洗いたての髪に、ヘヤドライヤーを当てはじめた。半乾きになったころ、勢いよく吹きつけてくる熱風の向こうで、ミニチュアダックスフンドのマロンが啼いているような気がした。スイッチを止めて、耳を澄ましてみる。たしかにマロンは玄関ドアの辺りで、甘えたような声を上げていた。夫の剛(つよし)が帰ってきたのだ。わたしは大急ぎで玄関へ行った。
「お帰り。遅かったね」
「うん」
剛は尻尾を振っているマロンを足蹴にして、廊下を大またで進んでいく。いつもなら「ただいま」と頭を撫でて、マロンの興奮を落ち着かせるのに。怯えた犬を抱き上げて後からリビングへ入ると、彼は背を向けて突っ立っていた。
「なにしてるの」
返事がない。わたしは、もう一度「どうかした」と訊ねた。
「美帆、話したいことがあるから」
いつにない真剣な声に驚いてしまい、急いで前にまわりこんで剛を見つめた。彼の顔は強張っていて、視線を合わせようとしない。
「話ってなに」
「驚かないで聞いてくれ。俺、海外で農園を始めようと思う」
「海外って、外国?」
わたしが目を見開くと、そうだ、と言うように頷いて下を向いた。
剛は、義兄が経営する衣服(アパレル)の製造販売会社で働いている。だから、外国で農園だなんて、まったく縁がないはずだ。
「なにを言ってるのか、ぜんぜん意味がわからない」
「俺、タイでジャトロファを植えて、育てる仕事を始めるんだ」
「ジャトロファって、なによ」
「ナンヨウアブラギリっていう木の学名がジャトロファ」
「そんな名前の木、聞いたことないけど」
「ジャトロファに生る実から種を取り出して搾ると、バイオディーゼル燃料(オイル)が出来るんだ。それを作って売り、金を儲けてみせる」
顔を上げた剛は、澄んだまっすぐな瞳で見つめてくる。
わたしは夢見るような話を聞いて腹が立ち、にらみ返した。
「バイオなんとかって、訳のわからない馬鹿なこと言って。だいたい今の仕事はどうするつもりよ。お義兄(にい)さんも反対するって」
「反対されても、俺、やるからな。勝手だとは思う。成功するまで何年掛かるかは、わからん。だからこれ」
ジャケットのポケットから封筒を取り出して、差し出した。手をのばしたら、腕の中にいたマロンが床に飛び降り、ファンヒーターの前へ駆けていく。その拍子に封筒を落としそうになったが、なんとか受け取って紙を出して広げて見た。夫の欄に剛の署名が入っている離婚届だった。
わたしは衝撃で息をのんだ。間を置いて「これ、どういうことよ」と、かすれ声を出した。
「ごめんな」
「ごめんってなに? わたしと離婚したいから、変な仕事始めるっていうわけ」
混乱してしまい、語気が荒くなる。
「ちがうって。上手く説明できないけど、ホントちがうから」
「ちがうって言われても、まったく理解できないし。相談もなしに外国に行くって言いだすのも、この紙も」
「だから……」
剛は言葉に詰まって黙りこむ。
「もういい、勝手にしたら」
わたしは離婚届を握ったまま半乾きの髪をかき上げ、剛に背を向けて廊下に通じるドアへ向かった。思い切りそれを閉めたら、マロンが驚いて吠え立てた。そのとたん涙が溢れ出てしまい、寝室に駆けこんで鍵を掛けた。
今日まで自分たちを仲のいい夫婦と思っていた。互いに二十九歳で結婚して、来月で丸三年になる。まだ子どもに恵まれないので、わたしは薬剤師の仕事の合間、婦人科に通院していた。検査を重ねるうちに本格的な治療になりそうなので、仕事をパートにしようかと悩み、折をみて剛に相談しようと思っていた矢先だった。
そのことがあってからは、通院をひとまず休み、仕事を続けた。離婚届を渡された日から変わったのは、別室で寝るようになった事と会話がほとんどなくなった事だった。剛は仕事の引き継ぎを終えると、タイ行きの準備をしているようだった。話し合いたいと思ったが、気まずくて切りだせないまま一ヵ月が過ぎてしまい、三月に入ると彼はタイへ旅立った。
剛はタイから週に一度ほど電話を掛けてきた。支払いなどの事務的な用を頼んできたり、簡単な近況を知らせてきたりだった。まるで離婚届のことを忘れたような話しぶりに、わたしは戸惑った。それが日の経つうちに怒りに変わっていき、離婚届を出す前に自分自身の思いを剛にぶつけないと一生後悔する気がした。ちょうど六月に入ると四日間ほど連続休暇が取れたので、思い切って剛に会いに行くことを決心した。
キャビンアテンダントが通路を歩きながら、シートベルトを締めるようにと乗客に告げている。飛行機は間もなく、定刻通りにタイのスワンナプーム国際空港に着陸するようだ。
