マンションの顧客の、給湯器の付け替えとそれに伴う浴槽の工事をすませて生田英治は同僚と会社に戻った。待ち構えていたように携帯電話の着信音が鳴った。みると、佳代子からのメールだった。ジョギングしませんか、という文は今夜逢いたいから来てほしい、という意味だ。ふっと頬を緩めて、今から行く。と返信した。汗だくだから風呂に入りたいとも付け加えておいた。
「もう一軒見積もりにいくとこがあるんやけど、それ終わったらそのまま帰ります。ええですか」
同期で入社していまは英治より出世して専務になっている中村が、黙ったまま眼鏡の奥から上目遣いに一瞥してすぐに眼をそらせた。英治は自分の机からファイルになった資料を取ると誰にともなく「おつかれさん」と言って事務所の奥に消えた。
佳代子の家へは自転車で十分ほどだ。幹線道路から一筋入って碁盤の目のような道をいくつか曲がっていくとやや広い道路に出る。両側に似たような二階建てが並んでいる。ガレージの赤いマーチの横に自転車を停めた。いったん外に出て門柱のインタホンを押した。すぐに玄関ドアが開いて佳代子が顔を出した。英治は営業用の声で「まいど。岡倉商店です」と言いながら入っていった。近寄ると佳代子はほのかに湯上りの匂いがした。自分の妻に渡すように、持っていたファイルの束を預けて靴を脱いだ。勝手知ったる気安さで奥にある風呂場に向かった。
陽のあるうちから風呂に入るなんてこれ以上の贅沢はないと思う。窓から射しこむ光が開放感を与えてくれる。ときどき外で遊ぶ子どもたちの幼い声が聞こえてくる。この家の中学生の子どもたちが帰ってくるにはまだ少し時間がある。英治は湯船に浸かって手足を伸ばし目を閉じた。まぶたの裏に明るい光がゆっくりと染み込んできた。
「英? 寝てるの」
声がして浴室の戸が開いた。無防備に伸ばしていた両足を縮めて姿勢を正した。一緒に入るか? と訊くと「あほ」と、まんざらでもなさそうな口調で返事が返ってきた。
「バスタオルとパンツ、おいとくね」
遠ざかる佳代子の声を聞きながらもう一度顎のあたりまで身体を沈めた。
おかあさーん、と外で声がする。近所の主婦たちなのだろうか、数人の甲高い笑い声が飛び込んできた。風呂の窓は隣家との境の路地に面しているのだから気にすることはないのだが、できるだけ音を立てないように湯船から出た。
脱衣所で身体を拭きながらパンツを手にとった。普段、佳代子はこれらの下着類をどこにしまっているのだろう。彼女の亭主のものと別にしていることはいうまでもないが、この家に置いてあるのは一枚や二枚ではないはずだ。肌着や靴下もある。
こんなふうにして佳代子の家に出入りをするようになって四ヶ月余りが過ぎた。付き合い始めたのは一年半ほど前だ。同じ会社のパートと社員という間柄だった。周りにばれないようにと最初は隣町などで逢っていた。逢うといっても月に二、三度くらいで、会社が退けてから食事に行ったり映画を観たりするくらいだった。そのうち佳代子はパートをやめた。逢う回数は増えたが、土曜や日曜日は英治にも家族がいるのでどうしてもそちらが優先になってしまう。はじめは理解を示してくれていた佳代子だったが、夫が単身赴任でずっと留守にしていることがいろんな面で寂しかったのだろう。しだいにわがままを言うようになってきた。
毎日逢いたい。土曜も日曜もそばにいてほしい。電話も毎日かけてきて。
五十歳を過ぎて一回りも下の佳代子に振り回されている自分が情けないと思ったが、それはほんの一瞬だった。いままで英治が知り合ったどの女性とも違って彼女は自身の気持ちに正直だった。好きだから好き。それのどこがいけないの? と、身体ごとぶつかってくる。たまたま出逢うのが遅かっただけで、でもこうして出逢ったのだから、私はあんたが好きだから、だから一緒にいたい。だから、抱いてほしい。眼に涙をためてこちらを見つめる佳代子の、この想いに応えなければ、と思った。
月並な言葉かもしれないが佳代子と出会ったのは運命のような気がする。
作業着のズボンだけをはき、佳代子が用意してくれたTシャツを身に付けてバスタオルを肩に風呂場を出た。リビングの食卓テーブルには簡単な酒のつまみが並んでいた。椅子を引いて座るとき壁の時計を見ると四時を回ったところだった。
「ユキちゃんとサッちゃんは? まだ帰ってこないのかな」
佳代子の中三と中一の娘たちのことを訊いた。
「そうやねえ、サチはクラブやってるからね。でもユキは塾があるからもうすぐ帰ってくると思うわ」
言いながら佳代子は冷蔵庫からびんビールを取り出し栓を抜いてコップとともに目の前に置いた。
「はい、おつかれさま」
佳代子が注いでくれたビールを一息で飲み干した。梅雨に入ったというのに雨らしい雨も降らずかえって蒸し暑い。よく冷えた液体は喉を気持ちよく流れていった。
庭に面した道を小学生の一団がにぎやかに通り過ぎてゆく。そろそろ下校時間になるのか。ふと、二人の息子たちを思い出した。最初の妻との間に子どもはいなかった。六歳年下の玲子と再婚してからも十年近く子どもに恵まれなかったので長男が生まれたとき四十歳になっていた。三年あいて次男が生まれた。まだ二人とも小学生だ。今ごろはもう帰っているのだろうか。今日は妻は仕事だといっていたから、どちらか先に帰ったほうが洗濯物を取り入れているのだろう。
佳代子の家に寄らずにまっすぐ帰っていれば子どもたちはきっと驚きながらも喜んだかもしれない。おとうさん、なんで早いの? と言いながらキャッチボールしよう、と外に連れ出すだろう。
「なに考えてるん?」
佳代子が覗き込んできた。いいや、と首を振ろうとしたとき素早く佳代子はくちびるを合わせ片手を股間に伸ばしてきた。一瞬、強く握りしめてから手のひらをゆっくり返し二、三度撫でた。それだけで勃起しそうになった。
玄関ドアの開く音がして、ただいまあ、と声が聞こえた。佳代子は弾かれたように身体を起こし椅子から立ち上がり、そそくさと台所に向った。英治が居住まいを正してビールを飲んでいると、長女のユキがリビングに入ってきて眼が合うとにっこり笑った。おやつあるよ、という佳代子の言葉に軽く返事をしてすぐに洗面所へ消えた。
半年ほど前に「おかあさんの大事なおともだち」と二人の娘に紹介された。
射るような探るような彼女たちのまなざしにさらされながら言葉を探していた。仲よくしようね、というのも子供だましのようだし、よろしく、と言っていいものかどうか迷っていると、佳代子によく似た眼の大きな女の子が、
「おかあさんのボーイフレンドなん?」と訊いてきた。こちらが答えるより先に佳代子が自慢げに、そうよと言った。そして、おとうさんにはないしょやよと付け加えた。いいよと頷いたその子がユキだった。傍らにいた次女のサチは黙ったまま爪を噛んでいた。英治が笑いかけてもにこりともしないで、何かを振り払うようにリビングを出ていった。
男の子と違って女の子は勝手がわからない。どこまで踏み込んで話せばいいのか躊躇してしまう。それでもなぜかユキは最初から妙に馴れ馴れしかった。中学生といえば一番むつかしい年頃ではないのか。それなのに物怖じしないというか、拘らないというか、性格なんだろうかと思いながら、時々、試験の前に勉強を見たり宿題を手伝ったりしていた。
佳代子が用事で実家に帰ったので留守番にきていた日のことだった。
ユキと違ってまだ打ち解けてくれないサチは二階の自室から出てこない。英治はリビングでユキに数学を教えていた。わかりやすく解説をして答えを導き出すと、彼女はシャープペンシルを指でくるくる回しながら大きく頷いた。
「なるほど、そうなんや。おじさん、おとうさんよりアタマええやん。おとうさんなんかサチの小学生の問題もわからへんねんで。あほや」
「そんなこと言うもんやないよ」
「だって、おかあさんかって言うてるもん。おかあさんね、頭のいい人が好きなんやて」
「おとうさんはみんなのために一所懸命働いてはるんやで」
「そんなん、当り前やん」
そう言い切られて英治は言葉がなかった。しばらく教科書を眺めていたユキは思い出したように顔を上げてにやりと笑い、
「ねえ、おじさんはおとうさんのこと知ってるん?」
と訊いた。
いつかは質問されるだろうと思っていた。
「知ってるっていうか、見かけたことはある」
「どこで? なんでうちのおとうさんてわかったん?」
身を乗り出したユキの眼が興味深そうに輝いている。
