さちあれ  高橋陽子


    

 ここは橙色の薄暗い照明で、肌のちょっと汚い所を隠せる居酒屋だ。
「さっちゃんってなぁ、どんな漢字かくの」
「幸の薄い幸子です」
 相手の目を見ないでウイスキーの水割りを飲み干す。私が言う、幸子の名前の由来を聞くとおじさんは少し戸惑う。そんなこと、ないよその場しのぎの言葉を投げかける。本当なのになぁ。マスター、おかわりください。おじさんの顔は見ないくせにマスターには笑顔でいう。
 いつも、ここにいる。決まった時間には来ないけど、私を受け入れてくれる店。最近一番落ち着く場所、そして話し相手と飲み代と宿と一緒に寝る人を提供してくれる場所。今も私の隣には知り合って一時間くらいの作業着だか私服なのかよくわからないうす汚い格好をしたおじさんがニコニコ顔で、大きな声で私に話しかけてくる。大きな声を出すのが難点だが、今日はこの人しか捕まらないだろう。おじさんの良いな、と思うところをひとつ見つける。口ひげがあること。その口ひげをたまに舌でなめるところ。そこぐらいかな、と自分を納得させて氷を一つ、ガリボリと音を鳴らしながら、もう一杯、飲もうかな、とつぶやく。おじさんは、いいで、飲みぃや、という。
 おじさんの話を楽しそうに聞いているふりをして、どんどんウイスキーの水割りを注文する。幾つなの? 三十三歳です。お兄さんは? もう六十三歳やぁ。いやぁ、こんな若い子と知り合えて嬉しいわ。若いなんて、もう三十過ぎています。行かず後家やで、おじさん。あはは、うふふ。そんな弾んではないカラカラした上辺だけの会話で、その場を凌いでいる。  
 マスターはいつも黙って水割りを作る。マドラーで混ぜている指が嬉しそうだ。もう八杯は頼んでいる。売上げ貢献。おじさんは、さっちゃんから、さちこ、に呼び名が変わり、まるで自分の女のように幸子、と呼ぶ。もうそろそろか。
「じゃぁ、幸子、行こうか」
「あぁ、はい」
 おじさんは勝ち誇ったように息を吐きながら、
「じゃ、マスター、御愛想。全部一緒で」
 マスターは上機嫌で私の飲み代と、おじさんがちょっとだけ飲んだビールとお刺身の代金を受け取った。
 おじさんと出て行くときにマスターに目で、バイバイ。また明日か明後日くるよ。と伝えた。伝わっているはず。
 店から出るとき寒かったので、さむーい、と言っておじさんに抱きついた。おじさんは口ひげを舐める。はい、そこだけおじさんの良いところ。時間をかけてひと舐めしたので、更に良いところの株が上がった。どこにいくのんー? なんか言わない。おじさんの部屋でもラブホテルでもいい。行こうか、といってくれる場所に私は連れられていくのだ。私の足は上手く歩けなくてからまわり、私の腕はおじさんにからみつく。おじさんの歩幅で歩くので私は大股で歩く。私がこけそうになるとおじさんの顔が近づく。笑顔どうし。何も楽しいことなんてないのに、お酒の力は大きい。

 今夜はおじさんの部屋だった。部屋はヘルメットと足袋と大工さんの服があるせいか土っぽい。よく見るとおじさんの顔も土が付いている。指にも土が。あぁ、腕も。腕の毛が男らしく沢山生えていて、乾いた土が絡まって蟻がいるみたいだ。おじさんは手を握られて嬉しそう。また口ひげを舐めている。私も笑顔でおじさんを見つめる。そうだ、今夜私は、土の国の人と寝ることにしよう。土にまみれた部屋で土の味がする人と。おじさんの指を舐めた。土の味だ。血の味と似ている、と思う。おじさんの指を舐めていると、小さい頃に砂場で遊んでいた頃の思い出や、小学生の時の体育の授業で走った持久走の事を思い出してしまった。懐かしくもあり、嫌な事。この指が私を思い出させた。指を私の身体の中に入れる。
「汚いで」
「いいねん。動かして、おじさん。なぁ、あとおじさんのひげ、さちこも舐めてみたい」
 土の国の人だから、土がついていて当たり前。汚くないよ。おじさんは、丁寧に私のどうでもいい格好の安い黒のワンピースを脱がしていく。布切れ一枚なのに、じっくりと時間をかけて剥いでいく。少しいらっとしたので、下着は自分で取った。おじさんの服もさっさと脱がした。パラパラと砂が布団の上に落ちていく。
 土のおじさんは、長かった。アレも長いし、時間も長いし、挿られてからも長かった。
 土の布団でおじさんに抱かれて眠る。イメージは砂漠。砂漠の国の人。そう、サハラ砂漠のテントの中でおじさんはアラビア語をブツブツ話しかけてくる。会話も長いんかい。うんうん、あん、はい、気持ちよかったよ。これでいいですか。全く何を言っているのか、私には分かりません。分かろうともしません。ただ、私はもう眠りたいのです。おじさんの腕に巻かれて眠る。今夜も遠くまでいっちゃった。いけてよかった。まだまだ世界は征服できないけど眠れそうだ。

 目覚めてすることは基礎体温をつけること。だからどんなに酔っぱらっていても、枕元には小さな鞄をおいて確認してから寝ている。そこには白い婦人体温計と小さく折りたたんでいるグラフと小銭だけが入っている。遠い国からここに意識が戻ってくると同時に私の右手は鞄の中の体温計を探す。五分後。ピピピと体温を測り終えてから目をあける。今日の体温36.43℃。ちゃんと測れたことに安堵し、また眠る。隣に誰かいたら腕に巻かれる。あれ、いない。
 土の人は居なかった。来た時よりも荷物が減っていて部屋の雰囲気が変わったように見える。時計を見ると、十時を回ったところだ。仕事に行ったんだろうな。私は起き上がり、今日の日付と体温が交差するところに点をつけた。生理が始まってから十日目。しっかり低温期を守っている。妊娠の可能性は低い。昨日はどうだったけ、あの人はゴムをつけたかなぁって思いながら立ち上がると足の間から何かが垂れてきた。
 一気に不快感が胸まできたけど、奢ってもらったし、砂漠にいけたし、眠れたし、可能性は低い日だし、まぁいいか、と思い込んで、出ない唾を飲み込んで、風呂に入って部屋をでた。出るときには窓と冷蔵庫のドアとお風呂のドアを開けっ放しにして、出てきた。土の国からの亡命。もうここに来ない。最初っからわかっていたこと。外に出ると、ここが一体何処なのか理解するのに時間がかかってそれが面白い。考えることを与えられた様で面白い。これくらいしか考えないもんなぁ。私は適当に右の角を曲がり、大通りを探そうとする。浮足だっているのがわかった。