わたしはシートポケットに入れていた化粧ポーチから、ファンデーションを取り出した。鏡の中の顔は、機内の空気が乾燥しているせいなのか張りがない。鏡を見ながら塗り直して、口紅をひく。化粧ポーチを足元に置いたバッグにしまうと、機体が急降下して重力を感じた。目を閉じて、剛と再会したら何から話そうかと考えた。悩んでいるうちに機体は地上へタッチダウンして止まり、まわりを見渡すと乗客たちは次々と立ち上がった。わたしも荷物を手にして、前の人に続いてタイへと降り立った。
入国検査を済ませて税関の自動ドアを出たら、出迎えの人が鈴なりに待っていて、いっせいに視線を向けてきた。その中に剛はいないかと見渡したが、見当たらない。待ち合わせると彼はたいてい遅れて来たので、いつもの事だろうと思い、スーツケースを載せたカートを押し進めた。
「美帆!」
声のする方向に振り向いたら、サングラスの男が手を振っている。戸惑って立ち止まると、男は人をかき分けて近寄ってくる。彼は、わたしの目の前でサングラスをはずした。剛だった。
「何度も呼んでたのに」
「誰かと思ったわ」
顔はもちろんのこと、首や腕など身体全体が真っ黒に焼けている。着ているTシャツは薄汚れ、短パンから伸びた足元は泥にまみれたビーチサンダルだ。日本にいたころは「アパレルの人間は、自分自身が見本」と言って、いつも流行のスタイルで決めていたのに。
「遅れないよう、農園を早く出て良かった」
安堵したような笑顔を見せて、わたしに代わってカートを押し始めた。なぜだか癪にさわってしまい、無言で後に続いた。空港ロビーは行き交う人でごった返し、距離がだんだん離れていく。時折、歩みを止めて振り返る彼とは視線を合わせずに、わざとゆっくり歩いた。エレベーターの前で待っている彼に追いつくと、他人のような素振りで乗り込んだ。
四階で降りてパーキングへ出た。剛はおんぼろのピックアップトラックの前でカートを止めて、スーツケースを荷台へ持ち上げた。
「えらく重いな。こんなに何を持ってきた?」
「何って、全部、わたしの要る物」
気色ばんで言い返した。
「乗って。汚れてるけど」
彼は運転席側のドアを開けて、助手席を目で示す。わたしは車体にこびり付いている泥を眺めてから、渋々という仕草でドアを開けてシートの埃を払って座った。
剛はエンジンをかけて発進させた。高速道路の入り口へ向かう車列は渋滞していた。そこへ車線変更しようと彼がハンドルを切ったら、何台もの車が割り込もうとして前や横に幅寄せしてくる。どの車も譲ろうとはせず、クラクションを鳴らすものもあった。
「怖い、ぶつかりそう」
「ここではクラクション鳴らしながら、アクセル踏むのが当たり前。じゃないと、いつまでも車線変更できないからな」
「そんなことしたら、もっと混むのに。馬鹿ねぇ」
吐き捨てるように言って剛を見たら、怒ったような顔をしてハンドルを握っていた。
なんとか高速道路に入り、車はスムーズに流れるようになった。ふとバックミラーにぶら下がっている生花が目に入った。それは白いつぼみと小さな赤いバラが繋がって花輪になっている。
「きれい」
ふれて匂いをかいだ。甘い香りがする。
「白い花はジャスミン。エキゾチックな匂いだろ。お守りのお供えものなんだ」
よく見たら、金色の小さな仏像も一緒にぶら下がっていた。
「信心深くなったんだ。日本にいたころは、墓参りすら嫌がったのに」
「郷に入れば郷に従えってこと。タイでは安全を祈願して、車に仏像と花輪を飾ってるんだ。仏像は農園で働いてる人がくれたんだよ」
「たった三ヵ月でタイ人気どり」
嫌味を言って、車窓の外に目をやった。遠くで幾棟もの高層ビルが、南国の強い夕陽に照らされて輝いている。今まで見たことのない強烈な赤色に染まった光景が美しすぎて、わたしの心が揺れた。
剛の横顔に目をやる。その硬い表情は、まるでわたしの存在を忘れてしまったかのようだ。もう一度、車窓からの景色を眺めた。広告塔が次々に現れては後ろへ流れていく。看板で踊っているタイ語の文字が、怪しい模様のように目に映る。とても遠くまで来たのだと実感してしまい、ため息をついた。
無言のまま三十分ほど走り、ホテルの車寄せで止まった。真っ白い詰襟の民族衣装を着たドアボーイがドアを開けてくれる。
「着いたよ」
剛の言葉を無視して、車を降りた。彼は窓を開けて、タイ語でドアボーイと言葉を交わしている。ドアボーイは返事をして荷台からスーツケースを下ろした。
「駐車してくる。部屋は美帆の名前で予約してるから。チェックインしてロビーで待ってて」
早口で言うと、走り去っていった。
フロントでチェックインしてルームキーをもらったが、剛はまだ現れない。疲れているので早く部屋に入りたかったが、仕方なくロビーのソファーで待った。目の前をドレスやタキシードで着飾った人たちが、香水の匂いを振りまきながら通り過ぎていく。なにかのパーティーが開かれているのだろう。それをぼんやり眺めているうちに、やっと剛がやって来た。
「遅い」
