公園からの裏通り   奥野 忠昭


 俺は、刑事を伴って、喫茶店の一番奥まで進み、テーブルに座った。
 昨夜、警察から「一週間ほど前に公園近くで、不審な火事があったので、その件で、ちょっとお聞きしたいことがあります、明日、お家に伺ってもよろしいでしょうか」という電話が掛かってきた。それで「夕方六時半以降ならいつでも結構です」と答えると、では六時半に伺います、と言って電話が切れた。
 でも、後から考えると、自宅でその話をするのがどうも気がすすまない。子供が大学受験で頑張っているというのに、親父が酒を食らって、しかも、泥酔状態でみんなに醜態を晒けだし、その上、暢気に火事場見物までしていたというのではいかにもまずい。それで、慌てて六時半までに家に帰り、玄関前で待ち伏せをし、刑事をつかまえて、この喫茶店へ連れ込んだのだ。
 入口の方を見ると、若いカップルがひと組だけ座っていて、彼らは周囲にはまったく無関心で、携帯を見ていた。
 ウエイトレスが水を持ってきて注文を尋ねたのでコーヒーを二つ頼んだ。
 前に座っている刑事は何だか少し戸惑っているようだ。聞きたい相手から喫茶店に誘われるなどというのはめったにないことかもしれない。
 俺は、さらに刑事をじっと見た。日焼けしていて、運動部の監督といった感じだ。おそらく四十代だろう。
 ここに来るまでの道々、少し話をしたのだが、彼はただ「その時の様子を詳しく教えて欲しいだけです」と言っていた。まさか俺を疑っているわけではないだろう。だが、そのことが気になってしかたがない。俺は、昨夜、警察から電話が掛かってきたというだけでかなりぎくっとした。
「警察に来てもらったっていいんですが、それでは少し大げさすぎますし、みなさん、警察に来るのを嫌がられますので。これでも、精一杯気を遣っているのです」刑事が言った。
 刑事の態度が丁寧だが、どうもそれが不自然で、気にかかる。交通違反の切符を切る警官だって言葉遣いはいやに丁寧だ。
「でもね、家じゃ子供もおることだし、家族にはあまり聞かれたくないことだってありますから。だいたい、刑事が父親のところへ来たというだけで、息子の心が動揺しかねませんから。大学受験をひかえていて、彼は今が大事な時期なんで」
 俺はできるだけ感情を殺そうとして、小さな声を出す。しかし、そう考えれば考えるほど緊張感がます。声だって普段とは変わっている。これではいけない、なるべく自然体で。
 刑事は俺の戸惑いを察知したように少し首をかしげる。
「ですから、あなたのおっしゃるように、この店で聞かせていただこうと思いまして。よろしくお願いしますよ」
「わかっています。でも、私は、取り立てて何も見ていませんし、記憶力の悪い方で、一週間も前のことを思い出せと言われても、そりゃ無理ですよ」
「そこを何とか、無理をしてでも。きっと、何かを見ておられるわけで、ご協力をお願いしますよ」
 刑事が軽く頭を下げた。短く刈り込んだ頭髪には脂気がなかった。
 ウエイトレスはコーヒーを二つ持ってきてテーブルの上に置くと、すぐに席を離れた。俺は掌をちょっと突き出すようにして、刑事にコーヒーを飲むように勧め、自分はカップを口元まで運んだ。刑事はさらに少し当惑したように、眉間に皺を寄せて、瞬きを繰り返した。
 俺は、それを見て少しほっとした。余裕ができたというか。
「いろいろ聞きたいのはむしろ私の方です。なぜ、私に事情を聞きたいと警察の方が思われたのか。だって、あの火事を見に行った連中はたくさんいたわけでしょう。いくら早くから火事場にいたからって、そりゃ、近くにいたのだから、早く現場に着けるのはあたりまえじゃありませんか」
 俺はちらっとその時の光景を思い浮かべながら言った。事務所なのか倉庫なのかそれとも工場なのかわからないような木造二階建ての建物が燃えていて、二階の窓からは勢いよく炎が出ていた。子供のころ、口から炎を吹き出す龍を想像したことがあったが、炎は窓からそんな感じで出ていた。それは迫力があり、美しかった。でも、あの時、どんなことを感じたのかは、よくわからない。すかっとしたのだろうか? わくわくしたのだろうか? いや、違う。もっと別の感覚だったような気がする。
「たまたま、消防署に火事を連絡してくれた人がいてね、その人が火事をビデオに撮ってくれていて、それであなた方が早くからあの場所にいたってことがわかったのです。ああ、どうしてあなた方の住所なり電話番号なりがわかったのかって? それは秘密事項です。でもね、これでも私どもはかなりの情報収集能力があるわけでして。はい」
「だからこれは単なる聞き込みではないということですか」
「いや、いや、ただの聞き込みですよ。ただ、あなた方は重要な方だとは思っています。なにしろ、非常に早くから現場におられたんですから。消防士や警察官より先に現場にいた人なんて、そうざらにはいませんし。きっと、貴重な情報をお持ちではないかと思いまして。ご協力をお願いしますよ」
 刑事の目が鋭く光った。職業柄そうなのか、それとも俺を疑っているのか。
 俺はコーヒーを啜って、緊張感をほぐそうとする。どうも身体がこわばっていけない。俺が何も火をつけたわけではないのだからびくつくことはない、と自分に言い聞かせる。しかし、ひょっとして、という思いがどこかでする。だって、かなり酔っていて意識が朦朧としていたので、何をしたのかはっきりしない。それに、火事、火事、という言葉を聞くごとに、不思議なことに、何かに火をつけた、という感触が甦ってくる。きっと気のせいだろうと思うのだが、でも、そう思えば思うほど、その感触が確かなものになっていく。
「通報してきた人に聞かれるのが一番いいのじゃないですか。私のような記憶力のない男から聞くよりも」俺は心なしか力なく言う。
「もちろんそういうことは抜かりはありませんよ。でもね、あなた方のほうが、よほど大切な人なんだ。だって、携帯をかけてくれた人は、すぐ近所の人で、それも自宅の二階から見ていただけなので。しかも火が出てから四、五分は経っていたというんだから。あなたたちはわざわざ公園から歩いて、そのあたりまで行かれていたわけでしょう。それも、まだ、燃えてもいないうちから。我々は、あれは一応、放火と見なしているわけで、そうすると、引き返す犯人と出会ったかもしれないじゃないですか。それどころか、いっしょに行ったってことも……。いや、そう驚かないでくださいよ。それはただ論理的に言っただけのことなんだから。それから、公園でもかなりいたということだし。こんな場合、そこに犯人がいて、心の準備をしていたっていうことも十分考えられます。公園でも、その日、何か、ゴミが焼かれていたようで、関係なしとは言い切れませんから」
「ゴミが焼かれていたんですか?」
「いや、それもよくわからんのです。たいしたことではないと思いますが。タバコの火でも放り込まれたのでしょう。よくあることですよ。それとも、何かそれに関係あることで、気のつかれたことでも?」
「いや、いや、だから、何度も言っているでしょう。何も憶えていないって」
 俺は少し声を強める。しかし、すぐに反省する。これではいけない。これが刑事の手かもしれない。
 そう言えば、確かに、俺は、あの時、公園で炎を見た。しかし、それはけっして火事の炎とは違う、そんなに大きな炎ではなかった。だが、美しかった。昔、よく家の前で見た炎のような、いや、もう少し広い場所で見たのかもしれない。何だか懐かしく、心がかきたてられた。炎の先が朱色に輝き、美しい模様ができていた。
