駐輪場を見回っていた田沢庄吉は、一台の自転車の前籠に折り畳み傘が入っているのを見つけた。女物なのかピンク色をしている。庄吉はそれを手に取ると、巡回を中断してプレハブの事務所に戻った。
机の抽斗をあけて、細長くて赤い紙を取り出す。業務日誌を書くサインペンで「時間が切れています」と印刷された文字に傍線を引き、横に「カサを預かってます」と書き入れた。
その時、「寒いなあ」と言いながら、中井が入ってきた。白髪頭を一振りしてから、中井は近寄ってきて庄吉の手許を見ると、「また、そんなことやってんの」と呆れた声を出した。庄吉は曖昧な笑いを返す。
エアコンの入った事務所は温かく、中井は首からマフラーを取ると、「そんなことをしても礼なんか言う奴、おれへんやんか」と言った。
「というて、ほっとかれへんから」
「ほっといたらええねん。財布とか大事なもんならいざ知らず、そんな傘、取られても誰も何とも思えへんわ」
それには答えず、庄吉は紙を手に立ち上がると、事務所を出た。
先程の自転車のところまで来ると、紙の裏のシールをはがしてハンドルに巻きつけた。それから巡回の続きをした。
一巡して事務所に戻ると、中井は椅子に腰を下ろし、大振りの湯呑みを両掌で挟んでお茶を飲んでいた。
「田沢さんもお茶飲んでいくか」
「いや、ええわ」
庄吉は机の一番下の抽斗を開け、傘を仕舞うと「ここに入れとくから、取りに来たら渡してやって」と中井に言った。
「わかった、わかった」
中井はちらっと庄吉の手許を見ると、またお茶を飲んだ。
「引継事項はそれだけやから」
「ご苦労さん」
庄吉は毛糸の手袋をはめると、事務所を出た。冷たい風が高架下を吹き抜け、電車の通過する音が上から響いてくる。
庄吉は隣接する駅に向かった。夕暮れの中、コンビニエンスストアやフライドチキンの店には、電飾をつけた小さなツリーやポインセチアが飾られ、クリスマスソングが流れている。土曜日のせいか家族連れの姿が目立った。
クリスマスはいつやったかなと思いながらエスカレーターに乗り込もうとしたとき、不意に肘をつかまれた。
振り返ると、一人の少女が怒ったような顔を向けている。薄手のセーターに短いスカートを穿いており、脚が棒のように細かった。肩から小さいポーチを提げている。何か迷惑かけたんかいなと戸惑っていると、「今晩、泊めて」と少女が言った。
「何やて」
「今晩、泊めてください」
「わしのとこか」
「はい」
庄吉は少女をつくづくと見た。顎が細くて化粧をしていない顔はどうみても十二、三歳くらいにしか見えない。
「おっちゃんとこ、汚いで」
「いいです」
少女の顔がふっと緩んだ。
「そうか」
庄吉はエスカレーターに乗り込んだ。少女は一段後ろに乗って、庄吉の肘をつかんだ。どうせ自分の部屋の汚さを見たら逃げ出すだろうと庄吉は思っていた。
切符を買う金もないと少女が言ったので、庄吉は切符を買ってやり、一緒に電車に乗った。ほかの家族連れの子供に比べて、あまりにも少女が薄着なので、「寒ないんか」と訊くと、少女は激しく首を振った。
三駅目で降りて、しもた屋の目立つ商店街を抜け、木賃アパートの建て込んだ狭い道を歩いていった。少女はすぐ後ろを黙ってついてくる。
何度目かの角を曲がったところで、庄吉の住むアパートに着いた。「第三幸福荘」と書かれたガラス戸を開けて中に入る。廊下に電球が一つ点いているだけなので暗い。少女は玄関を入ったところで、物珍しそうに周りを見た。
庄吉は靴やサンダルが散らばっている中で、運動靴を脱いで廊下に上がった。靴下を通して冷たさが伝わってきた。少女も同じように靴を脱ぐ。庄吉が脱いだ靴を持って廊下を行くと、少女もついてきたが、手には何も持っていない。
「靴、持ってこな」
「どうして」
「盗られるがな」
「いっぱい置いたったけど……」
「汚い靴は誰も盗れへん」
少女はちょっと笑うと、引き返して靴を持ってきた。踵の低い赤い靴だが、所々剥げている。
庄吉の部屋は一番奥の共同便所の隣だった。所々めくれた合板の扉に真新しいノブがついており、そのシリンダー錠に鍵を差し込むのだが、庄吉はいつも手間取ってしまう。
鍵の向きを変え、ようやく錠を開けると、庄吉は中に入った。廊下と続きの板の間が台所になっており、奥に六畳の間があった。
庄吉は玄関脇のスイッチを押した。六畳間に裸電球の明かりが点る。運動靴を流し台の横に置いて、六畳間に入った。敷きっぱなしの蒲団の上に炬燵が置かれており、コンセントを入れてから、ジャンパーとズボンを脱いでジャージーを着た。脱いだ服をハンガーに掛け、炬燵の中に脚を入れる。
振り返ると、少女は靴を提げたまま扉の前に立っていた。