「仕事で前の道を通りかかったら表に車を出して洗車してはった。おかあさんと楽しそうに笑ってたから、ああ、この人が旦那さんなんか……って」
それは佳代子と関係を持ってからのことだった。単身赴任中の夫が休みを取って帰ってくると知らされていたのでその間は逢えないことはわかっていた。佳代子も夫の帰りを待ち望んでいるようなところがあり、それが態度に出るたびに腹立たしく感じていた。家の前を通ったのは偶然ではなかった。住居の立てこんだ生活道路を通らなくても他にいくらでもあるのに、この日だけはその道を選んだ。佳代子とは四日逢っていなかった。
まるでストーカーだなと、自分でも呆れながら、車がすれ違うのがやっとの道をボディに社名を掲げた軽トラックをゆっくり転がしていった。佳代子の住まいの前に見覚えのある赤いマーチが停車していた。屋根には水を出しっぱなしのホースが乗っている。車を挟んで佳代子が顔をこちらに向けていた。体格のいい背中を見せている男性が彼女の夫なのだろう。タンクトップから出ている肩や二の腕の筋肉が水に濡れて陽に輝いている。ギリギリ車を寄せてそばを通り過ぎようとした。そのとき佳代子が軽トラックに気づき、「あっ」というふうに口をあけた。振り向こうとした夫に、
「おとうさん、ほら、避けないと。車が……」
機転を利かせたのだろう。佳代子の声に彼はあわててボンネットのほうに廻った。そのおかげではっきりと彼の顔を確認することができた。軽く会釈をしながら通り過ぎ、角を曲がったところでトラックを停めた。しばらくヘッドレストに頭をもたせかけ眼を閉じていた。
あれが佳代子の旦那か。たしかサービス業といっていた。転勤のたびに出世してもうすぐ店長だとか……。それに加えあの腕、あの背丈、あの若さ。自分にないものを全て備えている。佳代子が「あなたしかいないの」といった言葉などどこまで真実なのか疑わしい。そして何より佳代子が毎夜、あの腕に抱きすくめられているのかと思うと、胸がざわつき、かきむしられるようだった。
「おとうさん見てどう思った?」
ユキの声に我に返って首を振った。質問には答えられなかった。
「ねえ、どう思った?」
「どう……って、優しそうだしいいお父さんなんだろうな、と」
「そうやね。優しそうやねってみんながそう言うわ」
ユキは冷めた声でそう言った。
そのあと佳代子が帰ってきたので話はそれでおしまいになった。泊まっていけば、と勧められ勢いで承知してしまった。それが最初だった。
「おっちゃん。今日は泊まっていくん」
ユキがテーブルの向かいに椅子を引いて座りながら尋ねた。いつのまにか呼びかけも「おっちゃん」になっている。
「あ、いや。今日は帰るよ」
台所にいる佳代子をチラッと見やったが知らん顔をしていた。
「来月になったら期末やろ。そろそろ受験校も決めなあかん頃やな」
「おっちゃん昔この近所に住んでたってほんま?」
「そうや。高校一年の途中で引っ越したけど、学校はそのままやった」
「え、そしたらおんなじ校区やん。高校どこやったん。もしかして……」
ユキが次々にあげる高校の名前を英治は笑いながら聞いていた。台所から佳代子が口を挟んだ。
「国立出てはるんやよ。高校かって進学校に決ってるでしょ。あんたには逆立ちしたかて無理や」
「なんでよ。塾かて行ってるやん。おっちゃんも教えてくれるし」
「ほら、その塾へ行く時間やよ。用意しなさい」
はーい、とユキはしぶしぶ立ち上がった。しっかり勉強してくるんやで、と送り出しながらもう一度自分の子どものことを考えた。六年と三年生だ。二人とも塾へは行っていない。その代わりできるだけ見てやることにしている。
ユキが塾へ行ったあと、六時過ぎにサチが帰ってきて三人で夕食が始まった。
この子はずっと英治を避けていた。何か言っても消え入るような声で返事をするだけで自分から話しかけてくるようなことはほとんどなかった。
「ほっといたらええねん。お父さんにだってあんなんやねんから」
ユキが人ごとのように言った。けれど、英治にしてみればやはり気になる。
できるなら二人の娘のどちらにも認めてほしいと願っていた。
そんなある日偶然英治は、車の往来の激しい道路端に自転車を停めてしゃがみ込んでいるサチの姿を見つけた。「どうしたんや」と声をかけると、驚いたように顔を上げたサチは黙って自転車を指差した。覗き込むとチェーンが外れている。自分で何とかしようとしたのか手が黒く汚れていた。英治の視線に気づいたのか、慌てて身体の後ろに隠した。
「おっちゃんがやってあげるよ」
ものの一分もかからずに外れたチェーンを元に戻して立ち上がると、サチは、
「ありがと」と小声で言うと、逃げるように自転車を押したまま走っていった。
その後もサチの態度は相変わらずだったが、少しずつリビングにいる時間が増えたり、学校の教科書を持って英治に教えを請うような素振りを見せたりした。徐々にではあるがなついてくれるサチを、かわいいと思うようになった。
今ではもうすっかり英治になついているサチは、横に座りかいがいしく世話をする。佳代子はそんな娘をほほえましく思っているようで、いつにも増して機嫌がいい。
「あ、そうや。昼間におとうさんからメールがきてたわ」
ビールを注ぐ手を止めてサチが思い出したように言った。英治は持っていたコップを置いて佳代子を見た。決して責めるつもりではなかったのだが知らず知らずのうちに険しい表情になっているのが自分でもわかっていた。
「……おとうさん、何て?」
英治の視線を避けるように佳代子はうつむいた。
「冬物の服とか送りたいから片づけの手伝いに来てほしいって。おかあさんのケータイ、つながらへんかったって。それとね……」
「だからこの前行ったときにやっとけばよかったのよ。まだええ、とかいうから」
佳代子のぼやきが言い訳がましく聞こえた。この前というのは五月の連休明けのことだ。二泊で帰ってきたがその間、佳代子の母親が留守番に来ていた。娘たちからは、おっちゃんが泊まってくれたらええのに、と嬉しいことをいわれたがやはりそれは無理なことだった。
「土日で行くんなら、今度こそおっちゃんに泊まりにきてもらおかな」
同意を求めるようにサチは母親を見た。佳代子はいいともだめとも言わずにじっと一点を見つめている。
十時過ぎに英治は家を出た。途中まで送るわ、と佳代子がエプロンを外しながら追いかけてきた。乗ってきた自転車を中にして並んで歩き出した。ハンドルを持つ手に佳代子が自分の手をそっと乗せた。英治はさりげなく手の位置を変え握り返した。
甘く、熟れたような香りが鼻をくすぐる。すぐそばに群がるように白い花をつけている背丈ほどの垣根があった。匂いはそこから漂ってくる。街灯に照らされて花は暗闇に浮かんでいるようだ。
「これはなに?」
立ち止まった佳代子が枝の先をつまんで訊いた。英治は、白い花の垣根に埋もれるように佇む佳代子の姿をしばらく見つめていた。
「卯の花だよ」
「これがうのはな?」
「そう。卯の花のにおう垣根に、の卯の花」
「ふーん。英は何でも知ってるんやね」
「こんなん知ってても何にもならへんけどね」
「うちの旦那なんか花っていうたら桜ぐらいしか知らんわ」
そう言って枝を弾いた。小さな花がはらはらと足元にこぼれた。香りがいっそう強く立ち昇ってきた。ふと、佳代子が顔を上げた。厚ぼったい唇を甘えるように尖らせてから舌先で上唇を舐めた。英治は誘われるように身を屈めて唇を重ねようとした。その時、前から若い男女二人が寄り添いながら歩いてきた。佳代子はあわてて背中を向けたが、二人はまるで気づかないようにそばを通り過ぎていった。英治は佳代子を自分のほうに向かせると、もう一度唇を寄せていった。いつもの大胆な佳代子らしくない仕草を、愛しいと思った。
駅前の駐輪場はとうに閉まっていたのでしかたなくパチンコ店の表に自転車を置いた。どうせ明日の朝、店が開くまでに乗っていくのだから迷惑にはならないだろう。閉店まぎわにしては自転車やミニバイクが多いように思える。鍵をかけていたら踏切の警報機が鳴り出した。赤い矢印が右から左に点滅している。乗って帰る方向の電車が来るのだろう。いそいで駅の階段を駆け下りて、定期券を出そうと上着の胸ポケットに手を入れたが見当たらない。反対側やズボンのポケットも探ったがどこにもなかった。そこではじめて作業服を着替えたことに気づいた。小銭入れや携帯電話は出したのだが定期券だけ忘れていた。電車の到着を告げるアナウンスが聞こえ、頭上を電車が入ってくる轟音が響きわたった。一台乗り遅れると十五分は待たなくてはならない。この時間帯ならもっとかもしれない。各駅しか停まらないのはこんなときに困る。