 でも、そのことは刑事には絶対言ってはいけない。だって、もしそんなことを言えば、誰が何を燃やしたのかと、根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。そんなことは憶えていない。でも憶えていないと言えば、俺がそれをやったと思われかねない。そうなれば、俺が炎を見て快感を覚え、それで、今度は、もっと大きな炎を見たくなって家に火をつけた、なんて、誰が考えてもすぐに思いつく推理ではないか。
 だが、俺はそんなことを考え出した途端に、もっと公園の様子をはっきりと思い出したくなった。あの時の公園の様子は? 裏通りは? いったい俺はどういうものを見たのか? ……。だめだ。おぼろげなことしか思い浮かんでは来ない。酔っていて、あちこちで座り込んだことは確かだ。それから、公園の中はかなり騒がしかったように思う。中学生のような少年・少女が走りまわっていた。そんなとき、いきなり美しい炎を見た。だが、ただ、それだけだ。あとは思い出せない。裏通りのことなんかまったく何も……。
「何か憶えておられることはありませんか? どんな些細なことでもいいんですよ」
「ええ、申し訳ありません。前後不覚に酔っていたもので、当日のことはまったく憶えていないんですよ。本当に」
 俺は再び同じことを言う。
「何も思い浮かびませんか? わかりました。では訊き方を変えましょう。ところで、公園からあの裏通りに、あなたはお連れの方と歩いて行かれたんですよね。お連れの方とはどういうご関係で」
「いや、ただの居酒屋での飲み友だちです。よくそこで会うものですから」
 居酒屋で見かける、俺と同じ五十歳前後の彼は、ただの飲み友だちだが、彼の漂わす雰囲気というか、漏らす言葉というか、そういうものが私には親密さを感じさせる。ああ、俺と同じやつがいる、そう思えて心がなごむのだ。彼は多くを語らないが、彼の苦労が伝わってくる。あの時も、「会社は生き残るために必死だ。少々ダーティーなことだってやる。でないと会社は生き残れない。でも、それは俺が悪いわけじゃない」とさかんに言っていた。彼は何かをやらされているな、と思った。この俺だって生き残るためには何だってやる。何も俺が悪いわけじゃない。会社がそうしろと俺に命令するからそうするだけだ。
「そうさ、あんたの言うとおり、あんたには何の責任もない。そんなことをくよくよ考えていたらすぐにでも落ちこぼれるよ」と、俺が大声で叫んだら、彼は何だか悲しそうな顔をした。
 俺だって同じようなものだ。その日、報告書にはしこたま「水を入れ」た。水を入れるというのは、まだ、はっきりと確約なり、契約なりが取れていないのに、取れたとして、その月の契約に入れておくことだ。俺たちの会社ではそう呼んでいる。
 俺は今月の報告書に、まだ、まったく感触さえ掴んでいないものまで契約の欄に書き入れた。でないと、支店長会議で本社の部長につるし上げられる。書き込んだ件に関わっている部下が「支店長、それはいくら何でもちょっとやりすぎじゃないですか」と言ったが、「やむを得ん。今回は目をつむれ」と言って押し通した。どうにかなる。俺だってそれを挽回する手だては考えてある。
 それにしてもどうしてこうも緊張するのか。まるっきり心の芯のどこかが揺さぶられているような感じがする。早く刑事から離れたい。でないと、とんでもないことを喋り出しそうだ。とんでもないことって? わからない、それはわからないよ。
「ところで、かなり飲んでいたっていうじゃないですか、お二人とも」
 刑事が強い声をだす。やはり、俺を疑っているようだ。警察なんて、犯行をでっち上げることなんかたやすいことではないのか。
「居酒屋の親父がそう言ったんですか」
「ええ、ここに来る前に、ちょっと聞き込みに行ったら」
「聞き込みに?」
「そう」
 ちょっとヘンだ。居酒屋と火事現場とはかなり離れている。それに、あの辺りには他にもたくさんの店がある。何のためにあの居酒屋なんかを。
「で、居酒屋の親父、他に何か言っていたんですか?」
「何かとは?」
「はぐらかさないでくださいよ。だから何かですよ」
「それはちょっとね」
「守秘義務ですか? まさか、一度くらい放火をやってみたいなんて俺が言っていたとか、そんなことを言っていたんなら、もうあそこの店には絶対行ってやらないから。俺たちはただ何となくあっちの方へ歩いていっただけなんですから」
「そう、聞きたいのはそのことですよ。何故、お二人は公園の方へ、それから、火事現場に近い裏通りの方へ歩いて行かれたのか」
「ああ、やっぱりあの親父が何か言ったんだ」
「だから、どうして?」
「ただ何となくですよ」
「ただ何となくなら、帰る方向に歩いていくと思うんですがね。あなたたちは両方とも家が反対方向にあるわけでしょう」
「少し酔いをさましたかっただけですよ。だって、酒くさいままで家に帰ったら家族のみんなからひんしゅくを買いますから。刑事さんにもそんな経験があるでしょう。ただ、公園で風に当たりながら酔いをさまそうと思っただけですよ」
「公園はわかりますよ。でもね、それが裏通りへどうして行かれたのか? それがわからんのですよ」
「だから言っているでしょう、ただ、何となくですよ。二人は何かを話し合っていて、それで気がついたらあの裏道を歩いていたんですよ」
「まあいい、そういうことなら、そういうことにしておきましょう。で、あの店には、その時、客はあなたたち二人しかいなかったそうじゃないですか。何か連絡でもとりあって?」
「たまたまですよ。俺もあいつもよく行くもので。あんなしょぼくれた店に若い者の誰が行くものですか。俺たち、しがない中年だけですよ」
「主人もそう言っていました。ひょっとして、犯人もうちで飲んでいたかもしれないって」
「ええ、なんですって?」
「いや、失礼、これは私の推測でして」
 刑事は首をすくめて上目遣いに俺をじっと見てにやりと笑った。
「刑事さん、これはやっぱり、聞き込みなんかじゃなくて、事情聴取なんですね。俺が何か?」
 ますます不安になり、怒りを込めて言った。
「いえいえ、ご心配なく、いつも取り調べをやっているもので、ついつい、取り調べ口調になってしまって。誤解を与えたらお詫びします。それで、公園ではどんなことを」
「だから、酔いをさましていたって、先ほどから」
「でも、ただ、黙って座っていたって、何かが見えるわけでしょう。人間、何もしないでいることなんてできないし、何をされていたのですか」
「何もしていませんよ。ただ」
「ただ?」
「だから、酔っぱらっていたのですよ、誰がいたのか、何をしたのか、まったくわからないのです」
 その時、ちらっと、女の人の足が思い浮かんだ。そう、確かに近くに女の人がいたような気がする。黒いズボンをはいていたひとが、行儀よく足を揃えて座っていた。それがとても美しかった。こんな女のひとはきっと誠実で仕事のよくできる人だろうなと思った。
 その女のひとは先の尖った赤い中ヒールを履いていて、赤い靴の上に炎が映り、それがいっそうあでやかだった。
 女の人もいっしょに炎を見ていたのかもしれない。
「よく、酔っぱらいは何もわかっていないなんて言いますが。でもね、あれは嘘だって言う人もいるんですよ。やはり、何かを見て、何かを憶えているって」
「本当ですよ。何もかもわからないんです。信じてくださいよ」
 俺が何だか哀願口調になっているのに気づき、ぞっとする。俺は何か重要なことを隠しているような気がしてくる。では、いったい何を隠しているのだろうか。
 刑事にはいっさい何も言うつもりはないが、俺はそれをはっきりとさせたい。
 もう一度、公園や裏通りに行けば、少しは何かを思い出せるだろうか。
