入り口の扉にぶら下げてあるプレートがひっくり返る。準備中から営業中へ。今日も夕方の五時に店が開く。マスターは店の前のガードレールに腰掛けているかっちゃんに「はいどうぞ」と声をかけた。かっちゃんは前のめりになって店の中へ入ってくる。
今日もかっちゃんが一番乗り。月曜から金曜まで毎日かっちゃんが一番乗りだ。もう二十年以上通いつづけている常連なのにけっして時間前に入ろうとしなかった。いつもマスターの「はいどうぞ」を待っている。
五席あるカウンターの一番奥に座り、腕を組んで背中を丸める。それがかっちゃんの自然な姿だった。最初に注文したものが出来上がるまでその姿勢を崩さないし何もしゃべらない。料理が出されてはじめて顔を上げ、焼酎のお湯割りを作る。そして飲むときは一回ずつ、ずっずっと音をたてる。料理はけっしておいしそうに食べなかった。むしろめんどうくさそうに食べていた。歯を悪くしているわけでもないのにほとんど噛まずに焼酎と一緒に飲み込んでしまう。舌と上あごでつぶれるくらい柔らかいものがいいのだと、出し巻き、冷奴、厚揚げ、じゃこおろしが好みだった。焼き鳥屋に来ていながら焼き鳥はめったに注文しなかった。
「あんたいくつになったんや」
かっちゃんがマスターに尋ねた。
「かっちゃんと同い年ですよ」
「ほな五十七か」
「そう、五十七歳。お互い年を取りましたねえ」
マスターが焼き鳥チェーン店の店長から独立してこの店を始めたのが二十年前で、かっちゃんは独立する前の店からの常連だった。開店当初は週に一回だけ顔を見せていたが、そのうち週二回、週三回となり、五年程前からはほぼ毎日来るようになった。
「ありがとうなあ、かっちゃん。かっちゃんのおかげでここまでやってこれましたよ」
これはマスターの本心だった。
「そういうてくれたらうれしいわ」
「たくさん飲んでくれたしなあ」
「飲んでばっかりや」
かっちゃんは冷奴の角に口をつけてそのままつつっと吸い込んだ。
「そんな行儀の悪い食べ方するのはかっちゃんだけですよ」
「箸がうまいこと持たれへんのや」
「飲みすぎてるもんなあ」
「そやけどあんた、今日も暇みたいやなあ」
「うーん」
「最近ずっと暇なんちゃうか」
「そんなことかっちゃんが一番よう知ってるでしょう。毎日来てるんやし」
「昨日はワシひとりやったな」
「そうですよ」
「その前はしぶやんが来てたな」
「そうですよ」
「その前はワシひとりやったな」
「忘れました」
「ワシひとりやったで」
「はいはい」
「ワシひとりやったで」
「はいはい」
マスターは焼き鳥の網を左右にずらせて中の炭をせっかちにつついた。マスターとかっちゃんだけではほとんど話にならなかった。繁盛していたころは女房とふたりでもさばききれず、メニューの一部をわざと売り切れにしていたこともあったが、ここ数年は一見客がすっかり減って注文に慌てることもなくなった。カウンター五席とテーブル四席をもてあましている。
「ざるそばちょうだい」
かっちゃんが珍しくいつもと違うものを注文した。
「ざるそばが食いたいわ」
「ざるそばねえ」
「急にざるそばが食いたなったんや」
「困りましたねえ。かっちゃん、メニュー見て欲しいなあ」
「ざるそば作ってえな」
思いつきで言っているのがマスターにはよく分かっているのでそれ以上は相手にしない。ちょっと待ってねと言いながらトマトスライスを用意してかっちゃんの前に置いた。
「ああ、これでええわ」
かっちゃんはその中のひとつを指でつまんで口の中へ放り投げた。そして焼酎と一緒に飲み込む。
