わたしはネックレスを気にしていました。
ワイヤーに芥子粒ほどの細かな真珠を連ねた先端に、一粒だけ大振りの真珠をあしらったネックレスでした。カジュアルなデザインが気に入って、昨年、夫と伊勢志摩へ旅行した折に買い求めたものです。「真珠婚の記念に」。夫はそう言ってクレジットカードを出しました。
そのネックレスの先端の真珠が、カットソーの襟の中に隠れてしまうのです。何度か、そっと指先で外に押し出していました。わたしは誰かに気付いて欲しかったのかも知れません。「いいネックレスやね」「もしかして、ダンナさんからのプレゼント?」そう聞いてくれたら、「去年、結婚三十年の真珠婚でね……」と、このネックレスの来歴を語ることができます。
久しぶりに学生時代の五人の仲間が集ったランチでした。全員が集うのは何年ぶりになるでしょう。仕事の都合がつかなかったり、子どもの学校の行事があったり、と、なかなか全員は揃わないのでした。わたし自身、結婚以来、検事の職にある夫の転勤で、全国を転々とし、三年前、やっと故郷の京都に落ち着いた身です。六十という年齢を目前に、皆、それぞれの仕事や子育てに、ひと区切りついてきたということなのでしょう。
町家を改装したイタリアンレストランでした。この辺りは、呉服問屋や紙問屋など、古い佇まいの商家の多い一角です。一般人が食事をするような店があったかな、とわたしはいぶかりながら、きょろきょろと歩いていました。数年の間に町がずいぶんとお洒落になっていることに途惑ってもいました。
べんがら格子に虫籠窓、いかにも京町家の外観をしたところに、目当ての店の看板が掛かっていました。観光客の受けを狙っているのが透けて見えて、少し臆しながら戸を繰りました。
額がぶつかりそうな位置に店の人が立って出迎えてくれました。薄暗いうなぎの寝床を案内されて奥へと進みました。左側で数人の料理人が忙しく立ち働いていました。壁に『火廼要慎』のお札が貼ってある、おくどさん、です。右手に中庭がありました。スポットライトが当たったような、そこだけ小さな日溜りです。
その奥の部屋に通されました。
「遅い!」
と、すかさず叱責の声があがりました。その瞬間、わたしは学生時代の『どんくさい孝子』に戻っていました。そっと時計を見ると、約束の時間に二分ばかり過ぎていたでしょうか。わたしが最後のようでした。
「ごめんねー」
ふだんより高い声になりました。おどけて頭を下げると、胸のネックレスが揺れます。
会食は和やかに始まりました。
京野菜のサラダにスープ。メインのパスタはそら豆ソースです。白磁の皿に目に鮮やかな緑色が、春の季節感を演出しています。
次々に運ばれてくる料理に驚嘆しながら存分に味わい、その間も途切れることなくお喋りは続きます。会わないでいた数年の空白を意識することがないのは、学生時代の記憶を共有しているという気安さからでしょうか。けれど、わたしは、徐々に居心地の悪さを感じ始めています。皆の話のペースに乗れないのです。二分遅刻したわたしは、どうやら皆より二分ばかり遅れを取っているようです。
座をリードしているのは、この春大学図書館を早期退職した真理子で、今日は彼女の退職祝いも兼ねていました。
今日の会食の趣旨を真理子に電話で伝えたとき、
「ウィークデイのランチやなんて、主婦は贅沢やねえ」
開口一番、真理子はそう言いました。仲間の中で、独身のままずっと働き続けてきたのは真理子だけだったのです。真理子は皮肉にそう言い放ちながら、今評判の店があるからと、この店を提案し、真理子自身が予約を入れました。真理子の祝いの席なのに、すべて真理子が取り仕切ります。
中庭に日が当たっています。迷い込んだらしい雀が、つくばいの上で不思議そうに小首を傾げています。
「でも、真理子、なんで早期退職を? もったいないやん。定年まであとちょっとやのに」
一人がそう問いかけました。それは皆が一番聞きたかったことでした。
「もうええんよ。もう充分働いた。これから第二の人生を楽しむ余力のあるうちに辞めるわ」
きっぱりと言い切る真理子の口調は、それ以上の追及を拒んでいます。皆口を噤んで、顔を見合わせました。