「公園では、本当に何も見なかったんですか? いや、何も憶えておられない?」
「ええ、本当です。完全に酔っぱらっていて。あれほど飲んだのははじめてです」
「じゃ、公園はいいです。裏通りのことを教えてください」
「火事は確かに見ていましたよ。それは確かです。でも、その前後のことは憶えていないのです。気がついたら火事を見ていたってとこですよ。何度聞かれてもそう答えるしかありません。俺はなぜあんなところへ行ったのか。知っている人がいたら教えてほしいぐらいですよ」
 刑事はじっと俺の顔を見つめる。本当のことを言っているのかと確かめている。俺は何も嘘はついていない。だが、どうしてこうもどぎまぎとし、不安にかられるのか。


 私は公園をひとあたり見回した。すでに街灯が灯され遊具や広場を照らし出している。男の人が二、三人、遠くのベンチに座って、コンビニで買ってきたような弁当を食べたり、街灯の下で夕刊を読んだりしている。でも、女の人は私ひとりだ。
 私はズボンに埃が付かないように公園のベンチにハンカチを敷いて座ると、赤い靴の先についた砂埃をティッシュで拭いた。
 前方は広場になっている。端の方にはブランコや滑り台がある。後ろには木々が植わっている。
 ちょうど、一週間前にも、私は夕刻、この公園に来ていた。そう、近くの工場の跡地にまだ残されていた廃屋が焼けた日だ。
 あの時も、私はこのベンチに座って今日と同じように恋人を待っていた。ただ、あの時は、彼に会うまでに時間があったので、古本屋で買ったある女の手記を読んでいた。明るい街灯の下なので結構読めた。自分でも不思議だ。二十年以上も前に発行された本を、どうして三十八歳である私が、あのとき読む気になったのか。ただ、仕事の帰りに、ふと立ち寄った古本屋の出口に積み上げられていた本の中から、その本が目にとまった。
 私がまだ十五歳の女子高生のとき、その女は事件を起こした。億のつく金を銀行からオンラインをつかって引き出し、金のほとんどを男に渡して、自分は国外へ逃亡した。当時はなんてばかな女だろうと思ったけれど、世間では大騒ぎをしていたので、記憶の底に残っている。値段も安かったので何となくその本を買ってしまった。でも、読み始めるとけっこうおもしろかった。今の私が、彼女と少し境遇が似ているからだろうか。彼女は大手の銀行員で多額の金を扱う仕事をしていたが、今の私は、ある連合会の共済組合の会計事務をやっている。やはり、かなりの金を扱っている。すでに十六年もやっているので、組合長は金の事務を私ひとりに任せきりだ。一時的なら、多額の金でも私は自由に動かせる。それに、妻子ある男と付き合っていることも似ている。ただ、私は彼が金を貸してくれなんて言ってもびた一文貸すつもりはない。やはり私は彼を愛していないのだろうか。
 女は多額の金をオンラインを使って架空口座に振り込むときどんな気持ちがしたのだろう? 得体のしれない快感が走ったように思う。ざまあみろ、と思ったかもしれない。日頃はお金に振り回されているが、今度は私がお金を振り回してやると。
 私だってそれくらいのことはできる。一億円ぐらいなら、今すぐにでも引き出してみせる。そう思うと何だか力のようなものを感じてしまう。あの時も、そんなことを考えた。と同時に、最近よく考えることだが、あれをやっぱりやってやろうか、などとも考えていた。あれとは、お金を猫ばばすることではない。彼を脅かすことだ。今のままじゃ、何だかおもしろくない。彼とはもうかなり長い間付き合った。ここからそう遠くない表通りに出て、レストランで食事をして、それからまた、裏通りのラブホテルに行く。それの繰り返しだ。彼は「君といるときが一番楽しい。まるでパラダイスだ。この部屋が別世界に見えてくる」と言うが、ラブホテルの部屋なんて、私にはただの、薄汚い部屋でしかない。彼と会っていても、もうときめきはない。最初、出会ったとき、彼の後ろ姿を見ただけで、鼓動がはげしく波打ったのに、今はただ何となく付き合っているといった感じだ。一度「早く、奥さんと別れて、私、奥さんに会いに行く」と言ってやろうか。
 それにしても彼の来るのは遅い。あの日もそうだったが、今日もまた同じだ。
 携帯の受信音がまったく鳴らない。彼も私も携帯は持っている。私は彼にはアドレスも電話番号も知らせてある。だが、彼からはメールは来ない。電話は時々あるが、彼はけっして自分の携帯を使わない。私に、電話番号を知られたくないからだ。「君だって嫌なトラブルに巻き込まれたくはないだろう。つらいことかもしれないが、既婚者と付き合う場合の守るべきエチケットの一つだよ」と言って私を納得させてしまった。
 携帯をバッグにしまってから、表通りに続いている公園の入口の方を見た。かなり明るい街灯が輝いていて、その向こうには車の行き来とレストランのきらびやかなネオンが見えた。
 嫌な予感がした。今度の彼との場合でも、また同じことが? と思った。前の彼のときもそうだった。前の彼は独身で、出会ったはじめの頃は、彼はいつも私より先に来ていて、遅れるのはいつも私の方だった。それがだんだん逆になり、彼が遅れだし、ついに別れた。でも、別れる最後はちょっと奇妙だった。逢う日、会社が終わって出ようとしているとき携帯にヘルパーさんから電話が掛かってきた。「お母さんが少し身体の調子が悪いと言っておられます。敬子に早く帰ってきてくれと伝えてくれと」。ああ、またか。きっとたいしたことではないのだろう。ただ、一人でいるのが寂しくてわがままを言っているのだ。ここ何日かは残業で遅くなってしまった。ひょっとして私が男に会うのを何となく感づいているのかもしれない。私が男の方に行ってしまわないかと心配して嫌がらせをしているのだろうか。でも、ヘルパーさんからそう告げられれば帰らないわけにはいかない。それで、彼に電話をしようと携帯に掛けた。でも、それは繋がらなかった。しかたがない。もし、彼がここに来て私がいなかったら、そのうち、彼から家に電話が掛かってくるだろう。そう思って家に帰った。家に帰ると予想通り、母はたいして身体の変調をきたしていたわけではなかった。トイレだって、ベッドの側に簡易トイレが置いてある。自分でしようと思えばできる。しかし、おかしなことに彼から電話もメールもこなかった。
 約束の場所に行ったのだが、私が現れなかったので怒って帰ってしまったのだろうか。明日、会社へ電話をして謝ろうと思った。電話を掛けると、「すまない、すまない。昨日は突然、外での仕事が入り、すっぽかして申しわけない。携帯もあいにく会社に忘れてしまって」と彼の方から謝った。それ以後、彼は、私とは会おうとはしなかった。忙しいからとか何かを口実にして私を避けた。彼はいつか言ったことがある。「まるで俺は旦那のいる奥さんと付き合っているように思うよ、君は時間を気にして、いつもさっさと帰ってしまうし。泊まりがけの旅行にだっていけないのだからな」と。
 嫌なことを思い出した。でも、今度の彼には同じようなことはさせない。
 でも、なぜ、私は、再び、恋人との待ち合わせ場所にここを選んだのだろう? いつもは駅近くの喫茶店で待ち合わせをし、この公園の前を通って、彼のお気に入りのレストランへ行くのだが、その途中で、ときどき、公園の中を覗き込み、木々の醸し出す雰囲気がいいなあと思っていた。それで、先週、たまたまこの公園を待ち合わせ場所にと提案しただけだ。でも、今日は違う。今日はここでないといけない。恋人が喫茶店の方がいいと言ったのだが、私はここがいいと言い張った。きっと、あの日のことに拘っているのだ。でも、それが、彼と何か関係があるのだろうか?
