ひと夏の異邦人    塚田 源秀


 
      
 本社から、わたしが所属する企画部あてにFA]が届いた。ここは、滋賀にあるドイツをモチーフとしたテーマパークである。北は東北、南は九州までの全五施設の企画担当者にも一斉に送信されているようで、表題に、ドイツ芸能楽団の取り止めの件と記されていた。わたしは夏のイベント案を詰めている最中だったので、送信された用紙を手にして急いで席に戻った。
 文面には、経費削減のため、多くの費用を必要とするドイツ民俗芸能楽団の招聘を一時取り止めて、各施設の身丈に応じた集客につながるイベントを企画してもらいたいと書かれていた。
 こんな大事なことを、簡単に一枚のFA]で送ってくるとは……。憤りと諦めを半々に感じながら、大きなため息をつくと、隣の席の脇田がパソコン画面からこちらに顔を向けて、「矢沢係長、どうかされました?」と聞いてきた。
「本社からの通達だ。今度の芸能グループは、中止になったよ」
「中止?」
「ああ、経費削減のためだとさ」
 FA]用紙を放るように脇田に渡した。
 脇田は信じられない様子で、文面を睨む。
「係長も、ドイツ芸能ショーはこの施設の目玉であって、これだけは譲れないと言っていたじゃないですか。他のイベント費や広告費にしたって、昨年と比較して二割も減らされているんですよ」
「本社からの指示というより、おそらく社長からのトップダウンだ。オーナー社長だから、仕方がないよ。他の施設も同じなんだから」
 一時取り止めと書かれていたが、おそらく今後もないだろう。譲りたくはない。一番の見せ所であるドイツ芸能ショーがなくて、何がドイツをモチーフにしたテーマパークと言えるだろうか。ドイツ人を招くにあたり、毎回何かしらのトラブルの後始末におわれるものの、それでも客の喜ぶ顔が見たくて、施設の立ち上げからこの三年間、熱い思いを込めていままでやってきた。
 ドイツ芸能ショーに代わるイベントなどそう簡単には考えられない。限られた予算枠でやりくりしなくてはならないのだ。
 しかし周りを見ると、他部署はもっと大変であった。レストラン、ファーストフード、物販といった部署長は、売上げを確保しながら、仕入れの抑制、在庫の圧縮、人件費削減にあたってのパート、アルバイトのやりくりといった一つひとつに常日ごろ頭を悩まされている。事務所の奥で彼らの相談に乗る支配人もしょっちゅうため息をフッとついていた。そういった姿をみると、立場が違うにせよ、これも仕方がないかと自分の心の中で言い聞かせる。
 しばし思案していると、向かいの席から「プラハよね。行くとしたら絶対、チェコだわ」と女性スタッフたちの弾む会話が耳に入ってきた。夏の休暇の話をしているようだった。
 そんな会話を何気なしに聞いていると、ふと、わたしはチェコに住んでいる友人を思い出した。彼は大手自動車メーカーに勤めていて、赴任してかれこれ三年くらいは経つ。去年届いたクリスマスカードにも、ようやくこちらの生活にも慣れて、現地の仲間もできて楽しくやっている、と書かれていた。
 チェコかあ、と呟く。背もたれに背中をあずけ、両手を頭の上で組みながら、チェコという国を思い浮かべてみる。世界遺産になった中世の都市プラハ、ボヘミアングラス、アイスホッケーの強豪国。知っている有名人といえば、作家のカフカぐらい。国の印象としては、「プラハの春」といった名の美しい響きの半面、先の大戦前後の当時のナチスドイツと共産主義のソ連に翻弄されてきた暗いイメージが少なからずつきまとう。
 たしかドイツの下あたりだったから、音楽に関してもドイツの影響もきっとあるはずだ。そして芸能楽団というものが、存在するのだろうか。ひょっとして、と閃いた。
 翌日、向こうの夕食時間をねらって友人に連絡をとった。意外にも何の違和感もなく「いや、久しぶり」とあいさつのやりとりをして、わたしは本題に切り込んだ。
「実は、おりいって、相談なんだけど……」と言って、こちらの状況を話し、チェコの音楽事情から芸能楽団の存在などのあらゆることを一方的に話した。受話器の向こうの友人は、まるで同じ町内にいるような感じで「うん、うん、なるほど」と返答してきた。こちらの話を遮ることなく、受け応えしてくれた。
「矢沢、ドヴォルザークって、知ってるか?」
「もちろん、『新世界』をつくった作曲家だろ。アメリカ人じゃなかった?」
「バカだなあ。チェコ人だよ。もうひとり有名な作曲家といえば、スメタナとか。ドイツやオーストリアに負けない、クラシックの大国だぜ」
 友人は半ば呆れながら話をつづけた。
「民族音楽や舞踏にしたって、歴史も古く、国立の音楽団や舞踏団もあるんだ。セミプロからアマまで演奏や踊りをやっているグループはたくさんあるよ。俺の勤め先にもいるし。声かけてみようか。報酬はドイツ人よりも、かなり安くて済むんじゃないかな。問題は、一ヵ月という期間だなぁ……。とりあえず、話してみるよ」
 わたしはお願いすると言って、演奏時期や渡航、宿泊などの経費、大まかな報酬額などを伝えた。
 まず施設内のコンセンサスをとって、次に本社の決済をとらなければならない。おそらくドイツ楽団に掛かっていた経費の半分くらいまで抑えないと、決済は下りない。報酬額は友人にまかせて、宿泊はこちらの施設内にある宿舎を利用すればいい。あとはすこしでも安い航空チケットを入手するかだ。
