海への日   奥野 忠昭



 彼女とは、ある文化団体が主催している読書会で知りあった。知り合ったといっても、ほんの時たま雑談を交わす程度の間柄である。
 俺は本を読むのが好きだ。それで、一度話を聴いてみたいと思っていた作家の講演会がその団体の主催で行われ、それを聴きに行ったのがきっかけで、月に一度読書会があることを知り、それに参加した。彼女もそこに参加していた。
 彼女の歳は、三十歳半ばぐらいと思われるのだが少し若く見える。離婚歴有りという噂もあった。控えめだが何か芯のありそうな感じがする。俺はそんな女が好きだ。それに、時々見せる寂しげな表情にも興味を覚えた。
 それで、先日の読書会の帰り、駅に向かう途中、たまたま、ウイークデーの同じ曜日が休日だということを知り、一度いっしょに港へ海を見に行かないか、と誘ってみた。すると、彼女はいとも簡単に、いいわ、わたし、海を見るのが大好き、それに、船が段々遠くなっていくのを見るのも大好き、と言った。
 だが、今になってもまだ本当に彼女が来るとは信じられない。今までにも、何人もの女をデートに誘ってみたのだが、その日は他の人との約束があるのでとか、息子が今風邪を引いているから、主人がその日に出張から帰ってくるので、などと言って体よく断られた。しがない塾の講師で妻に逃げられ、四十歳を越えてしまった俺に、すでに男の魅力が失せてしまっているのかもしれない。
 俺は、午後一時近くの、広々とした駅のホームの待合室の椅子に座った。待合室には俺以外には人はいなかった。俺にとってはこの線が便利なのだが、どうも、この駅から港に行く人は少ないようだ。彼女は港近くを走っている別の線で行くと言っていた。それで、彼女の降りる駅を待ち合わせ場所にした。
 何気なく顔を上げ、戸口の方を見ると、ガラス戸の向こうから老婆が一人待合室に入ってきた。手には大きな袋状のバッグをさげ、臙脂の地に褐色の水玉模様の入ったワンピースを着ていた。八十歳に近そうで、周囲に鍔が丸く付いている黒っぽい帽子をかぶり、背筋はやや前屈みになり、背もかなり縮んでいた。ワンピースの裾から出ている痩せ細った足に目をやると、臑の上方あたりにちらっと靴下の留めゴムが見えた。化繊の靴下も、足が細いためか、ぴっちりとは肌につかず、あちこちに皺が寄っていた。
 老婆は待合室の扉のところで立ち止まると、部屋を見回した。待合室には、俺しかいないのを確かめると、鋭い目で俺の方を見た。
 もっとたくさんの人がいると思っていたのに、俺一人しかいないことが不満だったのか、眉間に皺を寄せ、何かを訝るような顔付きをした。その表情が、なんとなく俺の母親に似ていた。
 そういえば、俺の母親より少し年齢が高いが、顔付きもよく似ている。顎の反り、喋ってもいないのにいつも動いている唇、少し張り出した頬骨、細かく揺れている頭。それらはみな同じだ。
 嫌なものを思い出した。こんな時、母親を思い出すなんて最低だ。母親のことを考えるのはもうこりごりだ。思い出すごとに気が滅入り、自分の身の処し方にまで自信が持てなくなる。母親を批判するのは難しい。それに引き替え、母親の方は自信たっぷりだった。どうだ、やっぱり、親というものはかけがえのないものだろう。母親はいつも、お前にはなくてはならないもので、何ものとも取り替えられない。いくらわたしにたてを突いたところで、そんなものはたかがしれている、そんな顔付きをしていた。
 俺は無意識に床に唾を吐きつけた。それを見た老婆は俺を睨みつけた。
 母親は一年前に死んだ。もう俺とはまったく関係がない。
 老婆は俺を見ることを止めない。ゆっくりと近づいてきて、声を掛けてきた。港へ行きたいのだが、ここで乗ればいいのか、どの駅で降りればいいのか。
 港か、それなら俺も行く、と言ってしまった。それを聞いた老婆は一気に顔中の皺をゆるめて笑った。
 それはちょうどいい、いっしょに連れていってもらえないか、何だかそんなふうに思えてならなかった、こんな歳になっても勘だけはよく当たる、と言った。
 老婆は俺の横の椅子に座った。
 何だってつまらないことを言ってしまったことか。こんな老婆を連れて女に逢いに行くなんて、最初から逢瀬を台無しにしてしまうような気がした。
 老婆は安心したように、俺の方に身体を寄せてくる。それに、一切の緊張を取り去り、居眠りでもしそうなほど目を細めている。いっそう居眠りでもしてくれないか。そうすれば、そっと椅子から立ち上がり、トイレでも行く振りをして、老婆を振り払うことができる。約束の時間までにはまだ間がある。電車を一台ぐらい遅らせても大丈夫だ。
 俺がそっと立ち上がろうとすると、その気配を察してか、慌てて老婆はバッグに手をかけ、立ち上がろうとした。だめだ、この調子だとトイレにまで付いてくるかもしれない。
 そうこうしているうちに、早くも電車がやってきた。乗るしかないな、と思い、待合室を出た。
 乗ってからだって老婆を振り切ることはできる。ああ、約束を思い出した、俺は次の駅で降りる、済まないがあなた一人で行ってくれ、降りる駅なんてすぐにわかる、などと言えばいい。
 あんたは薄情な男だ。困っている老婆を見捨てるつもりか。約束なんか嘘、私を道案内するのが嫌でそう言っているのだ。私を馬鹿にしてはいけない。そんなことがわからないで人生八十までは生きておれない。あんたみたいなひとは最低だ。人の屑だ。老婆の声が心のどこかでする。
 そうだ。俺の母親も何度も俺にそう言った。女手一つで育ててやったのに、私の面倒をみるのを嫌がって、鬼みたいな男だと。
 車輌の扉が開き、俺と老婆は並んで電車に乗った。車内はすいていた。乗客は数人だった。座席に座ると、老婆は、先ほどと同じように俺の横にくっ付いて座った。
 対面には、お互いに突き合ったり、顔を見合わせて笑い合ったりしている少年たちがいた。彼らはみんな大きなバッグを持っている。中にはサッカーボールでも入っているのだろうか。
 彼らを見ていると、彼らの上には太陽があって、ふんだんに光が降り注いでいるように思えた。
 もうすぐだ、俺の上にだって明るい陽が一杯に降り注いでくる。女といっしょに海辺を歩くことができる。
 少年たちは次の駅で降りた。車内は急に静かになった。乗客たちのすべてが消えうせたように思えた。
 俺にもあんな生気が溢れ、熱い塊のような時期があったのだろうか? 何だかなかったような気がしてならない。俺には全力で何かにぶつかった経験がない。そんなことをしたら危ない、止めておけ、と言うのが、母親のいつもの口癖だった。
 水泳は水におぼれるから止めておけ、魚釣りは池に落ちるから止めておけ。山登りは危険だから止めておけ。野球はボールが頭に当たったらどうする。酒は飲むな、あんなものは身体には百害あって一利なしだ。女などと付き合うな、悪い女に引っかかったらどうする。本は読むな、家にばかり籠もっていては病気になる。
 病気と言えば俺は子どもの頃からよく病気をした。赤痢、腸チフス、百日咳、流感、たくさんの伝染病にかかった。自家中毒や小児喘息という持病も持っていた。だから、母親の脅かしにはリアリティがあった。
 首をひねり、窓を見つめた。灰色にくすんだトタン屋根の工場、どぶ川と橋、陽に照らされている煉瓦造りのビル、ブランコとわずかばかりの遊具しかない小さな公園。街の風景が次から次へと飛んでいく。
 街は、すでに夏に向かっている。熱気が感じられ、時々、緑の木々も現れ、その中から、先ほどの少年たちの歓声が聞こえてきそうだ。俺の心も、もうすぐ彼女に会えると思うと、甘い気分が生まれてくる。
 老婆が不意に俺の方を向き、口を耳元へ近づけてきた。
 これから島に住んでいる孫に会いに行く、孫と言ってももういい年だ、二十八歳の娘で子どももいる、孫の母親は、と言ってもわしの娘だが、交通事故に遭って早くに死んだ。それでわしが引き取って育てた、孫といってもかわいい娘と同じだ。
 老婆は顎を突き出して喋りつづける。俺は黙って聞いていた。
 孫には夫がいる、ぐうたらでどうしようもない、あの男とは絶対に別れさせる、孫はすでに夫から離れた、あとは子どもだけだ、あの男、子どもさえ手渡さなかったら、いつか嫁は帰ってくるとでも思っている、そうはいかない、そんなのは昔の話だ、子どもはきっと奪ってみせる、あんなぐうたらな男のもとでひ孫は育てさせられない。