 家に帰ったのは三時ごろだった。ワイドショーの芸能ニュースがひと段落ついて夕刊の記事ばかり読み上げていたので、そのくらいの時間だろう。部屋にはお爺ちゃんがいた。
「さちこ、おかえり。どこいっとったんや、さちこ」
「さちこ、じゃない、さっちゃん!」
 お爺ちゃんはおはぎを食べながらこっちを見ている。
「さっちゃんや、お前さん、また帰ってこんかったなぁ。男か?」
 笑顔で親指を立ててくる。その顔は、そうじゃないことも分かっている。
「さぁ。そんなん、しりませーん」
 お爺ちゃんは、おはぎを噛みながらブツブツ何かを言っている。私には聞こえないようにブツブツ、グチャグチャ、ごっくんと。
 テレビを見ているお爺ちゃんの隣に座る。まだ、おはぎあるけど、さっちゃん、いるか? と聞くので、はい、頂きます、お爺ちゃんありがとう、といって一緒にテレビを眺めてた。
 今日の事件や、小ネタ情報、お料理対決。流れているだけで、面白くない。お爺ちゃんといるのも、窮屈だ。けど、ここしか場所がない。十畳一間のアパートで、私とお爺ちゃんの二人で生活をしている。もう、二十五年くらい。

 マスターにしか言っていないことがある。誰かに話すとみんな憐れみの目で見るのは分かっているし、それを聞いたからといってどうこうしてほしいわけでもない。マスターに言ってしまったのは気が緩んだんだろう、お酒に酔ってしまったんだろう。マスターは、関心もないようにふんふんと頷くだけだった。それが良かったのかもしれない。一度だけ私のしょうもない事を喋った。
「最初から、簡潔にいうと、私は生後五十日で母親に捨てられたんよ。産んでくれた母は病気やったんか、育てていく自信がなかったんか、分からんし、分かりたくもないねんけど。産まれてきた私が可愛くは無かったんかなぁ。あぁ、あと父親は逃げたん。父親はちょっと変わっとって、放浪癖があるんかなんか知らんけど五年に一度、ふらっと帰ってくるねん。オリンピックより長いんやで。帰ってきたらいう言葉、『さちこ、おおきなったな』が定番」
 ふんふんとマスターは頷く。私は、焼酎の水割りをおかわりした。
「ほんで半年か一年ぐらいあの狭い部屋に三人でおんねん。それに飽きるとまた適当に理由をつけて放浪しにいくねん。好きな人ができた、とか仕事が九州のほうにある、とか。だから、私は父親方の母親、つまり、おばあちゃんに育てられたわけなんやけど。そのおばあちゃんも私が五歳の時に亡くなって、そして、お爺ちゃんだけが残ってん。またややこしいんやけど、お爺ちゃんとは血が繋がってなくて。おばあちゃんは、お爺ちゃんと結婚はせんくて、前の旦那さんの遺産を毎月貰ってたから、お爺ちゃんと結婚してしまうと貰えなくなるやろ。お爺ちゃんは、おばあちゃんの、ヒモやねん。おばあちゃんが亡くなった時、私、どっかの施設に入れられるんやろうかって、思っててんけど。なんでか知らんけどお爺ちゃんは、今も一緒に、おるなぁ。お爺ちゃん、いつも言うねん。『生後五十日からずっとさちこを見ている、と。おしめも変えたし、お風呂にもいれてあげた。寝付きも悪かったから大変やったんやで。もう孫みたいなもんや』って、嬉しそうに言うねんなぁ。誰かに私を紹介するときや、中学生のほとんど学校いってない時に家庭訪問にきた先生なんかに言うねん。いつもそれを」
 ふんふん。マスターは聞いていない感じだ。それでもまた焼酎水割りをおかわりする。
「そんなお爺ちゃんはある宗教にのめり込んでて家には読みもしない宗教的新聞が毎日二部ずつ届くねん。私とお爺ちゃんの分らしいわ。私は読まへんから綺麗な二つ折りのままずっと溜まっていくんよ。お爺ちゃん、読まへんから一部解約しぃやって言うてるんやけど『付き合いでな、断られへんねん、へへへ』」
「お爺ちゃん、いくつなん?」
 マスターが質問してきた。話、聞いてたんや。お客さんもいなくなっていた。話しやすい状況になっていく。私は饒舌になる。
「お爺ちゃんは七十三歳。仕事は日雇い。働けんのんか、と思うけど、お爺ちゃんの携帯にはたまーに大工の仕事が入ってくるから働けてるんやろう。腕に職があるからいいなぁ。最近は、仕事が無い日が多いけど、貯金があるのでそれで生活をしてるねん。あと残り三十万円ちょっとやけど無くなったら生活保護を受けようかなって、こないだ言ってた」
 焼酎グラスの中の氷をカラカラと鳴らす。音が綺麗だ。
「私は、なんこか働いててんけど、どこも長く勤まらんくて、最初は事務員。これは一年続いたなぁ。でも職場の人に嫌われていたみたいで、まぁ、小学校も、中学校も苛められてきたようなもんやから、慣れてるけど。ここでもそんな感じになって、辞めてん。学校は辞められないけど、会社は辞めたい、と思ったら辞められるので楽やなぁと十六歳の時に思ったわ。次に長く続いたのは郵便局の仕事。その仕事は半年で辞めてん。なんか、怒られてばかりで。お酒が大好きやからホステスも幾つかしてみたけど、お客さんから俺の話ちゃんと聞いてない、笑わへん、とかいわれてそれも向いてないことがわかって。私に何ができるんやろうとか思ってきて、色々想像してみるんやけど、人見知りもするしさぁ、人に嫌われるしで、なんも向いてないんちゃうんかって、気分が落ち込んできて、家に大人しくじっとしているのが一番向いていると思って。そして今に至るわけやねんけど。お爺ちゃんのなるべく貯金を減らさないように、電気代節約のため、外にいてるんです。ここに来たらテレビもみれるし、誰か話かけてくれるやろう」
 ふんふん、そうやなぁとマスターは頷くだけ。
「だから、ここが好きや。マスター。おかわりください」
 マスターは、これで最後にしときや、と焼酎水割りと、見るからに熱湯であろう湯気が立っている麦茶をくれた。
 携帯電話も持たなくて、パチンコ屋で知り合った男や、声をかけてきた男の家に転がり込んでは、出て行き、お爺ちゃんのところに戻る生活。男だけは、身体だけだと分かっていても、私を必要としてくれたし、ご飯もお酒ももらえる。男の人から人肌で眠ることの暖かさを教えてもらったから、明らかにおかしな人ではないかぎり、好きになる。一晩だけでも誰でもちゃんと好きになる。
 麦茶に口をつけるころにはちょうどいい温度まで下がっていた。食道と胃に暖かいものが流れ、溜まっていく。
「一気に、簡単にいうたけど、ちょっと不幸でしょ、ね、幸が薄いと思ったでしょ。だからきっと、母親は幸子にしたんだと思うねんなぁ。お母ちゃんがつけたんやで、とお爺ちゃんはいうけど、違うと思う。名前は、幸子でも、道子でも優子でもどうでもよかったんやわ。名前なんてそんなもんやし。ただ! 私には幸せが無かった……はぁ、一気にいったんで、少ししんどなったわぁ、マスター」
 麦茶を飲み干す。喉で感じながら、もう言っていないことは無いかな、と考えた。
「だから、こんな人間を二人も出来ないように、私は毎日基礎体温計をつけて、こんなんおかしいな、と思いながら頑張って生きているんです!」
 これで全部言えた。もう隠すところがなくなって、聞かれなくっていい。防御しなくてもいい。後は誰にどう思われたっていい。マスターだけに言えたから、もうそれでいい。
 マスターにはこんな感じで話をした。言ってない事は、売春はしない。私を買う人なんかいらない。自分は何も出来ないのは分かるし、お金を貰う事は、私という人間を認められていない、私を見てはくれないような気がする。そんな人はいらない。ただ、一緒に寝てくれるだけでいいのだ。肌に触って、触れて、私という人間と、その相手が実在する事実があればいい。マスターはお金でも貰っているんだろうな、とでも思ってるんだろう。そう思いたければ、そう思ってくれていい。お金は、お爺ちゃんから日雇いの給料のうち九千円を一カ月分のお小遣いとして貰ってるだけだ。
 