わたしの脳裏に学生時代のひとコマが甦ります。
本館三階ゼミ室。二十人ばかりのゼミ生を前に、薄っぺらいレジュメを握りしめたまま、わたしは立ち往生しています。汗ばむ掌を、片方ずつそっとスカートで拭う自分が、たまらなく情けなく惨めでした。卒論の中間発表の場でした。準備不足を自覚していたわたしの、自信なさげな様子に付け込むような、意地の悪い質問攻めに遭っていたのです。担当教授の助け舟でなんとかその場を乗り切ったわたしは、うなだれて席に戻りました。次に発表に立ったのは真理子でした。真理子は立て板に水の勢いで喋りまくりました。わたしの立ち往生を見て先制攻撃に出たのです。真理子の勢いに気圧されて、皆黙り込んでしまいました――。
しばしの沈黙の後、取りなすように一人が口を開きました。
「第二の人生か……その点は、女は大丈夫やわ。新しい環境に柔軟に対応できるのは女のほうやし。それに、女は職場以外にも、なんやかやと女のネットワークを築いているもんやし」
その点、男は、と別の一人が話を引き取ります。座が再び活気を帯びます。
「うちの主人なんか、友人もなく、これといった趣味もなく……」
彼女の夫はすでに退職しています。わたしの夫もあと数年で定年を迎えます。「うちもね」と、わたしが口を開きかけたとき、
「ここのパン、おいしいでしょ。お代わりできるよ」
真理子が言いました。
「ほんと、おいしい」
「わたし、お代わりしようかな」
口々に皆は言って、しばらくは、どこそこのパンがおいしいとか、情報交換に話の花が咲きます。
雀はつくばいの上で、落ちつかなげにぴょんぴょんと跳ねています。それから、ぽってりと濃緑の葉を繁らせた椿の木へ飛び移りました。こうべを上げました。ようやくその目に、小さく区切られた空が映ったのでしょう。溺れたものが水面を目指すような必死さで、飛び立って行きました。
雀が飛び立ったことで、わたしは、われに返りました。手持ち無沙汰に、知らず知らずネックレスを弄んでいるのでした。慌ててネックレスから手を放します。宙に迷った手は、皿の上のフォークを掴むことを思い出します。
デザートにケーキが運ばれてきました。小さな二等辺三角形のスポンジの上に、真白い生クリームがふんわり乗っています。苺とキウイが飾られています。ほぅ、とため息が漏れました。わたしもテーブルに身を乗り出しました。
そのときでした。わたしの胸元で何かが弾けました。一瞬何が起こったのか、わかりませんでした。ケーキの上に、まるで初めからの飾りのように、小さな光を宿した粒が散っています。わたしの左手は、ワイヤーの切れ端を掴んでいます。わたしは、ようやく胸のネックレスのワイヤーが切れ、真珠が飛び散ったことを知りました。
よく見ると、皿やテーブルの上に、点々と芥子真珠が散っています。呆然とするわたしを尻目に、皆は素早く行動します。立ち上がったり、屈みこんだり、忙しなく芥子真珠をかき集めてくれています。
「昔、こんなこと、あったよね。ほら、真理子がキャンパスの芝生の上で、コンタクトレンズ落としたとき。こうやってみんなで芝生を這い回って探したよね」
素っ頓狂に口走ってしまいました。皆の姿から、ふいに甦ったシーンだったのですが、誰も聞いてはいません。夢中で拾ってくれています。わたしは、きまり悪く、申し訳なく、ひたすら身を縮めます。
「ほら、孝子、立ってみ」
誰かがわたしを促します。立ち上がって洋服をはたいてみると、ぱらぱらと、幾粒かが、わたしの座っていた椅子の上にこぼれ落ちました。
探すべきところはあらかた探し終えました。拾い終えた芥子真珠を、そっとハンカチにくるみます。元の数には少し足らないようですが、仕方がありません。それよりも、ただ一粒の大粒真珠、それがまだ見つからないのです。わたしは少し青くなって、テーブルの下に屈み込みました。
華奢なパンプスがあります。まっさらのおろしたてです。かっちりしたデザインの黒いストラップシューズは、きっと真理子のものです。
そして、その靴たちの向こうに、ありました。
ささくれた木の床の隅に、核にとろりとした光を湛えながら、一粒の真珠は、ひっそりと佇んでいました。
