合わせ鏡   柳生 時実



 正午をまわっているのに、娘の彩(あや)花(か)は起きてこない。わたしは様子を見ようと彼女の部屋に入った。中は遮光カーテンが引かれたままで薄暗い。ベッドに目をやると、頭まで布団をかぶり丸まって寝ている。
「起きて。お昼ご飯、できたよ」
 枕元で声をかけたが、返事はない。
「早く食べないと冷めてしまう」
 顔にかかった布団をめくろうとしたら、寝返りを打ち向こう側を向く。
「どうするの。返事して」
「いらない」
「仕方ないわね。お腹すいたら温めて食べて。お母さんは午後から仕事に行くから」
「うん」
「今日も休むって、学校に電話したからね」
「……」
「カーテン開けるよ」
「やめて」
 くぐもってはいるが、鋭い声がした。
「今日はいい天気で気持ちいいのに」
 あきらめて部屋を出たわたしは、一人でテレビを見ながら昼食を食べた。
 
 この春、彩花は私立大学の付属中学校に合格し、憧れの制服に身を包んで元気に通学していた。
 ゴールデンウィーク明けのある日、クラスメートの男子に蹴られたと、泣きべそをかいて帰ってきた。わたしは驚いて事情を問いただした。
 休み時間、自分の席で授業の用意をしながら隣の女子と話をしていたら、いきなり後ろから向井君に蹴られたという。彩花は床に転げ落ち、その勢いで倒れた机で腹を打ったらしい。心配なので腹をさわろうとしたら背中が痛むと言う。服を脱がせると、赤く腫れている。念のために病院へ行ったが、骨に異常はなかった。医師は「突然、後ろから蹴られたので力を入れて構えることができず、痛みが強く残っているのだろう」と言った。    
 向井君の母親は電話で謝ってきた。診断結果を聞くので骨には異常なかったと話すと「そしたら、大丈夫ですね」という。なぜか、その物言いは勝ち誇ったように響き、小馬鹿にされたようで不快に感じた。わたしは「とても痛がっていますけど」と訴えたが、「早く治るようにお祈りしています」とまるで他人事のようだった。
 担任の話によると、向井君は蹴った理由を「彩花の話し声がやかましかったから」と説明したらしい。それを先生から聞いた彩花は「友だちと普通に話をしていたつもりだったので、思い当たることがない」と言った。すぐに「どんな大きさの声を出せばいいのか、わからなくなった。どうしよう」と悩みだした。わたしは「今まで通りで大丈夫だから」と励ました。
 しばらくすると、彼女は教室でまったく話せなくなり、周りのクラスメートの話し声さえも気になって「教室が怖い」と言い出した。休み時間が一番ひどいと訴え、授業が終わるたびに保健室へ避難した。六月に入ると、授業中の何気ない物音でも気分が悪くなって、ほとんど教室へ入れなくなってしまった。それからは学校を休みがちで、登校しても保健室で一日を過ごすようになり、九月半ばの今も変わらない。
 
 昼食を食べ終えてキッチンで洗いものをしていたら、いつの間にか彩花が後ろに立っていた。
「お母さん、早(さ)季子(きこ)ちゃんを家に呼んでもいいかな」
「早季子ちゃんって、どこの?」
「保健室でいつも一緒にいる中三の先輩」
「いいけど、いつ来るの」
「早いほうがいいから明日にでも。早季子ちゃんは自分ちが嫌なんだって。だから、泊りたいって」
 わたしは水を止めて振り向いた。
「うちは構わないけど。泊りだったら、早季子ちゃんのお母さんと話をしてからね」
「お母さんはオーケーらしいよ。好きにしていいって」
「とりあえず、今晩にでも電話してみるから」
「わかった。早季子ちゃんにメールしてくる」
 彩花は表情を変えずに頷くと、踵を返して自分の部屋に戻っていった。
 彼女は今日一日、部屋で本を読むか、パソコンをするか、携帯電話でメールをするかして過ごすのだろう。学校には週の半分くらいしか登校していない。一日登校すると疲れて休んでしまう。登校しても保健室で過ごすだけなのに、肩が凝り、頭痛がおこって吐きそうになるという。
 二学期の始め、微熱も続くのでどこか重大な病気かもしれないと、病院に連れていき検査を受けさせた。結果は身体の病気ではなく、心労からくるのだろうと診断された。