 とにかく、一週間前、私はここで女の手記を読みながら時間をつぶしていた。と、入口の方で「会社っていうのはな、……」とか何か意味のわからないわめき声が聞こえた。
 見ると、二人連れの酔っぱらいが公園へ入ってきた。ネクタイをゆるめ、そのため結び目がだらしなく膨らんでいた。スーツの上着も前を大きく開き、腕の先まで袖をずらせて、二人が肩を組んでいた。どうして男の酔っぱらいはみんな同じような格好をするのだろうか。そう思った。つまらないことなのによく憶えている。
 私は酔っぱらいを見ていると女の手記を読む気がしなくなって、本をバッグの中にしまった。それからしばらく、彼らを見ていた。彼らはいろんなところに腰を下ろし、「おい、談合だって賄賂だって、みんなでやれば怖くない」とか「俺たちだってこれでいいのだ」とか、「コンプライアンスって、こんくらいでいいやんす、ってことさ」とかつまらないことを言い合っていた。
 すると、今度は、まだあどけなさを残している中学三年生ぐらいの男女五人組が入ってきた。男三人、女二人。どちらも制服を着ていたが、だらしない着方だった。細かなことは思い出せない。男の方はみんな上着のボタンをはずし、中の白いワイシャツのボタンも上から二つぐらいははずしていた。鞄は薄っぺらなものだった。女の子は短いスカートでパンツが見えそうなほどだった。鞄をぐるぐる回したり、放り投げたりした。なかの誰かをいじめているのだろうかと思ったがそうでもない。ただ、ボールがわりにしているだけだ。
 この頃の若い者はいい。夕方遅く帰っても、親は寛容だし、ああやって女の子も男の子とふざけ合って遊べるんだもの、と思った。私の学生の頃は。母親はやたら厳しく、門限が決められていて、それを破ると母親は私を狂ったように叱った。
 そう言えば、今でも私は、彼と会う以外は夜遊びはできない。ヘルパーさんは朝二時間と夕方二時間の二回来てくれる。でも、夜は私が見なければならない。夕方、七時より遅れると母は機嫌が悪い。おいおいと泣かれる。一生懸命、女手一つで育てたのに、親が病気だと言うのに、心配一つしないで夜遅くまで遊びまわっている、と言って泣かれる。ほうっておいて、さっさと眠ってしまえばいいものをそうはいかない。じっと彼女が落ち着くまで愚痴を聞いている。
 先日、会社からの帰り、同級生の好子さんに駅でばったりと会った。すでに小学校五年生ぐらいの娘さんといっしょだった。私に向かって「敬子さんはまだ?」と尋ねた。「ええ」と答えた。「あいかわらずね」と言ってから、ごくりとつばを飲み込んだ。「独身の謳歌もいいけれど、結婚も捨てたものではないわよ」と言った。「あまり、選り好みしないで決めてしまいなさいよ」と言った。笑顔だった。早くしないと女は子供を産めなくなるわよ、とその顔は言っていた。勉強ではあなたにかなわなかったけれど、人生では勝ったわね、といった自信の溢れた声だった。「あなたは今まで何をしてきたの、私のこの子を見てよ」といったふうに娘さんの方を向いてにっこり笑った。
 手記の女は書いていた。外国で「日本料理店」でも開いて暮らそう。フィリピンのマニラなら犯人引き渡し条約が結ばれていないから絶対逮捕されない。男からそれを聞いたとき、突然光りがさし込んできたようだったと。
 今夜は不思議だ。その女のことを思うと胸騒ぎがする、少し新鮮な気分になる。本の中で女はさらに書いていた。男と決行を決めたときは、何だかうきうきしたと。ああ、その気持ちはよくわかる。でも、考えはそこで止まった。えらく考えが始めのころとはずれてきたような気がしたのだ。
 私は、少年・少女たちのことを思い出していたのだ。突然、彼らは公園に現れた。少し悪そうだけれど、元気がよかった。
 彼らはどこからか自転車を一台持ってきた。一番身体の頑丈そうな少年がそれを前後に揺すりながら漕いだ。自転車はぽんぽんとウサギのようにはねた。みんなは笑った。一瞬止まると、丸顔の背の低い少女が、すばやく、自転車の後輪を支えているハブステップに足をかけ、少年の肩に手をかけて立ち上がった。動きが軽やかだった。時々、肩から手を離し、T字形のポーズをとった。まるで、サーカスのショーのようだ。彼らは歓声をあげ、それが公園を占拠した。声は若いと言うだけで明るい。彼らは彼らなりに重荷を背負ってはいるのだろうが、若さはそんなものを寄せ付けない。自転車はスピードを出し、急に曲がる。丸顔の少女は、大声を上げるが、少年の肩を掴み、うまくバランスをとる。
 公園の花壇の前にいた二人づれの酔っぱらいも自分たちの声を封印して、若者たちを見ていた。うらやましいのだろう。
 と、その時不意に鞄の中の携帯が鳴ったのだ。携帯が鳴るときはいつも不意だ。だから私は携帯は好きではない。
 急いで取りだして電話番号を見た。やっぱり公衆からだった。ご苦労なこと、と思った。
「もし、もし」と言った。
「いや、済まない。行けなくなった。残業が突然に入ったんだ」
 恋人の声が聞こえた。
「残業は何時まで、しばらくなら待ってもいいわ」
「それが何時に終わるかわからないんだ。この埋め合わせはきっとするから。今日は勘弁してくれよ」
「そう」
 私は小さな声で答えた。
「じゃあ、また」
 電話が切れた。彼の声はどういうわけだかはずんでいた。いや、やれやれといった感じだったかな。
 携帯をたたんでバッグに入れるとき、また、先ほど読んだばかりの女のことが心にちらつき、彼女のことを考えた。
 女は貯金していた有り金全部を男に貢ぎ、さらに、銀行から億以上の金を盗んで彼に渡した。何故? 彼は背が高く、ハンサムで、しかもどこかくずれた感じがしてたまらなかった、と書いてあった。「俺には嫁さんがいる。しかし、お前が好きだ。付き合ってくれ」と言って口説いてきたのが、何だか、堂々としていてよかったとも。
「金を貸してくれ。俺のことがわかってくれるのはお前だけだ。俺は今、裏の人間から追われている」と言われると、どうしても金を貸さないわけにはいかなかったとも。
 だが、私には、それは表面的なことで、何だかもっと深いわけがあったような気がしてならない。
 そんなことを考えていたときだった。若者たちは自転車に飽きたのか、ベンチの横に投げ捨て、私から一つ置いたベンチに座った。
「やっぱり今日もやっちまおうか」
 ひょろっとした少年が言った。
「ああ、あれ、何だかおもしろいよね」
 丸顔の少女がそう答えると、それに同意するかのようにみんながいっせいに笑った。
「不思議よね。どうってこともないのに」
 丸顔の少女が言った。
「何だか、心の中がパーッとなる感じで、私は好き」
 髪を後ろに長く垂らした女の子が言う。
 少年・少女たちは公園の隅に行き、ゴミのいっぱい詰まった金網でできた筒状のゴミ籠を二人がかりでベンチのすぐ傍まで運んできた。そこには週刊誌、新聞紙、弁当の包み紙、ビニール袋やいろんなものがいっぱい詰まっていた。
 ひょろっとした少年が鞄の中から小瓶を取りだした。
「わあ、すごい、用意周到だ」
 丸顔の少女が言う。
「学校へ来るとき、家から準備しておいた」
 ひょろっとした少年が楽しそうにゴミの上に瓶の中に入っていた液体をすべてかけた。液体は何だかわからない。灯油だろうか、それとも、家にあるただの食用油なのだろうか。
「ようし、やるぞ」
 少年・少女たちは、ゴミ籠の周りを取り巻いた。私も緊張した。酔っぱらいたちも、いつの間にか、近くに来て、彼らを見ていた。
