子供のころ、近所に駄菓子屋があった。「えいちゃんの店」と呼ばれていて、おじさんとおじいさんのちょうど中間ぐらいの年齢で、色黒の額に皺の刻まれたえいちゃんとよばれる人が店主だった。中に入ると狭くて暗くて、子供の腰の高さの台に数々の駄菓子が箱に入れられて置かれているだけであったが、子供達はその店が大好きだった。「えいちゃんのとこ行こか」と誘い合って、十円玉を二、三枚握りしめて、わくわくしながら店に入って行く。えいちゃんは特に愛想がいいわけではなく、かといって恐いおじさんというわけでもない。いつも飄々とそこにいた。まるで店の一部のようだった。
おやつが二百円まで買えるという遠足は、子供にとっては一大イベントだ。なんせ、いつもの十倍近くの駄菓子が買えるのである。いったん手にとっては箱に戻したりと吟味しながら、ちょうど二百円になるように駄菓子を選ぶ。袋に詰めるとき、えいちゃんは十円のガムや飴を二つほどおまけに入れてくれた。遠足のおやつを買う時だけの特別サービスである。どの駄菓子をおまけに入れてくれるのか、えいちゃんの皺のある黒い手が無造作に駄菓子をつかんで袋に入れるのを、子供達はドキドキしながら見ていた。
同級生のかの子ちゃんは、口がきけなかった。正確に言うと、家で家族と話をすることは出来るらしいのだが、一歩外に出ると全く話せなかった。大人になってからそれが、場面緘黙症と呼ばれる症状だと知ったが、当時はそんな言葉を知るはずがない。でも、子供達は誰もかの子ちゃんが話せないことを気にしなかった。身振り手振りで意志の疎通はできるし、一緒に遊ぶのに何の支障もなかった。かの子ちゃんの家は大きくて、庭でブランコやバトミントンができた。お誕生日会に呼ばれていくと、大きなケーキが出てきて、プレゼントのお返しに可愛い鉛筆やメモ帳をくれた。自分の家でも友達が遊びに来ると、かの子ちゃんは話せなかった。話せないだけでなく、表情もほとんど変えなかった。いつもと同じで、かの子ちゃんはちょっと怒ったような顔をしていたが、何故か子供達にはかの子ちゃんが喜んでいるのがわかった。皆にプレゼントを貰ってケーキのろうそくを吹き消すかの子ちゃんは、とても嬉しそうに見えた。
遠足の前の日は、えいちゃんの店は子供達でいっぱいだった。かの子ちゃんもえいちゃんの店におやつを買いに来た。えいちゃんはおまけのガムを二つ掴んで、かの子ちゃんの袋に入れた。
「あの子、いつもしかめっ面やな。礼言われへんのは仕方ないやろうけど、おまけもらってニコリともせえへんかったで」
店にいた近所のおばちゃんが、駄菓子の入った袋を提げて帰って行くかの子ちゃんの後ろ姿を見ながら、小声でえいちゃんに話しかけた。
「ガム入れたったとき、えらい嬉しそうな顔しとったがな」
「どこが嬉しそうやねんな。ずっとムスッとした顔やったで」
「そうかあ? 喜んでるように見えたけどなあ」
えいちゃんはいつもと同じように飄々として、子供達が選んだ駄菓子をポイポイと袋に詰めていった。
その年の遠足は、登山だった。山の頂上で、お弁当を食べ終えた子供達は、早速リュックサックからおやつを取り出した。楽しみにしていた時間である。それぞれが買った駄菓子を広げて、友達同士で交換する。登山は疲れるけれど、山頂で風に吹かれて思い思いにお弁当やお菓子を食べながら休憩する時間はとても心地よい。
ふと気がつくと、ある一角が何か騒々しい。近づくと、かの子ちゃんが真っ赤な顔をして、いつもの怒ったような表情で立っている。かの子ちゃんの前には男の子がいて、何か大きな声でわめいている。
「お前、おやつ二百円超えてるだろ。ずるいじゃないか。せんせーい、こいつずるしてます」
最近、引っ越してきたヒロシだった。ヒロシは、えいちゃんの店ではなくて、スーパーマーケットでおやつを買ってきたらしい。スーパーだと少し値段が安いからたくさん買えるぞ、と遠足に来る前から学校で自慢していた。ずるいずるいと連呼するヒロシに、かの子ちゃんは何か言い返そうとするが、金魚のように口がパクパクと動くだけで声が出ない。
「えいちゃんの店はおまけくれるねん。ずるとちゃうわ!」
騒ぎを聞きつけてやって来た子供達が、口々にヒロシに言い返す。クラスのほとんどがえいちゃんの店でおやつを買っているのだ。思いがけずに皆の反撃にあったヒロシは、その場にしゃがんで泣き出した。
遠足から帰って数日後、十円玉を握りしめてえいちゃんの店にいくと、シャッターが下りていた。「当分の間休業します」と書かれた紙が、貼り付けられていた。上だけしかテープで止められていないので、張り紙は風が吹くたびにパタパタと音をたてて揺れた。なんでもヒロシの親が、皆にいじめられていると学校に言いにいったらしい。そのせいで、えいちゃんの店が閉まってるんやと、子供達は噂した。
えいちゃんが入院したらしいと聞いたのは、その後だった。休業はヒロシとは関係ないようだ。えいちゃんの店が開いてないと、つまらなかった。隣町の別の駄菓子屋まで出かけたが、広くて明るい店は駄菓子の種類も多いけれど、なんだか居心地が悪かった。そこで遠足のおやつを買っても、おまけは入れて貰えなかった。
その後すぐ引っ越したから、えいちゃんの店がどうなったかわからない。先日、母校で同窓会があって、何十年かぶりに、えいちゃんの店の前を通った。店は改装されていて、ガラスのドアがつけられていた。そのとき、ドアをあけて袋を提げた子供が出てきた。「ありがとう、気いつけて帰りよ」という声に続いて出てきたのは、久しぶりに見るかの子ちゃんだった。驚いて話しかけると、なんでもえいちゃんの息子と結婚したそうだ。えいちゃんはどうしてるのかと聞くと、かの子ちゃんは店の奥を指差した。覗いてみると、ずいぶん年をとったえいちゃんが、黒い手でガムをつかんで子供の袋に入れているところだった。
|