 保健室の加藤先生の紹介で夏休みから受け始めたカウンセラーに相談すると、心療内科の受診を勧められた。心療内科という親しみのない場所に不安を覚えたが、一日でも早く、元通り学校へ通ってほしいという思いが強かったので、仕方なく受診させた。
 医師は彩花を三十分ほど問診すると「自律神経が失調してますね」と言った。わたしは驚いて「自律神経失調症ということですか?」と聞き返したら「そうです」と頷いた。病名に聞き覚えはあったが、まさか娘が罹るとは思ってもいなかった。ショックでなにも考えられなくなり、病状の説明を聞いても頭に入ってこなかったが、取りあえず、薬の処方を受けた。
 
 午後になり、わたしは講師をしている幼児教室へ出勤した。彩花が小学生になってから始めた仕事だった。有名小学校を受験する幼児を教える仕事は、面白くやりがいもあった。必死にわが子を合格させようとする母親たちと接するのは骨の折れることが多かったが、彩花の中学受験を経験すると、少しは気持ちが理解できるようになった。
 夫とは彩花が小学校を卒業した時に別居して、離婚調停中である。それで生活のために来年度から、ここで正社員になることが決まっていた。
 年長組のクラスが終わり、わたしは廊下で待っている母親たちを教室に招き入れた。彼女たちが自分の子どもに寄りそうと、今日やり終えた課題と宿題の説明をはじめた。母親たちは、採点されたわが子のプリントを見ながら、熱心に聞き入っている。時折、ちらちらとよその子のプリントを盗み見る親もいた。よくできる子の母親の顔はどこか安心しているようで、できのよくない子の母親は強張っていく。小学校受験は秋が本番なので、時間があまりなく焦るのだろう。
 わたしが「今日はこれで終わります」と言うと、子どもたちは机の教材をバッグに入れて立ち上がり、教えられた通りに行儀よく椅子を戻して元気にあいさつをした。そして、母親に手をひかれて教室を出ていく。
 皆を見送ろうと教室の戸口へ向かうと、翔太くんの母親に声をかけられた。翔太くんの姉と彩花は、同じ中学校の同級生である。母親は翔太くんにも同系列の小学校を受験させるつもりで、この塾に通わせていた。
「岡谷さん。来週の学年説明会に出席しますか」
「学年説明会?」
「ほら、中学校のですよ」
 彼女は教え子の保護者から、彩花の同級生の母親に変貌した。
 わたしは講師から彩花の母親に変わることに戸惑い、黙って首を傾げた。
「運動会や文化祭、実力テストの説明があるみたいですよ」
「ああ、そうでしたね」
 学年説明会を知らせるプリントに記憶はないが、思い出したふりをした。
「前の懇談会はお休みでしたよね。もし、今度も欠席されるのなら、大事な点をメモしてお渡ししますよ」
「まだ、予定が立たなくて、行けるかわからないのですよ」
 一学期の終わりに参観があり、終了後、保護者と担任で懇談会が開かれた。わたしは彩花が教室に行ってないので参観には行かず、懇談会だけに顔を出すのは気が重くて欠席した。今回も欠席すると思うが、あいまいに答えた。
「そうですか。じゃ、お姿を見かけなかったら、メモを持ってきますね」と彼女は会釈をして翔太くんと手をつなぐと、耳元でささやいた。
「彩花ちゃんのこと、大変らしいですね。私に何か出来ることがあったら、いつでも言ってくださいね」
 わたしは黙って頭を下げた。母親と目を合わせられず、翔太くんに手を振り見送った。
 彩花が教室へ入れなくて保健室にいることが、中学校や幼児教室の母親たちの中で噂になっているのかもしれない。
 何としても彩花を元気にして、噂をしている彼女たちを見返してやりたい。
 わたしは、がらんとした部屋を半ば放心したようになって見渡した。今まで子どもたちの熱気で満ちていたのが、嘘のように静まりかえっている。部屋の前方にあるホワイトボードに向かい、その上に書かれた字を消そうとイレイサーを手にした。先ほど、子どもたちに鏡の説明をするために書いた絵もあった。それを眺めると、ふと彩花の幼稚園時代を思い出した。
 彩花は「鏡に映すとどうなりますか。正しいものを選びましょう」という問題が苦手だった。鏡は反対に映るということをなかなか理解しなかった。
 わたしが実際の鏡に映し出して見せると、だんだん正解に丸をつけられるようになった。
