天気予報では大雨になるといわれていた。
JR浜松駅で新幹線を降りて改札を抜けると、屋根のないところまで行き、まず空を仰いだ。大阪から乗った新幹線の窓には、時折小さな雨粒が細い糸のように流れる程度だったので、どの地域も雨一色の天気ではないようだとはわかっていた。今、見上げた空もグレーの雲が低く垂れ込めてはいるものの雨は降っていなかった。しかしこの夏のゲリラ豪雨といわれる雨はいつ降りだすかわかったものではなかった。
もう一度改札の方へ戻ってくると、コンコースでは観光ポスターを提げたネクタイ姿の男たちが小さなテーブルを囲んで人待ち顔でいるのが目についた。
薫は向きをかえテーブルの方へ歩いて行った。
黙ってテーブルの上のパンフレットをみていると、テーブルの前に座っていた若い男からどちらへ行かれるのかと訊かれた。
「館山寺温泉に行くんですが、その前に中田島砂丘に行こうと思っているんです。どう行けばいいですか」
若い男は立ち上がって、さっき薫が外の様子を見た方向を指さした。
「あそこまででて、すぐ階段を下りてください。そしたらもう一度階段をあがって四十二番のバス乗り場から中田島砂丘行きのバスが出てますから」
説明は丁寧なのだが、階段を下りるという意味が理解できず、返事に戸惑っていると、
「そこなので、一緒に行きましょう」と言って歩きだした。
「観光で来られたんですか」
若い男から尋ねられた。
「研修なんですけど、浜松は初めてなので早めに来て、観光もしようかなと思って」
若い男は黙った。
「お兄さんは、JRの方ですか」
今度は薫が訊いた。
「青年商工会のメンバーです。地元をPRしようというイベントがありまして、明日は、これから行かれるところで、キャンプファイヤーがありますよ」
「そうですか。どうりでみなさん若い方ばかりだなって」
JRの構内で案内をしているので職員だろうと思ったのだが、案内所を振り返り、よく観察するとみんな仕立てのいいスーツを着ていた。
地下に下りる階段の前で、ここを降りていけば大丈夫ですと言われた。バスターミナルは地上にあるのに妙だと思っていたら、川の中州のように柵で取り囲まれていて、車道を渡れないようにしているのだ。
中田島砂丘へ行くバス乗り場のベンチに腰をおろした。その横に鞄をおく。一泊用の鞄は大きめのトートバックにした。宿には浴衣やバスタオルがあるようなので、着替えと化粧道具しか入っていない。
研修といっても社員の慰労のようなものだから手帳とペンがあれば十分だった。あと、折りたたみの傘は持って出なかったので新大阪で買ったのが入っているくらいだ。
バスの路線図をみていると、中田島砂丘は駅からすぐ近くのようだった。出発時刻が近づき、バス停に人が増えてきている。
薫はバス停のベンチの隣に座ったおばあさんをみた。ポリエステルの手提げ袋を膝の上に乗せている。駅前に用を足しに来た感じにみえる。
普段の生活でバスを使わないせいか、見知らぬ町でバスに乗るのは、それだけで旅気分になるのだが、土曜日の昼なのに旅行者らしき人は薫の他はいなかった。
駅前を走るときに、二度ほど信号で曲がった以外は中田島砂丘まで一本道だった。二十分かからなかったくらいで気抜けするくらい近かった。
降りたところは大きな公園の入り口だった。
薫はモニュメントのある広場を横切りながら、中央に木を組み合わせた櫓ができかかっているのをみた。
芝生の方ではオランダ風の風車がまわり、その前でウエットスーツをきた若い男たちが、背中を半分あけて、大きなボードとセイルを片付けている。
道路を隔てて数段の階段があり、その向こうが砂丘だった。パンプスも構わず、砂のうえを歩いて行く。最初は踏み固められて硬かった砂地が、進むうちに足が砂の中にめり込んで足が抜けなくなる。
ウミガメの卵を保護しています。と、書かれた金網で囲われた一角で足を休めるため立ち止まった。目の前には、砂の稜線が緩やかに空との境界を切っていた。
薫の前を歩く人は誰もいなかった。立ち入り禁止なのではないかとあたりを見回す。それらしき看板もなく、ようやく後ろから孫を連れたおじいさんたちが来たので、薫も歩きだした。
砂の一番高く盛り上がったところに来ると、視界に海が飛び込んできた。空の色と同じ青味のかかったグレーの海で更に濃度は濃い。波が沖から幾重にも立ち上がってくるのが見えた。その波頭には白い泡が飛び散っている。
波打ち際には数人の水着の少年とサーフボードを横に置いて海を見ているふたり連れの男がみえる。
八月のお盆前の週末だが、海水浴場の活気はなく、砂浜のあちこちに半分砂に埋もれたプラスチックゴミが散乱していて、さらに夏の終わりの海を思わせた。
薫は波打ち際に立ち、向かってくる波に見入った。
波は一メートルほどのコブを作って次々とやってくる。低気圧の影響で海が荒れているのだろうが、いままでこんな波の海を見たことがなかったのではないかと思った。
薫の知っている海は凪いでいるか、波があっても数十センチくらいのものだった。
水着の少年たちと、サーファーの男の真ん中あたりに場所を決めてしゃがんだ。大きな波音が体にぶつかる。力を失った波が白い泡となって砕けるのをみていると、みぞおちのあたりからドクドクと心臓の音がひびいてくるのだった。
立ち上がり、鞄から携帯電話を取り出してカメラモードにあわせた。縦長の液晶の中に水際でふざけあう少年たちが映しだされた。腕をまわして、今度はサーファーの男たちを映し出そうとしたら誰もいない。モニターから目をはずしてみると、彼らはボードにつかまり、海に入っていた。