「そやからおっちゃんとこ、汚いて言うたやろ」
炬燵の天板には、朝飯の時に使った茶碗や小皿、箸がそのままになっており、その上に新聞紙がかけられている。庄吉は散らかっている蜜柑の皮を取り上げて黒いゴミ袋に入れた。炬燵の周りには雑誌や新聞、脱ぎ捨てられた衣類が乱雑に重なっていた。
「泊まるんやったら、そこに靴を置いて炬燵に入り」
庄吉がそう言うと、少女は意を決したように靴を下に置き、こちらにやってきた。そしての斜め横から炬燵の中に入った。尻が畳に直につくので、庄吉は手を伸ばして畳んであった毛布を取って、少女に渡した。少女はそれを敷いて坐り直した。
「足、冷たかったやろ」
少女は首を横に振った。
「晩ご飯、食べたんか」
少女は再び首を振った。
「おっちゃんは昨日の残りもんですますけど、どうする」
「わたしはいらない」
「お腹、すいてへんのんか」
少女は頷いた。
体が暖まってきたので、庄吉は炬燵を出て、台所の蛍光灯をつけると夕食の準備を始めた。準備といっても、冷蔵庫から総菜コーナーで買ってきたポテトサラダの残りを出し、秋刀魚の干物を焼き、即席の味噌汁を作るだけで、後は、炊飯器の冷やご飯を茶碗に盛ればいい。
それらを炬燵の上に運んでいると、「テレビ、見てもいい?」と少女が言った。
「好きなん見てもええで」
テレビは十四型の小さいやつで、人からの貰い物だった。庄吉は少女の見るアニメを一緒に見ながら、晩飯を食べた。
CMになると、少女は時折庄吉の食べている手許を見た。
「お腹、すいてんのとちゃうんか」
少女は首を振った。
「秋刀魚食べるか」
少女はじっと皿の中の秋刀魚を見ている。
「味噌汁もまだあるで」
その時、CMが終わり、少女は再びテレビ画面に顔を向けた。
アニメが終わる頃、庄吉も食べ終わり、お茶を茶碗に入れて飲んだ。そして食器類を流しに運んでざっと水で洗うと、布巾で拭いて再び炬燵の上に戻した。
「秋刀魚食べていい?」
少女が消え入りそうな声で言う。
「ああ、ええで。おっちゃんが焼いたろ」
庄吉が台所に行きかけると、「わたしがやる」と少女が立ち上がった。
「そうか。冷蔵庫にあるから好きなだけ焼き」
台所に行った少女がしばらくして、「味噌汁も飲んでいい?」と訊いてきた。
「ああ、ええで。流しの抽斗の中にあるやろ」
庄吉は動物番組をやっているテレビに目を向けながら答えた。
「ご飯、食べてもいい?」
庄吉は振り返り、「いちいち断らんでも、好きなもん食べたらええんやで」と笑いながら答えた。
少したって「割り箸使ってもいい?」という声が聞こえてきた。
「ええよ、ええよ。お皿なんかもそんへんにあるもん使いや」と庄吉は再び笑いながら答えた。
茶碗がなかったので、少女はご飯を丼鉢によそい、そこに焼いた秋刀魚をほぐして入れた。その上から少し醤油を垂らし、お茶漬けにした。
「うまいこと考えたなあ」庄吉は感心した声を出した。「わしもそうやって食べたらよかったなあ」
少女は顔をくしゃっとさせて笑った。
食べ終わると、少女は手を合わせて「ごちそうさまでした」と言い、食器を流しに運んだ。水の音と食器の触れ合う音が聞こえてくる。
テレビを見ていると、少女が丼鉢の中にお椀を入れ、それと割り箸を皿に乗せて持ってきた。庄吉の食器と同じように炬燵の上に置く。
「えらい、えらい。自分のことは自分でするんやなあ」
少女はもう一度「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
庄吉はゴミ袋の横の袋から蜜柑を二つ取り出して、「食べるか」と一つを少女の前に置いた。少女は頷いてそれを取り、皮をむいた。中のヒゲも丁寧に取り、一房つまんで口に入れると、唇をすぼめるようにして中身を食べた。そんな食べ方を見るのは、久し振りだった。十年前に死んだ妻も同じような食べ方をし、庄吉が、皮ごと食べた方が栄養もあって楽やろといくら言っても、変えようとはしなかったことを思い出す。
少女が蜜柑を食べ終わると、庄吉はもう一度食べるところが見たくて、これも食べるかと手に持った蜜柑を差し出したが、少女は首を振った。庄吉は仕方なく、皮をむいて二房ごと食べた。
蜜柑の皮を少女の分と一緒にゴミ袋に入れる。少女が炬燵から出て、立ち上がった。もう帰るんやなと思って見ていると、台所でうろうろしている。
「どうしたんや」
「トイレ、どこですか」
庄吉は立っていき、扉を開けると、隣の共同便所を教えてやった。靴下のまま行こうとするので、「靴持っていき」と少女の靴を渡した。
しばらくして薄い壁の向こうから水を流す音が聞こえてきた。