 一番肥った少年が丸めて棒状にした新聞紙の先にライターで火をつけ、それを割り箸でつまんで、ゴミ籠にそろりと近づけていく。新聞紙の先が、魔法の火のような感じで不気味だった。そう言えば、近頃、高く立ち上る炎なんか見たことがない。母親が火を使うのが危ないからと言って、電気使用のシステムキッチンに替えた。ちょろちょろと鍋の底を這う火さえ、もう長い間見たことがない。
 肥った少年が金網の破れを見つけては何カ所かに火をつけた。最初は、煙だけが出て、期待したほど燃えなかったが、そのうち勢いが増してきた。金網の横から怒っている魔王の目のように炎が吹き出しきた。白い煙も勢いよく上った。熱風も漂ってくる。目も少し痛い。
「私、今日のテスト、焼いちゃおう」
 丸顔は一生懸命鞄の中を探っている。
「私も」
 髪を後ろに長く垂らした女の子も言う。
「なあんだ。まだそんなの持ってたのか」
 三人の少年たちは笑う。
 金網の中は真っ赤になる。炎がいっそう勢いを増す。ますます辺りの空気が熱くなる。
 炎の色は一様ではない。中央部は透明で少し紫っぽい。周囲が朱色でそれが滑らかに動く。一瞬でかわる曼荼羅模様の美しさだ。
 うう、ううと奇妙な声がする。その方を見ると、二人の酔っぱらいは二人とも、少し怖ろしくなるような笑いを浮かべて、じっと炎を見つめていた。炎の光が彼らの赤黒い顔面に影のように映っている。少し薄気味が悪い。
 だが、私だってあんな風に今笑っているのかもしれない。嫌だ。心のどこかが揺れる。
 ふっと、炎の中に組合長の顔が浮かぶ。
「理事の連中がさ、同じような仕事をしているのに給料だけが毎年上がっていくのはおかしいって言うんだよ。あいつら、自分ところの職員を放り込みたいのさ。それで、だから、それだけの仕事はちゃんとやらしています。若い女の子なら二人雇わないといけないところを彼女一人でやらせているんだから、給料はそんな女の子の一、五倍も払っちゃいませんよ、と言ってやったんだよ。すると何と言いやがったと思う? 若い女の子には+αがあるってよ」
 組合長は私の方を向いて首をすくめる。そんなことを言われて私が動じるとでも思っているの。それで言い返してやった。「私にだって+αの時代はありました。でも、今は+βのほうが魅力的になっているのです。でも、この魅力のわかるひとは賢いひとです。馬鹿な男にはわかりません」って。
 理事が言っているというのは嘘だ。あれは組合長の考えだ。組合長は私を辞めさせたいのだ。はっきりとわかった。できれば若い女の子と取り替えたいのだ。でも、複雑な会計処理を短時間にやってのけられるのは私だけ。それがわかっているのはこの事務局の中でも私ひとり。
 組合長は似合わない髭をつまみながらこんなことも言った。「新聞で知っているだろう。組合の金を横領して捕まった女事務員のおばさんのこと。君は大丈夫だろうな。信じているのだからそんなことをしないでくれよ」と。「わからないです。私だって何をするか」と組合長の顔を思い切り強く見つめながら、笑ってやった。「おうおう、大人の受け答えができるようになって」と言って、組合長は私から逃げるように去っていった。
 でも、少し困っている。確かに仕事が増えたし、複雑になった。残業をしないとやれなくなっている。残業代は認めてはくれるが、私には母親の介護がある。母親は私が遅くなると極端に精神状態がおかしくなる。なんだか、狂っているような感じになる。それに、彼と会う時間がなかなかとれない。
 まあ、いい。彼とはそんなに会いたいとは思わなくなった。でも、仕事が原因で彼とは別れたくない。母親が原因で彼とは別れたくない。彼の奥さんが原因で彼とは別れたくはない。
 嫌だ、このことを考えると、暗くなってしまう。
 もし、彼が、「妻と別れる。外国へ逃げよう。それには金が要る。組合の金、何とかしてくれないか」と頼まれたら私はどうするだろう。マニラ、フィリピン、インドネシア、ロマンチックな響きがある。仕事を捨て、母親を捨て、国を捨て、何もかも新しくする。人生で、一度ぐらい、そんなことがあってもいい。
 うううう。さらに大きな声がした。酔っぱらいの方を向くと、二人はラグビーのスクラムのような格好で肩を組み合い、前屈みになり、炎の方へ身体を傾けていく。火に惹きつけられているといった感じだ。よく熱いのにあんなことがやれるものだ。
「おい、またやって来やがったよ、あいつ」
 ひょろっとした少年が公園の入口の方を指さした。
「本当だ。管理人だ。やばいぞ、おい」
 入口の方を向くと、管理人と呼ばれた野球帽を被った六十歳ぐらいの男が歩道の方から足早に公園の方へ向かってくる。
「行くぞ」
 ひょろっとした少年はすでに裏通りの出口の方へ向かって走り始めた。がっちり少年は自転車を起こすと、それに乗り、彼の後を追う。「今度は聖火競争だ、いいな」ひょろっとした少年がこちらを振り返って言う。がっちり少年もその後の子供たちも「それがいい」「それがいい」と言い合う。
 酔っぱらいの二人も、炎から離れ、ベンチに座りに行った。
 彼らは炎には無関心を装う。私だけ、まだじっと金網のゴミ籠を見つめていた。火力が急に落ち始めた。ああ、油を補給してやりたい。もっと、どんどん、夜空を焦がすほどに赫々と燃やし続けてやりたい。
 野球帽の管理人が近づいてきた。
「これに火をつけたやつは誰だ」
 辺りにいる私や酔っぱらいを見回した。誰も答えない。
「わたしが来たときにはもう燃えていました」
 何時の間に現れたのだろうか、黒を思わせるほどの濃紺の背広を着こなし、褐色の手提げ鞄を持ったサラリーマン風の若者が、野球帽に立ちふさがるようにして彼を睨み付けている。
「お前が火を付けたんのか」
 管理人は濃紺の背広を睨み付けた。
「何ということを! 馬鹿なことを言ってもらっては困る」
 濃紺の背広は怒りの表情をした。
「この頃、ゴミが焼かれて困っとるらしいわ。付近で頻発している放火とも関係しているのと違うか、一度、つかまえて、警察に突き出してやりたいのや」
「来たときにはすでに火だけが燃えていました」
 濃紺の背広がまた言う。
「火をつけて、すぐに逃げよったんやな。放火犯といっしょやなあ」
 管理人らしい野球帽の男はそう言うと私たちの方を向いた。
「あんたたちも今言っているのと同じか」
 私は黙って頷く。酔っぱらいたちは無言だ。
 濃紺の背広の若者が、私を見てにやりと笑った。それから、彼はそっと我々の場所から消えた。
 野球帽の管理人は突然大声を上げた。
「いやあ、管理人というのも面白いもんや。でも、わしは管理人じゃない。ごめん、ごめん」
 野球帽の男はかすかに笑った。
「なんですって?」私が言う。
「すまん、すまん。ちょっとまねしただけや。俺はただの通行人や。でもよく似ているらしいわ。前も間違えられた」
「なんだ、人騒がせな」と腹がたったが、でも、「そんなことでもして、気を紛らわせたいこともある」と思った。
 酔っぱらいの二人は、偽管理人にはまったく興味を示さず、ぶつぶつと何かを呟き合っていた。それから二人は立ち上がった。私は偽管理人より彼らの方が気になった。彼らがこれから何をするかが、何となくわかった。
 酔っぱらいは、相変わらず、足をふらつかせ、身体を大きく揺らせながら歩いた。だが、以前よりも少し元気になったようだ。
 私も立ち上がって、酔っぱらいの後をつけるように裏口の方へと向かった。
 どうしてだろう、あの時、何か、予感めいたことでも感じたのか。それとも、酔っぱらいに興味を持っただけなのだろうか? 