ひとりの男は調子がでたのか、上半身をボードに乗せパドリングを始めた。大きな波がきたので押し戻されるだろうとみていたら、それも上手にいなして、さらに進んで行く。もうひとりの男は未熟なのか、波打ちまで戻され、頭をかしげながら立ち上がって、また海に歩いて入っていく。
再度モニター越しに体を百八十度回転させて、後ろの砂浜の景色を見ようとした。まさにそのとき、砂丘の天辺からスーツ姿の男が頭から姿を現した。画面には、無表情でやや下を向いている男が映っている。大股の靴先があがるたび、ズボンの隙間から白いソックスがのぞいてみえる。
ふと、革靴に白いソックスはダサいと言っていた友だちのことを思い出した。高校の学園祭のときにクラスの出し物でテレビの番組をまねしたゲームのときだった。何かの質問でそう答えた友だちに対して周りの男子がいっせいに自分の靴下をみたのが可笑しくて印象に残っていたのだった。
スーツの男は薫から数メートル離れたところに来て止まった。携帯は手の中に折りたたんでしまっているが、どうも落ち着かない。
男は薫の方をみている。きっかけがあれば話しかけようとしているようだ。
「こんにちは」
薫が視線を合わせるとすぐに挨拶してきた。
「こんにちは」
薫も挨拶をかえした。
「スーツ姿でここに来ているのは僕だけかと思ってましたけど、仲間がいるとは思いませんでしたよ」
男は薫のパンプス、スカート、ブラウスの順に目線をあげていきながら言った。
「ほんとですね」
見返すともなく男の格好を見てみる。スタイルも顔もまあまあいい男ではないかと思った。
「どこから来られたんですか」
男は一メートルのところまで来て並んで立った。
「大阪です。会社の研修が館山寺温泉であるので。そのついでにここに……」
「ほんとですか。ぼくも大阪から来たんです。なんかテンションあがるなあ」
「出張ですか」
「まあ、そうですけどね。うちの部長が非常に仕事に熱い人なんで、率先して実演販売をするんですよ。だから、ぼくらもしなくちゃいけなくなって」
いやになりますよと頭を掻いた。
薫は腕時計をみて、そろそろ戻りますと独り言のように言った。
「うなぎ食べましたか。駅前に安くてうまい鰻屋があるんですよ。食って帰ろうと思ってるんで、時間があったらいっしょにどうですか」
男は間髪いれずに誘ってきた。
駅前で昼ごはんを食べてからいくつもりだったし、男のことが嫌でなかったので頷いた。
鰻屋をでると、男は新幹線に乗るといってJRの駅へ向かい、薫は再びバスターミナルへ行く階段を降りた。
館山寺温泉へは小一時間かかるらしい。発車待ちのバスがすでに停まっていた。薫はバスに乗り込み、前方のひとり席に腰をおろした。
何か連絡が入ってないか携帯をみてみると、メモリに入ってないアドレスのメールがあった。開くとさっきの男からだった。鰻屋のなかで名刺を交換していたので、それを見て打ってきたのだ。名刺を渡すとき男からメールが来ることも予測していたことだった。
男の名刺には聞き覚えのある商社の名前に「プラスティック」がついた社名が書かれてあった。おそらく子会社なのだろう。名刺といっしょに小さなタッパウエアをくれた。銀が練りこんであって、食品が傷みにくいのだそうだ。東急ハンズにいけば売っていると言っていた。
メールには大阪に帰ってきたら、食事に付き合ってほしいと書いてあった。
行ってもいいと思ったが、返信はしないで携帯を閉じた。
掌の中で携帯がぶるぶる震えた。すぐに開くとEメールを受信しているところだった。差出人は同僚の林浩美からで、すでに館山寺温泉の宿に着いていて、時間があるから遊園地あたりを散策するということだった。
遊園地があると、行く前からはしゃいでいたのを思い出した。薫と三歳しか歳が違わないのに、まわりからはもっと離れているようにみられることがしばしばある。薫はいつも、「三十路のくせにせこい」、と言って浩美のぶりっこぶりを責めているのだが、今年三十歳になったからってすぐに気持ちも三十歳にならなくていいでしょうと反論してくる。
バスのエンジンがかかった。乗客は五、六人といったところだろう。一時間に一本しか便がないので会社の人間が乗ってくると思っていたがいなかった。
夕方の五時に宿に集合して、食事までの一時間が営業成績の報告やトップセールスの表彰などで終わる。あとは宴会をして、翌朝解散というスケジュールだった。
大阪、滋賀、岐阜、岡山に店をもつ印鑑のチェーン店で社員は二十人ほどの小さな会社だ。十人は本社で事務をし、あとの十人の社員は各店舗を数店ずつまかされているマネージャーだった。販売員はすべてパート従業員で店長もしてもらっている。四、五十代の主婦がほとんどなので、三十過ぎの薫にとって、人をまとめることが一番の大仕事である。
バスは浜名湖沿いを走っている。依然どんよりとした空だが雨は降っていない。その空の一角にロープウエイがすうっと横切っていく。バスからみていると、ロープウエイは湾の中の離れ小島に渡っているようだった。
観覧車の一部分が見えてきた。観光案内によると、この一帯は動物園やフラワーパークが集まるレジャー地帯らしい。
緩いアップダウンがあって、バスは館山寺温泉入り口のゲートをくぐったところで終点だった。
ようこそと書かれたアーチは錆び付き、細い道路の両脇に並ぶ建物も朽ち始めているという感じがした。去年の熱海での研修で年長の同僚に聞いたのだが、九十年代のバブル崩壊のときに、こんな観光地はぱったり客が寄り付かなくなり、廃業するところがたくさんでたそうなのだ。そこを持ちこたえた旅館も、こうして訪れるたび、痛み傷ついているように思えてならない。