まだ話し足りないようすの友を振り切るようにして別れました。
「デパートに寄って、ネックレスの修理を頼んで帰るわ」
というのは格好の理由になりました。わたしは、この居心地の悪い場所から一刻も早く立ち去りたくなっていました。懐かしいはずの旧友との再会でしたが、真理子に負けじとばかり、我先にと会話を独占したがる座の喧騒に、すっかり疲れきっていました。
気忙しい夕刻です。これから家族の夕餉を整えるという、わたしには大切な仕事があります。一日の仕事を終えつつある勤め人たちとすれ違います。気だるい彼らの歩みの中に、職業人としての誇りと充足が滲んで見えます。彼らの足取りに逆らうように、人ごみを掻き分け、デパートに向かいました。
「去年買ったばっかりなんです。結婚三十年の真珠婚の記念に」
貴金属売り場のまばゆい照明に照らされたショーケースの前で、千切れたネックレスを手に、まくしたてていました。特別なネックレスであることをわかってもらいたかったのです。応対した若い女店員は、気の毒そうな表情を浮かべました。その表情を見て初めて、大切なネックレスが千切れるということが、不吉な予兆を伴って思い起こされてきたのでした。
慌しく夕餉の仕度を済ませました。
結婚以来、気詰まりな官舎暮らしを続けてきました。この3LDKのマンションは、ようやく手に入れたわたしの巣です。床をフローリングに換え、壁に吊戸棚を付けました。自在に手を入れて、快適な住まいに仕立て上げました。
テーブルの上で湯気を立てている皿は、家族の帰りを待つばかりになっています。わたしはゆったりと室内を見渡しました。
電話の横に、無造作に積み上げたダイレクトメールの山が、崩れかけているのが、ふと目に止まりました。いつのまに、こんなにたまってしまったのでしょう。電話台の下からは、インターネットの配線が伸びています。ぐにゃりと波打ちながら、リビングルームを横切っています。リビングルームの先の和室の隅に、今日のよそゆきのジャケットとスカートが、見捨てられたように脱ぎ捨ててありました。
狭苦しい住まいでした。わたしは部屋に背を向けて、窓辺に近寄りました。ヴェランダに通じるガラス戸に手をかけ、重い戸を引きました。
引越してきた当初は、ヴェランダの向こうに、東山のなだらかな稜線を眺めることができました。隣に五階建のビルが建って、その眺望が損なわれて以来、あまりヴェランダに出ることはしなくなっていました。
丸い月が昇っていました。
無粋な四角形のビルの上辺に、ビルの陰から今抜け出たばかりのような、まん丸な月が乗っかっていました。たっぷりの月の光が、屋上のフェンスから溢れ出ています。
わたしは息を呑みました。月を見るなんて、予想だにしていなかったのです。ヴェランダの手すりを握りしめたまま、しばらくじっと月を仰いでいました。
どれくらいそうしていたでしょう。驚きは徐々に醒めていきました。けれど、なお立ち尽くしていたのは、なにかが腑に落ちなかったからです。なにかに似ているのですが、それが思い出せない、といったようなことです。その間にも、月の光は、とろとろと夜に溶け出していきます。それは確かな重量感がありました。手に掬い取れそうで、わたしは思わず手を差出しました。皺の多い掌です。指は節立ち、若い頃よりひとまわり太くなりました。その手でたっぷりの光を受け止めます。月はたおやかに笑いながら、
『ここにいるよ』
そうわたしに呼びかけています。
そうして気付いたのです。
真珠です。
薄暗い床の隅で、ひっそりとした光を湛えて佇んでいた、わたしの真珠。
『こんなところに、いた』
ゆっくりと喜びが湧きあがってきます。夜を照らす柔らかい光、それがわたしの宝石なのです。そして、それを損なってしまったという悔恨も同時に兆します。立ち尽くすわたしの全身を、月の光が隈なく浸していきました。