開店から一時間たってようやくまた店の扉が開いた。しぶやんのおでましだ。いつも通りのトレーニングウェアー姿でやってきてどーんとカウンターの真ん中に座る。かっちゃんとは正反対にしぶやんはとにかくよくしゃべってよく笑う客だった。この日も入ってくるなり「今朝急に友達が死によってなあ、びっくりしたで」と言いながら、マスターに向かって「いつものやつ頼む」、そしてかっちゃんに向かっては「いつ死ぬねん」とそれらをほとんど同時に言うのだった。おしぼりで顔を拭いている間も「死ぬ時は死ぬ、死ぬ時は死ぬ」とぶつぶつと繰り返し、焼酎のグラスを持ち上げたかと思ったら「おっと、しょんべんが先や」とトイレに立つ。そしてトイレの中からも「かっちゃん、いつ死ぬねん、はよ死ね」と大声で叫んでいる。
いつものことだった。どんなにしつこくからまれてもかっちゃんは動じない。腕を組んで背中を丸めてしまえば自分の世界だ。だから適当に相手をしている。
かっちゃんほどではないがしぶやんもまた長年の常連客だった。注文はいつも盛り合わせと梅茶漬けの二品だけ。盛り合わせといっても焼き鳥の盛り合わせではなく、ねぎ、しいたけ、たまねぎ、ししとうを三本ずつという特別の盛り合わせだった。あとはキャベツの山盛りときゅうりを一本。アルコールはほどほどで、けっして酔っ払ったりはしない。
「かっちゃん、生きててなんかおもろいことあるんか」
これもまた顔を合わせるたびに言うせりふだった。
「あんまりないな」
これもまたいつもの返事。
「それやったらはよ死ね」
「なんでやねんな」
「悪いこと言わんさかいはよ死ね。はっはっはっはっ」
このはっはっはっはっが毒を消していた。しぶやんは肥満体の自分の腹をなでながら、俺の方が先に逝くかもしれんなあ、とつぶやく。地元の町議会議員を二期勤めていたが前回の選挙には出馬しなかった。告示日直前に心筋梗塞を起こし、医者から静養を命じられたのだ。高血圧と糖尿も悪くなっていた。だから食事や酒の量を減らしてしゃべってばかりいるというのがしぶやんの言い分だった。
「かっちゃん、あれやってくれ」
「あれってなんや」
「あれいうたらひとつしかないやろ。かっちゃんの唯一の芸」
「そんなん知らんわ」
かっちゃんは乗らなかった。また冷奴を皿ごと口元へ持ってきてつるんと吸い込む。
「かっちゃん、ゴリラやってくれ」
「ゴリラってなんや」
「ゴリラいうたらゴリラしかないやろ。酒一本つけたるさかいやってくれよ」
「知らんわ」
「やれ」
「知らん」
「おい、俺の言うことが聞けへんのか」
「なんで言うこと聞かなあかんねんな。あほちゃうか」
「あー、かっちゃん今あほ言うたな。俺に向かってあほ言うたな。はっはっはっはっ」
しぶやんの攻撃は続く。
「俺なあ、ここ来たらいつも金がなくなるねん。かっちゃん取ったやろ」
「取ってへん」
「取ったやろ」
「なんで取るねんな。人を泥棒みたいに言わんといて」
「泥棒みたいって、泥棒そのものやないか」
「知らんわ」
「そやかてここ来たらいつも金がなくなるんやで。おかしいやないか」
「それ、勘定はろてるからとちがうんか」
「はっはっはっはっ、なんで分かったんや」
「あほらし」
「あー、かっちゃんまたあほ言うたな。俺に向かってあほ言うたな。殺すぞ」
しぶやんは豪快に笑って、その大きく開いた口の中へししとうとねぎをまとめて放り込んだ。こんなものぐらいならいくらでも食べられるぞと言わんばかりにぽんぽんぽんと放り込む。かっちゃんと同じようななげやりな食べ方だったが、それは体のことを考えて量も味付けも制限しなければならないことへのいらだちの裏返しだった。
かっちゃんの携帯電話が鳴った。なくさないように常に首からぶら下げているのは鳴ったらすぐに出るためでもある。けれどかっちゃんは着信番号を見て切ってしまった。十秒もしないうちにまたかかってくる。切る。またかかってくる。切る。そんなことを何回か繰り返し、最後は「しつこいなあ」とつぶやいてようやくかっちゃんは電話に出た。
「あんたいい加減にしてや。あんなことするんやったら出ていってもらうで。……そうや、出ていってもらうさかいに……。え?……何やて?……あんたの方が悪いんやから……あんたが悪いんやで」
