ニンジンを一本また一本と卸す。ボウルの中に橙色のみずみずしい山が高くなっていく。
六本すり終えたところで、強力粉を加え、ゴムべらで混ぜる。
「元気な子になあれ」
そう囁きながらよく混ぜ合わせていく。粉っぽさがなくなったら、少しずつ水を加えてさらに混ぜる。次第にボウルの中の塊がドロドロとしてくる。橙色のブツブツした表面をならして、私は満足げにうなずいた。
うん、いい感じ。
この子は次の土曜クラスの天然酵母パンの発酵種になる。作ったパンがうまく膨らむかどうかはこの発酵種の出来に懸かっていた。一昨日クラスで会った生徒たちのことを思い出す。にぎやかに笑い声をあげる人たちの中から穏やかな笑顔が泡のように浮かんではじけた。
いい酵母が育ちますように。
ボウルにラップを張り、油性ペンで「@2月2日PM九時」と今日の日付けを書き込んだ。そして、ガスオーブンの横に置いてある発酵器の中にそっと入れる。
「おやすみなさい」
発酵器の扉を閉めると、台所の後片付けに取りかかった。
明日からまた仕事。火曜日は一週間の仕事始まりの日なので、朝一に会議がある。四月から開講するコースのメニューについての報告準備は済んだし、発酵器の改善して欲しい点もまとめた。あとはゆっくりお風呂につかって眠るだけ。
家から最寄の駅まで歩いて十分、通勤電車に揺られて十五分、ターミナル駅から地下街を歩いて五分のところに私が勤めるクッキングスクールはあった。
商業ビルの六階の一部を間借りしていて、同じフロアにはコンタクトレンズ専門店と不動産屋が軒を並べている。営業時間中は眩しいほどに光っているコンタクトレンズ専門店の店先も朝の九時ではまだ薄暗い。
「柏先生、おはようございます」
講師控え室に入って白いエプロンと三角巾を身につけていると、新米アシスタントの二浦さんがやって来て、隣のロッカーを開けた。彼女は私が講師を勤める天然酵母パンコースを去年終了して今年始めにアシスタントになったばかりだ。真っ白なエプロンがまばゆい。指先まできらめいて見える。私は目をそばだてた。言葉の綾ではなく本当にキラキラしている。
「二浦さん、爪」
私は小声で注意した。彼女の十本の爪はラメ入りのマニキュアがべったりと塗られている。
「やっぱり気づいちゃいましたか。昨日休みだったから塗ったんですけど、落とすの忘れちゃって。講座の前には落とします」
「朝の会議はそのままで出るの?」
クッキングスクールでは講師、アシスタントのマニキュアは禁止されている。食べ物を扱う指先には清潔感が要求されるからだ。
「指をずっと握っておきます」
彼女は両手をグーにしてみせてニコッと笑って控え室を後にする。私は小さくため息をついた。二十八歳にしては幼くないだろうか。六歳年齢がひらくだけで意識はこんなに違うものなんだろうか。
「柏先生、まだここにいたの」
ケーキコースの大橋先生が入り口から顔を覗かせた。
「パンコースの先生方が発酵器の件で話があるって柏先生を待ってる」
「ありがとうございます」
私は手帳と筆記用具を持つとA調理室に駆け込んだ。講師のほとんどは調理台を会議机に見立てた席についている。
「あ、柏先生。発酵器の件、どうしよう」
パンコースの片平先生がさっそく声をかけてきた。私は彼女の隣に座る。片平先生の反対側の横から同じくパンコースの守山先生が心配そうに顔をのぞかせて言った。
「私たち、春からの講座メニュー考えるのに時間取られちゃって、発酵器の話つめてないの」
「問題点と対処案をメモしてきたから、ちょっと見てみて」
私は手帳を広げる。彼女たちは黙ってメモを読み、満足そうに頷いた。
「さすが、柏先生。完璧だわ」「これで行こう」
そこへ経営者であり天然酵母パンコースの講師でもある渡辺校長とケーキコースの講師兼講師リーダーの大橋先生が入ってきた。ざわついていた調理室が静かになる。
私はぐるりと視線をめぐらせた。ドライイーストを使う普通パンコースの片平先生と守山先生、ケーキコースの大橋先生と市田先生、料理コースの講師二名、二浦さんたちアシスタント十名、そして、渡辺校長。白いエプロンと三角巾に身を包んだこの女たちがクッキングスクールのスタッフであり、私の同僚だった。長い一日が始まった。
夜の講座が終わったころには、私は調理台の前の丸イスにグッタリと腰をおろした。時計は九時を回ろうとしている。
天然酵母パンコースは発酵時間の都合上、どうしても授業時間が長引いてしまう。向かいのA調理室でやっていた普通パンコースはすでに片付けも終わっている。通路と調理室とを仕切る壁は上半分がガラスになっているので何をやっているか丸見えだった。今、片平先生とアシスタントがこちらに手を振って控え室に戻っていく。
私は調理台に両肘をついたまま声をかけた。
「一緒に家に帰ろうか」
返事は聞こえてこない。だけど、心なしか一緒に帰りたそうな雰囲気だ。私は更に声をかける。
「今夜は冷えるみたいだから、ウチに泊まったほうがいいんじゃない」
「柏先生、発酵種に話しかけるの止めてください。びっくりしたじゃないですか」
声のした方を振り向くと、アシスタントの二浦さんが流し台の前で困ったようにこちらを見ていた。
