『皆で読めば怖くない! 長編古典を読む会』という読書会を始めた。きっかけは、数年前に「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出たことだ。読み易いと評判になっていた。今度こそは、と勇んで手に入れたものの、“つん読”状態のまま、本は書棚の上で埃をかぶっている。読書会をやるしかない、と思った。十代の頃からずっと先送りしてきて、早やアラ還。もう先送りはできないのだった。同じ思いの人はきっといるはず――。と、かような経緯でスタートした読書会であった。
新訳カラマーゾフの場合は、五分冊になっているので、毎月一冊ずつ読み進めていき、五ヶ月で読了、という計画であった。期日が決まっていること、仲間がいること、が功を奏して、見事、読破!
この勢いで、次は、千年紀に湧く「源氏物語」を読もうということになった。十九世紀のロシアから千年前のニッポンへ。あまり拘りのない読書会なのである。これは瀬戸内寂聴訳の十巻本を十ヶ月かけて読んだ。
そしてその次に選んだのが「細雪」であった。こちらは「源氏物語」つながり。「細雪」は、近代版「源氏物語」と称されているのである。「細雪」が古典かどうかは異論のあるところであるが、「古典――昔、書かれた書物」(広辞苑)という広義の定義を採ることとした。つまりはアバウト。
谷崎潤一郎は、昭和十三年に「源氏物語」の現代語訳を完成させると、翌十四年から「細雪」の執筆にとりかかっている。十八年、「中央公論」新年号に連載を始めるが、同年三月号に第二回を掲載した後、軍部の圧力によって連載中止に追い込まれている。やむなく十九年に上巻を私家版として出版するが、それがまたもや警察の忌諱に触れる。その後は出版のあてがないままに書き続けられ、完結したのは戦後、昭和二十三年である。
「細雪」は、大阪の富裕な商家に育った美しい四姉妹の物語である。彼女たちそれぞれの個性を描き分けるとき、谷崎は「源氏物語」に登場する魅力的な女君たちを想ったのではないだろうか、などと想像するのは楽しかった。直前まで「源氏物語」の現代語訳、という大仕事に没頭していたのだから、あながちそれは私のひとりよがりな憶測でもないだろう。
四姉妹はおっとりした上方ことばを操り、使用人にかしずかれて暮らしている。春は嵐山の花見、夏の夜は蛍狩り、秋には紅葉狩り、と、姉妹は揃って着飾って外出する。
光源氏は広大な邸に、四季の趣向を凝らした四つの庭を拵えた。それぞれの季節にもっともふさわしい四人の女君を、その庭の主として住まわせた。四季折々の花や月や風や雲を愛で、そのうつろいに心動かす、「もののあはれ」は、源氏物語の中核をなす思想である。その物語の血脈は、「細雪」の四姉妹の中に確かに受け継がれている。
長女の鶴子と次女の幸子はそれぞれ夫を迎えている。両親はすでに他界し、鶴子のところは本家と呼ばれているが、この本家と、未婚の二人の妹(三女雪子と四女妙子)は、折り合いが悪く、彼女たちは次女の幸子の下に身を寄せている。幸子夫婦は実質的な妹たちの親代わりである。夫婦の目下の最大の気がかりは、雪子の結婚問題であった。極端に内気な雪子は婚期を逃しかけているのだ。物語はいくつかの雪子の見合話を中心に進む。
雪子と対照的に末娘妙子は奔放である。かつて、船場のぼんち、啓坊と駆け落ち事件を起こし、新聞ネタにまでなっていた。その後も啓坊との関係はずるずると切れぬまま、身分違いの男、板倉と同棲を始めてしまう。きっかけは、妙子が仕事場で水害に遭って、危機一髪のところを、板倉に助けられたことからだった。この水害は実際にあったことで、当時、阪神地方は大きな被害を蒙ったという。妙子は姉妹の中でただ一人の「働く女」というところが面白い。
板倉は後に凄惨な死に方をするのだが、谷崎の板倉を描く筆には容赦がない。崇め敬う対象がある一方で、見下される対象は虫けら同然の扱いである。谷崎が「悪魔的」とも称される所以であろう。
雪子と妙子が縁側で爪を切る、密やかなエロチシズムが漂う印象的な場面がある。それが板倉の死を描く場面と同じ巻に同居する。これが谷崎なのだ。
美貌の雪子だが、三十近い年齢のせいで、時々顔に微かな隈が現れる。これを容貌の傷として、見合いを不利にすると、周囲をやきもきさせている。未婚女性を「嫁入り前の大事な売り物」と言ってはばからぬ時代であった。小説内時間は昭和十一年秋から十六年春。
物語終盤に入り、雪子と華族出身の実業家御牧との縁談がようやくまとまる。挙式の数日前から雪子を襲った下痢は、式を挙げるために東京に向う日になっても治まらない――。
長大な物語絵巻は、ここで唐突に閉じられている。
雅な物語が、下痢、といういささか尾籠な話で唐突に閉じられたことが、私はずっと気になっていた。
谷崎はこの小説で、平安時代の王朝物語から、近代リアリズム小説へと、物語千年の歴史を俯瞰しようというのだろうか。
雪子は徹底して受身な女性として描かれている。自身、ああしたいこうしたい、というふうな主張はしない。妙子とは対照的である。しかし雪子は意思をもたない人か、というと決してそうではない。意に染まぬ人とは結婚したくない。東京に転居した長女一家のところには行きたくない。妙子の奔放な異性関係には不潔を感じている。等々、ゆるぎない意思の持ち主である。けっこう強情な人なのだ。彼女はそれらをはっきりと言葉にして語ることはしない。周囲が彼女を慮るのである。周囲は彼女のちょっとしたしぐさや表情、日々の行動から、彼女の意思のありかを探るのだ。なんとも雪子はお姫様的ではないか。
御牧との見合いの席で、彼女は場数を踏んだ落ち着きを見せ、周囲を少なからず驚かせる。ここが年貢の納め時、と彼女は覚悟したようにみえる。御牧は少なくとも不快な人物ではない。家柄財産などを考えれば、もうこの辺りで決心するしかないと彼女は思ったのかも知れない。このままずっと、気の置けない幸子一家とともに、姪の面倒などみながら、穏やかに日々を過ごしていくことなど、到底不可能なのだ。決してしぶしぶではないけれど、かといって結婚生活に明るい未来を見ていたわけではないように思える。下痢、はそういう彼女の心情を表しているのではないか。
治まらない下痢であるが、雪子は汽車に乗る。静かな諦観を抱えて――。
下痢は、谷崎がこの物語の最後に見い出した「もののあはれ」であったのだ。
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