帰ってきた少女と入れ替わるようにして、庄吉も運動靴を持って便所に行った。若い時のように勢いよく小便が出ない。便器からこぼれないように腰を前に突き出し、出たり止まったりを繰り返す小便に辛抱強くつき合った。
部屋に戻って扉を開けようとした時、中から少女の笑い声が聞こえてきた。庄吉もふっと口許を緩めて笑った。
しかし中に入ると、少女の笑い声がぴたっと止まった。口に手を当ててテレビを見ている。
「おっちゃんのことなんか気にせんと、笑たらええんやで」と庄吉は炬燵に入りながら言った。
テレビは、男に貢がせるだけ貢がせて金がなくなると次の男に乗り換える女性を罠にかけて懲らしめるという番組をやっていた。庄吉にはどこが面白いのかわからなかったが、少女は時々吹き出して、その都度口を押さえた。
番組が終わると、「そろそろ寝よか」と庄吉は言った。
少女が渋るそぶりを見せた。
「おっちゃんみたいな年寄りは朝が早いからすぐに眠たなるんや」
少女が口の中で何か言った。
「何やて」
「……お風呂入らないの?」
つぶやくような声だ。
「おっちゃんはなあ、四日に一回しか入れへんねん。銭湯高いからなあ」
そう言うと、少女は小さく頷いた。
足がぶつかるので少女を反対側から炬燵に脚を入れさせ、庄吉は入れ歯を洗いに台所に立った。歯ブラシで入念に洗い、水を入れたコップの中に沈める。それから水を一杯飲んで、六畳間に戻った。
少女が毛布を枕にして目を瞑っている。その姿を見ていると、どうせ一晩やからという気持ちになった。
「お風呂、行こか」
しかし空気が漏れて、はっきりとした言葉にならない。
少女が目を開けた。
「お風呂、行こか」
もう一度しっかりと口を動かした。が、やはり同じように空気が漏れた。
少女が上半身を起こして笑い出した。「おっちゃんの口、おかしい」と指をさした。
「そうか、おっちゃんの口おかしいか」
庄吉は少女を笑わすためにひょっとこのように口を突き出したりすぼめたりした。
少女の笑いが収まったのを見て、「お、ふ、ろ」と声を出した。
「はい」と少女が頷いた。
湯冷めをしてはいけないので、折り重なった衣類の中からジャンパーを引っ張り出して少女に着せた。流し台の下に銭湯に持っていく洗い桶が置いてあり、庄吉は中の石鹸箱を開けて中身を見た。かなり減っていたが、まだ使える。タオル掛けから二枚を取って桶の中に入れ、少女と一緒に出ようとした。その時、少女から入れ歯のないことを指摘され、庄吉はあわててコップからつまみ上げて口にはめた。
銭湯は歩いて五分ほどのところにあった。暖簾をくぐったところで、庄吉はタオルを渡した。そして石鹸箱を開けて薄くなった石鹸を二つに割り、一つは桶に入れ、もう一つは箱に戻して、箱の方を少女に手渡した。
「桶は中のを使たらええからな」
庄吉が磨りガラスの引き戸に手をかけて入ろうとしたが、少女はためらっている。
「どうしたんや。銭湯に入ったことないんか」
少女は首を振り、「シャンプーしたい」と小声で言う。
「その石鹸で洗い」
「はい」
しかし中に入ると気が変わって、庄吉は一回分のシャンプーとリンスがセットになっている物を買い、少女に与えた。少女の顔がぱっと明るくなる。やっぱり女の子や、髪が大事なんやなと庄吉はちょっと嬉しくなった。
冷えた体に熱い湯が気持ちよかった。庄吉は石鹸で薄い髪も洗った。
体を拭って服を着ていると、番台の横から少女の顔が見えた。
「もう出るんか」と言うと、少女は頷いた。
帰り道、銭湯を出たところで、少女が手を握ってきた。庄吉の手はすっかり冷えているのに、少女の手はまだ温かかった。少女はそのまま頭を庄吉の体にもたせかけるようにしてきた。シャンプーの香りがする。その香りは昔嗅いだことのある甘い匂いだった。不意に五十年前の有馬温泉の光景が蘇った。
庄吉は浴衣を着た妻と土産物屋を冷やかしながら歩いている。妻は庄吉の手を引っ張りながら、あれ、面白い、これ、何かしらとはしゃいでいる。庄吉は洗い髪のまま旅館を出てきた妻の後ろ姿を眩しそうに見ている。しなやかな背中の動きにつれて、繋いだ手の引っ張られるのが気持ちいい。
部屋に戻ると、二枚のタオルを掛け、入れ歯をコップに戻した。
「おっちゃんと一緒に寝ていい?」
炬燵の向こう側に入った少女が言った。
「狭いで」空気の漏れた声になる。
「ううん、いいの」
電灯を消して炬燵の中に入ると、少女も横に入ってきた。並んで横になる。炬燵の脚がちょうど左脇に当たった。
庄吉が目を瞑っていると、少女の体が動いて右肩に彼女の頭が乗るのがわかった。シャンプーの香りが漂ってくる。その時、股間に何かが触れた。庄吉は一瞬過去の記憶と混同したが、それは確かに少女の手だった。庄吉は下半身を捻ってそれを避けたが、手は意志を持って股間に触れてきた。