「今夜は寒くなるみたいだから、教室にこの子を置いて帰ったら発酵が遅れるかなと思って」
私は目の前のプラスチックボウルを指差した。二浦さんは手にしていた皿と布巾を置くと、こちらにやって来た。彼女の爪先からはきらきらしいラメはきれいに落とされている。彼女はそっとボウルを持ち上げ中を覗きこんだ。
中には薄橙色のドロリとした液体が五分目ほど入っている。見た目はホットケーキミックスを溶いたような感じだ。
「確かにこのビル、九時を過ぎたら空調止まっちゃいますから。今日の寒さじゃ発酵進まないかもしれませんね」
「明日のクラスに使いたいから、発酵してくれないと困るし」
「発酵器に入れておくのはダメですか」
「今から発酵器に入れて明日の朝九時に出したとして十二時間。長すぎるわ。過発酵になってしまう」
発酵器とは温度と湿度を調整できる保温器のことなのだが、この教室に置いてあるものは二十八度以下に温度を設定することができない。パン生地を一、二時間発酵させるには十分なのだが、低温でじっくりと発酵種を育てるには向いていなかった。
「今朝の会議で言ってましたよね。先生が家で使っている発酵器なら問題ないって」
「そう。本当は全部買い替えられたらベストなんだけど」
「校長先生はそう簡単に取引先を変えられないって」
「それなら改善して欲しいところをメーカーにもっと強く訴えて欲しい」
ここで愚痴を言ってみても直面している問題は解決しない。
「よし、この子は連れて帰ろう」
「持って帰ったら、タネが傷みそうな気がして怖いです」
二浦さんが心配そうに言う。私は笑顔で答えた。
「大丈夫よ。持って帰り方にもちゃんとコツがあるから。二浦さんにも教えてあげたでしょ」
「えー、そこまでする気ありませんよ。私には無理です」
彼女は顔の前で手を振って屈託なく答える。そんな彼女をまじまじと見つめながら、さり気なく会話を続けた。
「残りの後片付けは私がやっておくから、今日はもう帰っていいわよ」
その言葉に彼女はにっこり笑う。「お先にすみません」と頭を下げると調理室から出て行った。
二十畳ほどのC調理室に一人きりになり、私は遠慮なく大きなため息をついた。私が彼女の年齢だった頃はちょうど講師になりたての時で、やる気に溢れてたんだけどなぁ。
ボウルに張られたラップを指で軽くつつく。
「そこまでする気ないって、何のために天然酵母パンコースのアシスタントになったのかなぁ。酵母を大事に出来ない人がパンを美味しく作れると思う?」
ボウルの中の発酵種からガスがプチと軽くはぜた。薄橙色の塊は、すり卸したニンジンと強力粉と水と砂糖を溶いたもの。昨日作ったニンジンの発酵種と同じものでこちらの方が三日ほどお兄さんだ。
この中では目に見えないけれど、ニンジンから発生した酵母菌が元気に育っている。その証拠にこの薄橙色の塊は酵母菌が吐き出す炭酸ガスで膨らんでいた。いわゆる発酵している状態。
たまにマグマが地表に噴き出すかのように、内部に溜まったガスが表面に浮き上がりはぜる。表面はまるで月のクレーターのような様相だった。これをもう一晩置いておくと明日にはパンを作るためにはちょうどいい発酵状態に酵母菌が成長しているはずだ。
「今どきの若い子はと思った時点で負けよねぇ。あんたたちも頑張ってるんだから私も頑張ろう」
私はニンジン種に話し終えると、布巾を手に流し台に向かう。洗いかごに積まれた皿やボールやスケッパーを拭いて棚にしまう。流しをきれいにしてガスの元栓を確認してゴミをまとめた。
「お待たせ。じゃ、一緒に帰ろうか」
ボウルを手に取ると調理室の電気を消して控え室に入った。二浦さんはすでに帰ったらしくスクールには私一人だけだった。だが、不思議と孤独感はない。この子もいるし、冷蔵庫や棚の中にはパン生地や発酵種がいっぱい育っている。耳を澄ませば彼らの息遣いが聞こえてきそうだった。
ロッカーから発泡スチロールの箱を取り出す。カニを買った時に入れるような大きい箱だ。その中にニンジン種の入ったボウルを入れ、隙間に丸めた新聞紙をつめて動かないように固定し蓋をした。これを揺らさないようにして持って帰るのだ。
白いエプロンを外す。ウエストのポケット辺りに汚れが染み込んでいて、いくら洗っても真っ白にはならない。黄ばんだエプロンを丁寧にたたむとカバンに詰めた。コートを着てカバンを肩にかけると、その箱を胸の前で抱えた。
出入り口のガラス扉に鍵をかける。エレベーターで地下二階まで降りてビルの保安管理室へその鍵を預けた。
「また大きな荷物抱えて。まるで骨壷みたいじゃないか」
顔見知りのガードマンが声をかけてくる。あいまいに笑ってその場をやり過ごした。そこから離れると私は箱に語りかけた。
「骨と一緒にするなんて失礼な」
箱の中から炭酸ガスが小さくはぜる様子が脳裏に浮かび、思わず口許がほころぶ。箱を両腕で胸の前に抱えたまま地下街を歩き出した。
夜九時過ぎの地下街は賑やかだった。三人四人と連れ立って歩いている人の群れを避けて進む。すれ違う人々が私と箱とを不躾に見較べていく。黒いロングコートにハイヒールをはいた女性が白い発泡スチロールの大きな箱を胸に抱えて歩く姿は場違いに映るのだろう。かっぽう着に長靴で魚市場を歩いているのが似つかわしい。
