1 補習校の子供達
フィリピンのセブに来て「日本人補習授業校」を見学に行った。場所は市内のセブ日本人会も入っている大きなビルの五階である。「セブ日本人補習授業校」は日本人学校でなく、あくまで補習授業を行う学校である。したがって授業は毎日ではなく、週一日、土曜日のみ行われている。
日本の教科書に基づいて授業を行う小学一年から中学三年にわけられたクラスと、日本語能力の習得を目標とする能力別クラスで構成されている。対象の子供達は、平日は現地校や国際校に通学し、土曜日に補習校にやって来る。生徒数は約百人である。
授業見学に行った日は、卒業式も行われることになっていた。日本の学校では卒業式の日は式典だけだが、ここではまず通常の授業が行われている。ビルの五階に上がった私は、受付のフィリピン人の女性に声をかけた。あらかじめ電話で今日の見学の許可を得ていることを、不確かな英語で言う。
「どうぞ、入って下さい」
大きなガラス扉を開けて、日本人の若い女性が現れ、私を促した。この学校の教師らしい。
「すいません。よろしくお願いします」
「私も授業をしていますので、何の説明もできませんが、いいでしょうか」
髪を後ろでまとめている若い女性教師はすまなそうな表情をみせる。私は恐縮して頭を下げた。
「おじゃまにならないように見学しますので」
私は教室の中に足を踏み入れた。とたんに、子供のしゃべる声が騒音となって体にぶつかってきた。目の前には大広間のような広々としたフロアがひろがっている。フロアの中央を縦にメインの通路が通っていて、その左右が各クラスとなり、いくつかのブロックに細分化されている。
各クラスを分ける仕切りを見て私はやや驚かされた。日本でよく見かけるパーティションではなく、カラフルな絵が描かれた布製のカーテンである。まるで浴室のカーテンだ。人が動けばゆれるし、いかにも頼りない。こんな薄い布では、隣のクラスでしゃべっている声がすべて聞こえてしまうだろう。よほどの集中力が必要とされるかなと思う。
私は中央の通路を音をたてぬようにして歩き始めた。クラスを分けるカーテンはすべて引かれているが、中央の通路に向かってはほとんどが開かれている。したがって私の目に各クラスがよく見えた。十人弱の子供達が、それぞれのクラスで長テーブルのまわりの椅子に座っている。その中に先生らしき大人の男女の姿もあった。先程、私に対応した女性教師もそのなかのひとりである。
子供達はテーブルに本を広げて見ていたり、ノートに何事か書き込んでいる。背後のホワイトボードを先生が指差して、その説明を聞いているクラスもある。日本の算数、国語等の教科書らしいものも見える。興味深そうに授業を受けている子もいるし、まったく我関せずと、隣とおしゃべりしている子もいる。立ちあがって歩き出そうとして、先生に叱られている子もいる。普段見慣れている日本の学校と変わらぬ光景がここにはある。子供達はどこでも同じである。ただ違うのは聞こえてくる言葉が日本語だけではなく、セブで使われているビザヤ語とフィリピンの共通語である英語もまじっていることである。
私はフロアで行われている、ほとんどのクラスの授業を見て回った。子供達の元気さが印象的である。絵本を指差して弾む声を上げている小さな子供、漢字の書き取りをしている子供、中学生ぐらいのクラスでは数学の方程式を勉強していた。その難しさに、私は思わず「負けそう」とつぶやいた。
「どうも、ありがとうございました」
最初に対応してくれた若い女性教師に低い声でお礼を言って、私はガラス扉に手をかけた。軽く頭を下げて、目礼してから教室の外に出る。
受付の前の小ホールを見ると、椅子やソファに座ったり、その脇で立っている人たちが多数いた。今日はこれから卒業式があるということを思い出した。この人達は子供の父兄なのだろう。フィリピン人らしい男性や女性もいるが、それはほんの数人にすぎない。ほとんどが日本人で、しかも年配の男性が多い。たぶん五十歳代か、それ以上になっていると思われる男もいる。頭髪がほとんどなくなり禿げあがった人や、すべて白髪になった人もいる。フィリピンの太陽に焼かれて顔は赤黒く、ポロシャツや民族衣装のバロンタガログから覗いている老人らしい細い腕も黒っぽい棒のように見える。なかには短パン姿の男もいて、黒光りする太股を剥き出しにしている。
日本人補習校であるからには、子供達の父親、母親のどちらか、あるいは両親とも日本人である。ここにいる人たちのなかで仕事の転勤でセブに来た人もいるだろう。しかし、今、見学してきた教室の子供の年齢から考えると不似合いな年である男達が多い。