 あのとき手助けしたように、今の彩花の心の中をわたしが鏡に映し出し、障害になっているものを見つけられたら、どんなにいいだろう。
 そう思うと、今度は教室に入れなくなった頃のことが、よみがえる。
「原因は向井君に蹴られたことでしょう。どうしたら、その恐怖を取りのぞけるの? なんでもするから教えて」
 わたしの声はうわずっていた。
「向井君のことは、きっかけに過ぎないから」
「そしたら、ほかに何があるの?」
 何度もほかの原因を聞いたが、彩花は何も答えられない。
 なんとかして原因を突き止められたら、元通りの彩花に戻れるだろう。
 あの時と同じ思いが、頭の芯に向かって湧きあがってくる。
 わたしはイレイサーで絵をていねいに消していく。文字も絵もなくなったホワイトボードは、ただ、目に痛いほど白く光っていた。

 夕食を終えると彩花にせかされ、深井早季子の家に電話をかけた。受話器を持つわたしの側に来た彩花は、小声で話しかけてきた。
「早季子ちゃんとこは、うちと同じでお父さんがいないから。でも、子どもが二人いるから、早季子ちゃんのママは寂しくないんだって。嘘だと思うけど」
 どういう意味なのかと疑問がわいたが、呼び出し音が鳴っているので適当にうなずいた。
「はい」
 早季子のママは暗い声で応答をした。
 わたしが電話をかけたいきさつを説明しようとすると、彼女は話を途中でさえぎり「子どもから聞いていますので、明日からよろしくお願いします」と簡単だった。それに、しばらくお願いします、とも言う。
「しばらくって」
 わたしは言葉に詰まった。
「一週間くらいは」
「はぁ」
「早季子は彩花ちゃんと気が合うみたいだし、二人とも気分転換になって、よくなるのではないかしら」
「そんなものでしょうか」
 早季子ちゃんが家に来ることが、彩花にとってプラスになるというのだろうか。
 考えているうちに母親に押し切られ、一週間預かることを引き受けた。
 次の日の夕方、早季子ちゃんは制服を着て通学カバンを持ち、大きな紙袋に着替えを入れてやってきた。
「一週間、お世話になります」
 ていねいにお辞儀をする姿は、真面目な高校生のように大人びている。
「うちは二人だけなので、遠慮しないで。なんでも言ってね」
 わたしは早季子ちゃんに笑顔を向けた。
 彼女は表情を変えず「はい」と答えた。
「座って。一緒にケーキでも食べましょう」
「別にいいです」
 早季子ちゃんは頭をふる。
「お母さん、自分の部屋で食べるから持ってきて」
 彩花が提案したので「じゃ、すぐに持っていくわ」と返事した。
 わたしが彩花の部屋に入ると、早季子ちゃんはベッドで横になり本を読んでいた。彩花は机のパソコンで何かしている。
 サイドテーブルにケーキと紅茶を置くと早季子ちゃんは「すみません」と起きあがった。
「早季子ちゃん、食べものは何が好きなの」
「特に……」
「じゃ、嫌いなものは?」
「しいたけ、とか」
「それだけ」
「だいたい野菜は好きじゃないです」
 しっかりした口調だ。
 ほかの質問をしようと口を開きかけたら「また後にして」と彩花がさえぎった。わたしは聞くことをあきらめて、部屋を出た。
 
 わたしたちはダイニングテーブルで夕食を食べた。メニューは空揚げと煮物にした。空揚げは早季子ちゃんの好物だと彩花から聞いたからだ。いつもは出来合いのものを買っているが、きょうは久しぶりに張り切って自分で揚げた。
 わたしは早季子ちゃんの食が進むのを見て、話しかけた。
「早季子ちゃんは中三だけど、高校受験しなくていいからよかったね。小学校で頑張ったものね」
「わたし、高校はよそに行くつもりです」
「受験するの?」
「はい。そのために塾に行ってます。学校の授業は二年生から受けてないので」
「頑張ってるのね。ちょっと、聞いてもいいかな。早季子ちゃんは、なんで保健室登校になったわけ」
「それは……」
「うちは、同じクラスの向井君に蹴られたことがきっかけだけど」
「中一の時、先生に薦められて読書感想文を公募に出したら、賞をもらったんです。それから、友だちと上手くいかなくなって。わたしの受賞が気に入らなかったみたい。それはホントきっかけだったけど」
「きっかけということは、原因はほかにある?」