かっちゃんは明らかに電話の相手を怒っている。けれど声が弱々しいために迫力がない。怒りながら涙声になっているのだ。
「かっちゃん、またややこしいことになってるね」
マスターがやさしく声をかけた。かっちゃんのことを一番良く知っているのはマスターだ。二十年来の付き合いの中で生活の一部始終を知るようになった。月曜日と木曜日は朝の六時に起きてアパート前の普通ごみ収集場所で見張りをする。それが終わったら蒲団に入り直して昼まで寝て、午後は図書館でぼんやりと過ごす。火曜日の朝は駅前の自転車整理。水曜日は町内の掃除。そして金曜日はプラスチックごみの収集日なのでまた見張りをする。規則正しい生活をするために毎朝ひとつ用事が入っているが、それらはけっして自発的なものではなく、回りから押し付けられたものばかりだ。
マスターもまたかっちゃんの暮らしを心配しているひとりだった。
「かっちゃん、またお金のことかな」
「違う」
「じゃあなに」
「猫や」
「猫」
「猫がやっかいなんや」
かっちゃんはずっずっずっずっと続けて焼酎をすすった。いらついているときはこういうせっかちな飲み方になる。そして音も大きくなる。
「猫がどうしたんや」
しぶやんが横から割り込んできた。
「かっちゃん、猫がどうしたんや」
「殺されてんのや。アパートのおっさんが殺してそのへんに捨てよるんや」
「ははん。それでさっき電話で、そんなことしたら出て行ってもらうって言うてたんやな」
「そうや」
かっちゃんはアパートの家主だった。築四十年の木造二階建て単身者用アパート。その十部屋からの家賃収入で暮らしている。若い頃から定職につかずアルバイトを始めてもすぐに辞めてしまうかっちゃんを心配して、親兄弟が財産のひとつである古アパートをかっちゃんの収入源にしたのだ。かっちゃん自身もそのアパートの一階に住んでいるのだが、これまでも家賃滞納や盗みなどトラブルが絶えなかった。しかしかっちゃんにはトラブルを解決するだけの能力がない。
今回は住人による猫殺しだった。
「猫いっぱい殺して捨てよるんや」
かっちゃんの声は震えていた。
「アパートの前に捨てるの」
マスターはこれまでにも何度かトラブルの後始末を手伝っている。
「わしの部屋の前や」
「部屋の前に」
「そうや。血いついたまま部屋の前に捨てよるんや。気持ち悪いわ」
「何かもめごとでもあったんかなあ」
「知らん。あのおっさん、あたまおかしいねん。朝っぱらからナイフ振り回して猫追っかけとるねん」
こんな風にとばかりにかっちゃんは右手を上げてぐるぐる回すのだが、力が入っていないのでそれは交通整理の小旗を振っているようにしか見えなかった。
「かっちゃんのところもなかなか落ち着きませんねえ。今いくつ空いてるのかな」
「五つ空いてるわ」
「五つも空いてたら収入も少ないね」
「そやねん。そやから家賃上げる言うたらあのおっさん怒りよったんや」
「あー」
この間しぶやんはずっと笑いっぱなしだった。体を揺らせ豪快に笑っていた。太鼓腹をさすりながら時々、あほ、あほ、とかっちゃんをからかう。今日はよほど気分がいいのか、珍しくきもとしんぞうを注文した。そしてかっちゃんにも同じものを出すようにマスターに言った。
「どうせ死ぬんやったら笑いながら死にたいもんやのう、かっちゃん」
「そらあんただけや」
「かっちゃん、いつ死ぬねん」
「ほっといて」
「はっはっはっはっ、俺はいくら貧乏なってもかっちゃんみたいに猫食ったりせえへんで」
「そういうあんたは人食って生きてるやんか」
はっはっはっはっ、と今度はマスターが大いに笑った。
八時を回った。有線のチャンネルが流行歌からナツメロへ変わったところでタイミングよくナツメロ好きの中山さんが入ってきた。「よっ」とあいさつをしてカウンターに座る。