 そこまで思い出した時だ。何となく視線を送っていた入口の方で、ひとの動く気配を感じた。恋人が来たのかしら、と思い、眼を凝らして入口を見た。
 違った。彼ではない。まったく別のひとだ。彼はもう来ない、そんな気がした。
 五十歳前後の男が周りを見回しながら入ってきた。なんだか少しおどおどしているようだ。こちらを見ている。
 おや、どこかで見たことがある。男がどんどんとこちらに向かって近づいてくる。私の方は見ないで、ベンチの横の、今日も置かれている金網のゴミ籠をしきりと眺めている。
 ああ、あいつだ。一週間前、この公園で見かけた酔っぱらいの片割れ! 私はさらに彼をじっと見つめた。間違いない。私のすぐ横にいた男だ。服装だってあの時と同じだ。背広のズボンの裾が少し擦り切れている。
 やっぱり来たなと、私は思った。きっと彼が来る、どこかでそう思っていたような気がする。奇遇と言えば奇遇だが、彼がここへ来ることはそう突飛なことではない。あれから今日はまるまる一週間だ。時刻もそう違わない。とすれば、私がここに来たように、彼もまたここに来たって不思議ではない。
 でも、彼は何のためにここに来たのだろうか? それに、どこか落ち着きがなく、あのおどおどとした態度はいったい何? 


 刑事と話し合いが終わると、俺は、すぐに、この公園へやってきた。
 正直、公園や裏通りのことはほとんど思い出せない。だから、刑事には何も言えなかった。
 俺は公園の奥の方を見る。確か、彼と肩を組みながらここに入ってきた。足がふらついていたことは憶えている。俺は酔っている、何とか早く酔いをさまさなければいけないと思っていた。公園の中をあてもなくあちこち歩いた。
「とうとう俺はやっちまったんだ」
 飲み友だちが言った。
「気にするな、気にするな、そんなこと」
 俺は彼が何をやったのかまったくわからなかったがそう言った。それから、「そんなこと、たいしたことではないって」と言った。
 しかし、俺の頭の中には、つい最近自殺した矢谷の、支店長会議での様子がはっきりと思い浮かんでいた。それだけは間違いない。それははっきりと言える。
 あの時、矢谷は席に着くときからおびえていた。
「おい、お前は何年支店長をやっているんだ」
 鬼部長と呼ばれている営業総括本部長が矢谷の前に腕を突き出すと怒鳴り上げた。その一言で、矢谷はいっそう青ざめ、端からでもわかるほど唇が震えた。
「ハイ、前の支店を併せると六年です」
 矢谷は下を向きながら答えた。
「六年と言えば支店長の中ではもうベテランだな。お前、わかっているのか。支店長になってまだ六ヶ月の藤谷の成績の三分の二にも届いていない。これはどういうことだ」
「ハイ」
「ハイじゃわからん」
「ハイ」
「お前の魂胆はわかっている。先月も、先先月も成績はぎりぎりだった。あれは水を入れたんだ。今月はそれがもう限界にきたので吐き出した。そうだろう。お前は、はじめから叱られるのは一度で済ませようという魂胆だったんだろう。だから目当てもないのに水を入れた。違うか」
「ハイ」
 矢谷の額から汗が噴き出していた。俺は何だか自分が叱られているような気になった。
 出席者の顔を見回すと、まあ、俺でなくてよかった、というような顔付きだ。でも、みんな不安そうだ。来月、自分が矢谷の立場に置かれないとも限らない。それに、矢谷は運が悪かった。いつもはノルマの達成できない支店長は三人はいる。つるし上げられるのは三人なら叱られる量は三分の一で済む。あいつだってできなかったのだ。まあいいや、と思える。ところが今月は矢谷以外全員が成績がよかった。就任二年未満の支店長でさえみんなノルマを達成していた。
 矢谷の目はまったく力がない。何を見つめているのかさえわからない。無理もない。かすかに残されている彼のプライドもことごとく崩されていく。
「なあ、矢谷、お前、高校出だろう。支店長で高校出はお前一人だ、これだったら、高校出はやっぱりだめだ。みんなにそう思われるぞ。悔しくないのか」
 矢谷は突然涙ぐんだ。部長、それは言ってはいけない。そう思ったが、何も言えない。俺だったら何と言われるだろう。三流大はやっぱりだめだ、か。そう言えば、部長は東京の一流大出だ。支店長も二年務めたらしいが、社内でもっとも優秀な課長をつけてもらったという話だ。
「上は成績の悪い支店長はさっさと辞めさせろと言っている。私はそれを必死で食い止めているんだ。矢谷、これではもう防ぎきれんよ」
 矢谷は答える元気がない。ただ、うつむくばかりだ。本部長はそれにいっそう苛立っている。もっと、元気よく「来月は絶対いい成績を上げて見せます」と言えばいいものを。
 しかし、これは他人ごとではない、俺の成績も、最近、急激に落ちだした。何だか元気が出ないというか、むなしいというか。支店長、この頃、迫力がなくなりましたよ、と部下に言われた。そんなことを言われるようではだめだ。来月、成績は大幅に上げないとえらいことになる、矢谷のことを思い出しながら、今度は俺か、などと、せっぱ詰まった気持ちになった。そんな弱気な気分になっていたから、今月のような散々たる成績に陥ってしまったのか。何としてでも、成績を上げないと、来月はいよいよ危ない。矢谷の二の舞だ。そんなことを考えているときだった。突然、飲み友だちが俺の肩を叩き、顎をしゃくった。
 見ると、中学生のような少年が金網でできた大きな籠の中のゴミに火をつけていた。金網の籠のゴミは最初は緩やかに燃えていたのだが、やがて、勢いよく燃えだし、黒い灰を高く舞い上げた。と同時だった。まったく予想もしなかったのに、不意に、炎に取り囲まれた藁の塔が思い浮かんできた。積まれた藁の周りが、朱い炎を上げている。
 それは、五年生の時に、勉強も面白くなく、俺たちはみんな退屈していた。東京では学生たちが火焔瓶を投げていたが、田舎では何もなかった。友だちが、おもしろいことをしようと誘いに来て、田んぼに積み上げてある藁を燃やしたときの光景だ。
 夜の九時頃、級友三人で誘いにきた友人の田んぼへ行った。長い竿を軸に藁束が輪状に積み上げられていた。俺たちの背よりかなり高い。低い梯子を掛けて藁を積み上げたのだ。村の人たちはそれを「藁こずみ」と呼んでいた。
 誘った友だちは藁束を三つ引き抜いてみんなに渡した。それから、それの一つにマッチで火をつけ、それを元火に他の二つにも火をつけた。藁束は先からよく燃えた。俺たちはそれを持って、眼の高さのところから火をつけ始めた。「藁こずみ」は乾いていたので、火のついた藁を押し付けるとすぐに燃え始めた。めいめいがぐるっとひと回わりすると、火は、塔の胴の真ん中より少し高いところから燃えだした。俺を誘った友だちは屋根のようなところの端にも火をつけてまわったので、「藁こずみ」の頂上は、周りに飾りをつけたように見えた。俺たちは顎を突き出して藁の炎を見た。