 孫の婿はまだ許せる、悪いのは姑だ、あの姑はなっていない、婿に嫁の悪口を吹き込み、孫のすることなすことに文句をつけ、あれじゃ孫もたまったものじゃない、島だからまだ古い考えが残っているのだ、五十年は遅れている。
 老婆は喋りつづける。言うことが尽きると、また、同じことを繰り返す。
 老婆の話を聞いていると、ふと、婚約を済ませてから、妻になる女が初めて俺の家に遊びに来た日のことを思い出す。二階で女ととりとめもない話をしていたのだが、お互い興に乗り、深夜近くになってしまったので、タクシーでも呼んで、送っていこうかと思っていた矢先、階下から俺を呼ぶ母親の声がした。
 ちょっと待っていてくれ、何か様子を見てくる、すぐ戻ってくるから、と言って階下へ降りていった。
 母親は布団を敷いて、すでに部屋で寝ていたのだが、上布団は胸の下辺りまでめくられていて、寝間着の襟をはだけていた。俺の顔を見ると、苦しい、心臓が止まりそうや、と言った。確かに、胸の辺りが上下している。乳房の間に汗が流れている。
 俺は黙って突っ立っていると、こんな日に、病気になるなんて、とお前は思っているかもしれないが、本当に死にそうなんだからいたしかたがない、と言って、眼球を動かすことなく俺をじっと見つめた。
 嘘と思っているのか、ここに手を置いてみ、すごく早く心臓が打っている。母親は乳房の下辺りを細い指で指す。わかっている。いつものことだ、と俺は思う。置いてみ、置いてみ、と繰り返す。置いてしばらくじっとしていると心臓の早打ちはおさまることはわかっている。でも、俺は乳房の下には手を置かなかった。乳房は身体の中で最も老いにくいところだ。蛍光灯の光で柔らかな肉魂となってその存在を主張するかのように浮き上がっている。突然、母親が俺の腕を掴み、手をその上に置くように持っていった。凄い力だった。しかたなく掌を母親の胸に置くと、激しい鼓動が声のように伝わった。
 救急車でも呼びましょうか? と突然、俺の背後から女の声が聞こえた。慌てて振り向くと妻になる女が俺の方を向いていた。俺は怖かった。俺の心臓も早打ちを始めた。掌を離そうとしたが母親は腕をしっかりと握って離さない。
 時々、心臓発作を起こすんだ。静かに寝かせておいたらすぐに直る。しばらくあなたは二階で待っていてくれないか。
 ようやく、手を母親から剥がし、妻になる女の手を取って階段を上ろうとしたが、彼女はそれを振り払った。
 俺は今度は彼女の後ろに回り、強引に肩を掴み、二階へ押し上げるようにして、階段を上った。
 申し訳がない、こんな時に、と何度も彼女に謝った。
 階段を上るとき、母親を振り返ると、母親は刃物のような鋭い目で俺をじっと見ていた。
 妻もあのときのことは忘れられなかったようだ。俺とセックスをしているとき、時々、俺の顔をじっと眺め、あなた、おかあさんと似ているわね、と言った。親子だから仕方がないだろう、と言うと、わたし、あなたがおかあさんと似ていると思うと、遊びに行った夜、胸をはだけてあなたを見ていた、あのときのおかあさんの顔を思い出すのよ、と言った。
 妻は、セックスの最中に、時々、おかあさんが、おかあさんが、と言う。母親なんかいないじゃないか、ちゃんと、別居しているじゃないか、と言ったが、そんなときに限って、電話が鳴り、心臓がおかしくなった、早く見に来てくれ、と母親が言ってくる。
 妻はきっとあの若い男によって初めて性の世界へ行ったのだ。姑の目のないところで初めて彼女の性は開放された。
 電車はすでに海に近いところにさしかかった。あちこちに運河が見え、岸に繋がれたはしけや小型の貨物運搬船が見える。それらの上にすでに夏の兆しを含んだ陽が降っている。
 運河に沿って、ずんぐりとした倉庫がいくつか建っていて、丸形の屋根からは陽炎が立っている。空き地も見える。背の高い雑草が緑色の息を吐いている。
 俺は車窓から顔を出し、それらの匂いを嗅ぎたかった。きっと心を熱くしてくれるだろう。
 孫の夫は息子をかわいがる。あの男にだって父親らしい気持ちはある。男が勇気を出して、わしは母親とはいっさい縁を切る、そう言ってくれれば孫は帰るに違いない。本当は離婚などさせたくないのだが、あの姑がいる限りだめだ。彼女は鬼といっしょだ。老婆はそのようなことを相変わらず喋りつづける。
 それらのことを聞き流しながら、俺は、今日、彼女と逢って、いったい何をするつもりなのだろうか、と考えた。ただ、港を見、船を見、海を見、とりとめもない話をして帰るのだろうか。
 それでもいい、それが目的なんだからと思いながらも、一方で、それではつまらない、もっと他の関係にならなければ、と思う。
 車内から、降りるべき駅の名が告げられた。港に行くには、ここで降り、船に乗るのなら、かなり離れた港まで歩かなければならない。
 俺は時計を見た。彼女と約束した時間にはまだ間がある。でも、彼女はもう電車に乗っているだろう。ただそう思うだけで、心が高まる。不思議なことだ。
 彼女の方はいったい何を期待してやってくるのだろうか。なぜ、あんなにスムーズに俺の誘いを受け入れたのだろうか。
 車輌のスピードが落ち、ホームの人々の顔が見えた。もし、老婆を振り切るとしたら今だ、この駅でしかない。このまま老婆を引き連れて歩くなんて、ぞっとする。まるで、母親のお供をして病院通いをしていた、あのときの自分と同じような気がする。
 俺は身構えた。今日がいい日になるかどうか試されているような気がした。もうそろそろ俺にも運がめぐってきてもよさそうだ。
 横の老婆は疲れたのか、喋るのを止め、目をつむり、うとうとしだした。首を前に落とし、口先からよだれを垂らしそうな姿勢だ。明らかに彼女は油断している。
 俺は老婆を見ながら、彼女からの脱出を考える。
 再び、車内放送があった。たった二輛の小さな鉄道なのに英語の言い換えがあった。港があって外国人が乗っているとでも考えているのか。
 外国語に驚いたのか、老婆が目をあけ、辺りを見回し始めた。何ということだ、まだ、俺の運は完全には回復していない。
 ドアが開いて、人々は降り始めた。まだだめだ。今だと老婆がまだ付いてくる時間がある。飛び出したい気持ちを抑えながら、ドアの閉まる瞬間を待った。少しでもドアが閉まる気配がしたら、一気に飛び出すつもりだ。
 突然、子どもを抱いた女が俺の斜め前に立ち、港へ行くなら、ここで降りたらいいのか、と尋ねた。それがあまり突然だったので、そうだと言ってしまった。それを聞いた老婆は、身体をぴりと震わせ、バッグを脇に抱えると、ドアの方へ身体を傾けさせた、その瞬間、ドアの閉まる気配がした。
 俺は慌てて立ち上がり、ドアへ向かったが、それより先に老婆の方がドアへ向かい、ホームへ降りた。老婆は俺を見ると、口をもぐもぐさせ、何かを言いたそうだった。俺はそれを無視して歩き出した。老婆は付いてきた。
 俺は改札を出て、長い歩道橋を兼ねた通路を黙って歩いた。老婆の足は丈夫だ。俺に遅れることはない。
 不運だった。あの女さえあんなことを尋ねなければこの老婆を振り切ることができたのに。俺の計画が不備だったわけではない。ただ、以前からの不運がまだつづいているだけだ。
 道路に出る階段のところで俺は立ち止まり、ポケットからコンピューターから打ち出した地図を取りだした。彼女と待ち合わせることになっている駅を捜す。下の大通りを真っ直ぐ行けばそこに着く。
 人々が階段を下りていく。すでにショートパンツやミニスカートの女が多い。すらっとした足が軽やかに動いている。
 子どもたちの手を引いている若い夫婦連れがいた。港の近くにある水族館にでも行くのだろうか。夫の方はそのために休暇を取ったのか。
 彼らといっしょに、下の道路に降り、大通りを歩いた。老婆も遅れずに付いてきた。歩道の横の店先に自動販売機があった。飲料水の缶や瓶が陽を受けて色とりどりに輝いている。小さな子どもが手を伸ばして硬貨を穴に入れようとしている。小さな麦藁風の帽子の下に大きな耳がはみ出ている。薄青色の半ズボンから細い足がすらっと伸びている。俺はふっとあれは息子ではないかと思い、鼓動を高鳴らせた。あんなに小さなはずがないのに。
 野球帽をかぶった父親らしい男が近づき、下に落ちてきた瓶を取りだして子どものに手渡した。子どもはそれをしっかりと握った。
 息子はどうしているだろう。今頃はまだ学校で勉強中なのだろうか。それとも、休憩中で、友達とボール遊びでもしているのだろうか。息子は四年生になっている。
