鎮守の森   林 さぶろう



            

 ウブは雄の小鷺(コサギ)だ。だが仲間の鷺たちのように全身を覆う純白の羽毛と、すらりと伸びたしなやかな脚、さらに頭部から背中に向けて伸びる二本の冠羽と胸の飾り羽の華やかさは、彼の容姿からはほど遠い。幼鳥のころに、河原で野犬に襲われ辛うじて逃れたものの、左側の翼を深く傷つけられた。
 そんなわけで成鳥になったいまも、飛ばない時には当然に胴体にぴったりと密着するはずの翼が、少し広げかかったような状態のままだ。だから真正面から彼を見れば、左の翼が異常に盛り上がっていて、著しく身体全体のバランスを崩している。要するに、小鷺の均整のとれた美しさとは、かけ離れて不格好というほかないのだ。当然ながら、彼の姿は仲間の目には奇異に映るのか、あまり近づいてこない。それに雌の小鷺たちときたら、彼が河原に姿を現すや、乱暴モノのカラスの集団でも飛来してきたかのように、一斉に飛び去るのだった。

 その彼はいま、翼を懸命に羽ばたきながら上昇を続けた。普段に川面を移動する場合は三メートルばかりの低空飛行を常とするのだが、いまはすでに三十メートルほども高度をあげている。片方の翼が不自由な彼には、これでもほとんど限界に近い高度なのだ。
 もう、このくらいならいいだろう。上昇する翼の動きを止め、翼を全開したまま風に乗り、半円を描くように方向転換して下方を見下ろした。彼が飛び立った湾処(わんど)や、そこから少し離れた所に架かる鉄橋上を渡る電車、鉄橋と並行して架かる橋の上を行き交う車の列、それに緩やかに蛇行する川の流れが見渡せた。
 彼は降下の体勢をとると、ゆっくりと翼を閉じた。いま彼の体は重力の赴くままに、川面に向かって落下を始める。細くて長い両脚は大空を指し、その嘴(クチバシ)は川面を目指してまっすぐにのびているはずだ。
 親からも年長の仲間にも、決して教わることのなかった初めての体験に、高揚感と極度の緊張が彼の羽毛に覆われた全身を硬直させた。見る見る雑草に覆われた川岸や、太陽の反射で鈍い光を放つ川面が接近する。彼は思わず翼を広げて、落下していくのを止めたい衝動にかられた。だがすでに遅すぎる、凄まじい勢いで落下していく身体は、不用意に翼を広げようものなら、根元から折れかねないくらいの落下速度による重圧がかかっていた。
 水面まで数メートルに迫ったとき、水中に黒いかたまりとなって群れる魚影が目に映った。そのとき、まったく予期せぬことが起こった。垂直であるはずの彼の姿勢は、斜め横向きに傾きバランスを崩したまま、水しぶきとともに水面に激突したのだった。
 瞬間、彼は全身が木っ端微塵に砕けるばかりの衝撃を感じ、そのまま失神した。
 それでも、彼が気を失っていたのは、ほんのわずかな時間であったに違いない。横倒しの姿勢のままで流されている自分に気付いたときから、彼はそのまま、もう少し下流まで流されることにした。河原で小魚を漁っている仲間の鷺や、他の水鳥たちのまえでこれ以上のぶざまな格好は晒したくはない。
 すでに、この様子を目撃した他の水鳥や鷺仲間たちからは、以前にもまして罵倒され嘲笑されることだろう。様子を見にきたのか、低空を仲間の小鷺が一羽、円を描いて飛び去っていく。やれやれ、これでまた物笑いの種を提供しちまったな。深いため息とともに、彼はふたたび目を閉じた。
 鉄橋を渡る電車の音に、彼はこの先の川が大きくカーブをしている辺りで陸に上がろうと決めた。やがて、彼は流れに押されるように浅瀬に打ち上げられた。翼は水をずっしりと含んでいて、普通に立つことさえ容易ではなかった。なんとか脚を踏ん張って立ち上がり、数回弱々しく翼を震わせて水滴を払うと、一歩また一歩と危なっかしい足取りながら水辺から離れた。
 昼下がりの強い日射しに灼かれた砂利のところで、彼は立ち止まり流れに向かって翼を広げた。ところが、水面に激突した折り受けた衝撃のせいなのか、不自由な左の翼が広げられない。これでは飛ぶこともままならないうえに、一刻も早く翼を乾かさねば、河原をうろつく野犬やノラ猫に見つかれば、格好の餌食になるだけだ。
 焦る彼のところへ仲間の小鷺が飛来してくると、低空を滑空して近くにおりたった。二本の冠羽を揺らしながら、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「よう、ハンパ、いったい何を考えているんだぁ? まるで打ち落とされた鴨みたいだったぞ」
 ハンパとは、普通でない半端もの、の意味で、仲間が彼を呼ぶときの蔑称だ。
「ハンパ、とうとう気が変になったのか。夜になっても仲間たちのいる自然林には帰ってこないし、今日はまたこのざまだ。とうとう気でも狂ったのかぁ?」
 相手の小馬鹿にした問いかけに、彼は沈黙したまま、ずっと対岸に目を向けたままで微動もしない。中傷の言葉など全く意に介さないといったふうで、彼は向こう岸で釣り糸をたれる子供や、なかに日除けのパラソルをたてている大人の釣り人も混じっているのを見つめる。
「ハンパ、そんな態度だと、そのうち本当に仲間のところにも戻ってこれなくなるぞ、バカなやつだ」
 相手の小鷺はそう言い残して、眼前で大きく翼を広げたかと思うと一気に飛び立って行った。
 仲間だと? 何を言いやがる。おいらの戻るところなど、仲間内から追い出されたいま、どこにもないではないか。ウブは腹立ちを押さえて、ひたすら翼の乾くのをまった。
 そんな彼の目前に、一羽の小鰺刺(コアジサシ)が飛来してきた。小鰺刺は空中で翼を広げたまま動きを止めたが、次の瞬間いきなり水面にむかってダイビングして、小さな飛沫をあげたかと思うと急上昇した。そしてその嘴には、銀色に跳ねる小魚がしっかりと咥えられている。
 彼は思わず感嘆のため息をついた。まったく、見事な技としか言いようがない。実際、さきほどのような大それた事を試みるきになったのも、夏になると南方から渡ってくるあの小鰺刺のせいだ。彼らが、空中から一気に水中にダイビングして小魚を捕らえるのを何度も目撃するうちに、努力をすれば自分だってやれるのでは、と彼は思うようになった。
 うまく、あの方法を会得することができるなら、これまでのように浅瀬に立ちつくして、いつ寄ってくるともわからぬ小魚を忍耐強く待つこともない。それに、これまで散々おいらのことを馬鹿にしてきた仲間たちを見返せるのだ。浅瀬で寄ってくる小魚を啄んで満足している仲間を尻目に、颯爽とダイビングして魚を獲れば、きっと、雌の小鷺たちの羨望を一身に集めるにちがいない。そう思ったときから、彼は垂直に降下して嘴だけを水中に差し込み、素早く水面下に群れる魚を捕えることばかりを考えていたのだ。
 だが、いざ実行に移してみれば、椋鳥ほどの小鰺刺に比べて、カラスと似通った大きさの小鷺とでは、大違いだった。実際にやってみたら、空中でホバリングして魚影を見つけると、真上からダイビングして、水中の小魚をその嘴の先でとらえるなど、到底できっこない。ましてや、翼の不自由な彼にしてみれば、至難の業というよりも不可能なことだった。
 よく観察すれば、小鰺刺はホバリングをしている時は、風の吹いている方向に翼を広げて空中にとどまり獲物を狙っている。ダイビングの急降下をしている最中にも翼を動かせているようだ。おそらくは降下するスピードをあげるのと、確実に水中へ嘴を突き入れ、小魚を捕らえられるようにバランスをとっているのに違いない。しかも、獲物を捕らえると同時に、こんどは急上昇しなければならない。それらの行動が一貫してとれる秘訣があの翼の動きのなかにあるのに違いない。自分が真似たように、翼を閉じ水面をめがけてただ落下したのでは、水中の魚を狙うどころか水中に没して、ずぶ濡れの翼ではすぐには飛び立つことも困難だ。
 彼は自分の思考の安易さを反省したが、その一方で、この無謀な挑戦を諦めるつもりはなかった。
 川面から吹く風が、突然に通り過ぎた。右の翼だけを広げたままの彼は身体を軸にぐるりと風に押されて回転した。転がりそうになりながらも、弾みで広げられなかった左の翼を広げられることができた。そうか、これだ。彼は再びダイビングに挑戦するぞ、と自らに言い聞かせた。
 やがて翼も乾いたが、今日のところはこのまま水辺にとどまって小魚を啄む気にもならない。ましてや、先ほどの水面落下の無様な格好を見せつけてしまったあとだけに、川原に集う水鳥たちの嘲笑(わらい)ものになるか、好奇の目をむけられるのがオチだ。
 彼は翼を広げると初めは慎重に、別条ないとわかると、大きく羽ばたいて飛び立った。羽ばたくと、微かに左の翼に鈍い痛みがあるが、それほど大したことはなさそうに思えた。高度をあげるに従い、堤防下に広がる家並みを遠くまで俯瞰できた。住宅街の一角に一際目立つのは、三階建ての教会の塔の尖った屋根だ。時折鐘が鳴り響く、とんがり屋根の塔は、学校や幼稚園に囲まれたなかにあって、煉瓦色の屋根も先端の十字架も、真夏の陽光に反射して鈍い銀色の光を放っている。
 とんがり屋根の教会は、堤防から僅か五百メートルぐらいのところにあり、風向きによっては懸命に飛ばなくても、時折翼を羽ばたくほかは、滑空してたどりつける距離だ。もっとも彼の場合は、川風に乗りながら、悠然と飛翔するわけにはいかない。ともすれば、知らず知らずに下がってしまう高度を維持するため、不自由な翼を懸命に羽ばたかなければならなかった。
 とんがり屋根の上空までくると、彼はゆっくりと弧を描きながら高度を下げ、バタバタと派手な羽音とともに二階のバルコニーへ着地した。
「ウブ今日はまた、いつもより早いじゃないか」
 窓際におかれた鳥かごのなかから黄色い嘴を突き出して、九官鳥のベルが叫ぶ。彼は、ゆっくりとした脚どりで鳥かごに近づいた。
 教会で飼われているこの九官鳥と彼が知り合ったのは、三年まえの夏だったから、そのつき合いも結構長い。
 ある日のこと、とんがり屋根の先端に聳える十字架が奇妙に思えて近づき、そこのバルコニーで羽を休めたのが、ベルとのそもそもの出会いだった。
 自分の名前をベルと名乗り、さらに彼が驚いたのは、ベルは人間の言葉以外に鳥類のみならず、猫や犬の言葉をも話せることだった。ここは、人間以外にも様々な動物がくるからな、自然と覚えるんだ。感心する彼にむかい、ベルは得意げに、そう言ったものだ。
「ベル、聞いてくれ、今日は大変な目にあったよ」
「ほう、鯉か鯰でも獲ったというのかね。そりゃあ、その嘴で飲み込めないわな」
 退屈を持てあましていたベルが、待っていたとばかりに先走って話を盛り上げようとする。
「ベル、真面目に聞けよ。もう少しで溺れ死ぬところだったんだから」
「なんだい、そりゃ、水鳥のおまえさんが溺れるなんざぁ、洒落にもならないね」
「嘘じゃあないんだぜ。本当なんだ」
 彼は小鰺刺の真似をして、急降下飛行に失敗した挙げ句に、無様に水中に突っ込んだ一部始終を話した。
「何を気迷って、そんな馬鹿なことをする気になったんだぁ?」
 ベルが呆れた顔でたずねるが、そこのところを説明しても、なかなか解ってもらえないだろうと思い、彼は返答をためらう。
 ときおり川からくる風が、気怠く昼下がりのバルコニーを通り過ぎる。
「猫だ!、ウブ逃げろ!」
 いきなりベルが叫んだ。ベルの視線の先へ顔を向けると、隣接する幼稚園の屋根に褐色の猫がいる。猫はウブを狙っているらしく、いまにもバルコニーへ飛び移らんと身を低くして、後ろ足を後へ跳ねるような仕草をしている。
 すかさず翼を広げた彼は、空気を叩きつけて飛び立った。高度を上げながら、バルコニーに目をやると、ベルの鳥かごのそばでこちらを見上げている褐色の猫が見えた。まさに間一髪の危ないところだったな、それにしても、いざ獲物に襲いかかる直前にウオーミングアップなどするのかよ。もっとも、そのお陰で、こちらは命拾いをしたんだ。彼は、ふたたび河畔へ向かって飛びながら、あのバルコニーも油断は禁物だな、と自らに言い聞かせた。