泊まる旅館の前に着いた。
今日の宿泊は薫の会社だけのはずだったが、黒塗りの歓迎ボードには薫の会社の名前のほかに個人の名前が書かれていた。
毎年近畿から離れた場所に宿を取るのは、単身赴任の部長の意向である。東京に残した家族を研修後呼び寄せて家族旅行をするためなのだ。以前、居酒屋で飲んでいるとき、うちの会社は東京に店もないのにどうして東京に住んでいる部長がこの会社に入ったのか訊いた。すると東京の家は嫁の実家で、リストラされたので子どもを連れて帰ってしまったのだという。悪いことを聞いてしまって、すいませんと謝ると、
「何も悪いことあらへん。この歳まで生きてたら何かあってあたりまえや」
と、言って、箸先にいかの塩辛を挟んでもちあげ、舌の上にぽとりと落とした。
旅館の主人らしき人がでてきた。
靴を脱ぐと、緑のビニールのスリッパを履かされた。床は赤いパンチカーペットが貼られていたが、赤黒く変色してところどころ捲れて、地がむき出しになっているところもあった。
「お名前をお願いします」
質素なカウンターの向こうにまわった主人が言った。
「わたし、代表じゃないんですけど」
主人は首を振って、宿泊者全員に書いてもらうことになっているからと促した。
芳名帳には三人の名前が書かれていた。浩美と内勤で事務をしている子と社長の奥さんだ。社長の奥さんの役職は専務である。取引先など対外的なときは専務と呼んでいるが、本人に向かっては、ほとんどの社員が奥さんと呼んでいる。
部屋に案内される。とりあえず部屋割りするまでの部屋ですと断りを言ってから主人は出て行った。先に来ている三人の旅行カバンが隅に寄せておかれてあった。
薫は座敷テーブルの上に置いてある急須に緑茶のティーパックをひとつ入れてお湯を注いだ。しばらくして湯飲みに入れてみたが、うっすらと色がついただけだった。
それをひと口すすり、置いてあった小さな饅頭を続けて口に入れた。
部屋は湖に面していてベランダからさっきみたロープウエイがみえた。内浦という湾の中にあるので浜名湖の広さを見ることはできなかった。
しばらくたっても誰も来ないので、携帯電話を開いてみた。メールが入っている。
薫が担当している大阪のD店の店長からだった。メールできているというのは緊急性がないことを意味する。
内容は遅番のシフトの人が子どもの急病で休みたいと言ってきたというものだった。普段そんなときは、薫のような社員が遊軍選手としてヘルプに向かうが、今日はその余裕がなく心配していたことだった。
薫は店長に返信を打った。申し訳ないが店長が通しで閉店まで入ってほしいと。絵文字で力こぶを入れ、お辞儀する猫をいれ、さらに最後には涙を流す顔までいれた。
その返信にすぐさま返信がかえってきて、がんばるという敬礼のマークがあった。店長にしても自分がするしかないのはわかっていることなのだが、どこかで頑張っている自分を知ってほしいということなのだろうか。だが、他愛ないことだとしても、怠ると後で何があるかわからない。
受信のフォルダーを下におりて、砂丘の男からのメールをもう一度開いた。名刺をもらったのにまだ名前が頭に入ってこない。あらためてメールの署名を確かめると杉山洋平という名前だった。
鰻屋でぽつぽつと交わした会話を思い返してみる。歳は三十六歳で一人暮しの独身。クロという名前の雌の黒猫を飼っている。趣味は自転車旅行で琵琶湖一周は毎夏数日かけて行っているのだそうだ。今年も八月の終わりに遅めの盆休みをとって行く計画らしい。
薫は杉山の話す内容に合わせて、自分の情報を少しだけ話していた。たとえば年齢なら年下であるといった感じでだ。唯一自分から話したといえば、杉山の住んでいる近くにある大型スーパーにも店があり、そこに薫も出勤しているということだ。
がたごとと部屋の戸があいた。さきの主人の顔がのぞく。そのあとから数人の同僚が部屋に入ってきた。薫の乗ったバスの一本あとに乗ったグループのようだ。部長の顔もあった。全員で二十名なので、先着の三人を合わせると、まだ来ていないのは二人ということになる。午後五時に旅館に集合なので次のバスでは完全に遅刻になる。すでにこちらに着いていてどこかを散策しているのではないかと誰かが言った。
浩美や奥さんたちも帰ってきた。まだチェックインしていない人のことを訊くと知らないという。
浩美が隣にきて座った。部屋のあちこちでみんなが座りこみ雑談をはじめたので、すぐ傍にいても大きな声で喋らないと聞こえない。
「どうして遊園地に来なかったんですか」
浩美はお年寄りに喋りかけるように声を張った。
「どうしてって、別に遊園地は行きたくなかったからよ。そのかわり中田島砂丘に行ってきたよ」
「それに……」
財布から名刺をとりだして浩美の顔の前に突き出した。
「すぎやま……。誰この人」
「ふふふ、ナンパされちゃった」
「うそっ」
案の定浩美が釣られてきた。
「お嬢さん、鰻でも食べませんかって」
「なにそれ」
「ほんとよ。駅前の鰻屋さんで鰻丼食べたって」
「おい、静かにしてくれ」
部長が立ち上がって大声で言った。
一瞬で部屋の会話が止まった。
「全員揃ったので、まず部屋割りするぞ。この紙に書いてあるから、鍵持って部屋に荷物持って行ってくれ。十分後にまたこの部屋に戻ってきてくれ」
薫は奥さんと浩美との同室だった。