だが、そんな視線を浴びても恥ずかしさはなかった。私は天然酵母パンの講師なんだから。そんな自負が私の中にあった。
以前、私はここから片道一時間半かかる地元の町の農協に勤めていた。このクッキングスクールを知ったのは、花嫁修業のつもりで料理コースに通い始めたのがきっかけだった。
習っているうちに料理よりもパンに興味を持ち、渡辺校長の元で二年ほどイーストパンと天然酵母パンの作り方を学んだ。特に天然酵母パンは奥が深くて全過程を学び終えても私の興味は尽きなかった。そこへ校長が声をかけてくれた。
「最近、スローフーズブームで天然酵母パンを作りたいという人が増えてるんだけど、私は学校運営の方が忙しくて思うようにクラスが開けないのよ。柏さんみたいな熱意のある人が講師になってくれると助かるわ」
私はその誘いを二つ返事で引き受けた。仕事を辞め実家を出て、この街に独りで暮らし始めた。
それから六年間、クッキングスクールと家とを往復しながら私は酵母菌を育て、パンを焼き、その素晴らしさを皆に伝えている。私には胸を張って歩く資格があるはずだ。
そんなことを考えているうちにターミナル駅の改札口に辿りついた。
家に帰ると、まず手洗いうがいを済ます。我が家にはたくさんの酵母菌が住んでいるので、なるべく雑菌を持ち込みたくなかった。
一人暮らしにはぜいたくなほどの広い調理台にはガスオーブンと発酵器が並んでいる。持ち帰った発泡スチロールの箱を開けてニンジン種を取り出した。教室にあったときよりも嵩が減っている。発酵種は振動に弱い。どんなに揺らさないように運んできてもちょっとした揺れで炭酸ガスが逃げてしまう。
「ごめんね。つらかったでしょ。今あったかい所に入れてあげるから」
ガスが抜けて萎んではいたが、種には意気込みが感じられた。
一見ワインセラーのような発酵器の扉を開ける。中には昨夜作ったニンジンの発酵種が入っている。
「ニンジン同士、今夜一晩仲良くしてね」
持ってきた種を中にしまう。そして、流し台の向こう側にあるキッチンカウンターの方にまわりこんだ。そこには高さ二十センチほどのガラス瓶が二十本ほど並んでいる。
「ただいま。今日は寒かったね。元気にしてる?」
その一つを取りあげて中を透かし見た。その円筒形のガラス瓶の中にはイチジクの発酵種が入っている。イチジク種はニンジン種とは違って、水の中にドライイチジクがゴロリと浸かっている状態だ。瓶を軽く揺すると底にたまった澱からシュワッと気泡があがる。蓋を開けてみると酸い匂いが鼻をついた。ちょっと酸っぱくなったワインのようだ。
「うん、元気いいね。明後日は休みだから、さっそくパンを作ろうね」
隣の瓶を持ち上げる。水にふやけたレーズンが底にたまっている。一度種として使ってしまったものの残りだ。軽く振ってレーズンを動かした。
「あなたの出番はもうちょっとあと」
私は順番に瓶を取りあげる。このオレンジジュースみたいのはミカン種。底からプチプチと泡が湧き立つ。こっちはビール種。これは……。
一通り見てから、エアコンのスイッチを入れる。設定温度は二十二度。酵母菌が成長するには少し低い温度だが、あまり高すぎるとなんでもかんでも発酵してしまって私の作業が追いつかなくなる。低温度でも時間をかければ発酵種はゆっくりと成長し、ジックリと風味も増していく。こういうところはワインなんかと似ている。ただ、二月だとこの室温は人間にも少し寒い。私はセーターの上からジャージの上下をしっかり着込んだ。
カウンターの脇に置いてある保存容器を開ける。中味は一昨日の夜に焼いたプレッツェル。硬く焼き締められた表面からは香ばしい匂いが漂い空腹を誘う。細長いパンを手に取り歯を立てた。パリッと快音が響く。パリポリと噛みくだきながらガスコンロの方にまわり鍋を火にかけた。冷蔵庫からプチトマトとベビーリーフを出し、洗って盛りつける。瓶が並んだカウンターの片隅に皿を並べた。クリームシチューとサラダとパンが今日の夕食だ。
急に携帯電話が鳴った。すでに時刻は十時を回っている。今頃誰よ。私は口に運んでいたスプーンを皿に戻して立ち上がると、カバンの中から携帯電話を取り出した。
「聖子、もう家に帰ってるのかい」
母の声だった。
「うん、今ご飯食べてるところ」
「また、こんな遅い時間に。ちゃんとしたご飯食べてる? パンばっかり食べてるんでしょ。あんた、料理教室の先生なんだから、人に教えてばっかりじゃなくて自分のためにもちゃんとした物作らなきゃ駄目よ」
正月に帰省して以来一ヶ月ぶりに聞く母の言葉は問いかけというよりも一方的な発言だ。
「で、何? 用事は?」
私は受話器の奥から流れ出る言葉を絶ち切るようにつっけんどんに尋ねる。
「ああ、そうそう。今日ね、村田さんからミカンもらったのよ、二箱も。父さんと母さん二人じゃ食べきれなくて。腐っちゃったらもったいないし。あんたのところに半分お裾分けするわ」
「えー、そんなにいらない」
「ミカンは体にいいんだから。あんたみたいに食事の偏ってる人はビタミンCをたくさん摂らないと」