 それから三日ばかり経ち、ふたたび彼はとんがり屋根の教会へむかった。あれ以来、水面急降下の無謀な試みはやっていないが、猫に襲われる寸前にベルのおかげで救われたことに、礼をのべておこうと思ったのだ。
 とんがり屋根の上を何度も旋回して、周囲に人間や猫の影がないのを確認すると、いつものように滑空しながら徐々に高度を下げてバルコニーに下り立った。辺りを窺いつつ、窓際の鳥かごのそばへいく。
「おはよう、今日は早いな、ウブ」
 すでに上空を旋回しているときから、彼に気付いていたのだろう。ベルが待ちかねたように話しかけた。
「この間はありがとうよ。あのときは飛び立つのが一瞬遅ければ、あいつに喉笛噛み切られるところだったぜ」
「ここへ現れだしたのは最近だが、おまえあいつの顔を見たかい。左の耳が欠けているうえに、左の目も潰れていただろう」
「あのときは、慌てて逃げたから気がつかなかったなぁ」
 そうか、やつは片目なのか。彼は心中で呟く
「そのせいか猫とは思えないくらい鈍臭いんだ。このまえだって一旦は捕まえた雀に、容易く逃げられていたからね」
 ベルは、そう言ってケタケタと笑った。
「どうして耳が欠けたり、片目が潰れたのかな」
「おおかた人間から、酷い目に遭わされたんだろうな、そのせいか、あいつ人間には、ひどく用心深いんだ」
「ふーん、過酷な過去を背負っているってわけか。それで、やつはこの辺りに棲んでいるのかい」
「あいつはドラと呼ばれていて、タマなしの雄猫なんだ。聞くところでは、鎮守の森に棲みついているらしい」
「なんだい、タマなしって……」
「もともと、どこかで飼われていたんだろうよ。そのときに、去勢手術をされたらしいんだ。二年ばかりまえのある朝のこと、ガリガリに痩せた猫が、怪我をして息も絶え絶えで鎮守の境内に倒れていたんだ。それを鎮守の宮守の男が介抱して、世話を始めたのがきっかけで、あの森に棲みついた、それがあのドラというわけさ。ま、ここへくる人間が話してたのを聞いた限りでは、そういうことさ」
 何でも知っているんだな、ベルは。それに鎮守の森なら、ここからそんなに遠くはない。境内には大きな楠の古木や椋の木などが枝を広げていて、ちょっとした森になっているところだ。
「最初、あいつは鳥かごのなかのボクを狙って来たんだ。それでさぁ、鳥かごの隙間から前足を差し入れてボクを捕まえようとしたから、嘴で思いっきり突いてやった。もちろん、凶暴猫がきたぞ。と叫んでね。そうしたら、向こうが驚いて逃げていったんだ」
 さも可笑しげに話すベルに、彼の機転により、危機一髪のところで命拾いしたことを、彼は改めて感謝をした。
 彼はベルに、お礼の気持ちを現そうと思った。それは、鉄製の鳥かごから解放してやることだと考えた。この長い嘴の先で、かごの出入り口の扉の留め金をちょいと持ち上げて外してやるだけで、ベルは自由になれるのだ。ベルはきっと喜ぶに違いない!
「ところでベル、この鳥かごの外の世界を見たいとは思わないかい」
「外の世界って、どういうことよ」
 彼の問いかけに、かごの中のベルは一瞬戸惑いの表情をみせた。
「だからさぁ、この煩わしいかごから出て、自由に大空を飛び回り、ここから見える風景の、そのまたずっと向こうに広がる川の流れや、町並みを見たくはないかい」
「そりゃぁ、大いに興味はあるさ」
「だろう、おいらは、おまえさんを自由にさせてやりたいんだ」
「自由だって? ウブ、自由ってそんなにいいのかい。ボクは身を危険にさらしてまで、自由とやらに、なりたくはないよ」
 予期せぬベルの言葉だった。
「なぜ? なぜなんだい。こんな狭苦しいかごの中から、出られるのだぞ」
「ボクには、おまえさんみたいに小魚や昆虫は捕らえられない。いま外へ出て、自分で向日葵(ひまわり)の種やトウモロコシの実を見つけられるかい? ましてや、雨風に打たれながら眠ることなどボクには到底できっこないよ。それに、かごから出れば、あのカラスにだってたちまち襲われることになるんだ」
 ベルはそう言い、近くの建物の屋根にいる数羽のカラスを見詰めた。
「そんな危ない暮らしをするよりも、ここにいて教会を訪れる人間らに愛想をしていれば、腹も満たされるし安全というわけだ」
 ベルの言葉は、彼にはショックであった。そして、これまで自分の物差しでしか相手を見てこなかったことを、大いに反省した。
「……おいらは、ただお礼がしたかっただけだよ。おまえさんに助けて貰っただけでなく、人間や猫の言葉も教えられたしね。おかげで大いに助かってるってよ。そんなわけだから、ベル気を悪くしないでくれよな」
「わかってるさ、意気地なしと思われても、このかごから出て生きていく勇気はボクにはない……」
「恥じることなどないよ、おまえさんの言うとおりさ。みな、それなりの生き方があるんだ。それじゃ、おいらは、これから川へいって小魚でも漁ってくるとするか」
「ああ、気をつけてな、ウブ」
 ベルの声を背後に聞きながら、彼は教会のバルコニーを飛び立った。
 川の上空までくると、彼は下流にむけて吹く川風に乗り、ゆっくりと高度を下げていった。水面までの距離が五メートルくらいまでになると、数十匹の魚影がはっきりと確認できた。さらに高度を下げると、気配を察したのか魚の群れは一瞬にして散ってしまった。
 浅瀬に下り立ったウブは、水面下に気を配りながら忍び足で歩き、見つけた小魚をその鋭い嘴で啄(ツイバ)んだ。だが、こんな当たり前な捕食のやりかたでは面白くもない。どうしても、あの小鰺刺みたいに空中で一カ所に止まり、獲物を見つけると上空から急降下をして深みにいる魚を存分に捕ってみたい。それができれば、仲間たちを見返せるのだ。だが、それは自分のような小鷺には不可能なことなのか? 彼は足もとに寄ってきた小魚を捕るのも忘れて、暫し自問した。
 川風がひんやりとしてここちよく、トンボの群れが川面すれすれに飛び交う。日暮れの光景はいつもおなじで、何か満たされない思いのまま、夜になる。ふとあたりを見まわせば、日中の水辺を賑わせた水鳥たちの姿もすでになく、取り残された思いで彼は河原を飛び立った。
 間近に教会のとんがり屋根が望めるが、とっくにバルコニーの窓は閉じられていて、部屋の灯りも見えない。彼は、小鷺たちの塒(ネグラ)がある三キロばかり上流の川縁に近い自然林とは、まったく反対の方向へとゆっくりと旋回した。暮れなずむ街を真下に俯瞰しながら飛翔し、その先に木々の繁みが目立つ鎮守の森が近づくと、徐々に高度をさげていった。
 鎮守の森のなかでも、ひときわ背が高くて鬱蒼と葉を繁らせている大楠のなかほどの枝に、彼は翼を休めた。高さ二十メートル近くはあろうかと思える古木で、根元の近くに何やら曰くが書かれた表示版が立てられている。他にも鎮守の森には、何本かの古木が社を包み込むように深い繁みをつくっていた。
 ベルの話だと、彼を襲おうとしたドラは、この森にいるとのことだけど、ここまでは登ってはこないだろう。彼は自分が留まっている枝が、地上から十数メートルのところにあり、この高さは猫の領分ではないと思った。それに、傍らの椋の大木の枝が楠の枝と重なるように交差していて、地上からは目につきにくい場所なのも都合がよかった。もっとも、枝の一部は境内からはみ出て、道路沿いに設けられている電話のケーブルにまで絡んでいた。
 境内を観察すると、本殿の脇に小さな平屋建てがある。普段は宮司のいない小さな社のため、きっと宮守の居住するところなのだろう。そろそろ宵闇がせまろうかというこの時間、付近にドラの姿は見あたらない。
 ここへ飛んできたのには、格別に意味があるわけではない。気晴らしのつもりと、ほんのちょっとした好奇心が、彼をここへ引き寄せたのだ。
 そのとき、突然に褐色の影が彼の目前に現れた。ドラ! 嘘だろう、なぜ猫がこの高さまで登ってくるんだ! 咄嗟の防衛本能で、彼は背後に伸びる椋の木の枝に飛び移った。
 ドラは身を低くして彼から視線を外さず、攻撃の姿勢でじわりと迫ってくる。ベルから聞いた通りの、猫というより化け物に等しい形相は、対面しただけで思わず気持ちが引けそうになる。すでに、彼との距離は一メートルもない。相手が飛びかかってくる瞬間に、彼はドラの潰れていない目玉を、その鋭い嘴で突いてやろうと身構えた。
 しかし、この作戦はかなりリスクを伴う。もしも嘴の先端が、狙いを外れたら、次の瞬間には彼の喉笛はドラの鋭い牙で噛み切られているに違いない。
 すでに嘴を突き出せば、ひと突きで目の玉を潰せる距離までドラは近づいている。彼は腹を決めて、相手の右目に狙いを定めた。ドラの動きが止まり、跳びかかる機会を窺っている。双方が睨み合った状態のまま、時間だけがジリジリと過ぎる。
 突然にドラの顔が上下に揺れた。どうやら先方も彼の戦術に気付いたらしく、体重を掛けて枝を揺らせている。こうなると、こちらも嘴の先の狙いが定まらない。どうやらドラは攻撃を二の次にして、防御にまわったのだ。
 次第に上下するドラの揺れが激しくなってきたとき、木の枝の折れる衝撃音とともに、突然に彼の視界からドラが消えた。怪訝に思って下方に目をやれば、途中の小枝に辛うじて片方の前足で枝にぶら下がっているドラが見えた。何とかもう片方の前足でも枝を掴もうと懸命にもがいているのが、なんとも滑稽だ。そのうち、耐えきれなくなったのか、ドラは落下して地面に叩きつけられた。一瞬気を失ったのか、無様な格好で伸びている。ところが、すぐにむっくりと起き上がり、上から見ている彼の視線を意識したのか、頭上を仰いで牙を剥きだして威嚇している。
 バッカだなぁ、まだ格好つけてやんの。敵ながら、もう情けなくって見ていられないよ。あれで、よく猫をやっていられるものだな。ドラの、そんな様子を見下ろしながら、彼は先ほどの対決も忘れて可笑しさを堪え切れずにいた。