 数日後、友人から連絡があり「オーケーだって。そちらの希望する時期が、ちょうどこちらのバカンス時期にはいって、長期休暇がとれそうなんだ。男三人、女二人でどうだ? 遠いアジアの国へ行けるって彼らも楽しみにしてるよ。くわしいことは後でな」
 わたしは早速、社内のコンセンサスと同時に本社に出す稟議を上げた。本社とは二度、三度と経費やビザの件などでやりとりがあったが、イベントの方向性に同意してもらって決済に漕ぎつけた。予想外に反対したのが部署長たちだった。会議の中で、彼らの意見の多くは趣旨には賛同するが、やはり集客力があるかどうかという点であった。チェコのどういう連中が来るのか分からないのであれば、即効性のある、アンパンマンやウルトラマンといった人気のキャラクターショーをやって欲しいという案も出てきた。
 いろんな案が飛び交う中、わたしの隣に静かに座っていた物販の責任者、藤森が口を開いた。
「僕は矢沢さんの案を支持するわ。キャラクターショーを見に来る客はキャラクターが目当てであって、この施設のファンではない。きっとお金も落とさないだろうし、リピーターにつながる客になるとは思えんなぁ。遊園地じゃあるまいし、ここは非日常性を演出するテーマのある施設なんだから」
 ぽつりぽつりと話す彼の口調はどこか説得力を持っていた。事実、大手デパートの輸入品を扱うバイヤーの職歴を持っていることもあり、みんな一目置いていた。
 最後はわたしに一任するという支配人の一言で、話がまとまった。会議の後、わたしは藤森に礼を言った。
「いや、いいんだよ。でも、矢沢さんもよう頑張るな」
 藤森は苦笑した。
「頑張るって?」
「だって、僕も経験あるけど、外国人と一緒に仕事をするって本当にしんどいもん。多くのトラブルを抱えるし……。国際業務の仕事って、花形に思われがちだけど、以前よく言われていた3Kのひとつだからな。だから矢沢さんを見てて、よう頑張るなって」
「まあ……」
 頑張るという意外な言葉に、返答のしようもなかった。二十代は国際舞台で活躍する商社マンに憧れて、アメリカまで留学して英語を身に付けたこともあった。そんなわたしも三十五になってしまった。でも留学を通じての体験は今でも大きかったと確信している。何より向こうで友達ができたこと。視野が広がったということもあるが、遠く離れているからこそ見えてくる家族や日本のことなど。きっと留学を通じてしかできなかった経験が、今の自分を支えてくれているのだ。
 もう後には引けない、なんとしてでも、成功させなければならない。正直、チェコと思い浮かんだのが十日前で、こんなわずかな日数でとんとん拍子に進んだことが不思議なくらいで、逆にこれからのことに対して不安を感じずにはいられなかった。
 それから徐々にイベントの内容が詰められた。チェコの楽団五名が、一ヵ月後に来る段取りになっていた。滞在期間は三十日間。友人からのメールで、来日するメンバーの名前と年齢もこちらに届き、男性三人、女性二人のみんな二十歳から二十八歳という若者である。
「チェコ人の宿泊の予約を頼むよ」
 わたしは脇田に指示した。
 この施設には宿泊施設も備えている。夏休みになると家族づれの予約も多く入ってくるので、あらかじめチェコ人五名の宿泊の予約をしなければならない。
「えっ、僕がするんですか? 新しく入ってきた岸本マネージャー、苦手なんですよね。この前も、ドイツの楽団員が深夜騒いでいたとのことで、かなり怒っていましたから。いつも矛先は、ぺいぺいの僕ですから……」
 しばしわたしが黙っていると、脇田は「はい、わかりました」と、しぶしぶ受話器をとった。
 
 一ヵ月後、わたしと脇田がワゴン車で伊丹空港まで迎えに行った。彼らは成田経由で来ることになっていた。到着時間は夜の八時で、到着ロビーでウエルカムボードを手にして待った。国内線ということもあり、到着出口からでる乗客の多くは日本人なので、彼らをすぐ見つけることができた。カートには楽器のほか多くの荷物があった。一見、普段着の彼らはいたってノーマルで、ヨーロッパからきた若者だった。
 リーダーらしき男性がグループの輪からすっと抜け出て、我々と握手をして、お互い英語であいさつをした。そして、他のメンバーとも握手をした。
 印象としては、みんな、口数も少なく大人しい感じだった。きっと長旅のせいで、疲れているのだ。乗り継ぎを入れれば、ほぼ一日分の行程だから、当然かもしれない。
 車中では、彼らは一言もしゃべることもなく、頭を垂れてひたすら眠っていた。
 伊丹から滋賀へ向かい、高速を下り、鈴鹿の山の方へ向かう。田畑に挟まれた道に外灯は少なく、深い暗闇にすいこまれていくように走り続ける。山あい近くになると道は細くなりくねくねと曲がって、ほとんど行き交う車などない。ついこの前まで、道に沿った川からホタルがカーブを曲がるところの道案内をしてくれたが、もうその光景もとっくに過ぎている。季節は、もう夏を迎えようとしている。
 この静寂な夜の道は、日中のとくに土日にはまったく違った顔を見せ、西は大阪、京都、東は愛知、北は福井から多くの車を呼び寄せてくれるのだ。
 左の上の方に、施設が見えてきた。鉛筆のように立つ時計台の塔の尻から放つ青白い光は、辺りの森をぼやっと浮き立たせていた。明日には黒いカーテンの幕を開けるような、素晴らしいステージを期待したい。わたしは助手席から後ろを向き、青空の下、民族衣装で演じる彼らの姿を重ねた。  
