見ないで。
私を見ないで。後ろを向いていてもわかります。あなたの視線が首に刺さります。熱い。もうすぐそっちを向くから、目を合わさないで。私の顔を見ないでください。
「はい、どうぞ」
私の手がこわばっているのがわかる。彼女に豚汁を渡す。顔を見ないで前髪をみる。
「ありがとう」
彼女の目なんて見ていないのに視線を感じる。やめて欲しい、彼女の目は熱い。何か喋りたそうな小さな口元。話をしたそうな濡れた手。その手が、私の作った豚汁を受け取る。
私は彼女の目から出来るだけ視界にはいらないよう奥で仕事をする。彼女が店に来た時にはお客さんと店員の最小限だけの付き合いをすることにしている。いらっしゃい、今日は何にしますか? はい、どうぞ、ありがとうございました。それだけの会話。あとは奥の厨房に隠れて彼女が食べ終わるまで極力出ないように。それでも彼女の視線が厨房まで。ほら、彼女の甘い匂いまで私に絡みつく。
彼女がカウンターだけの私のお店にきはじめてから四日間になる。色白で、そばかすがあって、肩にとどく黒髪で黒めがちな瞳。
「豚汁定食と、チューハイで」
最初の笑顔がねちっこい感じがしたのを覚えている。私はお客としてではなく、友達になりたいのかな、と思った。同性だし、ねちっこい笑顔と熱い視線で私の事を聞いてくるし、どこにでもあるだろう食堂のご飯をとてもおいしいといってくれる。一緒に五十代くらいの歳の離れた彼氏らしい男の人と来ているから、その視線は私の勘違いかと思った。
「お姉さん、襟足がきれいやね」
初めて言われた。誰にも言われたことが無い部位だ。襟足を見せ付けているわけではないのに、これでは恥ずかしくて後ろを向けない。
「初めて言われましたよ」
ちらりと彼女のほうを見る。
「ほんまにきれいやねぇ。言われたこと、ほんまにないん。ねぇ、お姉さんいくつなん?」
彼女の目から何かを感じた。お客さんでは、ない、視線。
「二十八歳ですよ」
「あ、年上なんやぁ」
豚汁には大きすぎる豚肉の塊を、はふはふしながらほおばる。
「近くに住んでるんですか?」
「私、最近引っ越してきてん。だから、ここに毎日くるわ。ごはん食べに。ほんまに、な」
男と相槌をうつ。男はあまり喋らない。きっと頭髪が薄いのだろう、キャップを被って私を見てにやついていた。何も感じない。この人は私を見てもいい。
「はい。ぜひ」
彼女はそれから毎日豚汁定食を食べに店に来るようになった。時間は大体お昼の三時くらい、人が一番少ない時間帯。彼氏と一緒に来たり、一人で来たり。毎日、私を見に来ているような気がした。
自惚れている訳では無いけれど、こういう絡みつく視線は彼女だけではなく街を歩いている知らない人に時々あった。梅田、心斎橋、鶴橋、八戸ノ里、尼崎、どこでも。人が多い、少ないは関係ない。目で追われている感覚。人ごみの中でも視線だけが私の目の端っこに突き刺さり、あぁ、声、掛けたい、仲良くなりたいんだけど、こっち見て、ってそんな感じの視線の電波を送ってくる。男の人でも女の人でも。私は、掛けられないように逃げる。鬱陶しそうな顔をしたり、その人にしかわからないようにそっと涎を垂らしてみたりして近づかせないようにする。それでも声を掛けてきたら、言いたい事を言わせておいて、聞き流す。そしてその人の方を見て、ぼそぼそと、ウォルフスシャンシェ、ウォルフスシャンシェ、パンツァレーアという。そうしたら大抵の人は気持ち悪がって去っていく。それでいい。どうして見ただけで、友達になりたいとか、いいなぁとか思うのか、仲良くしたいなぁと思うのか私にはわからない。気軽に声をかけてくることも。声も知らないのに。喋り方や仕草が、しゃがれた声だったり、自分の頭髪を手で掻いてその手を匂う癖があったりしてもいいのだろうか。そんな簡単に仲良くなりたい電波なんか送らないほうがいいと思うのだけれど。お客さんなんて、特に。
定時になって私は遅番の女の子と交代して店から出た。一つ目の信号を渡って、角を曲がるときに頭に巻いていた髪の毛を解く。手で髪の毛を軽くなじませて二十分くらい髪の毛を触りながら公園の近くにある文太郎の家まで歩く。
文太郎はまだ帰っていなかった。私は真っ先に風呂に入る準備をした。汗と油と魚の臭いが付いた服を脱いで裸になって、湯がたまりはじめるのを確認して自分の首と腕と髪の毛を嗅いで、店の匂いがついているのも確認する。文太郎が帰ってくる前にとっておこう、早く風呂に入ろう。部屋にあちこちある文太郎が好きな戦争の本を掻き分けて普通の週刊誌を探す。探しても出てくるのは太平洋戦争の本ばかりで、最近は日本の歴史を熟知したのか、ドイツ軍の本が沢山あった。西部戦線やスターリングラード、バルバッサ作戦、ロンメル、マインシュタイン。題名を頭に取り入れるのも時間がかかる。こんな本ばっかり読んで文太郎は何を学ぶんだろうか。まともな週刊誌は無いのか。探していると文太郎が帰ってきた。
「あ、おかえり」
後ろ姿で屈んでいるけれど文太郎からお尻が丸見えだ。
「ん。何、お風呂はいるん?」
「うん。そう。週刊誌さがしてるねんけど」
文太郎は私の裸を見ても何も思わないのか靴を脱いで上がる。
「これ、今週の」
電子レンジの上においてある漫画雑誌を私に渡した。