 彼は初めて飛来したあの日から、鎮守の森を塒(ネグラ)に決め込み、日の暮れになれば大楠の枝に翼を休めていた。もともと、小鷺は塒には群れをなしているのが常だが、彼はその容姿の異様さからか、常に仲間たちから疎外されていた。だから彼は、これまでは川の中州に繁る灌木の枝などで、余儀なく夜はひっそりと翼を休めていた。
 ドラは、あの出来事があってからは、地上から彼を眺めていても、木に登ってくることはなかった。明け方の空が白みだし、彼が川に向かおうとするころと、日暮れに川辺から戻ってくるころ、ドラが宮守の男から戸口の外で餌を貰っているのをたびたび目撃した。
 その日も日暮れ近く、日中を川で過ごしていた彼は、新しく塒に定めた鎮守の森を目指していた。川から吹いてくる風に乗り、森の周囲を緩やかに旋回しながら高度を下げて、いつもの楠の枝にとまろうとした。
 ところが、その枝には先客がいたのだ。このまえに、河原で濡れた翼を乾かしているときにやってきた、あのお節介な雄の小鷺だった。いつの日かに、こっそりと彼の後をつけてきて、この場所を知ったようだ。そうして今日は先にやってきて、彼を待ち受けていたらしい。
「ハンパ、なかなかいい塒を見つけたものだな。ところで、この森にはノラ猫が棲み着いているようだな。気をつけた方がいいと言いたいところだが、おまえ、いっそのこと猫に食われちまったほうがいいかもな」
「放っておいてくれ。それより、おいらの後をいちいちつけまわさないでくれ」
 彼はこの厚かましい雄小鷺に激しい怒りを覚えた。
「そう怒るなって、ここはなかなかいい塒だ。おれも気にいったぜ」
 雄小鷺はそう言いつつ、彼を押しのけようとする。
「ここはおいらが見つけた塒だ。さっさと帰ってくれよ」
 怒りが頂点に達した彼は、いきなり、その鋭い嘴で雄小鷺に挑みかかっていった。
「やめろ、ハンパ、こんなことをして、仲間はずれにしてやるからな。あとで後悔するぞ」
「いいから、つべこべ言わずに、さっさと帰れよっ」
 すでに、おいらは仲間はずれにされてるよ! 激しい彼の怒りに相手は他の枝へ退く。それを彼は翼を広げて威嚇しながら、さらに突っかかっていった。
「ハンパ、もう仲間のところには戻れなくなるぞ、おれがハンパは仲間の群れから出て行ったと、そう吹聴してまわってやるからな」
 思いもよらぬ彼の反撃に、相手はそう言い捨てて、飛び去っていった。
 こんどまた来てみろ、ただではおかないからな……。彼は怒りがおさまらないまま、ふと地上に視線を落とせば、楠の根元でドラがじっと見上げているではないか。先ほどの争いの始終を、みていたに違いない。彼は途端にきまり悪くなり、ドラから目を外すと折からの夕焼けの空を眺めて体裁をつくろった。
 その夜、といってもすでに夜更けのこと、ふと人間の歩く気配がした。睡眠を妨げられた彼は、何事かと境内を窺った。夜はほとんど目が見えない彼だが、それでも月明かりと遠くの街灯の淡い灯で微かな視界のなか、宮守の住居から出てきた人影が境内を横切っていく。きっと宮守の男に違いないが、何やら細長い箱を小脇に抱えているようだが、足早に鳥居をくぐらずに玉垣沿いに境内の外へ姿を消した。
 ところで、ドラのやつはいるのかな。目を凝らすが、境内はしんと静まりかえっていた。

