ついに。と、いう思いでニュースをみていた。
メキシコで多数発症していた新型インフルエンザの感染者が、国内でもみつかったという。
それでもまだ水際でとまっていると思っていた。一週間後、いきなり神戸で何人も発症者がでて、人ごとではなくなった。日曜日の夜、大阪、神戸の学校の休校処置が決まったり、イベントの中止が決まったと次々ニュースが走った。
わたしの働く飲食店も休業にしなくてはならないのではないかと考えた。とりあえずは、休校処置の高校生にメールを打ち、アルバイトを休むよう伝えた。あとは状況をみて決めることにして寝た。
月曜日の昼、いつもの時間に家をでると、休校になっているはずの小学生が集団下校している。おや、と思った。急に決まったことに対応しきれなかったのだろうか。間違って登校してきた子どもを帰宅させているのかなどなど思いはめぐる。
天満市場に仕入れにいく。みたところいつもとかわりなく人が動いている。仕入先の店の人とえらいことになったね、と言葉を交わしながらも商品をみている。店を開ける以上何も仕入れないわけにはいかないが、まったく触角が動かない。顔見知りの飲食店主たちと「今日どうですかね」などと言葉をかわす。みな一様に「今日も明日も駄目でしょう」と活気がない。
ウイルスという文字通り見えない脅威にどう対処すればいいのか誰も答えを持たないまま、ため息とともにそれぞれの店に散っていく。店につくとまずランチ営業の店員に様子をきいた。お客は少なかったと答えが返ってきた。夜も静かな営業だった。まあ無理もないと店の灯りを消して帰った。
異変が起きたのは火曜日だった。天満市場では昨日は影響がでて暇だったと誰もがいい、今日の仕入れはさらに少なくしようと大幅に数量を減らして仕入れたのにだ、開店の五時半から次々お客がやってくる。みな白いマスクをして下向きに列をなして入ってくるのだ。それが、席につくや、マスクをはずし口をあけてジョッキを傾けては笑い、喋り、食べている。同じようなお客の列は閉店時間まで続いた。
そんなお客の中にひとり、目に留まった人がいた。三月初旬、花粉が舞い始めた頃にマスクをしてカウンターに座った男性だった。「花粉症ですか」と尋ねると、「いやこれは風邪の予防や」という答えだった。マスクで風邪の飛沫感染を防いでいるのだという。その彼が、まさに新型インフルエンザ流行の最中、混み合った店内で楽しげに飲食しているのだ。マスクもせずに。
週半ば、自宅待機をさせられている小学生のストレスがピークに達しているというニュースをみた。小学生の耐え難いストレスとはどんなものなのだと想像してみたが、比較的親の監視が甘い中、高校生は適当に外出したりしているのかもしれないが、小学生の親はやはり神経質になって制限を強くしているのだろう。そのとき、火曜日からの異変に理由があるのではと思った。昼間、会社からマスクの着用を義務付けられ相当のストレスを感じている彼らは、だからといって会社の命令にそむいてマスクを外すことはしない。たぶん、ペナルティを課せられたりするのだと思う。業務時間から開放されるや、本当はマスクをかなぐり捨てたいのだけれど、駅までの道でもやはりマスクは外せない。駅や電車の中もマスクだらけということになる。
そこにわたしの店が彼らの密かな開放の地となったのではないだろうか。わたしの店はビルの立ち並ぶ一帯の向かいにある。しかもポツンとあり、駅との中間になる。
マスクのビジネスマンたちの本音は、二次感染、三次感染が確認されたいまとなっては、じたばたしてもうつるものはうつるだろうと思っているのではないか。ただ、会社の論理は職場が感染を広める場になってはいけないということと、もうひとつ大きな理由は自社の社員が取引先で感染を広めては申し訳が立たないということだと思う。
現に配送の仕事をしている知り合いの男性は、業務中は絶対マスクをはずしてはいけないのだそうだ。もしお客からマスクをしていないじゃないかという指摘をされたなら、始末書を書かされるのだ。彼の仕事は大きな荷物の配達で、運ぶのに体力を要する。ただでさえきつい労働なのに、マスクで酸素の供給を減らされてはたまったものじゃないだろう。
なのに、彼は会社に抗議することもなくわが身を鞭打って仕事をした。
ニュースをみていると、騒ぎすぎだとか、こんなにマスクをしているのは日本人だけだと批判的に伝えているところが多いが、自分でマスクを買い、会社に指示されたとおりマスクをつけて新型インフルエンザに立ち向かっていることのどこが悪いのかと思う。誰も会社にマスク代を請求したり、役所に不満を言いにいく人もいない。日本人はきっと、国が面倒をみなくても社会がちゃんと問題を整理して解決できる力があるように思うのだ。
週末、ビール会社の営業マンがマスクをしてやってきた。こんな格好ですみませんと謝り、インフルエンザでお取引様にご迷惑をかけないように言われていまして、と頭をさげた。いつもは面倒くさいなと思って話していたが、大きなマスクに汗だくな顔をした彼とちゃんと向き合って話をしたいと思った。
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