六畳ほどの部屋だった。ここからもさきの部屋と同じように湖が見える。奥さんが最後に入ってきた。ブランド物のプリントドレスを着て、大きなルイビトンのボストンをさげている。髪型もウエーブのかかったロングヘアなのでこれで前髪を巻いて立てていたら九十年代そのものだと思った。
「ああ疲れた」
奥さんは畳に足を投げだして座った。
「店から何か報告あった」
薫をみて言った。
「はい、D店の店長から遅番の人が急に休んだので通しで勤務してもらえるよう頼みました」
「それだけ」
「はい」
「よかった。他の店はもっといろいろあったのよ。大理石の表札の色が違うとか、T店では、店長がスタッフの携帯にシフトのことで電話していたら、急にそこの旦那さんが電話にでて、家にまで電話してくるなって怒鳴られたそうよ。そのあとすぐその彼女からやめますって、電話がかかってきたそうで。さっき、店長が泣きながら電話してきたわよ。帰ったらすぐこの処理してちょうだいね。ほんとにもう、毎度のことながらいろいろあるわね」
「わかりました。わたしが担当なので。T店のスタッフと店長、ぜんぜんうまくいってないんです。先月、営業指導で行ったときに双方から苦情をききました。話を聞く分には、店長が間違っているということではなかったんですが、本人の意向もあって店長を交代させたんです。そしたら次の店長もうまくまとめられなくて、また今月元に戻したっていう経緯があります」
「そうね。とにかくあそこは戻ったらすぐ人事をいらった方がいいわね」
そんなことしても、すぐに閉店するじゃないかと思った。年間、数店新規出店して同じくらいの数、閉店している。売り上げのよい店は少しでほとんどが閉店候補のような店舗ばかりかかえている。それなのに会社の経営は続くというのは、どうやって採算をとっているのか薫には分からなかった。
宴会もひけて、薫は浩美と部屋に戻ってきた。旅館の料理に鰻がでていないことに浩美はまだぶつぶつ言っていた。
「だってそうでしょ。夜、鰻がでるに違いないと思ってお昼は食べずに我慢してたのに」
「じゃ明日のお昼に食べたらいいじゃない」
薫は笑いながら、自分は食べていてよかったと思った。昼の鰻屋の鰻ときたら、皮目はバリパリとして香ばしく、身も適度な脂があって非常に美味しかったのだ。大阪で食べる鰻は香ばしさがなく、身もふわっと柔らかい。それをいままでまずいとは思わなかったが、これからは今日の鰻が美味しいの基準になりそうだ。
一時間ほど、部屋でテレビをみながら他愛のないおしゃべりをしていた。時間も十時だし風呂に入りに行こうとなり、仕度をした。いざ出かけるときに、部屋の鍵をどうするかで迷った。奥さんが戻ってないのだ。浩美には食事のあと、何人かで外に飲みに行くと言ってたらしい。
結局、帳場に持っていくことにした。
すいませんと声をかけると、主人が小さな女の子を抱いて出てきた。
子連れで出てくるとは思いもよらなかったので、薫が何も言えないでいると、
「孫なんです。息子家族が帰ってきてまして」と、女の子を手前に差し出すように身を傾けた。
「じゃ玄関の宿泊の名前は、息子さんの」
「ええ、孫たちが喜ぶもんで、いつも書いてやってるんです。なので、お客様たちだけです。今日の宿泊は」
二歳くらいの女の子はじっと薫の顔を見たまま目をそらそうとしない。薫も見返したが表情を変えない。二歳くらいだというのにその子は人の心を見透かしているかのように深い眼をしている。その視線が薫には痛く感じた。主人に鍵をあずけると風呂に行った。
風呂場の前で浩美が待っていた。奥さんだけではなく、他の女子社員たちも飲みに出て行ったのか、誰もいなかった。薫も浩美も宴会で飲むビールで顔が真っ赤になるくらいなので、酒は強くもなく好きでもない。
脱衣かごにタオルを置くなり、浩美は浴衣の下はパンティだけだったので、あっという間に素っ裸になり、風呂場に入っていった。体は浅黒く張りがあって健康的だ。それに引きかえ、薫は肌が白く筋肉もついていないのっぺりとした体をしている。
旅館の風呂場は家族風呂くらいの広さだった。フェイスタオルで前をかくして風呂場に入っていくと、浩美がシャワーの前で体を洗っていた。Eカップの乳房をタオルで持ち上げるようにこすっている。ひとつシャワー台をおいて薫も座った。シャワーのノブを回すと勢いよくお湯がでてきた。顔に少しあてて、掌に洗顔クリームをのばした。泡をたて、すでに汗で剥げ落ちている化粧の残りを洗い流した。薫はマスカラもアイシャドーもしないので薄く塗ったファンデーションはすぐにとれる。
視線を感じて浩美をみると、薫の股間を遠慮なく凝視している。
「なによ」
「えー、薫さんナチュラルですか」
「なにがよ」
「デルタゾーンですよ。ぼうぼうですよ」
なにを言うのかと思えばとあっけにとられた。
「だめですよ。そんなじゃ、スナオにびっくりされますって」
「スナオって何がスナオになの」
ますます意味不明の会話になる。
浩美は自分のデルタゾーンを薫にみえるように向きをかえると、こうやってるのがエチケットですと自慢げに言った。浩美のそこは一センチ幅の黒い帯状で、まるで味付海苔が張り付いているみたいだった。
「エチケットはいいけど、スナオにびっくりされるってどういうことなの」
「す・な・お・ですよ。今日、砂丘でであった男だから、砂男。薫さん知ってます? 宴会のときからずっとニマニマしてましたよ。砂男のこと思ってたんでしょう」
いや、決してそんなことはない、と思った。けれども部長の報告で、閉店を考えなければいけない店舗リストに薫の担当している店が入っていても、いつものように胃がきりきりすることはなかったなあとも思った。