 その日は快晴だった。夜明けとともに鎮守の森を飛び立った彼は、河畔で浅瀬で寄ってくる小魚を啄んでいた。ところが太陽が高くなてくると、彼は水辺を飛び立ち、流れの上空を何度も旋回を繰り返した。
 風は川下に向かって吹いていて、彼は風に乗りながら水面まで十メートルぐらいに高度を下げた。すると水中に、浅瀬には寄ってこないような大振りの魚影を見つけた。彼は、風の方向に逆らって向き合うと、丁度ダイビングするように頭を下方に向けながら、不自由な左の翼を閉じた。広げたままの右の翼が風を受け、彼の身体がくるりと回った。飛ぶことを止めた彼は、そのまま回転しながら落下していく。
 目測で水面まであと五十センチばかりと思えたとき、彼は閉じていたもう左の翼を一気に広げた。同時に翼をもぎ取られるかと思うほどの衝撃を感じて、急激に落下の速度が落ちた一瞬、彼の嘴の先がつんのめるように水中に没した。
 その瞬間、辛うじて上昇気流をとらえた翼が、彼の体をぐいと持ち上げる。すかさず、両翼で水面を叩きつけるように羽ばたき、水飛沫を残して急上昇をする彼の嘴には、大振りの鮎が鱗を光らせてしっかりと咥えられていた。

 小鰺刺を真似たダイビング飛行を試みたあと、彼は河原の草むらのなかで翼を休めていた。わざと周囲から見えにくい場所をえらんだのは、先ほどの急降下を仲間の鷺から目撃されていた場合に、寄ってきて、何だかんだと言って悪態をつかれたくないからだ。
 さらに彼は思った、このような試みは、もう、二度とやりたくはない。やはり小鷺の自分には、小鰺刺のような、空中で静止して水中の魚を狙うなどの芸当は無理なのだ。
 思い返すほどに、あの急降下する体を、水面すれすれで翼を広げて一気に制止するときの衝撃は、並大抵のものではなかった。左側の閉じた翼を広げた瞬間は、もう翼が駄目になってしまうかと思うくらいだった。飛べなくなった鳥は死ぬしかない。
 ところが一方では、心の片隅で不完全ながらも、急降下で見事に大振りの鮎を捕ったことの充足感に、彼は心中で快哉を叫んだ。
 試みた飛行体験の余韻に耽っていた彼は、急に周りの草むらに危険な気配を察した。猫だ、数匹いるようで、堤防下の住宅街からやってきたやつらに違いない。うっかりしていて気付くのが遅れ、すでに彼らに取り囲まれてしまったようだ。
 こうなると、下手に飛び立つことは死を意味することになる。相手は、こちらが翼を広げて飛び立つ瞬間に襲ってくるのだ。しかも囲まれていては、この場からの脱出は完全に不可能だ。彼がここで奴らの餌食になるのかと、観念しかけたそのときだった。
 突然に褐色の猫が目のまえに飛び出した。ドラだ!
「一匹じゃおいらを襲えないからって、仲間を呼んでくるとは卑怯だぞ!」
 ところがドラはそんな抗議の声に構わず、むしろ彼を庇うように立ちふさがった。途端に、草むらで彼を囲んでいた猫たちが、てんでに呻り声をあげて姿を現した。三匹はいる。
 一瞬の間をおいて、ボスらしい黒猫がドラに襲いかかると、双方が呻り声をあげての格闘が始まった。地面を転がりながらも、ドラは相手の首筋に噛みつき離さない。他の猫たちは、そんなボスの手助けをしようと一斉にドラに跳びかかった。彼の目前で呻り声がぶつかりあい、激しい死闘が繰り広げられている。
 ドラ、おいらを助けてくれるつもりなのか? タマがなくても、なかなかやるじゃねぇか! 頑張れドラ、あっ、危ないっ、後ろだ、後ろ! 彼は我を忘れてドラに声援を送った。
「バカ! なにやってるんだ。早く逃げろ!」
 三匹の相手と組んずほぐれつの大乱闘のなかで、相手のボス猫に押さえつけられながら、ドラが必死の形相でこちらに顔をむけて叫んだ。そうだった、逃げなくては! 我に返った彼はその場をあとにして、慌てて草むらから飛び立った。
 
