油まみれの厨房の奥に、壁に沿わせて小さなテーブルが置かれている。壁には「手を清潔に」と大きな文字で書かれた貼り紙があり、その上の棚には箸や紙ナフキンの入ったダンボール箱が積み上げられている。香奈はテーブルに湯気の立つチャーハンを置くと、折りたたみの椅子を広げて貼り紙と向かい合わせに腰かけた。
ランチタイムのあわただしさがひと段落すると、どっと疲れが押し寄せてきた。まかないのチャーハンを前にしても食欲が湧いてこない。慣れない仕事はくたびれる。でも、早く食事を済ませて他のアルバイトの人と交代しなくてはならない。
「ここ、いい?」
チャーハンを手にした桜木が香奈の隣に椅子を並べた。
「どうぞ」
「毎日ラーメン屋のまかない食べるの、つらいでしょ」
桜木は口角を下げておどけた表情で言いながら、頭に巻いていたバンダナを外す。朝つけていたはずの化粧が、昼時の忙しさで全部取れてしまっている。四十代に見える桜木の顔は、シミはあっても目鼻がはっきりとしていてきれいだと香奈は思う。何本か長く白いのが混じっている桜木の髪が、バンダナを失ってフワフワと煙のように立ちあがる。
「どう? 仕事慣れた?」
「いいえ」
香奈が即答すると桜木は苦笑した。今日のランチでもラーメン鉢を一つ割った。先週からここのパートに来はじめて、割った鉢は三つにもなる。
「私も最初は失敗ばっかりやったよ。せやから、滝井さんもしばらくは気にせんことね」
ホールチーフの桜木は、店長と一緒に面接をしたので香奈の事情をよく知っている。子どもを連れて離婚したばかりだということも、面接のときに自分から話した。息子が熱を出したときは仕事を休ませてもらいたいというのが、なによりの希望だった。これまではどこの面接官もそう告げただけで、急に面接を打ち切った。しかし、桜木は逆で、子どもの年齢や名前などを立て続けに香奈に質問した。
「職探し、ずいぶん回ったんでしょ? 私も離婚したてのときに何ヶ月も毎日、履歴書を書いたのよ」
店長を押しのけてそう話し続ける桜木の人懐っこい笑顔に救われた気がした。かつて同じ境遇にいた人が、今は仕事にありついている。その姿を見ることができただけでも、この面接に来て良かったと思った。
桜木は、できることなら結婚前と同じ事務職に就きたいと思っていたけれど、小さい子を抱えての再就職はやはり難しかったと言った。それは今の香奈も同じだった。十数件の事務職の面接に出向いたが、いい返事はひとつももらえなかった。現在三十歳で、五年間専業主婦だったこと、パソコンも長く触っていないこと、資格は特に持っていないこと、三歳の子どもとの二人暮らしであること。不採用にされる条件が揃いすぎている。貯金を切り崩す一方の香奈が、これ以上、悠長なことは言っていられなかった。
息子の遼太郎を通わせはじめた保育園から自転車で十分ほどのところにあるラーメン店は、桜木が後押しをしてくれたのか採用となり、店長は明日からでも働きにおいでと言ってくれた。アルバイトは学生も含めて二十人近くいるので、急な休みも取ることができると説明された。近所に中小企業が多い立地のラーメン店はお昼時、目が回るほど忙しかったが、長い求職期間の心細さを思うと、働くことで感じる疲労感すらありがたかった。
「ご両親はお近く?」
横並びで食事を摂っていた桜木が聞いた。
「いえ、仙台です」
「それは遠いねえ」
父親は、小学生のころに亡くなっている。仙台の兄のもとで暮らしているのは、母親のことだ。
「そばに親がいるのとそうでないのとで、シングルのきつさが違ってくるよねえ。あたしの友達に離婚して親元に帰ったら保育園の送り迎えから食事の世話まで全部してもらえるようになった人がいてね、それまで仕事は子どもの風邪やなんかで休んでばっかりやったのに、離婚して残業まで出来るようになったもんやから出世したのよ。離婚で出世。ええよねえ」
「いいですねえ」
二人して空気のもれるような笑い声を上げた。桜木に、ご両親は? と聞こうとしたがやめた。もし親を頼れる環境なら、ええよねえ、とは言わないだろう。
「うちはなんと子ども三人」
「ええっ」
驚く香奈の顔を見て、桜木は得意げに顎を突き出した。
「今、中一と小四と五歳。離婚したころはまだ一番下がオムツはいててねえ。おんぼろの市営住宅で、目が覚めると子どもがゴロゴロ三人も横にいて、自分の子やのに夢じゃないかとびっくりしたりして」
桜木が屈託なく笑ったので、香奈も笑った。でも、本当は笑えない毎日なのだろうと想像した。桜木は社員とはいえ、そんなに高収入だとも思えない。それでも多少収入があれば児童扶養手当は減額される。その中で子どもたちの衣服、食事、学費をやりくりするのは、大変なのではないだろうか。
「あの、養育費は」そう口にしてから、失礼だったのではないかと思ったが、桜木はあっさりと「そんなもん、ないない」と手をひらひらさせた。
「滝井さんは?」
「いえ、話し合いもろくに」
「先は長いよ。あたしの周りは裁判に持ち込んで話つけてるわ。ただし、ずっともらえるかどうかは疑問やけど」
何気なく桜木が言う裁判、という言葉に、見透かされた気がしてどきりとする。