「ありがと。んじゃ風呂はいってくるわ」
「ん」
裸を見ても、見られてもお互い何も思わない。文太郎は帽子を脱いでソファに腰を下ろした。私が風呂の扉を開けるときに、文太郎は大きなため息を吐いた。何か言うな、思ったけれど聞きたくない話題なのは分かりきった事なので無視して入った。
文太郎とはもう四年の付き合いになる。私たちは二十八歳と三十三歳の誰がみても大人の人間になった。結婚は、もう考えていない。もう考えられなくなった。もう、ばっかりになってしまうが、もう文太郎といてもドキドキしないし、何も緊張もしない。文太郎がつく嘘もわかるし、何が好きで、何が嫌いで、これをしたら喜び、あれを言えば怒るというのもわかっている。もう、知りすぎてしまった。私は文太郎が好きだといったらそうだが、何もかも知ってしまった以上、これ以上一緒にいても面白くないなぁとも思っている。飽き始めている。文太郎も、同じ気持ちに違いない。文太郎は一体なんで私といるんだろう、私のどこが好きなんだろうか。好きだ、という感情よりもしがみ付いている感じのほうが強い気がする。このまま何年、何十年と文太郎といるのはあまりにも刺激がなくて先が見え過ぎていてやる気がしない。
毎日電話をして、声を聞くだけで濡れてしまっていた頃に戻りたい。心地いい声だな、文太郎、と思えたらいいのに。
ここ二年は同じ事の繰り返しだ。元旦に住吉大社に行き、必ずどちらか大吉を引き、バレンタインとホワイトデーはただ一日どこかに出かける。ここ二年は雪があまり降らないからスノーボードは行っていない。そこらへんで大きい喧嘩をして桜が咲く頃に仲直りをし、奈良や三重に一泊旅行をし、海に行き、泳げない文太郎の浮き輪を外して慌てているのを笑い、私の水着姿を見て一緒にいる俺まで恥ずかしい格好だといって、笑う。また喧嘩をして、文太郎の誕生日が来て、私の誕生日が来る。たまに文太郎が嘘をつく。私もたまに違う男の人と遊ぶ。お互い嫉妬し合って、二人にしか分からない、分かってもらえない事があることに気づいて、やっぱり、ここが落ち着くのかな、と思いながら年末を迎える。そんなことを繰り返している。
そういえば、最後にキスをしたのは、もう半年も前だ。部屋で「ミンボーの女」を見終わったときだ。膝枕をしながら文太郎が私を見上げてきて、したのだ。音楽と映像に圧倒され、映画に見入っていた。エンドロールが流れるときに「文ちゃん、おもしろいねんなぁ、伊丹十三って」って言った時だ。その後セックスもしたが、とても痛かったので嫌だったけれど、痛いからやめて、というのも何回かあったので、我慢したのを覚えている。文太郎とのセックスは一年前から痛いと感じるようになった。まぁ、理由は、私が濡れないからだと思うんだけれど。文太郎は濡れてない方が好きだったし、んじゃ濡れなくてもいいかなって、そっから私の手抜きが始まったようだ。そこから気持ちいいなんて思ったことない。文太郎も濡れない私の中ではなかなかイカない。矛盾している文太郎。私たちのセックスは何のためにあるのだろうか。
ほとんど雑誌を読まずに女の子のグラビアを眺めていた。胸の無い女の子でお腹のあたりにあばら骨が見えてお尻が体のわりに大きい。笑顔がはつらつとして、また妖しい目つきでこちらを見ている。次のページではセーラー服を着て、水を被ったのか全体が濡れていて、涙を浮かべている。一人の女の子はここまで色々な表情が出来るんだなぁと感心して食い入るように見ていた。
風呂から出た。文太郎はテレビを見ている。私は体を拭き、バスタオルを巻いて文太郎の隣に座った。
「今日の晩御飯は何?」
テレビを見ながら私に聞く。
「あぁ、今日はキムチ鍋。私、食べんと家に帰るから作っとくわ」
「え、今、夏やで。あついのん食べたないわ」
「いいやん。汗かくし、おいしいで」
「じゃぁすぐ作ってや」
うん、といってバスタオル姿のまま一人鍋でキムチ鍋を作った。豚肉とキムチと豆腐とニラ。文太郎は好き嫌いが沢山あるのでそれだけ入れたらいい。ぐつぐつ豚肉が赤く染まっていくのをみていて、前はもっと具と気持ちを込めてつくっていたなぁと思う。沸騰したので火を止めた。なんて適当なキムチ鍋。
「んじゃ帰るわな」
「ん」
私は文太郎の部屋においてあるスエットのワンピースをきて、仕事で着ていた服を紙袋に入れて、髪の毛も乾かさずに出て行こうとした。そのとき、
「なぁリエ。俺、仕事辞めてきた」
と文太郎が言った。左肩に掛けていた紙袋が一段と重たくなった。目の焦点がずれて文太郎の目が見えない。見たくない。
「あぁ、そうなん。ほんで、どうするん」
「また探すわ」
こういう時は落ち着いて言わないと、一気に怒ってしまうと文太郎が余計に拗ねる。
「すぐ働くん?」
「働かなやっていけんわ」
「そうやなぁ。早く探してなぁ。んじゃ帰るわ」
「ん」