 息子のことを考えると心に穴があき、それがどんどん広がっていく。
 老婆は怪訝そうな顔をして俺を見た。どうかしたのか、額から汗がやたらと出ている、腹でも痛いのか? と尋ねた。いいや、別に、と俺は言う。
 子どもは瓶の蓋を取ってジュースを飲んだ。うまく口に当てられなかったのか、ジュースが口からこぼれ、顎の下に滴った。彼は不器用かもしれない。だったら、将来苦労するだろう。俺の息子もよく飲み物をこぼした。あいつも俺に似てきっと不器用に違いない。
 子どもが好きなのか、と老婆は尋ねた。いいや、あんまり好きじゃない。何もできないくせに、王様のような顔をしている、と答えた。あなたには子どもがいるのか、とまた尋ねた。いいやいない。妻もいないし、子どももいない、と答えた。
 信じられない、あの目は子どもを育てたことのある目だ、と老婆が言う。老婆はどうだ、ずばりだろうといった得意げな顔をする。勝手に想像しないでくれ、と俺は怒気を含んだ声で言う。だが老婆は耳を貸そうとはしない。
 あなたには子どもがいる、そうに違いない、それも小さな子どもだ、と老婆は繰り返す。俺はいっそう不機嫌になる。そんなことをあなたにつべこべ言われる筋合いはない。
 老婆は俺をさらに鋭く見つめ、やっぱりな、と微笑む。何だか気味の悪い感じがする。
 長方形のプラスチック製の屋根のついたバス停がある。その下にベンチがある。ちょっと休んでいかないかと老婆が言う。いくら元気そうな彼女でも疲れたようだ。
 同意を示していないのに、大きなバッグをベンチに置くとさっさと座った。やせこけた足をぶらんぶらんと揺する。しかたなく俺も大通りに背を向けて座る。
 それで、子どもはいくつだね、と老婆は執拗に尋ねてくる。いないよと言っているじゃないか。俺の声が高まる。本当かね、と老婆は言う。
 本当さ、嘘など言ってどうする。そう答えようとして老婆の顔を見ると、老婆の顔が突然母親の顔に変わっている。
 小学校の二年まで育ててやったのに、なんやね、息子を手放したりして、この意気地なしのアホめが。母親の顔はそう言っている。
 老婆の顔を見ていると、ますます、妻と離婚した頃の母親のことを思い出す。
 離婚して、一ヶ月ほど経った俺の休みの日のことだ。妻から電話がかかってきた。
 妻は、もう息子は学校から帰っているだろう、今から子どもに会いに行く、と言ってきた。傍にいた母親は何を言いにきたのかね、と尋ねた。子どもに会わせてくれと言っている、今から会いに来るって、と俺は言った。
 何やて、子どもに会いに来るやて、そんなことよく言えたもんや、かしてみ、はようかしてみ。
 母親は俺から受話器をもぎ取ると、獣が吠えるように叫んだ。あんたは人やない。この私をみてみ、二十八歳で夫が死んで、その後、ずっと後家を通してきた。子どもを育てるのに、女としての人生を捨てたようなものや。若い男とちちくりあって、子どもを捨てるような女には孫は会わせられん。来るんやったら来てみ、出刃包丁で腹でもどこでも突き刺してやる、私はやると言ったら本当にやるんやから、と怒鳴った。
 俺は母親から受話器を取ると、とにかく子どもには会わせられん、母親がこんな状態だから、と答えた。約束が違う、あんた、いつでも会わせてやる、そう言ったやないの、今から行く、自分の子どもに会うのが何が悪い、殺すんだったら殺してみ、この後に及んでもまだ母親に気を遣っているのか、いい加減にしたら、と妻は言った。
 受話器を置くと、何と言っているんやね、と母親は尋ねた。殺されてもいいから、今からすぐに行く、と言っている、と答えた。そりゃいかん、子どもを奪い返しに来るんや、と言った。そんな馬鹿な、と言うと、だからあんたは馬鹿だというんや、と言った。
 母親はすぐに、外出着に着替えると、遊んでいた息子を連れ帰り、晴れ着を着せた。どこへ行くの? と息子が尋ねると、明日は田舎の祭りや、これから田舎へ帰る。先ほど、早く帰っておいで、と電話が掛かってきた、と言った。
 放心状態の俺に、母親は、何をしている、早くタクシーを呼べ、と怒鳴った。
 母親の顔は小刻みに震え、目は辺りを射抜くように鋭かった。頬を赤らめ気迫溢れんばかりだった。あの時、母親は残っていた力のほとんどを使い果たしたのだ。だからこそ、しばらくして今度は本当に心臓発作を起こして死んだ。そうでなければあのエネルギッシュな力を説明することができない。
 奥さんは死んだのかね、と老婆は尋ねた。眼は鋭い。いざとなったら、とてつもないエネルギーを出しそうだ。
 そうだ、と俺は嘘をつく。それだったらいい、生き別れであんたが育てているのだったら、きっと子どもは恨むよ、と言う。そんなことはないでしょう、と俺はむきになる。いや、そうだ、子どもは母親が育てるものだ、と言い返す。いや、違う、男だって立派に育てられる、と俺。そんなことはない、と老婆はゆずらない。俺はまた同じ言葉を繰り返す。おかしくなる。これではまるで俺が息子を育てているようではないか。老婆もそう思ったに違いない。老婆は俺の顔を見て、にやりとした。俺は黙った。
 あんたは別だ。あんたなら立派に育てられる。老婆は顔中の皺を深めながら突然そう言った。でも、あの男はだめだ。あんなろくでなしの男には子どもは育てられん。絶対にひ孫は奪ってみせる。
 どんなふうにして奪うのか、と俺は尋ねた。簡単なことだ、ひ孫が遊んでいるところを連れ出せばいい、と答えた。
 それを聞いて、俺はふと、俺の息子を奪ったのは妻ではなく、妻の母親ではなかったか、と思った。今まで思ってもみなかった思いつきだ。あの時の妻の落ち着きようったら尋常ではなかった。ひょっとして、と思う。前もって何だかの策略が施されていたのかもしれない。
 今度は、妻が俺から息子を奪った日のことを思い出す。
 妻は、俺を喫茶店に呼び出し、おかあさんが亡くなったんだから、状況はまったく変わったのよ、と言った。確かに、母親が死んでから、息子の世話は十分にはやれていない。自分が塾から帰るまで息子は放りっぱなしだ。勉強も見てやっていない。それに、掃除、洗濯、食事の用意と家事はやたらと疲れる。だが、できる限りのことはやった。暇を見つけては子どもと遊んでやったし、時には休暇を取って、いろんなところへ連れていってもやった。息子は、俺の苦労はわかってくれているはずだ。
 ね、良夫に聞きましょうよ、と妻は言った。良夫とは息子の名前だ。あの人もいっしょに暮らしてもいいと言ってくれているの、大切に育てるって。
 あの人とは妻と同棲している若い男のことだ。俺の中に怒りが生まれた。
 良夫に尋ねる必要などどこにある、と俺は怒鳴った。
 怒鳴るところを見ると、自信がないのね、と妻はいやに落ち着いた顔をしている。軽蔑したような薄ら笑いさえ浮かべた。
 ますます、怒りが強まった。その自信に満ちた態度が許せない。彼女の傲慢さをへし折ってやりたい。俺には絶対の自信があった。息子はもう物事のわかる年齢だ。子どもをなめてはいけない。母親は自分をおいて若い男のところへ行ったことぐらいはわかっている。
 よし、いいよ、そうしようと俺は同意した。もし、良夫が俺を選んだら、これから、金輪際、良夫に近づくな、と付け加えた。
 ああいいわ、その代わり、その逆の場合は、あなたも、もう良夫には近づかないでね、と妻は言った。それから、こんなことは、決めたらすぐにやった方がいいわ、と付け加えた。
 俺が約束を守らない男とでも思っているのか、と怒鳴った。妻は相変わらず落ち着いている。それを見るとますます怒りが込み上げてくる。そんなことを言うのなら、今すぐにでも連れてくる、と俺は言った。
 俺は興奮のしっぱなしで、喫茶店を飛び出し、家に走り帰った。息子は家の近くの公園で友達とキャッチボールをしていた。みんな悪いな、ちょっと用事ができたんで、良夫を連れていくから、と俺は息子の友達に言い、息子の手を取り、ちょっと来てくれ、と言って、喫茶店に向かって走り出した。何? 何なの? と息子は盛んに尋ねたが、来たらわかるから、ちょっと用事だ、と言った。
 初めは、走るのは、俺の方が速く、はよう来い、はよう来い、と急がせた。だが、すぐに息が切れ、大きく口を開けて息を吐いた。そして、もうすぐ喫茶店というところで走れなくなった。なんなの、こんなに急がせて、と息子も立ち止まった。おかあさんが来ているんだ、と俺はあえぎながら言った。息子は鼻先に汗の粒をつけていたが、心臓の乱れはなかった。憐れむような目付きで俺のあえぎの治まるのを待っていた。あそこに来ているんだ、あのお店に、と俺は指を指したが、息子は黙って俺を見ていた。
