卒業式の日以来のことだから、ほぼ四十年ぶりだった。
割烹料理屋の二階が宴会場所になっていたが、彼女は二列に並べられた長テーブルの奥の左端に心持ち身体を引いた感じで座っていた。私が宴会場所に入っていくと、すぐさまこちらに顔を向け、緩やかに微笑んで見せた。さすがに年老いた感は否めないが、見慣れたはずの笑顔がそこにあった。
考えてみると不思議なことである。彼女の姿を認めた瞬間、不在の四十年間が、まるで無きが如くになってしまった。あたかも、つい先日まで度々あっていた人のような思いに囚われたのである。
ここ数年私は比較的自由な時間がもてることもあって、中学の同窓関係のことに関わりを持っている。具体的には、名簿の整理や案内状の送付など、おもに事務的なことを一手に引き受けている。
中学の同窓の集まりは四十のなかばを過ぎたあたりから、音頭取り役の一言で、それまでの三年に一度の開催から隔年毎の催しになっていた。その男曰く、「減ることはあっても、増えることはないのだから」ということで。
私の卒業した中学校は当時四クラスあって同期の人数は百五十名あまりだった。クラス毎の会はそれまでもやっていたところもあったようだが、三十六歳の時に全クラスで集まって市内の保養センターで開催したのが始まりだった。
定期的に同窓会が催されるようになった当初、私は単なる参加者の一人に過ぎなかったので、会の後で送られてくる名簿を見て現住所だけは知っていたが、彼女に関しては、これといった情報をもっていたわけではなかった。案内状を自分のパソコンで作るようになってから、彼女が出欠の返事すら出さないことを知った。関東と関西、ということもある。また、必ずしも同窓会などというものに興味を持たない人達もいるわけで、今の名前を見る度に多少の引っ掛かりは持つものの、彼女は文字通り過去の人でしかなかった。
それがつい二ヶ月ほど前のことである。たまたま同窓会の音頭取り役と馴染みの喫茶店でコーヒーを飲んでいたところ、彼の口からふいに彼女の名前が出た。同窓生の一人が駅前で昔ながらの酒屋を営んでいるのだが、そこに最近になって、帰省の折に顔を出しては喋っていく、というのである。最初は母親が立ち寄っては話すようになっていたらしいのだが、そのうちに彼女も店の前を通れば言葉を掛けるようになったという。そして、その母親が言うには娘が会いたがっているので、何かあれば声を掛けてもらえないだろうか、という話であった。
同窓会の出欠の返事すら出さないくせに、とは思ったものの、さっそく私は連絡を取ってみることにした。たまたまその半月ほど前に同窓生の十五人ほどで、三重の方に毎年恒例の一泊旅行をしていたあとだったので、その時の何枚かのスナップ写真と最新の同窓会名簿を送った。もちろん母親の言葉を紹介して、今度帰省の折には連絡をするようにと書き添えて。
返答はすぐさま返ってきた。暑中見舞いにかこつけたものだったが、先日の書信の礼状とともに、九月の末には帰るかも知れない、という言葉がそこには記されてあった。
「ところで○○て誰やねん。酒屋に名前言われても、ぜんぜん顔が浮かべへんのや、お前分かるか?」
彼女の話が出た喫茶店での会話である。旗振り役の男には、旧姓を言われても、どうやら記憶がないらしかった。私ははっきり憶えていた。憶えていたどころか、四十年前の小太りで色白の姿かたちが即座に浮かんだほどである。
男女五、六人を交え、私は彼女と中学三年生の時グループ交際をしていた。受験を控え、集まって勉強するということで始まったはずだが、むろん名目通りなどいくはずもなく、いつもノートや教科書を開くまもなく、皆で遊び回っていたに過ぎない。
長い夏休みに入ってからのことであった。三年生に上がり同じクラスになったこともあってのことだったが、ひょんなことで彼女と喋るようになり、たしか私から彼女に持ちかけて始まったはずである。
誰でもそうかも知れないが、中学生の頃は殊に多感な時期で、私もひどい劣等感に悩まされていた。勉強はそれなりに出来た方であったが、スポーツがからきし駄目で、おまけに朝礼では常に前から一、二番目という背の低さである。加えて小太りでもあったから、女の子に縁があるはずもなかった。そんな男が曲がりなりにも何人かの異性とグループ交際をしていたのである。さしずめその当時の自分の思いを代弁するならば、一頃はやった「自分を褒めてやりたい!」とでもなるだろうか。
これは再会してから思い出したことだが、彼女は二年生になってから大阪市内からやって来た転校生で、同じクラスになったことのない旗振り役に覚えがないことは仕方ないことではあった。が、私にとっては、残念ながらつきあうというところまでかなわなかったが、忘れることが出来ない異性だったのである。
趣味 天文学&ピアノ&アソブコト&ネルコト
性格 明るくて、実行力のある現代っ子(?)