二台しかない改札機から人が溢れ出してくる。その人波が途切れてから切符を通してホームに上がっていった。誰もいないがらんとしたホームを蛍光灯の灯りが煌々と照らしている。向かいのホームにも人影はない。英治はベンチに座って携帯電話を取り出した。佳代子にかけて定期券の有無を確かめようとしたが、やはりここは妻に今から帰るコールをしておくほうが先だろうと思い直した。携帯を開いて自宅の番号を出した。ボタンを押して耳に当てていると三回ほどのコールで「もしもし、おとうさん? いまどこ」という声が飛び込んできた。てっきり妻の玲子が出ると思っていたから驚いて返事に詰まった。
「ショウくんか。おかあさんは?」
次男の名前を呼んでから母親と代わるように促すと彼は、おかあさん寝てる、と小声で言った。
「寝てるってなんで?」
「頭痛いんやって。夕方帰ってからずっと。熱もあるし」
「ご飯は? お兄ちゃんとご飯食べたんか」
「食べたよ。ねえ、おとうさんどこにいてたん?」
「どこって……仕事やで」
いつから子どもに平気でうそをつくことができるようになってしまったのだろう。
「はよ帰ってきてえな」
次男の泣き出しそうな声が胸に刺さった。
「いま、会社の駅や。あと十分ほどしたら電車来るからそれで帰る。おかあさん大丈夫やな? ちゃんと看たってや」
一方的に電話を切った。ふと液晶画面を見ると不在着信のマークが出ていた。着信履歴をあけると六時ごろから何度もかけてきていたことがわかった。英治は深いため息をついた。突然手の中で携帯が着信音とともに小刻みに動いた。佳代子からだった。電車の来る方角に眼をやりながら電話に出た。定期券を忘れていったことを知らせてきたのだ。
「明日少し早く出てもらいにいくよ」
「作業服替わってること、奥さん気づくかしら」
「いや、体調悪くて寝てるからたぶん明日起きれないやろう」
「あら、連絡あったの」
「さっきかけたら子どもがそう言ってた。熱があるらしい」
「もう早々と電話したの。やっぱり気になるんやね」
言葉にとげがある。気になるのは本当だがそうだとは言えなかった。
「お大事にね。明日無理に来なくてもええわよ」
こちらが何か言うまもなく電話が切れた。かけ直そうかと思っているとスピーカーからアナウンスが流れ、警笛とともに電車がゆっくりと入ってきた。
相変わらず降りる客が多い。数えるほどしか人が残っていない車両に重い足を引きずりながら乗り込み、すぐ近くのシートに崩れ落ちた。窓ガラスに頭をもたせかけながら今日は何曜日なんだろう、と考えた。昨日も一昨日も佳代子の家に行ったので自宅に帰ったのは十二時に近かった。月曜日は確か会議があって遅くなったので寄らずに帰った。ということは今日は木曜日か。一昨日は佳代子の車でホテルに行ったのだった。夕食後、二人そろって出て行く姿を彼女の娘たちはどう思って見ているのだろう。屈託のない笑顔で「おっちゃん、またね」といわれて嬉しそうに手を振っている自分を、本当は冷めた眼で見ているのではないだろうか。
一つ一つの駅で停まってはドアが開きまた閉じて、電車は緩慢に動き出す。トンネルを抜けてやっと乗り換えの駅に着いた。ここでも乗り遅れれば十分は待たねばならない。階段を二段飛ばしで駆け上がり一番はしのホームに通じる階段を、今度は転げそうになりながら走り降りた。前にも横にも同じような人たちが乗り遅れまいと急いでいる。発車のベルに追いかけられるようにして電車に飛び乗ったとき、一呼吸おいてドアが閉まった。空いている席を探したが見当たらない。少しつめれば座れるのだろうが誰もそうまでして席を譲ろうとは思っていないようだ。ドアにもたれたまま腕時計を見た。十一時を過ぎている。子どもたちは寝てしまっただろうか。妻の玲子はどうしただろう。
帰り着いた家の中は真っ暗で湿った土の匂いがした。廊下と階段の照明をつけて二階に上がっていき、まず子どもたちの部屋を覗いた。兄弟は二段ベッドで寝ている。ふたりの寝顔を確かめ、半泣きで電話に出た次男のタオルケットを掛けなおしてやり額をなでた。おやすみ、とそれぞれに声をかけ部屋を出た。次に、突き当たりの洋間のドアを開けて「ただいま」と小さな声で呼びかけたが玲子の反応はなかった。窓からの薄明かりを頼りにベッドに近づき覆い被さるように顔を寄せた。小さいが規則正しい寝息が聞こえている。額に手を置き、頬を触り熱を測ったが心配するほどでもなさそうに思えた。身体を起こしてその場を離れようとしたとき、帰ってたん? と玲子のかすれた声がした。不意を突かれて隣に並んでいる自分のベッドで膝を打った。
「あ、うん。いまさっき。ごめんな遅くなって。大丈夫か? 風邪か?」
突然部屋が明るくなった。玲子が枕もとにあったリモコンを操作して照明をつけたのだ。眠っていた彼女より英治のほうが眩しそうに眼の上に手をかざした。
「会社に電話したら、本日の業務は終了しました、ってテープ流れるし、ケータイはかかれへんし……」
「ごめん。得意さんと飲んでてん。仕事の話もあったからケータイ切ってたんや」
黙ったまま見上げている玲子の視線から逃れるように「風呂、入ってくるわ」と顔を逸らした。
「義姉さんとこへでも行ってるのかなって思ったからそっちにも電話したんよ。一昨日やったかもそんなこといってたでしょ。そしたら来てへんっていわはるし……」
「姉キ、仕事で忙しいんやからいちいち電話なんかするなよ」
「でも、しんどかったんやから。あの子らのご飯かてしてあげなあかんし、て思ったら、もし早く帰れるんやったら帰ってきてほしかったんやもの」
玲子が涙声で訴えた。
何かと言えば玲子はすぐに泣く。佳代子も感情を高ぶらせて泣き叫ぶことがあるが、妻の場合は降る雨のようにむせび泣くのだった。その涙やその声が、いつしか英治には耐えられなくなっていた。
子どもからの電話を聞いたときは正直いって心配もしたし、もっと早くに帰っていればとも思った。けれど、こうしてちょっとしたことで泣かれると気持ちがよけいに塞いでしまい、わかっていても突き放した言い方になってしまう。
「そうか、悪かったな。明日は早よ帰れると思うわ」
ドアに向いながら、佳代子の家で着替えたばかりの作業着を素早く脱いで丸めた。
「おとうさん」
「ん?」
「良太や翔もまだこれから中学高校大学ってときなんやし……」
玲子はそこで言葉を切った。ドアを半分開けたまま、次にくる言葉をあれこれ想像した。ベッドで横になったまま両手を布団の上で組んで玲子は部屋の隅を凝視している。何を言うつもりなのだろう。じっと彼女を見ていると視線がかち合った。一瞬だったが英治はかみなりに打たれたように身震いした。
「まだまだおとうさんが頼りなんやから、それだけはわかっててね」
そう言うと寝返りを打って背中を向けた。このあと何をいっても反応がないと悟った英治は壁のスイッチを切った。舞台の暗転のように暗くなった部屋に妻を残したまま静かにドアを閉めた。
佳代子の子どもたちだってこの先、高校、大学へと進むだろう。佳代子もやはり自分の夫を頼りにしているのだろうか。金銭的なことだけでなくすべてにおいて。その一端を自分は担えないだろうか。と、そこまで考えて、なにあほなことを……と首を振った。
佳代子と関係を持っても、佳代子の娘たちがなついてくれても、今はまだ父親にはなれない。英治はふと、食卓を囲む自分と佳代子と娘たちの日々を想像した。今でもたまにそんなふうに食事を共にしてはいるが、この先ずっとそうなったらきっと楽しいだろう。「離婚」という二文字が浮かんだ。そのあとのことは何も考えられないが。
翌朝目を覚ますと、となりのベッドに妻の姿はなかった。子どもたちを起こす声が足音と共に階段を上がってくる。声も足音も昨夜とはうって変わって行進曲のように勇ましい。いきなり部屋のドアが開いて玲子が顔を出した。
「おはよう。起きた? もう七時よ」
こちらを見つめる眼に力がある。英治がそこにいるのを確かめるようにもう一度見つめてから、遅れるよ、と短くいった。
「あ、うん。なあ、大丈夫なんか? 起きて」