「何してるんや」
庄吉は優しく言ったつもりだったが、息が漏れて、ふがふがした声になった。少女は答えずになおも触り続ける。
「おっちゃんはもうあかんから、触ってもしょうないで」
口をゆっくり動かしてそう言うと、少女の手が止まった。しばらく身動きしなかったが、やがて肩から頭を離すと、少女は炬燵から出た。そして台所に行って電灯のスイッチを入れた。まぶたの裏側が明るくなり、庄吉は目を開けた。
「便所か」
しかし少女はこちらに戻ってくると、向こう側の炬燵の前に坐った。堅い物の触れ合う音が聞こえ、それが止むと静かになった。庄吉は上半身を起こした。
見ると、少女が開いた大きな貝殻のような物に顔を近づけている。手に鉛筆を持ち、もう一方の手でまぶたを引っ張るようにして線を入れている。食器が天板の端に寄せられ、小さな筆やブラシ、スティック状の物などの化粧道具が散乱していた。
「何してるんや」
少女は手を止めると、目だけでこちらを見て、「おっちゃんにお礼をすんの」と口許に笑みを浮かべた。
「そんなんせんでええ」と発音しにくい声で言ったが、少女は笑って答えない。
庄吉は再び横になると、炬燵蒲団を首までかけた。
しばらく経って「おっちゃん、起きて」と肩を揺すられた。目を開けると、女の顔が目の前にあった。庄吉は驚いて体を起こした。
女の顔を正面から見ると、確かに少女のものだったが、茶色のアイシャドウやピンクの口紅のせいで大人の女になっていた。髪の毛も乾いて、ふわっとしている。庄吉は言葉が出なかった。
少女が炬燵を勢いよく引っ張った。化粧道具のぶつかる音がする。こちらに戻ってくると、少女は庄吉の胸を押し倒し、腰の上に屈んでジャージーを膝のあたりまで引き下げた。それからズボン下と猿股を一緒につかんで下げ、露わになった陰茎を手で触った。しばらく手を動かしてから、今度は両手を使って膝まで降りているジャージーと下着を脚から抜いた。その間も庄吉はじっとしていた。
「寒くない?」とピンクの唇が動いた。
庄吉は首を振った。実際、寒さは感じなかった。
少女は脚の間に屈み込むと、陰茎を口に含んだ。庄吉の体に久しく忘れていた感覚が蘇った。陰茎がわずかにかたくなる。少女が最初はゆっくりと、それから徐々に激しく口を動かし始めた。
頭を起こしてその様子を見た庄吉の中に、悲しいような辛いような感情が湧き上がった。その途端、蘇った感覚が萎んでいった。
少女は口の動きを止め、舌を使ったが、二度と陰茎はかたくならなかった。
「もう十分お礼してもろたから、もうええで」
それでも少女は唇と舌を動かしていたが、やがて口を離すと溜息をついた。ピンク色が唇からはみ出ている。
「ごめんなさい」少女がうなだれた。
「おっちゃんが悪いんや。おっちゃんはもう年やからなあ」
少女はなおも下を向いている。
「もう寝よか」
そう言うと、少女は顔を上げ、「はい」と頷いた。
ジャージーを穿き、炬燵の位置を元に戻した。少女はティッシュペーパーで化粧を拭った。
電灯を消し、炬燵の両側から脚を入れて寝た。時折触れる少女の腿は驚くほど冷え切っていた。
夜中に二度、庄吉はトイレに起きた。カーテン越しの薄明かりの中では、少女の顔がよく見えない。庄吉は耳を澄まし、規則正しい寝息が聞こえてくると、ほっとして炬燵に戻った。
翌朝、六時過ぎに庄吉は目を覚ました。少女がまだ眠っていたので、そっと炬燵を抜け出し、流しで冷たい水を桶に溜めて顔を洗った。
冷や飯で粥を作っていると、少女が起きてきた。
「よう眠れたか」
少女は目をこすりながら小さく頷き、流し台の横にある自分の靴を持って外に出た。
しばらくすると、水洗の水を流す音が聞こえてきた。
庄吉は出来上がった粥を鍋ごと炬燵に運んだ。梅干しも用意し、味噌汁を作るため薬缶に水を入れて火にかけた。
戻ってきた少女に、味噌汁を飲むかと訊くと頷いたので、庄吉は二人分の即席味噌汁を作った。
「わたしも食べていいの?」
「ああ、ええで。おっちゃん一人やったら食べきられへんからな」
わあと言いながら、少女は昨夜使った割り箸を手にし、丼鉢を差し出した。
丼鉢に粥を入れてやると、少女は梅干しを器用に箸で剥き、身の部分を細かくして粥の上に乗せた。それをふうふうと息を吹きかけながら食べる。庄吉も真似をして梅干しを細かくちぎり、粥と一緒にふうふうしながら食べた。
「あったまりますね」と少女が笑い、「ほんまやなあ」と庄吉も笑った。
駐輪場の仕事はローテーションを組んでいるので、日曜日も出勤しなければならない。