 その日の夕方、彼は鎮守の森のいつもとまる楠の枝で、ドラの帰りを待った。ドラのあの闘いぶりなら大丈夫、ゆめゆめ負けたりはしないだろうと思いながらも、相手側の数が多いだけに安否が気にかかる。
 宮守の男が、餌の容器を携えて戸口の前でドラの名を数回呼んでいたが、そのうちに餌の容器だけを置いて家の中へ入ってしまった。それを眺めている彼もまた、普段ならすでに戻っているのにと、何やら胸騒ぎがしてくる。
 境内を薄闇が取り巻くころになって、ようやくドラが戻ってきた。いつもそうするように、境内の様子を窺いながら、道路に面した玉垣をそろりとくぐり抜け、楠の下までやってきてウブのとまる枝を見上げた。
 宵闇の迫る地上は危険がいっぱいで、決してそのような行動はとらないのだが、いまの彼は普段の警戒心よりドラに礼を言いたい思いが先行した。翼を広げると、枝を離れてふわりとドラの傍へ舞い降りた。
「ドラ、今日は助けてくれて、すまねぇな。ありがとう、礼を言うよ」
 感謝の気持ちを精一杯に表そうと、彼は嘴がドラの鼻先に届くまで近づく。
「馬鹿、わざわざ鷺を助けになど行くものか。たまたま、あそこを通りかかっただけよ」
 ドラはぶっきらぼうに応えたあと「なぜオレがドラだと知っているんだ? おまえオレと話せるのか」と言い、右の目を大きく見開いてびっくりした様子だ。
 片方の潰れた左目の瞼が僅かに開いていて、黒目のない濁った白目だけが、さらに凄みを感じさせる。雄猫特有の大きな顔の左の耳たぶは削がれたようになっていて、その風貌からくる威圧感は、相当なものだ。ベルから聞いてはいたものの、これほどの傷を負っていて、よくこれまで生きのびてこれたものだ。彼は、しみじみとドラの顔を眺めた。
「そんなに見つめて、オレの顔がどうかしたかい」
「相当な迫力だな、その顔」
「そう言う、そっちの羽も、まともではなさそうだな」
「幼鳥のときに、野犬に襲われたんだ」
 彼の言葉にドラは黙って頷いたあと「話はもとに戻るが、オレのことをどうして知ったんだ」と、そのことが気になる様子だ。
「このまえに、おいらを襲おうとした、あの、とんがり屋根の教会にいる物知り九官鳥のベルに、猫の言葉を教わったってわけよ。あ、言い遅れたけど、おいらはウブ、仲間からはハンパと呼ばれて小馬鹿にされているけどね」
「ウブかい、仲間がいるっていうが、いつも一羽だな。ま、そんなことどうでもいいや。ところで、あの喋り屋の九官鳥め。ほかにオレのことを何か喋らなかったか」
「そういえば、おまえさんのことをタマなし猫だとか言ってたけど」
「あっ、やっぱり喋りやがったのか。あいつのために、オレの面目は散々だ」
 ドラは言いながら、腹立たしげに顔を歪める。洋猫の血が混じっているのか、ドラは普段に見かける猫たちよりも、図体が一回り大きく見える。
 彼は、ドラの額に血糊が付着しているのに気付いた。
「ドラ、額に傷を負っているけど大丈夫かい」
「どうってことないさ、あとで舐めておけばすぐに治るんだ」
 なに言ってやがる、どうして自分の額を舐められるのだ? 彼はドラの格好つけた強がりが可笑しかった。
「ドラ、そんな怪我までして、なぜおいらを助けたんだ?」
「オレの獲物を、あいつらに横取りされたくなかっただけよ」
「獲物って、おいらのことかい」
 彼は大きく目を見開いてドラを見つめた。
「そういうことだ」
 ドラは横を向いたまま、少しぶっきらぼうに答える。
「そうかい、じゃあ、お礼をするよ。いま、ここでおいらを食べろよ」
「いきなり何を言いだすんだ。おまえ、どうかしてるぞ」
 ドラは、なかば呆れ顔で彼をまじまじと見る。
「どうもしていないさ。あんな奴らに食われるくらいなら、いま、ここでおまえさんに食われる方がずっとましってことよ。さぁ、遠慮しないで食ってくれていいよ」
「食いたかねぇよ」
「どうして?」
「いまは満腹だからな、もう、そんな話はやめろよ」
 ドラはうんざりした顔で、背中を弓なりに伸ばしながら大きなあくびをした。
「ところでウブ、オレのタマなしをどう思っているんだ?」
 しばしの沈黙のあと、突然にドラが話しかけた。
「どうも思ってないよ。だってさ、タマを持っているやつらよりも、喧嘩で強かったじゃないか」
「本当に、そう思うかい」
「あたりまえだ、そう思っているよ」
 途端にドラは、相好をくずして嬉しそうな顔をした。恐ろしい容貌に似合わず、性格はいたって単純なんだ、彼は内心で思った。
「もう、塒の枝に戻れよ。鷺は暗くなったら飛べないのだろ」
「もう、目が見えない。これじゃ飛べないよ」
「そんな……、どうするつもりだよ」
 ドラが真顔で心配しているが、実際にこの暗さでは、先ほどまで留まっていた楠の枝まで彼には視界が届かない。
「ドラ、今晩はここで、おいらの傍にいてくれないか……」
「しょうがねぇなぁ、とにかくここは危険だ。オレについてこいよ」
 ドラはそう言い、先に立って社殿の方角へ歩き出した。
「ちょっと待ってくれよ。そんなに早く歩かれたんじゃ、ついていけないよ」
「なんだよ。落ち着いてる場合じゃないぞ。早く歩けよ」
 振り向いたドラが、立ち止まって待っている。
「鷺は、そんなに早く歩けないんだ。それに夜は目が見えないっていっただろ」
 ドラは、わかったよ。といったふうに彼と歩調を合わせて歩く。それでも絶えず周囲を警戒しているのは、境内には他所からやってくるノラ猫や、飼い犬の散歩がてら立ち寄る人間などがいて、地面を歩く鷺にとっては危険がいっぱいなのを知っているからだ。
 結構気を遣ってくれてるんだ。ドラに対して粗野な印象が強かったが、改めて思いやりのある一面を彼はかいま見た思いだった。
 社殿までくるとドラは五段の石段を上り、正面の賽銭箱の陰に彼を招いた。ここは地面より一メートルばかり高くなっていて、鳥居をくぐってくる侵入者も一目で見分けられる。
「ここなら正面からは見えないし、背後から襲われる心配もないぜ」
「おいら、夜は目も見えないし飛ぶこともできないから、お手上げだ」
「安心しろや、オレが傍にいてやるよ」
 相手の不安を少しでも和らげようとする気持ちからか、ドラはぴたりと寄り添う。
「なんだか変だな、おいらたち」
「何が変なんだ?」
 ドラの声が低く、闇を通して答える。
「だってさ、おいらはおまえさんに襲われかけたんだ。それなのによう、いまこうして寄り添ってさ」
「どうでもいいだろう、そんなことは、オレがいま、おまえを襲って食う気などないことだけは確かさ。それで、いいじゃないか」
 ドラはそう言い「もう、眠れよ」と言って黙り込む。
「あ、そうだ。おまえさんの飼い主が戸口に餌を置いているよ」
「オレは飼い主などいねぇよ。勝手に世話をしてくれてるだけさ。頼みもしないのによ」
 ドラは、ぶっきらぼうに言い放つ。
「そんなこと、どちらでもいいけど、本当は腹が空いているんだろう。いって食ってきたらいいのに」
「ここを離れてもいいのか、おまえ怖いんだろう」
「何かあったら鳴いて知らせるよ、早くいかないと他のノラ猫に横取りされても知らないぞ」
「わかった、すぐ戻ってくるからな、ここを動くなよ」
 ドラはそう言い残すと、暗がりの中を宮守の居宅へ駈けていく。
 ほんとは腹を空かせているくせに、おいらの手前やせ我慢をしていたんだ。あいつ、なかなかいいところあるな、彼はちょっぴりドラが好きになった気がした。