無茶苦茶な言いがかりだ。
「今日送ったから明後日に届くわ。あんた木曜は休みだったよね。ちゃんと受け取ってよ」
私が満足な返事をする前に母はさっさと電話を切ってしまった。
再びシチューの前に座ると、ガラス瓶の一つに声をかけた。
「あなたの弟ができるよ」
ミカン種から細かな気泡が立ち昇っていく。
ここ数年のうちに両親はせっかちになった。三十四にもなった娘が気ままに独りで生活をしていることに対して本人以上に焦りを感じているのかもしれない。
食事を終えると、発酵器から昨日作ったニンジン種を取り出した。ボウルの中身は昨日より少し橙色が薄くなっているものの、見た目にはあまり変化がない。しかし、ゴムべらで種を混ぜてみると、昨日より少し手応えが軽い。ニンジンの酵母菌が育ってきて小麦粉を分解しているのだ。
「あんたたちは偉いな。手間をかけて育てた分、おいしいパンになって皆を喜ばせてくれるんだから」
口許が自然にほころぶ。この子たちは私の愛情と手間を裏切らない。
新たに強力粉と砂糖を加えるとよく混ぜ込む。そうして再びラップを張ると「A2月3日PM十時半」と書き足した。
朝八時過ぎの電車はまだ通勤通学客で混雑している。その中で、私は発泡スチロールの大きな箱を抱えて立っていた。
クッキングスクールの講座は午前、午後、夜の時間帯に分かれている。天然酵母パンコースは午後もしくは夜の講座がほとんどだ。だが、パンの一次発酵に三、四時間ほどかかるため、朝九時頃から準備をしないと間に合わなかった。
隣の熟年男性が迷惑そうに私と箱をジッと見ている。私は睨み返してその視線を追い払った。私だってこれから仕事だ。朝からのんきにカニ旅行に行ってきたわけじゃない。
九時前にクッキングスクールに辿りついた。すでにケーキコースの大橋先生がB調理室で下準備をしている。
「おはようございます」
私はB調理室の扉から顔だけ出してあいさつする。
「おはよう。柏先生、またパン種を持ち帰ったの」
小麦粉をふるいにかけながら大橋先生は笑顔をこちらに向けた。
「発酵のタイミングが合わなかったので。大橋先生のところはバレンタイン用の単発講座ですか」
「午前も午後もガトーショコラ三昧。宣伝した甲斐あって一般の申し込みが殺到して、来週のバレンタインデーまで講座は満員。稼ぎ時よ」
私は準備の邪魔にならないように、すぐに顔をひっこめた。人のことに構っている余裕もあまりない。アシスタントの二浦さんは午後から来る。それまで一人で準備をしなければいけない。
C調理室に入る。手を洗い、白いエプロンの紐をギュッと背中で結ぶ。発泡スチロールの箱から昨日持ち運びしたニンジン種を取り出し、発酵器の中に入れた。しばらく温かい所で休めておけば移動で萎んだ発酵種も元気になってくれるはずだ。
「しばらく休んだら、出番だから」
一時半からの講座が始まるまで、冷蔵庫にしまっておいたパン生地を出したり、強力粉や砂糖やバターを計ったりお湯を温めたり、レシピをコピーしたりやることはたくさんあった。
その日の講座は五時頃に終わった。
「今週金曜まで小麦粉三十パーセントオフだから買ってかない?」
スクールの出入り口付近はお店になっていて、パンやケーキに使う器具や食材が並んでいる。私は講座を終えた生徒たちに店先で宣伝していた。
「先生、食パン型はいつ安売りになるの」
「食パン型はまだまだ先だわ。五月頃かな。代わりにシリコン製の花型が今安くなってるよ。これ便利。パンの型にも使えるし、チョコレート溶かして流し込んだら花形のチョコも作れる。今の時期にピッタリ」
「先生、商売うまい」
そう言った生徒もちょっと興味を持ったらしくシリコン型を手に取って見ている。
そこへスッと一人の男性が現われた。土曜クラスの生徒、平さんだった。
「平さん、今日はクラスでもないのにどうしたの」
私は驚いて声をかけた。
「強力粉買いに来ました。次のクラスの時には安売り終わってるから」
彼は穏やかな笑みを浮かべた。私もつられて笑顔になる。
平さんは女性ばかりのクッキングスクールの中でもあまり違和感がない。それは、彼が女性的だからでも中性的だからでもなかった。エネルギーの発散がいつも最小限に抑えられている感じがするからだろう。アシスタントの二浦さんなんかは「存在感のない人」といつも陰で言っている。
でも、私は彼がそばに来ると何故かホッとする。気持ちが少し柔らかくなる。控えめな笑顔がそう感じさせるのかもしれなかった。
「次はニンジンのパンでしたよね」
強力粉の袋を四つも抱えて平さんは穏やかに尋ねる。
「そう。今、ニンジン種育成中。失敗は許されないから心して育ててるわよ」
「楽しみです」
今年三十歳になったにしては素直すぎる彼の言葉に私の心は素直に和らいだ。
家に帰って夕食を済ませた後、ニンジン種を発酵器から取り出した。表面が少しボツボツしている。ゴムべらで中を返すと穴が開いていてガスが少しずつ発生してきている。
よしよし、このまま元気に育ってね。平さんが楽しみにしてるって。
私は新たに強力粉を加え混ぜる。再び張られたラップの上に「B2月4日PM九時」と書き込んだ。