かっちゃん、しぶやん、中山さんの常連三人が集まった。
しぶやんは椅子からずり落ちそうになっていた体を起こし、中山さんに向かって丁寧に頭を下げた。
「おまえ心臓で死にかけたんやろ。飲んだらあかんのとちがうんか」
中山さんの声は低くて重い。いったん床にしみ込んでからじわっと響いてくる。
「その腹なんとかせんとほんまに死ぬぞ」
「いやいや死ぬのはこっちや」
しぶやんはかっちゃんを指さした。
「そいつはとっくに死んどるわい」
中山さんはかっちゃんをにらみつけて言った。七十歳になっても皮のジャンパーにエナメルの靴。サングラスもはずさなかった。若い頃のけんかで左のほおに大きな切り傷が残り、年取ってからのけんかでは歯が何本も折れてしまった。細身の体を維持しているのは胃弱で食が細いのと、今でも続けている筋力トレーニングのたまものだった。背筋もしっかりと伸びていた。十年程前にこの店で酔客同士のけんか騒ぎがあり、仲介を買って出た中山さんが双方を殴り飛ばしてしまったのだ。それ以来酒乱の客は来なくなり、代わって中山さんが常連になった。腕力のあるおっさんとしてこのあたりでは知られる存在だった。
「商売ってやっぱり難しいですねえ」
カウンターの内側から瓶ビールとコップを手渡してマスターは中山さんに話しかけた。
中山さんは昨年不動産会社をたたんでいた。二十人ほどの従業員をかかえて手広く商売をしていた頃もあったが次第に先細り、借り入れだけが膨らんで清算の道を選んだのだ。続けようと思えば続けられたが完全にやめてしまった。土地建物、車、貴金属、腕時計、すべて処分したら一気に力が抜けてしまったという。
「何か食わしてくれ」
「はい、すぐに焼きますからね」
マスターは、ずり、しんぞう、きも、テール、なんこつ、皮、玉ひも、ホルモンを一本ずつ用意した。焼きあがるまでの間にと枝豆を一皿用意する。それは中山さんへの特別のサービスだった。
しぶやんがかっちゃんのアパートでの猫の話を中山さんに話す。かっちゃんは最近猫の死骸を集めて興奮しているだとか、ナイフで住人を脅して法外な家賃を取ろうとしているだとかでたらめばかりだったが、中山さんはうなずいて聞いていた。いくらしぶやんがはっはっはっと笑ってもつられて笑うことはない。中山さんはめったに笑わなかった。笑うとかえって怖かった。
「よっしゃ、そしたら中山さんの好きそうな話をひとつ」
としぶやんは先日旅先で見かけたけんかの話を始めた。繁華街のど真ん中。といっても地方都市なのでにぎやかさはない。十数軒のスナックやバーが並んでいる程度。そのうちの一軒で飲んでさあホテルへ戻ろうと外へ出たら若い男二人が言い争いをしていた。車の置き方をめぐって怒鳴り合っている。厚化粧の女七、八人が回りを囲む。しばらくすると背の低い方の男が「おりゃー」と叫んで上着の内ポケットから拳銃を取り出した。足をがに股に開いて腰を落とし、肩をすぼめるようにしながら両手で拳銃を前へ突き出している。撃つぞ、という刑事ドラマでよく見かけるポーズだ。「キャー」と叫んで女達は逃げる。みんなハイヒールを履いているからかかとの音が夜道に響く。ところが拳銃を突きつけられた方の男は全く慌てる様子はなく、まるでその拳銃がおもちゃだと見透かしているかのように悠然と煙草に火をつけて背中を向けた。その瞬間、「パン!」と乾いた音がした。続いてもう一回「パン!」。
しぶやんはここでひと息ついた。焼酎で口をうるおしてからまたしゃべりだそうとした時に、
「ようできた話やな」
と中山さんが言った。
「いやいやまだ続きがありますねん」
「もうええ」
「ここからがおもろいんや。ここからがほんまに見た話でね。あれ、はっはっはっはっ」
しかし中山さんにもうええと言われたら続きを話すわけにはいかなかった。