 宿泊の手続きを終えて、フロントの壁時計をみたら、とうに十一時をまわっていた。「さあ、上がろうか」と脇田に声を掛け、宿泊施設を出ようとすると、岸本マネージャーに呼び止められ、「今度のグループ、暗そうだな」と言った。
「長旅で、少し疲れているだけだよ」
「だったらいいけど。矢沢係長のほうからビシッと言っておいてよ。トラブルはごめんだからな」
 岸本マネージャーは、片方の手先でモールス信号を打つかのように、トントンとフロントデスクを叩いていた。
 翌朝、事務所の朝礼のあと、約束の時間に彼らはやって来た。まず、目に飛び込んできたのが、白と黄、青、赤を基調とした彼らの民族衣装だった。チェコの国旗と国章に使われている色をベースにしているのだろう。艶やかではあるが、どこかくすんでいるようにも見えた。微妙ではあるが、我々があまり使わない、どこかレトロな雑誌にあったような古びた色彩だった。
 女性は白いブラウスに赤のベスト、藍で染めたようなスカートの衣装で、髪をぺたっと真ん中で分け、後ろの方でみつ編みに結んでいた。男性も白いブラウスに赤のベスト、パンツは脚のラインがみえる黄色のスパッツをはいていた。男女とも白いハイソックスをはき、衣装の所々に花や鳥といった細かい刺繍が施されていた。
 事務の若い女性たちが、お互い顔を見合わせながら、一人が「かわいい衣装。なんかハイジの世界に遭遇したみたい」と言うと、もう一人が「ハイジはもっと地味よ」と言って、おたがい腰をくの字にして笑い合った。衣装のことが話題になっていることに彼らも理解したようで、初めてみんなの顔に笑みがちらっとこぼれた。一気に場の雰囲気がなごみ、わたしはあらためて彼らと握手をして、事務所のスタッフに紹介した。
 金銭的な契約から、ショーとしての演奏内容についてわたしは説明した。演奏回数は日に、平日三回、土日祝四回、一回演奏時間は約三十分。施設内では、一番にお客を優先に考えることや、オフタイムの過ごし方などにも触れておいた。 
 話しの窓口になってくれたのは、昨夜、最初に握手してくれた彼である。プラハ大学の四年生で、名前をパヴェルと言う。どうやら英語を話せるのは彼だけのようで、わたしが英語で話した内容を、そのつど、母国語のチェコ語に訳して他のメンバーに伝えた。細身で整った目鼻口は、美形で、理知的に見えた。クールな感じは受けるものの、他のメンバーの中では開放的で、一番親しみやすい感じの青年である。その横にいたのが、腕組みをしている小太りの男で、名はカレルと言った。わたしの友人の勤める会社で働き、今回の催事の実現に尽力してくれた年長者である。柔和な表情の中にも、眼光に気圧されるものを感じた。他のメンバーの名前も、事前に頂いた名簿と照らし合わせた。いずれの名も舌をかみそうな発音で、英語とはかなり違う。二回、三回と復唱しながら、すぐ忘れそうなので、名簿の下にカタカナで書いた。
 打ち合わせのあと、わたしは彼らを連れてオープン前の園内にでた。よく晴れた日で、鈴鹿の山々がせまってくる。
 演奏場所や昼食のとれるレストランなどを案内し、パヴェルといろんな話をしながら、園の中をぐるっとまわった。ゆっくり歩けば一時間ほどかかる広さである。
 木立の中の道を歩きながら、鳥のさえずりを聞き、山から下りてくる空気や、露で濡れた芝生や花々に触れることにより、その日のエネルギーを吸収する。 
 この時間、決まって高台にある牛舎からエサや糞の入り混じったつんとした鼻腔をつく臭いが漂ってくる。焼きたてのパンの発酵の匂いと似ているかもしれない。不思議と、この臭いにも慣れて、好きか嫌いかと言えば、今では好きになってきた。考えてみると地元に帰ってもう四年、東京での生活がまるで、遠い昔のように思えてきた。少しずつ、わたしも根がはってきたのかと思う。
 僕らのグループは、みんな素人で数十人の在籍者がいるんだ。でも、結成して七十年の歴史があってねと、パヴェルは言った。「活動といえば地元の街の祭りや、イベントに参加することが中心で、せいぜい隣国の祭事に参加することがたまにあるくらいでね。遠いアジアの国に来られるとは夢にも思わなかったよ」
 中世のドイツの街並みを再現した景観のなかに、彼らの姿は映えた。石畳の上を歩くところや、花壇の端に足をかけて靴のひもを結ぶ仕草ひとつにしても、まさにヨーロッパの牧歌的な光景そのものである。
 園内をまわっている途中、レストランや販売などのスタッフと顔を合わせ、わたしは、おはようと言った。向こうも、おはようございます、と返ってくるものの、チェコの彼らに視線を合わせることなく、駆け足で自分たちの持ち場に去っていく。いつものことだが、もう少し応対の仕方があるだろうと、わたしは肩をすくめると、パヴェルはわたしの肩越しに「みんな、忙しそうだね」と言った。
 十一時に、レストランや売店があるマーケット広場の場所で一回目の演奏がはじまった。この日は土曜という曜日でありながら、人もまばらだった。練習がてらにちょうど良かった。編成は、ヴァイオリン二名、クラリネット、コントラバスが各一名、もう一人はバグパイプ、グムブレ(口琴)といったチェコの民族楽器を演奏した。そして、カレルは、ナマハゲのような鬼顔を細工したような杖を手にした。上下に振るとドラムのようなドンドンという音がした。マリオネットの流れをくむ楽器らしい。
 さすがに日本に選ばれて来ただけのことはあり、楽器の技量はプロの水準の域を達しているようにみえた。とは言え、異国の観光施設の中ではじめて演奏するわけだから、どうも勝手が違うようだ。曲の途中でカレルが楽器を弾くのをやめ、演奏が止み、それぞれ顔を見合わせ、何か話し合っている。なかなか調子が合わないみたいだ。