 あっ、あれは! と息子の表情が突然明るくなった。息子の視線の先を見ると、赤色の車が通っていった。
 あの車の名前、知っている? と息子が尋ねたが、わからなかった。いいや、わからない、と答えると、何だ、という表情をした。
 喫茶店に着き、ドアを開けて中に入った。息子が入って行くと、妻は、や、や、と、片手をあげて、まるで若者が友人を迎えるような格好をした。息子は照れるように笑い、静かに佇んだ。
 俺と息子がテーブルの前に座り、対面に妻が座った。俺は得体の知れない圧迫感を覚えた。
 何を食べる? と妻が尋ね、息子はジュースとケーキを頼んだ。息子は急に立ち上がり、店の真ん中あたりの間仕切りのために置かれているテーブルの方へと向かった。間仕切りの上にはたくさんのミニカーが置かれていた。うわあ、と息子は歓声を上げた。妻は、にこやかにそれを見守っていた。まるで、打ち合わせでもしてあるような、余裕たっぷりな態度だ。注文したものが来ると、息子はテーブルに帰り、顎を皿にくっつくほど低くしてケーキを食べた。
 元気だろう、すくすく育っているだろう、と俺は言った。
妻は、それには答えず、息子が食べ終わるのを静かに眺めていた。
 俺も彼が食べ終わるのを見計らって、妻に顎をしゃくって、彼女が息子に説明するように促した。妻は頷いた。
 ごめんね、おとうさんといっしょに暮らせなくなって。でも、仕方がないの、お父さんより好きな人ができてしまったんだから。
 息子は黙っていた。
 おばあちゃんがいたでしょう。おばあちゃんがお母さんがわりをしてくれると思っていたのよ、だけど、おばあちゃんがあんなふうになってしまったでしょう。それで、おとうさんと今後のあなたのことについて相談したのよ。
 ふうん、と息子は小さな声で答えた。
 良夫ちゃんはどちらで暮らすのがいいのかって。おとうさんの方がいいのか、それとも、おかあさんの方がいいのかって。それで、良夫ちゃんがいいと思う方に決めようってことになったの。それで、良夫ちゃんはどっちがいい? おとうさんの方、それともおかあさんの方?
 息子は俺の方を見た。俺は息が詰まりそうなほど緊張した。でも、それを妻には見せたくはなかった。何とか平然としようとした。妻は良夫の方をじっとのぞき込んでいる。
 おかあさんのところにはね、知らない男の人がいるんだぞ、と俺は小さな声で言った。妻はルール違反だとばかりに俺を睨み付けた。
 おかあさんのところにはおじちゃんがいるけど、良夫ちゃんと仲良くしたいって、とっても優しい人よ。妻は微笑む。
 ねえねえ、その男の人、車持ってるの、と息子が尋ねる。持っているわよ、古いのだけれど、と妻が答える。何という名前? さあ、私にはわからないけれど。
 その人、車好き? ああ、大好きよ、きっといろんなところへ連れていってくれると思うわ。自動車のことよく知っている? とまた尋ね、息子は妻の顔をじっと見つめる。よく知っているわ、カーきちみたいなもんよ。息子は妻の方へ身体を乗り出す。眼が輝いているように見える。それに、おじいちゃんだって車のことはよく知っているでしょう、おかあさんところに来ると、おじいちゃんもよく来るし、きっと色んなことを教えてくれるわ、それに、おかあさんは昼間働いているけれど、おじいちゃんやおばあちゃんの家も近いし、淋しかったらいつでもそこへ行ったらいいわ、おばあちゃんの作るお料理、あんた、おいしいって言っていたじゃない、と付け加えた。俺は、自分ところへ来ると、どんないいことがあるか付け加えようとしたが、咄嗟には思いつかなかった。
 ねえ、どっちへ行ってもいいの? と、息子は俺の方を向いて言う。ええ、いいわ、ねえ、妻もまた俺の方を向いて、答えを促す。ああ、いいよ、と俺は言う。
 俺は、そういいながらも、今までの自信がぐらつき出した。息子が車にこれほど興味を持っていたなんて知らなかった。それに、俺は、車の免許は持っていない。車を運転するのが怖いのだ。母親が、あなたは車を絶対運転してはいけない、ときどきぼうっとするときがある、幼い時から注意散漫だった、車を運転すれば必ず大事故を起こす、絶対にやめときや、と若いときからそう言われつづけてきた。俺はそれを未だに守っている。
 おばあちゃんもいなくなったし、じゃあ、おかあさんといっしょに暮らす、と息子はきっぱりと言い、うれしそうな顔をした。
 え、え? おい、本気か? 俺は戸惑った。どう対処したらいいのかわからなくなる。 ねえ、わかってんの、おかあさんのところにはお前の知らない男の人がいるんだぞ! と俺は怒鳴った。
 妻はそれを無視する。
 じゃ、これから行く? そうね、決まったら早い方がいいわね、持ち物や衣類のことなんか後で取りに行けばいいわ、そうしなさいよ、それが一番いいわ。
 妻は素早く立ち上がり、息子の傍まで来て、手を引いて扉の方へ向かう。息子はいささかも戸惑いを見せない。妻といっしょにドアの方へ向かう。
 おい、まだ話は終わっていない。話し合うことはいっぱいあるだろう。そんなに慌てなくったって、おい。
 慌てているのは自分だと思いながらも、待てよ、待てよ、と、妻の背に大声をかける。他の客たちは振り向くが、妻も息子も振り向かない。
 俺は彼女たちの後を追いかけようとするが、レジのところで、上着の袖を掴まれる。お客さん、お金を、と言われた。あっ、そうだ、ごめん。俺は上着のポケットに手を突っ込んで捜すが財布が見つからない。どこに入れたかな。ズボンのポケットにあることに気づいたが、今度はテーブルへ伝票を取りに帰らなければならなかった。
 ようやく勘定を済ませて路上に出たときには妻も息子もいなかった。いったいどこへ消えたのかと、辺りを見回すが、いっこうに見つからない。道は一直線で、脇に逸れる道はない。うまい具合にタクシーでも通りがかったのか。きっと、それに乗って、妻の家に帰ってしまったのだ。運のいいやつだ。まったく。俺は何度も舌打ちをした。
 だが、今、ふっと、思い出す。そう言えば、喫茶店に入り際、店から少し離れた路肩に一台の乗用車が止まっていた。人が一人、運転席にいたが、遠かった上に、顔をハンドルの上に伏せていたので、まったく顔はわからなかったし、第一、そんなことには関心がなかった。
 あれは、と思った。あれは妻の父親ではなかったか。そう言えば、後ろの席にも、顔を腕で覆っている人がいたが、あれは妻の母親のような気がしてならない。いや、きっとそうだ。ようやく、今、そのことに気づいた。彼らの策略にまんまと引っかかったのかもしれない。
 だが、そんなことはもうどうでもいい。すでに終わったことだ。過去のことなど思い出してもしかたがない。
 俺はこれから女に会いにいく。それはずっと心の底で願っていたことだ。俺に巡ってきた数少ない幸運なのだ。顔立ちだって、スタイルだって、俺のお気に入りだ。それに、彼女から漂ってくる気流のようなものがたまらない。理由がわからないが、俺を引きつける。ただ単なる若々しさや清潔さの魅力でもない。いわゆる崩れた魅力でもない。何か心の芯が共鳴しそうな魅力だ。そんな彼女との逢瀬に老婆が顔を出してくるなんて、思っただけでもぞっとする。許せない。
 だが、一方で、俺は昔の俺とは違うのだ、という思いもする。俺はすでに、離婚もし、一時期だが、子どもを育てることもできた。子どもとの離別も体験し、立派に死者をも送りだした。一人暮らしの孤独さにも耐えた。りっぱなものだ。孫娘の婿などとは比べものにならない。この老婆だってそれを認めるだろう。そんな雰囲気が漂っていたからこそ、俺を信用して、港へ連れていってくれと頼み込み、俺の後を執拗にくっついてくるのだ。
 それに、俺は余りにも老婆にこだわりすぎた。女のことを考え、楽しい企てをもっと考えるべきだった。陽気な気分にもならなければならない。すでに夏を思わせる陽の光も頭上から降ってくる。おあつらえむきではないか。それらは心の火を燃やし、鼓舞してくれるはずだ。
 さあ、と言って、俺は立ち上がり、歩き出す。老婆を見ないで歩く、それでも気配で後ろから付いてくることがわかる。
 彼女が待っていてくれるだろう駅に着いた。俺はさっさと階段を登り、改札に向かった。老婆も少しは遅れてはいるが、それほど苦しげな息遣いはない。