翌日、朝九時過ぎに玄関のブザーが鳴った。休みだからと布団の中でゴロゴロしていた私は飛び起きた。そういえば、実家からミカンが届くんだった。こんな朝一番に配達してくれなくてもいいのに。
ジャージの上下を着て荷物を受け取った。S箱にいっぱいのミカン。携帯電話で実家に電話をする。母がすぐ出た。
「お母さん、聖子だけど。ミカン届いた。こんなにいっぱいどうしろと言うの」
私は開口一番に文句を言う。
「一日三個ずつ食べなさい。ビタミンC補給」
「それにしても多すぎる」
「あんた、お裾分けできるような友達いないの? 料理教室とかに」
「いるよ」
勢いよく言ったものの、内心首をひねる。二浦さんとか片平先生や大橋先生は友達だろうか。
「彼氏なんて贅沢言わないから、友達ぐらいは作っておきなさいよ。何かあったとき相談にのってくれるような。女の独り暮らしは何かと物騒なんだから」
「はいはい、わかった」
私は乱暴に会話を打ち切ると電話を切った。
箱からミカンを取り出しては、皮をむき、薄皮や筋がついたままの果実をボウルに入れる。二十個ほどむくと、ジューサーに入れてミカンジュースを作る。それを円筒形の透明なガラス瓶に入れ、瓶口にラップを張った。その上に油性ペンで『@』と書く。さらに上からプラスチックの蓋をした。
このミカンジュースを一日一回振るだけで、五日後にはミカンの酵母菌が発生してミカン種のもとになるのだ。
私は箱に残っているミカンを眺めた。あと何回ミカン種作らなきゃならないんだろ。誰かにお裾分けしないと捌けないなぁ。ふと平さんの顔が浮かんだ。彼ならミカン種の作り方を教えたら、素直に喜んでもらってくれるかもしれない。毎日育ち具合を報告しあったりして。
私は苦笑した。そんなことする勇気もないくせに想像してしまう自分に呆れる。だいたい、一人の生徒を贔屓しては講師として失格だ。
出来たてのミカンジュースを軽く振る。あんたの弟があと四本はできるねぇ。私も一日三個食べるし、そしたらすぐなくなるさ。
夜、三個目のミカンを食べた後、発酵器からニンジン種を取り出した。酵母菌がニンジンを分解したらしく橙色がだいぶ薄くなってきた。表面にスがたったように小さな穴がいくつも開いている。強力粉を追加してゴムべらで丁寧に混ぜ込む。パチ、パチンと生地の中の気泡が割れる。いい感じで発酵してきている。あんたは絶対おいしいパンになるよ。
私は発酵種を優しく混ぜながら、ガスがはぜる音に耳を澄ませていた。「C2月5日PM八時半」
金曜日、午後の講座を終了して帰宅すると夕方七時に近かった。手洗いうがいを済ますと、発酵種が入ったガラスビンをチェック。昨日、イチジク種を使ってパンを焼いたので、イチジク種が入っていたビンがなくなっている。代わりにミカン種が一本増えて鮮やかな蜜柑色の円柱が二本並んでいた。先に作っていたミカン種の瓶を振ると無数の泡が立ち上がる。蓋を開けるとともにシュワとガスが抜ける音。ミカンの香りに混じって酸っぱい匂いが鼻をさす。いい感じに発酵している。これなら来週の講座に使える。
次に昨日作った弟のミカン種の瓶を開ける。見た目にも匂いにも変化は見られない。甘いミカンの香りがするだけ。ただのミカンジュースだった。私はラップに『A』と書くと蓋を閉め軽く揺すった。シャバシャバと今はまだ液体の揺れる音。元気に育ちますように。
昨日焼いたイチジクブレッドとお裾分けのミカンをつまみながら、キッチンの方にまわる。発酵器からニンジン種を取り出した。ラップをはがして見ると、プチとガスがはぜ表面に穴が開いた。薄橙色の月面のようだ。
私は満足げにうなずくと、ラップの上に「D2月6日PM七時半」と書く。明日の講座でいよいよこの子がパンになる。
流し下の棚の置くから発泡スチロールの箱を取り出すとそのボウルを入れ、動かないように固定した。
壁に吊り下げられた時計を見上げた。一時を過ぎた。そろそろ土曜午後クラスの生徒たちがやって来るころだ。
「先生、おはようございます」
控えめな声がC調理室に入ってくる。私の口許が自然とゆるんだ。砂糖入れを調理台に置きながら笑顔で出迎える。
「こんにちは、平さん。今日も一番乗りね」
彼は座席に荷物を置くと手早くエプロンをつけ、流しで丁寧に手を洗う。
「先生、手伝います」
笑顔を浮かべて私の横にやってきた。彼は顔も体も線が細くて、若い人が持っている傍若無人な威圧感を感じさせない人だった。
「じゃあ、砂糖十五グラムを九人分用意してもらえる」
私の指示に従って、彼は計りの上の小皿にグラニュー糖をすくい入れる。サラサラサラと乾いた音が耳に清い。私は向かい側でシンペル型に打ち粉を振りながら耳を澄ましていた。平さんは黙々と小皿を取り替えてグラニュー糖をよそう。そのたびにサラサラサラが私の心を和ませていく。
「こんちはー」
二番手の吉里さんが元気に調理室にやって来た。
「さっき、隣の調理室でガトーショコラ見せてもらったんだけど美味しそうでした。あたしも講座に申し込もうかな」
彼女は始終しゃべりながらも準備を整え、私の横にやって来た。
「チョコ作っても渡す相手いないんですけどね。いいや自分で食べちゃおうっと。これ打ち粉振ったらいいんですか」