「たぶん、複合的だと思う。たとえ賞をもらわなくても、ほかのきっかけで保健室登校になった気がするから」
「複合的とは、むつかしいね。で、その友だちになにかされたわけ?」
「朝礼で校長先生から賞状をもらった日、一番仲良かった子に無視された。そしたら、同じグループの子たちにも……」
「そう。すごく辛いね」
「すぐ別の友だちが出来たから、そんなに辛くはなかったです。だけどクラスの友だちといると、みんなが幼く思えて。一緒にいてもつまんないから、保健室へ遊びに行くようになりました。保健室には高校の先輩もいるので。それに本がいっぱいあるし、居心地がいいんです」
「教室へ行かないことで、不安はなかった?」
「教室にいるほうが不安だったかな」
 早季子ちゃんはクスッと笑い、遠い目をして黙った。「そうそう、明日は塾だから帰るのが遅くなるんだって」
 彩花が思い出したように声を出した。
「塾はどこにあるの」
「A駅のターミナルビルです」
 うちから、三十分くらいの場所だ。
「じゃ、帰りは駅まで迎えに行くわ。夜は危ないから」
「大丈夫です。一人でここまで帰れます。道も覚えました」
「でも心配だから。何時ごろ駅に着くかをメールしてくれたら、待たせないですむわ」
「そうします」
 早季子ちゃんは頷いた。
 食事が終わると、二人はテレビも見ずに部屋に戻った。

 あくる朝、めずらしく彩花は学校へ行くと言って自分で起きてきた。
「早季子ちゃんは学校を休んで、夕方、塾に行くらしいよ。朝方まで勉強してたみたいだから、お昼ごろに起こしてあげて」
「彩花も起きてたでしょう。話し声が聞こえてたよ」
「うん。けっこう遅くまで話してた」
 彩花の顔は目がはれぼったくて、どうやら睡眠不足のようだ。
「眠そうだけど、一日がんばってね」
 わたしは、言い終わらないうちに「しまった!」と心の中で舌打ちして、彩花の顔を見た。表情は変わりないので、ほっと胸をなでおろした。
「がんばって」という言葉は本人の負担になるので使わないよう、カウンセラーから言われているのだ。アドバイスされるまで「なんとか、がんばって授業だけでも受けて」と、口癖のように声をかけていた。
 彼女は自分自身を登校出来ない悪い子だと、責めていたらしい。わたしに言われることで、ますます自己嫌悪になり、もっと行きづらくなるという悪循環に陥っていたという。
 彩花が時間をかけて用意を終えるのを待った。いつものことだが、自分で気持ちを奮い立たせないと登校しにくいらしいのだ。このことも、カウンセラーに教えられて知った。
 ほかの生徒に出会わないよう、わざと時間を遅らせて登校するのを玄関で見送る。
「いってらっしゃい」
「早季子ちゃんをヨロシク」
 久しぶりに「いってきます」という言葉を彩花から聞いて、早季子ちゃん効果なのだろうかとうれしくなったが、漠然とした不安もあり素直に喜べなかった。

 昼前になり、早季子ちゃんを起こすために彩花の部屋へ行った。ドアを開けると、彩花と同じようにカーテンは引かれたままで、暗闇のベッドにいる。
「早季子ちゃん。お昼になるよ。起きてご飯食べよう」
「おはようございます」
 目は覚ましていたようで、すぐに上半身を起こした。
「用意している間に顔を洗ってね」
「彩花ちゃんは?」
「きょうは学校へ行ったわ。早季子ちゃんのおかげかな。なんだか、いつもより元気だった」
「そうですか」
「朝まで受験勉強してたんだってね。えらいね」
「二年生からほとんど勉強してなかったから、三年生から始めてもなかなか追いつかなくて」
「彩花も勉強が遅れているわ。なんとか授業だけでも受けてくれたらと思うけど」
 早季子ちゃんは黙っている。
「彩花の気持ちがわからなくてね。聞いても答えてくれないから困るわ」
「たぶん、お母さんには言いたくないのだと思います。わたしもそうだから。ママには何も話さない。だって、わかってくれないと思うから」
「誰にも相談しないの?」
「したことない気がする。ブログで気持ちを書くことあるけど。あと保健室の加藤先生とは、よく話します。彩花ちゃんはブログをやってないけど、わたしと同じと思う」
「そう。わたしが聞いても無駄なのかな……」