好きな学科は数学できらいなのは社会です
これは彼女が帰ってから書き送った手紙の中の一文である。四十年前彼女自身が交換日記に書いた自己紹介文である。
再会を果たしてから、私はグループ交際仲間と交換日記を回していたことを思い出した。幸いなことにそのノートは部屋の本箱の片隅にまだ残っていた。登山用のピッケルとロープの写真が表紙になった極東社製のダブルリング・ノートだった。交換日記も私が言いだして始まったはずで、だからこそ手元に残っていたのだろう。
読み返してみたのは、手元に預かり受けてからはじめてのことだったかも知れない。
読んでみると、とたんに妙な気分に陥った。むしょうに背中の後ろが気掛かりになるのである。ほとんどが鉛筆書きの文字なのだが、その幼い文字と文章がひどく気恥ずかしい。このような思いを、赤面もの、とでも言うのだろうか。
私にとって、あるいはもっとも「不遜な」時期だったかも知れない。
劣等感の固まりで、異性に関心を持たれないことを受け入れるしかなかった者にとって、異性とグループ交際をすることも夢ならば、日々交換日記を交わすことも又夢であった。
驚いたことに、交換日記の中の私は、彼女の友人に盛んに秋波を送っているではないか。メンバーになってくれ、交換日記にも是非参加してほしいと、紙面上でしつこいぐらい頼んでいる。
その子は彼女と同じく大柄で大人っぽく、スポーツが出来ることで目立っていた。たしかバスケットボール部のエースだったはずで、スポーツ音痴の私にとっては、とりわけまぶしい女生徒の一人であった。
忘れられない記憶がある。
中学三年生になって間もなくのことだったに違いない。当時「ササン」とクラスメートに呼ばれていた彼女が、「フジモ」という愛称で親しまれていたバスケットのエースの女の子とともに歩み寄ってきて、一度家に遊びに行ってもいいか、と笑顔でささやいたのである。
私は内心驚愕した。特別彼女たちと親しくなかったから、ではない。女性のほうから声を掛けられたから、である。しかも私の家に遊びに行く、というのである。驚くというより、信じられなかった。まるで狐にでも摘まれているような思いだったが、むろん拒否などしなかったし、出来るわけもなかった。
女は男に謎をかけるものである。それは今もそうだが、その初めての経験が、あるいはあの瞬間だったかも知れない。
彼女たちが訪れるまでの数日間、この不意の訪問の意味を探り、大いに戸惑いながら過ごした。そして、その頃毎日のように家に遊びに来ていた友人に彼女たちのことを話し、一緒に迎えることを持ちかけた。むろん彼に異存はなかった。が、その様な選択をした時点で彼女の目的は叶えられ、私に投げかけられた謎は謎でなくなったのだが……。
もっとも私にとってその事件があったからこそ、念願のグループ交際も、交換日記のやり取りも可能となったのではあったのだが。
「フジモ」への執着だけではなかった。日記の中の私は、彼女自身に対しても随分と大胆に振る舞っていた。むろん彼女のお目当ての男もメンバーにいるにもかかわらず、「ササン」が好きだと公言し、キスしてくれなどと迫っているのである。言うまでもなく、冗談にかこつけたような書き方にはなっているが、五十を過ぎた今の私が読むと、唖然となり,ただひたすら頭を掻くしかない。
四十年ぶりの彼女との再会は、又自分自身との再会でもあった。
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