 お爺ちゃんが、今日の晩御飯といってスーパーで巻きずしと、見ただけでうす味なんだなぁ、とわかる肉じゃがを買ってきてくれていた。缶ビールをプシュッと開けて乾杯をする。
「一体何に乾杯なんだか」
 と言ってみる。まぁまぁ、さっちゃん、かんぱーい、と嬉しそうにお爺ちゃんが言う。薄味の肉じゃがをちょっとつまんでお爺ちゃんと無言の会話をする。お爺ちゃんは、さっちゃん、これ食べやとかいうたりするんだけど、それに答えもしなくて食べているうちにお爺ちゃんも無言になる。無口が一番楽でいい。お爺ちゃんがタバコを用意してくれた。吐く煙をお爺ちゃんも、私もゆらゆら眺めている。煙が天井につくのを見届けてお爺ちゃんの顔をみる。目が曇っていて虚ろだ。私の目も同じように虚ろなのだろうか。血は繋がっていないのに、顔が似ているとよく言われていた。煙に包まれた私たちには、無言しかない。
 時計に目をやる。もう、十時かぁ。今日も行こうかなぁマスターのところに。
「お爺ちゃん、マスターのところに行ってくるわ」
 いつもの鞄を肩にかけた。
「さちこ、もう寝る時間やで、あんまり飲みにいったらアカンゆうてるやろ」
「さちこ、違う」
「あ、ごめん。さ、さっちゃん、お金持ってるんか」
 お爺ちゃんは五千円を差し出した。私はありがとう、感謝します、行ってきますと言って出て行った。またお爺ちゃんの貯金が減った。

 マスターの店には二十代のカップルと、私と同じくらいの三十代の背広を着た男の人が数人いた。私は一通りお客を眺めて、一番端っこの席に座った。今日は、いいのがいない。
 自分がもう若い人には好かれない事を知っている。私と一緒にいて嬉しそうにしてくれる男の人はだいたい五十過ぎぐらいだ。理由は自分より若いから。三十代より下は私のことを見下した目でみているような気がする。働き盛りで子育て中の恋愛中の男も女も生き生きとしている。まだ未来がある。明日がある。希望がある。そんな人の中に入っていけない事は自分が何より知っている。声が落ち着いた人がいい。働いていないからって馬鹿にしない人。明日のことなんかわからない人がいい。もう、人生わかりきっていて、死、を感じている人がいい。死相がでているくらい顔色が悪い人、そんな人を私は探している。
 マスターと喋ることも無いから二杯だけビールを飲んで帰った。

 朝になった。今日の体温は36.37℃。排卵日まであと2日ぐらいだ。喫茶店のモーニングが食べたくなったのでお爺ちゃんと一緒に出かけた。
「さっちゃんがモーニング食べたいってめずらしいな」
 お爺ちゃんは嬉しそうにゆで卵をほおばる。普通の三百五十円のモーニングじゃなくて小倉トーストが付いてくる四百円のモーニングにした。
「うん。無性に食べたかったんよ」
「そうか、そうか」
 マーガリンとあんこがべったりと塗られているトーストを半分に千切って、大きく口をあけてほおばった。甘いと感じる脳みそが反応するのが分かった。
「おいしい」
「そうかぁ。お爺ちゃんにも、ちょっと頂戴」
「いやや」
 それ以上会話がない。話す事がない。マスター以上にない。いつもの無言。これは家族にとって普通なのだろうか。私には誘う友達もいない。かといって一人で行く勇気はない。カランコロン、と鐘がなる重い茶色のドアを押して入れない。一人で行けるのはマスターの居酒屋とパチンコ屋くらいだ。どうしても、この喫茶店のモーニングの雰囲気を味わいたかった。タバコの匂いとコーヒーの香り、無関心なお客さん。そこに当たり前のようにいる私。お爺ちゃんは、付録。
 沈黙が続く。スポーツ新聞に目を通してお爺ちゃんとの会話の糸口を探す。
「お爺ちゃん、女優のこの人、芸能界引退するんやって」
 少し明るめの口調で言ったのに、お爺ちゃんはその女優さんのことは知らないみたいで、
「え、なんて?」
 と、それで終わり。家では慣れた沈黙も喫茶店のお客さんがいる前で沈黙していると可哀想な人達だと思われていそうな気がする。タバコを一本吸って帰ろう。食べたかった小倉トーストは食べられた。ゆで卵はお爺ちゃんの胸ポケットに入れた。コーヒーとキャベツのサラダは半分残した。
「さっちゃん、たまご、くれるんか」
 顔がくしゃくしゃになったお爺ちゃんは、可愛かった。
「うん。あとで食べ」