「ニマニマなんてしてません」
強い口調で言い返すと、浩美が目を丸くして体を洗う手を止めた。みるみる目尻が垂れ下がり、ブハァという素っ頓狂な声を出して大笑いしたので、薫もつられて笑ってしまった。
笑いを止めるのに、何度も息を詰める仕草をしてやっと喋りだした。
「もうそろそろリハビリを始めたらどうですか」
やけにしんみりした言い方だった。浩美は薫が三年前に離婚したことを知っていた。もうそろそろ人を好きになってもいいだろうというニュアンスのことは何度も言われている。
「また恋愛しろって言うんでしょ」
「何が悪いんですか。薫さんまだ三十三歳ですよ。女盛りに恋愛しないなんてもったいない」
恋愛ならすぐにできるだろうと思う。
でも、子どものことはどうやって気持ちを持っていけばいいのか。離婚が決まってからわかった妊娠だった。薫たちも双方の両親も望まないことだったので、堕してしまった。迷わなかったはずなのに、今は後悔している。本当は生みたかったのか、何度も自分に問うたが、全然わからない。生理の度に、強い腹痛がやってくる。それが子どもを堕した事の罰なのだと感じているのだ。これは浩美の知らないことである。
「じゃ、ご期待通り大阪に帰ったら、砂男とデートしてくるわ」
いやなことを思い出してしまった。それを打ち払うように浩美の話にのったふりをした。
部屋に戻ったがまだ奥さんは戻っていなかった。帳場におりて鍵を受け取ったところへ部長と奥さんが絡まりあうように玄関から入ってきた。すでに階段をのぼりかけていたので、手摺りごしにみていると、ふたりは薫がいるのを気づかずに粘りつくようなキスを始めた。
慌てて階段を上り、ドアの前で待っている浩美に小声で、
「すごいもの見ちゃった」
と、身震いしてみせた。
ドアを開けて部屋に入るなり、
「奥さんと部長がキスしてた」
小さな声に力をいれて、いきむように言った。
「マジですかー。ひえー」
浩美はドアの方に注意を向けながら言った。
「どうしよう。奥さんの顔、ちゃんとみれるかな」
「でも、奥さんがそうなるの仕方ないっすよ。だって、社長は次々会社の女子に手をつけているでしょ」
「うそー。マジで」
今度は薫が驚く番だった。
「わかりますよ。だいたい社長とできた女子って、態度が変わるんです。ちょっと社長にため口になったり。それに奥さんが毎日会社に出るようになったのは、浮気封じですから。それでも目を盗んで浮気してるんですよ。今日も社長、来なかったでしょ。D店の店長といるためです」
「何でそんなに詳しいの。D店ってわたしの担当の店だし。なんでわたしが知らないこと浩美が知ってるのよ」
そして、気づいた。
「もしかして、浩美も……」
「もうだいぶ前に終わりましたけどね。短かったし」
「誰かに知られたりしてないの」
「たぶん大丈夫。わたしのときは、社長まだ他に居たみたいだし」
けろりとしている。
男と女の関係になっても、力の弱い磁石のように簡単に離れられるものなのかと思った。
廊下から足音がきこえてきたが、部屋の前を素通りしていった。
薫は布団の中で携帯をさわっていた。浩美も同じように携帯をいじっている。浩美に砂男と言われてから、またしても男の名前を思い出せなかった。それにどうしても誘いに応じる踏ん切りがつかないので、メールの返信もしないことにした。相手が本気ならもう一回くらいメールしてくるだろうし、待つというのも楽しいと思った。でも、薫が返信しなかったら相手は拒絶と受け取るのではないかとか……。
しかし、こんな男女の駆け引きめいたことを考えるのは何年ぶりのことだろうと薫は思った。
知らないうちに寝てしまっていた。目が開いたので携帯で時間を確かめる。午前五時十分。ついでにトイレに行こうと立ったとき、奥さんの布団を確かめた。そこは寝る前のまま平らで帰ってきた形跡はなかった。
トイレを済ませ布団に戻るとき、ドアが静かに開いた。奥さんだった。薫が起きているのに驚いた様子で、風呂に行くと言って、ルイビトンのボストンバッグをそのまま持って出て行った。
呼気に含まれているアルコール臭が部屋に残った。薫はまだ頭がちゃんと回っていなかったので、奥さんとひとことも喋れなかった。ただ、奥さんが浴衣に着替えていたことだけには強く反応してしまった。
再び寝て、目を覚ますと奥さんは布団で寝ていた。お風呂で汗を流したせいか、アルコールの臭いは消えている。
枕もとの携帯を取り出して、時間をみた。七時四十分だった。朝食が八時からなので起きることにした。薫が起きると、浩美もすぐに目を覚ました。もうひとつの布団で寝ている奥さんに気づき、
「あれ、いつ帰ってきたのか知らないわ」
と、しわがれた声で言った。
奥さんはまだ眠っているらしく、薫たちが着替えたり、歩き回っていても動かなかった。
「どうします。八時だから奥さん起こしましょうか」
浩美が訊いた。
「じゃ、ちょっと声だけかけて食堂に行こう」
薫は奥さんの枕元に膝をついて、
「奥さん、八時になりましたから、わたしたち食堂に行ってますね」
そういうと、奥さんはわかったと言って目を開けた。
食堂には社員の半数くらいが集まっていた。先に来た人から給仕がされている。部長はまだだった。少しほっとして入り口に近いところに席を取った。
薫たちの食事が終わるころに、部長と奥さんが相次いで食堂にやってきた。他の社員たちの様子を観察していたが、誰もそれらしい視線や態度をしている人はいなかった。
奥さんを残して浩美と部屋に戻った。
「きのう奥さん、五時過ぎまで帰ってこなかった」