彼らはフィリピンの自分の子供ぐらいの若い女性と結婚し、この地で家庭を築き、子をなした者である。セブで安らぎの家族を得た者達である。したがって子供は孫とも思える年である。フィリピン妻と子供の生活の面倒をこれから何年も見なければならない。
日本からの年金、あるいはフィリピンで始めた何らかの事業で、その生活をまかなう。フィリピンは日本に比べ物価が安い。そのため退職金と年金でかなりのレベルの生活が維持できる。リゾート経営や貿易などの事業収入があれば、さらに豊かに暮らすことができる。日本であまり恵まれなかった人生を、ここセブでもう一度やり直して、生き直そうとしているのである。
フィリピン人から「パパさん」と呼ばれている男達である。パパさん達からは、妻子を背負い生き直す、その意気込みが感じられた。赤黒く日焼けした髪まじりの顔や、昔の軍人の記念写真のごとく両肩をいからせ、足をふんばって座っている姿からは生気がみなぎっているように見える。
しかしと私は考える。ここにいる父親達は、生活の資金も十分にあって、子供に教育を受けさせる力もある。フィリピンの成功者である。だが、そうした者ばかりではないということも忘れてはならない。若い女性と結婚し、幸福な時を過ごしたが、破局した者も多い。成功者ばかりではない。むしろ失敗者の方が多いかもしれないのが現実である。
失敗者の子供は悲惨である。日本人の夫がいなくなった後、フィリピン妻との苦しい生活が待っている。パパさん達は自分自身の第二の人生ばかりに気をとられず、それにともなう子供のこともよくよく考えなければならない。それが当然の責務である。
日本人補習授業校に来ている父親と、その子供達に明るい未来があることを望みたい。そうした事を思いながら、授業見学を終えて、真昼の太陽の照りつけるセブの街に出て行った。
2 日本料理店で
異国だというのにセブには、日本料理店や居酒屋が多いのに驚かされた。ざっと店名を上げると、神楽、呑ん気、一力茶屋、牛若丸、海舟、川柳、だるま、ちろりん村、亀吉、等々である。経営者は日本人で、現地フィリピン人のスタッフを使って営業している。建物は日本風の木造や、ビルの一角にある場合は大きな赤提灯を吊して和風ムードを醸し出している。
そのなかの店のひとつに、セブで知り合いになった日本人に誘われて行った。知人はセブに来て十年近くになる、在住の人である。私とはスキューバダイビングを通じて知り合った。
「いらっしゃいませ」
入り口の暖簾をかきわけて格子戸を開けると、どこかアクセントがおかしい若い女性の声にむかえられた。知人の後に従って店内のジャリ道を進むと、笑みを浮かべたフィリピン人の女性店員が立っていた。女性店員は日本の着物もどきのスタイルをしている。もどきというのは、浴衣風の着物の丈が膝のあたりまでしかない。このミニスタイルは、暑い国では当然のことかもしれない。
「予約しているから、わかるね」
「はい、どうぞ、こちらです」
敷石を踏んで通路を歩き、店内に通される。広々としたフロアにテーブル席が並んでいて、半分以上は客で埋まっていた。女性店員とフィリピン人の若い男性店員が何人かいそがしそうに動きまわっている。意味は聞きとれないが、人のしゃべる声が押し寄せてくる。私たちは予約プレートが乗せられているフロアの隅のテーブルに案内された。
「何にしますか。お飲みものは」
たどたどしい日本語とともに、私たちにドリンクメニューが示される。知人が私にメニューをひろげて見せてくれた。日本のアサヒビールから日本酒、焼酎まで並んでいる。私はフィリピンのサンミゲルビールを指差して頼んだ。知人と同じものをと言って、料理は決まったらオーダーすると告げた。
「何を食べますか。何でもありますよ」
知人が冊子になったフードメニューを渡してくれる。そこには、日本でお馴染みの品名が並んでいた。枝豆、冷ややっこ、納豆、刺身、お好み焼き、きつねうどん、すし等々である。数は日本の居酒屋より、はるかに多い。日本人の好きそうな食物が、これでもかというほど書かれている。これだけ多いとたぶん、冷凍品がほとんどだと思われる。
私は知人とともに、そのなかのいくつかを選んで注文した。品名よりも、それにつけられた番号の方がわかりやすいらしく、女性店員がひとつずつ番号をくりかえした。
あらためて店内をながめまわした。テーブル席に座っているのは日本人が多い。男性がほとんどで、ポロシャツや半袖シャツ、あるいはラフなTシャツ姿も見受けられる。かなりの年配らしく薄くなった白髪をなでつけている男や、腹がメタボリックに出ている男もいる。三、四人ぐらいのグループでそれぞれのテーブルをかこみ、ビールや日本酒、焼酎を飲んでいる。