 わたしは離れて、様子を窺った。ほとんどの客はいったん足を止めるものの、二曲目の途中くらいで、その場から消えてしまう。少し関心があるような客でも、準備した長いすの片隅に腰かけて、数曲したら席を離れてしまった。民謡は、エンターティメントの音楽とは大きく違って、どちらかと言えば地味で馴染みのない楽曲だ。客の心をつかみ、足をとどませる工夫をしなければならない。とくにテーマパークという施設の中では、いろんな遊びのスポットがあるため、じっくり演奏を聴いてもらうということは、そう容易ではない。今まで来たドイツのプロの演奏家たちでさえも、そうであったのだから。初日とはいえ、彼らにしても決して満足いく内容ではなかったに違いない。
 早速、わたしにも、協力できることはないかと考え、アルファベット表記の日本語のあいさつ文をつくった。こういったものがあれば、少しは客の関心を引くことができる。演奏の合間や、彼らの食事中に同席しながら、わたしは、彼らのプロフィールや、それぞれの曲がどのような意味を持つのかを拾い上げて、仕上げていった。
 つぎはわたしが教える番だった。できあがった文を、ワンセンテンスずつゆっくりと読み、彼らがなぞるように繰り返して読んだ。「ニホンゴも難しいね」と誰からともなく声がでた。それぞれ手に渡したあいさつ文に、語尾の抑揚や発音のしるしをつけた。音に敏感な彼らだけあって、数回も繰り返すと、きれいな日本語をしゃべった。「ミナサン、コンニチワ。ソシテ、ミナサン、アリガトウゴザイマス」と。
 
 四日、五日と過ぎ、彼らは施設の環境に合わせようと努力していた。宿泊施設の方からもこれといった連絡もなく、とくに問題がないようだ。唯一あったのは悪い内容ではなく、内線で、「助かるよ」と岸本マネージャーは言った。「ベッドメイキングは彼ら自身でやってくれることになってね。替えのシーツを用意するだけで済むから、手間が省けるよ。部屋もきれいに使ってくれているとありがたいんだがな」
 演奏内容も徐々に充実してきてはいたが、客の受けを考えると、もうひとつ何かが足りなかった。ここ数日、わたしは園内放送でショーの案内を繰り返した。施設内にわたしの声がながれるたび、きっとスタッフもうんざりしていたはずだ。なんとか盛り上げたいために、わたしは焦っていた。
 わたしは事務所のドアを開け、園内にでた時のことだった。蛍の光が流れはじめ、ゲートに向かう家族づれがいた。ベビーカーを押す母親の周りを、片手におもちゃの飛行機を持った男の子が「ブーン」と声をだしながらぐるぐる回っていた。その後ろに父親と祖父母が歩調を合わすかのように並んで歩いていた。「たけし、危ないわよ。石畳の角につまずいて、こけたら、どうするの」と祖母が孫に声をかける。でも一様に子供を見る家族の表情はおだやかで、幸せそうだった。    
 それを見て、あっ、と思った。夏休みも八月に入ると、子供づれの客が増えてくる。子供が喜んで、それを見て親も喜ぶこと――。演奏にひと工夫できないかと思案しているところだったので、これは、いいと考えた。
 翌日、演奏にフォークダンスを取り入れ、客に参加してもらうという提案を彼らにした。
「やってくれるかな」 
「もちろんさ」
 パヴェルは口を横にして微笑んだ。「僕らは舞踏のグループではないけど、ポルカは、僕らの国が本場だよ。なあ、みんな」
 周りにいた他のメンバーもオーケーと軽くうなずき、次の演奏からはじめた。
 演奏の後半、メンバーの男女二組が向かいあい、手と手を握り、腕を伸ばして右へ左へ交互に低く高く、ヴァイオリンの刻みいい二拍子のリズムに合わせて、ステップしていく。これがポルカというものか、と感心している間もなく、女性二人は勢いよく回り始め、青いスカートがコマのように水平に回転していく。周辺を歩いていた客も足をとめ、今まで見たこともないようなものを見たという目つきで、じっと眺めていた。そして、ヴァイオリンの音色が無くなった瞬間、女性はぴょんと飛び跳ねて、手を添えた隣の男性の肩に乗り、大きく手を広げた。拍手と歓声が起こった。
 さらに女性は靴を脱ぎ、靴の中に手をいれて踊りはじめた。左右の足を交互に高く上げ、ヴァイオリンの音と合わせながら、二つの木の靴底をカスタネットのようにたたいていく。
 わずかな時間の踊りだったが、彼らの演技に魅了されてしまった。これに子供などがフォークダンスの輪に入れば、きっと楽しいショーとなるはずだ。
 どうしてもう少し早く気がつかなかったのか、どうして彼らも自ら提案してくれなかったのか。もっと、彼らの積極さが欲しかった。

 七月の末、客との間でちょっとしたトラブルがあった。それはチェコの演奏中に起きた出来事だった。わたしはその場にいなかったので、周囲の話を要約すると次のようなことであった。
 演奏中に、団体で来ていた中年の男性客が酔いにまかせて、彼らに近づき、からんできたというのだ。さらに男性客は、カレルが使っている鬼顔を細工した楽器を手にして振り回した。それに激高したカレルが男性客のむなぐらをつかんで押し倒し、すり傷を負わせてしまったのだった。