玲子はにっこり笑って頷いた。そうか、よくなったのか。ちょっと疲れが出たんやな。まあ昨日もしんどそうではあったけど、重病というふうでもなかったし。じゃあせめて今日くらいは早く帰ってこよう。子どもたちも喜ぶやろう。玲子の泣き顔だって正直見たくはないし。
登校するふたりの子どもたちと家を出た。となり近所の顔見知りの人たちと挨拶を交わしながら駅への道を急いだ。途中で子どもたちは田植えの終わった田んぼのあぜ道を通って学校へ向う。
「おとうさん、今日は早い?」
次男の翔が腕にぶら下がるようにして訊いてきた。兄の良太は数メートル先を歩いている。
「早く帰るよ」
英治は良太にも聞こえるようにいった。じゃあね、いってきまーす。と走り出した翔を見送ったあと、しばらくその場に佇み、緑の濃くなったなだらかな山並みを眺めていた。近くの雑木林でなんという鳥だろうか、ピッチョピュツツツィー、としきりに囀っている。
大阪市内から生駒山を越えてベッドタウンといわれるこの地に引っ越してきたのは長男の良太が一歳を迎えたばかりの頃だった。喘息気味だった息子のことを考え、少しでも空気のよい場所をと選んだのだ。以前住んでいた近くには九十になる英治の母が今もひとりで暮らしている。引っ越すとき母も一緒にと勧めたのだが、友だちと離れるのはいやだからといって承知してくれなかった。一番上の姉夫婦が車で五分ほどのところにいて、何かと母の面倒を見てくれるので助かっている。女ばかり三人の末っ子に生まれ、かわいがられた英治はいつまでも母のことが気になってしかたがない。母もまた、他の誰よりも彼を心配しているのが何かにつけて伝わってくる。
今のこの状態を母が知ったら、何というだろうか。
自嘲気味に口をゆがめ、駅に向って歩き出したとき、背広の内ポケットで携帯電話が着信を報せて小刻みに震えた。液晶画面を見ると佳代子からのメールが届いていた。
──昼休みに図書館で待ってます。
とあった。携帯をたたみポケットへしまいながらなんで図書館なんだろうと首をかしげた。新しくできた市立の図書館で、英治の会社や佳代子の家からも近い。一、二度利用したこともあるがデートに使ったことはない。真意がわからないまま、どうせ気まぐれで思いついたのだろうと、かえって微笑ましく感じた。
職場についてからすぐに依頼されていた台所のリフォームの見積もりに出かけた。昨日行ったんじゃあなかったのか、と訊く中村に「昨日とは別です」と応えて事務所の奥に向いながら思い出したように振り返り、「半日かかると思うのでそのまま昼メシ行くんで」と付け加えた。駐車場に出て小型のバンに乗り込んだ。シートベルトを締めながら、ここももう十二年になるのか……と、ふと思った。大学を出て三十年。何度か転職を繰り返してきたが今の職場が一番長く続いている。しかしあと十年、玲子がいったように子どもたちが大学を出るまで踏ん張れるだろうか。六十過ぎてしまうんか……。漠然とした不安が胸の奥から湧いてきたが、そんな先のことは考えてもしかたがないと首を振った。
依頼者宅で、新しく入れるコンロの色やオーブンの性能のことで細かな注文があったりして手間取り、やっと納得してもらえたときには昼どきに近かった。
早く片付けばどこかで時間を潰すつもりだったのがこれでは図書館に直行しなければ佳代子を待たせることになる。そうなるとまた機嫌が悪くなるかもしれない。出された麦茶を飲み干し、あわただしく依頼者宅を辞した。
曇り空から雨が落ちてきた。十五分ほど遅れるとメールを打ってから英治は車を幹線道路に向けて走らせた。十五分の遅れの代償はなにを要求されるのだろう。どこかでランチでも食べようというのだろうか。胸元に眼を落とし、服の汚れを手で払った。図書館の駐車場に車を入れて雨の中を小走りで建物に向った。自動ドアを開けて入ると、エントランスホールに並べてあるソファーに佳代子はいた。手首の時計を見たがそれほど遅れてはいなかった。他人の眼があるので少し離れて座った。
「今日ね、子どもたちおばあちゃんとこへ泊まりに行くのよ。いとこの誕生日でパーティーするんだって。だから……」
座っている正面に二階へ通じる階段がある。その奥にエレベーターがあり2の位置で停まっていた。階段から中年の女性が降りてきた。チラッとこちらに眼を向けたがすぐにそらせた。
「だから、泊まっていってよ。奥さんにはお姉さんかおかあさんのとこに行くっていって」
「あ、今日はあかんわ。早く帰るって子どもと約束したし、嫁さんもそのつもりしてるし」
躊躇せずに返事をしたのが佳代子は気に入らなかったようで、英治は嫌というほど腕をつねられた。顔をしかめたが声を出すわけにはいかない。つねられた箇所をさすりながら、二階へ上がっていった佳代子のあとを追った。閲覧室は広々としていて片側には大きな窓があり、隣接する公園の樹木が見渡せて落ち着いた空間を作っている。平日の午後で利用者も少ない。窓の下に設置された椅子に座っているのはたいていが老人だ。本を読んでいるのか眠っているのかわからない格好で皆一様に首を垂れている。
佳代子は美術関係の本の並んだ書架の間をずんずん奥に進んでいく。
「ねえ、去年天王寺の美術館に行ったよね。フェルメールって画家の絵を観に」
言いながら彼女は指先で本の背表紙をなぞり当該の画家の名前を見つけるとそれを取り出した。
「あたし、ホントいったら絵なんてあんまり興味ないんよ。ミルクを注ごうが、耳飾りが蒼かろうが、何だっていいの。英と一緒にいられたらそれでいいの」
ページを繰りながら佳代子が言った。横に並んで同じように背表紙の文字を追ってはいるが、英治はどういえば納得してもらえるかということに心を砕いていた。
「今週ずっと遅かったやろ。せめて今日だけでも帰ってやりたいんや。な、わかってくれるか。また来週からいつでも逢えるんやし。月曜日に行くわ。仕事終わったらすぐに」
「いやよ」
突然佳代子が叫んだ。
書架の端から人の頭が見えた。英治はあわてて佳代子の腕をつかんでさらに奥へ連れていった。突き当たりは人ひとりが通れるくらいの通路になっているが、コンクリートの壁から柱が大きく突き出していて窓は高い位置にしかない。柱の陰に隠れるようにもたれ、同じ言葉を繰り返した。
「なんで急にそんな聞き分けのないことをいうんや」
「じゃあ、別れましょ。あたしはええんよべつに」
「誰かになにかいわれたんか」
押し殺しているはずの声がだんだん大きくなる。そのたびに左右を見まわす。
「子どもらがいてへん時くらいふたりだけで過ごしたいのよ」
「いつもふたりきりやろ。どこかへ遊びにいくときも」
「……土曜日に主人のところへ行くの。来月一日付で転勤が決ったの」
意を決したように佳代子が顔を上げた。
「転勤て、今度はどこ?」
訊きながらいやな予感が雲のように広がっていった。昨日までそんな話はひと言も出なかったではないか。
「ゆうべ遅くに電話があって、帰ってくるんだって。大阪に。ほんとはもうちょっと早くにわかってたらしいんやけど、今ごろになって言うんよ」
言葉がなかった。大げさにいえば来るべきものが来た、という感じだ。一拍おいて、ああそうかと思った。置きっ放しにしてあるシャツやパンツや作業服を持って帰らないといけない。いや、処分しなければ。落ち着きなく顔を上げたとき壁の時計が目にとまった。一時をすでにまわっている。
「な、なあ、とにかく今日はあかんのや。そうや明日、明日逢おう。土曜出勤や言うて出てくるから。な、な?」
「明日はダンナのとこへ行くって言うてるやんか。何聞いてんの」
言い捨てて佳代子はひと言も口をきかなくなった。しかたなく英治は会社の車で佳代子を家の近くまで送っていった。キスをしようとすると、顔をそむけて佳代子は無言のまま車を降りた。
職場に戻ってからも仕事が手につかない。午前中の工事の見積もり計算や、メーカーへの発注もあとまわしにして、頬づえをついたままぼんやりと降る雨を見ていた。それでも頭の片隅には妻や子どもたちのことが引っかかっている。
「生田さん、大丈夫ですか」
頭を抱えている英治に事務の女の子が声をかけてきた。恋わずらいですか、と茶化す彼女に、まあねと苦笑しながらかわした。
夕方になって妻の玲子から携帯に電話がかかってきた。どうしたのかと訊くと、玲子の携帯電話に知らない相手からかかってくるというのだ。しつこく鳴らすので出るとすぐに切れてしまう。
「放っとけよそんなの。いたずらやろ」