先日、差出人の住所だけが印刷された封筒が届き、開けると中身は家庭裁判所からの「呼出状」と書かれた紙切れだった。呼出状には「親権者変更調停申立事件」と漢字ばかりが並んでいて、申立人山下圭介、相手方滝井香奈、とあった。離婚の際には親権者は母親ということで納得しあったはずなのに、あれから三ヶ月が経った今ごろになってこのような申立をしてくることに腹が立った。不器用ながらも香奈なりに子どもへの愛情があることは圭介もわかっているはずだ。だからこそ、仕事で家に帰ってこない圭介より、香奈のそばで育つほうが遼太郎も幸せだと親権者を決めたはずだった。
でも、もし裁判所という場所で、香奈のこれまでの子育ての様子を赤裸々に語られたら……。母親失格と烙印を押されたら……。そうしたら遼太郎を引き渡すことになるのだろうか。そう考えただけで、胸がしめつけられる。
「どうしたん?」
知らないうちに深刻な表情をしていた香奈の顔を、桜木が覗き込む。
「あの、面接のときにも言ったんですけど、来週の水曜日、ランチ終ったら上がらせてもらいます」
きっぱりとした口調で香奈は言うと、目をつぶってチャーハンをかき込んだ。
第一回目の調停期日が来週の水曜日に迫っていた。
呼出状には小さな字で、「正当な事由がなく出頭しないときはあなたに不利益があります」と書いてあった。
五時前にグラスを落として割ってしまったので、片付けていたら定時を回り、香奈は保育園まで立って自転車をこいだ。やっと遼太郎に会えると思うと胸が高鳴る。初冬の冷たい風が頬をたたく。信号待ちのとき、冷えた耳を両手であたためる。保育園にたどり着くと、守衛の老人が重そうな門を開けてくれた。
子どもたちが走り回っている園庭を見渡し、その中から草むらでしゃがみこんでいる遼太郎を見つけた。駆け寄っていこうとしたところで、担任の保育士が香奈に声をかけてくる。
「おかあさん、今日はお熱あがりませんでしたよ」
話し声が聞こえたからか、遼太郎が振り返って香奈を見つけた。
「ママア!」
手にしていたスコップを放り出して、遼太郎が香奈に抱きついてくる。ただいま、と言って香奈は息子を抱き上げる。
「咳は大丈夫でしたか?」保育士に香奈が聞いた。
「はい、今日は落ち着いてました」
喘息の持病がある遼太郎は、保育園生活が始まってしばらくは毎日のように熱を出し、夜はしょっちゅう咳き込んだ。このところ少し落ち着いてきたような気がするのは、最近始めた吸入治療のおかげかもしれない。
食べこぼしや泥で汚れた服をビニールバッグに詰め、遼太郎にジャンパーを着せて保育園の門を出た。自転車の子ども用椅子に一旦は座らせたものの、遼太郎は降りたいと言って何度も立ち上がる。のけぞって落ちそうになるのでしかたなく降ろすと、右へ左へとふらふら歩きはじめた。道端の草を眺めたり、飛んでいる飛行機に手を振ったりする。香奈は自転車を押して歩きながら、家の冷蔵庫の中を思い出す。ひき肉を解凍してあったから今夜はハンバーグにしよう。半端な野菜でスープを作って、ツナ缶はサラダに使おう。食の細い遼太郎も、このメニューなら食べてくれそうだ。あれこれ段取りを考えていると、時間が気になって苛立ってくる。
「遼太郎、早く歩きいや」
しかし遼太郎は草の中に手を入れて、ムシさんムシさん、と言っている。
「わかったからさっさと進んでや」
しゃがみ込んで虫をつかまえようとする遼太郎の肩を、香奈は引っ張って歩くように促すが、遼太郎は頑として動かない。それどころか、引っ張られたことが気に入らなかった遼太郎は、他の自転車や通行人が通る道の真ん中で寝っ転がって抗議する。
「何してんのよ! もう! はよ来なさい!」
自転車を停め、遼太郎の両脇を持ち上げて無理やり自転車に乗せると、大声で泣き出した。肉付きのいい腕を振り回し、わんわん叫ぶ子どもを通りがかりの人たちが振り返って見ていった。
帰宅すると、一旦落ち着いた遼太郎は、今度は夕飯づくりを手伝いたいと言い出した。香奈はいいよ、とハンバーグのたねを一握りラップに包んで渡す。そのたねと格闘してくれている間にサラダの用意をしようと考えていた。ところが振り返ると、遼太郎はラップから取り出したミンチを床に塗りたくっている。
「やめて! 食べ物で遊んだあかんっていうてるやろ!」
かっとなって思わず叩きたい衝動に駆られるが、こらえた。水道の蛇口を開け、強引に抱き上げて手を洗わせると、遼太郎はまた泣き出した。いつまで泣くねん! うるっさい! 香奈は遼太郎の泣き声にまぎれて大声を出す。もう叩かないと決めているが、かといって猫なで声も出す気になれない。遼太郎はいつまでもぐずっている。
――母親やねんから、泣き止ませてくれよ。
ふいに、夫だった圭介の声が蘇った。頭を振って目をしばたたかせる。だめだ、へこみそうだ。へこんだら晩ごはんが作れない。洗面所のほうから洗濯機の終了ブザーが聞こえてきた。
香奈は泣き止まない遼太郎をとなりの部屋に放り込み、乱暴にアニメのビデオを再生してふすまを勢いよく閉めた。最初は聞こえていた泣き声が、次第に小さくなっていく。ビデオに夢中になりはじめたのだろう。知らないうちに香奈は冷や汗をかいていた。耳鳴りもかすかにしている。過呼吸の前触れだ。薬を飲み忘れていた。慌ててカバンをひっくり返し薬袋を探した。ずいぶん良くなったとはいえ、過呼吸症が完全に治ったわけではない。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、フライパンに油を落として、形を整えたハンバーグのたねを並べていく。