「ところで中山さんはいままで何発ぐらい撃ったことあるんですか」
マスターが尋ねた。
「五、六十発やな」
「どこへ向かって」
「練習や」
「的には当たりましたか」
「そんなもん当たるかいな」
中山さんは食べるのも飲むのも早かった。いつもはもっと遅くにやってきてさっさと食べてさっさと帰っていく。酒もすぐに出さないと機嫌が悪かった。要するにせっかちなのだ。
九時半になった。かっちゃんは相変わらず丸い姿勢を貫いている。頭が垂れてきてカウンターの端にぶつかりそうだ。ぶつかったらびくっと体を起こし、思い出したようにすこし食べる。そしてぬるくなった焼酎のお湯割りをずっずっとすする。
新しい客が来た。扉がゆっくりと開き、顔が見えて体が見えた。続いてもうひとりの顔が見えて体が見えた。女性のふたり連れだ。この時間からの若い女性客はめずらしかった。二十代半ばだろう。店の中へ入ってからも心配そうにあたりを見回していて、「そちらへどうぞ」とマスターにすすめられてようやくテーブル席の椅子に浅く腰を下ろした。席はそこしか空いていない。カウンターに座ろうと思えばかっちゃんとしぶやんと中山さんの三人にはさまれてしまう。ふたりはショルダーバッグを膝の上に乗せたままでメニューをながめた。
「あのー、すいません」
「はいどうぞ」
「レモンサワーとオレンジサワーください」
「はい、ありがとうございます」
「あのー、すいません」
「はいどうぞ」
「ここのおすすめってなんですか」
ふたりは相変わらずきょろきょろとあたりを見回している。たいがいはおすすめメニューが壁に貼ってあったりボードに書かれてあったりするものだが、ここにはそれがない。
「気ぃつけて注文しなあかんで。ここはなんでもまずいさかいな。特に出し巻きはあかん。最低や。変な薬が交じってるさかい食べ過ぎたらこのおっさんみたいに死にそこないになってしまうんや。はっはっはっはっ」
しぶやんはかっちゃんを指さして笑う。あれもまずいこれもまずいとさんざんメニューをけなしてから最後に
「こっち来て一緒にのまへんか」と隣の椅子を指さして言った。
「けっこうです」
はっきりと断られてしぶやんはまたうれしそうに笑った。
「あのうー、出し巻きと冷奴と厚揚げとじゃこおろしを下さい」
「ええっー、君らなんやねんなそれ」
しぶやんはがばっと体を起こしてふたりの方へ向き直った。それはかっちゃんの毎日の定番メニューそのものだった。
「本当にそれでいいんですね」
マスターが念を押したためにさすがの中山さんもすこし笑った。
客が五人いる。これは珍しいことだった。かっちゃんもおやっとばかりにテーブル席を見て「お客さんがいたはるんやな」とつぶやいた。
「いよいよかっちゃんの出番やで」
しぶやんはかっちゃんの二の腕をつつく。
「出番ってなんや」
「あれやがな」
「あれってなんや」
「あれいうたらひとつしかないやろ。かっちゃんのたったひとつの芸」
「知らんわ」
しばらくして女性客の前には注文された料理が並び、かっちゃんとしぶやんの前にも梅茶漬けが置かれた。
しぶやんはしつこくしつこくゴリラを要求するが、かっちゃんは無視して梅茶漬けに集中していた。あっというまに食べ終わる。食べ終わるというより飲み終わるといった感じだ。そしてまた腕を組んで背中を丸めようとした時、「退屈やのう」という中山さんの野太い声が店内に響いた。つや消しされた真っ黒なシャツの袖を左、右と捲り上げ、「よっしゃよっしゃ」と指の骨を鳴らす。
しぶやんは一瞬はっとした。それ以上シャツをまくるのは止めて欲しいと思った。二の腕の彫り物が見えてしまうからだ。ひっひっひっひっと息を吸い込みながら立ち上がり、かっちゃんのうしろから抱きついて立ち上がらせようとする。
「なにすんねんな」
かっちゃんは嫌がった。
「かっちゃん重いなあ」
「なんやねんな」