 ドラはすぐに戻ってきた。社殿の前までくると立ち止まり、辺りを警戒して周囲を見回し、異常がないのを確かめてから彼の傍へやってきた。もっとも、夜目の利かない彼には、ドラがふたたび傍へきて声をかけるまで気配しかつかめない。
「待ったかい」
「もう戻ってきたのか。ずいぶんと食べるの早いんだな」
「そんな、とろとろと食ってられるかい。なにせ食っているときが一番スキができやすいからな、早食いが身を守るってことよ」
 空腹を満たしたドラは、以前より饒舌だ。
「ウブ眠らなくていいのか。鷺は朝が早いのだろ」
「そういうおまえさんはどうなんだ。河原での格闘で疲れているのに、おいらを気遣ってなら大丈夫だから。そばにいてくれるだけでいいから、眠ったらどうだい」
「あんな格闘ぐらい、どうってこともないさ。それにな、猫はだいたいに夜行性なんだ。おまえこそ、早く寝ろよ」
 ぴたりと体を寄せてくるドラの感触を感じながら、なぜか彼はますます目が冴えていた。
「オレさぁ、そのうちに、この町を出ようと思ってるんだ」
 ぽつりと、ドラが呟くように言う。
「どうして、あんなに世話をしてくれる飼い主がいるのにさ」
「言っておくけど、オレは飼われているんじゃないからな。それにこのごろは、一晩中いなかったりして餌をくれねぇときもあるんだ」
 ドラの話すとおりで、宮守の男は人目を避けるように、早朝の境内を小走りに戻ってくるのを、目覚めたばかりの彼は、しばしば目撃していた。その場合には決して鳥居をくぐらずに、玉垣ぞいにこそこそと居宅の裏口へとむかう。
「けど、そんなケチな理由ではないよ、オレがこの町を捨てるのは」
 ドラは、この町を捨てるというところを、ことさらに声を大きくして強調した。
「それじゃあ、他になにか理由があるわけか」
 玉垣の外の道路を時折走る車のライトが、ドラの顔を一瞬ぼんやりと浮き上がらせるのを見ながら彼は問いかける。
「ここから、ずぅっと川沿いに南へいくと海へ出るだろ。そのあたりには、猫の楽園があるというではないか。オレは、いつかそこへいこうと思っている」
「ふーん、猫の楽園ねぇ」
「そこは海岸で魚もたらふく食えるし、雨風を避ける建物もあって、それはよいところらしい」
 ドラは言いながら、きっと目を輝かせている……に違いない。そう思いながらウブは、いつだったか、ふらりと飛来した河口あたりを餌場にしている小鷺から聞いた話を思い出していた。
 この川が海に注ぐ河口のあたりには、大きな廃工場がいくつもあって、そこには数知れぬ多くの猫が棲み着いているらしい。その猫たちの世話をしている人間たちも多くいて、そこへ集まる猫は増え続けているという。ドラの言う猫の楽園は、きっとその場所のことなのだろう。
「おまえさんはいいな、そういう夢があってさ」
「夢じゃない、もう若くはないからな。行くなら体力のあるうちだ」
 ドラの言葉には、ある種の決意がかんじられた。
「そうだな、おいらだって、この左の翼が正常ならば、仲間たちとおなじように、冬場は南の土地へ行きたいといつも思ってるよ」
 幼鳥のときに野犬に襲われて傷ついた翼は、渡り鳥として遠距離を飛ぶことはできない。渡りを諦めて留め鳥として生きる彼には、大きな目的を語るドラが羨ましく思えた。
 境内がほの明るくなった明け方まで、ドラは片時も離れずに彼のそばに寄り添ってくれていた。視界が利くようになった彼は、ドラが体の何カ所も傷をつくっているのを知った。べったりと血糊が付着したままの傷口が痛々しい。
「ドラ、大変な傷じゃないか。おいらのために、こんなことになって本当にすまない」
「いちいち謝るな、言ったろう。おまえのせいではないよ」
 ドラは気丈に振る舞い、彼に早く楠の枝に戻れとうながした。

 それから一週間ばかりが過ぎて、河畔は夏休みの子供らや、ボート遊びの人々で賑わっていた。この時期、水鳥たちは水辺に繰り出す人間を避けて、太陽が高くなるころには一斉に姿を消す。
 早朝から小魚を啄みにきていた彼は、照り返しの酷くなった十時ごろに川縁を後にした。鎮守の森へ帰るには早すぎるこの時間、しばらく立ち寄っていないベルに会いに行こうと、とんがり屋根の教会を目指した。
「よう、ウブ、久しぶりじゃないか!」
 バルコニーへ下り立った彼を見て、ベルは傍までいくのを待ちきれないように声をかけてきた。
「ベル、相変わらず元気そうだね」
「ボクは元気さ、ところでウブ、このごろ鎮守の森を塒にしているんだって?」
「えっ、早いな、どうしてそれを知ったんだ?」
 さすが情報屋のベル! 彼は驚きを隠さずに言った。
「ここへくる人間たちが喋っていたよ。このごろ夕方になると、鎮守の森に白鷺が飛んでくるってね。きっと、ウブのことだと思っていたんだ」
 ベルはそう言い、少し得意げな顔をする。
「まさに早耳のベルだな。あの森は大きな樹が多く緑が深くて、街中の神社にしては結構いい環境だよ」
「しかしあの森には、いつだったか、おまえさんを襲おうとした凶暴猫のドラが棲んでいるんだろ」
 先ほどと打って変わって、ベルが心配そうに問いかける。
「でもあいつ、そんなに悪い奴でもなさそうだ。あれで、結構いいところもあるんだ」
「ウブはそんなだから、ボクは心配なんだ。羊の皮を被ったオオカミって言う例え話があるんだぞ。気をつけろよ」
「なんだい、それは」
「時々ここへやってくる修道女(シスター)が、男はみんな羊の皮を被ったオオカミだって、このまえ若い娘にそう言って諭していたよ」
 ベルは聞きかじりの知識の受け売りで、ウブに注意を促しているつもりらしい。
「ありがとう、忠告に感謝するよ。けど、おいらは若い娘じゃないから大丈夫さ」
「ウブ、悪いことは言わない。ドラには、くれぐれも気をつけろよ」
「ありがとう。ベル、もういくよ」
 人がくる気配に、ウブはベルのいる鳥かごを離れる。翼を大きく広げると一気にバルコニーを飛び立ち、ゆっくりととんがり屋根の上空を旋回してから、鎮守の森を目指した。