「今日は大きなパーティーがあるらしくて、ホテルのパーキングが満車で。隣のビルまで停めに行かされたから……」
待たせてごめん、という言葉が聞きたかったから、言い訳がましい彼に腹が立った。
「これからどうするのよ」
「取りあえず部屋に荷物置いて、飯食いに行こう。おいしいトムヤンクンの店があるから」
「トムヤンクンなんて嫌い」
わたしは立ち上がってエレベーターへ向かう。
「何階?」
エレベーターに乗ると、彼が聞いてきた。
「十五」
ぶっきらぼうに答える。
十五階で降りると、わたしは目指す部屋へとスタスタと先を歩いた。部屋に入り照明やエアコンを点けたら、することがなくなって椅子に腰かけた。彼はベッドの上に乗ってテレビを点け、日本からの衛星放送にチャンネルを合わせた。
「ベッド、汚くしないで」
剛はわたしの言葉を無視してテレビを見ている。しばらくすると部屋のチャイムが鳴ったので、彼はドアへ向かった。ボーイがスーツケースを運んで入ってくる。剛がチップを渡すと、微笑みながら両手を胸の前で合掌するタイ式の礼をして出ていった。
「じゃ、晩飯に出かけようか」
「どこへ行くのよ」
「シーフードはどう」
「そんなの、今は食べたくない」
「困ったな。何がいいわけ? 美帆が決めて」
わたしはしばらく考えた。
「食べ慣れないものより、日本料理がいい」
「わかった」
彼は顔色を変えずに答えた。
ホテルを出たら、すでに日が暮れていた。タクシーに乗って五分ほどで降り立った場所は、歩道に沿って屋台がぎっしりと軒を連ねていた。屋台から発している照明は煌々と明るくて、まるで芝居の舞台のようだ。ランプータンやドラゴンフルーツなど南国特有の果物が山盛りになっていたり、見たことのない獣の生肉を串刺しにして並べていたり、揚げた昆虫を売っている店などが目に飛び込んでくる。それら食べ物屋の間に、Tシャツ、バッグ、時計、靴、ライターなど雑貨の店が無秩序に混じっていた。
わたしは車道からの排気ガスに屋台の食べ物やプロパンガスの臭いが混じった空気が気持ち悪くて、鼻をつまんだ。歩道は屋台に占拠されて狭く、雑踏の中を剛について歩いた。しばらくして「日本の酒」という暖簾のかかった店に入った。
「イラッシャイマセ」
タイ人の店員が、いっせいに声を上げた。慣れた様子で剛が会釈すると、若い女の子が畳の個室へ案内した。畳は茶色く変色し、擦り切れてささくれ立っている。日本を発ってから履きっぱなしの靴を脱いだら、ほっと人心地がついた。
「あぁ、疲れたわ」
思わず声が出た。
ビールを注文した剛は、おしぼりで手を拭いている。
「明日は俺の農園を見せるよ。あさっては、どこかへ観光に行こう。しあさっての帰国便は深夜だから、それまで買い物に連れていくよ」
店員が注文を取りに来たので、彼は話をやめた。メニューを見て適当に注文したらビールが運ばれてきた。乾杯もせずに口をつけると、乾いたのどが潤っておいしい。疲れからなのか、ほどよく酔いがまわっていく。
「農園はどう? 順調にいってるの」
「まあな」
「まあって、どういうことよ」
「始めたばかりだし、いろいろあるさ」
「いろいろって?」
「一言で説明するのは、難しいけどな。成木を買って移植したら、全部枯れてしまったりとか」
「枯れたら損でしょ。だいたい、何がきっかけでこんな国で仕事始めたのよ」
「きっかけか……」
彼は考え込んだ。
「最期のチャンスだと思ったからかな」
「最期のチャンスって、なんの?」
「俺の人生の」
「わたしと離婚して、人生をやり直すチャンスと思ったわけ。勝手すぎるね」
「ちがうって」
「だったら、ちゃんと答えて。わたしは理由が知りたいから、こんな遠くまで来たわけ。剛が離婚したい理由、わたしに相談もなしにタイへ行ってしまった理由を。それがわからないと、次に進めなくて……」
声が震えた。
「俺はずっと自分の力で何かしたかったんだ」
彼は、ビールを一気に飲み干すと、覚悟したように話を始めた。
「大学出て、すぐに兄貴の会社で働き出しただろ。仕事は、それなりにやりがいもあったけど。いずれ自分で会社したいなぁって、ずっと考えていたんだ。もちろん、アパレルじゃなくてな。半年前、大学の先輩からタイへ来ないかと電話があって。先輩に会って話を聞いたら、ジャトロファを育てる農園を始めたけど、都合で帰国しないといけないから引き継がないかって」
「なんで、先輩は帰国したのよ」
「父親が病気になったから、実家の仕事を継ぐからって」
「嘘っぽいよね。上手くいきそうにないから、押しつけられたかも。騙されてない?」
「美帆に話すと、すぐにそう言うだろ。だから相談できなかった……」
「わたしのせいにするわけ!」
「そうじゃないけど。でも、話を聞いたら悪くないと思ったんだ。これからのエネルギーだからね、バイオディーゼルは」
「へぇ」