産後うつだとか育児ノイローゼだとか、過呼吸を引き起こした病名はそんなところだと医師は言った。最初のころはいつ発作が出るのかわからずスーパーのレジに並ぶのも怖かったが、合う薬が早くに見つかったおかげで今は飲み忘れさえしなければ日常生活に支障はない。ハンバーグにふたをして火を弱めると、ダイニングチェアに腰掛けて薬が効いてくるまで慎重に息を繰り返した。慌てて息を吸い込んだりしたら、それだけで発作が起こる。発作はまるで水におぼれていくようだった。吸っても吸っても息ができない。でも本当は、吐くことができていないだけらしかった。
「大丈夫ですよ、どんなに過呼吸になっても、本当におぼれてるわけじゃない。絶対に死にません」
救急車で運ばれた病院でそう言われたとき、香奈は泣いた。息ができず、全身が震えてどんなに気が動転しても、それでも死ねないのかと思うとつらかった。
治療が始まった最初のころは座っているのもつらくて、泣きじゃくる遼太郎の横で一日、寝そべっている日もあった。それでも家事はたまっていく一方なのでベッドから這い出してなんとか動いたが、そんなとき遼太郎がごはんを手でこねてみたり、お風呂がいやだと泣いたりすると、香奈は心が冷たくなって、手を上げた。
最初は、遼太郎の頬についた埃を払うほどの力だった。それが回数を重ねるごとにどんどん強くなっていった。ぶたれた遼太郎は一瞬きょとんと驚いたような目をして香奈を見る。そして前よりひどく泣き始める。香奈は毎回落ち込んだ。私は何をやっているのだろう。
手を上げてしまったとき、なぜかいろんな思い出が頭を駆け巡った。バスケット部で練習に励んだ中学高校時代。仕事も遊びも楽しんだ製薬会社のOL時代。同僚たちの憧れだった営業部の山下圭介との新婚時代。いつも香奈は生き生きとしていた。それなのに今はどうして、子どもに手を上げるような母親になってしまったのだろう。
ある時、手を振り上げると遼太郎が首をすくめた。叩かれることがあらかじめわかるようになっていた。その表情を見て、今のうちに止めなければ心の傷になってしまうと恐ろしくなった。離婚の話が進んで、母子で暮らすアパートを契約したころだった。これからは遼太郎と二人きりで暮らしていくのだから、自分で叩かないと決めない限り誰も止めてはくれない。香奈は、もう絶対に手を上げないと決心した。
それでも、大して優しい母親にはなれない。食事も風呂も、三歳の遼太郎は大人の思うようには動かない。香奈は毎日叱りつけながら世話をする。夕方、保育園に迎えに行くときは顔が見たくて浮きたつ気持ちが、会った直後から苛立ちに変わっていく。遼太郎も一日保育園でがんばって疲れているのだからと頭ではわかっているのに、ほほ笑んでやることすらできない。
台所の片付けはまだ残っているが、九時を回ってしまったので先に遼太郎を布団に入れて、絵本を開いた。一日中、相手をしてやれないぶん、寝かしつけに絵本を毎晩、読むことだけ続けていた。読むといってもまだ写真や絵を眺めるばかりの本だ。先週、図書館で借りてきたのは「そらのふしぎ」というタイトルだった。ページをめくると、きれいな夕焼けや光る雷の写真があった。雲にもいろいろな形があって、うろこ雲、入道雲、ヒツジ雲とそれぞれカラー写真つきで紹介されていた。
「これがヒツジ雲。ヒツジさんみたいにモコモコしてるから、ヒツジ雲ていうんや」
香奈がそういうと、遼太郎は短い指で絵本をつっついた。
「ねえねえひつじたん、ねえねえひつじたん」
「メエメエ? メエメエヒツジさんのこと?」
「ねえねえひつじたん! ねえねえ!」
赤くぽってりした唇が、同じ言葉を繰り返す。遼太郎はそう言いながら、パン生地のようにきめの細かい頬を香奈の頬にくっつけてくる。そんなとき、香奈はうろたえる。怒ってばかりの母親なのに、子どもはそれでも甘えてくれる。
遼太郎が大きなあくびをした。もうすぐ寝てしまうのだろう。
今日もいっぱい叱ってしまった。このままこの子は今日一日を終えるのかと思うと、香奈は申し訳ない気持ちになる。
「遼太郎」
香奈は遼太郎のやわらかい髪をなでた。遼太郎は嬉しそうに笑った。頬を撫でると満足そうに目を閉じ、ママアと抱きついてきた。お風呂上がりのいい匂いがした。早く寝なさい。そう言いながら、香奈はぎゅっと小さい体を抱きしめた。
「かあさん、寝てた?」
夜、遼太郎が眠ると、ダイニングチェアに腰掛けて携帯電話を握る。電話の相手は仙台に住む母だった。兄の家で暮らす母の唯一の所有物の携帯電話は、何時にかけても出てくれる。これだけが、親子のつながりだった。
「起きてたよ。どう? 香奈も遼ちゃんも元気やの?」
父を亡くしてから、母は昼も夜もパートを掛け持ちして、休日は家事に一日中、追われていた。母はいつも不機嫌だったし疲れ果てていて、香奈は甘えた記憶がない。時折、思い出したように抱きしめてくれたが、それ以外の時は目も合わせずに黙々と家事をしていた。それでも母が好きだった。今、思うと不思議だった。なぜあんなに好きだったのだろうと最近よく考える。遼太郎も昔の香奈のように母親を慕う。子どもは何の理屈もなく、母のそばにいたいと思う。