少女の頃、昇ったばかりの月と、ばったりと出くわしたことがありました。それは大きな月でした。手を伸ばせば届きそうなくらいの近さに思えました。不気味なほど赤い色をしていました。まるで大きな血走った目玉にぎろりと見据えられたようで、わたしは立ち竦んでしまったのでした。あれはたしか、母に言われ、洗濯物を取り込むためにしぶしぶ縁側に出たときでした。物語を読み耽っていたわたしは、物語を中断しなくてはいけないことが大いに不服でした。そのわたしを罰するかのように、とてつもなく大きくて赤い月でした。
――はしるはしるわずかに見つつ、心も得ずこころもとなく思ふ源氏を――
部屋に戻ったわたしは、物語を開きます。
家族が帰って来るまでの、かけがえのないわたしだけの時間を、わたしは物語の中で過ごします。
物語の少女は、父の任地である陸奥の国に育ちました。源氏物語に憧れる少女でした。都から遠い地方では、それを手にすることはなかなかに困難なのでした。物語が読めるのならば「后の位も何にかはせむ」と、思っていました。
少女の一家に、都に帰る機会が、ようやく訪れました。人のつてを得て源氏物語を手にした少女は、心躍るまま、昼は日の光の届くきざはし近くに寄り、夜は灯火の仄かな灯りを頼りに読み耽ります。少女の頬はばら色に輝いています。うっすらと汗ばむ額に張り付いてくる豊かすぎる髪を、うるさそうにかきあげます――。
エレベータがこの階で止まる音がします。廊下を歩く革靴の音が聞こえます。少しせっかちな夫の靴音に違いありません。わたしの脈拍数が少し上ります。物語を閉じなければなりません。
カチャリと鍵の開く音。それをきっかけに、物語を閉じて立ち上がりました。
「おかえりなさい」
「ただいま」
眉間に皺を寄せた顔で、夫はわたしを見ずに返事をすると、わたしの横を素通りして、スーツを脱ぐため寝室に向いました。夫は別に不機嫌なわけではないのです。長年の職業生活で、しかめっ面はすっかり夫の顔に貼り付いてしまったのです。
ワイシャツの上にカーディガンを羽織って、夫はテーブルにつきました。夕刊を広げます。「何か食べる?」
その背中に向って声をかけました。
「……いらん」
やはり夕食は済ませてきたようです。テーブルに投げ出された弁当箱を洗い場に運びます。夫は数年前に胃潰瘍を患いました。それからというもの、夫の体の中心には『胃』が、デーンと居座っています。食事が夫の最大の関心事になりました。胃の辺りを撫でながら「外食はどうも胃に負担がかかる」と言うので、毎日弁当を持って行きます。けれど、仕事が立て込んだりすると、夕飯は、今夜のように、外食になることも、相変わらず多いのでした。
わたしは野菜をたっぷり入れた弁当を作ります。今日の主菜は豚肉とピーマンの味噌炒めでした。夫はピーマンが嫌いです。けれど弁当だと残すことはしません。蓋を開けて、弁当箱がきれいにカラッポになっていることを確認します。スポンジに洗剤を含ませました。
テレビの音が聞こえます。タレントのけたたましい喋りが聞こえたかと思うと、今度は女性アナウンサーの声。そしてナツメロのムード歌謡が流れ出します。夫は今日の野球の結果が知りたくて、次々とチャンネルを変えているのです。手にしている新聞でスポーツニュースを確認すればいいものを、それすら面倒なのでしょうか。
「夜、なに食べたの?」
キッチンから声をかけます。
「ん……」
夫の代わりに、
「阪神、奇跡の大逆転」
と、テレビが答えました。ようやくスポーツニュースに辿り着いたようでした。
「今日、昔の仲間と会ったんだけど」
話の流れのなかで、ネックレスが千切れてしまったことを言うつもりでした。が、夫のこの無関心。面倒な話は聞きたくない、と頑なな背中が言っています。この背中を振り向かせるにはどんな言葉が必要でしょう。
この夫がわたしにネックレスを贈ってくれました。あのとき、夫は少しテレて、でも誇らしげに、クレジットカードを出しました。でも、とわたしは思いました。今日そのことを友に語ることはできませんでした。きっかけがなかったことは確かです。もし友がネックレスのことを聞いてくれたら、ごく自然に話せたことでしょう。けれど、自分から、いかにも嬉しそうに、夫にネックレスを『買ってもらった』と言うことには抵抗がありました。真理子の前で、自分が夫に所属する人間であると、どうしてわざわざ誇示する必要があるでしょう。