 その日もマスターの居酒屋に行った。ちょうど私の相手をしてくれそうな四十代くらいのおじさんがいたので、その人に奢ってもらった。いつもどおりに、
「幸の薄い、幸子です」
 から始まった。今回は背広を着た人だったが、前歯が溶けてしまったかのように隙っ歯で目をなかなか合わしてくれなかったので、このおじさんに決めた。おじさんというか、ちょいちょい若白髪がある程度で顔に笑いじわがある程度でお兄さんといった感じだ。
「じゃぁ、幸子ちゃん、行こうか」
 うん、これもいつもと同じ。
「マスター、勘定して」
 私と、背広のお兄さんは店から出て行った。付いていくと、ラブホテルだった。今日はホテルかぁ、と玄関の前で看板を眺めていたら、お兄さんが私の腕を強く引っ張った。
「い、痛いんやけど」
 お兄さんは私の言葉を無視して引っ張るようにして部屋まで連れて行った。

 もうお兄さん、とは呼ばない。目が逆さになっていて般若のような鬼と化していた。私は、自分から想像しなくて、勝手に変わってくれて楽になったな、と思っていた。もしかしたら、この人は私と同じように演技するのが上手い人なんかな。
 適当に鬼が選んだ部屋に入ると更に乱暴になった。鬼は私を叩いた。ほっぺたを叩いた。ほっぺたじゃものたりなかったのだろう、次は右の頭を叩いた。叩いた、というか、どついた、の表現があってるのか、勢いでベッドに倒れて、服も脱がさず、入ってきた。そういうプレイは嫌いじゃない、と何回も心の中でとなえてみる。と、不思議なもんで乱暴にされるのが嫌で無くなってくる。うん、魔法はかかった。濡れてないけど、鬼のあれは小さかったからそんなに痛く無かった。鬼は私の締りが悪いといって首を絞めてきた。私は鬼の領域、鬼ヶ島で死ぬのか、桃太郎は、助けに来ないのか。猿でも、雉でもいいんやけど。助けには来てくれへんよなぁ。だれも知り合いおらんもん。桃太郎も、猿も、雉も、知り合いちゃうもんなぁ。あと、ひとつ、なんやったけ、桃太郎の手下は。
 手が重い。あぁ、こんな、鬼に、やられるなんて。わ、私らしい、のかな。苦しいけど。あ、苦しいなんて思ったらあかんやん。気持ちいいって思わないとあかんやん、私。心残りはもうちょっと私の体を、体温を触って欲しかったな。私も鬼の体温を感じたかった。この太い腕で巻かれて、眠れたらどんなに深く眠れただろうか、もったいない。
 鬼は私の中に入ってしばらくして射精した。首もすぐに緩めた。私の顔は熱いのだろう、鏡を見なくてもわかった。
 はぁはぁ。
 私の呼吸は、吸って、吐く、生きるための呼吸だ。
 はぁはぁ。
 鬼の呼吸は、艶っぽい吐息だ。
 鬼は満足そうに私の横に横たわった。私は鬼の腕を撫でた。このたくましい腕は、こんな事に使うべきじゃないのに。
「もう一回、やる?」
 歯抜けの鬼が聞く。
「こういうのん、好きなほうやろ」
 鬼は得意げに言った。私は、起き上がり、洗面所のコップに水をたっぷり入れて、鬼の顔にかけてやった。鬼は起き上がる、私は逃げる。鬼が服を脱がさないままでしてきたので、すぐにドアを開けて逃げる事ができた。鬼はそれ以上は来なかった。下着が無くなったのは悔しいけど。今回は魔法があまり効かなかった。

 家に帰るとお爺ちゃんが寝ていたので、お爺ちゃんの布団の中に入った。
「ん。さっちゃんか。どないしたんや」
 背中を向けたお爺ちゃんの声がガラガラなのか唾まじりで話かけてきた。
「帰ってきたよ、お爺ちゃん。寒いから、今日は一緒に寝て」
「風呂に入ったんか、さちこ」
 こっちを向かない。
「……さっちゃん、や。ううん。明日銭湯に行くわ。朝、モーニング行きたい」
「明日な、お爺ちゃん、仕事はいったんや。朝八時に集合なんや。行かれへんわ」
「そうなん。わかった。がんばっていっといでや。おやすみ」
「うん。おやすみ」
 お爺ちゃんまでやることあるんや。私には、仕事なんて、ない。お爺ちゃんの足の間に私の足を挟んだ。お爺ちゃんは、さぶっ、冷たいわ。といった。明日は、お爺ちゃんが仕事ちゃんとできますように。ちゃんと起きられますように。私といる間は、仕事がありますように。

 今朝の体温は35.84℃。多分排卵日だ。多分じゃない、確実に排卵日だ。さっきトイレに行った時、いつもとは違う透明のおりものがでた。私はそれを指ですくう。一日だけのこのおりものはゴムのように弾力があって透明だ。なんでだろう、一日限定ででてくるおりもの。ふにふにと親指と人さし指でこねる。透明で綺麗だったおりものが手垢でうっすら灰色になっていく。今日は気をつけなくちゃいけない。灰色になったおりものをトイレに捨てた。
 私が沢山の人とセックスするのは、寂しいからだ。一人で眠りにつけない。独りで目を瞑り、意識がなくなり、誰かと一緒にいる夢や、どこまでも走ることができたり、ビルの屋上から飛び降りても怪我ひとつしない夢をみて、目覚めると、また独りになっている。眠ることが怖い。誰か、隣にいてほしい。腕、足でも、首だけでもいい、体温を感じられる部位に触れられたら安心する。体温のある物といないと眠られない。犬も猫も毛があるから人としてみられないから嫌だ。
 人と浅く付き合えても、深く、誰かと付き合えたことは無かった。それは男でも友達でも、それこそお父さんでも。深く付き合おうとして入ってくる人もいたが、そういう人は私から突き放したし、私も、もっと仲良くなりたい、ずっと一緒に笑っていたいとは、思えなかった。もともと年上が好きだが、三十歳を過ぎてからおじさん、と呼ばれる人達しか私には寄り付かなかった。顔も美人からは程遠い、目も小さな一重だし、鼻は大きいし、髪もただ伸ばしているだけで艶もコシもない。おじさんはただ、私が自分より若いから近寄ってくるだけだ。私に、魅力なんてないことはずっと前から知っている。
 顔を洗っていると、考えたくもない、昨日の鬼のことを思い出した。あれから頭が熱い。たんこぶだと思う。大人になってからたんこぶが出来るなんて新鮮だ。手で触って自分の右側の頭の形がぼっこり膨らんでいる。そこだけが熱いし、脈うっているので生きものが私の頭にくっついている感じがする。口を開けると頭に激痛が走る。  
 首に絞められた跡がある。ネックレスみたいだ。どうせこんな頭や首なら、このネックレスがよく見れるようにこの、髪の毛も切ってしまおうか。そうしたら、頭の熱も取れるかもしれない。すっきりするかもしれない。すっきり、したくない? 鏡の自分に問いかける。
 切ってしまおうか、幸子さん。
 いいよ。好きにしたら、私さん。
 私はハサミで大まかにザクザクと刃を入れた。おかっぱにするつもりだったが、だんだん、右側が短いから、左側を切り、今度は左側を切りすぎたので、右側を切っていくと、おかしくなっていって、それが、もう、楽しくて、楽しくて。変なほうのおかしい、から楽しい方のおかしい感じになっていって、面白くって、笑いながらザクザク切っていった。洗面台とその周りには自分の好きじゃなかった艶のない髪の毛が散らばっている。
 どう? こんな感じになったけど。
 うん。あんたらしくて、いいんちゃうか。
 鏡の中の私は笑顔で言った。まだ、頭の熱はこもっているけど、これくらいが自分でできる限界かな。