「サトウキビやトウモロコシから作る燃料がバイオエタノール。これにガソリンを混ぜたものをE15として、タイではガソリンスタンドで売っている。E15は、バイオエタノールが十五パーセント含まれているという表示なんだ。アメリカやブラジルでも売っているらしいよ。でも、バイオエタノールは食料の高騰を招くから問題になった。それで食べられないジャトロファが注目され、先輩はいち早くタイで始めたんだ。実際、実を収穫して種を取り出したら、買ってくれる会社は沢山あるから」
「資金はどうしたのよ。成功して売れるまで、滞在費も要るし、人件費もかかるでしょ」
「まず農園の借地料は先輩が三年分、払い済み。実は、このお金が返ってこないこともあって、俺に勧めてきたんだ。成功したら、借地料は先輩に返すけど、万が一、失敗したら要らないってさ。滞在費は一ヵ月三万もあれば生活出来るから。俺の農園はバンコクと違って田舎だからね」
「人件費は?」
「ファーマーひとり当たり、一日、五百円」
「たった、五百円? 日本の時給にもならないじゃない!」
「そうだよ」
「かわいそう……」
「そんなことないよ。いい仕事が出来たと、村のみんなは喜んでくれてるからね。これ以上の話は、農園を見てからにして」
剛は不機嫌に口を尖らせた。
会話はそれで途切れてしまい、後は出てきた料理を黙々と食べた。
タクシーでホテルまで戻った。わたしが降りると「明日、八時に迎えに来るから」と剛は言い捨て、タクシーに乗ったままどこかへ走り去っていった。
あくる日、剛のピックアップトラックでホテルを出た。幹線道路は渋滞していたが、それを抜けて高速道路へ入るとすいていた。車中で会話はなく、夕べ剛がどこへ泊ったのか聞きたかったが、言い出せずにいた。
ホテルを出て三時間経った頃、高速道路が終点になり一般道に出た。道路沿いの景色を眺めていると、飲み物や菓子を売っている店がいくつか並んでいる。
「喉が渇いたんだけど」
わたしはノボリがはためている店を指した。
「もうすぐだけど、このへんで休もうか」
その店の前で車が停まったので、彼に「水が飲みたい」と伝えて降りた。
冷蔵庫や商品棚の向こうに、プールサイドにあるようなプラスチック製のテーブルと椅子が並んでいる。そこに向かい合って腰かけた。テーブルの上にある赤い唐辛子などの調味料にハエがたかっていた。ここは食堂も兼ねているようだ。
「昼には早いけど、ラーメン食べるか」
「この店、不潔じゃない」
「このへんではキレイなほうだよ。ここから先は店もないから。食べるところは屋台だけになる」
「じゃ、食べてみる」
女の子がラーメンを運んできた。鮮やかな緑色をした生野菜が山盛りになり、麺をおおっている。スープに口をつけると、あっさりとした味だったので、ラーメンを食べ始めた。
「パクチーは食べないほうがいいよ。慣れないうちは」
剛は緑色の野菜を箸でつまみ上げた。
「なんで」
「臭いがきついし、食べると苦いから」
パクチーを嗅いでみたら、独特の香りがする。
「これは無理」
顔をしかめた。
「だろ。カメムシの臭いって言われてるからな。もう俺は慣れたけど」
「カメムシの臭いって」
わたしはラーメンを食べる気が失せて、ほとんど残した。
再び、農園へと車で走った。いつの間にか眠っていたようで、剛に起こされた。車体が激しく揺れている。砂利道に入ったようだ。フロントガラスから外を見ると、土けむりが巻き上がって良く見えない。
「美帆、見て! 俺の農園に着いたよ」
剛がうれしそうに大声を出した。
車を農道に停めて降り立つと、真上から太陽が照りつけてまぶしい。辺りは、土と肥料が混じったような匂いで臭い。農道から広がった農地に目をやると、木が等間隔で整然と植わっている。その並木は向こう側へと続き、終わりが見えないくらいだ。
「どこまで続いてるの。すごく広い」
「ほら、向こうに大きな木が見えるだろう。あそこが境界なんだ」
彼は遥か向こうにひと際そびえ立つ、一本の大木を指した。それは、まるで蜃気楼のように見えて、今にも消えそうだった。
剛は荷台から鎌を取り出して、農地へ入った。わたしも歩いて行くと、履いているローファーが柔らかい土にのめり込まれていく。彼は一本の木で立ち止って「これがジャトロファ」と言った。
ジャトロファの葉はイチジクの葉に似ていて掌状をしているが、葉先は尖っていた。枝には黄色や緑色した姿形が枇杷に似た実が生っている。
「黄色い実の種は、一番多くオイルが搾れるんだ」
「へえ」
「ここら辺の木は、よそから買ったんだ。一回目に移植したのは枯れたから、これは二代目。成木だから実が生るのが早いよ」
彼は奥へ進み、ジャトロファの根元から生えている雑草を鎌で示した。
「こいつがやっかいなんだ。早めに刈らないと太くなってしまい、手が血まみれだよ」
木に絡んで伸びている雑草をよく見たら、バラのように棘だらけだ。