文太郎が仕事を辞めるのはこれで八回めくらいかな。数えていないから分からないけれど、それくらいだ。だから珍しいことではない。最初は一緒になって落ち込んだり、喧嘩の原因になっていた。私と付き合い始めてからこうやって仕事を辞めてくる。以前は六年くらい同じ職場で働いていた。職種は同じフォークリフトや溶接なので色々な工場を転々としている。文太郎がそうやって何回も仕事を辞めてくるのは慣れたが、私が悪いんじゃないかな、とはいつも思う。私は文太郎を甘やかし過ぎているんかな。このままだと死んでしまうからご飯を作ってあげたりしているけど。さげまんなんだろうか。私は文太郎のどこが好きなのだろう。今日もそんなことを考えながら自分の家に帰る。
文太郎からメールが届いた。
『俺は、日本人やないです。本を読んでいて思いました。俺は、まさしくドイツ人や。日本は、神風とか武士道などと自殺を美とする。けど、ドイツは土壇場まで開発し、実際にすごい性能をしめす兵器を作り出したんやで。ロケットに戦車やUボート、戦闘機。ドイツを見習わないといけないと思う。俺に戦力が少しながらある今、お前さんに降伏報告をしたのは間違いではないのか? 俺は、もっと耐えて耐えてまくって会社を、仕事を、すべきだったのか! 教えてください、大至急! 俺にとってのパンツァレーア』
頭が痛くなるような文章だ。ドイツ軍史を読み始めてから文太郎は私の事をパンツァレーアと言ったり、自分の事をウォルフスシャンシェと言ったりする。意味は分からないが、分かりたくない。私にとっては呪文と一緒。とにかく、このメールの内容を要約すると、仕事辞めてごめんね。俺、頑張ってんけどこれ以上やったら死にそうなんや、死ねというのか、リエは。だ。もう慣れた。携帯電話の電源を切った。
洗濯機に汚れた仕事着を入れてるときに、毎日来るあの、女のお客さんのことを思い出した。明日も来るだろうな。毎日話をしたそうにしてるし、もう、無反応はできひんよなぁ。一回、ちゃんと話をしてみるのもいいかもなぁ。気分転換にもなるし。いつもだったら、文太郎に仕事の話をするのになぁ。もうずっと私の仕事の話をしていないような気がする。言っても上の空でドイツ軍の本に集中しているけれど。
洗濯機を回している間、水がドボドボとたまる音を聞いて、一日が終わった、と思う。一週間もすぐにたつ。一ヶ月も、一年も。そしたらもう文太郎とも五年になる。なんとも思わない文太郎とこのまま一緒にいてもいいのだろうか。お互い変化も反応もしないで、刺激もないままで。洗濯機が泡だった汚水を吐き出す。しばらくたってキュルキュルと脱水を始める。排水溝には微弱な汚水が吐き出されている。
――文太郎が、また、仕事を辞めました。
脱水をし始める洗濯機の蓋をあけて言ってみた。ピーピー、ピーという音に消された。
昼の忙しい時間を過ぎた三時頃にあの人がやってきた。今日は一人だ。
「いらっしゃい。今日は、お一人なんですか」
自分から話しかけた。いつものお客さんに対する接客をしようと思った。
「うん。いまパチンコしてて」
彼女は少し嬉しそうだ。パチンコ台を必死に見ていたのだろうか、目が乾いていて擦っている。
「パチンコ、出てるんです?」
「ううん。ほんまにでぇへんわ、あそこのパチンコ屋」
彼女はいつもの豚汁定食とチューハイを頼んだ。私と女の人の二人きり。
「なぁ、お姉さん、なんていう名前なん」
「リエです。はいチューハイどうぞ」
彼女は喉が渇いていたのか一気に半分まで飲んだ。わたしは背をむけて豚汁を作っていた。グラスを置く音の後にカラカラと氷の音が聞こえた。あぁ、やっぱり感じるなぁ、視線が。
「はい、どうぞ」
豚汁を渡そうと振り向いたと同時に、私に話しかけた。
「なぁ、リエちゃんはさぁ、ずっとここで働いているん?」
「いや、違います。一回転職してますね」
何気ない会話。
「はい、豚汁どうぞ」
ありがとう、と言って女の人は豚汁を受け取ると同時にずずっと汁を吸い込んだ。
女の人は静かに食べ、私は少し離れた所で食器を洗い、女の人は何も言わずにお金を払って帰った。帰り際に
「リエちゃん、何時まで?」
と聞くので、
「今日は十時です」
と言った。ほんまにぃ、がんばってね、と言って出て行った。ありがとうございます、言った声があまりにも生き生きと言えたので自分でも驚いた。今日は普通のお客さんだな、と思った。
しばらく文太郎の家には寄らないで、家に帰ろう。いつも通りケンカして、距離を置きたいと思ったら携帯電話もメールも、着信、受信拒否にする。それで文太郎が仕事を見つけてくるわけでないし、直ぐに家や店に来るわけではないけれど、電話があると出てしまう。見たくない、意味が分からない文章のメールも見てしまう。そして甘えられてしまうからだ。私も意思が弱いので、それを受け入れてしまう。今は文太郎を思うのが嫌だ。リスに似た前歯がある顔も形も頭の中から消えて、文太郎、という文字も無くなればいい。私たちはきっと出会わなければ良かった。悪循環をぐるぐる回ってきている。四年間、私の四年前。二十四歳。文太郎と出会わなければ、幾つ恋愛したのだろうか。すぐに仕事を辞めないで長く働いてくれる人なら誰でもいい。友達がいる人がいい。私に生活費や住んでもない家賃を払わせない人。誕生日におめでとう、といってくれる人がいい。なんでもかんでも戦争に例えて話のしない人。あぁ、結局腹立たしいアイツの事を考えてしまった。いつもとは違うルートで家に帰ろうと信号を渡って左に曲がった。
「リエちゃん」
信号を渡りきったらあの女の人がいた。
