだけの奨学資金をもらい、いくつものアルバイトをこなし、何としてでも大学は出なければと必死になって頑張った。就職をしても、いつ何時、首を切られ、あんな生活に逆戻りするかもしれないとびくびくしていた。
 しかし、今、ここでこの男といっしょに寝転がっていると、それは間違っていたような気がしてくる。俺はあんな生活だってやってのけられるのだ、と思うべきだ。いや、あんな生活もまた楽しかったと思うべきかもしれない。
「今度来るときはここへ来てや。もう先ほどの家にはいないから」
 男は言った。
 俺はここへ金を取り立てるために来たくなかった。ただ、ふらっとこの男に会うために来たかった。
「できるだけ、ゆっくりと返してくださいよ。また、果物をご馳走になりたいから」
「ああいいで。近くの河川敷には野菜も植えてあるし、トマトもキュウリの生のいいの食べさせてやるから」
「じゃ、お礼に、米ぐらいは持ってきます」
「そうや、それは、頼むわ。米がないのは俺の弱みや」
 男は笑った。
俺は、男がそう言ってくれたことが何だかうれしかった。
「今日はこれで帰ります」
 俺は立ち上がって、小屋を出た。男も俺を見送りに小屋の入り口まで出てきた。
「帰り、一人でいけるか?」と男は言った。
「大丈夫です。今度は一人でここへ来なくてはいけないので、道をしっかり憶えておきますわ」と言って歩き出した。
 少し下ったところで小屋を振り返ると、男はまだ俺をじっと見ていた。顔中に陽を受けて頬はびわ色になっていた。
「あんまりきばらんと、どんづまりになったら、いつでもここへ来たらいいがな」と男は言った。               了



 

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