「仕事はどう? 無理したらあかんよ。遼ちゃんは保育園、楽しく行ってる?」
母が脳溢血で倒れ、長い入院生活のあと仙台に住む兄夫婦に引き取られていったのは、遼太郎が生まれる前のことだ。昔は無口で、優しい言葉などかけてくれなかった母だったのに、遠くに離れてからは香奈のことを穏やかな声で気遣うようになった。兄夫婦と孫二人に囲まれて、やっと労働から解放された母は、新しい環境で適応できるよう生まれ変わったようだった。香奈は、何とかやってるよ、と努めて明るく言う。それよりかあさん、体はどう? いつも同じ会話をする。携帯電話越しの母の声を抱きしめるように、香奈は椅子の上で膝を抱え、電話を両手で包み込む。視線を上げると、立派な食器棚にぶつかった。六畳の和室と同じ広さの台所、その横に風呂場とトイレしかない古めかしいアパートなのに、冷蔵庫やダイニングセット、食器棚はどれも大きすぎて不釣合いだ。離婚の際に、実家に戻る圭介が、家具や電化製品は何もいらないと言い、ほとんどのものをこのアパートに運び込んだ。
「ほら香奈ちゃん、もうそろそろ切らな、電話代、高こつくよ」
うん、それじゃ。そういつものように香奈は言う。母は香奈の離婚の原因も、これから調停が始まることも何も知らない。兄のところで世話になり、そう簡単に香奈や遼太郎の顔を見に来ることもできない。香奈もとてもじゃないが仙台まで遊びに行くのは難しい。だから、心配はかけたくない。
「香奈、体だけは、大事にしなさいや」
母が言えることはそれが精一杯なのだと香奈にはわかっている。かあさんも、と香奈も言って、電話を切った。
――かあさん、私、つらいねん。
電話をテーブルに置いて、まだ膝を抱えた姿勢のまま、香奈はそう呟く。これから私、やっていけるんかなあ。遼太郎を一人で育てられるんかなあ。かあさん。かあさんも不安やったでしょう? 私は、育てられるかどうかも不安やねんけど、もし圭介が親権をとったらどうなるんやろって。遼太郎と離れ離れになったら、私、生きていけるんかなあって。でも本当は、遼太郎にとってはどっちが幸せなんやろ、かあさん。
ランチの客がひいてくると、お先に失礼しますと声をかけて、まかないは取らずに更衣室に入った。手早く桜色のツーピースに着替えて化粧を直し、レジ横のタイムカードを押した。
ちょうどレジのレシート用紙を入れ替えていた桜木が「スーツ、決まってるやん」と香奈に声をかける。なにかを言いたげな表情の桜木に、
「職探しじゃないですよ」
と念のため香奈は答える。
入り口のチャイムが鳴り、数人の客が入ってきた。いらっしゃいませと桜木が明るくよく通る声で言う。おタバコはお吸いになられますか? 背筋を伸ばして接客をする桜木ともう少し何か話したかったが、頭を一度下げただけで店を出た。
電車を乗り継いで最寄の駅に着き、改札を出ると看板の矢印にしたがって長い階段を登る。大通り沿いの坂道を上ったところに大きなグレーの建物があり、正面入り口に家庭裁判所と書かれている。
自動扉を開けて中に入ると、受付に座っていた警備員に呼出状を見せて調停室への行き方を聞いた。教えられたエレベーターホールまで行ったが、時計を見るとまだ二十分ほど前だった。
どうしようかと思って振り返ると、エレベーターホール横にガラスの扉を見つけた。扉の向こうは外につながっているようだ。時間つぶしのために香奈は扉を押し開けてみた。そこは中庭のようだった。背の高い家裁の建物が庭をぐるりと囲む形で建っている。見上げると、窓の半分に白いブラインドが下りていて、残りはどの階も廊下になっているようで歩く人がちらほら見える。建物に切り取られた頭上の青空に、ヒツジ雲が並んでいた。ひつじたん。ねえねえひつじたん。遼太郎の舌たらずの声が聞こえてきそうで、香奈はひとりほほ笑んだ。
中庭の中央にあったデッキチェアに腰掛けた。周りには低い植栽と、こんもり葉のついた大きな木が数本、行儀よく並んでいた。今日はいくぶん暖かい気がする。スーツのジャケットを脱いで、ブラウス姿になった。お宮参りで着た桜色のスーツだ。圭介に似合うとほめられたことがある。これを着てきたら、圭介はきれいだと思ってくれるのではないだろうか。今さらそう考える自分が不思議だった。
中庭からエレベーターホールに戻り、ボタンを押すとすぐ扉が開いたので乗り込んだ。扉が閉まりかけたとき、顔つきや背格好のよく似た年配の団体が流れ込んできた。
「昔から姉さんはあんな人だったよ」
乗ってくるなり団体の誰かがそう言って、面白くはなさそうな笑い声が箱の中に充満する。こんなところにみんなを呼び出して、父さん草葉の陰で泣いてるよ、としゃがれた声の老婆が言う。裁判所なんて、一生お世話になりたくなかったのに、とまた他の誰かが言いながら、途中の階で扉が開くとまとまって降りていく。
警備員に教えられた係にたどり着き、書記官という人にすぐ横の調停室に案内された。調停室の大きな窓からはヒツジ雲がよく見えた。
「どうぞ奥に」