 所々が長いショートカットにした。後ろは上手く切れなかったので真っすぐなのか、そうでないのか確認できない。正面からみたら昔に流行ったウルフカットみたいだ。ウルフカットを、セルフカットで私はできたんやで、と思って嬉しくなって、マスターに見せに行った。
 昼過ぎのマスターは仕込み中で、私の頭をみてびっくりしていた。そして、髪の毛をなんとかしなさいといって、千五百円をくれた。それから、
「髪の毛切ったらまた、ここにおいで。嫁と一緒に区役所に行こう」
 
 千五百円で私の髪型は五分刈りになった。坊主より、ちょっと長い五分刈り。化粧もしてないので男みたい。たんこぶの形がよくわかる。口を開けてまた痛みを確認する。これはこれで、頭の熱がすっかり無くなった。この髪型は気に入った。熱くないし、隠すところが無くなったし、気分が楽になった気がした。マスターの店に戻ると、マスターの奥さんが来ていて、一緒に区役所に行った。
 区役所の三階に行って、奥さんが、区役所の人に生活保護の申請をしてくれた。私は区役所の人に呼ばれて、二人だけにされて色々聞かれた。今は、誰と暮らしているの。両親は。仕事は。今の所持金は。銀行通帳を持っていたら見せて。区役所の人は淡々と聞いてくる。慣れているんやなぁと思いながらそれに答える。区役所の人は、まずは病院にいって、診察してもらって、就職活動をしなさい、といって一万円を貸してくれた。これは、貸しているのであって、渡したわけではないので、いずれ返して頂きますからね、と強い口調で言った。お爺ちゃんが一日働いてきた給料よりも高い一万円が、私の手元にやってきた。困ったことがあればまずはここに相談しにいけばいいんだ。
 私はマスターに千五百円を返して、残りのお金でマスターの奥さんに病院に連れていってもらった。場所は心療内科。そこで、先生が私の生い立ちを聞く。言いたくなかったがだいたいマスターに喋ったことを言った。眠れますか? と聞かれたので、眠れますが、二時間おきに目が覚める事を言った。けど、ちゃんと眠れますよ、と言った。それから次に奥さんが呼ばれた。
 奥さんを待っている間、私は先生に聞かれたことを何回も思い出した。ちゃんと正しいことは言えたはず。おかしな言動はない。幸が薄い、幸子です、なんて言ってないし、人肌なしじゃぁ眠れません、もいってないな。よし、大丈夫だ。
 十分くらいで奥さんが出てきて、もう一度二人で診察室に入って、病名を言われた。なんていう病気か聞いたこともないが、統合がどうの、失われているだの。あと依存症も少しあります、と言った。婦人科のほうにも一度検査をしに行って下さい、と。先生にそんな言葉を言われるなんてとても恥ずかしかった。分かる言葉はそれだけで、私には病名がついた。薬も貰った。リスパダール、アーテン、ジプレキサ、ルーラン。寝る前にロヒプノール。カタカナで頭に効きそうなお薬だ。最初に行っただけで、こんなにお薬が貰えるのか。私って、そんなに悪かったの? なんで依存症って言われなあかんねんやろうって聞くと
「うん。ちゃんとお医者さんにみてもらったから、そうなんやろうなぁ。安心したやろう。飲みたくなかったら飲まんでいいわ。出しすぎやと思うわ、先生」
「この眠る前のお薬は睡眠薬やんな、私、眠れるってちゃんとゆうたのに」
「眠られへんときに、飲んだらいいんちゃう。とにかくさっちゃんには病名がついたんやし、しばらく働かれへんのんわかったから。今日は大人しくしときーな」
「なぁ、奥さん、先生に何きかれたん? 何ゆうたん?」
 奥さんは、色々、店でのさっちゃんの事ゆうただけやで。じゃぁ、店に戻るからといって別れた。
 今日は排卵日だし、大人しく家にいよう。毎月、排卵日は大人しく家にいている。お爺ちゃんがいてたらどうでもいい話だけしてたらいいんやけど、今日は仕事だからいない。こういう時は部屋も広く感じてしまう。
 これは誰にも言ったことはないけど、マスターの、奥さんになりたい、と思ったことがある。マスターに愛されているんだろうなって思うだけで、何だかマスターに媚を売ってしまう。なびかないマスターがまた、いい。奥さんになりたいけど、もう奥さんはいるし、私なんか無理なのはわかっている。奥さんはたまにマスターと言い合いをする。女という生き物であることを出してくる。
 奥さん以外にも思うのだが、なんでもかんでも生理のせいにするのはなんでなんだろう。生理前だからイライラする。生理前だからニキビが増える。生理中だから食欲がない。生理後だからセックスしたい。はたまた、生理前だからチョコレートを食べる。生理だから、云々。なんでも生理のせいにするのはずるいと思う。男の人には分からないからって、生理を武器にしているような気がする。確かに、生理中のお腹の痛みはたまったもんじゃない。これは、いい。あと生理が不順で悩んでいる人も深刻な悩みやと思う。いい。けど、何かと理由をつけて、言い訳しているような女の人のそういうところが嫌い。マスターの奥さんがその手を使ってマスターにいうのが嫌だ。私自身も、排卵日だから何やねん。排卵日にしたって妊娠しない人だっているんや。妊娠したくてもできなくて悩んでいる人もいるんや。マスターのところだって、子供がいない。欲しいのは知っている。奥さんも、基礎体温ぐらいは毎日付けているんやろうか。もう、私も、奥さんも世の中の女の人全員、生理なんかなくなったらいいのに。せめて生理のせいで云々いうて男の人をこまらせたくない。
 考える事が出来て、時間潰しが出来たよ。
 ごめんなさい、生理があるおかげで私たち女性のバランスが取れているのは分かっています。乱暴になってしまってごめんなさい。って、誰に謝ってるんねん、あ、女性か。と、一人でボツボツ言っていた。
 お爺ちゃんのいない部屋でひとりぼっちは、吸う酸素が沢山あって困る。
 窓をあけてお爺ちゃんの帰る姿を探す。まだ帰ってこない。あぁ、だんだんイライラしてくるのがわかる。また生理のことについて一人で議論するのか。もう飽きたわ。マスター? 奥さん? お爺ちゃん? 私を産んだお母さん? 何年かに一度しか帰ってこない、お父さん? 誰なんだろうか、誰かに八つ当たりしたい。今、部屋にある食器すべて割りたい。イライラする。頭を刈ったはずなのに、だんだん熱くなってくる。電子レンジを四十五分の最長のタイマーをかけてスイッチを押す。中には何も入っていない。
「ドミソは一度です。ドファラは四度です。シレソは五度ですよー」
 小学生の時に教えてもらった音楽の授業の事を大声で言ってみた。オルガンで唯一理解できて弾けた音。先生に練習させてもらって嬉しかった事。あぁ、あと他になんかすることないかな。私はすべきこと、今、すべきこと。銭湯で体をきれいにする? いや、違うな。お爺ちゃんのためにご飯をつくる? お金あるけど、面倒くさい。うーん。頭を掻く。すぐ地肌に伸びきった爪が刺さる。気持ちいいが、これもちょっと違う。あ、そうだ、薬だ。さっきもらった薬を飲もう。こんな時に薬を飲めばいいんだ。そうしたら、ちょっとは落ち着く。
 私は薬を飲んだ。リスパダール、アーテン、ジプレキサ、ルーラン。名前を言いながら飲んだ。そして時間をかけてゆっくり爪を短く切った。
 