庄吉は服を着替えながら、「どうする」と少女に尋ねた。
「ここにいたらダメ?」
テレビを見ていた少女がつぶやくように言った。
「そりゃええけど、お家の人、心配してへんか」
「全然、大丈夫」少女の声が大きくなった。
出掛ける前に、庄吉は「これで何か買って食べ」と少女に千円札を渡した。少女は驚いた顔をしたが、素直にそれを受け取った。
日曜日は平日よりも一時利用の客が多く、庄吉は事務所の椅子に腰を落ち着けることなく出て行っては、料金を受け取り、札をつけ、空いている場所に案内した。その合間を縫って、出入り口に注意を払いながら駐輪場を見回る。今日は籠に置きっぱなしになっている物は見当たらなかった。
夕方、やって来た中井が「昨日の傘、取りに来たから渡しといたで」と言った。
「おおきに」
「若い女やったけど、当然のような顔してたわ」
それには答えず、庄吉は手袋をはめて事務所を出た。
あの子はもういてへんかもしれんと思いながらも、駅を降りたところで、鰺の干物と即席味噌汁とほうれん草をいつもより多めに買った。それを提げてアパートに戻ると、暗い廊下に明かりが漏れていた。まだいたんや、庄吉は手にした袋を振って重さを確かめた。
扉の前に立つと、中からテレビの音が聞こえてきた。靴と袋を一緒に持ってノブを回す。鍵は掛かっていなかった。
「お帰りなさい」炬燵の中で背中を丸めていた少女がこちらを振り返った。中は暖かく、夕餉の匂いが庄吉を包んだ。ガス台を見ると、鍋が掛けられており、蓋の隙間からうっすらと蒸気が上がっている。横の炊飯器からも蒸気が出ていた。
庄吉は靴を置き、手袋をしたままの手で蓋を開けてみた。蒸気が抜け、大根やコンニャク、卵が姿を見せた。おでんだった。
「どうしたんや、これ」
「わたしが作ったの」
少女がこちらにやってきた。
「そんなお金、あったんか」
「朝もらったお金でお昼ご飯作って、余ったから」
少女は庄吉の提げていた袋を取って、中を見た。
「わあ、鰺の開き。それにほうれん草も」
少女はほうれん草を取り出すと、「これも一緒に入れよう」と言って、洗い始めた。
「おっちゃんは炬燵に入って休んどいて」
庄吉は隣室に行き、ジャージーに着替えてから、炬燵の中に入った。
少女は鰺も焼いて皿に入れ、おでんは鍋ごと炬燵の上に置いた。ご飯もよそってくれ、二人で一緒に食べようとした時、扉を叩く音が聞こえてきた。
炬燵を出て扉を開けると、眼鏡を掛けた大家が立っていた。家賃と光熱費の集金だった。開けっ放しやったら寒いからと大家は中に入ってきて、扉を閉めた。
庄吉は押入の蒲団の下から郵便局の袋を取り出して、一万円札を三枚と通い帳を抜き、それらを持って大家の前に戻った。
「お釣りですな」と言いながら大家は手に持っていた大きながま口を開けた。そこから千円札と小銭を取り出す。それらを庄吉に渡すと、通い帳を開いて印を押した。
通い帳を返す時、大家は庄吉に顔を近づけて、「あの子、誰でっか」と小声で言った。
「ええっと……孫ですけど」
「あれ、お孫さん、いたはったんでっか。……ああ、そうでっか」
大家は顔を傾け、眼鏡越しの上目遣いで少女を見た。少女は顔を伏せている。
「子供さんがいてはったとは初耳ですな。てっきりお一人やとばっかり……」
「ええ、まあ……」
大家はじっと少女を見てから、「お邪魔しました」と言って、出て行った。
もらったお釣りを財布に仕舞い、通い帳を元に戻してから、庄吉は炬燵に潜り込んだ。テレビを見ながら、二人でご飯を食べる。大根に味がよく染みているのを庄吉が誉めると、少女は「昼間見たテレビでやってたから」と笑った。
食事が終わると、少女は片づけも自分がやると言って、庄吉に手伝わせなかった。
「おじいちゃんは坐っといて」と庄吉の手から鍋を取り上げた。
「おじいちゃんか」
「そうよ。わたし、孫やもん」
そう言うと、少女は顔をくしゃっとさせて笑った。
庄吉は炬燵の中から、食器を洗う少女の後ろ姿に目をやりながら、あいつが流産したのはいつやったかと考えていた。しかし記憶はぼんやりとしていて、結婚してしばらく経った頃としか思い出せなかった。もし、あの時無事に生まれていて、その子が誰かと結婚していたら、こんな子がいてても不思議はないと庄吉は考え、まんざらわしも嘘を言うたわけやないと口許に笑いを浮かべた。
片づけが終わると少女は炬燵に戻り、二人で蜜柑を食べながら、テレビの歌番組を見た。今のヒット曲と昔のヒット曲を交互に流す番組で、四十年前の歌が流れた時、「ああ、これは女房がよう歌てた歌や」と思わず庄吉は声に出した。
「おじいちゃん、結婚してたん?」少女が不思議そうな顔をした。