「軍手してもダメ?」
「ちょっとはマシだけど、汗で気持ち悪くなるんだ」
「怪我するよりは、いいじゃない」
「じゃあ、ちょっと試してみるか」
彼は車に戻り、私のための軍手と鎌を持って来た。軍手をはめると、指の部分が土の汚れでゴワゴワしている。気持ち悪いので叩いたが、落ちない。さっそく雑草を刈りはじめたので、わたしも鎌を握った。棘が刺さらないよう気をつけて掴み、刃を当てて手前に引く。茎は見た目より丈夫なようで、一度では切れない。何度か当てたら刈り取れたが、額から流れる汗が目に入ってきた。
「わたしには無理」
鎌を置いて軍手を脱ぐとスッキリした。彼は黙々と雑草を刈り取っている。
「車で待ってるから」
わたしが叫ぶと、彼はポケットからキーを取り出して投げ寄こした。
エンジンをかけてエアコンを入れた。太陽に当たっていたのは短い時間なのに、ミラーをのぞくと顔が真っ赤で、なかなか火照りがおさまらない。携帯おしぼりで顔や手を拭いた。車窓から剛の姿を見ていると、どんどん奥へ進んで行く。わたしは空腹を覚えてしまい、日本から持って来たスナック菓子を食べ、先ほどの店で買った水を飲んだ。それからシートを倒して、目をつむった。
一時間ほどで、剛が車に戻ってきた。
「次は収穫をしよう。今度は楽しいから」
車にいるのも退屈なので、誘われるまま再び外へ出た。太陽は相変わらず強い光を放ってくるので、軽くめまいを感じる。
「ちょっとはマシになるよ」
剛は、ひしゃげた麦わら帽子を渡してくる。わたしは「いらない」と荷台へ放った。
「持って」
ゴミ袋くらいのズダ袋を持たされた。下草を刈り取った木の側に、二人で立った。一本の枝には十個くらいずつかたまった実が、何箇所にも生っている。もいでみると簡単だった。
「緑色のやつは採らないで」
「わかってるって」
剛は先へどんどん進んでいく。
実を入れたズダ袋はすぐに重くなり、地面に置いた。中を覗くと、やっと底が隠れるほどの量だ。もう一度車内で休むことにした。小一時間くらいで、ジャトロファの実でいっぱいのズダ袋を二つ下げた剛が戻ってきた。わたしは窓を開けた。
「美帆の袋の続きもやったよ」
「案外、重いものよね」
なんだかバツが悪く、言い訳した。彼のTシャツは汗まみれで身体にへばりつき、茶色いシミが飛び散っている。
「このシミ、なに?」
「ジャトロファの樹液だよ。これは洗濯しても落ちないからね。美帆の服は大丈夫だったかな」
急いで新調したばかりのカットソーを確かめたら、肩にシミが付着していた。
「早く教えてよ。もう汚れちゃった」
「ゴメン。こっちに来てからは、服に無頓着になったからな」
「剛、変ったね」
「そうかなぁ。疲れたしあそこで休もうか」
指した方向を見たら、大きな木の下にテーブルとベンチがあった。
彼は荷台にズダ袋を積んで、車に乗った。農道をゆっくり走って木の傍で降りたら、太陽が傾いて日差しが弱くなっている。
テーブルの横に大きな水瓶がある。彼は中に浮いている桶で水をすくい、手を洗った。
「気持ちいいなぁ。美帆も洗ったら」
「キレイ?」
「雨水を貯めているから、あまりキレイとは言えないな。でも、飲まなかったら大丈夫」
水瓶を覗くと濁っていたので、「もう携帯おしぼりで拭いたから」と答えた。
木陰のベンチで向かい合わせに座った。どこからか風が吹いて、思ったよりも涼しい。
「こんなに広い農園を管理するのは大変でしょ。上手くいきそう?」
「この土地のオーナー一家と、近所の農家の人を雇っているんだ。彼らは早朝と夕方働いてくれる。今は昼寝の時間だよ。ファーマーだから何かと工夫してやってくれるし、心配ないって」
「だったらいいけど。ねぇ、いったい何を考えながら、雑草を刈ったり実を採ったりしてるの」
「なんだろうな。だいたい頭は空っぽかな。お金の計算をしている時もある」
「なんのお金?」
「毎月必要な金、これから要る金、儲ける予定の金」
「金儲けのために、わたしが邪魔だから離婚するの?」
「そうじゃない。ただ、自分の力でやってみたかっただけ」
「相談してほしかった」
「ゴメン。反対されて実現出来なくなるのが怖かったんだ。俺、優柔不断だったから」
剛に相談されていたらと考えた。安定した生活を捨ててしまい、外国で先行き不透明な仕事をするなんて、やはり反対したに違いない。
「反対したかな。でも決める前に言ってほしかった。それが夫婦だと思うから」
返事をせずに彼は立ち上がって、ズダ袋を運んできた。
「種を出そう」
「どうやって?」
「簡単だよ、ほら」
彼はズダ袋からテーブルに実をあけた。一粒手にして爪を立てて割り、中から真っ黒なドングリのような種を取り出した。わたしも真似てみる。力を入れなくても種は取り出せた。
「種は桶に入れて。殻は地面に落して。後で堆肥にするんだ」