入り口付近に突っ立っている香奈に向かって、若い女性の書記官が声をかける。すすめられた椅子に座り、ハンドバッグを膝に置いた。書記官に続いて大きなメガネをかけたおかっぱ頭の年配の女性と、白髪の恰幅のいい男性が入ってきた。二人は調停委員だと自己紹介をして香奈の前の席に着き、少し遅れて茶色のスーツを着た中年の男性が入室して椅子に腰掛けた。この中年男性は家事調停官だと挨拶をした。みなそれぞれにたくさんの本やファイルを机に積み上げている。女性の書記官も着席しようとしたが、はっと思い出したように窓のほうへ小走りし、開いていた窓を施錠して、白いブラインドを全部下ろした。急に日差しがさえぎられて、蛍光灯がついていてもひどく暗く感じる。
「お待たせしました」
書記官が着席したのを横目で見て、家事調停官が言った。
調停室は殺風景だった。白い化粧板の机に肘掛のついたグレーの布の椅子。壁には一枚、パステルカラーの絵があるが、輪郭があやふやで何の絵なのか判然としない。隅の机には不自然な光沢のある花が生けられている。たぶん造花なのだろう。部屋にはそれら以外、何もなかった。
「さっそくですが調停を開始させていただきます。滝井香奈さん、ご本人ですね。では生年月日と住所をおっしゃってください」
最初にこう切り出したのは家事調停官だった。香奈がぼそぼそと答えるたびに、手元のファイルに鉛筆でなにやら書き込んでいる。
「はい、結構です。今日は山下圭介さんからの申し立てに対してね、滝井さんにいろいろご事情をお伺いしていきたいと思います。双方の実情を聴取した上でね、本件のもっとも適切な解決方法を探っていきたいと思います」
馬鹿丁寧にゆっくりと、家事調停官は香奈に説明する。まずは、と言って、現在の香奈の住宅についてや就労状況、保育園での遼太郎の様子などを香奈に尋ねる。香奈が一言話すたびに、みな素早い動きでメモを取った。時折、相槌を打つ女の調停委員のメガネが蛍光灯に反射する。
「現在、滝井さんが一緒に生活をしている未成年者遼太郎くんについて、申立人、つまり山下さんが親権者を変更し養育を行ないたい、未成年者と同居したいという申し立てなのですが、それについて」
「いやです」
思わず話の途中で言葉が口をつく。
「はいどうぞ、続けて」
「あの子と離れるなんて、いやです」
心臓が早く打ちはじめた。声をあげて泣き出してしまいそうで、両手で口を押さえる。涙が落ちそうになってふいに視線をそらす。大丈夫、薬は飲んできた。
申立人は、離婚後の生活も落ち着き、父親として当然、息子である未成年者のことをいとおしく思っていること、実家の両親や近くに住む実妹夫婦から未成年者の養育に全面的に協力するので引き取ってはどうかという意見が強くあること、婚姻中の相手方の子育てを見ていて不満があり、今も未成年者の身を案じていることなどを本申し立ての理由として挙げていると、調停官は淡々と語った。
「これらの申立人の主張について、あなたはこの場で意見を言うことができます」
「あの」と香奈が顔を上げる。
「はい、なんでしょう」
「圭介さんはいつ来るんですか。一度、圭介さんと話し合いたいんです」
離婚をしてから一度も連絡がない。遼太郎に会いたいとも言い出してきていない。遼太郎の身を案じているというなら、養育費を払ってくれればいいのに。そんな話も離婚のときはろくに話し合わないままだった。こんな大げさな調停を起こす前に、自分たちで話し合いたい。
「ここに申立人は同席しません」
「どうしてですか?」
「調停は個別に行なうもので、直接話し合うことはありません」
家事調停官が無表情に言い終わる。男性の調停委員が咳払いをする。パラパラと音を立てて書類を点検している書記官は、感情のこもらない目を手元に落としたままだ。圭介に会えるものだと思って、服や口紅の色を選んだ自分が情けなかった。
「では私から。いいですか?」
女性の調停委員が小さく手を上げた。
「申立人はね、あなたがしばしばヒステリーを起こし、未成年者に手を上げていたと主張されているんだけれども、これは事実ですか」
予測していた質問とはいえ、香奈の全身から血が引いていく。
「はい」
「はい、というのは、手を上げているということ?」
「はい、あ、でも今はもう」
「手を上げたのはそんなに頻回ですか?」
「頻回?」
「何回叩いたのですか? 部位は? 顔?」
「顔、も」
香奈が答えると、家事調停官たちはさっとペンを走らせる。
「あなたは心療内科で受診されているとか」
「あ、はい」
「病名は?」
「軽いうつとか、いろいろ」
香奈は、少しでも理解をしてもらえるよう話さなければならないと焦りつつも、何を話せば不利にならないのかわからなくて、口をつぐんだ。
「それで過呼吸症も?」
「あの……」
「はい?」
「過呼吸だと親権者になれないのですか」
男性の調停委員が、大きくため息をついて腕組みをした。
妊娠中、圭介は膨らんでいく香奈のおなかの写真を定期的に撮っていた。へそ周りを計ってはプリントした写真の裏に書き込んでいく。お産の本を香奈よりよく読んで、その時の特徴も書き添えた。
「二十三週目 赤ん坊三十センチメートル 七百グラム」
圭介は、遼太郎の誕生を心から楽しみにしていた。これからは一家の主として、仕事にも精を出さなければならないと繰り返し香奈に語った。二人は同じ職場の先輩後輩として知り合ったので、圭介の多忙さもよくわかっていた。製薬会社の営業は、各病院や医師とのゴルフや酒の接待が多い。真面目で営業成績の良い圭介は、出産前から家族のため、生まれてくる子どものためと朝早くに出勤し、休日も深夜まで帰ってこなかった。