吉里さんは茶漉しに上新粉をすくい入れるとシンペル型にまんべんなく振るっていく。私は彼女に話しかけた。
「ガトーショコラ、焼きたて食べさせてもらったけど、中からチョコがトロッと流れてきて、美味しかったよ」
「うわー、食べたいー」
「申し込むなら私に言ってくれる? 講座はすでに満員らしいけど大橋先生に頼んでみる」
「あたし、土日じゃないと来れないんです。先生、なんとかなります?」
彼女は平日会社勤めをしていて、週末しか時間が取れないらしい。
「先生、他に計るものありますか」
それまで黙っていた平さんが口を開いた。
「ううん、それで終了。平さんもガトーショコラ受けたい? 一緒に申し込むけど」
「男が自分で作って自分で食べるのって、かなりむなしいですよね」
その言葉に、私と吉里さんは笑った。
「先生、こんにちはー」「こんにちはー」
残りの生徒達も続々とやって来る。そろそろ一時半。講座の開始時間だ。
「じゃあ、デモンストレーションします」
私はボールの中に強力粉・砂糖・水、そして大事に育ててきたニンジン種を入れて木べらで混ぜていく。さらに強力粉と塩とココナッツパウダーを入れて、今度は手で混ぜる。粉っぽさがなくなるまで混ぜていくと、次第にひと塊になっていく。直径十五センチほどの丸めたお餅のようになった。
ボールからそれを取り出すと、殺菌した調理台の上に叩きつけた。派手な音とともに生地が伸びる。ひしゃげた生地を優しくつかんで丸めなおし、また叩きつける。
「はい、では、皆さんもここまでやってみて」
周りで見ていた八名の生徒たちはそれぞれ自分の持ち場に戻ってパンの生地作りに取りかかる。しばらくすると教室中にバシ、バシン、バーンと生地を打ちつける音が響き始めた。私は生徒の手許に注意しながら、あのニンジン種がパンになっていく姿を見守っていた。
ブリオッシュ型に入れられた薄橙色のパン生地が丸く可愛らしく膨らんでいる。二次発酵もうまくいっている。
「ブリオッシュの方も十分膨らんだから、型のまま天板に並べてオーブンまで持ってきて。一枚に八個乗せてね」
私は生徒たちに指示を出す。正方形の天板に花が咲いたように並んだブリオッシュ型。二浦さんが百八十度に温められた三台のオーブンの中に手際よく収めていく。隣の三台のオーブンには半球型をしたカンパーニュがさらに膨らみながら焼き色をつけつつあった。
次第にオーブンの熱とともに香ばしい匂いが調理室内に満ちてくる。二浦さんが目を輝かせてオーブンの中の様子を覗き込んでいる。生徒たちも鼻で息を吸ったり目を閉じたり幸せそうな顔をしている。平さんは普段よりも幾分嬉しそうに、でもやはり穏やかに笑顔を浮かべている。
たぶん私も皆と同じような顔をしているに違いない。パンの焼ける匂いはどんな人をも幸福にする力がある。
すっかり焼きあがると、香ばしい匂いの中で試食タイムとなった。焼きたてのニンジン種のカンパーニュの方は、表面はパリッと中はモッチリと二つの歯ざわりが魅力的な食事パン。ニンジン種のブリオッシュの方はニンジンが持つふんわりとした優しい甘さが舌に広がる。
生徒たちは口々に頬張りながらおしゃべりに夢中だ。平さんが「先生」と話しかけてきた。
「明後日、幼稚園でパンを作るんです。さすがにニンジン種は難しいのでドライイーストですけど。ニンジンのピューレを生地に混ぜたら、ニンジン嫌いな子供にも食べてもらえるし」
平さんは十年近く勤めていた会社を辞めて幼稚園教諭の資格をとった。今は幼稚園で働いているらしい。三十歳にして転職を決意した理由は分からないが、その志を私は心ひそかに応援していた。たぶん、転職した彼の姿に自分を重ね合わせていたのかもしれない。
平さんの言葉に他の生徒たちが「それいいね」「楽しそう」と口々に言う。
「ピューレだったら気づかずに食べちゃうね」
私も相槌をうった。彼は何か言おうと口を動かしかけたが、そのままモゴモゴと言葉を飲み込んでしまった。
「何?」
私は先を促したが、彼はあいまいに笑ったままだ。恥じらいという言葉がぴったりな表情だった。「先生」と他の生徒から声がかかる。私は平さんから視線をはずした。
「次回は何パンを作るんですか」
「次はミカン種を使って『みかんアマンド』を作ります。オレンジカットとアーモンドプードルを中に入れてパウンド型で焼くの。天然酵母パンには珍しく甘めのパン」
私はファイルから出来上がりのパンと瓶に入ったミカン種の写真を出して皆に見せた。
「美味しそう。発酵種はミカンで作るの?」
「そう、ミカンを絞ってジュースにして酵母を起こすから。ただ今作成中。結構簡単だから皆も家で作れるわよ」
試食を終えると、生徒たちは作った焼きたてのパンを袋に詰め帰っていく。調理室で後片付けをしていると、一番最後まで残っていた平さんがヒョイと横に現れた。
「柏先生、明後日の月曜日はお休みですよね」
「そうだけど」
毎週月曜日はここのクッキングスクールの定休日だった。私は洗い物の手を止めて平さんの細い顔を見返した。彼は人当たりの良さそうな顔で話を続けた。