 老婆を振り切ることはできなかったが、彼女にきちっと説明すればわかってくれるだろう。
 老婆はあの時の俺の母親ではない。婚約を済ませ、妻が俺の家に遊びに来たときの状況とはまるで違う。だが、ふっと、あの時の母親の姿がまた俺の眼前をかすめる。俺を凝視するあの鋭くて悲しげな眼を思い出す。俺はそれを強く払いのけ、残りの階段を駆け登った。
 彼女は、改札の端の方に白い上着と軽やかな紺色のスラックスを身につけて立っていた。長い足、それが彼女の軽快な身のこなしを象徴しているようだ。
 やあ、お待ちどおさま、と手を挙げようとして、彼女が、驚いたような目付きをしたのを見逃さなかった。ああ、後ろの老婆に気づいたのだ。まさか、母親同伴でやって来たとは思うまい。でも、きっと、何で? と思ったに違いない。
 ごめん、長く待たせた? と俺は尋ねた。いいえ、今着いたばっかり、と言った。にこやかな笑みを送ろうとしているのだが、それができないでいる。きっと、後ろの老婆が気に掛かっているのだ。
 ああ、この人、と俺はできるだけ軽やかな声を出す。途中の駅で、俺に港への行き方を尋ねてきたものだから、俺も行くと言ったら、どうかいっしょに連れていってくれとたのまれてしまって、と言った。 老婆は、彼女に深々とお辞儀をした。彼女はどう思ったらいいのか戸惑っているように見えた。無関心を装えばいいのか、何で老婆なんかいっしょに、と思えばいいのか。
 船に乗って、孫に会いに行くんだって、と俺は言った。彼女は黙っていた。とりあえず、桟橋まで連れていってやろうと思って、と俺は付け加えた。それから、老婆から聞いたことを手短に話した。彼女は黙って聞いていた。
 話し終わったところで、老婆は、よろしくお願いします、と再び深々とお辞儀をした。その仕草が、どこかぎこちなかった。何だか、母親が時々妻にしていた仰々しいお礼の仕草を思い出させた。いやあね、あんなお礼の言い方するなんて、と妻は後でいつも俺に文句を言っていた。
 はああ、と俺は無意識に溜息をついた。彼女は俺の方を見た。俺と彼女は並んで路上への階段を下りた。老婆は後ろから付いてきた。俺は彼女の手を握りたかった。彼女はそれを拒否するだろうか。
 結局、何もしないで階段を下りた。こんな場合、彼女に何を話せばいいのだろう。とりあえず、今日は晴れてよかったよ、と言った。彼女は、雨だったら、中止の電話を掛けてくるつもりだったの? と尋ねた。いいや、雨でも強行しようと思ってた、と言うと、ふうんと言って笑った。
 この女はどうして俺と会いに来たのだろうか、とまた思った。彼女との約束を取り付けて以来、ずっとその疑問がつづいている。だが、そんなことなどどうでもいいことだ。
 気がつくと、老婆は俺の横に並び、彼女が後ろになっている。俺は、自分を遅らせ彼女と並ぼうとする。老婆はあわてて歩みを遅らせる。
 俺は振り返り、今日は何時まで大丈夫? と尋ねた。一応四時としておこうかな、と言う。保育園に子どもを迎えに行かなくてはいけないの? と尋ねる。ええ、と言う。小さな子どもがいるんだ、と俺が言う。ええ、まあ、と彼女は下を向き、少し曇った顔をする。
 男女の逢瀬に子どものことは禁物だと俺は思う。いくつのお子さん? と今度は老婆が後ろを向いて尋ねる。六歳です、と言う。なら、わしのひ孫と同い年だ、と言って、顔中の皺を和ませる。彼女の顔には笑顔がない。少し疲れた表情をする。老婆は、女の子? とつづけて尋ねる。ええ、と彼女は答える。そんなら、そこが違うわ。わしのところは男や、それで、旦那はやさしい人? とまた尋ねる。彼女はちらっと俺を見、ええ、と戸惑ったような表情をする。このやろう、旦那のことなんか持ち出すな、と俺は思う。老婆は俺の不機嫌など考慮には入れない。そんなら、大事にしてやりや、と言う。彼女は黙っている。孫の婿はな、と、老婆は言葉をつづける。姑に気を遣って、嫁をだいじにようしよらんのや、海外旅行に連れていってやる、と言って孫を喜ばせておいて、旅行の前日、姑がちょっとした病気になって寝こんだ。そのとき、姑が婿に向かって、それでも嫁といっしょに旅行に行く気か? 嫁がそんなに行きたがるんやったら、一人で行かせ、と言いよった。婿は、病気の母親をそのままにしておいて、海外旅行など行けるものか、と言って取りやめた。
 それを聞いて、俺は、この婿の方がまだましだ、海外旅行に嫁を本当に連れていってやろうとしたのだから、と思った。俺の場合は違う。料金が安くなるからとか何とか言われて、今までの電話会社から、違う電話会社に付け替えをしたときのことだ。こちらから掛ける電話は繋がるが、相手の方からは繋がらないという不具合が生じた。だから、母親は、俺の家に電話を掛けても繋がらなかった。それで、母親は俺たちが黙って海外旅行に出かけたと早合点し、親戚中に電話を掛けまくり、私に黙って息子たちは海外旅行に出かけた。いつ何時、心臓の発作で死ぬかもしれない親を放っておいて、何ということだ、済まんが、心臓がとまりそうや、あんたたちが来てくれないか、と頼んだ。親戚も放っておくわけにはいかず、母親の家まで飛んできて、病院へ連れていったらしい。病気はいつものことでたいしたことではなかったのだが、俺が電話の不具合に気づき、それを直して、しばらく経ってから、そのことを知った。親戚から、おかあさんをもう少しだいじにしてやってくれないか、と言われた。電話の不具合を言っても彼らは信じなかった。妻は、おかあさんが私をみんなに顔向けできないようにして、あれだけいつも面倒をみてやっているのに、恩知らずのわがまま勝手なばばあやと言って泣き叫んだ。
 どこからか、若い男女が俺たちの前を歩いている。女は絶えず男の方を向き、何かを喋っている。喋るごとに長い髪の毛が艶めかしく揺れる。男が何か冗談を言ったのか、女は大きな声をだして男の背中をたたく。男は、大げさに前のめりになり、二人は笑い合い、それから前よりもいっそうくっつきあう。無邪気で清潔な雰囲気が辺りへ飛び散る。
 道が急に広くなり、道の中央にはフェニックスの並木が現れた。その刃のような葉は銀色に葉裏を返しながら剣の舞のように揺れた。車はなく、車道も銀色になり、陽を跳ね返した。
 三人はようやく横一列になれた。しかし、老婆は俺と彼女の間に入った。俺は歩きながら空を仰いだ。降ってくる光の匂いを嗅ごうとした。空気の臭いではなく、光そのものの匂いをだ。
 旦那さんはよう働きますか? と老婆は彼女に向かって尋ねた。ええ、まあ、と今度もまた曇った顔で答えた。やはり、噂通り離婚をしたのだろうか? それとも再婚でも。そうですか、孫の婿もよう働くんですわ。あれで、金でも家に入れなけりゃ、離婚の理由にはなるんやがな、と老婆が言った。昔は男は働くだけで一人前の男と認められたのに、今じゃ、それだけではだめらしい。多くの重荷を背負わされている。だが、待てよ、と俺は考える。今の俺は、働くこと以外、重荷になるようなものはいっさいないにかかわらず、この身体全体に覆い被さってくる訳のわからない重荷はいったいなんなのだろうか。
 旦那さんのご両親とは別々で? と老婆が尋ねる。ええ、と彼女は答える。それはいいわ、と老婆は言う。
 交差点にやって来た。俺が二、三歩、歩き出した、急に青色の信号が点滅し出し、歩行者たちは急ぎだした。彼女もあわてて早足で歩き出した。俺も彼女に遅れまいとして、早足になろうとした途端、老婆が俺の腕をしっかりと握り、歩くのを引き止めた。俺は瞬間立ち止まった。老婆はさらに俺の袖をまるで犬の手綱を引っぱるように後ろに引いた。と、次の瞬間、信号が赤に変わり、車が走り出した。彼女が俺たちが付いて来ていないのに気づき、渡りきったところでこちらを向いた。
 車が何台もスピードを出して俺と老婆の前を通る。
 あの女の人とはどんな関係で? と老婆が尋ねた。いや、たいした関係じゃありませんよ、と言う。あの人には気をつけた方がいいよ、と言う。どうして? 俺は老婆を真正面から見る。あの人は何か嘘をついているな。老婆は俺の耳元に口を近づけてくる。あの人には子どもなんかいないね、と言う。どうして? と俺はまた尋ねた。長年生きているんで、勘でわかるんよ。老婆は口をもぐもぐさせる。眼をきらめかす。自信満々といった表情をする。子どもがいれば、子どものことを言うときはもっと明るく言うもんよ、と老婆が言い、どうだい? といった表情をする。そう言われればそうだ。だったら、何故?