「わかりません。彩花ちゃんとこは、うちと違うし。ママは聞いてもくれないから。離婚してから仕事が忙しいみたい」
「お母さんは、なにをされているの」
「薬剤師です。中学に合格したとき『医学部を目指せ』なんて言ってたけど、最近はなにも……。それでかえって勉強したくなったんです」
「やっぱり、早季子ちゃんはえらいわ。しっかりしてるね」
「そんなのと違います。学校に行くのはしんどくて、保健室が精いっぱい」
 迷惑そうに首を振った。
「原因さえわかればね。そしたら解決策が見つかり、教室へ行けるような気がするのだけど」
「原因を問い詰めても仕方ない気がします。たとえ原因がわかったとしても、どうにも出来ないと思う。『どうして欲しいわけ? 何が原因なの?』と聞かれても、自分でわからないから答えられない。だから、質問されても困るんです。なんか、モヤモヤするんです、こころの中が。モヤモヤの正体を見つけるのは無理」
「モヤモヤねぇ」
 ため息が出て、わたしのこころもモヤモヤした。
 早季子ちゃんがベッドを下りて着替え始めたので、部屋を出た。
 昼食後、出勤するわたしは早めに塾へ行く早季子ちゃんと駅まで一緒に歩いた。同じ方向の電車に乗ったが、途中の駅で彼女は乗り換えた。

 幼児教室の授業が終わると、事務の人に彩花から電話があったと言われた。こんなことは一度もなかったので、胸騒ぎがする。急いで、自分の携帯電話からかけ直した。
「お母さん。早季子ちゃんが大変なことになったみたい。どうしよう」
「大変って何が? 早季子ちゃんは塾へ行ったよ。途中まで一緒だったから」
「それが、切ったみたい」
「切ったって?」
「エリからメールがきて『早季子ちゃんが死にたいって、ブログにアップしている。なんとかしないと』って。びっくりしてブログを見たら、腕から血が出ている写真があった……」
「本当? とにかく、本人に電話して確かめて」
「何度もしたけど、出ない」
「彩花は今どこにいる?」
「保健室」
「お母さんは塾へ電話してみるわ。早季子ちゃんが行ってるか確かめないと」
 通話を切り、早季子ちゃんの通っている塾の電話番号を調べてかけた。わたしは彼女の保護者ではないので、話を聞いてもらうのに手間取ったが、塾側はやっと事情を理解してくれた。
「深井さんは自習室で勉強しているはずですが、今は防犯カメラには映っていないです。トイレかもしれませんし、自習室へ行って確認してからかけ直します」
 わたしは塾からの折り返し電話を待つ間、急いで帰る用意をした。早く彼女を見つけないと、大事になりそうだった。
 バッグを手にしたとき、携帯電話が鳴った。
「深井さんは自習室を抜け出して、非常階段で座り込んでいました」
「ああ、よかった! 無事だったのですね」
「それが、自分の腕を果物ナイフで切り、怪我をしています」
「果物ナイフで? そんな物で切ったら大怪我でしょう。すぐに病院へ連れて行ってもらえますか」
「傷の出血は止まっているので、本人がだいじょうぶだと。それで、深井さんのお母さんに電話をしたら、病院は行かなくていいとおっしゃいまして」
「えっ! そうですか。深井さんのところがそう言うのなら」
「塾としては心配ですので、ひとりでは帰せませんから『家の人に迎えに来てもらうね』と本人に伝えました。そしたら深井さんは『お母さんは嫌だ。岡谷さんに来てほしい』と。今そちらに泊っているとの話も聞きました。それに、深井さんのお母さんからも、岡谷さんにお迎えを頼むと伺いました」
「そんなことは聞いてないですね。電話もないですわ。困ったな」
 一方的な成り行きに驚いた。わたしはてっきり、深井早季子の母親が迎えに行くだろうと思っていた。どっちにしても、母親とは話さないといけないだろう。
 携帯電話にキャッチが入った。思った通り母親からだ。わたしは塾の男性にかけ直すと伝え、キャッチに出た。
「岡谷さんですか。深井でございます」
「ちょうど、塾の人と電話していたところです。早季子ちゃんが大変なことになって……」
「ええ、聞きました」
 彼女は落ち着いて、話を途中でさえぎった。
「わたしは今から急いで塾へ向かいますから、そこでお会いしましょう」
「それがですね、急なものですから仕事を抜けられなくて。早季子を岡谷さんにお願い出来ないかと、お電話しましたの」