「ああ、してたで。十年前に死んだけどな」
「なあ、おばあちゃんの話、して」
「話すことなんてあれへんわ」
「恋愛結婚やったん?」
「見合いや」
「好きやった?」
庄吉は思わず笑ってしまった。やはり女の子はそういうことに関心があると思ったからだ。
しかし少女は庄吉の笑いを見て「そうなんや。おじいちゃん、好きやったんや。それで年取るまでずうっと一緒やったんや。なんかロマンチックやわあ」と甲高い声を出した。
「どこがロマンチックなんや」
「わたし、好きな人と年取るまでずっと一緒に暮らすのが夢なんよ」
「そんなこと、いずれ叶うやろ」
「そうやったら、ええねんけど……」
最新のヒット曲が流れ、少女はそれに聴き入った。
番組が終わると、きょうも銭湯に行くことにした。庄吉が準備をしていると、「残ったから」と少女が手を広げた。百円玉が一枚と一円玉が三枚乗っている。
「ええから取っとき」
そう言うと、少女はにこっとしてスカートのポケットに仕舞った。
銭湯の暖簾を分けて中に入ったところで、「髪の毛、洗うか」と庄吉は靴を脱いでいる少女に言った。
「ううん、いい」
「そんなこと言わんと、洗たらどうや」
「いいの?」
「ええで」
わあと言いながら少女は女湯のガラス戸を開けた。庄吉は昨夜と同じシャンプーとリンスのセットを買った。
広い浴槽にゆったりと浸かってから外に出、体を拭いていると、「おじいちゃん」という声がした。見ると、番台の横から少女が顔を覗かせ、おいでおいでをしている。庄吉は腰にタオルを巻いて近寄っていった。
「はい、これ」
少女は右手を差し出した。牛乳瓶を握っている。
「何や、これ」
「コーヒー牛乳」
「わしに買うてくれたんか」
「わたしが飲みたかったから、半分こ」
「おおきに、おおきに」
冷たいと思っていたコーヒー牛乳は温かかった。庄吉はほっとして、残っていた半分をゆっくりと飲んだ。
帰り、昨夜と同じように少女は庄吉の手を握ってき、頭をもたせかけた。懐かしい香りが庄吉を包んだ。庄吉は顔を少女の頭の方に向け、鼻腔いっぱいに香りを吸い込んだ。
アパートに帰ると、入れ歯を洗ってコップの中の水に浸け、炬燵に潜り込んだ。少女は口をゆすいでから、電灯を消して炬燵の向こう側に入った。
しばらくして「おじいちゃんと一緒に寝たらあかん?」という声がした。
「お礼なんかせんでええで」息が漏れないように注意したが、それでもふがふがした声になった。
「一緒に寝るだけ」
「寒いんか」
「うん」
少女が蒲団から出、こちらに回ってくる。庄吉は蒲団の端を上げて少女を迎え入れた。少女は中に入ると、体を横向きにして庄吉の肩に頭をつけた。
「おばあちゃんの話をして」
「………」
「どんなおばあちゃんやったん。……きれいな人やった?」
「普通やな」
「おばあちゃんの写真、ないの? わたし、見たい」
「そんなん、見てもしょうないやろ」
「わたし、見たい、見たい」
少女は庄吉の肩を揺すった。しょうないなとつぶやきながら庄吉は蒲団から抜け出て、押し入れを開けた。妻の遺品はすべて一つの段ボール箱に入れているので、アルバムがあるとしたら、その中にしかない。上棚の奥にある段ボール箱を引っ張り出し、中を開けた。
裁縫箱や櫛、手袋などの下に、小振りのアルバムがあった。それを取り出し、庄吉は蒲団に戻った。表紙の緑色は所々禿げ、中の台紙もはずれかかっている。
「見せて、見せて」
少女は庄吉が蒲団の中に入るのを待たずに、アルバムを受け取ると、腹ばいになって表紙を開いた。
庄吉は腹ばいになると胸が苦しいので、横向きになった。
「おばあちゃん、きれいな人やんか」
見ると、羽織袴姿の自分の横に花嫁衣装姿の妻の腰掛けている写真が目に入った。結婚式を挙げられず、せめてもと二人だけで写真館で撮ったものだ。
「花嫁は誰かてきれいなもんや」
「だったら、これは?」
浴衣姿の妻が旅館かどこかの縁側で、安楽椅子にゆったりと体を預けて笑っている。
「若い頃は誰でもきれいなもんや」
「おじいちゃん、照れてんの?」
庄吉は入れ歯を外した口で、ふがふがと笑った。
「おばあちゃんのどこが気に入ったん」
庄吉は昔の記憶を辿って、見合いの席の妻の姿を思い浮かべた。
「よう笑うとこかな」
「それだけ?」
「そうや」
「それだけやったら、おばあちゃんかわいそう」
庄吉は急いで「気立てもええし、働きもんやったから」とつけ加えたが、声は一層不明瞭になった。
「子供はいてへんかったん?」
「そうや」
「ずうっと二人だけやったんや」
少女は肩から頭を離し、ふーん、そうやったんやとつぶやいた。
「わしの話はもうええから、そっちの話を聞きたいな」