 酔った男性客と添乗員が事務所に怒鳴り込んできたので、わたしは二人を応接室に通した。施設の責任者である支配人、総務課長、わたしを含めた五人が対応し、まず相手に対して頭を下げた。我々は、こういった問題には慣れていた。多勢に無勢ではないが、トラブルなどの場合は、多人数で応対するのが鉄則だった。男性客も酔いがさめてきて自分がやったことに対して恥ずかしくなったのか、頭をかいてなんなく事は収まってしまった。
 一方、カレルの方は謝るどころか、怒りが静まらない様子だった。わたしは彼の腕をつかんで事情を聞こうとして、事務所へ連れて行こうとした。わたしはひるまなかった。カレルはすごい力でわたしの手を振り払い、語気を荒めてチェコ語で何かを言った。彼はわたしを睨み、顔を横にしてペッと唾を吐いた。パヴェルにも取り次いでもらったが、まったくの無駄だった。パヴェルは「演奏者にとって楽器は大切なものだが、それ以上にあのマリオネットは受け継がれてきた大切なものだから」と言ったきり、首を振り、口をつぐんでしまった。
 その日の夕方、わたしは、輸入商品をメインにする売店に入った。藤森はドイツを中心としたヨーロッパの知育玩具のコーナーのところにいて、一人で多くの商品の入れ替えを行っていた。
「模様替え?」
「いや、玩具コーナーを小さくしてるんだ。上からの指示でね」
「もったいないね。なかなか手に入らない物も置いているし」
「でも、買うのは一部の客だから。数字を言われると、何も弁明できないからな。隣のパン屋だって、以前はドイツのパンにこだわっていたけど、今では商品棚に並んでいるほとんどが菓子パンだからね」と手の甲で汗をぬぐった藤森は、「何か用?」と言った。
 わたしは昼間に起こったトラブルとマリオネットについて話した。藤森は眉をひそめながらじっとわたしの話を聞いていた。
「そりゃ、怒って当然だよ。マリオネットはチェコ人にとっては、アイデンテティそのものだから」
 藤森は上を指差した。一体の大きさが数十センチもある七、八体のマリオネットが暗い天井から吊るされている。男の子や女の子、男爵、お姫様、魔女、道化師などの姿がライトに照らされ、宙に浮かんでいる。
「アイデンテティって?」
「かわいいだけの存在じゃないということさ。たしか、第一次大戦前までの長い間、チェコはハプスブルク家に支配されていて、チェコ語はいっさい禁じられていたんだ。でも、例外的に、人形劇と民謡だけは認められていてね。彼らはマリオネットの人形劇を通じて、自分の言語、文化を守ってきたんだ」
「初めて、知ったよ。そんな歴史があったなんて」
「多くの人は、そんなもんさ」
「売れる?」
 わたしは、ピノキオに似た男の子のマリオネットに触れた。
「なかなか売れないよ。ABC分析でいえば、Cランクかな。天井から吊ってあるだろ。場所をとらないから、かろうじて置けるんだ」
 暗い天井を背にうかぶ人形のそれぞれの表情が、どこか愛しく見えてきた。
 
 八月に入った。夏の夕方は、まだ日が高い。一日の演奏が終われば、貸し与えた五台の中古の自転車でメンバーそろって園外に出て、人口一万人足らずの小さな町の中心へ下りていった。小さな町には若者が遊ぶところもないが、彼らは毎夕といっていいほど、頻繁に出かけていった。帰り道、会うたびに、きまって誰かのカゴに大きな袋を入れて坂道を戻ってきた。「何それ?」と、聞くと、「ああ、ちょっとな」と、サドルの足に力を注ぎ、高台にある宿舎の方向に自転車を漕いでいった。彼らの後ろ姿をみて、何事もなく平穏に時間が過ぎてくれればいいと願う。
 明日は彼らの二回目の休日で、わたしが車で琵琶湖の水泳場に連れて行くことになっていた。日本一大きい湖で泳げることを楽しみにしていた。海のない国だから、海や湖への憧れがきっと強いに違いない。
「矢沢係長には感心します。これまで自分の休みを返上して、ドイツ人やチェコの彼らの休みの案内まで買ってでるんですから。案内をするにしても、僕なら出勤あつかいにしますけどね」
 脇田はタイムカードを押して、事務所を出るところだった。
「独身だからさ。代休とっても、消化できないのわかっているからだよ。脇田君のように嫁さんや小さい子もいないしな」
「いや、それにしても、僕にはできないです」
 脇田はショルダーカバンを肩に掛けて、缶コーヒーをぐいっと飲み干して、「お先」とドアを開けた。
 翌朝、彼らを乗せて、琵琶湖の水泳場に向かった。
「申し訳ないな。ヤザワも休みの日なんだろ」後部座席からパヴェルが顔を出してきた。
「いや。いいんだ」と、わたしは首を横に振った。
 車の中は、静かだった。FMラジオから流れてくるロックとエアコンの音だけが支配している。バックミラーを見ると、メンバー四人はそろって口をぽかっと開けて、同じ夢を見ているような寝顔だった。唯一カレルだけが目を細めて車窓を見ていた。彼とはあれ以来、言葉を交わしていなかった。
 この三年間、楽団員の休日にあわせて、ずっと付き合ってきた。昨夕の脇田との会話が、ふと頭によぎる。自分の休みを返上してまで、と言われてしまったが、とくに自分で意識的にやっているわけではなかった。藤森が言った「頑張る」にしたってそうだ。わたしはアメリカにいた時のある光景を思い返していた。
 七年前、わたしは英語をマスターするため、アメリカの大学にいた。中西部にある小さな町の、規模の小さな大学だった。周りは農地ばかりで、日本人も少なく、勉強するには、もってこいの所だった。毎日が学校と寮との往復で、とくに親しい友人というのもいなかった。