地面にあった金属のタライをテーブルに載せると、二人で種をせっせと入れていった。
「何年くらいタイで仕事するつもりなの」
手を動かしながら訊ねた。
「土地を借りた三年はやるよ」
彼も手は止めない。
「いきなり離婚届を渡すなんて、ひどいと思う。わたし、剛の思いを聞きたかったのに」
いつの間にか、種は山盛りになっている。取り出した種を載せたら、タライの外へ零れ落ちていった。
「『俺が待ってほしい』って言ったら?」
真剣な眼差しを向けてきた。
「今は、わからない」
見つめ返して答えた。
「そろそろ戻ろうか」
彼はタライの種と地面の殻を別々の袋に入れた。
わたしは立ち上がって木陰を出た。気温は相変わらず高く、すぐに汗が噴き出した。
農園を出て幹線道路をしばらく走ると、別の農道へと曲がった。そこは一面がパイナップル畑だった。
「ナクンさん」
剛は窓を全開にして叫んだ。
パイナップルを収穫している男が、こちらに手を振った。そばには、麦わら帽子を被った小学生くらいの女の子もいる。
バイクの横に車を停めて、二人でナクンさんのいる所へ歩いた。ナクンさんは作業の手を休めて「サワディーカップ」と両手を合わせた。女の子も、恥ずかしそうに後ろであいさつしてくれる。
「土地のオーナーの息子さんのナクンさん。こちらは妹さんのミュウちゃん」
剛はわたしに二人を紹介した。
「美帆さんですね。ワタシの名前はナクンです。バンコクで日本語学校にいました」
ナクンさんの瞳は、やさしく笑っている。
「それで、日本語が上手なんですね」
わたしも微笑んだ。
「今晩、ご飯を食べに来てください。今から、ミュウと先に行ってください」
いきなりの事で戸惑ったが、わたしは現地の暮らしぶりを見てみたいと思い承知した。ナクンさんはミュウちゃんにタイ語で指示した。彼女はわたしを見てから、一緒に車の方へ歩きだした。剛のピックアップトラックは二人乗りなので、どうやって乗ろうかと案じていたら、彼女はタイヤに足をかけて、ひらりと荷台へ上がった。
「荷台に乗って大丈夫なの」
「ここでは皆乗ってるよ」
言われてみれば、ここに来るまで荷台に人が乗っている車を何台も見かけた。
ミュウちゃんを乗せて、走り出した。心配になり、後ろの小窓から彼女の様子を見た。麦わら帽子を被ったまま、こちらに背を向けて風に吹かれている。
「帽子、よく飛んでいかないね」
「俺が乗る時は脱ぐね」
「剛は不器用だもんね」
「そうじゃないけど」
彼は照れ臭そうに笑う。
「ナクンさんたちって、何歳?」
「ナクンさんは二十二歳で、ミュウちゃんは十四歳」
「ミュウちゃんは中学生なんだ。もっと幼い感じがするわ」
「タイの人は日本人と比べたら、背が低くて細いからな」
しばらくすると住宅が並ぶ脇道へ入った。二階建ての家の前で停まると、ミュウちゃんは荷台から飛び降りて家に駆けていく。車を降りたわたしたちも付いていった。
一階はドアや壁がなく、手前の部屋は外からは丸見えだ。どうやら仕切りになるのは、上がったシャッターだけのようだ。部屋の真ん中に大きなダイニングテーブルと椅子が置かれ、壁際には時代物のテレビがあった。床は大理石のようで、光っている。わたしはミュウちゃんと同じように靴を脱いで上がった。彼女は手招きして椅子に腰かけるように勧めてくれ、奥へ消えていく。
二人並んで手持無沙汰にしていると、ミュウちゃんはコーヒーカップをお盆に載せてきた。ぎこちない仕草でわたしの前に置いてくれる。中を見たら薄い茶色をしているので、コーヒーではなさそうだ。一口飲むと、熱いお茶だった。
「ここでお茶は初めてだよ」
「今まで、飲み物は出なかった?」
「いや、だいたい水だったな。たまに炭酸飲料。タイ人はお茶を飲む習慣がないから。人によってはコーヒーを飲むようだけど。今日は美帆のために特別に用意してくれたんだよ」
「そうなんだ。なんか嬉しいわ」
家の前にバイクが停まり、ナクンさんが降りてくる。
「暑くないですか? ちょっと待ってくださいネ」と言いながら、奥へ行った。
お茶を飲み終わったころ、服を着かえたナクンさん、ミュウちゃんが料理を運んできた。貝類、肉類などを食材別に野菜と炒めたものだ。スープはエビと野菜が入っている。最後は皿に盛られた白いご飯を配ってくれた。フォークとスプーン、紙ナプキンをセットしてくれ、四人でテーブルについた。
料理を自分のご飯の横に取り分けて、食べてみた。タイ料理は辛いと思っていたのに、香辛料の味はしなくて食べやすい。
「おいしいですか」
「ええ、とてもおいしいです」
ナクンさんに答えたら、彼は「良かったです」と頷く。
「ナクンさんは、なんで日本語を勉強したのですか」
「日本語が出来ると会社の給料が良かったのです。でも、ワタシのお父さんが病気になり、ここに戻ってきました。農業する人がいなくなったからです」