夫には黙っていようと決めました。修理を終えたネックレスが戻ってくるまで、わたしの引き出しの中のネックレスの不在に、夫が気付くこともないでしょう。
「風呂は?」
振り返って、夫が言います。まるで尋問されているようです。いいえ、法廷での尋問なら、文を省略したりはしないでしょう。いったい風呂がなんだというのでしょうか。「あります」と答えたい衝動に駆られますが、
「湧いてるよ」
と、まっとうに応答します。
玄関ドアの開く音がしました。今度は息子が帰って来ました。
「疲れたー」
ネクタイを緩めながらリビングに入ってきます。広告会社に入社して三年、ネクタイ姿もようやく板についてきました。
「なんか食わして」
そう言うやいなや、鞄をソファに放り出して、どかりとテレビの前に座り込みました。ビデオのコントローラーを取ります。深夜の番組を予約するつもりです。テレビの画面がビデオに切り替わります。
「お父さんが見てるのに」
わたしが注意すると、
「あ、ごめん。すぐ済むから」
なんの屈託もなく、そう答えます。
夫はというと、文句も言わずに立ち上がり、風呂場に向かいました。もう気になる野球の結果はわかったのでしょう。
息子は、いまどきの多くの若者同様、我慢などする必要なく育ちました。素直に屈託なく育ったのは、苦労知らずのお蔭です。けれど本当に欲しいものを一途に思いつめる情熱を、息子は知っているでしょうか。
夫と付き合い始めた頃、夫の下宿にテレビはありませんでした。司法試験に合格するまでテレビは見ない、と言っていました。
そんな夫が、今、息子に意見することはありません。
ふと、わたしのなかに疑念がきざします。夫は後悔しているのではないか。テレビも我慢して、猛勉強をして司法試験に合格し、検事になりました。結婚し、子をもうけました。各地を転々としながら、それなりの地位と収入を得られるようにもなりました。しかし、それがいったいなんだと言うのだ……。まもなく定年を迎える夫の頑なな背中は、そんな自身の半生を憤っているようにも見えてくるのです。
テーブルに並べたまま冷めたおかずに、息子は箸をつけます。レンジで温め直す間もありません。わたしは冷蔵庫から、冷奴の皿を取り出しました。ご飯をよそいながら、
「明日、お弁当、持っていく?」
と、息子に声をかけますが、
「明日も外回りやし、無理」
あっさり断られました。ご飯を手渡し、息子の前に腰掛けます。
「仕事は、きつい?」
と顔を覗き込みましたが、
「ん……まあまあ」
母親に言ってもわからないと思っているのか、それともただ面倒臭いのか、目を合わそうとはしません。
息子は連日の外回りで少し日焼けしたようです。そのせいか頬が引き締まって見えます。その頬の筋肉を力強く上下させて咀嚼します。この子はわたしの乳を吸って育ち、わたしが調理した食物を食べて育ちました。転勤のたびごとの転校で、なかなか新しい学校に馴染めない、引っ込み思案の子どもでした。わたしはこの子を育て上げました。
わたしは今日の友との会食を引きずっていました。きっと真理子に対抗しているのです。わたしだって、成し遂げたことがあると思いたいのでした。仕事一途な夫に代わって、地域の自治会の役員を引き受けました。子ども会にPTA、人付き合いの苦手なわたしには苦痛でしかなかったそれらの付き合いも、家族のためと、こなしてきました。それらを、胸の内でひとつひとつ数え上げながら、わたしは、夫を支え、子を育て、家族を守るために生きてきたのだと思いました。
真理子はきっと、自身が主役の人生を生きてきたのです。わたしの人生は脇役人生です。けれどそれはわたしに合った生き方で、わたしは幸福に生きてきました。
「ごちそうさまでした」
それだけは幼いときのまま、手を合わせて言って、息子はさっさと自室に引き上げてしまいました。どうやら息子というものは、思春期までに母親の愛情を貪り尽くしてしまうもののようです。わたしが彼にしてやれることは、もはやほどんどありません。母親としてのわたしの役目も終わろうとしています。
「お風呂、お父さんのあとすぐ入ってよ」