 今夜もやっぱりマスターの店に来ていた。薬は効いているようで、他のお客さんの声が鮮明に耳に入る。静かに黙って二階堂のロックを飲んでいる。誰も寄せ付けない。何度か会ったことのある男の人がいた。もちろんセックスもしたこともあるが、無視した。お互い。というか、坊主頭の私をみて、引いているのかもしれない。元々美人ではなく、髪型でごまかしてきたようなもんだから、坊主頭の私は、滑稽な姿だが、正直な私の姿だ。これが、私。目はとろんとしているけど、意識は冴えている。マスターはいつもと雰囲気の違う私に少し戸惑っている感じだ。沢山話かけてくる。
「今度からどうするんや、いつまでもお爺ちゃんの世話になられへんし、もう、生活保護をもらって生活していったほうがいいんちゃうか。紹介するで、部屋」
「うん。ちょっと考える」
 マスター、おかわり頂戴、といってまたゆっくり飲む。時間が経つにつれ、お客さんでいっぱいになった。マスターも奥さんも、いそいそと動いている。私には、二人が千手観音にみえてくる。色んなところから手がでてくる。やさしいし、観音様だ。私を助けてくれそうで、タダでは助けてくれない所なんてそっくりだと思う。そんなことを考えていると、私の隣には、お爺ちゃんくらいのおじいさんが座った。
「すいませんね」
 いいえ、といって私の荷物をどけて、おじいさんは私の隣に座った。綺麗な白髪で黒髪が一切ない。肌は皺はあるけど、頬がピンと、張っていて綺麗だ。綺麗だらけだな、と思ったが、服装がいかにもおじいさん、といった服装で、薄いピンク色のシャツに、濃紺のベスト、大島紬の羽織に緑色のスエットにまだ少し肌寒いだろうに素足に下駄。おじいさんは、マスターに瓶ビールと刺身の盛り合わせを頼んだ。
 お互いに一人できているので、おじいさんは私に話しかけたそうなのはわかった。あいかわらず爺さん受けはいい。誰とも喋りたくなかったが、おじいさんの肌が綺麗なのと、一日お爺ちゃんに会っていないので、ちょうどいいかな、と思ったので話をした。いつもどおりの。
「幸の薄い、幸子です」
 そういうと、おじいさんは、
「そうかぁ、ワシは、幸の薄い人よりも幸あれ幸子、のほうがええなぁ。今度から、幸あれ、幸子にしたらええ。それやったらこれからのことやし、ええ名前になるど」
 といった。
「さちあれ、幸子……はぁ、今度使ってみます。じゃぁ、すいませんが、おじいさんのお名前は」
「おぉ、ワシは正直な、正次郎や」
 マグロに醤油をたっぷりとつけた。笑うとほっぺたがたこ焼きのようにふくらんだ。肌がおもちのように張りがあって綺麗だ。私のお爺ちゃんとは見た目が違うが優しそうな目つきはお爺ちゃんに似ている気がした。
「この店には、よく来るんか」
「はぁ、一か月くらい前からよく来させてもらっています」
 嘘だ。もう一年くらいにはなるだろう、いつもの会話。薬のせいなのか、そうじゃないのか、いや、薬のせいだろう。私は、正次郎さんはいつもの男とはちがう感じがした。一緒に眠る腕に巻きつく相手は誰でもいいのだが、正次郎さんは、そんな男というものを感じなかった。お爺ちゃんと歳が近いせいなのか、いや、お爺ちゃんくらいの年齢の人とも寝たことがあるが、正次郎さんは話をしていて獲物を捕るような熱い思いもしなくて、穏やかで、こっちまで穏やかに話をすることができた。やっぱり、薬のせいだ。
「髪の毛、なんで坊主なんや」
 マグロをよく噛みながら聞いてきた。
「熱いんで。これ以上伸ばすと、体温があがってくるので、整骨院の先生から注意されているんですよ。ちょっとでも伸ばすと、頭をアイスノンでずっと冷やさなあかんのんです」
 これも嘘。頭が冴えているのでペラペラとその場しのぎの嘘が言える。
「ははは、そうなんや。おもしろい整骨院の先生やなぁ。まぁ似合ってんで幸子ちゃんには。顔がよぅわかって、表情が、えぇ」
 そうですか、顔は、不細工やとおもうんですが、といってまぁ、それから他愛のない話、阪神が勝ったとか、競馬がどうやとか、住之江のボートが、とか、家族が誰もおらんくなって、今は一人で出稼ぎしに、ここにきてんねん。あ、幸子ちゃんはお爺ちゃんと暮らしてるんか、大事にしたりや。そういう話をした。今回の違うところは、私にはお爺ちゃんがいる、と言ったことだ。隣にいるだけで、巻かれていないのに、腕に巻かれている気がした。もう少し、いてくれたら、いいのに。巻かれていたいな、正次郎さん、頭を撫でてみてほしいな。足は、暖かい? 間に挟んでいいかなぁ? 時間は二時間程経っていた。正次郎さんは明日も仕事だから、といって、
「じゃマスター、幸子ちゃんの分も全部で、お愛想で。今日は楽しかったわ。幸子ちゃんのおかげで、また明日も仕事がんばれるわ」
 マスターも、それは良かった、と言ってお釣りを渡した。
 お爺ちゃんも仕事や。もう七十三歳にもなって仕事している。私なんか簡単な皿洗いひとつでさえできひん。なんでこの人達は働くんやろう、なんで私は、区役所からお金を借りられたんやろう。体はお爺ちゃんと正次郎さんに比べたら動けるはずやのに。薬も沢山もらってきて、どこも悪くないのに。人間として、私は価値がないのだろうか。
 連れて行ってくれるのかとおもったけど、正次郎さんは一人で帰った。
「また会える日を」
 そういってにこやかに帰った。
 また独りになった。今なら、今すぐ出て行ったら、まだ正次郎さんがいるかな。
「マスター、帰ります。ありがとう」
 言い残して私は店をでていき正次郎さんを追った。