「そんな、困ります。早季子ちゃんはお母さんに来てもらいたいでしょうし。わたしだけが行くというのは、おかしいのでは」
「そこをなんとかお願いしますわ」
「……」
「面識もないのに、このようなことをお願いして申し訳ないのですが」
「わかりました。早季子ちゃんをお預かりした責任もありますし、迎えに行ってお宅まで送ります」
 わたしは仕方なく引き受けた。
「それですが、岡谷さんの家に連れて行ってくださいませんか。わたしも仕事が終わり次第、伺いますから」
「うちにですか」
 考えてみると、今は早季子ちゃんを一人にさせられない。母親が帰るまで、深井さんの家で待つのも嫌だから、言われた通り家へ来てもらおう。
 通話を終えて幼児教室を早退し、タクシーを拾って塾へ向かった。
 塾へ着くと、授業前らしく生徒はまばらで静かだった。受付で名乗ると、すぐに電話の男性が現れた。
「早季子ちゃんの様子はどうですか」
「かなり落ち着きましたよ。見つけたときは、泣いてましたけど。今は事務室にいます」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ。どうぞこちらへ」
 受付の後ろの部屋へ案内された。ドアを開けると、早季子ちゃんが机でうつ伏せになっていた。
「早季子ちゃん。傷はだいじょうぶ?」
 わたしが近づいて身体に触れようとしたら、起き上がって腕を隠した。
「念のために消毒して包帯を巻いてあります。傷は深くないようです。でも何か所も切りましたから、かなり痛いでしょう。深井、もう切るなよ。腕は大根じゃないのだからな。わかったか」
 男性は明るくしゃべりかけた。
 早季子ちゃんは返事をしない。
「お母さんは仕事でお迎えに来られないらしいの。だから、おばちゃんと一緒に帰ろうか」
 彼女は無言でうなずく。
 男性にうながされて早季子ちゃんは立ちあがった。うつむいたまま出口へ歩いていく。わたしは早季子ちゃんの重いカバンを持ってついていった。
 受付まで見送ってくれた男性に、わたしは頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
「あっ、灰皿と果物ナイフ、捨ててもいいですよね」
「早季子ちゃんのですか」
「腕を切ったナイフと血を溜めていた灰皿です」
 彼は早口でささやいた。
「もういらないと思いますけど。捨ててもらっていいよね?」
「駄目! 捨てないで」
 うつむいていた彼女は、顔を上げて言い放った。
「そんな物いるの?」
「灰皿はわたしがパパにプレゼントした物だもん」
「そうだったの」
 わたしは男性からビニール袋に入ったナイフと灰皿を受け取り、二人で塾を後にした。
 再び、タクシーを拾って家へと向かう。車内での早季子ちゃんは目をつむったまま、口をきかなかった。
 なぜ、わたしに迎えにきてほしいと思ったのだろう。頼ってくれたことはうれしいが、とても不憫に思えた。
 とにかく、大怪我ではなくて良かった。万が一の事になったら、責任が持てない。
 早季子ちゃんの母親が迎えに来たら、すぐに連れて帰ってもらおう。
 いろいろ思いがこみ上げてくるので目を閉じて、こころを落ち着かせた。

 自宅では、早季子ちゃんを心配して訪問してくれた保健室の加藤先生が、彩花と待っていた。あいさつをして、早季子ちゃんと彩花をリビングのソファーに座らせた。わたしは加藤先生とダイニングテーブルで向かい合った。
「早季子ちゃんは以前から、リストカットをしていたのでしょうか」
「家でこっそり隠れてやっていたようです。もちろん、深井さんのお母さんはご存知でしたが、カウンセラーの指導で、見て見ぬふりをされていました」
「自傷しているのを黙認するなんて。わたしには出来そうもないですね」
「むつかしいかもしれませんが、早季子ちゃんの場合、無理に止めさせようとするのは良くないと言われたそうですよ」
「それにしても、大事に至らなくて本当に良かったです。今朝、わたしと話をした時は落ち着いていたので、連絡があった時は驚きましたけど。早季子ちゃんに聞きましたが、うちの子は加藤先生とよく話をしているそうで。どんな事をしゃべってるのでしょうか」