「日本人が多いですね」
私が言うと、知人はうなずいて説明する。
「あの人達は日本企業の海外出向組や、このセブで事業を立ち上げた人達ですよ。なかには、こちらに腰を落ち着けて家庭を持っている人もいます」
私は言葉をはさむ。
「奥さんはフィリピン人という」
「そうです。子供さんがいる人も多いですよ」
パパさんである。深い皺をきざんだ顔のなかで、酒にぬれた唇をライトにねっとりと光らせている男達の幾人かはパパさんである。日本から逃れて、異国で二度目の人生にチャレンジしている人達だ。知人は言葉を継いだ。
「ここはセブのなかの日本人コミュニティのたまり場みたいなものですよ」
六十歳前後、なかには七十歳をはるかに超えていそうな男もいる。この地で結婚し、子供をつくるということは、日本と縁の切れている人も多いはずだ。事業を興し、家庭を築き、残りの生を燃焼させようとしている。その日々のなかで、新しい家庭のフィリピンの若い奥さんや、メイドの作る料理から離れて、ふと生まれ故郷の料理が恋しくなる。
その思いは、セブの日本人コミュニティの人達の共通の思いであろう。誘いあわせて、ここで一時の日本を味わう。捨て去ったつもりの過去に対する断ち切りがたい郷愁がただよっているように思われる。
日本人の居住者がふえればふえるほど、日本料理店、居酒屋もふえていくことだろう。その店のすべてが成功するとはかぎらないが。今、私達が訪れた店のオーナーもセブで生きることを選んだ日本人のひとりであろう。
入口のあたりで、日本語の調子はずれな高い声が聞こえてきた。私はまわりに気配りしない馬鹿声のする方向を注視した。日本人の男が二人、それぞれフィリピン人の若い女性を連れて入って来た。男達は三十歳代前半のようである。店内にいるパパさんとは明らかに異質な雰囲気をかもしだしている。女性も口紅、アイシャドーなどの化粧が濃い。若い男はそれぞれのパートナーの女性の肩や腰に手をまわしている。私達の横を通り過ぎて、奥のテーブルに進んで行った。
「フィリピン病の予備軍ですよ」
私に顔を近づけた知人が眉をひそめて囁いた。私は片目をつぶって、わかったという合図を送った。
フィリピン病という言葉がある。日本人の男性がとりつかれる熱病である。
働きざかりの三十歳から四十歳ぐらいの男が、フィリピン女性と日本またはフィリピンのクラブで最初の接触をする。「あなたいい人」「お金持ち」「愛している」と言われて舞い上がるとともに男の目的である肉体関係も結ぶ。このあたりまでが予備軍だが、そのあといよいよ発病する。
日本のフィリピンパブにいた女性は就労期間が切れれば帰国する。フィリピンのゴーゴークラブなどで知り合った女性はもともとこの国にいる。男は追っかけとなって渡航する。預金を全て持ち、借金をしてまでも女性の実家に押しかける。貧しい実家では女性の父母や兄弟に大歓迎されて、何カ月か滞在する。
東南アジアの怠惰で猥雑な下町的生活にどっぷりと浸かり込む。一度味わったら離れられない、離れたくないパラダイスである。こんなにも自分にぴったりとあう生活があったなんてと思う。男達はフィリピン女性とせっせと子づくりにもはげむ。日本にいる親、兄弟、友人のことなど忘れてしまう。というより、この頃には見放されて、日本では誰にも相手にされなくなっている。フィリピン病の最盛期である。
やがて病の末期をむかえる。フィリピン女性との破局である。原因は金銭問題や生活習慣の違いである。フィリピン女性と離別した男は日本に帰ればいいのだが、ほとんどがそのまま居着いてしまう。ここが、この病の怖いところである。帰る場所もないが、何よりも下町的雰囲気が好きなのである。スラム街をさまよい、金ができれば別のフィリピン女性と同じことを性懲りもなく繰り返す。そのあげく最後には、年老いて病を得て行き倒れとなる。誰も引き取り手のない無縁仏として、この地に眠るのである。
「お待たせしました」
ミニ着物姿の二人の女性店員が近寄って来て、私達のテーブルに注文したビールと日本食を並べ出した。焼き鳥、野菜いため、刺身、タマゴ焼き、焼きソバなどが食欲をかきたてる。
「さあ、乾杯しましょう」
知人の声で、私は冷えて水滴のついたジョッキーに手をかけた。
「乾杯」
サンミゲルビールが軽い味わいを残して喉を通り過ぎた。
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