薫が言うと、
「起きてたんですか」
と、起きている薫に驚いたように言った。
「起きて待ってないよ。トイレに行って帰ってきたとき、ちょうど部屋に戻ってきたんよ。しかも、浴衣きて」
浴衣のところを強く言った。
「じゃあ部長と、ってことですよね。昨夜、飲みに出て行った人たちは知っているんでしょうかね」
「さあ、わたしも気になっていて、食堂で観察してたけど、怪しんでひそひそ話をしている人はいなかったよ」
「男の人の部屋割りって、確か、二部屋で部長はひとり部屋だったわ」
「なら、誰も気づいてないかもね。わたしたち以外は」
「まったく……」何なんだ、この会社はと思う。
「薫さん、武士の情けで奥さんのことはスルーしてあげましょうよ」
奥さんも女なんだし、弾みだと思うと言った。
浩美の思わぬ大人びた意見にすこし感動したが、すぐに、浩美も一度は裏切り者だったわけだから罪の意識からなのだろうと思った。
「別に責め立てたりしないけど、うちの会社って、フォークダンスを踊っているみたい」
「うーん。まあ、そうですけど。そんなたとえでいいのって感じですね」
浩美はフォークダンスの意味を理解してくれたようだ。みんなが軽くステップを踏み、手を組み、同じ振り付けを延々と繰り返し踊るフォークダンスは、小学校の運動会では毎年の行事だった。二重円は逆回転をしながら、相手を次々取り替えて踊る。相手の手の平の感触や手にこもった力の差がひとりひとり違うのを感じてしまう。それを大人になってやっているのだ。
夏休みが終わり、店が入っている大型スーパーは、朝からフロアを走り回る小学生の姿が消えて静寂が戻った。
研修旅行で知った社長と店長の関係もそういう目で見ているせいか、浩美が言うように言動が前と少し違っているような気がしてならない。
たとえば、パート勤務の店長と薫では月に働く日数が薫の方が多くなくてはならず、新規店舗オープンの準備や、営業指導などの出張があればいいのだが、それがないときはパートさんの勤務を減らしてでも薫が店に出勤する。一週間ほど前、D店の店長が他のパートさんとともに、こんな少ない勤務日数では店長の仕事ができないと、薫に店長の交代を申し出てきた。
店長とパートさんの三人は、薫の前に腕組みをして立っていた。それは威圧的で少なくともこの不満は三人共通であるかのような態度だった。
「分かりました。わたしがやります」と、言ってその時はその場を離れ、トイレに行った。ハンカチを濡らし、顔を水で冷やした。
パートの人たちは自分たちの要求は正当で、薫の頼みごとはすべて理不尽と思っているのだ。給料が少ないと今日のように薫にあたってくるくせに、扶養の関係で給料が多くなりすぎると休ませろと言う。本当に人のやりくりで困っていても、そっちのほうを優先するパートの人の方が多い。
店長になってから、一日通し勤務の日数が増えた。D店の場合、朝と夜の時間は一人で昼は食事休憩のために本来は三人勤務のシフトにしているのだが、遅番をみんなが外れたがるので薫がカバーしている。社員は時間給ではないので、オーバーした時間は残業代で支払われず、たまると代休を取るようになっている。
パートさんが帰って、薫ひとりの売り場になった。夕方のお客は予約注文をしに来ることはまずない。注文品の受け取りか、ふらっと立ち寄って、気に入ったものがあれば買っていくという感じだ。店には印鑑以外にもストラップやスタンプ、文房具店に置いているような物も多少は置いている。
レジ横で伝票の整理をしていると、前に人が立った気配がした。見上げると真っ黒に日焼けした砂男がいた。
「わあ、びっくりした」
薫は心底びっくりして言った。
「二、三回来てたけど、いつもいなかったから」
砂男は店の中をゆっくり歩いて、商品をみている。
砂丘以来、メールもなかったので忘れかけていた頃だった。薫は砂男の本名が思い出せず焦っていた。そこでストラップ型のスタンプ印を指差して、そこにお名前ありますかと尋ねた。
「あった」
砂男はケースを回して探しだし、それを手に取った。
「これ便利ですよ」
説明するふりをして、スタンプ印を受け取ると裏に貼っているシールの名前を見た。杉山だった。
「わたしは自分でイラストを描いて、ほら、こんな猫のスタンプにしたんです」
そういいながら、携帯につけていたスタンプをメモ用紙に押した。
「おっ、それ可愛いな。ぼくもそれ作ろうかな。うちは黒猫だから反転させて」
杉山はその場で注文書に名前を書いた。
「インクの色は黒でいいですね」
薫はじぶんのスタンプを注文書の欄に押し、指示を書き入れていった。
「出来上がりは一週間くらいです。あがってきたらお電話します」
控えを封筒に入れて杉山に渡した。
「今日、食事行きませんか」
杉山が受け取るとともに言った。
薫は腕時計をみて、八時でもよかったらと返事をした。
店内に営業終了を知らせるアナウンスが流れだした。エスカレーターが全部下り専用に切り替わり、フロアに残っていたお客たちが吸い込まれるように下りていく。
レジは紙幣、硬貨の数を所定の用紙に書き込み、お金と共に館内にある管理会社に持っていくことになっている。店のレジも管理会社とつながっているので、売り上げの額もわかっている。そうしておいて毎月、管理会社は家賃と光熱費を差し引いた額を薫の会社に振り込むことになっている。
杉山はさっきと同じスーツ姿で待っていた。
「すいません。お待たせしました」
薫が駆け寄っていくと、
「お店で着てたのは私服だったんですね」