「たわいない話題が多いですよ」
「たわいのない事ですか……。先生は不登校の生徒さんをほかにも見てこられたから、教えてもらいたいのです。彩花はどうしたら教室へ行けるようになるのでしょうか。なんとかしたくて」
「実は、お母さんにお話があります。先週、彩花ちゃんが言いだした事がありまして。それは向井君とのことですが、彩花ちゃんは彼と話をして『どうして蹴ったのか?』と問い正したいそうです。理由を直接聞いてなかったので、自分の中にわだかまりが残っているからと。向井君にこの事を伝えたら、お母さんから『終わったことを今さら蒸し返さないで』と抗議がありました。それで、どうしようかと担任と私で相談しています。この件は『まだ、お母さんには話さないでほしい』と彩花ちゃんが言ってますので、知らせるのが遅くなりました。ですが、明日、担任からお話する予定でした」
「そんなことがあったなんて。彩花が言いだした時、すぐに教えてもらいたかったです。今思い出しても、向井君のお母さんからの電話は感じ悪かったものですから。もう、向井君とこには我慢できない。わたし、家へ行って直談判します」
「それは少し待って下さい。もう一度、彩花ちゃんと話し合って、どうすれば一番いいのかを皆で考えていきましょう」
「そんな悠長に構えてられません」
 わたしは大きなため息をついた。
 加藤先生は頭を下げて「すみません」と謝った。
「先生を責めているのではありませんから」
 わたしは慌てて取り繕ったが、沈黙が続いた。しばらくすると、飲み物も出していないことを思い出したので、立ち上がった。
 皆でコーヒーを飲んでいると、チャイムが鳴った。きっと、深井早季子の母親だろうと思い、わたしは玄関へ向かった。
 ドアを開けると、背が高くスタイルの良い女性が立っている。思った通り深井早季子の母親だったが、垢抜けているので独身のように見えた。
 彼女はリビングに入ったとたん、うわずった声を上げた。
「早季子、いったい何をしたのよ」
 顔が強張った早季子ちゃんは、視線を落とした。
「お母さん、まあ、落ち着いてください」
 加藤先生がとりなして椅子に座るようにすすめた。
「本当は死ぬ気もないくせに、困るわ」
 わたしは母親の言葉に驚いて、加藤先生に目をやった。
「深井さん、今日のところは怒らないでください。本人も混乱してますから」
 おだやかな声で加藤先生はとりなした。
「先生に紹介されてカウンセリングに通い、心療内科に通院しても、なにも変わりません。もう、どうしようもない。仕事中に早季子のことで、しょっちゅう電話があるので困っています。人手の足りない職場なので……」
 母親は早季子ちゃんの傷を心配するより、自分の話を始めた。
「ええ」
 加藤先生は母親にあいづちを打った。
「私は離婚してからの二年間、必死に子育てしてきたのですよ。下の息子は四年生で、まだ手もかかります。一生懸命やってるのに、早季子は足を引っ張るばかりで。もう、どうしたら良いのかわからないわ」
「うちも同じですよ」
 わたしは思わず、口走った。
「やりきれないわ。早季子は賢い子なのに。本当にくやしい」
 母親は眉間にしわを寄せて、口を曲げた。
「親御さんの大変な思いは、子どもたちもわかっているようですよ。だから、なおさら辛くて、本心を言いだせないことがあるみたいです。子どものこころの成長は時間がかかるようです」
「そんなことは、言われなくてもわかってますよ」
 母親はぶぜんとした。
「家に帰られて、親子でゆっくり話し合われてはどうですか。加藤先生もそう思われますよね」
 わたしは、早季子ちゃんを早く引き取ってもらいたくて急かした。
「今晩は早季子を泊めてください。お願いします。家で一緒にいると、私は責めてしまうから」
「わたしはリストカットのことを知らなかったのですよ。うちで、万が一のことがあれば困りますから」
 わたしは強く首を振った。
「リストカットはしないと約束させます。それに、早季子が何をしても、お宅の責任ではないですから。きっと、早季子も家に帰りたくないはずです。ね、早季子、彩花ちゃんとこに泊りたいよね?」
 早季子ちゃんは小さく頷いた。
 彩花は彼女の顔を覗き込んでから、困惑した視線を母親とわたしに向けた。