 夜明けとともに目覚めた彼は、いつもそうするように自分のとまる楠の枝から境内を見渡した。いつもなら、宮守の男が餌をくれるのを、戸口の前でちょこんと座って待つドラの姿があるのだが、今朝はいつもと様子が違った。
 ドラが座って見上げているのは、椋の木の下だった。不審に思った彼は、枝から飛び立つとそのままドラの傍に舞い降りた。
 ドラの見上げる先には、枝から宮守の男が宙づりになっていた。枝に巻き付けた紐が首に巻かれており、首だけが取り残された南瓜みたいに、だらりと下向きになっている。髪の毛が覆い隠すように垂れていて、顔はよく見えない。白地に紺色の柄の浴衣姿の下半身の部分が濡れていて、その真下の地面も濡れて異臭を放っていた。
「ウブ……こりゃあ一体、どうなっているんだ?」
 ドラは納得のいかない顔を彼に向けてそう言い、再び椋の木の枝を見上げる。
「ドラ、落ち着いて聞くんだ。この人は死んでいるぞ」
「どうしてだ? 何で死んでるんだ?」
「その理由までわからんよ。ただ言えるのは、この人は自分で死んだのだな。ずっと前のこと、おいらが塒にしていた自然林でも、人間がこのような姿で死んでいるのを見たことがある」
 彼は、まだ仲間たちといた数年前に、塒にしていた林でも人間が、木の枝から宙づりになって死んでいた記憶が蘇る。
「ドラ、大変なことになったな」
「何がだ? オレは知らねぇよ」
 予期せぬ出来事で、ドラは目のまえで起こっている状況を、よく理解できないでいるらしい。
「毎日餌をくれる人間が死んだってことは、今日からは腹を空かせて戸口で待っていても、食い物にはありつけないということなんだぞ」
「いいさ、腹が減ったら自分で食い物を探すだけよ」
 ドラはこともなげに言ったが、その顔には不安な思いがありありと浮かんでいる。
「そう言えば、いつもは餌を置くと、すぐに家の中へ入ってしまうのによ、昨日の夕方は餌をくれたあとも、しゃがみ込んでオレの頭を撫でたりするんだ、変な気分だったよ」
「自分がいなくなっても、おまえさんがちゃんと生きていくだろうかと心残りだったんだろうな。きっと」
「死ぬときに及んでまで、余計な心配をしてたんだな」
 ドラがそう言ったとき人間の話し声がして、鳥居のあたりを数人の人影がこちらへ近づいてきた。ドラは素早く玉垣の隙間から境内の外へと姿を消した。彼も飛び立つと、森の上空を一回り旋回して、そのまま河畔を目指した。

 宮守の男が死んでからの数日間は、それまでは静かだった鎮守の森も騒然として、何人もの人間が境内を出入りした。わけても男が住んでいた住居には、連日朝から日没まで人が出入りしていた。そのうち、男が宙ぶらりになっていた椋の木の根本で、数人の人間が集まり、隣町の神社からやってきた神主によるお清めが始まった。彼はそんな様子を、楠の枝から見下ろしていたが、頭上に鷺がいることなど、誰も気付くものはいなかった。
 そんなある日、彼はベルのところへ向かっていた。宮守の男が死んだあと、ドラの処遇も気になるところで、情報屋のベルなら、人々の噂話から何かを聞き出せるかも知れない。
 いつもそうするように、彼はとんがり屋根の上空をゆっくりと旋回しながら、バルコニーの周辺に人間やイタチなどの外敵がいないことを確かめながら徐々に高度を下げた。
「ウブ、そろそろ、くるだろうと思っていたところだよ」
 バルコニーにおりたった彼を目にするや、ベルはそう言い、さらに続けて「ここへくる人間たちも、このところ宮守の男の首吊りの話で持ちきりさ」と、喋りたくて仕方がない、といった様子で話しかけてきた。
「宮守の男も、性悪女に関わり合ったものだな。可哀想に」
 ベルは人間から聞いた話を、そのまんまに口真似をした。
「ドラの飼い主が死んだのは、女に騙されたからなのか?」
「通っていた飲み屋の女にぞっこんだったらしいが、その女の思わせぶりに惑わされたんだとか、もっぱらの噂だ」
 ベルは話し始めると、講釈師みたいに饒舌になった。
「ベル、男のことはどうでもいいよ、それより、これからドラはどうなるんだ」
「そう急かせるな、話は順序を追ってするものだ。何にせよ、五十歳のあの歳まで独り身を通してきたんだ。惚れてる女がいても、不思議はない」
「だから、何なのだ」
 彼には、ベルの話がひどくまどろかしい。知りたい要点だけを話してくれればいいのに、と気が急くのだ。
「つまりだな、日頃から女に相手にされないから、下心ある女にいとも簡単に騙されてしまう。調べてみれば、神社に伝わる宝剣までを、密かに持ち出して貢いでいたらしい。それで氏子連中は大騒ぎらしいよ」
「ベル、おいらが知りたいのは、そんなことじゃない。ドラはこれからどうなるのか、人間はやつの話はしないのか?」
「もう少し黙って聞けよ。それで、貢ぐものがなくなりゃぁ、女に捨てられる。宝剣を持ち出した事の呵責の思いと、女に裏切られたショックが重なり、首を吊って死んでしまった。とまぁ、以上が、ここへくる人間たちの噂話だ」
 そこまで話すと、ベルは一呼吸いれて話題を変えた。
「おまえさん、何だってあの化け物みたいなドラ猫のことを、そんなに気にかけるんだ?」
「あいつ、あれで気の優しいところもあるからさ、世話をしてくれる人間が現れればいいのだけどな……」
「無理だなあ、考えてみろよ。あの異相では、第一に顔の傷だけでも充分に敬遠されるのに、片目が潰れているときてはペットとしては問題外だぜ」
 ベル、少し言い過ぎじゃないか。そりゃあ、あいつは決して上品な猫とは言わないけど……。一方でベルの言葉も一理あると思うところもあり、彼は思わずため息をつく。
「やはり、ノラになるしかないのか……」
「やつはノラにもなれないよ。男が死んだのを機に、捕まえて殺処分されるだろうな」
「なんだって、なぜドラが殺されなきゃならないんだ」
 ベルの衝撃的な言葉に、彼は思わずムキになる。
「やつのような異相の猫に、そこいらをうろうろされるのを許せない人間もいるんだ」
 ベルはそう言うと、そろそろ人間の子供たちがやってくる時間だからと、彼に立ち去るように促した。
 彼は複雑な思いのまま、バルコニーを飛び立ち、とんがり屋根の上空を一回り旋回して河畔へと向かった。
朝からベルのところに立ち寄ったために、彼の胃の中は空っぽだった。そこで比較的に魚がよわく獲れる、流れの緩やかな湾処に舞い降りた。思った通りに魚が集まっていて、彼は程々の満腹感を味わうことができた。
 ふと河原に目を移すと、川砂利の上にドラがいるではないか。所在なく座り、放心したように小首をかしげ、じっとこちらを眺めている。明らかに、空腹に耐えかねているといったふうだ。
 おいおい、大丈夫かい。これからは、ノラになって生きていかなければならないのによ。河原で水鳥たちが魚を漁るのを眺めていても、自分の腹は満たされないだろうにな。
 彼は近くへ寄ってきた落ち鮎を素早く捕らえると、そのままドラのいる河原へ歩き出した。川砂利を踏んでドラの前にくると、嘴に咥えていた鮎を離す。鮎はドラの真ん前に落ちて、砂利の上で激しく跳ねた。
「早く食えよ、さもないとカラスに横取りされちまうぞ!」
 一瞬驚いた表情を見せたドラだが、彼の言葉に慌てて片方の前足で鮎を押さえつけて、口に咥えると近くの草むらに分け入っていく。
 あんな調子で、やつはこれから生きていけるのか。ふたたび川の中に戻った彼は、足下に小魚が寄ってきているのも気付かずに、ドラの行く末を案じた。