無事に誕生した子に遼太郎と命名したのは、圭介の父親だった。男の子だったので、跡取りをよくぞ産んでくれたと香奈はほめられた。圭介の父と母は、初孫を抱くためにしょっちゅうやってきては、遼太郎を隅々まで点検し、湿疹や小さな傷があると香奈を注意した。そこにいない圭介のことばかりを話題にして、目の前の香奈のことは何ひとつたずねようとしなかった。赤ん坊が夜、泣きどおしで寝ていないところに、遠慮なく入ってくる圭介の両親に、香奈は神経を逆なでされた。
少し成長した遼太郎は、気管支が弱いだけでなくアレルギーも持っていた。公園に連れ出すと、散歩中の犬に近づいただけでも目をこすってくしゃみを何度もした。食べ物にもアレルギーがあると診断されて、卵や小麦を使わない献立を考えなければならなかった。工夫しても離乳食はなかなかすすまなくて、いらないと泣いてしょっちゅう吐き出した。体が弱い上に、食べないのでは成長が遅れてしまうのではないかと、香奈は毎日、赤ん坊を体重計に乗せては悩んだ。
姑は、咳をする遼太郎を見て、部屋の掃除が足りないのだと何度も言った。他の嫌みは聞き流せても遼太郎のことだけは真に受けた。掃除機を一日に何回もかけるようになり、拭き掃除も夢中でやった。その合間に離乳食を作り、日光浴のために散歩もさせて、それでも夜中は咳が出るので、壁にもたれて抱っこの姿勢で眠る。
来る日も来る日もそうして過ごした。寝不足のために頭痛はひどく、体の節々が痛かった。
「男にはとても子育てはできへんわ。母親ってのは偉大やなあ」
圭介はそんな言葉を繰り返した。鳴り止まないサイレンのような赤ん坊を前に、香奈は考えるより先にただ必死に世話をしているだけだったが、圭介にそんな言葉をかけられると、自分は母親なのだから遼太郎が元気な体になることだけを願って、不平を洩らしてはいけないと思い込んだ。
遼太郎が一歳の誕生日を迎えたばかりの日曜日、圭介の同僚から仕事のことで電話があった。同僚の彼はその昔、香奈と同じ部署で働いていた人で懐かしかった。ちょうど圭介はタバコを買いに出かけていた。
「ところで滝井、おまえちょっとはダンナに優しくしてやれよ」
突然そう言われた。言い方は軽くユーモラスで、香奈も少し笑いを含みながら「えっ? 優しくですか」と返した。
「赤ん坊ができてから自分はないがしろにされっぱなしやって、あいつ飲み屋でぼやいてるで」
出産前は几帳面だった妻なのに、スーツをクリーニング店に入れっぱなしで着るものがないだとか、主婦なのに朝食も用意してくれないだとか、さらには子どもと妻がべったりで家に居場所がないとまで言っているらしかった。接待の酒の席でただ笑い話にしているだけなのかもしれない。圭介から面と向かって言われたこともない。遼太郎が手のかかる子であることはわかっているはずだ。香奈の奮闘ぶりは圭介が一番理解してくれていたのではなかったのか。仕事ばかりで家事を手伝ってくれるわけでもなく、遼太郎のことはおまえに任せたと言って、外では夫の世話が行き届かない妻を笑いものにしていたなんて。
「あいつは飲み屋でもてるんやから、しっかりつかまえとくんやぞ」
香奈が至らないことで圭介が浮気をするかもしれないと同僚はほのめかした。ひどいと思った。
しかし、タバコを買って帰ってきた圭介の顔を見ると、香奈はなにも言い出せなかった。取引先の前で話題のひとつにしているだけなら、そんなことで責めるのは大人気ない気がする。自分がこれだけがんばっているのだと声を大にするのもどこか滑稽に思えたし、そんなことを言い出して圭介が気を悪くして、せっかくの休日が台無しになるのも怖かった。
その夜、また遼太郎が泣いた。顔を真っ赤にして、咳き込みながら泣き続ける。
「俺は明日も仕事やねんて。お願いやから泣き止ませてくれよ」
咳の止め方がわかるものなら、早くからそうしている。圭介は背を向けて、頭からすっぽり布団をかぶった。
遼太郎を抱き上げると、手首が痛んだ。毎日抱っこして腱鞘炎になっていた。遼太郎の背中を軽く叩いても咳は止まらず、えずきながら泣き続ける。
「ねえ圭ちゃん、もう疲れたよ」
香奈は布団に丸まった圭介にそう言葉を投げた。
「もう疲れた」
言葉を口にしてみると、涙があふれだして止まらなくなった。しかし、圭介は動かない。出産以降、子どもの泣かない日はない。遼太郎が泣けばそれを静めようとして、香奈は睡眠や家事一切、思うようには行なえない。子どもの調子が悪い日は自分が髪を梳くことも着替えることさえもできないまま一日が過ぎていく。親も遠く、友人に電話をすることもままならず、圭介は夜中しか帰ってこない。そんな中でも必死に母親になろうとしている香奈のことを圭介は支えてくれていると思っていたのに。
「圭ちゃん、私、もうムリ……」
香奈はしゃくり上げながら、そう言った。えずいていた遼太郎がゴボッと吐いた。香奈は緩慢に手を伸ばし、ティッシュを重ねて取り遼太郎の口を拭いた。
遼太郎がいくら泣いても、圭介はいつも背中を丸めて眠っている。香奈は思った。私だってあんなふうに耳をふさいで寝てみたい。
休まず咳をする赤ん坊を眺めていた。あやす気持ちも湧いてこなかった。全身に力を込めて、顔を赤くして泣く赤ん坊が急に憎く感じた。