「そう言われても、うちは困ります。加藤先生、どう思われますか」
 わたしは助けを求めた。このまま母親に押し切られたら大変だ。
「深井さん、よく考えてください。今日は早季子ちゃんと帰られるほうが良いですよ。本人のためです。それに岡谷さんにとって、今の精神状態の早季子ちゃんを預かるのは不安でしょうから」
「そこをなんとか、お願いします」
 母親は深く頭を下げたまま、じっと動かない。
 なぜ、傷ついた子どもを預けたいのだろう。心配にならないのだろうか。
「早季子ちゃん、ホントは家に帰りたいって」
 震える声を上げた彩花は、顔を紅潮させて仁王立ちになった。
 早季子ちゃんはソファーに沈みこんで泣いている。
「わかった。帰りましょう」
 顔を上げた母親は、観念したようだった。
 早季子ちゃん母娘と加藤先生は、帰り仕度をはじめた。
 ナイフと灰皿が入ったビニール袋を早季子ちゃんに渡すと、大切そうに通学カバンに仕舞い込んだ。
 彩花と玄関まで行き、彼女たちを送り出した。早季子ちゃんはしばらく歩くと、振り向いて小さく手を振った。加藤先生も振り返って会釈した。三人の姿が見えなくなるまで見送ったが、母親は最後まで振り返らなかった。

 家に入ってテーブルの上を彩花と片付け始めた。
「早季子ちゃんのお母さんは、自分勝手な人だったね」
 彩花に話しかけた。
「わたしからすれば、そういうお母さんも同じだから」
「ぜんぜん違うわよ! 自分のことよりも、彩花のことを考えているからね。なんとかしたい一心で」
「お母さんが第一に考えるのは、世間体。保健室登校の娘が恥ずかしいから、なんとかしたいんでしょ。わたしの勉強が遅れるのも困るんでしょ。どれも、わたしの気持ちは置き去りじゃない。早季子ちゃんのママもお母さんも、ホントは自分の心配をしているんだから。二人とも、子どもを思うふりをしてるだけ」
「お母さんは、世間体なんて気にしてないからね。彩花の不登校のことは、職場で話してないけど」
「なんで、隠す必要があるわけ」
 彩花はコーヒーカップをトレーに荒々しく載せた。
「ちょっと、割れるじゃない。気をつけて」
「お母さんはコーヒーカップのほうが大事なわけ? 話をすり替えないでよ」
 わたしは珍しく強い口調の彩花に驚き、手を止めて椅子に腰かけた。そして、彼女にも「ちゃんと話をしよう」と、座らせた。
「小学校受験をさせる教育熱心な母親は、小さなことでも文句を言ってくるのよ。母親からの苦情でやめさせられた人もいるから、つまらない噂が立つと困るわけ。だから気をつけてるのよ」
「わたしが不登校だと、どんな苦情が出るわけ」
「わからないけど『娘が不登校になるような先生は困ります』なんて言われるかもしれない」
「だから?」
「だからって、何が」
「それって、お母さんの言い訳じゃない。本当の理由は、バレたら有名中学に合格したことを自慢出来ないから、でしょ」
「まさか。彩花はお母さんを勘違いしている」
「してないし」
「それに、もう知られているような気もするけど、大丈夫。何も苦情はないから安心して」
「そんなの関係ないし、どうでもいい……」
「今日、加藤先生から聞いたよ。『向井君と話したい』って、なんで打ち明けてくれなかったの。お母さんが、なんとかするのに」
「やっぱりお母さんには何も話せない! それが嫌なことだって、わからないわけ? もう、ほっといてよ」
 彩花は言い放つと、泣きながら自分の部屋へ駈け込んだ。
 わたしは荒々しく閉まったドアを見つめながら、もう彼女を思い通りにすることは無理なのだと思い知らされた。
 彩花が言うように、わたしは彼女の気持ちよりも自分を大事にしていたのかもしれない。
 これからどうすればいいのだろうかと考えを巡らせた。
 もう原因探しをやめて、今の彩花をじっと見守ることが一番いいように思う。
 それでも、わたしに何か出来ることはないのだろうかと思いあぐねた。
 そうだ。よその母親の目を気にせずに、来週の学年説明会に胸を張って出席しよう。
 わたしはひとり頷くと、学年説明会の連絡プリントを探すために立ち上がった。

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