「しょうじろーさん!」
 背中が丸まって歩いている。下駄の音が寂しそうに聞こえる。余計に胸がきゅうんとなる。
「なんや、どないしたんや」
「し、仕事行く前まで、正次郎さんとこ、おったらあかん?」
 顔が熱くなっていくのがわかった。
「もう寝るだけやねんけどな、なんもないで」
 うん、と頷く。
「そう、それでもいいねん。それがいいねん」
 お爺さんが心配するで、といったが、いいねん、いいねん。もう私も三十路過ぎた大人やから。
「えぇのんか」
 うん、えぇのんと頷く。暗くて良かった。私の顔は真っ赤だ。正次郎さんは大島紬の羽織を私の頭に被せた。
「犯罪者みたい」
 手を握られない。正次郎さんは私に触れない。足はからまわらないし、腕はからめない。正次郎さんの歩く歩幅は私にちょうどい小股で、急ぎ足にならないから楽だった。冷たくなっているであろう正次郎さんの腕が、なかなか私にはからめなかった。

 正次郎さんの部屋は最近引っ越してきたらしく、生活臭のない部屋で、布団と缶ビールと服がちらほら散らばっている程度だった。
「風呂も無いところやけど、ごめんな」
 といってすぐに布団に入り始めた。私も当たり前のように布団の中に入る。
「なんでなんやろう」
 布団の中で聞いてきた。正次郎さんの指が、腕が、皮膚が伸びきっていてたるんでいる。首のあたりがお爺ちゃんと同じ匂いだ。耳を噛んでみる。大きさも、味も同じだ。好きな耳の大きさと形だ。正次郎さんが固くなってきたのがわかる。今でもお爺ちゃんも固くなるのかな。正次郎さんは私のいつものどうでもいい安っぽい黒のワンピースを脱がし始めた。女らしくない膨らみのない胸とくびれのない腰、ふとももから足首にかけてまっすぐな面白みのない身体になった。たいてい皆、この体をみてがっかりするのはわかっていた。
「女らしくないでしょう。ごめんなさい」
 しかも坊主だし、申し訳ない。
「いいんや。かわいらしい」
「昔はもうちょっと太っててんけど、ここ五年で、こんな体に」
 早口になってしまう。正次郎さんはゆっくりした口調で
「ええから、もう、喋らんでえぇ。えぇ体や」
 髪が私の顔にかかる。正次郎さんの愛撫は優しかった。綺麗な白髪を見ながら、ときどき触れる髪と張りのあるほっぺたに私は濡れていた。
 正次郎さんは私の中に入るときもう一度、
「えぇのんか」
 といった。入れていいのんか、気持ちいいのんか、どっちか分からなかったのでええよ、えぇのん、と言った。
 中に入ってきた正次郎さんはしばらくすると、もう一度、
「えぇのんか」
 と聞いてきたので、私はまた、気持ちいいのんか、はたまた、中で出していいのんか、どっちかわからなかった。分かるのは、気持ちがいい、ということだけが頭の中でいっぱいで、いちいち正次郎さんの声かけに応答する余裕が無いくらい濡れていて気持ちよかった。白髪を撫でる。どっちでもえぇのん、の答えだ。
 正次郎さんは私の中で果ててしまった。じわじわと正次郎さんを感じる。私は果てることは無かったけど、覆いかぶさってくる正次郎さんの白髪をなでていると、正次郎さんは満足げに横になった。私は正次郎さんの足の間に足を挟み、正次郎さんの脇に頭を沈めた。


 朝、正次郎さんは私を起こした。黙って出ていくことはしなかった。私はいつも通りの基礎体温を測ろうとしたが、正次郎さんが私の腕を引っ張って流し台まで連れて行ったので、今日の体温を測ることはできなかった。正次郎さんは、タオルを水で濡らして、
「これであそこを拭きなさい。今日はもう仕事いくけど、幸子ちゃん、おるんやったら、おっていいで」
 正次郎さんは五百円玉を銭湯代、といって置いて出て行った。出て行く前にもう一度だけ、正次郎さんの耳を噛んで舐めまわした。いってらっしゃい、の意味だ。
 濡れタオルであそこを拭いた。毛が抜けていた。正次郎さんの白髪も付いていた。
 タオルで拭くことが終わると、何もすることがない。何も考えることがない。やっぱりこの部屋も広すぎる、独りになると、何をしていいのか分からない広さだなぁと思った。特に正次郎さんの部屋は何も無さ過ぎる。最近こっちに越してきたのだろう。うーん、うーん、と何も考えてないのに、ただうーん、といってみる。考えているふりをしている。とりあえず、もうちょっとあそこを拭いて、お爺ちゃんの家に帰ろう。正次郎さんの液体と自分の液体の匂いはなんとも言えないすえた匂いだった。甘くも無く、酸っぱくもない、匂い。けど、ずっと嗅いでいたいにおい。嗅いでいるときに、あぁ、昨日は排卵日だったはず、と思った。思っただけで、罪悪感も幸福感も何も無かった。