 アメリカの生活に慣れてきたころ、実家から電話があった。父に癌がみつかり、かなり転移しているとのことだった。母は「帰ってこい」とは強制しなかった。おそらく、きっと父に口止めされていたのに違いない。すぐ帰ったほうがいいのか、修了書をもらうまで続けたほうがいいのか、考えあぐねていた毎日だった。
 ある日の夕方、寮へ帰り、まっすぐ暗い部屋にもどる気分ではなかったので、一階のロビーに何気なしに寄った。テレビを中心にソファーがいくつか並べてあり、わたしは、ラックにある新聞を手にして、後ろの座席にすわった。ロビーにはいつもの二人がいた。テレビは視聴者参加のバラエティ番組をやっていて、司会者の言葉のひと言ひと言に、スタジオ内は大笑いだ。それに合わせて、一番前に座っている男の二人も、ガサガサと菓子袋に手を突っ込んで、ポテトチップスのようなスナックを口に入れながら大笑いしている。ここの主といわれているアメリカ人の寮長と副寮長だ。二人が大学院生ということぐらいしか、わたしは知らない間柄である。
 チラッと後ろを向いた寮長は、テレビのリモコンの電源を切った。ぱっと画面が暗くなり、「ヤザワって言ったかな」と、振り向きざまにわたしの顔をじっと見た。「ええ」と新聞を横にずらして返事すると、「君の親父さんのこと、聞いたよ。大変、悲しくて残念なことだ。僕は日本へは行けないが、ここで出来ることなら、どんなことでも協力するぜ。なんでも言ってくれ」と身を乗り出して、親身な表情を見せた。副寮長も「遠慮はいらないからな」と付け加えた。
 思いがけない二人の問いかけに、わたしはどう返事したらいいか、正直とまどった。以来、二人との距離が近くなったことは言うまでもないが、異国の地で、ささやかなことではあったが、はじめて心を打たれた言葉であった。
 初めての外国の地は、誰だって不安だ。その国の印象を、現地の人の対応ひとつによって、どうにでもなってしまう。それは、良きにつけ悪しきにつけだ。わたしは、彼らに少しでもいい思い出を作って帰ってもらいたいと思う。わたしは座りなおして、背中をまっすぐにし、ハンドルを強く握った。
 水泳場は家族づれで賑わっていた。沖のほうでは、ウィンドサーフィンの白い帆が幾つか浮いていた。陽光が湖面を白く照らし、瞼に眩しい。
 車を駐車場に入れるなり、彼らはドアを開け急いで浜辺へ走っていった。
 わたしはビーチパラソルの下で、文庫本を片手に、彼らを見ていた。小さな水泳場ということもあり、黄色い肌の中に、すらっとした白い肌の彼らの姿は目立った。女性二人は水を掛け合い、パヴェルともう一人の男性はビーチを走り、まるで子供のようにはしゃいでいた。カレルはひたすら沖に向かって泳いでいた。
 あの出来事の翌日、わたしはチェコにいる友人に電話をした。友人は事の経過を聞くと、そうか……とため息をついた。カレルは少し堅物だが、決して悪い奴でもないよ――。彼はそう言って、カレルを擁護した。そして、わたしはカレルの素性を聞かされた。彼の話によると、カレルの家系はユダヤの血を引いており、祖父、父はマリオネットの人形師をしていたということだった。
 わたしが仮にカレルの立場だったら、どうだろうか……。藤森が話したことを、思い返してみる。もしかしたら同じことをしていたかもしれない。そうかと言って、彼を正当化して、こちらが謝るというのは筋違いだ。どうにかして彼に早く機嫌を直して欲しかった。
 彼らが浜から上がってきたのは、二時間くらい経った頃だった。
 陽は高く、まだ帰るには早かった。彼らが琵琶湖の大きさを見たいというので、わたしは湖岸沿いの道を北へ走った。左側に延々と続く湖の広さに、パヴェルは「本当に海みたいだね」と言った。冬ほどではないが、北へ上がるほど、湖面は静かに、徐々に青みを帯びてくる。湖南に比べ雪深い湖北の地域は、風情はあるものの、どこかうら寂しい。
 しばらく走っていると、観音の里という看板を目にして、わたしは右にハンドルを切った。ふと、観音の文字に誘われてしまった。同じ県内に住みながら、一度も訪れたことのない町だった。
 トイレ休憩をとるために、近くのお寺の駐車場に車を停めた。境内のトイレを借りて、車に戻ろうとしたところ、門から老婆が入ってきた。杖をついて片方の手には茶巾袋を持っている。向こうから小柄な老婆はしきりに頭を下げて、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「お参りの方ですかいな?」
 老婆は立ち止まり、我々を見上げた。
「ええ、まあ」
「それは、それは。わざわざ遠いところを、ようお参りやす」
「いいえ」
「こちらの方々は、アメリカ人さんかい?」
「チェコの方です。ヨーロッパにあるチェコという国から来たんです」
「ほう」と頷き「それは、それは。これも観音さまのお導きじゃ。ただで帰すとバチがあたる」と老婆は言って、お堂に案内してくれた。断る理由も見つからず、わたしは彼らに合図して、一緒にお堂に向かった。老婆は草履を脱いでお堂の階段を上がり、正面の鈴を鳴らして手を合わせた。茶巾袋から錠前を取り出し、観音堂の扉を開けた。
「さあ、さあ」と言って、老婆は手招きしてお堂に上がるよう促した。老婆は、このお堂の世話方だと言った。この小さな町には昔、観音信仰が根づいて数十の仏像や神像がいくつかの村堂に安置されているという。そのほとんどは住職さんがおらず、村落の人によって守られてきているというのだ。
 チェコの彼らは怪訝そうな表情で靴を脱ぎ、わたしの顔を眺めた。