 前を走っていた車が止まり、信号が青になった。歩行者たちはいっせいに横断歩道を渡りだした。俺たちも歩き、彼女とまたいっしょになった。彼女は先ほどよりも明るい。ねえ、わたし、男の人と立ち話していたの、見ていた? と尋ねた。いいや。わたしにモデルになってくれないかだって。彼女は小さな声をだして笑った。危ないよ、そんなの、と俺は言い、まさか、いいわ、と言ったんではないだろうなあ、と思う。通りすがりに彼女に声を掛けて、それが成功するなんて、そんなことがあってはならない。よかったらここに電話してくれって、と言いいながら、今受け取ったばかりの名刺を俺に手渡す。○○宣伝企画会社、関西本部、とある。きっと和服が似合うって、洋服も和服も大人のムードで着こなせる人が少ないんですって、とうれしそうに言う。それで、受けたの、と尋ねる。まさか、でもちょっぴりうれしかった、と言う。裸のモデルにされるかもしれないよ、AVに出演させられたりして、と言う。あんなの、若い女の子のすることでしょう、と答える。まだいける、いいスタイルをしているもの、と思うが、それは言わない、そう思う自分を恥じた。
 老婆が小石にけつまずいたのか、うううと言いながらよろけた。危ない、と俺が叫んだ途端、彼女は咄嗟に老婆の前に飛び出し、肩を抱いた。
 老婆はかろうじて倒れないで立った。連れの女の小さな鞄が肩からずり落ち、路上で鈍い音を立てた。中から財布が飛び出し、何枚かのカードが散らばった。
 俺は、それらを拾い、財布も拾った。財布は広がっていて、定期入れのようなところに女の子の写真が入っていた。独りで写っている写真で、真っ直ぐこちらを向いている。眼が大きく見開いて笑っている。頭にはかわいいリボンが載っている。
 彼女はそれをひったくるように奪う。かわいいねえ、お子さんの写真? と俺が言う。彼女は見てほしくないものを見られたというふうに、鋭い視線で一瞬俺を睨む。黙って財布を鞄の中にしまうと、それを肩に掛ける。横を見ると、老婆はじっとそれを見ている。俺は老婆に言いたい、ちゃんと子どもがいるではないか、あんたの勘など当てになるものか。
 気をつけてよ、と彼女が老婆に言い、老婆は無言で頷く。白髪が揺れ、それがガラス糸のように光った。
 被っていた帽子は先程の衝撃で路上に転がっていた。彼女は鞄を片手で押さえながら再びしゃがんで、老婆の帽子を拾い、それを手渡した。老婆は無数の皺を目の縁に寄せて、ありがとうと微笑む。それからゆっくりと被り直す。
 老婆の動作の終わるのを待って、ほら、あそこよ、と彼女は指をさす。瑞々しい腕の動きが女性ならではの優雅さを漂わせる。老婆はその方向に視線を送る。
 そこには平屋建ての赤い屋根のある建物が見えた。乗船待合室という看板が大きく扉の右側にある。あそこから船に乗るの、切符も売っているから、と言う。老婆は黙って頷き、それに向かって歩き出す。おばあさん、わたしたち、こちらに行くから、と彼女は老婆に声を掛ける。老婆が振り返り、えらいお世話になって、と答える。少し驚いているようだ。乗船場まで付いてきてくれると思っていたのかもしれない。ありがとう、とまた言うと、今度は深々とお辞儀をした。行けるわね、あそこなんだから、と彼女は念を押すと、はいと、笑顔で答えた。だが、何だか悲しそうだった。
 俺の前から、その笑顔が消えない。あの笑顔は母親がよくしたものだ。何とも言えない悲しそうな笑顔だ。笑っているのに泣いているように見える。俺の結婚式でもずっとあんなふうに笑っていた。
 しばらくの間、俺たちはそこで立ち止まり、老婆が待合室の近くの階段を登りきるまで見送った。あそこまで付いていってやればよかった、と俺は思う。
 こちらに行くと見晴らしのいいところがあるのよ、と彼女が言い、右の方に逸れる道を歩き出した。ようやく老婆がいなくなり、二人だけになれたのに、どこか物足りない、むしろ大切なものを失ったような気がした。
 ね、この間の読書会、少し荒れてたでしょう? と彼女は尋ねた。俺は不意を突かれて言葉に詰まった。しかたなく、そう見えた? と言った。何だか、ああいうの、苦手で、と付け加えた。離婚するとき、子どもは母親が引き取るって決めているところが少しつらかったんじゃないの、と彼女が言った。そう言われればそうかもしれない。しかし、あの時はそれを意識していたわけではない。作品の中の女が夫以外の男に惹かれていく様子がリアルに描かれていると思った。だが、俺が何かを喋れば私情を述べているように思われるので、ほとんど意見らしい意見は言わなかった。
 何だかつらそうな顔をしていたわ、と彼女は言った。そうかなあ、そうでもないよ、と答えた。
 俺たちの左側はすでに公園になっていたが、柵が設けられていて、その柵を越えて、木々の枝が歩道の上まで伸びていて、柔らかな緑色の木漏れ日が心地よく額や首筋に降ってきた。
 右側は広い道路だ。車の通りが少なく、対面から時々乗用車が通り過ぎるぐらいだ。
 私、何度か、ここに来たことがあるの、この辺で、また左に折れる道があったんだけれど、あれ、塞がれているわ、と彼女は驚いたように言った。確かに、階段があるのに、そこに柵が設けられていて、現在工事中という標識が立てられていた。
 確か、もう一つ上がり口があるはずよ、と彼女は言いながら、少し早足で俺の前方へ出て、道路側に寄り、前の方をじっと眺めた。そのあたりから道は少しだけ左側に曲がっていて見通しが悪くなっている。とその時、一台の車が猛スピードで、俺の横を通り過ぎた。かなり車道から離れていたのに、風圧が強くて、まるで、肩や腕のすれすれのところを車が通ったような感じがした。強烈な音楽が車の後ろから追っかけるように聞こえた。危ないじゃないか、と俺は咄嗟に怒りの声を上げた。その声をあざ笑うように、車は一瞬で消えた。
 突然、前方から彼女の悲鳴が聞こえた。どうした? あわてて彼女を見ると、彼女は歩道で丸虫のように蹲っている。両腕で耳を押さえて、あ、あ、あ、と大きな声を出し続ける。あわてて、彼女のところへ走り寄った。どうしたの、どうしたの、と叫びながら俺も彼女の横に蹲り、腕や身体を見回した。
 彼女は相変わらず、耳に両腕をあて、音を遮断するようにしている。髪の毛が前に垂れ、彼女の前面を覆っている。蹲っている膝は震え、スラックスの裾が揺れる。
 どうしたの、ね、どうしたの? 