言いながらもしかしたら佳代子では、と疑った。しかしいつ玲子の番号を調べたのだろう。
「着信拒否にしといたらええ。そしたら鳴らへんから気にならんやろ」
「したわよ。でもね、見たら一、二分くらいの間に何十回とかけてきてるんよ。履歴のとこに同じ番号がズラッとあるのよ。ぞっとしたわ。どうしよう」
玲子が本気で怖がっている様子が伝わってきた。たぶん、佳代子のしわざに違いない。英治の携帯を見ることくらい何でもないことだし彼女ならやりかねないだろう。今夜だめだといった、それだけのことでそこまでするのか。
「ほんなら電源切っとき。用事があったら家にかけるから」
「早く帰ってね」
だが英治はそれには答えなかった。携帯電話を折りたたんでポケットにしまうと立ち上がって給湯室へ向った。インスタントコーヒーを作り、それを飲みながら自分の机に戻って手付かずでおいてあった仕事を片づけ始めた。
ガスが出ないお湯が出ない、床暖房についての話を聞きたい、などといった電話には若い社員を向わせた。そうして定時の六時まで思いつめた表情で息を潜めるようにじっとしていた。事務員の女の子はチラッと視線を投げかけるもののさっきのように話しかけたりはしなかった。
六時になるやいなやタイムカードを押して英治は事務所を飛び出した。駐車場の隅に停めてある自転車を引きずり出し跨ったが、あわてていたためペダルに足をかけそこね、脛を打ちつけた。顔をしかめ舌打ちしながら尻を浮かしてこぎ出した。雨はやんでいた。雲の切れ目から時おり陽がさす。まだ沈みきらない夕日に向って幹線道路を走った。途中で左に折れ、細い路地をいくつか曲がって佳代子の家の前に来た。英治が急ブレーキをかけて自転車を停めたので、近くで子どもをあそばせていた若い母親が何事かと英治のほうを見た。
いつものようにマーチの横に自転車をおき、門からではなく勝手口のドアをたたいた。ドアが開けられるまでのわずかな間、英治はさっきの母親を振り返った。子どもを抱き上げてこちらを見ていた彼女はバツが悪そうに立ち去った。
細めに開けられたドアの隙間から佳代子の顔が見えた。無言のままドアノブをわしづかみにして勢いよく手前に引き、身体をすべり込ませるようにして中に入った。後ろ手でつまみを回して鍵をかけた。靴を脱ぎ台所に上がった。何か言おうとしながら後退りをする佳代子の腕をつかんで自分のほうに引き寄せ抱きしめた。
「来れないっていってたのになんで来たの」
くぐもった声で佳代子が言った。英治は頬で彼女の髪をなでまわし身体を屈めて顔中にキスをくり返した。佳代子が膝から崩れ落ちそうになるのを支えながらリビングに移動した。ねえなんで来たの、と佳代子は同じことを訊いた。
黙っている英治に少し苛立ちを感じているようで、そのくせ嬉しそうでもあった。訊いた言葉の語尾が崩れていた。ソファに佳代子を座らせ身体を密着させるように腰を下ろした。脇から回した手で佳代子の胸をブラウスの上から触った。
「女房のケータイに何べんも電話かけたやろ」
「そんなの言いにきたん」
胸の手を払いのけられた。反対の手で触ろうとするとそれも拒否された。
「女房は関係ないやろ」
「英が、奥さん大事やっていうからよ。そしたらあたしはどうしたらええん? 今月末には旦那も帰ってくるんよ。あと二週間もあらへん。あたしらもう逢われへんかもしれへん」
「そんなことはない」
言下に否定したがそれは希望でもあった。これまでのようにいつもいつも逢えないかもしれないが、わずかな時間でもやりくりすれば逢えるはずだ。何より自分は近くで働いている。今日のように図書館や喫茶店などで昼休みに逢うことだって可能だ。
「そんなん、おもしろくない。一時間くらい逢っても……」
「何とかするよ、絶対。毎日は無理でも週に三、いや四回は逢うようにする。せやから家には電話せんといてくれ」
「だから、一時間くらいじゃあ何もできないわ」
佳代子は膨れっ面をして横を向いた。何をしたいんや? と覗き込むと反対を向く。ゆってみ、と身体ごと向きを変えさせようとすると捩って抵抗する。
「佳代……」
「だって、何をどういっても英には奥さんがいるんだし、別れるつもりもないんでしょ。うちでご飯食べてもお風呂入っても子どもたちの勉強を見てくれても、英の奥さんにはなられへんもの。あたしは旦那なんか好きじゃない。子どもたちだってそうよ。英がおとうさんならいいのにっていってる」
それは英治も同じ思いだ。ずっと考えていたことだ。しかし、いったん言葉に出してしまうと代償として払うものや負わねばならないものの重さに耐えられないかもしれない。それに英治の子どもたちは何も知らないのだ。佳代子のように思いをすべて吐き出してしまえたらどんなに楽だろう。
「やっぱり無理やったんやわ。別れたほうがええかもしれへんね」
その言葉が引き金になったように英治は佳代子を抱きすくめた。互いの唇を音を立てて吸いながら、着ているものを脱ぎはじめた。今までにない興奮に全身が火照った。佳代子がブラウスを脱ぎブラジャーを外すのを待つのももどかしくソファに押し倒し、覆い被さった。
気がつくとソファから落ちたのか降りたのか、床で抱き合っていた。上半身を起こしあたりを見回した。外はすでに真っ暗で、網戸だけで窓も閉めずカーテンも引いていないリビングの奥にまで闇は忍び込んでいた。自分たちもその中に包まれてしまっている。時間を知ろうにも壁の時計が見えない。英治は脱ぎ散らした衣服を手探りで引き寄せ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。開いたとたん画面の白い灯りが眼を射た。見るともう九時に近かった。同じ場所に不在着信を報せるマークが出ていた。一瞬、胸が痛んだが打ち消すように首を振った。着信履歴には妻の玲子が携帯と家の電話から何度かかけたのが残っていた。メッセージまで録音されていて耳に当てると「早く帰るっていったのに忙しいの? 忙しいならしかたないけどできたら連絡してきて」と玲子のあきらめたような涙声が聞こえてきた。
携帯を手にぼんやりとしていたら、起きてたん? という声とともに佳代子が背中に寄りかかってきた。乳房を押し当てながら腰のあたりから手を伸ばして英治の下腹部を触った。冷たい手だった。手の冷たい人は心が熱いのよと妻が話していたっけ。妻の手はどうだっただろう。いまはそれさえ思い出せない。
外から入ってくる薄明かりと暗がりに眼が慣れてきたこともあってリビングの調度品の輪郭がはっきりしてきた。それとともにまだ隣人が起きているような時間に、こんな場所でこのような格好でいることに急に落ち着きをなくした。脱いだ服をかき集め身支度をはじめた。床にあった携帯電話に気づいたのか、佳代子が手を伸ばしてすばやく取り上げた。「なに? 奥さんに電話してたん」いいながら開き、英治が止めるまもなく発信のボタンを押した。電話を取り返そうとする英治から身をかわし、裸のまま窓のそばに立った。身体を隠すようにカーテンを巻きつけている。ほのかな明りに佳代子の笑った顔が浮かんだ。金縛りにあったように身を硬くしている英治の耳に入ってきたのは、
「あ、生田さん? 奥さんよね。あたし、佳代子っていいます」
まるで近所の知り合いに話すように親しげで明るい声だ。
「そうよ、これご主人のケイタイ。あたしの家に居てるんよ。うそやないわ。夕方からずーっと、うふっ。あたしたちもう一年半、ううん、知り合ったのはもっと前やわ。いつも一緒にいてくれるんよ。泊まってくこともあったわ」
佳代子が喉の奥でクックッと笑うのと呼応するように、手にした携帯電話の小さな明りが点滅を繰り返している。英治はなす術もなくそれを見つめていた。
通話中を示す明りが消え、携帯を閉じる音がして座り込んでいる英治の膝元に転がってきた。それを拾いズボンのポケットにねじ込みながらのろのろと立ち上がった。
「佳代子」
「いいでしょ。あんたがいつまでも何も言わないからよ。代わりにあたしが言うてあげただけやないの」
興奮気味に声を上げる佳代子のそばまで行き、カーテンを取ると彼女の裸体を抱きしめた。彼女は黙った。やがて英治が腕を離すと納得したように「またね」と悪びれた様子もなく笑った。英治も小さく微笑んだ。
勝手口へ見送りに来た佳代子にキスをねだられ軽くくちびるを合わせた。
