フェルメールの贋作者    泉 りょう


 昨秋、東京でフェルメール展が開催されていた。数年前、大阪にフェルメールが来た時は、天王寺公園をぐるりと取り囲む人の列に怖れをなして、とっとと退散した覚えがある。上野の森の賑わいはどうだっただろう。
 地元大阪での対面叶わなかったフェルメールに出会えたのは、二年前、初めて訪れたパリのルーヴル美術館であった。
「ホエア・イズ・フェルメール?」怪しげなわたしの英語に、係員は、「そこを曲がって、また曲がって、三十八番ルーム」と、身ぶり手ぶりを交えて教えてくれた。サーティエイトという英単語のみ、聞き分けられただけだったが、案外易々と辿り着けた。人の姿のない一角に、『天文学者』と『レースを編む女』、フェルメールのふたつの小ぶりな作品が、ひっそりとした光を湛えて佇んでいた。
 そのフェルメールに、二十世紀最大の贋作事件、というものがあったことを、テレビの『迷宮美術館』という番組で知った。
 贋作者の名は、ハン・ファン・メーヘレン。
 事件は第二次世界大戦直後のオランダで起こった。フェルメールの『キリストと悔恨の女』を、敵国ドイツの元帥が所蔵していたことが発覚したのが、事の発端であった。このオランダ国宝級の絵の売買に関係したとして、メーヘレンの名が浮上し、彼は国家反逆罪に問われたのである。厳しい追及にあったメーヘレンは、『キリストと悔恨の女』は、そもそもフェルメールの作品ではなく、他の数点のフェルメール作と鑑定されたものとともに、自分が描いたものであると白状したのである。
 初め、売国奴と人々から憎悪されたメーヘレンは、今度はホラ吹きと嘲笑されることになった。メーヘレンの自白はなかなか信じられず、ついに彼は、法廷で絵を描いてみせるという、前代未聞のパフォーマンスを演ずるに至る。
 詰めかけた人々が息を呑んで見つめる中、メーヘレンは静かに絵の具を調合すると、筆を取り描き始めた。その姿の中に、紛れもなく、画家としてのメーヘレンが立ち現れてくる。十七世紀の画法を完璧に再現しつつ、次第にかたちをなしていく絵を前にして、人々から驚嘆の声が上り始める。人々は、ついに彼の言葉を信じたのである。
 メーヘレンは、今度は、英雄ともてはやされることになった。敵国を欺き、美術界の権威をも欺いたメーヘレンに、人々は拍手喝采したのである。
 オランダ法廷は、メーヘレンに禁固一年の有罪判決を下した。罪状は勿論、国家反逆罪ではない。贋作の罪としては軽いのか重いのか、よくはわからないが、彼は罪状が確定した数ヵ月後、刑務所内の病院で世を去っている。
 メーヘレンとは、いったいどのような男であったのか。
 メーヘレンは一八八九年、オランダの地方都市に生まれている。絵を描くことが好きな少年だったが、厳格な父親は彼が画家になることを認めなかった。彼は辛うじて建築家になるということで父の同意を得ると、フェルメールゆかりの地、デルフトの工科大学に進学する。
 そこでフェルメールとの衝撃的な出会いがあった。フェルメールの作品に、彼が幼い頃絵を学んだ人物から叩き込まれた、オランダ絵画黄金時代の技法の、その最高の具現を見たのだった。
 彼は建築の勉学はそっちのけで、絵を描くことに専心するようになる。そしてついにコンクールに入賞し、画家としてのスタートを切る。彼の古典主義的作風が、ともかくも評価されたのである。しかし時代はすでに二十世紀、画壇の趨勢は、印象派やシュールレアリズムにあった。彼の二度目の個展は専門家から酷評され、彼の名はしだいに忘れ去られようとしていた。
 一方、フェルメールに関しては、「ミッシング・リンク」についての議論が盛んに行われるようになっていた。彼の絵は、初期のカラヴァッジョふう宗教画から、後期の風俗画へと、画風が急旋回しているのだが、その間を繋ぐ作品群が存在するのではないか、というのである。美術界は、新たなフェルメールが発見されることを待ち望んでいた。
 メーヘレンはそこに目を付けた。
《ならば私が、フェルメールその人になって、待望されている作品を描こうではないか》
 メーヘレンが贋作へと向う動機は、勿論金もあっただろう。そして自分を見限った美術界への復讐もあっただろう。メーヘレンが描いた『エマオのキリスト』は、美術界の重鎮ブレディウスの、これぞまさしくフェルメールのミッシング・リンク的作品、というお墨付きを得たのである。
 以後、メーヘレンは次々と贋作に手を染めていく。メーヘレンの名では一顧だにされない作品が、フェルメールの作品と認められれば大金に代わり、人々の賞賛を浴びるのだ。権威を手玉にとって、メーヘレンはほくそ笑んだだろうか。
 彼の贋作が美術館の壁を飾った時の、彼の心の中を思ってみる。プレートに刻印された画家の名はフェルメール。メーヘレンではない。
《しかし、描いたのはまさしくこの私。私はフェルメール。いや名前など、もはやどうでもよいこと》
 スポットライトを浴びた絵の前で、恍惚として、そうは思わなかっただろうか。芸術家にとって、作品がすべてである。
 今『エマオのキリスト』は、オランダ、ロッテルダムのボイマンス美術館に掲げられている。描いた画家の名は、メーヘレン。メーヘレンの死後にようやく訪れた栄誉である。
 しかし、わたしはこの作品があまり好きではない。色彩や光、衣服の襞などに、繊細な表現がない。人物の顔立ちも、どことなく品がない。フェルメール過渡期の作品だからと、もし、メーヘレンがそれを意図的にやったのだとしたら、ひどく不愉快だ。画家が、その時持てる力の限りを尽くしていないとしたら、芸術家として、やはり信頼できない。
 しかしそれらのわたしの感想は、贋作事件を知ったうえでのことだ。もし、何の予備知識も持たないまま、この絵に接していたら……。わたしは迷宮に足を踏み入れたようである。
 
 参考文献
 
『謎解きフェルメール』
  小林頼子・朽木ゆり子著
          新潮社
『私はフェルメール』
  フランク・ウィン著
   ランダムハウス講談社


 

もどる