「あっ、お客さん」
笑顔が、仲良くしたそうな顔だ。
「うち、カナっていうねん」
「あぁ、カナさん……」
早口で、ちゃん付けでいいよと、ぽんと私の腕を叩く。
「もう終わりなん?」
「はい」
もしかして、待ってたわけなんかなぁ。
「なぁ、遊びにいかへん?」
ねちっこい笑顔。あ、怖い。
「ええと、今日はめちゃんこ疲れたから帰ります。ごめんなさい」
笑顔にしとこう
「そうなんやぁ、偶然やったのに、ほんまに残念やわぁ」
偶然かぁ、あんまり好きな言葉じゃないな。もう帰りたい、深入りはしたら、あかん人や。
「んじゃぁ、また遊ぼうなぁ」
はい、また今度にと、返事だけは元気に言ってカナちゃんに背を向けた。首に視線を感じた。やっぱり熱い。感じ取りたくなかったので髪の毛の団子を外して首を隠した。今日の月は三日月になりかけの細いやつやなぁと思いながら、文太郎のこともカナちゃんの事も思い出さないように家に帰った。歌を歌えば何も考えなくて済む、と思ったのでちあきなおみの歌を小さな声で歌った。家に帰るまで、ちあきなおみを間違いなく歌いきったら文太郎は仕事を決めてくる。あ、文太郎の事を思い出してしまった。悔しい。はやく、帰らないと。
夜間飛行を歌いながら文太郎のマンションの前を通り過ぎた。
二週間が過ぎた。
文太郎からは何も連絡がない。そろそろ連絡しないといけないなぁと、二週間が過ぎた。夏も終わりそうなのか、今日は風が冷たかった。人肌恋しい。だからなんとなく文太郎を思い出したのか。
カナちゃんは相変わらず毎日来る。豚汁を毎日食べる。熱くなるような視線がある日もあったが、無い日もあるので、私たちは今日のニュースだとか、カナちゃんの彼氏のこととかを話した。
年齢が三十歳も上の彼氏。仕事は夜の仕事だといっていた。五十五歳くらいのおじさんの、夜の仕事って何なんやろうかって思ったけど、カナちゃんが言い切ったので突っ込まない。いつもカナちゃんは帰り際に、遊びにいこうな、と誘ってくれる。私はまた、といって断っている。いい加減、嫌だということに気づいていると思うのだけれど。
夜になると風がさらに冷たくなった。夏の終わりの心地よい風のはずが、そう思えないほど冷たい。文太郎、もういいやろ、仕事、見つけたかな、何してねんやろうかと文太郎のマンションの前で電話をかけた。一階にある文太郎の部屋の灯りはついていない。電話はすぐに出た。
「おぉ、リエ。お、俺な、さっきな」
二週間、何も連絡しなかったことが何事も無かったかのように普通に話し出す。こんなこと何回もあったから、慣れたのか。なんかしんどい。我慢してたわけじゃないけど、私は一応文太郎が独りで仕事を決めてくるようにささやかながら願かけしたのに。なんて軽い口調。電話すべきじゃなかった。あと一週間くらい淋しい目にさらしとけば良かったな。
あ、文太郎が凄い勢いで話しかけている。ちゃんと聞かないと。
「俺、されるがままやった」
え、何を。声が出ない。
「え、もう一回言って」
「俺、痴漢にあってん。男の」
それはめずらしいな。
「電車に乗ってたん?」
「違うわい、さっきちゃんとゆうたやろ」
「ごめん、聞いてなかった。文ちゃん、今、家におるん?」
「もうすぐ着くけど。リエ、来るか」
あいたくない。文太郎の声が興奮しているのがわかる。聞いて欲しそうだ。私は、聞きたくない。けど聞かなきゃいけない。
「いいわ。もう帰るし歩きながら聞くから最初からゆうて」
息を吐きながら言ったので最後のほうは声が小さかった。頭をかいて文太郎の話を聞く準備をしよう。まず、空をみよう。雲ひとつない満月だ。文太郎が月のせいでおかしくなって欲しかった。私の髪の毛は白髪が増えていないか。五本くらい固まって生えてきそうだ。このあとの文太郎の話で。
聞いた事。
仕事が無いので焦ってしまい、前から興味があった女装クラブに行った。
五千円で下着から髪の毛のセット、化粧をしてくれる所で周りには女装している人としていない人がいた。
可愛いといわれた。
名前はミホにした。
隣に座ってきたおっさんが何回も可愛いといってきた。
その人に太ももを撫でられた。黒いストッキング履いててんけど、その上からすりすり触られてん。
嫌な気持ちにならなかった。なぁ、俺、可愛いんやて。
太ももからだんだん上がってきて、思いっきり触ってきたから、やめて、っていうてん。あ、女みたいな高い声だしてな。
周りも見て見ぬふりや。そっちはそっちでキスとかテレビみてたりしてたわ。
それが、また興奮してきてな。俺、女になってる。って思ってイキそうになってきて、またうまいねんこすり方が。
おっさん、舐めさしてっていうから。
着替えるところでパンツ脱いで舐めてもらってん。パンツも女もの貸してくれるねん。
むっちゃ気持ちよかってんけど、ふと顔みたらおっさんやろ、禿げたおっさん。うれしそうにおっさん、俺のん舐めてるねん。なんかそれみてたら哀しくなってきてな。よくみたら禿げてるし、不潔っぽいし。全体的に茶色やし。だんだん小さくなってきてな。音だけがうるさい。一生懸命な音が。外でも女の声なんかせんし、俺、何してるんやろう思ってきて。
やめろ、ゆうて着替えて逃げてきたわ。なぁ、リエ、聞いてる?