言われるとおり、店の中で着ていたジーンズに麻のチュニックだ。売り場では上からエプロンをつけるだけでよい。
「浜松で会ったときと、服装で変わりますね」
「どう変わりますか」
「若くみえますよ、すごく」
うまく褒めたと思ったのか、杉山は俯いてにんまりしている。
薫は容姿についてあまり自信がないので、男性から服装や体形の話しをされると構えてしまう。今日の服装が若く見えるということは、この前が駄目だったと言われていると考えるのだ。
「杉山さん、お家はこの近くなんですよね」
初めて杉山の名前を呼んだ。
「そう、この前言いましたよね。この近くの店でいいですか」
「もちろん」と、薫は言った。
知炉里と書かれた電飾看板の店の前で杉山が止まった。
「ここです」
一段のステップを上って、店内に入ると中はダウンライトの間接照明でどちらかといえばバーのような店だった。カウンターのイスに座ると、冷たくしてあったお絞りを渡された。
カウンターの中には、薫くらいの歳の主人とその奥さんのような歳格好の女性がいた。客は奥のテーブルに二人いるだけだった。
今日のお品書きと手書きされたメニューがある。みると、産地を記した魚や肉の料理が載っていた。
酒も日本酒や焼酎、ワインのリストもあって、凝ったお店だというのがわかった。
ま鯖のきずし、エリンギのフライ、万願寺ししとうの揚げびたしを注文した。生ビールもジョッキではなく、ロンググラスに静かに注いでだされた。グラスの上にメレンゲのような軽い細かな泡が乗り、中のビールをいつまでも蓋している。
杉山は左ききらしく、席に着くときに薫の左側に座った。右側だと食べるとき腕があたるので、右ききの人と並ぶときはそうするのだそうだ。
実際、食べているとき、薫と杉山は内に向き合うように体を傾けあっていた。気づかないうちに薫は杉山の顔を何度もみていたようだ。
「恥ずかしいな。流し目でみつめられると」
杉山が箸を口元で止めて、言った。
そのとき、薫は右手で頬杖をついて、じっと杉山をみていたのだった。
店を出ると十一時になっていた。
「ぼくんちで飲みませんか」
杉山は川沿いのマンションの十一階に住んでいるという。夜景が自慢で夏の花火大会もよく見えるのだと言った。
果たして、そのベランダからの眺めは杉山の言うとおりだった。目の前に淀川があり、視野の中に数本の川を渡る光の橋が飛び込んできた。白と赤の二本のラインが間断なく流れているのが道路で、それがないのは鉄橋だとわかる。薫が毎日押し込まれている電車も上から見れば優雅なものだ。熱くなった顔に風が気持ちいい。
「着替えてくるから」と肩に手をかけられた。
座るとちょうどいい具合の高さに調節されたベンチがベランダに置いてあり、座って待っていてと言って奥へ行った。
手すりにはフックが取り付けてテーブルになるように板が乗せてある。
十分ほどして、杉山がロンググラスに透明なカクテルを作ってもってきた。グラスの中にはフレッシュミントの葉が入っている。
「モヒート」
そう言って杉山はグラスを手渡した。そして自分もベンチを跨ぐようにして隣に座った。
部屋の方を振り返ると天井についた蛍光灯ライトは一番暗くされていて、さっきの店ほどの明るさになっている。耳をすますと小さくラテン音楽が流れているのに気づいた。
「いい香り」
前に向き直ると、グラスに鼻を近づけた。
一口飲むと、ミントのしびれる感じと甘みが口の中に広がった。
「すごく美味しい」
杉山の方をみた。杉山は白いポロシャツにクリーム色のパンツに着替えていた。
しばらく会話が止まった。そんなときも外の景色をみていれば気にならなかった。杉山がベンチを跨いだまま、薫の方に近寄ってきた。横抱きにされ、頬に唇をつけられた。口元から甘い香りがした。
「痛い」
腰の辺りが針で刺されたように痛みが走った。
「どうしたの」
杉山が顔を離した。
「痛っ」
まただ。今度は背中が痛い。
杉山は掌で背中から腰をさすってくれている。
「虫かなにかに刺されたみたいなの」
服の上を何度も触ってみるが、何も手に触れない。
ベンチの下を覗いていた杉山が、
「おお、クロか。どこにいた」
と、遠くに話しかけるように言った。
薫も振り向くと、二メートルほど離れたところに、黒猫が座っていた。
「わあ、可愛い」
薫は腕を伸ばし指先をひらひらした。
黒猫は完全に無視をして隣の部屋へ消えてしまった。
人見知りなんだと、杉山は薫の顎をつかんで引き寄せた。
「こっちを向いて」と言いながら顔を近づけてくる。
「わたしバツイチなの」
くぐもった声になった。
そういう関係になる前に言っておきたかった。
「三年前」
杉山の体を押して言った。
杉山もひと呼吸おいて、
「ぼくは最近、五年付き合ってた彼女と別れた」
と、言い返してきた。
「彼女、子どもができたって言って……。別れようって言ったのは、彼女」
杉山は薫が何か言う前にと、最後の方を急いで言った。
そしてさらに、
「訳がわからなかった。何度も問い詰めて、やっと言ったのが、子どもの父親がぼくじゃないってことだった」
薫は黙って聞いた。
「ずっと結婚を申し込んでいたのに、まだわからないといってずっと返事をしてくれなかった。ぼくが嫌いかと聞くと好きだというし、別れたくないっていうし。だから、いつか彼女がそんな気持ちになってくれるなら、待とうと思った」
杉山は薫の肩をきつく抱いた。まるで、別れのときに彼女にそうしていたかのような、痛いほどの力だった。
「浮気には気づかなかったの」
「今年のゴールデンウイークに彼女の友だちの結婚式があって、その二次会であった奴なんだと」