「うるさいって」
圭介は寝ぼけた口調で言い捨てる。
香奈は、遼太郎の両脇に手を入れた。立ち上がる。遼太郎の体がぶらんと揺れる。もう疲れた。眠りたい。香奈は高い高いをする。小さな足がぷらぷらとついている。立ち上がったとき一瞬止んだ泣き声が、再び咳とともに始まる。泣くな。うるさい。香奈はそう呟きながら、突然、遼太郎を前後にゆさぶった。泣くなっ。うるさいうるさいうるさいっ。遼太郎を何度も強く振る。小さな頭がガクガクと揺れ、顔が何重にも見えた。
「何してんねん!」
気配を感じた圭介が、起き上がって遼太郎を香奈の手から奪い、香奈を突き飛ばした。
「香奈! おまえ母親やろ」
母親というのは出産とともに自然に母性愛に満ちてくるものだと、圭介は思っていたのだろう。母性愛さえあれば、三DKのマンションで朝も夜もなく、二十四時間赤ん坊の相手だけをして暮らすのに耐えられるだろうというのは、押しつけだ。
しばらく静かだった遼太郎が、火がついたように泣き出した。しばらく倒れた姿勢のまま放心していた香奈は、耳鳴りが痛くて耳を強く抑えた。呼吸がおかしい。吸っても吸っても空気が足りなかった。いくら吸っても、もっと空気が吸いたい。水もないのにおぼれていくみたいだった。目を白黒させて苦しむ香奈を見て、圭介は救急車を呼んだ。
それが、初めての発作だった。
「申立人の主張にね、こうあります。少し読み上げましょうか。申立人は、未成年者遼太郎の親として責任ある行動をとってきたと。一家の主として精力的に仕事もこなし、未成年者と相手方の幸せを第一に考えてきたと。ところが相手方は申立人に感謝の意をあらわすこともなく、それどころかストレスを子どもへの暴力という形で発散し、心療内科にも通院している。離婚原因も、相手方のうつ病のためである。このような母親のもとが未成年者にとって最良の環境とはいえないと、記載しています。これについて反論はありますか」
家事調停官は優しく口元に笑みを残してそう言った。
「反論しないと、遼太郎と一緒に暮らしていけないんですよね」
香奈は、かすれた声で聞いた。
一度起こった発作は短期間のうちに何度も繰り返した。圭介の朝食を作ることはおろか、遼太郎の世話もままならなくなり、このころから遼太郎に手をあげるようにもなった。歩き回れるようになった遼太郎を外にも連れ出さないで、香奈は丸一日ベッドに横たわっているという日々が何日も続いた。圭介は、自分の親に遼太郎を預ければいいと言ったが、それはどうしてもいやだった。私の遼太郎に触ってほしくもない。一旦そう強く思ってしまうと切り替えることができなかった。
体質に合う薬が見つかるまで、ふらつきがひどくなったり吐いたりして、家事が手につかなかった。それでも圭介は一日中仕事だったし、休日もゴルフや付き合いで出かけていく。圭介は、帰りが遅いから香奈を起こしてはいけないと、一人リビングのソファーで寝起きをするようになり、朝になると薬の効いた香奈が眠りに落ちている間に、身支度を整え朝刊をカバンに突っ込んで静かに出勤する。
遼太郎は二歳に近づくにつれて夜泣きが終わっていったが、それでも咳は時々出た。いくら夜中に咳が続いても、もう隣で不機嫌になる人はいなかった。ソファーで眠る生活は、圭介もつらかったのだろう。独身に戻ったように一段と帰ってくるのが遅くなった。香奈にとっては、買い物や家事の協力をしてもらえないような時間にしか帰ってきてくれないことが納得できなかった。自分はこんな体になったというのに圭介はなんら今までと変わらず溌剌と仕事に出かけていき、酒を飲んで帰ってくる。香奈には圭介の自由が許せなかった。いくら過呼吸が治っても、遼太郎が成長するまでは香奈には圭介のような自由はない。
薬のおかげで少しずつ元気を取り戻していった香奈は、酔って帰ってくる圭介をつかまえては、苛立ちをぶつけた。身勝手な圭介と暮らしていくよりは、別れたほうが体調も良くなると言い続けた。圭介がもう少しサポートしてくれてたら、こんなことにならなかったと何度も暴れた。黙って部屋を出て行く圭介に物も投げつけた。ソファーで寝ている圭介をたたき起こして泣き叫んだこともあった。香奈が激しく暴れるほどに、圭介の態度は冷めていった。それがわかっていても、香奈は自分が押さえられなかった。
――じゃあ、別れよう。
数ヶ月、そんな日々を送ったのち、圭介が静かに言った。
たった五年の結婚生活だった。圭介の五年と香奈の五年。同じ場所で暮らしてきた互いの五年。
「では次回までにあなたのほうからも主張を準備して下さい。次回期日は――」
調停室のテーブルを囲んだ人たちが、いっせいに手帳を開く。ブラインドからは、夕焼けの光が細く何本も差し込んでいた。
裁判所を出ると、午後五時を回っていた。今朝、保育園に預けてから裁判所まで約一時間ほどかかったので、通常のお迎えの時間には間に合いそうもない。携帯電話を取り出して、保育園の番号を探した。
「もしもし、すみれ組の遼太郎の母です。今から電車に乗るんです」
「電車? 今日はお仕事ではなかったんですか?」
「え、あ、はい、ちょっと……」
「お仕事でないときはちゃんと報告していただかないと困ります。遼太郎君がお熱でも出てたらどうするんですか」