これが聞いた事、なんとか、聞けたこと。
瞼が重たい。目の前が暗い。頭が痛い。文太郎は、もしもし、なぁて、といっている。声が聞こえる。耳から文太郎の声が聞こえて、それが耳の奥に到達して、目にいく。なぁて、という言葉が脳みそのなかで違う言葉に変換される。文太郎が目を開けろといっている。開けなきゃ。私は、気分が悪い、人の話を聞いて気持ちが悪くなってしまったのは初めてかもしれない。とにかく、切る。切らなきゃ。電話を切らせて! と発狂に近い奇声を出して電話を切った。
歩きながら聞いていたと思っていたのに、そんなに歩いていなくて文太郎のマンション近くの公園にいた。ベンチに腰掛け、月を探した。月はでっぷりといる。これだけは変わらない。公園も、ベンチも月も動かない。空気は、やっぱり冷たい。明日は暖かいかな。もうすぐ、夜の虫も鳴くなぁ。変わっていくなぁ。よし、ちょっとは落ち着いたかな、私。文太郎。文太郎にもう一回だけ電話してみよう。
「なぁ、文ちゃん。それ、ほんまなん?」
「あぁ、そうや」
まだ嬉しそうな声をしている。喋りたりないのか、ほんでな、という。ほんで、で電話を切った。電話を地面に落としてしまった。体も地面に落ちそうになり腰をつく。あ、息をすることを忘れるわ。苦しい。頭の中が回らない。酸素を、頭の中に行かせなきゃ考えができない。何を考えたいのか私は。なんで頭を回らせないといけないのか。あ、息ができない。呼吸の仕方はどうだったけ。
涙が出てきた。
文太郎は浮気をしたのか。いや、これは浮気か? 文太郎は確かに女装したら可愛いだろう。身長も高くないし、目は大きいし、顔も小さい。リスのような歯の笑顔は可愛いと思う。けど、なりたかったの? 前から興味があったってゆうてたけど、そんなん知らんかった。文太郎は、男が好きなの? じゃあ私は? 私は女だ。私は、女だ。文太郎は、男だ。女装がしたかったのは、なんで? じゃあ私の事、何だと思っていたの? ずっと隠してたいのかもしらない。いや、本人でさえ気づかなかったのかもしれない。どんな格好をしたんやろうか、文太郎は。女子高生、会社員、メイド。何を着たんよ、あいつ。私は、文太郎の女じゃないの? 好きになった人じゃないの? 文太郎と四年も一緒にいてて、知らんかった。私は女じゃなくて、文太郎が女なんか? 私に魅力がないのか。だいたいなんで働きに行かへんのん。二週間も経ってアイツ何してんのん。生活できひんやんか。焦って女装倶楽部に行くって意味がわからんわ、文太郎。文太郎。なんでミホやねん。なんで私の名前じゃないの。そんなことしてたんやったら、思いっきり、気が済むまでドイツ軍の事を調べて欲しかった。
布団に包まれているときに首が熱くなったので、また泣くんかと腹がたってきたのと、涙がでてくる悔しさで、文太郎のことを面白く考えてみようとした。ただ女装しただけやん、と。おっさんに舐められたのも、よく考えたらちょっと間抜けで面白いやん。文太郎はきっと女子高生とかじゃなくて普通の、どこにでもいてる清楚な女の人の格好したと思うな。ブラウス着て薄いピンクのスカートと肌色のパンスト。パンティストッキングじゃなくて、五枚千円で売ってる安いパンスト履いて楽しかったんやろうな、興奮したんやろうな。梅田とかでも見かけるもんな。おっさんが女装して歩いててみんなから好奇の目で見られてて、興奮している人。それと一緒かな、文太郎は。そんな人と同じで、それが四年も一緒に居た彼氏、かい。なんやかんやで一緒にいた彼氏がそれかいな。なんやねん、それ。
女性の服を着て、首とは違う色のファンデーション、二重瞼から大きくはみだした青いアイシャドーを引き、肌の色とはまったく合わないピンクの口紅を引いた文太郎。肌色のストッキングと赤いパンプスを履いた文太郎がこっちを見ている。私は、文太郎に歩み寄る。何もいわないで文太郎の太ももを撫でる。文太郎を見上げると恍惚の顔。そのままつっと手を文太郎の股間に当てる。大きくなっている。私も楽しくなってくる。ブラウスのボタンを外す。白いブラジャーが出てくる。乳首を指の腹で撫でる。
キスをしようと思う。
文太郎の顔が、興奮して色っぽくなっている。
急に文太郎が小さくみえる。
キスが出来ない私がいる。
文太郎は去っていく。
真っ暗でひとりになるのを想像した。
これは裏切りとちゃうんのんか。私は文太郎と二人でいた気でいたけど文太郎はそうじゃなかった。信頼していたものが崩れる音がする。文太郎がわからない。耳が熱くなる。もう泣きたないねん、と思ったら、頭のなかで熱くなって、ぷっ、と切れて目を瞑ってしまった。
哀しい。
一週間が過ぎる。一日が長くて夜がつらい。最初は文太郎の事を考えていつの間にか朝になっていたが、何をそんなに考えているのか分からなくなってきて、馬鹿らしくなってきたので考えるんをやめて、パンツァレーアとウォフルスシャンシェの言葉の意味を調べた。意味は総司令官と狼の巣。ドイツ語。さっぱり分からない。やっぱり私にとっては人を避ける為の呪文でしかない。
ちょっと自分を変えてみようと思って髪を切った。以前のように団子髪はできないが、ひとつにまとめられるくらいの肩につくぐらいの髪形。分かったことは、寝ている間に自分の肩が髪の毛を引っ張って起こされる事がないこと、私が団子髪にしてても、しなくても誰も何も聞いてこないこと。カナちゃん以外は。