「さあ、中に入って、お参りなせェ」
 老婆は照明のスイッチを点けた。
 お堂の中はひんやりとしていた。
 正面に凛とした観音さんが立っておられ、多くの手を出されているが、すべての腕の手首から先は失われている。チェコの彼らは、眉を寄せ合って、お互いの顔を見合わせた。わたしも多くの千手観音を見てきたが、手首のない観音像ははじめてだった。
 わたしは型通り、正座して手を合わせた。彼らも戸惑いながらも、わたしに倣った。
 カレルはパヴェルを通じて「どうして手首がないの?」と聞いてきた。わたしは老婆に伝えた。
「昔は、ここは戦乱の舞台だったからな。姉川や小谷城、賤ケ岳といった合戦が多かったでっしゃろ。明治には廃仏毀釈もありましたし。そのたびに、当時の村民は、この観音像を土の中に埋めたり、川の中に沈めたりして、ずっとお守りしてきたんじゃ。それでこんなお姿に」
 老婆は観音様に合掌し深く頭をさげた。「その姿は、村民の身代わりとして、自ら傷ついて、この村を守ってくださったのじゃ」
「土に埋めたり川に沈めたり、というのは本当の話だったんですね」とわたしは言った。
「ああ、もちろんさ。観音さんの合掌されているきれいな手が、わたしにゃはっきり見えます」
 老婆は、引き込まれるような眼差しで観音様を眺めていた。
 老婆は、この地域の観音様についていろいろと話してくれた。わたしは訳することを忘れるほど、じっと彼女の話に耳を傾けた。彼らもどこまで理解しているかわからないが、静かに聞いていた。  
 外からザッという音がして、振り向くと烈しい雨だった。セミの鳴き声が止み、熱せられた境内は白い湯気が立った。蒸した空気が押し寄せてきた。
 老婆は下げた供物をお皿に移し、「水まんじゅうじゃ。どうか、召し上がって。きっとご利益があるさかいなぁ」と我々に差し出した。
 わたしは外の階段に腰掛けると、カレルもとなりに座った。二人は、黙ったまま外の風景を見ていた。烈しい雨はすべてのものを洗い流すに十分だった。水まんじゅうを口に入れて「うまいなあ」と言うと、カレルは「イエス、オイシイ」と微笑んだ。
 しばらくすると、雨は小降りになり、薄日が差してきた。わたしは、ひんやりとした清涼な空気を胸いっぱい吸った。

 八月も二週目に入った。チェコの彼らはうまく適応してくれていた。フォークダンスも人気で、彼らの声掛けに子供や大人も輪の中に参加してくれて、三十分の演奏が一時間ちかくに延びることもしばしばだった。大変なのは、何といっても暑さだった。雨のない日は、できる限り屋外で演奏をやってもらった。天上からの強い日差しは周りの木々で多少やわらぐものの、石畳の照り返しは熱く、それでも彼らから不平不満という言葉はなかった。次の休日には、彼らの希望通りに、新幹線に乗り京都観光に連れて行くつもりだ。暑い日中の演奏に比べれば、どれもたやすい依頼だった。
 ある日、近郊のフォークダンス愛好会から、チェコの彼らとジョイントできないかという問い合わせがあった。わたしは二つ返事で「どうぞ」というと、当日、二十数名のオバサマ達がマイクロバスでやって来た。なかなかこういった場所で踊る機会がないらしく、着いた時からオバサマ達は興奮気味だった。厚めの化粧に派手なフォークダンス衣装と、少し近寄り難い雰囲気であった。われ先にチェコの男性と踊りたいという欲望の渦の中、舞台は彼女達の独壇場だった。パヴェルやカレルは彼女たちの渦の中におぼれていくような光景であった。周りで見ていた大人の観光客は苦笑し、子供達は目を点にして見ていた。
 オバサマ達は、施設にとっていいお客様だった。食事は近江牛のステーキを注文し、売店でも高額な商品をバンバン買ってくれた。帰る際に「また、友人に紹介しとくわ」と、まるで台風のように去っていった。
 それを機に、岐阜や名古屋、京都からのフォークダンス愛好会からの参加予約が相次いだ。チェコの彼らにとっては大変ではあったが、施設にとってはうれしい誤算だった。集客もアップし、それ以上に一人当たりの客単価が高いため、大きく売り上げに貢献してくれた。本社に出すイベント報告書に、これは書けると思った。
 
 彼らの滞在期間が残り十日をきったある日、岸本マネージャーから、ちょっと早いけど、彼らのお別れパーティをやろうと、誘いを受けた。
 その日の仕事を終え、脇田と一緒に宿舎に向かった。レストランのドアを開けると、すでに盛り上がりをみせていて、岸本マネージャーがさあ、と言って、中に入るようにすすめた。    
 チェコのメンバーの他、私服に着替えた他部署の若い男女のスタッフ数名もいて、アルコールも入っていたせいか、全員かなりできあがっている様子だった。岸本マネージャーは、業者からの提供だと言って、上機嫌にビールケースから瓶ビールを取り出し、テーブルに並べた。
 わたしと脇田はみんなの輪の中に入って、隣にいた女性スタッフにビールを注いでもらった。
「矢沢さん、なんでここにいる、と思っているでしょ」
 あごを引いた顔が仄かにピンク色に染まって、わたしの表情をうかがっている。
「そんなことないよ。仕事終わってから、彼らと付き合ってくれてたんだ。カラオケや、百円ショップ、回転寿司とか」
「なんだ、知ってたの」
「もちろんさ」
「これでも、ちゃんとコミュニケーションを図っているんですよ、彼らと。感謝してもらわなくっちゃ」
 彼女は傍にいたチェコの二人にチラッと視線を送って、笑顔で小さく手を振った。