 何でもないわ、何でもないのよ、と彼女は言う。それでも震えは止まらない。ごめんなさい、ごめんなさいね、とつづける。
 怪我でもしたの? 彼女はかすかに首を振る。俺も彼女の横に同じように蹲って様子を見る。
 しばらくすると、彼女は立ち上がる。俺も同じように立ち上がる。彼女は髪の毛を手で撫でて後ろにやる。土色の顔をこちらに向ける。車が急に飛び出すように通り過ぎるものだから、と彼女は顔をしかめる。再び蹲りそうなほどの苦痛の表情をする。
 本当に危ないったらないよね、と俺は言う。
 ええ、わたし、一度、事故にあっているものだから。彼女から苦痛の表情が消えない。
 思い出したんだ、その時のこと、きっとその時すごく怖かったんだ、と俺は言う。
 ええ、と小さな声をだす。
 それで、怪我はなかったの? と尋ねる。
 ええ。彼女はスラックスの裾や白い上着の袖などを交互に払った。俺は、以前の事故にあったときのことを尋ねたのに、今のことを尋ねられたと思ったらしい。いいや、過去のことは話したくないのかもしれない。
 一瞬、バックミラーでもあてられたのかと思ったよ、と俺は言う。彼女はそれには答えず、静かに歩き出した。
 ふっと、今なら、彼女の肩が抱けるなあ、と思った。そうしてもけっして不自然なことではない。その方向に腕も伸びた。でも、そうはしなかった。できなかったと言った方がいい。
 あのお婆さん、上手に切符買えたかな、と彼女は突然に言った。
ええっ! と、一応驚きの声を出したが、俺もまたどこかで老婆のことが気になっていたので、突拍子な言葉とは思えなかった。
 乗船するまで付き合ってやればよかったわ。そうすれば、こんな怖いめにも遭わなかったのに、と彼女は付け加えた。
 大丈夫だろう、あれくらいしっかりしていれば、と答えながら、あそこまで付き合ってやったのだから、乗船まで付き合ってやればよかった、と俺も同じことを考えた。あれほど老婆から離れたがっていたのに、離れると、奇妙に気になる。何かをし残してきたような、肝心なことを見逃してしまったような。
 公園へ上っていく道に来た。奥まったところに白い階段が見えた。両脇には青葉のよく茂った木々がトンネルのように頭上を覆っている。俺たちはそちらへ曲がった。上からは清涼水のような気流がゆったりと降ってくる。
 ねえ、子どもさん、奥さんに取られたときは悲しかった? と話を変えた。
 知っているんだ、と俺は言った。
 読書会で、あなた、何度もみんなにそう言っていたもの、と彼女は俺の顔を覗いた。
 そうだね、俺は、家のことは何でもよく話すから、と言いながら、彼女はけっしてプライベートなことは喋らなかったなと思った。だから俺はこの女のことは何も知らない。
 やっぱり、子どもは母親が育てるのが一番かな、と俺は言う。俺は父親を早くに亡くし、母親だけで育てられたけれど、それはよかったと思っている。正直、その逆だったらどうなっていたかわからない。
 息子を妻に手渡したのは正解だった。あれでよかったのだ。息子も正しい道を選んだのだ。老婆のひ孫を奪い返すという選択も正しいのかもしれない。
 頂上まで登った。そこは広場になっていて、結構、人がいた。若いカップルや子ども連れの夫婦や、散歩にやってきた老人たちもいた。犬の散歩のために来ている主婦や若い女もいた。俺たちとは反対側の方から来たようだ。
 海も見えた。海面は凪いでいて、銀板のような感じだった。向こう岸の倉庫やその向こうにビルの群れが見えるが、それも左に視線を移すと、ずっと沖の方まで見渡せた。今、こちら側は陽が遮られているのだが、沖の真ん中辺りだけがちょうど空から照明が当てられたように黄金色に輝いている。
 船が一艘、後ろに波を作りながら沖に向かっていく。それを見ていると、心の迷いや陰鬱な気分が船といっしょに消えていくような感じがした。
 わたし、ときどきここに来るの、と彼女が言う。あなたが港へ行かないかと誘ってくれたとき、へえ、同じように海を見たい人がいるんだ、と思ってちょっと感動したわ、と付け加えた。
 ああ、それで、あんなにすぐにいいわと言ったのか、と思う。
 しかし、今度は、どうしてこんなところへ何度も彼女は来ているのか、という疑問が起こった。
 後ろで人の気配がする。突然、ねえ、ビーグル犬なんだけど、知りません? という女の声がする。俺も横にいた連れの彼女も振り返ると、白い帽子をかぶった中年の女性が、赤いひもをぶら下げながら立っている。その傍らに、柴犬を連れたジーパン姿の女性がいて、犬がいなくなったんですか、と尋ねている。そう、いつもは私のまわりから離れたことがないのに、だから大丈夫と思って、ちょっと放してやったのよ、そしたら、何か臭いをかぎ出して、どんどん行っちゃってね、首に赤いバンダナを巻いてあるの、と言った。柴犬を連れている女性は、辺りを見回しながら、雌犬の臭いでもあったのかしらね、と言った。でもね、うちの犬も雌なんだけど、とビーグル犬を捜している女性が言う。俺の連れの女も周りを見回し始める。それじゃ、ここらでは見かけなかったんですね、どこへ行ったのかしら、と犬を捜している女性が言うと、犬の名前を呼びつづけながら木の繁みへと急いで去っていった。
 ねえ、その犬、捜してやりましょうよ、と連れの彼女が言い、俺の答えを聞かないうちに、飼い主が行った方向とは逆の方へと歩きだした。どうかしているよ、まったく、見もしない人の犬捜しの手伝いをするなんて、と思いながらも、彼女の後を追った。
 彼女は、まるで飼い主のような真剣な顔になり、ああ、ここにはいない、じゃ、あっち、とか言い、時には、その辺にいる誰彼なしに、赤いバンダナを巻いたビーグル犬を見ませんでしたか、と尋ねる。いったいどうしたことだ。
 俺と彼女は、いろんなところを捜し回ったが、犬は見つからなかった。やっぱり、いないよ、あきらめよう、と俺が言った。いいわ、それなら、その辺で休憩しておいて、わたし一人でも捜すから、と俺をにらみつけた。それは何だか、先程の老婆の迫力に似ていた。いいや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ、こうなったら、俺も絶対捜し出してやるから、と言った。
 公園を降りて、海べりの道まで来た。そこから、待合室がすぐ向こうに見えた。
 ああ、あそこ、と彼女が指さした。彼女の指さす方向を見て、俺も驚きの声を出した。首に赤いバンダナを巻かれたビーグル犬がベンチの下で蹲っていた。大きな目玉で不安げにあちこち見回しながら伏せの姿勢で座っている。
 いるよね、ああ、よかった、あの犬よね、と言って、彼女は、子どものように飛び跳ねた。それから、わたし、飼い主に連絡してくるわ、見ていてよ、もし動き出したら、しっかりとどこへ行くか、付いて行ってよ、と言うと、次の瞬間には、丘の方へ走り出した。
 俺は彼女の後ろ姿を見送ると、ベンチの下の犬を見た。絶対、見失わないぞ、と思った。
 彼女がなかなか帰ってこなかった。今度は飼い主を捜すのに時間がかかっているのだろう。だが、彼女は絶対それをやってのける、という自信があった。
 犬はかなり疲れているようで、まったく動こうとはしない。口を開け、舌を出し、はあはあと息をしながら、じっと座りつづける。俺は捜査官のような緊張で犬を見つづける。
 彼女と先ほどの飼い主の女が走りながらこちらにやってきた。飼い主の女は犬を見ると、さかんに犬の名前を呼び、ベンチへ近づいていった。犬も立ち上がり、しっぽを振って飼い主のところへ戻っていった。飼い主はよかったねえ、よかったねえ、と何度も頭を撫でてから、俺たちに、ありがとうございました、と、頭を下げた。連れの彼女はにこやかに笑った。彼女のそんな明るさは初めてだ。心のライトが点ったようだ。
 飼い主が去っても、俺たちは海を見ながらしばらく佇んでいた。俺は彼女を真正面から見て、犬が見つかってよかったね、君の執念のおかげだよ、と言った。彼女は黙っていたが、再び、笑顔を見せた。今度は明るいが、どこか悲しげだった。
 しばらく海の方を見ていたが、自然と待合室の方へと視線を移した。
 ねえ、まだ、あのお婆さん、待合室にいるかなあ、と彼女が言った。あれから、かなり時間が経ったからね、もう出航したんじゃない、と俺は答えた。でも、一度待合室に行ってみない、と彼女が言った。ああ、俺もそう思っていたところだ、と言った。
 俺たちは待合室の方へと歩き出した。
 待合室に入ると、そこは少し暗くてがらんとしていたが、乗船券売場の前に数人の人が群がっていた。二人の人がかわるがわる、他の人に向かって何かを尋ねている。写真のようなものさえ見せている。俺たちは辺りを見回したが、老婆はいない。すでに乗船したようだ。
 俺たちは群れに近づいていった。群れの人達の声が聞こえてくる。先程来たばかりなのでわかりません、とか、いや、確かにいたように思うとか、そんなに注意して見ていなかったから、とか、口々に言っている。俺はさっそく、その群れの中に入り、どうしたんですか、と尋ねた。いや、こんな人がここへ来なかったかって? と群れの中の一人が言う。
 紺の背広の男が俺に一枚の写真を差し出した。俺はそれを見て、うううと小さな声を出した。そこにはあの老婆が椅子に座って写っていた。しかも、一見、無表情で、先ほどのエネルギッシュな老婆ではない。手は膝の上にきちんと置き、背筋を伸ばし、ただ、カメラの方を向いている。しかし、その無表情は俺を引きつけた。母親も、よくそんな表情をしていたからだ。
 俺は写真を凝視する。輝きを失った目から、老婆の心が見えてきそうな気がした。連れの彼女もそれを覗き込む。俺と同じような驚きの声を出し、後はただ無言をつづけた。
 見ましたか? と背広の男が言う。だが、二人とも何も答えない。
 何だか悲しそうだね、と俺は思わず言った。目の奥に悲しみの塊がありそうな気がした。そうね、と彼女も言った。
 どうなんです、見ませんでした? と少し苛立った声がする。
 俺は、ああ、見ましたよ、船に乗って、ひ孫さんに会いに行くんだとか言って、と答えた。
 ええ? 見られたんですか?