「髪、切ったん」
いつもの豚汁をすすりながら聞く。
「はい」
「ウチと一緒の髪型やん」
束ねているのを外したら、そうなるかもしらんけど。
「そうですね」
「いいやん、似合ってんで、ほんまに」
箸で私を指す。指すな。
「ありがとうございます」
私もカナちゃんも笑顔だ。いつの間にかカナちゃんの目を見ることができている。カナちゃんだけが私の変化を指摘してくれた。
文太郎が一度、店に来た。何か話したそうだったが、丁度いいことに忙しかったので文太郎を相手にしている暇も無かった。文太郎は焼きそばを注文し、食べて帰っていった。接客出来た事と、いつもよりおいしそうにできたやきそばに私が驚いた。怒っているわけでも、哀しいわけでもないのだ、話すことがないのだ。文太郎は何も悪くなくて、やりたいことをやっただけなので、それはいい事なのだ、欲があるからいい事なんだ。
文太郎は私の髪の毛、気づいてくれたか。文太郎はいい加減仕事、見つかったかな、もし見つからなかったらもうお金が尽きる頃だからまた私が立て替えないといけないんだけど。あ、それか。文太郎、お金が無いのか。それで会いにきたのか。焼きそば、大盛りにしてあげたらよかった。
毎夜、だいぶ涼しくなった。店を出ると横断道路でカナちゃんがいた。いつもなら見かけたら遠回りするのだが声をかけた。
「カナちゃん」
振り返るカナちゃんは、昼間と違って今にも泣き出しそうな顔をしていた。
公園のベンチでカナちゃんの話を聞いた。犬の散歩をしている人が何人かいたので、その人達をみながら聞いた。あの五十五歳の彼氏が一週間帰ってこないらしい。電話も最初は繋がっていたが、今は電源も切っているのか、繋がらないらしい。
「警察には」
「あかん」
きっぱりとした口調でいった。
「あの人、前に一回捕まってるからな、あかんねん。もし、なんもなかったら、ウチが怒られるわ、ほんまに」
「何で捕まったん?」
「シャブ」
早口で小さな声でいったので、その話はもう詳しく聞いてはいけない合図なんだなと思った。
「ええねん。最長で一ヶ月ぐらい帰ってけぇへん事があったから。まだ一週間やもん」
一ヶ月って何をしてたん、あの人。
「なんかよう分からんけど、お金が沢山はいったみたいで、どっかに行ってたみたい。女と一緒に。多分、前の奥さんかな」
重たい話を聞いてしまった。うんうんと聞いておいたほうがいい。シャブが頭を過ぎったがすぐに消した。聞かなかったことにしよう。
文太郎といい、カナちゃんの彼氏といい、二人はちゃんと相手の事を考えて、想ってはくれないのか、カナちゃんに同情してしまう。カナちゃんの話は続く。
「一ヶ月おらんかった時は電話、繋がったんよ。ちゃんと前の奥さんの所にいてるから、ゆうて。電話も毎日でるし、ウチのことも好きや、ゆうし。もうそろそろ帰るからいうて、ちゃんと帰ってきたし」
うんうん。
「でも、今回は繋がらんねん。どこにおるんかもわからんねん。好きや、も聞かれへんからおかしくなってくるねん。こんなん一週間も耐えられへん。前んところ行ってるんちゃうか思って行ってみたんやけど、奥さんもおらんかって、もう、もう。ウチ、一人になってしまったんかなぁ」
うんうん。まだ一週間やん。大丈夫。にこっと笑ってみせる。
「カナちゃんは、彼氏の事めちゃんこ好きなんやなぁ」
「好きちゃうわ、もう。ほんまに」
さっきまで弱ってた声がそこだけ力強かった。カナちゃんが私に寄りかかってきた。
「どうしたん」
「ウチは、どっちかっていうたらリエちゃんのほうが好きなんよ」
肩に寄りかかってきたカナちゃんを正しい位置に戻そうとした。
「なんで」
「ウチ、どっちでもいけるねん。リエちゃんも好きな部類やなぁ」
急に甘えた声になった。私はアカンわ、と言ってカナちゃんが肩にもたれられない位の所に移動した。
「あ、そんな露骨に離れんでもいいやんかぁ。ほんまのことやもん。リエちゃん、いいと思うねん」
「彼氏がいるんで」
「好きなん? その人。長いの、つきあって」
「四年です」
好きだとは言えなかった。カナちゃんはそうかぁといって、好きちゃうんや、言って笑った。カナちゃんはベンチからブランコに移動したので私もカナちゃんの隣のブランコに乗って漕いだ。久しぶりに漕ぐブランコは、頭と目の位置がずれて気持ち悪かった。文太郎に話を聞いた時と同じくらい気持ち悪い感覚だ。お尻だけ固定されて景色が揺れる。犬の散歩している人も草も木も揺れる。小さいときはそれが楽しくて、何回も沢山漕いで飛び降りをしていたのに、今はそれが怖くてできない。ブランコって気分が悪くなる怖い乗り物になってしまったのか。
「結構漕ぐね、リエちゃん」
うん、カナちゃんも漕いでみたら、久しぶりに漕いでみたらおもしろいで、気持ちわるすぎて。勧めたが、あんまり漕がなかった。気持ち悪いな、確かに。といって止まってしまった。
「漕がへんの」
「うん。なぁ、さっき言うたことやねんけど」
「うん」
ブランコを止めて話を聞く。
「ウチ、リエちゃんのことほんまにいいなと思ってる」
「うん」
最初からわかってたよ、いつも見てたん、知ってたもん。とは言わない。
「ほんまは、抱きしめたいくらい。今も」
