編集後記

 某月某日、土曜日。盛夏。正午より「せる」82号編集会議。場所はたこ焼きの店「M」。大阪ビジネスパークを見上げる寝屋川のほとりにたたずむ店である。同人のお一人がその店のオーナーをなさっていて、そのご厚意により、提供された場所だった。少し早めに着いた。入り口の引き戸には、今日は暖簾は掛かっていない。店に入ると、見事に何一つ置かれていないテーブルたちが、整然と迎えてくれた。まだ誰も来ていないようだ。どの席に着こうかと、逡巡する。口開けの客となったような気持ちになる。とりあえずここで、と、結局、壁際でもなく、レジ横でもない中途半端な席に腰を据え、他のメンバーを待つ。適度にエアコンが効いていて、汗が穏やかに引いてゆく。不意に、引き戸が開けられる。三々五々、集まってくる。年齢も、服装も、統一感の全くない、不思議な集会である。
──そろったようですね。
──そろそろ始めますか。
 いつものように、さりげない言葉で会議が始まる。テーブルを囲んでいるのは、作者の一人と三人の編集委員。四人がけのテーブルに、ぴったり収まるサイズである。
 さて、と、椅子に深く掛け直す。今日は、たこ焼きはない。ビールもない。テーブルの上には、自販機で買ったそれぞれのペットボトルが並んでいる。時折椅子をきしませながら、原稿を前に、呻吟する。
「せる」の場合、脱稿した作品がそのまま無条件に掲載されることはない。作品は、編集会議の場で、編集委員の批評や意見を受けた後、再び作者に委ねられる。それからほぼ一月後の原稿最終提出までに、作者は、一度他者の前に曝された自らの分身を、また新たな視点で見つめ直すことになる。書き直す自由もある。書き直さない自由もある。
 編集委員に求められるのは、ただひたすらに読み手であること。それも、それぞれが個性的な書き手としての立ち位置を持つ、ある種凄みのある読み手であること。
 だからこそ、呻吟する。この批評の一言が、今目の前にあるこの作品を、生かす言葉と成り得るのか、何気ないつぶやきが、可能性の芽をつみ取ってしまう響きにならないか。それは、小説を書くときに、たった一言にこだわり、おののき、呻吟するのと同じことかもしれない。
 白熱の時間が過ぎる。この後、製本された「せる」が手元に送られてくるまで、編集委員がそれぞれの作品に関わることはない。この場で交わされた言葉の数々が、それぞれの作者にとって、作品を磨き熟成させる貴重な契機となることを切に願う。         (G)

 


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