ガレージから自転車を出し、跨ってから振り返ると勝手口のドアを半分開けてこちらを見ていた。後ろ髪を引かれるとはこういうことかと思いながら、断ち切るように前屈みになって漕ぎ出した。駅まできたものの自宅に帰る気にはなれなかった。帰って玲子に何て言えばいいのかと考えると心臓が絞り上げられそうだった。今さら足掻いてもどうしようもないことだが、無駄な摩擦を避けるためにも帰らないほうがいいと、英治は判断した。三番目の姉がこの一駅先に住んでいる。自転車でも二十分もあれば行けるはずだ。姉に電話をかけて一晩泊めてほしいと頼んだ。
三番目といっても七歳離れているから六十になる。週に四回、マンションの掃除のパートをしている。三人いる子どもたちはそれぞれ独立して家庭を持っている。姉自身の結婚が早かったので一番上の娘などは佳代子とたいして歳が違わない。夫は長距離トラックの運転手で一度出てゆくと一週間は帰らない。英治は何かと姉を頼りにしている。佳代子の家に泊まるときにダシにするのもこの姉だ。
姉の家に向う川沿いの道は、葉をじゅうぶんに茂らせた桜の並木が黒い塊となって立ちはだかるように枝を伸ばしている。ときどき首をすくめないと葉っぱが顔をこすっていく。一本の街灯もなく自転車のライトの明りを頼りにこいでいった。やがて橋があってそれを渡り車の行き交う道に出ると、樹木に覆われた古い公団住宅の建物が見えてくる。階段の脇に自転車を停めて三階まで上がっていった。チャイムを押すとすぐにドアが開いて姉の美津子が顔を出した。
「義兄さんは?」
招き入れられた英治は靴を脱ぎながら姉の夫の所在を尋ねた。
「仕事。いま下関に行ってる」
それよりご飯は? お腹すいてないの? と訊きながら美津子は鍋をコンロにかけた。ビール飲むよね、と冷蔵庫から出してきて、テーブルでかしこまっている英治の前に置いた。鍋から甘辛い肉じゃがの匂いがしてきた。
「昨日のやつ。ひとりだと食べきれないし」
器に盛られた肉じゃがのじゃがいもがとろけて半分ほど崩れている。玉ねぎの形はとうにない。煮詰まってあめ色に近くなったこの状態が英治の好物だ。玲子にもこんなのを望むのだが、彼女の作るものは見事なほどいもがしっかりしている。ちゃんと煮ているから硬くはないのだが、なんとなくいもも玉ねぎもすましているようで箸がすすまない。
「お、これこれ。おふくろのと一緒や。さすがやな。玲子が作ったらどうもあかんねん」
うれしそうに口に運びビールをうまそうに飲んだ。
「英、あんたのんきなこと言うてる場合ちゃうでしょ。玲子さんからまた電話あったよ。泣いてはったで今日は」
美津子はわたしもお相伴、といって自分でビールをコップに注いだ。姉が一息で飲み干すのを英治は見ていた。姉のコップにビールを注ぎながら話そうかどうしようかと迷っていた。
「前に言ってた、あの会社におったていう女の人とまだ付きおうてんの」
英治は小さく頷いた。美津子の視線を避けるように肉じゃがをほうばった。
付き合い始めた頃、姉に「ちょっと気になる女の人がいてる」と話したことがあった。ふつうの友だちより少しだけ親しい人、とも伝えた。年齢を訊かれ教えると、「なんやのん、うちのともみと四つ違うだけやん。ええかげんにしときや」と、嫌悪感をあらわにされた。それ以後英治は美津子に会っても佳代子のことはいわなかったし、美津子も訊いてこなかったので姉の中では終わっているものと思っていた。
それが立て続けに玲子から電話があって、これは……と思い出したのだろうか。
「そんな仲になってるん?」
無言で首を縦に振った。
「まえに聞いてからもう一年くらいになるんちゃうん」
「一年半……」
「旦那は? 知ってるわけないよね。知ってたらえらいことやもんね」
「単身赴任やったけど、月末に帰ってくる」
話すたびに小さく縮こまってゆく英治とは反対に、姉は椅子にもたれながら腕を組んでいる。
「なあ、姉ちゃん。義兄さんにいうてトラック乗せてもらえへんやろか」
「なんでよ。会社は?」
「辞める。佳代子の近所で働いてたら、旦那が帰ってきたら絶対なんか起こるかもしれへん。おれが辛抱できひん」
「あ・ほ」
やっぱり無理か、とうなだれた。週に三回も四回も逢うと約束しても、実際のところはできないかもしれない。何かの拍子に旦那の耳に入らないとも限らない。佳代子だけではない。ユキやサチとも会えなくなる。あの家で勉強を見てやることも、食卓を囲むこともなくなる。
「あんたとこの良太や翔くんにまだまだこれからお金かかるんやで。少しは父親らしいことしてあげてんのんか」
コップの水滴が落ちてたまり、テーブルに水の輪ができている。姉はそれを何度も布巾で拭いた。
「玲子さんなあ、うすうすは感じてたんやて。あんたに誰かいてるんとちがうかなあって。けどもし、浮気やとしても一時のことで片目くらいはつむってもええかな、みたいな。まあ、玲子さんかてあんたと真美さんとの中に割って入ってきた人なんやからそこらへんは複雑なとこあるわな」
姉の言葉に英治はピクリと肩を動かした。
真美というのは最初の妻だ。大学卒業後三年ほどして結婚をした。そのあと短大を出て入社してきた玲子と知り合い、いろいろあって結局真美とは離婚をした。あの時もそうだったが今回もまた、英治の優柔不断な性格が招いたことでもある。しかし今回は佳代子の夫が遠くにいることもあって二人の仲がバレることなどありえないと、高をくくっていた。佳代子の娘たちも自分には好意的だし、このまま居心地のよい状態が続くことを願っていた。そして、できれば自分の家族に波風が立たなければ最高だ、と。
「あんたなあ、真美さんひとりしあわせにできへんかってんやろ。今度は子どももいてるねんで、どっちの家庭も壊してしまうかもしれへんのやで」
「……それでもええ」
「なに言うてるのん。若い子やあるまいし。しっかりしいや。ほんまにこんなことおかあちゃんが知ったら何て言うか」
吐きすてるように言って立ち上がった美津子は、思い出したように英治を振り返り「玲子さんにうちへ泊まること言うたんか」と訊いた。いいや、と首を振る彼に、電話しときや、と言い残して台所を出ていった。
ビールの最後の一滴を、未練がましくびんを振ってコップに注いでから英治は携帯電話を取り出した。自宅の番号を出そうとして手を止めた。家の固定電話はかけてきた相手の番号と名前が表示される。携帯でかけておいて姉の家にいる、と言っても玲子は信じないだろう。それなら、と英治は食器棚の横の電話に手を伸ばした。美津子のところからだとわかれば出てくれるかもしれない。少なくとも居場所だけは嘘ではないと信じてもらえるだろう。
しかし、電話はむなしく呼びつづけるだけだった。あきらめて受話器を置いた。妻とふたりの子どもが、暗闇の中で息を潜め、肩を寄せ合って電話の音を聞いているのだろうか。それでもそんなふうにされるとよけい、逃げ出してしまいたくなる。
翌朝、姉に起こされた。中学生の頃こんなふうにして起してもらったことがあったなあ、と記憶を手繰り寄せた。寝ていた四畳半の部屋には朝陽が容赦なく射しこんでいる。一瞬、今日が何曜日なのかわからなかった。ぼんやりとした頭で立ち上がり、玄関脇の洗面所に向かおうとしたとき台所から「起きたん?」ともう一度姉の声がした。顔を洗って戻ってくると姉の美津子は出かける仕度をしていた。
「今日、仕事やねん。悪いねえ。もうちょっとしたら行くからあと頼むわね。あ、ごはんはパンでも食べといて。それで、鍵は合鍵渡しとくからまた今度返してくれたらええわ」
言いながら冷蔵庫から牛乳を出してコップとともに英治の前に置いた。
「ちゃんと、玲子さんに謝るんやで」
椅子に座っている英治の目線に合わせるように身体を屈め、美津子は子どもに言いきかせるように頷いた。頭を押さえつけられるのではないかと、身を引いたがそこまで子ども扱いはされなかった。
「ほな、行くよ。大丈夫やね」
念を押してからテーブルに鍵を置き、美津子は玄関に向かった。英治は立って形だけの見送りをしてすぐにテーブルについた。新聞を広げていてもトーストをかじっていても、携帯電話が気になってチラチラ視線を送るのだがうんともすんともいわない。今日は土曜だし子どもたちの学校も休みだ。見上げた壁の時計は十時を指していた。英治は牛乳を飲み干し、四畳半に戻って服を着替え、パン皿やコップを洗い上げてから台所の電気を消した。玄関を出てドアを閉め、鍵穴に鍵を差し込んで回した。施錠されたのを確かめてから階段を下りていった。これから自分の家に帰るというのに、なぜこんなに気合を入れねばならないのだろう。