「中山さんが退屈したはるさかいかっちゃんで遊んでもらうんや」
「やめてえな」
かっちゃんは腕を組んだまま体を左右に振って抵抗するが、百キロを越すしぶやんの巨体相手ではどうすることもできなかった。
「おい」
とまた中山さんの低音が床に響いた。
「ゴリラやれ」
その声に縮こまっていたかっちゃんの体はみるみるうちに膨らんでいった。ずっずっずっずっずっずっずっずっとせっかちに焼酎をすすってグラスをからにする。それから体の重心を確かめるかのように左右に揺らしながらゆっくりと体を起こす。
ほぉっ、ほぉっ、ほぉっ、ほぉっ。
声を出し始めたら乗り移るのは早かった。椅子から下りた時にはもう完全にゴリラになりきっていた。外股に膝を開いてうんと腰を落とし、いままで座っていた椅子に片方の手をついてもう片方の手をぶらぶらさせながらしきりに、ほぉっ、ほぉっと吠える。肩はいかり肩に変わっていた。背中も広い四角形になっていた。頭のてっぺんからつま先まで黒い毛に覆われ、顔の真ん中のわずかな部分だけが赤っぽいかっちゃんの顔として残っていた。
「いけーっ」
中山さんの号令がかかると、かっちゃんは両手の握りこぶしで胸を叩き、上体を大きく揺すって反動をつけた。「その調子や」としぶやんが勢いづけるとさらに大きく胸を叩き、さらに大きく上体をゆすった。それから握りこぶしを床につけ、「うぉー」といううなり声とともに四本足の格好でテーブル席めがけて突進していった。
「きゃー」
女性客が席を立つのは早かった。素早くバッグを抱きかかえて後ろ向きのままあっという間に店を飛び出していった。
悲鳴はしばらく店内をこだました。
「かっちゃんようやった。最高や。はっはっはっはっ」
しぶやんは満足そうだった。笑いが止まらなくなっている。
「その調子やったらまだまだ生きられるわな」
中山さんは吐き捨てるように言った。逃げ出した女の子の分は俺が払うとマスターに言う。それもまた吐き捨てるように。
かっちゃんは元の位置に戻ってまた静かに背中を丸めた。新しいお湯割りを作り、何事も起こらなかったかのようにずっずっとすする。
ほんの一瞬何かが乱れ、ほんの一瞬何かが壊れた。しかしそれらはすぐに終わってしまった。そして終わってしまえば何も起こらなかったことと同じだった。少なくともかっちゃんの中では何も起こらなかった。しぶやんや中山さんの中からも今の出来事はすぐに消えていこうとしていた。眺めていただけのマスターにとっては始めから絵本の中の一ページでしかない。
十一時を回った。
しぶやんと中山さんのラストオーダーを出し終えたマスターがかっちゃんの隣に座る。相変わらずうつむいたままのかっちゃんの顔をのぞき込むようにして
「ごめんなさいね」と声をかけた。
「ごめんなさいね。がんばってきたけどもう限界。店をたたむことにしました」
しかしかっちゃんの反応は鈍かった。
「本当に長い間ありがとうね」
マスターはかっちゃんの丸い背中に手を置いてさらに顔を近づけた。
「かっちゃん起きろ。マスターが大事な話をしたはるんやで。寝てる場合ちゃうで」
しぶやんがめずらしくまじめなことを言った。しぶやんと中山さんはもう店じまいのことは聞かされている。
マスターと入れ替わりに中山さんが厨房へ入っていった。冷蔵庫の中のトレーからきもとしんぞうを二本ずつ取り出して網の上へ乗せる。
「これくらい俺にでもできるわい」
そう言ってうちわで炭を仰ぎ、何回も何回もせっかちに串をひっくり返しながら、
「おまえが食うんやで」としぶやんをにらみつけた。
「いやいやもう腹いっぱいや」
「嘘つけ」
「食いすぎたらあかんて医者からもきつう言われてますねん」
「俺の焼いたもんが食えんていうんやな」
かなわんなあとばかりにしぶやんは身を乗り出して網の上をのぞき込む。すると案の定まだ十分に火が通っていないきもとしんぞうが皿へ移し変えられようとしていた。