「あの、すみません。で、お迎えが六時を回ります」
「困ります。どなたか別の人を、お父さんは無理なんですか」
担任や主任なら、離婚していることはわかっているはずだ。事情を知らない保育士なのだろう。こんなことで傷ついていてはいけないと、香奈は自分に言い聞かせる。
「できるだけ急ぎますから。どうかよろしくお願いします」
半ば強引に電話を切った。
駅に向かって急ぎ足で歩く。悲しさで胸がいっぱいになる。いけない、遼太郎を笑顔で迎えにいってやらないと。
昼間歩いた道をもどって駅に行く。地下鉄に乗り、途中の駅でJRに乗り換える。つり革を持って立つが、仕事帰りの人に押されて何度もよろけそうになる。停車するたびに人が流れ出て、また流れ込む。その様子を窓ガラス越しに眺めていると、大きな花束を持った若い男性が見えた。乗り込むのを躊躇しているようだ。そのまま乗り込めば、せっかくの花が痛んでしまうからだろう。どうするのかと様子を窺っていると、男性は両手で花束を高く持ち上げ、その姿勢のまま乗り込んだ。混雑している電車の中に、花の香りが広がった。
そういえば、と香奈は思い出す。
心療内科にかかり始めたころ、圭介が花を買ってきてくれたことがあった。
深夜帰宅した圭介が、眠っている香奈の頬をつついて目を覚まさせた。おかえり、と香奈が言うと、圭介は、これ、と言って大きな花束を香奈の目の前に差し出した。
「どうしたん?」
「結婚記念日やんか」
ネクタイをゆるめた圭介が、花を手に満面の笑みを浮かべていた。恋人のときから記念日をいつも忘れてしまう人だったのに。結婚一年目は同僚と飲みに行って帰ってこなかった。二年目も似たようなものだった。もう何の期待もしていなかったのに――。香奈は喜ぶより先に驚いていた。
花は赤も黄色も白も紫も葉っぱの緑も入っていた。色とりどりの、パチンコ屋の新装開店祝いのような花たちが、セロハンとリボンで飾られていた。
「どの花にしますかって、店の人が聞くんや。俺、花買うの初めてやから、かたっぱしから指差してしもて、なんか変な花束になって」
圭介が、店員とやり取りする様子を熱心に話す。それを聞いて香奈はくすくす笑った。思えばあれが最後の仲の良い時間だった。圭介と、もっと話をしたかったと、香奈は今改めて思う。
花束を両手で掲げていた男性と同じ駅で、香奈は電車から流れ出た。
保育園にたどり着くころには、日はもうほとんど落ちていた。
いつもは門前に立っている守衛の老人も帰ってしまったようで、鉄の扉は鍵が閉まっていた。カメラ付インターホンに呼びかけると、不機嫌な声の保育士が門を開けに出てきた。パートが休みならそのことを園に告げなければならないこと、保育時間は何があっても必ず守らなければならないことを、キンキンした声で言われる。香奈はなにも言い返す気になれなかった。
いつも子どもたちが駆け回っている園舎は今はどこも電気が消され、静まり返っていた。唯一電気のついている職員室に通されると、部屋の隅で遼太郎が遊んでいる。
遼太郎は香奈の顔を認めると、ほっとしたような笑顔を見せた。そして目を輝かせて香奈の方へと駆けよってくる。白く柔らかな両腕を振って、こけてしまいそうなおぼつかない足取りで。香奈は反射的に顔をほころばせてしゃがみ、遼太郎と同じ目線になる。遼太郎は香奈の前に手を突き出して開いた。湿った手の中にはどんぐりがあった。
「ぐり、はいママ。ぷれでんと」
そう言って、遼太郎が笑った。遼太郎にもらう初めてのプレゼントだ。
「遼ちゃんまだそれ握ってたの? ふうん、ママにあげたかったんだ」
カーテンを閉めて自分の荷物を肩にかけた保育士が、笑いもせずにそう言った。
どんぐりを受け取った香奈を見て、遼太郎は満面の笑みを浮かべる。
「遼太郎、ありがとう」
香奈がそう言うと、遼太郎は喜んでぴょんぴょん跳ねた。
どんぐりを握る反対側の手をつないで、門を出る。小さな手だけど、つないだらその骨はしっかりしている。香奈はそれを感じるたび、嬉しくなる。
パート先に自転車を置いてきたので、のんびり歩いて帰ることにした。遼太郎は門からひとつ目の信号のところで、歩くんいやや、としゃがみこんでしまった。仕方がないので自分のカバンと保育園のカバンを両肩にかけ、どんぐりを握ったまま遼太郎を抱き上げる。遼太郎は嬉しそうに、香奈の首に両腕を巻きつけた。
ママ! おほしさまや! と暗くなった空を指さして、遼太郎が叫ぶ。ほんまやなあ、と返事をすると、遼太郎は大きくうなずく。
帰ったらすぐにお風呂に入ろう。お湯をためている横で、保育園で汚れたズボンやシャツを下洗いする。ジャリジャリとポケットから出てくる砂を見て、息子の今日一日を想像する。今夜は息子の好きなうどんをたいて、食べたらすぐに歯磨きだ。明日もまた保育園とパートがある。絵本を少し読んだら、また寝かせないといけない。あわただしく毎日をなんとかやり過ごし、楽しみなのは週末だ。朝は息子とゴロゴロして、昼には図書館や公園に出かける。
今日は疲れたな、と香奈がつぶやくと、つかれたなあ、と抱っこされた遼太郎が返す。
香奈は、遼太郎の一日がつまったどんぐりを、しっかりと握りしめた。
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