「勝手なお願いですが、もし時間が空いていたら幼稚園でのパン作りを手伝いに来ていただけませんか」
私は驚いて彼の顔を見た。彼とはスクールの中で先生と生徒として接していたが、個人的に頼みごとをされたのは初めてだった。
「せっかくの休日のところ申し訳ないんですが、作業を分かっている人がいると助かります。お礼はあまり出せませんが」
「お礼なんかいらないけど」
月曜日に特に用事はなかったが、行くという承諾の返事をする勇気がでなかった。腋の下から汗がにじんでくる。
「行けるかどうか今すぐ返事できないんだけど。私じゃなくてもいいんじゃない。二浦さんはどう?」
隣の調理台でシンペル型から打ち粉をはたき落としている二浦さんに話を投げた。
「えー、私にはまだ人に教えるなんて無理です。それに、月曜は用事入ってるから行けません」
素気無い返事が返ってきて、平さんは頼みの綱とばかりに私を見た。
「ちょっと顔を出してくれるだけでいいんです。子供たちに教えるのは教室とはまた違って楽しいですよ」
彼から場所と時間を書いた紙を手渡された。幼稚園は有名なお寺の隣にあった。家からだと電車を乗り継いで三十分ほどで行ける。
「まだ、行くと決めたわけじゃ」
「全然構いません。急なお願いですから、無理なのは当たり前ですし。僕の携帯番号、ここに書いてありますので、時間に都合がつけばどうぞ」
彼は言うだけのことを言うと、穏やかに帰って行った。
私は蛇口の水を出しっぱなしにしていることも忘れて、しばらく消えて行った彼の背中を見つめていた。
「柏先生、どうするんですか」
二浦さんが私の顔を覗きこむように尋ねる。彼女と目を合わすのが恥ずかしくて、私はさりげなく顔を背けた。
「考えておくわ」
「せっかくだから行ったらいいのにー」
妙に楽しそうな彼女の言葉を適当にかわして私は食器を洗い続けた。
講座の片づけが終わって帰宅した後でも、平さんの誘いに対して決着がつかないままだった。
「ねぇ、どうしよ?」
家のキッチンに立ち、先に作ったミカン種の瓶に向かって問いかけた。瓶の蓋を開けるとプシュッとガスが漏れ、サイダーみたいに気泡のはじける音がした。ワインみたいに酸っぱい匂いが鼻をつく。いい具合に発酵している証拠だった。
「どうしたらいいと思う」
軽く瓶を振ると底に沈んだ澱から気泡があがってくる。シュワッと耳をくすぐる音が爽やかだ。
「そんなことして、他の生徒から贔屓してると思われないかしら」
強力粉とスキムミルクを入れたボウルに少しずつ発酵ミカン種を注ぎ入れる。ゴムべらで混ぜるたびにシュワシュワと音をたてて泡がたち上がる。
「だって、スクールの中でしかあったことないのよ」
ミカン種を注ぎ終える。混ぜても泡があまりたたなくなった。炭酸ガスを出し切ったみたいだった。
「急にプライベートなこと頼まれても……」
ミカン種の入ったボウルにラップをかけて発酵器の中にしまった。
キッチンカウンターの前に腰かける。頬をカウンターの上に預けた。正面にミカン色の瓶がそびえている。後から作った弟の方だ。こちらはまだパンを作るには不十分だったので手をつけていない。
「どうしたらいいと思う」
片手を伸ばして瓶の底をカウンターの面にこするようにして揺する。チャプチャプと液体の揺れる音。瓶をこちらに引き寄せて蓋をはずす。瓶の口に張られているラップに『B』と書き足す。
私は悶々としながらミカン種をずっと揺すり続けていた。
「今日はアシスタントに入ってくれてありがとう。助かったわ」
大橋先生が私に頭をさげた。日曜日はいつも渡辺校長の天然酵母パン講座のアシスタントをしている。だが、今日は校長の都合がつかず休講になっていた。その代わりに、大橋先生が開いているバレンタインケーキ講座に臨時アシスタントとして入ったのだ。
「私のほうこそ、満員の講座に吉里さんを無理に入れてもらってありがとうございました。彼女とっても喜んでました」
私たちはチョコがついたボウルやゴムべらやケーキ型を洗い続けている。講座の終わったA調理室は嵐の後のような静けさと雑然さが漂っていた。
調理室に満ちていた生徒たちはまだお店の方に残っていて、先ほど作ったガトーショコラの材料やハートの形をした焼き型なんかを物色している。ケーキ講師の市田先生と正アシスタントの本庄さんが相談に乗ったり説明したりと対応に追われているようだ。A調理室には私と大橋先生の二人しかいなかった。
昨日、平さんにお願いされたこと、大橋先生に相談してみようかな。
私は隣で楽しげに汚れを洗い落としている彼女を見た。大橋先生は私よりも十歳以上も年上の女性だった。このスクールに古くから勤めていて、ケーキだけじゃなくパンにも精通している。ふくよかな体型にマッチしたおおらかな性格と活動的な明るさで、生徒はもちろん他の先生方にも慕われていた。
「大橋先生」
「なあに」
彼女はパンケーキのような温かい笑みを浮かべた。私はなるべく平静を装って尋ねた。
「先生は個人的に講義の依頼を受けたことがありますか」
「あるわよ。知り合いの奥さんに頼まれてクリスマスケーキ作りとかね。スクールに迷惑をかけなければ、単発でちょっと教えるくらい大丈夫だと思うな」