 藁は少しの風でも、仁王の目のように真っ赤になる。火の残っている灰が蛍のように舞う。火花が花火のように散る。炎が何千本のろうそくのように上下左右に揺れる。すごい、すごい、と言い合った。火力が激しく、近くにいると身体が熱くなった。だから、少し遠ざかって見た。
 炎は垂直にのぼり、辺りは真っ暗なのだが、田んぼの真ん中だけが明るく、真っ赤な尖り帽子の塔が闇の中にくっきりと浮がび上がった。俺たちが火をつけたんだと思うと、悪いことをしたというより、俺たちもこんなことが出来る、という自信のようなものを感じた。炎が自分たちの力のようにも見えた。
 誘いに来た友だちの言葉も甦った。
「おばあちゃんが言っていたのだけれど、火というのはな、眼に見えない火の精の子供が元気いっぱい暴れ回っているんだって。その精の子供が出す息が熱いので火は熱いのだって」
 その後のことは何も憶えていない。思い出せるのはそこまでだ。
 俺は金網の中で燃える紙を見ながら、夜空にくっきりと輪郭を現した藁の塔、それを取り囲む朱色と黄色の炎。どんどんと落ちていく火花。そんな光景を何度も思い浮かべた。
 と、そんなと時だ、ひょろっとした少年が言った。「おい、逃げろ、管理人がやってきたぞ」と。
 少年、少女たちはいっせいに公園から逃げ出した。
 また、逃げるとき、先頭の少年が大声でどなった。「今度は聖火競争だぜ」。それに唱和するように、後に続いた子供たちは叫んだ。「それがいい」「それがいい」と。
 俺は、少年・少女たちのことが気になってしかたがなかった。彼らは何をやるつもりなのか。きっと、火に関わることをやるに違いない。それに、彼らが火の精のように生き生きとして元気がいい。飲み友だちに言った。「彼らを見に行こうよ」と。
 そう、今こうやっていると、公園の少年・少女たちの様子や、「藁こずみ」の燃える様子が甦ってくる。えらいものだ。実際にここに来てみると、やはり少しは思い出せるものだ。
 それで、俺は、すぐさま、裏出口を出て、少年・少女たちを追ったのだ。
 だが、彼らの動きはすばやく、俺たちが裏通りに行ったときには、彼らはいなかった。でも、きっと、彼らはここへ戻ってくる、そう思った。それで、裏通りの倉庫の辺りで座り込んでいたように思う。
 だが、その後のことはおぼろげだ。彼らはやって来たことは確かだ。俺は彼らのすることを見た。確かにそこでも炎を見た。その炎も美しかった。それから、公園と同じように、彼らの元気のいい歓声も聞いた。火事も見た。炎が、どんどんと上がり、子供の頃見た、あの「藁こずみ」の炎の何倍もの迫力を感じた。
 でも、それ以外のことが曖昧だ。それに、俺が何かに火をつけたようにも思う。まさか、あの廃屋に火をつけたわけではないだろう。では何に? よくわからない。
 ようし、今度はそこへ行ってみよう。きっと、何かを思い出せるに違いない。
 俺は、あの時と同じように、裏通りの方へと向かった。
 両側に石が置かれている出口のところへ来た。背後で何か動く気配を感じて後ろを振り返った。広場からこちらに通じている道のところに、黒いズボンをはき、赤い中ヒールの女が立っていた。おやっと思った。一週間前にもあの女はいた。彼女は、毎日、ここに来ているのだろうか。髪の毛はカールされていて長く、風にそよぐときっと美しいだろう。何だか俺が振り向いたことに少し驚いたようだ。
 だが、ただそれだけだった。俺はあわてて裏出口を出た。出たところは、古い長屋が道路に沿って並んでいる。その向こうにはこれも廃業した銭湯の煙突が薄闇の空を背景に立っている。
 俺はそれらの前を通りすぎて、使われなくなっている倉庫群のところまでやってきた。アスファルトもところどころで窪んでいるような道路を挟んで、倉庫の左側は金網に囲われた空き地になっている。それの道路側の端の方に焼けこげた柱や壁が残っている。あれが火事を起こした建物だ。
 空き地には刈られた短い草がまるで芝生のようになっている。あの時は、刈り取られた草が塊のように集められていたが、今はそれが取り除かれている。
 街灯が一つ、力なく辺りを照らしている。
 あの時、辺りを見回しても、少年・少女たちがいなかったので、金網の前の倉庫の塀に背をもたせかけて、地べたに足を投げ出した。
 突然、騒がしい声が聞こえた。やはり来た。俺の思ったとおりだ、と思った。そうだ、最初は、少女が二人現れ、金網側と倉庫側に別れて立った。手を突き出して、ちょうど走ってくるマラソンランナーへ水のボトルを手渡すような格好で、腕を少し上げた。そこには灯されたライターがあった。小さな火だがよく見えた。炎が少し風に揺れて、ときどき消えそうになった。それから、公園にいた少年たちが二組、自転車に乗って現れた。片手をハンドルに、片手には棒状に丸めた新聞紙を掲げている。少女たちの近くに来るとブレーキをかけた。新聞紙を突き出す。紙先に火をつけてもらうと、すぐにそれを下にして、炎が紙によくうつるようにしながらこちらに向かって走ってくる。新聞紙の棒はよく燃え出す。きっと油に浸されているのだ。自転車に乗りながら、聖火ランナーのような格好をする。炎は闇の中で白っぽく燃える。火を使って面白い遊びを考えたものだ。
 自転車を止めると少年は大声で叫ぶ。
「俺の勝ち、俺の勝ち」
 少年は新聞紙の棒を金網を越えて広場に投げ入れる。炎は人魂のように尾を引いて、枯れ草の上に落ちていく。遅れてきた少年も同じことをする。
 一瞬、広場がぱっと火の海になったように思う。黄色と朱色が勢いよく燃え上がる。
俺は声をなくしてうっとりと眺めたように思う。お酒のせいで熱くなっていた身体の芯がさらに熱くなり、嫌なことが一気に除かれたようにも思った。飲み友だちを見ると、目を細めて、落ちた新聞紙を凝視していた。飲み友だちが先に立ち上がったのか、それとも俺が先だったのかわからない。とにかく、二人は立ち上がり、金網の中へと入っていった。火は辺りの枯れ草にうつり、炎は土の上を這い出したようにも思える。それとも、何もなかったのか? 頭も熱くなっていて、ますます朦朧としていたように思う。ただ、俺は、先ほど少年が放り込んだ新聞紙を持って、廃屋の方へと歩いていったことを憶えている。そして、それをつかって何かに火をつけた。何に火をつけたのだろうか? まさか、廃屋に? 俺は必死で、その後のことを思い出そうとする。


 私は、あの時と同じように、酔っぱらいの片割れの後をつけて、公園の裏通りへやって来た。 
 片割れは焼け落ちた工場の廃屋が斜めに見えるところまでやって来ると、怖ろしいものでを見るように、少し後ずさりして、倉庫群のブロック塀のところまで帰り、対面の枯れ草の広場をじっと眺めている。いったい、何を考えているのだろう?