 家に帰るとお爺ちゃんが新聞紙に髪の毛をたくさん載せて待っていた。そして、坊主頭の私を見て、
「幸子! お前、どないしたんや! これ」
 お爺ちゃんの顔が真っ赤になっている。私は冷静に、
「これは、髪の毛です。私の髪の毛です。切ったの。熱いから。もうこれからはこの髪型じゃないとアカンって先生がゆうたん。整骨院のせんせいが。だから切ったん。それから、幸子じゃなくて、さっちゃん。わかった?」
 いつも読まない新聞紙が役に立っている。私の髪の毛が沢山のっかっている。お爺ちゃんは掃除をしてくれていた。
「さっちゃん、女らしくないでその髪型。似合ってないで」
 泣きそうになっている。なんで泣きそうになってるんや、お爺ちゃん。
「これから似合ってくるんや。馴染んでくるって。それよりさぁ、お爺ちゃん、モーニングにいかへん?」
 お爺ちゃんは、その前にちゃんと話しなあかんとえらい怒っている。面倒くさいなぁと思いつつ、丸坊主になったいきさつを話した。
「イライラしたから? 頭があつい?」
 不思議そうだ。そしてマスターに生活保護の申請を勧められたことを言った。一万円、区役所の人が貸してくれたこと。そのお金で奥さんに病院までついてきてもらったこと。病名が付いてしまって、私の小さい鞄は基礎体温計だけやったのに、大量の薬が入ることになったことを。
「お爺ちゃんも、もう歳やし、私の面倒みられへんやろう。しんどいと思う。だから、さっちゃんは独りで生きていこうと思います。幸い、わたしには小さいながらも支えてくれる人がいます。元々は、私ら、血が繋がってないんやし、まぁ、たまには顔を出します。これでいいんとちゃうんかな、と思うんや」
 お爺ちゃんは新聞紙の髪の毛を私に投げつけた。
「何を考えてるんや、お爺ちゃんは、俺はどうしたらいいんや。幸子と血が繋がってないっていうても、生後……」
「五十日からやろ」
 いつもの一文の間を裂いた。
「そうや、五十日からずっと、お前を見てきたんや。誰かいい男できたんやったらまだしも、独りでって、それはないやろう」
 お爺ちゃんの顔が赤くなっている。
「男なら、おるで。その人と暮らしてみようと思ってる」
 顔がきょとんとしだした。よし、こっちのもんだ。
「なんや、おるんか」
 すこし嬉しそうな顔をしたので、お爺ちゃんと歳の変わらない正次郎さんと住みます、なんて言わないでおこう。また髪の毛を投げつけられる。
「そんな髪の毛でも、大丈夫なんか、その男は」
「うん。えぇっていうてくれたよ」
「生活保護は、もらうんか」
「うん。別々に暮らすから。独りは独りやけど、ちゃんと病名ついてるし、お医者さんも私が働くことが不可能やってゆうてくれるみたいやから、もらう。お爺ちゃんが心配することないで。たまには顔を見に来るし、モーニング代もこれからは私が出したる。お爺ちゃんも貯金が無くなって、仕事も無くなったら、生活保護の申請をしに行こう」
 お爺ちゃんは安心したように見えた。そうか、さっちゃん、男できたんかぁ、と言って投げつけた髪の毛をまた新聞紙の上にかき集めている。
 昨日は排卵日、今日は基礎体温は測られなかった。これからあと二週間くらいは高温期にはいっていくだろう。そして生理がくる。そしたら安心だ。もし、このまま生理が来なかったら、正次郎さんの、なのかな。私みたいな子供を作ってはいけない。独りで毎日寂しい思いをさせたくない。私が育てるとか、出来るのだろうか、母親のように産み捨てたりはしないだろうか。こんな思いなんかしたくないから基礎体温を毎日測っていたのに。正次郎さんは、お爺ちゃんより長生きしてくれるだろうか、いや、お爺ちゃんでもいい。この二人のうち、どちらか私の傍にいてくれたらいい。朝はおじいちゃん、昼間は寝て、夜は正次郎さん。それでいいかな。それで、赤ちゃんが産まれて、やっぱり怖くなって、母親みたいに逃げてしまったら、マスターと奥さんに育ててもらおうか。自分のしたことの重大さに怖くなってくる。きますように、生理。いや、きませんように、生理。どっちなんだ。独りがこわい。一人ぼっちが怖い。あぁ、 また頭が熱くなってくる。何も考えたくない。お爺ちゃん、早く私の髪の毛集めてよ。はやく新聞紙を丸めて捨ててよ。ばら撒きたくなってくるやんか。あぁ、手が動く。
「何するんや、さっちゃん!」
 お爺ちゃんの頭にせっかく集めた髪の毛をかけてしまった。お爺ちゃんはびっくりして目が大きくなっている。
「ご、ごめん。おじいちゃん」
 く、薬を飲もう。そういや今日は薬をのんでいない。飲まないからおかしくなるんだ。落ち着かなくなるんだ。私は小さい鞄から薬たちを一粒ずつプチプチと取り出した。リスパダール、アーテンジ、プレキサ、ルーラン。これからモーニングで小倉トーストをたべるから、眠りたくないからロヒプノールはやめとこう。よし、これでいい。口に含んだときに、あ、もし、妊娠していたら、赤ちゃんはどうなるんだろうか、と頭をよぎった。
 いけない。
 飲んではいけないんだ。と思って咄嗟に吐きだして、お爺ちゃんに抱きついた。
「さ、さっちゃん」
 お爺ちゃんはどうしていいのか困っているみたいで、しがみついた私の腕を撫でている。腕にも私の髪の毛が沢山ついている。
「お爺ちゃん、ごめん。ごめんなさい。もうちょっとこのままでおって。そしたらモーニングに行こう」
 お爺ちゃんはポンポンとゆっくり私の腕を叩く。
「えぇんやで、さっちゃん」
 お爺ちゃんは私を抱きしめて今度は肩をポンポンと叩く。
「こうやって、よう寝かしつけたもんや」
 そのリズムが気持ち良くって、寝てしまった。

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