 電車からずっとここまでいっしょに来ました、と言った。やっぱりねと、また、背広の男が言った。
 やっぱり? と俺は尋ねる。
 いや、私たち、老人ホームの者でして、この人は私たちの施設の入所者なんですがね、突然、いなくなって、捜していたんですよ、と言う。
 ひ孫を取り返しに行くんだって、はりきっていましたよ、島に離婚されたお孫さんがいて、そのお孫さんの子どもが旦那さんの方に取られ、それを取り返しに行くんだとか、と俺は告げた。
 施設の仲間たちにもそう言っていたらしいんですがね、実際はそうではないんですよ、と施設の男が言う。
 そうではないって? 
 ええ、お孫さんは子どもさんを連れて、一ヶ月に一度はお見舞いに来てくれていたんですがね、ひと月ほど前、旦那さんが海外勤務になって、子どもさんも連れて海外へ行かれました。本人にもそう告げたんですがね、それからが少しおかしくなって。
 じゃ、認知症にでも?
 いや、そこまでは進んではいないとは思うんですがね、突然、孫が夢に出てきて、私、息子をお姑さんにとられたと言って泣き叫んでいた、とか言うようになって。確かに、お姑さんが近くに住んでおられて、お孫さんとは折り合いが悪かったようで、離婚したいとも言っておられたとか。それは確からしいのですがね。夢の中で、お孫さんが離婚するため、しばらく身を隠すとか言っていたって。あれは正夢に違いない、海外勤務なんて、嘘に決まっている。私を置いてそんなことをするはずがない。施設にそう言いに来たのも、きっと、離婚をすることを暗にほのめかしに来たのだ、と言うようになって。
 婿が、海外勤務に! 俺は息をのむ。ひょっとして、と思う。婿は一世一代の決心をしたのかもしれない。嫁や自分と母親を切るために、自らそれを会社に申し入れたのではないか。
 ショックを受けられたのですね。お孫さんもひ孫さんも突然いなくなって、お嬢さんも早くに亡くされたということだし。彼女は少し声をふるわせた。
 俺は反対に婿の母親のことを考えた。息子も孫も突然いなくなって、相当ショックを受けているだろう。寝込んでいるに違いない。
 施設の男が、ありがとうございました、乗船したことがわかったから、警察に連絡して、今度立ち寄る港で保護してもらいます、と言い、急いで事務所の方へと歩いていった。
 しかしそれにしても、あの老婆の迫力は本物だった。けっして嘘の話から出てくるようなものではなかった。きっとあの話の中に何か真実があるのに違いない。

 俺たちは待合所を出て、再び、もとの道を戻り、丘の上の公園へとやってきた。公園の端には防御塀の手すりがあり、二人はそれにつかまりながら、海を眺めた。老婆の乗った船が見えるかもしれないと思い、二人とも沖の方に目をやった。一艘、後尾に白波を立てながら外海に出て行く船があった。海の藍色の中で船体に西日があたり、鮮やかに白く輝いている。お婆さんの乗った船、あれかな、と俺が叫ぶ。ああ、あの白いの、と彼女も応じた。あの船、お婆さんを乗せてお孫さんの滞在する国まで行けるといいのにね、と付け加えた。それから俺に、息子さんを奥さんに取られたときは悲しかった? とまた先ほどと同じことを尋ねた。
 ああ、と俺は答える。すると、息子が運動会の徒競走で一番になって、ゴールに入ったときの笑顔が思い浮かんだ。俺はビデオで彼を撮ろうとゴールの脇で待っていた。俺に気づいた息子は、俺に向かってVサインを出した。
 でもお子さんは、奥さんのもとで元気でくらしているわよ、あのお婆さんのひ孫さんだって、きっと外国でお父さん、お母さんに囲まれて楽しくやっているわ。
 彼女は、こちらを向かない。じっと沖の方を見つめたままだ。細めた眼にはうっすらと涙が滲んでいる。
 今度は、俺は、先ほど彼女の財布の中で見た髪の毛にかわいいリボンを載せた女の子を思い浮かべる。ひょっとして? と思う。彼女は大きな事故にあったと言っていた。そのとき、あの娘さんが? と思う。だが、そのことについては何も尋ねない。
 彼女は、ちらっと時計を見る。俺も、同じように見る。四時に近づいている。
 そろそろじゃない、と俺は言う。
 久し振りに海を眺められてよかった、と彼女が言う。犬を捜すのにえらく時間を食ってしまったね、と俺。でも、楽しかったわ、と彼女が答える。
 再び、海に目をやった。沖の方にまた一艘、沖に向かって走っていくのが見えた。
 海面が眩しいほど煌めいている。陽もかなり傾いていて、空もまた柔らかな黄色の幕が広がっている。
 みんないろいろあるのね、と彼女が言う。
 そうだね、そうだよ、と俺が言い、また、ときどき、海を見にいこうよ、と言う。
 彼女はそれには答えないで、今度は、おあかさんが亡くなられたときも悲しかったでしょう? と訊いた。ああ、と前と同じように答えた。
 それからしばらく、二人は黙って海を眺めた。
 昔の人、船のこと、どう思っていたか知っている? とまた彼女が尋ねた。いいや、と言うと、えらい人のお墓なんかに、船の形をした素焼きの土器がたくさん埋められているでしょう、あれはね、船がこの世とあの世をむすぶ役目を果たすものと考えられていたからよ、と言った。
 そう言えば、今、地平線に消えていく船は、ずっと遠くの空へ昇っていくような感じがした。
 空の彼方に白髪で毛の少なくなった母親がうっすらと浮かんできた。俺の母親は六歳で母親を亡くしたと言っていた。部屋の隅で何度も泣いたとも。その母親にあの世で逢えただろうか。それから、三十五歳という若さで逝ってしまった俺の父親にも。
 お母さんの顔、見ていたでしょう、と彼女が言った。すごいね、なぜわかったの、と俺は驚いて見せた。ただなんとなくよ、と言って彼女は笑った。俺も君が思い浮かべた人がわかるよと言いたかったが、それは言わなかった。
 お互い、悲しいことには耐えて、元気を出そうよ、と言った。そうね、と彼女が答えると、両手で手すりを掴み、思いっきりそれを揺すった。だが、手すりは動かなかった。
 首をねじって俺の方を見ると、精いっぱいのほほえみを送ってきた。それから、ゆっくりと身体を回転させ、もと来た道の方へと歩き出した。              了                                                                 


  
 
  

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