佳代子は昨夜のことで満足しているとみえて電話すらよこさない。
勝ち誇ったように言いたいことを言ったのだから、これ以上なにも望むことなどないだろう。
自分の家に帰るのだから堂々とすればいいと思いながらも人目を避けるように玄関のドアを開けた。音に気づいたのか、子どもたちが真っ先に走ってきた。
「おかえり、おとうさん。ゆうべなんで帰って来れへんかったん」
飛びつこうとする翔を、兄の良太が止めた。唇を噛みしめたまま父親を睨みつけている。英治が言葉をかけようとするとふいと顔をそらせて逃げるように行ってしまった。残された翔は、それでも嬉しそうに英治の腕をつかんでスキップをしながら奥へ連れて行った。リビングを覗くと玲子が放心したように床に座っていた。
「ただいま……。ゆうべ姉貴のところに泊まったんや。電話したけど出えへんかったし」
良太が心配そうに母に寄り添っている。
玲子はそんな息子の肩を抱き寄せて、二言三言ささやいた。それから軽く背中を押した。見ている英治を無視して、良太は弟を連れて二階へ上がっていった。二人の足音が遠ざかっていくのを待って、玲子が口を開いた。
「出て行ってくれへん?」
「え?」
一瞬、英治は耳を疑った。同じように床に膝をついて妻を覗き込んだ。まぶたが腫れている。目が赤い。英治は言葉に詰まった。
「出ていってって言ってるの」
「なんで?」
「なんで?」
初めて玲子が正面から英治を見据えた。叫ぶだろうと思った。喚くだろうと身構えた。しかし、それらの感情は玲子にはとうに出尽くしてしまっていたのか、心底軽蔑した眼差しを英治に向けただけだった。
「なんで、って訊くの? なんでって。自分で答えも出されへんの? あの女のとこへでもどこでも行けばいいでしょ。よくも今までだましてくれてたわね。とにかく、わたしたちの前から消えてしまってよ。子どもらに父親ヅラせんといて」
玲子の、腫れたまぶたの奥の目から涙が溢れ出した。英治は弾かれたように土下座をした。床に頭を擦り付けいまはひたすら謝るしかないと思った。
「どうせあんたは、子どもが成人したら、わたしらを棄ててどこかへ行くつもりなんでしょ」
絞り出すように玲子が言った。英治は顔を上げることができなかった。
「夕方までに仕度をして行ってちょうだいね」
玲子の声が頭の上から降ってきた。
「翔や良太にはなんて言うんや」
「おとうさんは仕事が忙しいからしばらくおうちに帰ってこれないんよ。って、言いきかせたらわかってくれたわ。もっとも良太は本当のことを知ってるけどね」
「本当のことって?」
英治は思わず立ち上がりかけた。
「おとうさんが、わたしたちを裏切ってたってこと」
言い捨てて玲子はリビングを出ていった。二階から「お話すんだあ? おとうさんと遊んでいい?」と、翔の屈託のない声が聞こえてきた。すぐに階段を下りてくる音がして、翔が顔を覗かせた。
「悪いな、おとうさんこれからまた仕事なんや。で、しばらく帰って来れへんのや」
「えーっ、もう行くの。いつ帰ってくるん、どこ行くん」
どこ、と訊かれて英治は答えに詰まった。
さすがに佳代子のところへは行けない。姉のところか、それとも実家か。
母に、なんて言えばいいのだろう。最初の妻と玲子のときも、英治を責めるような言葉は口にしなかった。それがかえって痛いほど身にしみて今度こそは、と誓ったはずなのに。
「おばあちゃんとこに行くの? それなら遊びにいったり電話できるね」
英治は良太と違って小柄な翔の身体を抱きしめた。
簡単な身の回りのものだけをボストンバッグに詰めた。
玲子は英治と顔すら合わせないようにしているようで、彼が仕度をしている間はリビングにいて、それがすむと無言で二階へ上がっていこうとした。
「子どもたちのこと、頼むな」
階段を上がりかけた玲子の肩が小さく震えていた。英治は翔の頭を撫でながら「おかあさんや、お兄ちゃんの言うことよく聞くんやで」と笑いかけた。
「電話していい?」
翔は両親のどちらに訊くでもなくつぶやいた。
「おとうさんのほうからかけるから、それまで待ってて」
「絶対やで」
翔は小指を英治の目の前に差し出した。指切りをしながら英治の視線は二階へ上がっていった妻を追っていた。
玄関まで翔が見送ってくれた。泣き出しそうな顔の息子につとめて笑顔を見せながら手を振った。
英治はのろのろと駅へ向かった。姉の美津子の家に行く気にはなれなかった。乗り換え駅で快速急行に乗り、大阪まで行くことにした。携帯電話に佳代子からの着信はない。何度かかけようと試みたが、結局ため息とともにポケットにしまった。
すぐに実家に行く気にはなれなかったのでパチンコ屋で時間を潰した。数千円くらいはあっという間に消えてしまう。肩を落として店を出て道路を横切り、私鉄駅の構内に入った。電車に乗っていると雨粒が窓を叩き始めた。傘をもっていないので英治は降りた駅からタクシーで実家に向かった。少し手前で降り、雨の中を走った。実家は五軒続きの長屋が向かい合っている。どの家の前でもかつては子どもたちが群れをなして遊んでいたが、今は老人用の手押し車がちんまりと置かれているだけで人の姿もない。
英治は玄関の戸を遠慮がちに開けた。上がり框にボストンバッグを置いて「おかあちゃん?」と声をかけた。雨のせいか家の中が薄暗い。三畳ほどの板間の向こうにある襖が開いて小柄な老女が顔を覗かせた。鼻眼鏡を指で押えながら上目遣いにこちらを見ている。
「なんや、誰かと思ったら英ちゃんか」
それだけ言うと背中を向けてしまった。何か言われるだろうと覚悟をしていた英治は、肩透かしを食ったようで気が抜けてしまった。
「そんなとこにおらんと、はよ上がり」
英治は素直に母の言葉に従った。ボストンバッグを部屋の隅に置いて、母から少し離れて座った。
「しばらくおらしてもらえんやろか」
母は縫い物をしていた。針を針山に戻すと、両手を膝においてじっと英治を見つめた。
「先におとうちゃんに挨拶せんかいな」
母に言われて英治は仏壇の前へにじり寄った。父は英治が大学生のときに他界した。今の自分とよく似た面差しの父が笑っている写真の前で、形だけ手を合わせた。振り返ると待っていたように母が口を開いた。
「みっちゃんから電話あったで。玲子さんを泣かすようなことしたらあかんて前にも言うたはずやで」
九十になっても母は母だ。眼鏡の奥から睨まれると小さな子どものように肩を縮こませた。昨日の今日なのに、もう姉からすべて伝わっている。女同士のネットワークの確かさに英治は呆れた。
「聞いてるんやったら話が早いわ。玲子に追い出されたんや。しばらく別居しようって。行くとこないねん」
「その相手さんのとこでも行ったら? あの子やろ、今年の正月にあんたが初詣の帰りに寄ったとき一緒にいてた」
母は覚えていたのだ。
三が日がすんで、玲子には友人と会うと嘘をついて佳代子と住吉大社へ初詣に行った帰り、なぜか急に佳代子を母に会わせたくなって立ち寄ったのだ。佳代子も喜んでついてきた。英治にぴったりと寄り添うその姿を、母はどんな思いで見ていたのだろう。
その後、十日ほどして英治に母から手紙が届いた。
日常のこまごまとしたことを書き記した最後に「今度こそ家庭を大切にするように、願います」とあった。それは英治にとって骨の髄まで染み込むような言葉だった。誰に言われなくても分かっていることだったが、そのころ英治の気持ちはもう後戻りできないところまで来ていた。
母は、当たり前と言えば当り前だが、佳代子とのことをよくは思っていなかったのだ。
「行けるんやったらとうに行ってるわ」
ふて腐れたように言って足を崩し、胡座をかいた。
今日、佳代子は夫のもとへ行くはずだ。そうして今月末には夫は帰ってくる。
「まあ、ええ年した息子相手に、いまさらおかあちゃんがあれこれ言う立場でもないしな。けどな、翔と良太にだけは寂しい思いさせたらあかんよ」
母は縫い物を片づけ、裁縫箱を脇へ押しやると畳に手をつき、ヨッコラショとかけ声をかけて立ち上がった。足元がおぼつかなくてよろけた母を英治はとっさに手を伸ばして支えた。
「ビール、飲むか?」
台所へ向かう母の背中が曲がっている。見るたびに小さくなっていくような気がする。これ以上の心配はかけたくないと思いながら、気持ちとはうらはらにいつまでたってもしっかりできない自分が情けなかった。