抱きしめたい、ってよく声に出して言えたな。その言葉に関心するわ、私には言えん言葉だ。カナちゃんはこっちをみない。私はカナちゃんをしっかり見てあげる。また泣きそうになっている。顔が赤い。何やねん。彼氏はどないしたんや、さっきまでそれで泣いてたくせに。ころころ感情が変わる子やな。
「いい?」
カナちゃんはブランコから立ち上がり私の目の前に立った。影になって暗い。
「彼氏は、いいの? さっきまで泣いてたのは」
「いいねん。今はウチとリエちゃんだけ、そのことだけ」
また、いい? と聞いてきた。うん、といわないといけない雰囲気だ。まぁ、ちょっとぐらいやったらいいかな。男の人と遊んだと思って。
「ん」
カナちゃんが覆いかぶさってきた。ちょっと位置が苦しそうだったので私はブランコから離れて立った。魚臭いのにいいのかな、と思ったが、カナちゃんはぎゅっと締め付ける。私より身長の低い女の子に抱きしめられている。首の辺りにカナちゃんの息がかかる。魚、臭くないのかな、油の臭いは気にしないのかな。と、考えていると鎖骨あたりに顔を押し付けて、顔を左右に振っている。腕はがっちり私を拘束している。
もう考える事がなくなるくらい長いあいだ抱きしめられると、次はこの拘束されていることに安心感が芽生えてきた。ぎゅっとされる度に私はここにいるんだよ、と確認させられる。私は、この公園でカナちゃんという女の子に抱きしめられています、生きてます。と思うようになって、はぁっとため息を私もカナちゃんも、ついた。
目が合ってキスをした。
カナちゃんも私も唇はカサカサだったと思う。カナちゃん、唇が乾いているなぁと思った。それを分かったのかカナちゃんは舌で唇を舐めてきた。舌は小さいなぁと思った。私はされるままに受け入れた。小さくて暖かい舌が気持ちよかった。カナちゃんは胸を触ってきた。小さな手が私の胸を触るのは違和感があった。いつもは大きくて広い手だ。私はブランコに座って、
「ちょっと、待って」
といって口の周りの自分の唾液とカナちゃんの唾液を拭いた。
「どうしたん」
カナちゃんは続けようとする。それを阻止しようと腕をカナちゃんのほうに向ける。
「あかん。やめて」
「なんで」
「人が、みてる」
「誰もおれへんよ」
確かにもう誰もいない。またカナちゃんが来る。やめて、ちゃうねん。なんか、ちゃうねん。
「じゃぁ、ウチんところ、来る?」
カナちゃんが自分のブランコに腰掛けた。私はブランコを離れて前にある支柱に腰掛けた。
「だ、抱きしめるだけっていうたから」
抱きしめる、やって。言ってしまった。恥ずかしくて言えなかった言葉。カナちゃんは微笑みながらうん、そうやけど、といって私の足元をみた。
「あ、リエちゃん。靴紐、ほどけかけてるで」
その時、私の足元に小さく丸まって右の靴紐を結びなおしてくれているカナちゃんの姿を見て、頭の隅にあったずっと前の事を思い出した。
あれは文太郎とつきあう前。四年前の冬。
「これでいけるやろ、大丈夫や」
山の頂上は吹雪だった。友達六人で行った一泊二日のスノーボード旅行。文太郎とあうのは二回目で、私はスノーボードするのも二回目。文太郎は人見知りが激しいのか、私と話す時は敬語だった。ご飯を食べる時も線対称の席だし、滑る時も先頭を切って高い山を滑るのは文太郎、なだらかな初心者用の山をちまちま滑るのが私。リフトに乗る時も最初だったり、最後だったり。わざと、と取れるくらい私から距離をとった。嫌なんだろうな私の事、と思ったので、私も進んで話しかけはしなかった。
なかなか先が見えない。あとからどんどん追い越されていく。邪魔だ、危ない、と捨て台詞を吐いて私の横を格好良く滑っていく人もいる。小学生くらいの男の子に笑われる。十を数えない間に何回もこけてしまう。足元が緩む。靴紐を何回も結びなおす。
「もう、嫌――」
目の前が雪と木しか見えないなかで叫んだ。積もっている雪と雪が降る間に前で手を振る人がいた。文太郎だった。
止まる術を使う体力と能力が無かったので文太郎の前でこけて止まった。文太郎は驚いているようで、普通に止まられへんの、といった。敬語じゃなかった。
「思う通りに止まらんねん。どうしたん?」
「どうしたんって、遅いから」
「みんなは」
「先に行ってるわ。あんた遅すぎや。こんなんやったらもう一回、頂上からみんな滑れるで。寒くなってきたやろ」
だから私はいいからみんなだけ頂上に行けっていうたのに。
「うん。ごめん。私はゆっくりいくから先にいっといて」
「……ん。わかってるけど、ほら、靴紐。ほどけてる」
「あ」
文太郎がゴーグルを外して私のほどけた靴紐を結びなおしてくれた。面倒くさそうにしゃがむ。
「あぁ、こっちも。あんた、結びかたおかしいんとちゃうか」
「え、そんなことないで。私、ちゃんと蝶々結び出来るもん」
やってみいや、と結びかけの靴紐を私にほおりなげた。私は二十四年間ずっとそうしてきたように蝶々結びをした。
「ちゃうわ。あんた。これ、ここはこうじゃなくて、こっちに回すねん。だからほどけるんやろ」
今まで結んできた蝶々結びは違うかったらしい。完成したら同じ蝶々結びなのに、回しかたが逆なだけで簡単に外れる蝶々結びを私は今までしてきたみたいだ。文太郎は左右ともしっかり結んでくれた。