「わたし?」
「二晩も家に帰らんでも、家の人心配してへんのか」
「わたしのとこ、パパが離婚して新しいママが来て、そのママに子供が出来て、その子供にみんな夢中なの。誰もわたしのことなんか気にしてないから、わたしがどこで何していようが心配なんかしてないよ」
「そんなもんなんか」
「その方がわたしも気楽だし。……ねえ、おじいちゃん、わたしの本当のおじいちゃんになってくれる?」
「ああ、ええで」
「ほんと?」
「ほんとや」
おじいちゃんと言いながら、少女は頭を胸に押しつけた。シャンプーの香りが一層強く鼻腔に押し寄せた。
翌朝、おでんの残りで朝食をすませると、庄吉は少女に一緒に出るように言った。
「ここにいてたらあかんの?」
そう言って少女は炬燵に潜り込んだ。
「あかんことないけど、いっぺん家に帰り。ほんで家の人にここへ来る言うて、それから来たらええ。そしたら好きなだけいててもええで」
それでも少女はぐずぐずしていたが、庄吉が動かないのを見ると、口を尖らせて炬燵から出た。庄吉は財布から千円札を取り出し、「これで家まで帰り」と少女に渡した。少女は黙って受け取った。
外は風が吹いていた。「寒ないか」と訊くと、少女は首を振った。「おじいちゃんのズボン穿くか」と言うと、少女は小さく笑った。
駅で、反対側のホームに向かう少女に、「今度来る時は暖かい恰好をして来るんやで」と声を掛けた。少女は一瞬こちらを見たが、すぐに向き直ると駆けるように階段を上っていった。
六時過ぎに中井と交代で庄吉は駐輪場を出た。
三駅目で降り、いつもなら商店街で買い物をするのだが、きょうは寄せ鍋セットを買うために小さなスーパーマーケットに入った。あの子が来てたら、やはり鍋がいいと思ったのだ。
アンコウの入った高い方を買い求め、帰路についた。
ひょっとしたらアパートの前で待ってるかもしれんと足早になり、最後の角を曲がったところで入り口を見たが、誰もいなかった。中で待っているかもとガラス戸を開けたが、汚い靴やサンダルが散らばっているだけでがらんとしている。
庄吉は小さく溜息をつくと、運動靴を脱ぎ、それを持って冷たい板敷きの廊下を進んだ。ドアの錠を開ける時、ひょっとしたら中で待ってるかもしれんと、鍵を渡していないにもかかわらずそんな気がした。しかし中は暗く、誰もいなかった。
運動靴を置き、玄関脇のスイッチを入れた。電灯の赤みがかった光が台所と奥の部屋を照らした。出てきた時そのままの部屋で、あの少女がいたことは夢のような気がした。
庄吉はスーパーの袋を流し台に置き、炬燵のスイッチを入れた。ジャージーに着替えたが、すぐに夕食の支度をする気にはなれず、冷たい炬燵に潜り込んだ。
しばらくじっとしていると脚から腰が暖まってき、ようやく庄吉は寄せ鍋の用意をしようと立ち上がった。
その時、ドアを叩く音が聞こえてきた。来たか。庄吉は敷いてある蒲団の端に足を引っかけて転びそうになったが、何とか踏ん張って玄関に急いだ。
しかしドアの向こうに立っていたのは、灰色のコートを着た二人の男だった。前の男は強面の顔をしている。
「田沢庄吉さんですよね」と強面の男が言った。
「はあ」
「M署のもんやけど」と男は内ポケットから黒っぽい物を取り出し、庄吉の目の前で広げて見せた。金色のバッジが見える。
「新見千香という少女のことで話を聞きたいんで、署まで同行してもらえますか」
「あの子がどうかしたんでっか」
「どうかしたんは、お前やろ」と後ろの年若そうな男が大きな声を出した。
「まあ、そう言うな」前の男が後ろを向いてたしなめ、再び庄吉に向かうと、「少女の親から監禁と強制わいせつの被害届が出てまして、田沢さんから事情を伺おうと思いまして……」
「あの子がそう言うたんでっか」
「言うたんですなあ」
「そうでっか」
「来ていただけますか」
「はあ」
男はわずかに視線を上下させると、「その恰好でよろしいか」と言った。
庄吉はジャージーを脱いで、先程脱いだ服を再び着た。
二人の刑事に両側から挟まれるようにして、庄吉はアパートを出た。そこからかなり歩いて、道端に停めてあった黒塗りの乗用車に乗せられた。車が動き出した時、庄吉は寄せ鍋セットを流し台に置きっぱなしにしたことを思い出した。冷蔵庫に入れるべきやったと思ったが、そのために引き返してほしいとはとても言えなかった。
取り調べで庄吉は一旦罪を認めたが、余罪を追及されて怖くなり、前言を翻した。しかし刑事は全く取り合わなかった。事実認定を争う裁判になると、新見千香が法廷に呼ばれるということを知って、庄吉は再び罪を認めた。