 そして、彼女はわたしの肩をぽんとたたき、近くの輪の中に入っていった。輪の中には、男性スタッフやチェコのメンバーがいて、彼らはグラスを上げ、わたしに軽く会釈した。
 脇田は、傍に寄って「彼らの後を付けておいて、正解でしたね」と、クスッと笑った。
 
 しばらくすると酔いがまわってきて、テーブルに席に座ると、パヴェルが向かいに座ってきた。壁掛けのテレビに目をやると、終戦記念日が近いということなのか、原爆ドームや慰霊碑を映していた。アナウンサーが、以前に落書きがあった事件にも触れていた。
「ヒロシマだね」
 とパヴェルが振り返ってテレビを見た。
「うん」
「アナウンサーは、何を言ってるんだい?」
「慰霊碑に落書きした、バカな奴のことを伝えているんだ」
 わたしは肩をすくめた。
「どこの国だって、そういう奴はいるさ。プラハだってそう。原爆ドームとプラハは、意味合いは違うにせよ、同じ世界遺産だからね。」
「同じ世界遺産?」
「ああ、皮肉な話があってね。落書きがあって、世界遺産に認められるということ」
「へえ、そうなんだ」
  パヴェルが身を乗り出して、
「つぎの最後の休みだけど、ヒロシマに行こうと計画しているんだ。ひとりでね」
「原爆ドームとか?」
「ああ。駅からどうやって行くんだい?」
「えっ」
 不意な質問だった。わたしは、原爆ドームはおろか広島さえ行ったことがなかった。外国人からしてみれば、当然日本人は誰でも一回は原爆ドームに訪れているはずだと、思っているのだろうか。
「昔、修学旅行で行ったきりで。バスをつかったから、よく分からないな。また、調べておくよ」と別な話題に移りたくて、パヴェルへの視線を横に切った。
「原爆ドームって、もともと何の建物だったの?」
「えっ。たしか……何かの資料館だったかなあ……ちょっと、忘れた」
「たしか、もともと物産陳列館という名称だったと思うよ」
「えっ。よく知っているね」
「大学の専攻が建築でね。あの原爆ドーム、
チェコの建築家、ヤン・レッツルという人が建てたんだ。知ってた?」
 わたしは首を振った。
「彼はそのほか、日本にホテルや学校なども建てたんだ。でも、現存するのは、ごくわずかみたいだけど」
 アメリカの建築家ヴォーリスはここ滋賀でも有名だが、チェコ人の建築家が活躍していたとは知らなかった。
 わたしはテレビの画面を見ると、すでに違う話題になっていた。
 カレルが、ヴァイオリンを手にして弾きだした。ヴァイオリンの音色は日中の演奏時とは違って、時には激しく、時には切なく室内に響きわたっていった。みんな談笑をやめ、彼の演奏に目を細めていく。彼はドヴォルザークの「新世界」やスメタナの「祖国」の一端を弾いていく。
 彼らが来たことによって、いくつかのことを知った。マリオネットや、観音様、原爆ドームなど。わたしは、自分の国のことすら何も知らないと、心の中で少し恥じた。
 すでに暮れていった外の景色に目をやる。ガラスに映っているのは、青白い光の下で、黒い印画紙に浮かぶチェコの彼らと我々スタッフだけであった。
 
 帰国前日、彼らはいつも通りに演奏し、いつもの所で食事をしていった。演奏後、事務所に来てあいさつをして、宿舎へ戻っていった。ただ違うことは、もう町へは下りなかったことぐらいである。
 そして広島に行ったパヴェルは何も言わなかった。敢えてわたしも聞かなかった。
 翌朝の早い時間、わたしと脇田は彼らを関西空港まで送っていった。車中では、行きと同様、彼らは頭を垂れて眠っていた。
 昼過ぎには施設にもどり、事務しごとを片づけていた。本社から届いたチェコの楽団の評価表の各項目に点数を入れていたのだ。
 内線が鳴り、脇田が受話器をとった。
「岸本マネージャーからです。矢沢係長に代われって」
 受話器をおそるおそる出してきて、もう一方の片手は人差し指を立てて上下させていた。
「もしもし、何か?」
「何かじゃないよ! やってくれたよ、あいつら」
「チェコの彼らですか? 何を?」
「彼らの使っていた全部の部屋、ビールの缶で埋め尽くされていたよ」
「埋め尽くされたって、どれくらいの数?」
「多すぎて、わかんないよ。数百から千ちかくあるんじゃないか。これだけの缶ビール、どうやって運んできたのか、知らないけど」
「そうですか」
「そうですかじゃなくて、ビール臭くて、これじゃ、当分部屋が使えないよ。宿泊料の損失、企画で見てもらうからな。今から掃除するから、ちょっと手伝ってよ」
 わたしは受話器を脇田に手渡した。
「こちらまで、びんびんに聞こえてましたよ。ところで、矢沢係長、一人当たりのビールの消費量、世界一どこか知ってます?」
「普通に考えれば、ドイツ。もしかしたら、アメリカかな」
「なんとチェコですって」
「へえ。そうなんだ」
 評価表の最後の項目「再度、招聘を希望しますか」で、わたしは○を付けた。
 わたしと脇田は園内にでた。
「今日は早退できると思ったのに。早く終わって、帰りましょ」と脇田は高台にある宿舎まで走っていった。
 飛行機のゴーという音が聞こえてきた。空を見上げると、いわし雲がひろがって、その上にかすかな飛行機のシルエットが見える。
 きっとこの時間、日本の思い出と母国へ帰れる安堵感を胸に、中国大陸あたりを飛んでいるのかな、と想像した。
       
                 了

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