母を手伝い、少し早いが夕食の準備をした。豆腐やちりめんじゃこや煮豆が並ぶ卓袱台を挟んで向かい合い、英治は母と一緒にビールを飲んだ。母はもうよけいなことは何も言わない。黙って英治を見ている。気恥ずかしくなって英治は目をそらせた。静かな部屋に雨の音だけが聞こえていた。ふと、子どもたちのことを思い出したが、思っても今はしかたがないと首を振った。
雨やし今日はやめとくわ。と言う母をおいて夜遅くに風呂屋に行った。帰ってくると隣の四畳半に英治の分の布団が敷かれていた。一旦は横になった英治だったが眼が冴えて眠れない。「おかあちゃん」と呼んでみたが返事はない。腕を伸ばして襖を開けた。豆電球の灯りの下で母の姿は小さな子どもが寝ているようだった。息を凝らし耳を澄ますと、母の寝息が聞こえてきた。しばらく見つめていた英治は安心したように枕に顔を埋めた。
翌日の日曜日は一日何をするでもなく過ごした。玲子はもちろん佳代子からも連絡はない。父の形見の着物を着て、裏庭に降り続く雨を眺めていた。母は黙って縫い物をしている。
「このままずっと、こうしてられたら一番ええんやけどな」
誰に言うともなく呟くと母がチラッと眼を上げた。
月曜日、英治は仕事をしていても落ち着かなかった。何度か理由をつけて早退することを考えたがそれもできないまま夕方になってしまった。そのころになってようやく佳代子から、帰りに寄ってほしいとメールがあった。なくてもこちらから行くつもりだったので適当な理由をつけて会社を出た。妻と別居をしたと知ったら佳代子はどんな顔をするだろう。そんなことを思いながら家のインタホンを押した。前の道を犬を連れた散歩の人たちが通る。何度も何十回もこの家に来ている。訝しく思う人もいるだろう。英治と佳代子の関係をあれこれ詮索する人もいるかもしれない。陰で何を言われているか想像はつく。それでも英治は佳代子と、一分、一秒でも長く一緒に居たいと願っていた。
応答がなくいきなり玄関のドアが開いた。佳代子が満面の笑みで出迎えてくれている。駆け出したい気持ちを押えて英治はゆっくりと門扉を開けた。玄関に入りドアを閉めると奥からサチとユキの声が聞こえてきた。
「おっちゃん、早く早く、来て」
何事かと佳代子を振り向くと、彼女もまたにこにこしながら英治の背中を押してリビングへ連れて行った。一歩足を踏み入れて英治は目を見張った。きれいに飾り付けられた食卓テーブルにご馳走が所狭しと並んでいて、真ん中にはケーキまで置いてあった。ユキとサチは互いに顔を見合わせてから英治の目の前でクラッカーを打ち鳴らした。
「お誕生日、おめでとう」
「おめでとう、おっちゃん。いくつになったん?」
「ご、五十、三。え、けどなんで?」
思いもよらなかった出来事に、英治は戸惑いながらも喜びを隠し切れない様子で勧められるまま椅子に座った。
「誕生日、覚えててくれたんや」
言いながら、今の今まで忘れていたことに気づいた。
「あたりまえやん。おとうさんみたいなもんなんやし、おっちゃんは」
「ユキちゃんは嬉しいことを言ってくれるね」
「うちのおとうさん帰ってきたら、一緒に飲んだらええねん」
横からサチが呟いた。英治はドキッとして二人を交互に見た。どこまでが本気なのだろう。どこまでこの姉妹は自分に気を許しているのだろう。この場に居ていいのかどうか分からなくなってきた。
「さあさあ、乾杯するわよ」
気まずい空気を振り払うように佳代子が言った。
「ねえ、おっちゃん。家に帰ってからも誕生日祝ってもらうん?」
英治にビールを注ぎながらサチが訊いた。目の奥が意地悪そうに光ったのは気のせいだろうか。
「そんなん決ってるでしょ。おっちゃんにはちゃんと家族がいるんだから」
佳代子の声に剣がある。
「じゃあ、ご馳走作って待ってはるんかな。子ども、いてるって言うてたよね」
サチは母の気持ちを逆なでするようなことも訊いてくる。
「うん、まあ。でもこっちで祝ってもらったらもうそれでええよ。ええ年して恥かしいし」
このあと帰っていくのは、自宅ではなく母のいる実家だとはなかなか言えない。いっそのこと、この家から会社に通おうかとも考えた。佳代子の夫が帰ってくるという月末までここにいてはいけないだろうか。いや、それはさすがにできないだろう。本当なら気持ちよく酔えるはずなのに、あれこれ考えてばかりでビールが進まない。
「どうしたん。深刻な顔して」
そばに座った佳代子がビール瓶を傾けながら覗き込んできた。黙っていると、
「奥さんに家追い出されたんでしょ」
と、笑った。
「なんで、わかるねん」
それほど大きな声ではなかったが、テレビを観ていたユキとサチが揃ってこちらを向いた。
佳代子はさらに顔を寄せて
「とうとう離婚? 決心したん」
「いや、しばらく別居、ということで」
「なーんや。つまらんわあ」
再び、娘たちが何事かと顔を上げた。
「あんたたち、おっちゃんもう帰るんやて。おかあさんちょっと送ってくるから戸締りだけしといてね」
何がつまらんと言うのだ。もとはと言えばおまえが電話をするからや。思ったが口には出せなかった。佳代子のせいばかりではない。
佳代子はガレージに回って車を出してくれた。
これはもしかすると、ホテルにでも行くつもりなのか。
助手席に乗り込んだ英治は、佳代子のスカートの裾に手を入れようとした。とたんに、ピシャリと手の甲を叩かれた。
「来週末には旦那が帰ってくるんよ。これからのことどうするか考えてよ」
「どうって……」
「あたしはあんたの奥さんにちゃんと言うたわ。あたしたち、付き合っているって。それで奥さん、別居話を持ち出したんでしょ。じゃあ今度はあんたの番やわ。うちのが帰ってきたら言ってくれる? あたしたちは一緒になりたいって思ってるって」
「そ、それは」
英治は口ごもった。そんなに早急に答えを出さねばならないものなのか。
佳代子の夫が帰ってきても、うまく時間を作って逢えばいいではないか。
「どうなん。言うてくれるん。それともよう言わんの」
「いや、だからそんなに急がんかて。今までみたいに昼間とか夕方とか、時間作るから。それでええんちゃうん」
「あたしはあんたの何?」
言うなり佳代子は車を急発進させた。シートベルトをしていなかった英治はシートで背中を打ち付け、反動で前につんのめった。とっさに手でダッシュボードを押え、身体を支えた。慌ててシートベルトを締めながら佳代子を見たが、彼女は口を真一文字に結んだまま前を凝視している。スピードを緩める気配もなく右折左折をくり返している。
幹線道路に出て車の流れに乗ったところで、ようやく佳代子は口を開いた。
「あんたの故郷へ一緒に行こうって、言うてくれたやん。九州。あれ、嘘なん?」
「あ、いや。嘘やないけど」
再び英治は言いよどんだ。
「じゃあ今から行こうよ。このまま走ってたらそのうち着くやん。ね? そうしてよ。そうするって言ってよ」
けれど英治は答えられなかった。黙ったまま佳代子の運転に身を任せるしかなかった。道路沿いのファミリーレストランやコンビニの明かりが、目の前に飛び込んできては後ろへと去っていく。
ふいに良太と翔の顔が、フロントガラスに浮かんだ。
自分の帰りを待っているであろう年老いた母のことを思った。
「佳代……」
声をかけようとしたとき、佳代子が路肩に車を停めた。しばらくハンドルを握ったまま顔を伏せていたが、突然身体をひねって後ろの座席から大きな紙袋を引きずり出し、英治に押し付けた。
「あんたのシャツやパンツや作業服。旦那が帰ってくるのに置いとかれへんでしょ。持って帰って」
いつのまに用意をしていたのだろう。一抱えもある紙袋を持たされて英治は困惑した表情で佳代子を見つめた。
「ここからタクシーでも拾って帰ってよ」
「なんでや。なんで怒ってんねん。明日もあさっても逢えるやんか。おれは家に帰らんでもええねんから。朝まででも一緒におれるんやで」
ほとんど懇願するような口調で佳代子に迫ったが聞き入れてもらえなかった。
置き去りにされた英治は迷子のように途方にくれた。
待っていてもタクシーも通らない。英治は携帯電話を出して姉にかけた。
「あ、ねえちゃん。やっぱり義兄さんに言うてトラックに乗せてもらえんやろか。うん、半月でも一ヶ月でも帰れんかてかまへん……。おれ、逃げるわ」
完
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