「きつくしてくれた?」
足の感覚が無いので聞いたら、うん、といってくれて、
「これでいけるやろ、大丈夫や」
「ありがとう」
といって私のゆっくりペースで文太郎が一緒に滑ってくれた。靴紐は何回転んでも、下山してもほどけることは無かった。
それがきっかけになったこと、文太郎は覚えているかな。
カナちゃんが私の靴紐を結び終えた。
「ごめん、カナちゃん。行かなあかんところあるねん」
「なんで。彼氏んとこ、いくの?」
「うん」
「ほんまにぃ? 好きちゃうんやろ」
靴紐を結んでくれたカナちゃんの顔が私の顔に近づく。キスをしようとするのが分かる。どれだけしたいねん、カナちゃん。わたしは顔をずらす。
「うん。行かなあかんねん。ほんまに」
カナちゃんのほんまに、が移ってしまった。ほんまに、ってよくいうてるけど、ほんまなんかいっこもないんちゃうんか。本当のことって何なんや。見た目は同じでも、私のは、いつもすぐにほどけるんや。
私は覆いかぶさろうとするカナちゃんを振り切った。
「話は聞くから。それだけやったらいいよ」
「ほんまに? もう嫌やと思ってない?」
「うん、ほんまに。じゃぁ、行かなあかんから」
去っていくとき、カナちゃんの視線は感じなかった。
文太郎の部屋に灯りがついている。部屋をノックする。
「なんやねん。鍵持ってるやろう」
面倒臭そうにドアを開けた。私は小さな玄関に入り靴を脱がない。
「何、立ってるん。中に入ったらいいやん」
「うん。いいねん、ここで」
ソファに一人戻りかけた文太郎がこっちを見る。
「何や、別れ話か」
「うん」
はぁーっとため息をついて文太郎がソファに沈む。別れ話って、どうやって始めるものなのか、忘れてしまった。よく考えたら、文太郎が初めてかもしれない。別れるための話をする人が。
文太郎はソファ、私は玄関で、ぽつぽつと言葉を交わす。
「俺が女装したからか」
違う。女装している文ちゃん見てないけど、似合うと思うもん。
「俺がおっさんに舐められたからか」
違う。気持ちよかったんやから仕方無いとおもうし、そういう雰囲気になるのん、わかるもん。
「何日も連絡しぃひんかったからか」
違う。私も連絡しぃひんかったし、したくなかった。
「俺が仕事をよく辞めるからか」
違う。そんなん三回目くらいから諦めてた。
「お金、借りるからか」
違う。生きて行かれへんのん分かってて、助けたかっただけやから。
「じゃぁなんで」
文太郎は私を見ない。文太郎の部屋は文太郎の吐く息と匂いで一杯で、飲み込まれそうだ。しっかりしないと。
「私は」
文太郎を見る。
「私は文太郎に勝たれへん」
文太郎の部屋に小さく私の声が混じった気がした。私と文太郎がするするとほどけはじめている。私は自分の気持ちが分かった気がした。私は、文太郎には勝てない。勝ちたかったんだ、私は。敗北宣言だ。
「もう、やめたい。ほんまにやめたい」
文太郎はソファからこっちを見る。
「そうか。ようわからんけど、リエは別れたいんは分かる。俺は、リエがおらなあかんねんけど」
「文ちゃん。やめよう。しんどい」
ソファから立ち上がり私の前にきた。
「分かった。リエ。最後に」
肩に手を置かれた。
「嫌や。お願い、しんどい」
ポケットから合鍵を渡す。腕を掴もうとするので離す。
文太郎かって、こんな会話するのんしんどいんやろう。さっさと終わらせようや、とは言えない。文太郎のだらりと垂れた腕がしんどさを表現している。
ほどけた。
私は何も言わずに出て行った。呆気ない。文太郎は追いかけてこない。追いかけてきてほしくないけど、文太郎はそれをも分かってるのか。帰りに公園を寄ってみたが、カナちゃんは居なかった。月も、雲で覆われていて見えなかった。
カナちゃんはもう一ヶ月も店にこない。そんなに傷つけた気はないけどあの人も私を遊び程度にしか思ってなかったんだろうな。一日も早くおっさん彼氏が帰ってきますように。
代わりに文太郎が毎日来る。私が居ないときにも来る。
私は文太郎と目を合わさない。文太郎は私を見ている。また首に熱い視線を感じる。よく私の店に来られるな。何かいうわけでも無く、言いたそうにもせず黙って豚のしょうが焼き定食を残さず食べる。毎日、それ。作業着で来るから仕事は見つかったんだろう。一度、紙切れを渡された。
『パウルカレルのバルバロッサ作戦と、パウルカレルの焦土作戦を以前に所持していたけど、また読みたい。ドイツ……まさにドイツはまだまだ調べたい。調べる価値があると思うんや。パンツァレーア』
相変わらず呪文にしか見えない文字ばっかりだけれど、要約したら、また戻りたいといっているんだろうな。私は一読して、見せつけるように破いて捨ててあげた。
文太郎、私を見ないで。私はあなたを理解することはもう出来ないと思うのです。出来たらいいけど、もう、面白くないでしょ、わかりきった私を。ドイツ軍だって熟知したら次はロシア軍とかにいくんでしょ。何したって文太郎には勝てないもの、勝てない戦争なんかしたくないもん、ねぇ、私を見てもなんにも出てこないから、見ないで、って言うことを首から発信しているのに気がつかないかなぁ、文太郎くん。
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