 翌朝のこと、目覚めた彼は、境内の普段と違う様子に目を凝らせた。ドラが本殿のまえで、一匹の大きな犬と睨み合っているのだ。ドラより数倍大きな体躯で、顔つきの精悍さから猟犬の種類と思えた。少し離れた場所に飼い主らしき男が立っていて、あろうことか、犬のリードが外されているのだ。
 男は自らの飼い犬が、久々に狩猟本能に目覚めて、獲物を襲うのを期待に満ちた顔で、薄笑いを浮かべて見つめている。たかがノラ猫一匹かみ殺されても、気にかける者など誰もいない。ましてや、嫌われものの異相の猫だ。むしろ人々からは、手を汚さずに始末をしてくれたと賞賛されるだろう。男の薄笑いに、そんな思いが如実にみてとれる。
 犬はさかんに低い呻り声をあげて、ドラを襲う間合いを計っているようだ。ドラも身を低くして攻撃の姿勢をとり、全身で相手を威嚇しているが、とても対等に戦える相手ではない。相手の犬がとびかかった瞬間に、ドラの頭は相手の鋭い牙で噛み砕かれているにちがいない。
 絶体絶命の哀れなドラ、でも、おいらには、どうすることもできない。ここでやつが噛み殺されるのを、見ているのは耐えられないが、飛び去ることもできない。
 ノラを気取っているくせに、ノラにもなりきれないダメ猫ドラ! タマがないのを恥じて、いつも虚勢を張っているドラ! 間が抜けていて、バカ正直で格好つけたがりのドラ! でも、川原でノラ猫に襲われたときは体を張っておいらを助けてくれたんだよな。おいら、おまえさんを死なせないぞ!
 彼は大きく羽ばたくと、楠の枝から飛び立った。次第に明るみの増す鎮守の森の上空を旋回しながら、風のながれる方向を見極める。
 下降の体勢に入ったところで、彼は静かに左の翼を閉じた。右の翼が、川縁から吹いてくる朝風を受けとめると、彼の体は、錐のように回転しながら森の繁みに吸い込まれていく。
 凄まじい速度で地表が接近してくるのに、彼は恐怖で目をつむりたくなるのを必死で堪えた。ここは水面とは違う。反転上昇するタイミングを誤れば、地面に激突して即死だろう。
 犬の黒い体が目に入った瞬間、すかさず閉じた左翼を広げる。瞬間に、翼をもぎ取られたかと思う激痛が走る。彼は思いっきり首を上方に向けて上昇の姿勢を取りつつ、曲げた脚の先が犬の頭部に当たった感触と同時に思いきり蹴りあげた。グアッと悲鳴があがり、巻き上がった土埃と羽毛が、一瞬彼と犬の姿をかき消した。
 翼に鋭い痛みを感じながら、彼は必死で羽ばたき上昇する。繁みを抜けきり下界を見下ろせば、玉垣に沿った道を狂ったように駈けていく黒犬と、必死であとを追って走る飼い主の姿があった。
 それにしても、犬の頭部を外さなかったのは幸運だった。万が一外していれば、地面に着地したときの衝撃で足の骨を砕くか、黒犬に噛み殺されていたに違いない。我ながら大きな賭だったな。彼は思わずそう自問した。
 ところで、ドラはどうしてるかな。いつもの塒である楠の枝に舞い降りた彼は、先ほどのドラと黒犬が、睨み合っていた辺りを窺った。
 なんと、ドラは逃げもせずに、その場所に座り込んでいるではないか。彼は枝から離れてドラのいる近くに着地すると、ゆっくりと歩み寄った。
「よう、大丈夫かい」
「ウブ、一体何が起こったんだ?」
「おまえさんがかみ殺されるのを、見ていられなかっただけさ。あの黒犬は、二度とこの森には近づかないと思うな」
 言いながら彼がさらにドラに近づくと、全身を小刻みに震わせている。まだ、先ほどの恐怖から立ち直れないようだ。
「おいおい、ドラ、腰を抜かしているのかい? しっかりしろよ。そんなだから九官鳥のベルにまで、タマなしだなんてバカにされるんだ」
「ああっ、それを言うな、オレは黒犬なんかに腰を抜かしてなどいねぇよ。だが、ウブのあの技には度肝を抜かれてしまったよ。普通の鷺はあんな芸当はやらないだろう?、どこで習得したんだい」
 ドラはまだ、興奮した口調で問いかける。
「そんなに驚くほどのことでもないよ。それよりも、あとで川にこないか。鉄橋の下あたりにいるからさ。そろそろ落ち鮎も終わりだから、ご馳走するよ」
 ドラにそう言い残し、境内から飛び立った彼は、左の翼を労るように森の上空をゆっくりと旋回すると、川辺を目指して飛翔した。

 水面が空の鰯雲を映し込み、ゆっくりと流れていく。彼が、そのダイビング飛行に憧れた小鰺刺(こあじさし)などは、すでに南を目指して飛び去ったのか姿を見かけなくなっていた。
 とんがり屋根のバルコニーに、ひょっこりと降り立った彼に、ベルが慌ただしく叫んだ。
「ウブ、あの宮守の男の住居が取り壊されるらしいぞ」
「本当かい、森がまた騒がしくなるな」
 ベルにそう答えたものの、そうなればドラは、これからどこで眠ることになるのだ? 飼い主が死んでからは、壊れた勝手口のドアの隙間から出入りして、そこを塒にしていたドラの今後が彼は気にかかった。

 それから数日が経ち、ベルの言った通りに境内に重機が運び込まれると、その翌日に家屋の解体が始まった。朝から重機のエンジン音と、建物の破壊される音で鎮守の森は騒然となった。男が住んでいた家屋は、巨大な重機の爪で見る間に取り壊された。そして日暮れを待たずに、境内の片隅には更地ができあがっていた。その日はどこへいっていたのか、早朝からドラは姿を見せなかった。やがて日が暮れて薄闇の迫るなか、更地にぽつねんと座り込むドラを、彼は楠の枝から見つめた。
 
 ところがさらに数日後、鎮守の森はさらに騒々しくなった。数人の男たちが、昇降機を備えたトラックで境内に乗り付けてくると、彼が塒にしている楠の枝や、周囲の樹木の枝の伐採を始めたのだ。
 ベルの話だと、樹の枝が繁りすぎて、枝が近くの電線や電話線を妨害しているらしい。そこで道路に近い数本の古木の枝を、伐採することになったらしいのだ。
 こうなると次の塒を見つけなくては、彼は楠の枝から飛び立った。高度をあげて森の上空を旋回しながら、次の塒を探しにいく方向を思案した。ふと地上に視線を移した彼の目に、鎮守の玉垣沿いの道を、南に向けて駈けていく褐色の塊が見えた。
 ドラ! いよいよこの町を捨てる決意をしたんだな。海辺を目指すには、ひたすら川の流れに沿って南へ向かえばよい。川筋沿いは、いくつかの野犬やノラ猫たちのテリトリーのなかを行くことになる。さらには途中に、車の列が引きも切らない大きな道路が行く手を阻むように二つある。それらを無事に通過できれば、一昼夜も駆け通せば着くだろう。なぁに、おまえさんならきっとやれるよ! 無事に猫の楽園にたどり着けることを、おいらも祈っているからな。あばよ、ドラ!
 ドラはやがて小さな点となり、彼の視界から消えた。
 そうだ、おいらも今年の冬は南の土地を目指してみようか。だが、この翼でどこまで飛べるのか自信はない。成鳥になったときから渡りは無理だと諦めて、冬場もこの辺りの河原で過ごしてきたけれど、ひとつやってみるか! それが最後の旅であってもいい。
 羽ばたくたびに感じる、左の翼の鈍い痛みを堪えながら、彼は森に別れを告げると、南の地を目指してゆっくりと飛翔した。


 

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