「どうして向こうの子どもだと言い切れるんだろう」
「そいつと出会ってからは、あまりぼくと会わなくなってた。月に一回か二回会うのがやっとでね。でも、いうように会えばセックスしてたから、ぼくもそう訊いたよ」
「そしたら何て」
「向こうとはコンドームをつけずにセックスしたって言われた」
浮気相手となりゆきでセックスするなんてって、彼女に怒ったら、そうじゃないのって言われたんだそうだ。
「会ったときから、どうしようもなくその男に惹かれてしまったのって言われたよ。むごいよな」
杉山はそんな気持ちのまま出張にでて、あの砂丘に行ったのだそうだ。
「あのとき、君も同類に思えてしまったんだ。勝手にね」
薫は思う。
彼女は杉山と別れる理由をずっと探していたんではないか。
そして彼女はその男と一緒になっても幸せを感じることはできないんじゃないか。
「ぼくは彼女にきいてみた。その男と結婚するのかって。そしたら、しないという。じゃ、子どもは堕すのかって訊くと、産むって言う。ますます頭は混乱するだけだった。最後に、ぼくは必要ないってことかって言ったら、こくんと頷かれた。別れるしかなかったんだ」
「ほんとにそうなのかな。彼女の言ってること全部」
薫は信じられなかった。
「そう、ぼくも。だからゴールデンウイークに結婚した彼女の友だちに電話した。二次会に来てた男がどんな男か知りたかったし、そしたら彼女はぼくたちが別れたことも知らなくてびっくりしてたよ。それにあの二次会に来てた新郎の友人はみんな結婚していたはずだと言われた」
「それじゃ、全部が嘘かもしれないってことになるでしょ」
「そう、ほんとにそう。だから、友だちに真偽を確かめて欲しいって、頼んだんだ。始めは、親友を裏切るみたいな気がするからって断られたんだけど、ぼくがあまりにへこんでたんで、同情してくれて」
「わかったの」
「メールをくれた。彼女の言ってることは本当で、二次会に来てた人だった。やっぱり結婚してて、彼女の妊娠は承知で、いまも付き合っているけど離婚も認知もしないっていうことらしい」
友だちから、「もし、わたしから聞いて連絡したなんて、言ったらわたしたちの友情は終わるんだからね」と、そこまで覚悟して伝えたんだと釘をさされ、彼女から連絡しないかぎり、連絡は取るなと言われたそうだ。
これは杉山と子どもの父親となる人で、どちらを夫にしようという天秤にかけたものではないのだと思った。まるでお腹の子どもの方が、母を選び、父を選んで産まれて来ようとしているみたいだ。
杉山が黙ると、薫は杉山を抱いてあげた。
突然、ダイニングの暗闇から、食器がなだれ落ちる音がした。ふたりでそっちへ行ってみると、食器棚の戸があいていて、なかの茶碗やお皿が全部落ちて割れている。棚の中にあったのか、小麦粉の袋も破れて、そこらじゅう真っ白い粉だらけだった。そして、シンクの上に白い粉を被った黒猫が座っていた。
「おいクロ。おまえか」
杉山は怒るでもなく、床の割れ物をゴミ箱に拾い集めている。薫もそれを手伝った。
「この仔、いつもこんな悪さするの?」
「いや、初めてだし、こいつは彼女と別れてから飼いだした猫なんだ。駅からの帰り道にずっとあとをついてきて、ぼくんち来る? と言ったら家の中にさっさと入ってしまったんでね」
「可愛いでしょ」
「むちゃくちゃ可愛い。風呂も一緒に入るし、布団もぼくの腕枕でしか寝ない」
「じゃ、焼きもちやかれたのかな」
割れ物を拾ったり、掃除機をかけたりするのに、照明を明るくしたこともあって、すっかり気分は素に戻ってしまった。
十二時も過ぎていたので、帰ることにした。杉山は泊まっていけばいいと言ってくれたが、猫が焼きもちをやいて可哀想だから帰ると笑った。
マンションの下まで杉山は送ってきた。タクシーを拾って家に戻った。
リビングに鞄をおろすと、いつもならそのままソファに横になるのに、隣の和室に向かった。ドレッサーの前に座り、薫は自分の顔や体を観察するようにじっくりさすりながら見ていた。二の腕の後ろに違和感があり鏡に映してみると、赤い線ができている。あの猫がひっかいたに違いない。薫をライバルのように思い、嫌がらせをして家から追い出そうとしたのか。思ってみると、本当に猫に追い出されたのかもしれない。
着ていた服を脱ぎ、部屋着に着替えた。脱いだ服をハンガーにかけるためクローゼットの戸をあけた。扉の内側にも四角い鏡がついている。
そこに顔を映して見ていると、潤んだ目の女が、いますぐ杉山の家に戻りたいと言ってくる。
首を大きく左右に振り、パンパンと顔を二度叩いて、髪をゴムで結わえてシャワーを浴びに風呂場に向かった。
体を洗っているとき、何度も剃刀を取りに部屋へ行こうと思ったが、剃ってしまうと発情したことを認めなくてはならない。
今日は遅番で午後一時に店に行けばよい。午前中は洗濯をしたり布団を干したり、掃除機をかけたりして時間がすぎた。そんな用事をしながらも昨日のことは頭の隅にあった。
開けた窓からフォークダンスの曲が聞こえてきた。近くの小学校が運動会の練習をしているらしい。もう振り付けは忘れてしまった。片足を前にだしたり、後ろに伸ばしたりして進んでいるのか回っているのか分からない踊りだったが、好きな男の子が近づいてくるのをずっと楽しみに待っていた気がする。
フォークダンスの軽快な音楽につられて、薫は携帯を取り上げ、メールを打ち始めた。
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