閉じられたドアに向ってそう叫びました。「うん」という声が、ドアの向こうからしたような、しなかったような。
洗い桶の中の食器をまた洗い、籠にあけます。米をといで、炊飯器のタイマーを明朝七時にセットします。ホウレン草をゆがいて、蓋付き容器に入れて、冷蔵庫にしまいました。明日の弁当の下準備を済ませて時計を見ると、十二時をまわっていました。夫はもう眠っています。息子も風呂を済ませたようです。わたしももう眠らないと明日の朝つらいのはわかっています。けれど、眠る前にもう少し、物語の続きが読みたいのです。物語を読んでいる間だけ、わたしはわたしの時間を生きているのです。ソファの肘掛に背をもたせ、ソファに伸び伸びと足を投げ出しました。フロアライトを点けました。
――男は姫を背負ってひた走ります。男は、都の宮殿を守る衛士として徴用されて来た、武蔵の国の男でした。
「酒壷に差し渡した直柄の瓢が、南風が吹けば北になびく。北風吹けば南になびき、西風吹けば東になびき、東風吹けば西になびく。そのさまも見られないなんて。なんとつらい勤めであることよ」
元は酒造りを生業とする男は、慣れぬ都での厳しい役目の日々に、故郷を懐かしみ、そう呟きました。それを聞きつけた姫は、
「わたしをその国に連れて行っておくれ」
と、男に命じたのです。
男は、七日七晩走り続けて武蔵の国に辿り着きました。三ヵ月かかって追いついた追っ手は、帝の命で男を捕らえ、姫を都に連れ戻そうとします。しかし姫は激しく抵抗します。帝はついに二人を赦します。姫と男は武蔵の国で末長く幸せに暮らしました――。
これは、少女が都へ上る途中で見聞した、武蔵の国の伝説です。
風の吹くまま、ゆらりゆらりと揺れる瓢は、なんとのどかで自由気ままなものでしょう。武蔵の国の男は、ここではないどこかへ行くことができる力を持つものです。姫を背負ってひた走る男は、なんと頼もしいものでしょう。少女は、いつか自分の前にこのような男が現れることを、ひそかに夢見たのかも知れません。
わたしを背負ってひた走った男は……あなた? だったのですか。
少女は、長じて宮仕えも経験します。しかし彼女の宮仕えの期間は、それほど長くはありませんでした。彼女は、紫式部や清少納言のような、名物女房にはならなかったのです。古風な両親の元で育った彼女は、当時としては遅い結婚をし、子どもにも恵まれます。平凡であっても、まずまず幸せな人生を送ったらしいと伝えられている彼女は、『家の女』として長い年月を過ごした人でした。晩年になって、自身の人生を、日記というかたちで書き残しました。中で、少女の頃の物語への憧れを語るとき、彼女の筆は、最ものびやかに、生き生きと躍動しました。
だいぶ夜も更けてきました。おもてで猫の鳴く声がします。大納言の姫君の生まれ変わりの猫ならば、こっそりうちで飼ってやりましょう。
小さくため息をついて、わたしは物語を閉じました。寝室に向かいました。
夫が壁のほうを向いて眠っていました。微かに鼾が聞こえます。隣の布団に身を横たえようとして、ふと、出窓の障子の外が、青白く光っていることに気付きました。まだ夜明けには間があるはず。音をたてないように用心しながら、そっと立ち上がって、障子を繰りました。
月明かりでした。
南の空高く上がった月が、今しも西に傾きかけています。遥かに遠く、もはや決して手の届かない高い所から、ひんやり青味がかった光が、あまねく降り注いでいました。
そのとき、わたしは室内の異変を知ったのです。誰かいます。じっとこちらを窺っています。乱れた髪が、ばさりと肩に垂れています。青白い月光を浴びて、その髪は銀色に光っています。落ち窪んだまなこからは、険しい眼差しが注がれています。山姥です。ぞわぞわ背筋を這い上がる冷たいものに、わたしは思わず身震いしました。すると山姥も身震いします。山姥はわたしでした。鏡にわたしの姿が写っていたのです。山姥のわたしはそっと室内を窺います。けれど、もう、あなた、は、どこにもいませんでした。
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