「まったまったまったまった。そらあかんわ。もうちょっと焼いて欲しいなあ」
「こんなもんや」
「あかんあかん。まだにゅるにゅるしてますがな。そんなん食えへんわ」
「おれは今退屈してんのや」
「関係ないと思うけど」
押し問答の末生焼きのきもとしんぞうはもう一度網の上へ戻ることになった。
しばらくすると今度は焼きすぎて浅黒くなったしんぞうときもが出てきた。どっちがどっちなのか見分けがつかないぐらいに固く、ぱりぱりに仕上がっていた。しぶやんがそのまずそうな品をながめていると、
「なにしてんねん」と声がかかった。
「こんなぶさいくな焼き鳥見たことないわ」
「よそでは食えんぞ」
「あたりまえや」
「食え」
「どないしょう」
「どないしょうって食ったらええがな。食わへんかったらおまえも今日からゴリラや」
「あ、あほな」
ひっひっひっひっと笑いながら結局しぶやんは全部食べた。ああこれで寿命が縮まった、かっちゃんより先に死んでしまう。そんなことを言いながらも本当はうれしそうに食べていた。
もうこの店には時間がない。それをみんな分かっている。
かっちゃんもようやく事情が飲み込めたようで、しきりに「なんでやめるんや」と尋ねている。マスターが席を立とうとするとその腕を強く引っ張って何度も座り直させた。
「ワシ、どうしたらええんやろ」
「ごめんなさいね、かっちゃん」
「ワシ、ここがええねん。ここが好きやねん」
「ありがとう、かっちゃん」
「ほんまにやめるんか」
「うん」
「ほんまか」
「うん」
「そうか」
かっちゃんはひとつ大きなため息をついてまた背中を丸める。小さい小さいかっちゃんがそこにいた。もう酒は飲まなかった。「ああ」とつぶやいては小さくなり、「はー」とため息をついてはさらに小さくなっていく。
「かっちゃん、ここがなくなったらどうすんねん。行くとこあるんか」
しぶやんはもう節制などおかまいなしに中山さんが焼く焼き鳥を次から次へと食べていた。焼酎もストレートで飲んでいる。
かっちゃんが返事をしないのでしぶやんはかっちゃんの声色で、
「行くとこないねん」
と言った。
「行くとこなかったらどうすんねん」
「ほっといてんか」
一人二役で続けた。
「ほっといたるけど、死んだら言うてくれよ」
「死なへん」
「死なへんって、それはもう死んでるさかいに死なへんのか」
「はあ?」
「もう死んでるさかいに死なへんのかって聞いてるんや」
「なんやねんなそれ」
「なんやねんなそれって、これは中山さんが焼いてくれはった焼き鳥やないか。これ食ってはよ死ね」
「もうええわ」
「こっこっこっこっ」
最後にしぶやんは鳥の鳴き声みたいなつっかえた声で笑った。しばらくするとその声は濁点がついて少し湿った声に変わっていった。
中山さんが自分の席に戻る。こんもりとしたしぶやんの腹に手を当てて
「おまえこそいつ死ぬんや」と低い声で言った。
「ぽっくりいきたいもんやなあ」
「死んだら言えよ」
「へえ、一番に」
マスターが厨房に戻って後片付けを始める。しばらくの間水は流れ続け、皿は一枚ずつ丁寧に重ねられていった。
中山さんは相変わらず背筋を伸ばし、自分が焼いた焼き鳥をせっかちに食べながらマスターの作業をじっと見つめていた。ひとつ隣の席ではしぶやんがわけもなく笑いつづけていた。そのまたひとつ隣の席ではかっちゃんがゴムまりぐらいに縮こまってため息を繰り返していた。
零時を回ってもだれも帰ろうとはしなかった。
店の扉が開く音がする。
「はいどうぞ」「今日もワシが一番やな」
「いらっしゃい」「いつものやつ頼むわ」
「さあさあさあ」「何か食わしてくれ」
それらはみんな店じまい間際のこの店の空耳だった。
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