「お父さんの病気は心配ですよね」
「ちょっと、元気になりました。今日は、お姉さんの家に行ってます」
わたしがナクンさんと会話している間、剛もミュウちゃんとタイ語でしゃべっていた。時々、ミュウちゃんは笑い声を上げ、楽しそうだ。
「あなたの夢はなんですか?」
「夢ですか」
突然の質問に驚いて、わたしはフォークを置いた。
「ワタシの夢はリゾートホテルのオーナーです。ここから二十分の所に温泉があります。そこに小さなホテルを建てるのが夢です」
わたしの夢はなんだろう。薬剤師になってから、そんな事は考えたことがないように思う。
「わたしの夢は……、これから見つけます」
笑ってごまかした。
「剛さんの夢はなんですか?」
「俺は世界一のジャトロファの農園を作ることだな」
「剛さんはガンバってますネ。ワタシもガンバリます」
力強いナクンさんの物言いがおかしくて、三人で笑った。
食後の果物を食べ終えると「明日、農園でお会いしましょう」と言われた。今日バンコクへ戻る予定だったのに「また、明日」と答えて家を辞した。
すっかり日は暮れてしまい、ヘッドライトだけを頼りに夜道を走っていく。
「明日、どうしよう」
「農園に来る?」
「うん、ナクンさんと約束したしね」
「バンコクのホテルに戻ったら往復が大変だし、近くのホテルに泊まったら」
「こんな田舎にホテルがあるんだ」
「ナクンさんが言ってた温泉のそばに、リゾートホテルが一つあるから」
「キレイ?」
「けっこう」
「でも、着かえがないし」
「俺のアパートに寄っていこう。Tシャツとかなら、着れるだろ」
それから彼はアパートの説明をした。新築のワンルームで、月に二千五百バーツ(約七千五百円)で借りていると。
アパートに着き、彼がドアを開けた。見渡すと広さは八畳くらいで、ベッド、冷蔵庫、テレビのほかは何もない。衣類は部屋の片隅に雑然と積み上げられている。
「トイレやお風呂は?」
「廊下の突き当たり」
「共同?」
「そう。風呂はシャワーしかないけど、コインを入れると湯が出るから高級だよ。ここでは、水のシャワーが普通だからね」
「洗濯は、どうしてるの」
「洗濯屋さんに頼んでいる。袋に入れて渡すと、パンツにまでアイロンかけてくれるんだ。デリバリーだから楽だよ」
「食事は?」
「ナクンさんの所で世話になるか、近くの屋台に行くか」
「そう」
椅子がないので、二人並んで腰かけた。
「疲れただろ。馴れない野良仕事したし」
「まあね。たいした事してないけど、暑いから結構キツイよね」
「俺は毎日が充実してるんだ。この部屋に帰って来ると、泥のように眠るだけ。朝は夜明けとともに目覚める。ニワトリや野鳥がうるさいほど鳴いて起こしてくれる」
「剛に言えなかった話がある」
「どんな?」
「真由ちゃんが妊娠した時だけど」
剛の妹、真由との出来事を話しはじめた。
「真由が何かしたのか?」
「剛の実家に泊りに行った時にね……」
わたしが居間に入っていくと、義母と真由は何かのカタログを楽しげに見ていた。二人はわたしに気がつくと、慌てて仕舞いこんで取り繕った。不審に思ったので、一人になった時にこっそりと取り出してみた。それはベビー用品のカタログだった。
「それのどこが気に入らない?」
彼は不思議そうに首をかしげた。
「わたしに赤ちゃんが出来ないからって、変に気をまわして隠したことが余計なのよ。傷ついたんだから」
「でも、悪気はなかったと思うよ」
「悪気のないほうが、かえって罪深いのよ」
「今頃言わないで、その時に話してくれたら良かったのに」
「話すことで二重に傷つくから、言えなかった」
気まずくなり互いに何も話さず、クーラーの音だけが部屋に大きく響いた。しばらくして、ホテルへ送ってと頼んだ。
夕べはホテルのバスローブを寝巻き代わりにして寝た。シャワーの後、剛のTシャツを着た。首のまわりはくたびれ、樹液の茶色いシミだらけだ。化粧品は持っていたので、日焼け止めをていねいに塗りこんだ。
早朝だったが時間通りに剛が現れて、農園に向かう。昨日、収穫した場所よりもかなり奥で車が停まった。車窓から見える農地は、何も植わっていない更地だった。ただ、トラクターの轍が真っすぐの線で浮かび上がっている。ナクンさんとミュウちゃんの姿が見えた。
「苗を植えよう」
車を出ると、剛は農地を指した。
「苗って、何の?」
わたしは横に立って聞いた。
「ジャトロファに決まってるよ。一ヶ月前、ポットに種を植え付けたんだ」
近づいてよく見たら、二十センチほど芽吹いた苗木が黒いポットに入って、等間隔に遠くまで並んでいる。
「これを全部植えるの」
「そうさ。ポットで育ち過ぎたからね」
ツルハシとシャベルを担いで農地へ入っていくので、付いて行く。
「ここを掘って」
ツルハシで一つのポットを指して、シャベルを渡してくる。