 私は、草原よりも、屋根がなくなり、上の方が黒い柱だけになっている家の焼け跡の方が気になる。何だか、もう一度確かめてみたい何かがあるような気がして、それをじっと眺めた。
 まだ、建物の黒くなった柱ががかろうじてたっていて、それらが朱色の炎に包まれていたときのことが甦った。
 炎はけっして同じ調子で窓や屋根の隙間から吹き出すのではない。黒い煙がまず湧き出てきて、次の瞬間に、爆発するように炎が吹き出す。ただの廃屋なのに、残っている最後のエネルギーを皆に見せつけるように激しく燃えた。今、それを思い出しただけでも、心の底が熱くなる。
 私は電柱の陰に隠れるように佇みながら、しばらくの間、あの時の燃えていた光景を思い描いた。炎は最初は一つの窓からだったけれど、そのうちにあらゆる隙間から炎が吹き出し、屋根もゆっくりと崩れた。黒煙と白煙が、雲のように出てくると、その後で、炎がそれらを吹き飛ばすように飛び出てくる。と同時に、火花が下に散る。それを何度か繰り返されたとき、鋭い音をたてて、横壁が倒れ、遠くの方まで炎の木片が散った。
 私は、それらの光景を繰り返し思い描いた。身体の底がますます熱くなった。と、それが原因のように、バッグを開き、携帯を取りだした。
 自分でも驚くほどスムーズに、恋人の電話番号を押した。番号はすらすらと出てきた。まるで毎日押しつづけていたように。あいつ、電話番号は教えないと言ったが、私はちゃんと知っている。まだ一度も掛けたことがないけれど、番号は暗記していた。彼は馬鹿な男だ。ホテルで彼がシャワーを浴びているとき、彼の携帯なんてすぐに見つかる。
 携帯は繋がった。彼が出た。だがしばらく黙っていた。辺りから何か聞こえないか探ったが、何も聞こえない。
「私よ」
「ええ? 誰?」
 私は自分の名前を名乗った。彼は戸惑っていることがわかる。
「えっ、どうして電話番号が?」
「そんなことどうだっていいわ。ねえ、大事な話があるの」
「ごめん、電話をしようと思っていたんだ。でも、その暇がなくって。突然、また、仕事が入ったんだ。今日もまただめ。この埋め合わせはきっと……」
「そんなこと、どうでもいいの。最初からわかっていたことだから」
「何だって?」
「先週も来なかったし。今日も同じよ」
「ええっ、そんなこと! ちょっと待ってよ」
「でも、今日はいつもと違う。大事な話があるの」
「ごめん、本当にごめん。でも、今、電話が掛けられる状態ではないのだが」
「そんなのだめよ。大事な話なんだから、真剣に聞いてよ。聞いてくれないのなら、あなたの家に電話して、奥さんに聞いてもらうわ。家の電話番号だってちゃんとわかっているのだから。奥さんの名前は恵美さんよね」
「おい、困ったなあ、仕事なんだよ、本当に。じゃ、ちょっと待って、一分でいいから」
「ええ、いいわ、一分なら」
 恋人は近くの人に何かを喋っている。それからしばらく無言が続く。私は少し興奮する。
 携帯を耳につけながら、先ほどからは酔っぱらいをただ横目でちらっと眺めていただけだったが、今度は彼を注視した。
 酔っぱらいは金網の方へ行く。金網の扉を揺すっている。鍵が掛かっているので中には入れない。彼は首を何度もかしげている。そうよ、鍵はきっと火事があってから後で掛けられたのよ。あの時は扉が開いていて、中には誰でも入れたの。
 一週間前、あなたたちはその中に入って行った。それから、投げ込まれて、まだ燃えている新聞紙を持って、少しだけ廃屋の方へ近づいた。そこに干し草が集められている。それを燃やそうといろいろやっていた。でも、それらはうまくいかず、かすかな煙を上げただけで消えてしまった。新聞紙の火も消えた。本当に残念そうな顔をして、あなたなのか、もうひとりの連れの男なのかわからないけれど、ポケットを一生懸命探っていた。手が意のままにならないのか、なかなかポケットの中に入らなかった。だけど、諦めなかった。ようやく、ライターを見つけたらしい。それで枯れ草に火をつけた。枯れ草は相当乾燥していたのか、小さな炎を上げた。あなたたちはそれを見て、うれしそうな顔をした。笑顔に炎の明るさが反射して、お互い、笑い合っていた。でもそれだけ、火はけっしてそれ以上には広がらず、ただの小さなトンドのように燃えていた。
 あなたたちが枯れ草の炎を見ているときだった。突然、廃屋の脇の扉を開いて男が一人現れた。まるで西部劇の保安官のように。私にはその男が建物の中で何をしていたのかが咄嗟にわかった。でも、あなたたちは、何も見ていない。男は、私が彼を見ているのに気がついたようだ。だが、まったく動じる気配はなかった。私を見てにやりと笑った。突然だったので私もにやりと笑い返した。そのとき、男の顔をはっきりと見た。だが、今思い返そうとしてもまったく思い出せない。男の顔は何の特徴もない平凡な、まるで、みんなの顔を寄せ集めて、平均したような顔だった。ハンサムでもないし醜くもない。眉毛も眼も口もあるのにのっぺらぼうな顔。金属でできた鏡のような瓜実顔。暗くて見えなかったわけではない。その証拠に、服装ははっきりと憶えている。背が高くて黒っぽいほどの濃紺の背広を着込んでいて、褐色のバッグを抱えていた。だが、顔だけはのっぺらぼう。
 男は、路上に出ると、建物の方を振り返り、しばらく佇んでいた。煙が出てきて、家の窓から炎が勢いよく出始めると、満足したようにまたにやりと笑い、それから、風のように公園の方へと走っていった。私も、眼差しだけで彼の後を追った。
 そんなことを思い出しながら、私はまた、酔っぱらいの片割れを見る。彼は、倉庫の方へ帰ったり、金網の前へ行ったり、落ち着きがない。
「待たしてすまなかったなあ。で、どういうこと」
 恋人の声が帰ってきた。
「ねえ、あなた、私といっしょに逃げて」
 私は言った。
「何だって? 逃げるって? どういうこと?」
「そう。私、子供ができたのよ。もう六か月、堕ろせないわ」
「そんなの、君」
「お金は十分に用意できるの。あなたといっしょに暮らせるくらい。絶対不自由させないから。ねえ、お願い」
「おい、どうしたんだよ、まったく。気が変になっちまったのか」
「正気よ。大丈夫よ、五億よ。あなたがこれから一生こつこつ働いても、それだけの金は手に入らないわ。あなた、よく言っていたじゃない、毎日、嫌な上司にこき使われて、家に帰れば嫁さんに小言を言われ、ご苦労さんの一言も言ってもらえないって」
「……」
「逃げようよ、こんな世の中、犯人引き渡しのない国を調べてあるわ。ちょっと賄賂をやればけっして強制送還なんかされないって。私、引き出す自信があるの。絶対間違いないって」
「おい、そんなこと、電話で言える話じゃないだろう」
「だめよ、私、決心したの。あなた、今、決心してよ。だめと言うなら私、覚悟がある」
「覚悟って?」
 私は話しながら、金網の前の片割れに視線を送る。何を考えて、あんなに行ったり来たりしているの? 自分たちが放火したとでも思っているの? おかしくなる。大丈夫よ、放火をしたのはあなたたちではないわ。私は見ていたのだから。あなたたちは放火なんかできっこない。せいぜいお酒を飲んで大声を出せるぐらいよ。
 あの時の焼ける家の光景が、今、また、目の前に浮かんでくる。いくつかあったすべての窓から煙といっしょに炎が吹き出す。辺りがきつい照明に照らされる。
「おい、どうしたんだ。覚悟って何だよ」
「だから、覚悟よ。そんなことわかんないの」
「わかんないよ。君、たいへんなことを言っているんだよ」
「そうよ。たいへんなことを言っているの、わたし。わかったわ、あなたの本心、逃げる勇気はないのね」
「当たり前じゃないか、そんなの」
「じゃ、お腹の中の子供はどうしてくれるのよ」
「……」
「女房がいることをわかって付き合っていたんじゃないのか。今更そんなことを言われても、と思っているんでしょう。そうは言わせないわ。女心はかわるのよ」
「……」
「私は覚悟は決めた。あなたも覚悟を決めてよ」
「とにかく、そんな大事なこと、電話では話せないよ。明日、会おう」
「わかったわ、明日ね、いいわ。いつもの時間、いつものところでよ」
「ああ、それまでに冷静になっておいてくれよ」
「ええ、いいわ、私はいつも冷静なんだから」
 電話が切れ、闇が深まったように思った。
 私は携帯を折りたたみ、バッグの中に入れた。誰が会ってなどやるものか、と思った。
 それから、再び、ちらっと酔っぱらいの片割れの方を見た。もう、右往左往していなかった。金網のフェンスの縁を掴みながら、焼け落ちた建物を食い入るように眺め、何事かぶつぶつと言っていた。「わかったぞ。俺はこの家に火をつけたんだ、俺はれっきとした放火犯だ」とか、「俺は火事が大好きだ、みんな、みんな燃えちまえ。書類なんかも燃えちまえ」とか、「あんなやつなんかもう怖くない。鬼部長なんか死んじまえ」とか、私には何のことだかわからないが、薄闇の空でその言葉は元気よく跳ねていた。
 私は、もう一度、焼け落ちた建物をじっくりと眺めた。
 黒くなった柱は、山火事で焼け残った木々のように空に向かってそれ自身を鋭く突き刺していた。さらに、その上で、なんだか、大きな蝶の大群のようなものがひらひらとしていた。ああ、あれは、手記の女が銀行から引き出した何億ものお金だ。それが、私の頭上で炎の破片となって美しく舞っているのだ。
  了

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