「それが生徒だった場合は? 一生徒からの依頼を受けたら、他の生徒から贔屓に見えませんか」
私の問いに大橋先生は困ったように眉を寄せた。
「まあ、そう思ってしまう生徒もいるでしょうけど、そこはプライベートだからと割り切ってもらうしかないんじゃない」
「プライベート……ですか」
平さんと私の関係にプライベートなところなんかない。
「生徒さんに何か頼まれたの?」
「あ、はい、パン作りのお手伝いを……。でも、やっぱり生徒によってしてあげることに差が出るのは、講師としてはいけないことですよね」
クスクスと大橋先生の笑い声が漏れた。
「柏先生、変なところで堅いのね。あなた、今日だって吉里さんが講義を受けられるように便宜を図ったでしょ。それは贔屓ではないの?」
聞かれて私の顔は熱くなった。確かに定員一杯の講座には一般客は受け付けしてもらえない。これも見ようによっては贔屓に違いない。
「でも、それは吉里さんの望みを叶えたかったので」「なら、他の生徒が何か望んだときに同じように配慮してあげれば公平じゃないかしら」
「そう、ですね」
「それに公平とか不公平とか深く考えない方がいいんじゃない。スクール外のことなんでしょ。あなたの気持ち一つで判断すればいいことだと思うけど」
すっかり洗い物の手が止まってしまった私に「ほんと、真面目な子ねぇ」と言って大橋先生はポンと背中にカツを入れた。
帰宅した私は携帯電話を手にしながらそれでもまだ迷っていた。
「ほんとに、してもいいと思う?」
ミカン種の瓶を軽く揺する。表面に小さな泡が二つ三つ浮かんではじけた。
この六年間、クッキングスクールの人間関係の中でしか生きてこなかったような気がする。瓶の口に浮かぶ『C』の字。幸せのシ?
瓶から手を離すと、私は携帯電話を開いてボタンを押した。
月曜日、言われた時間より三十分も早く幼稚園に着いてしまった。
「ごめんなさい。ちょっと早く着きすぎたみたいで」
私が謝ると玄関で出迎えてくれた平さんがとんでもないというふうに首を横に振った。
「柏先生、来てくれて嬉しいです。どうぞ中に」
彼に勧められて来客用のスリッパを履く。
「準備がまだなんです。どうしようかな」
彼はスクールで会うときよりも少し落ち着きがなかった。いつもよりエネルギーの発散量が多いように感じる。新鮮な感じがした。
「準備手伝います。どんな感じなのか事前に見ておきたいし」
私は努めて自然に声をかけた。
「すみません。助かります。今日は、柏先生のこと大先生と紹介するつもりだから、本当は悠然と座っていてもらおうと思っていたのに」
「座ってるだけの大先生はごめんだわ。お仕事くださいよ」
私は照れくさくなって軽く笑った。つられて彼も笑う。一番奥の教室に案内してくれた。
丈の低いテーブルが六個並んでいる。それぞれのテーブルの上に強力粉やドライイーストなどの材料が並んでいた。前方に少しだけ丈の高い机が一つ置かれている。どうやらあそこが大先生の席らしい。
「柏先生、荷物はこっちに」
平さんが机の脇のボックスを指差す。
「ところで、その胸に抱えているのは?」
彼の問いに私は袋から瓶を取り出す。順調に育ちつつあるミカン種がチャプチャプと揺れていた。彼はその瓶を手にして感嘆の声をあげた。
「これが一昨日言ってたミカン種ですか。わあ、泡がこんなに出てる。元気いいですね」
素直に喜ぶ彼の姿を見て私は嬉しくなった。
「いい感じで発酵してるでしょ。天然酵母がどういうものか子供たちに見てもらいたくて」
「作り方も教えてくれますか」
「スクールの講座で」
「僕はそれでいいですけど、他の先生方や見に来られる保護者の方には?」
「ぜひ、クッキングスクールの天然酵母パンコースに来てくださいって」
「宣伝ですか。うまいですね」
彼は笑いながら私にミカン種の瓶を返そうとする。
私は両手を立てて彼の動きをとどめた。彼は不思議そうに私の顔を見る。
「もし良ければ、そのミカン種、平さんに差しあげます。発酵種の作り方も一緒に」
彼の手の中で瓶の中身がチャプンと音をたてた。
言ってる自分が一番びっくりしている。なぜ急にこんなこと言ってしまったのか。平さんだって言葉をなくしている。私の頭に一気に血が昇った。
「ごめんなさい。焼いたパンならともかく、こんな酵母菌もらっても迷惑よね」
腋の下からじんわりと汗がにじむ。顔から火が吹き出そう。彼の顔から目をそらした。
「迷惑じゃないですよ」
はっきりとした声につられて視線を上げると穏やかな笑顔が目の前にあった。右頬に小さな窪みができている。
「僕も天然酵母パンが好きですから」
エクボがあるなんて、今まで気づかなかった。
彼の言葉をろくに聞きもせず、私はまったく関係ないことを考えていた。
平さんは瓶を机の上に置くと、「他の先生を呼んできます」と言って教室から出て行った。
私は瓶を持ち上げてミカン色の液体を見つめた。底の方から尽きることなく泡が湧きあがる。いつか、それは瓶を破裂させ、ミカン色をした液体をほとばしらせるのかもしれなかった。
了
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