地面にシャベルを突き立てた。思いのほか土は硬くて、歯が立たない。
「粘土質だから掘りにくいんだ」
彼は話しながら、同じ場所にツルハシを何度か振り下ろした。茶色の地面が割れて、赤い地層が見えてくる。うながされて、わたしはシャベルで土を除けていく。
適当な穴になったようで、彼はポットから苗木を出してそこへ置く。
「立てといて」
わたしは苗木が倒れないように支えた。彼はシャベルで苗木の根元に土をかけていく。
同じような作業を二人で続けた。汗がすぐに流れたが、タオルで拭きながらしのいだ。近くでナクンさんとミュウちゃんも、助け合いながら作業している。
かなり時間が経ったように思い、植え終わった苗木を数えてみた。まだ、三十本しかいってない。
「休憩したい」
「この列が終わったらしよう」
先を見たら果てが見えない。
「喉が渇いて死にそう」
「昨日の木陰で待っといて。車で行ったらいいから」
「どうしよう。一人で行くのは嫌だな」
「じゃ、車で涼んでおいでよ」
車に戻り、水を飲んで汗がひくのを待った。休んでいるとナクンさんたちに恥ずかしく思い、早目に戻った。
再び作業を始めると、ナクンさんたちは息が合っているのか、わたしたちより相当早いことに気がついた。なぜか「こっちも負けてられない」と、わたしは頑張りだした。だからなのか、かなり手際よく進むようになる。
「美帆さんも働きますネ。競争デキマス」
ナクンさんが、けしかけてくる。
「そうだ。十本植えるのは、どっちが早いか賭けよう」
それからは暑さを忘れ、夢中に植え続けた。ナクンさんたちも必死になって掘っている。最後の三本は接戦で、カウントダウンして、ほぼ同時に植え終わった。
「ワタシたちの勝ちですネ。コーラをおごってくだサイ」
「俺らが早かった! 負けはナクンさんだよ。ビールを奢って」
四人は顔を見合わせて、爆笑した。それから空のポットを皆で拾って、農道に戻った。ミュウちゃんが学校へ行くので、ナクンさんは送って行くと言う。わたしたちは、昨日の木陰で休む事にした。
ベンチで涼んでいると、突然、風が吹き始めた。
「スコールが来るな」
空を見上げた剛が呟く。
「ほんとう?」
一段と強い風が吹き、空が暗くなった。心配になり山の向こうを見たら、ネズミ色をした雲の塊が流れてくる。
「俺、タイに来てから、雨雲の切れ目に立った事があるんだ」
「雨雲の切れ目って」
「雨と晴れの境目。面白いんだよ。五、六歩行くと晴れで、戻ると雨」
「嘘みたい」
「雨と晴れを行き来するうちに、美帆にも見せたいって思ったよ」
その時、肩に雨粒が落ちてきた。瞬く間に、テーブルに水滴の輪がいくつも出来て広がっていく。
「しまった。荷台に昨日の種を置いたままだった」
彼は車に駈け出した。わたしも木陰を飛び出すと、雨粒が強く打ちつけてくる。
「シート掛けるのを手伝って」
剛が叫んだ途端、雷が鳴り響き、雨が轟音を立てる。
わたしは彼が広げたシートカバーの端を持ち、二人で荷台に取り付けかかった。化粧が流れ落ちて目に入り、何度もTシャツの袖で拭う。
「出来た。乗ろう!」
二人同時に、車内へ飛び込んだ。
「凄い大雨。まさにバケツをひっくり返したような感じ」
「今は雨季だから、俺は慣れっこだ」
彼が手渡してきたタオルで顔や身体を拭う。エアコンの風が当たると、身体が震えた。
「寒い」
「スコールで十度は気温が下がるんだ」
「風邪引きそう」
わたしは鼻をすすった。
「これに着替えて」
手渡されたTシャツからは、素朴な石鹸の匂いがする。
「いい匂い」
「そうかな。毎日着ていたら、わからないよ」
彼も着替えて、わたしを見た。
「美帆、顔に泥が付いてる」
剛は手のひらで、頬を優しくなぞってきた。
なつかしい温かさを感じる。
「俺、勝手で悪かった。ごめんな」
「うん」
「本当は一緒にここへ来たかった。でも、成功するかわからない仕事に『ついて来い』とは言えなくて」
涙が溢れそうになり、フロントガラスに目をやった。雨水は屋根から滝のように流れ、外の景色が見えない。
「たった一言で良かったのに。一緒に行こうって」
力強く剛に抱き寄せられた。憶えのある彼の匂いがする。わたしは目を閉じて息を吸い込んだ。
「マロンがわたしを待ってるから、帰らないと」
「わかってる」
そっと彼から身体を離した。まだ、温もりが残っている。
「ここで剛は夢を見つけたんだ。わたしも夢を見つけなければね」
「美帆なら、きっと大丈夫」
気がつくと雨足が弱まって、徐々に日差しが戻ってきた。剛はワイパーを動かした。フロントガラス越しに見たジャトロファの並木は、濡れて輝いている。わたしはこの景色を頭に焼きつけておこうと、瞳をこらした。
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