「つい飼ってしまう」癖が、私にはある。
もともと生き物が好きだ。犬、猫、小鳥、金魚に亀に熱帯魚。子どもの頃から飼った生き物の種類は数知れないが、そういうものとは別に、目についた動くものを「つい飼ってしまう」のだ。
古い棟割り長屋に育った私にとって、そこは生き物の宝庫だった。大きいものでは鼠にイタチ、当然のことながらゴキブリや蜘蛛もいた。父の話によると、大きなアオダイショウも屋根裏に住んでいたらしい。しかし鼠やゴキブリには全く触手が動かなかった。というよりはその二種類に限っては大の苦手であった。人は自分のへその緒の上を最初に跨いだものが苦手になる、という話を聞いたことがある。私のへその緒の上を最初に跨いだのは、ゴキブリを背中に乗せた鼠だったのかもしれない。
初めて私が「つい飼ってしまった」と記憶しているのは羽アリだった。シロアリの生殖虫である。それらは春先に巣から出て新しい住み処を捜す。新天地を求めて飛び立ち、住むのに適した場所を見つけると雌雄ともに翅を落とし、繁殖を始める。よく晴れた明るい日、外に面した窓硝子にそれらはよく集まっていた。まだ小学校に入って間もない頃だったか。幼い私の目には、その羽アリは美しい女王アリに見えたのだ。もちろん土の中に巣を作るアリとシロアリとは全く別のものだ。同じ昆虫網に分類されてはいてもアリは蜂目であるし、シロアリはゴキブリ目に属している。しかし当時の私がそんなことを知るよしもない。胴体に比べて不釣り合いに長く伸びた大きな翅。磨り硝子から差し込む外の光に透けて翅は美しく輝く。その四枚が重なったり扇型に広がったりするのを重たげに引きずる小さな虫の姿は、私にとってまさに長いローブをまとったアリの「女王」だった。なぜ周囲の大人たちがその美しい「女王」に無関心なのか不思議に思いながらも、私は迷わずそれを菓子の空き箱に移した。傷つけないように、そっとそっと。
幼い私を歓喜させたものはそれだけではない。土砂降りの雨の後、私はよく物干し場へ出た。当時の物干し場は一階部分の屋根の上の傾いた小さな空間に、二階の窓から張り出すように屋外へ木材を組み立てて設置されていた。当然屋根も庇もない。長年の風雨にさらされて足場に組まれた木材は腐食し、降った雨をたっぷりと含む。その上をつっかけで歩くと、体重のかかった場所からじわりと水分が滲み出すのだ。その足裏の感触が好きだった。ゆっくりと進んでいくと、ひときわ腐食の進んだ物干し場の端にたどり着く。そこは体重がかかると鈍い音をさせて傾き、他の場所よりもたくさんのなま温かい水を吐き出し、私の足裏を濡らした。そしてそんな場所にも生き物はいた。腐食した板の上にかすかに動くものがある。しゃがみ込んで目を凝らすと、それは米粒ほどの大きさのカタツムリだった。孵って間もないのだろう。しかし指先に乗せたそれは完璧に大人のカタツムリと全く同じ形をしていた。こちらも私の手で空き瓶に移されることとなった。
それからも私の興味は尽きることなく、小さなヤモリや孵化して間もないカマキリ、時には台所の食材にまで触手を伸ばし、母が買ってきたジャコエビを金魚の水槽に放したりもした。しかし生来ものぐさである私が飼うといっても、熱心に面倒を見るわけではない。時折こっそり覗いて楽しむ程度である。斯くして私の手によって捕獲された生き物たちは、私の目の届かぬうちに逃亡してしまうか、あるいは母に処分されていつの間にかいなくなっていた。
やがて成長とともに他へ興味が移り、私は以前ほど生き物を収集することはなくなっていった。
そもそも癖などというものは、本人が「癖」だと認識しているわけではない。七、八年も前のことになるだろうか。私は素敵に艶やかで新鮮なキャベツをスーパーで手に入れた。嬉々として台所で鼻歌交じりにキャベツの葉を剥いでいく。数枚を剥いだところで、ぽとりとステンレスの流しに何かが落ちた。それを覗き込んだ私は、思わず手に持っていたキャベツを取り落とした。その何かはアオムシだった。おそらくはモンシロチョウの幼虫だったのだろう。濡れたステンレスの上でアオムシは藻掻いている。慌てて蛇口をつかんだが、ふいにその手が止まる。流したところで排水溝には不織布の袋が張ってあり、アオムシはそこで止まる。アオムシはやがて水の切れた排水溝の不織布を伝って這い上がってくるだろう、と想像する。かといって潰す気にはなれない。私の中でむくむくと頭をもたげてくるものがある。数分後、アオムシは一枚のキャベツの葉を与えられ、ベランダの空きバケツの中にいた。
大人になってもつい飼ってしまう癖と同様、生来のものぐさは変わらない。バケツの中のアオムシが手厚い保護を受けることはなかった。与えられたキャベツはすぐに萎れる。数日ごとに取り替えはするものの、私もキャベツばかりを食べているわけではない。キャベツが尽きたところで今度は白菜を与えた。白菜を与え始めてから間もなくのことだ。アオムシに変化が起きた。色が抜け始めたのだ。色素のせいか、あるいは陽が当たらぬせいか十日も過ぎた頃、アオムシはすっかりシロムシになってしまっていた。見たところ元気はないが、与えた葉には小さな囓り痕がついている。その後再びキャベツを与えてみたが色は戻らなかった。白くなってしまったアオムシはそれでも逃げずにそこにいる。子どもの頃のように処分してしまう母もここにはいない。次第に私の興味は薄れてゆき、やがてその存在すら忘れてしまっていた。
二ヶ月も過ぎてしまっていただろうか。そろそろ肌寒くなった頃、洗濯物を干していてそのアオムシを思い出した。おそるおそるバケツの中を覗く。干涸らびたキャベツが目に入る。アオムシはいない。ほとんど元の形をとどめないほどに乾ききったキャベツの葉を持ち上げると、そこには小さな小さな蛹がひとつあった。不十分なエサで大きくなれないまま、アオムシは蛹になっていたのだ。ひどく申し訳ない気持ちに陥ったが今更どうしようもない。蛹は春になれば、もしかすると小さな小さな蝶に羽化するかもしれない。私はキャベツの代わりに、羽化したときの足場になるようにと小枝を蛹の傍らに置いた。
結局、一年経っても蛹は羽化しなかった。仕方なく生ゴミとして処分してしまったが、あのアオムシがいったいどの時点で死んでしまったのか未だにわからない。あるいはまだ生きていたのか。少なくとも我が家の生ゴミが焼却された時には確実に死んでしまっただろうけれど。
その一件以来、「つい飼ってしまう」ことを私は自分の癖と認識し、足元を見ぬよう歩くことに注意を払い、なるべく生き物の潜んでいそうな食材には手を伸ばさぬように心がけている。その甲斐あってか、私の気持ちをくすぐるような生き物と巡り会う機会はうんと減り、部屋の片隅で忘れ去られる生き物もいなくなった。そう、今のところは。
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