拘置所暮らしの間、国選弁護人の委任状や駐輪場の退職届、それにアパートの大家からの、すべての所有物を放棄する旨の書類など、数多くの文書に庄吉はほとんど何も考えることなく署名した。ただ、所有物放棄の書類には一冊だけあるアルバムだけは届けてほしいと書いた紙も同封し、その願いは叶えられた。
一ヵ月後の裁判は一日で結審し、わいせつ目的の未成年者略取誘拐罪で一年半の懲役刑が確定した。暖房もない拘置所で庄吉は膝を痛め、刑務所では坐ってできる作業を割り当てられた。
刑期を半年余り残して仮釈放が認められ、庄吉は紙袋一つを提げて刑務所を出た。財布の中には刑務所内の作業で得た二万円あまりの現金しかなかった。逮捕される前までに貯めていた金は弁護士の勧めに従って新見千香の家族に慰謝料として支払い、郵便貯金通帳には一銭も残っていなかった。庄吉は特急券を節約して、普通乗車券で大阪に戻った。
街は一年前と同じようにクリスマスソングが流れ、飾りつけのイルミネーションが輝いていた。
庄吉は私鉄を乗り継いで高架下の駐輪場にやって来た。プレハブ事務所の窓から机に屈み込んでいる白髪頭が見えた。
庄吉がドアを開けると、暖かい空気がふわっと顔を覆った。男が顔を上げてこちらを見る。中井だった。
「お、おおおう。田沢さんか」
中井は椅子の上で体をひねったまま動かない。庄吉は暖かい空気が逃げないようにとドアを閉めた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございませんでした」
庄吉は深々と頭を下げた。
「いつ出てきたの」
中井は椅子を回して、庄吉の方を向いた。
「今日です」
「ほう。早よ出てこれてよかったなあ」
「はい」
「それで刑務所はどうやった。つらかった?」
「ええ、まあ」
「そりゃ楽しかったというやつ、おらんわな」
中井が笑った。庄吉も曖昧に笑い返す。
その時窓の外に自転車が入ってきた。
「ちょっと待ってや」
中井が一時利用のシールを手にして外に出た。ここ、空いてますから、ここに入れて下さいという声が聞こえてくる。
しばらくして中井が、きょうは結構冷えるなあと言いながら戻ってきた。
「それじゃあ私はこれで……」
「どっか行くとこあんの」
「前のアパートを見に行こうかと……」
「田沢さん、ここには戻ってこられへんで。あんたが捕まってすぐに代わりの人、入れたから」
庄吉はあわてて手を振った。
「そんなことは何も。私はただお詫びに来ただけで……」
「詫びるんやったら、ここやのうて子供に対してと違うんか」
庄吉は黙って頭を下げて、事務所を出た。
クリスマスの飾りつけをした店の並ぶ横を右脚を引きずりながらゆっくりと歩き、駅のエスカレーターに乗った。すぐ上の段には腕を絡ませた少年と少女が高い声を出して笑い合っている。庄吉はミニスカートから出ている少女の棒のような脚を見て、思わず顔を上げた。少女が少年の顔を見上げている。その横顔はあの少女のように見える。
庄吉は手を伸ばして少女の腰に触れた。少女が振り向く。うっすらとした化粧に口紅を塗っているが、あの子に間違いない。
少女の顔が不審そうな表情から一転して口を半開きにする表情に変わった。
庄吉が声を掛けようとした瞬間、彼女は少年の腕を振り解き、エスカレーターを駆け上がっていった。
「チカあ」少年が怖い顔をして庄吉を睨んでから、追いかけていった。庄吉も追いかけようとしたが、思わず力を入れた右膝が痛んで、その場にしゃがみ込みそうになった。
乗車券売場の階について、辺りを見回してみたが、二人の姿はどこにもなかった。
庄吉はひとつ溜息をつくと、自動券売機の前まで行き、財布から五百円玉を取り出して投入口に入れた。行き先のボタンを押す。切符に続いて出てきた釣り銭を取っていると、肘を誰かがつかんだ。
見ると、あの少女だった。一年前よりもいくらか背が伸びているようだ。
「おじいちゃん、ごめんね」
少女は顔を少し伏せ、上目遣いに見ながら、小さな声で言った。
「ええんや。悪いのは親御さんに無断で泊めたわしの方や」
「あの時、ママにああ言うしかなかったんよ。ああ言わなかったら家に入れてくれへんし、学校かって無断で休んだことになって怒られるし、パパはパパでママのことを怒るし……」
「もうええ、もうええ。済んだことやから」
「おじいちゃん、怒ってない?」
「怒ってない」
「よかった」
少女の顔が明るくなった。後ろを振り返る。その視線の先には、ジーンズに手を突っ込んで、こちらを見ている少年がいた。
「あの子、チカちゃんの好きな子か」
「あ、おじいちゃん、わたしの名前、初めて呼んでくれた」
「そうやなあ」
「あの子、ツヨシといって今のわたしの彼」
「楽しそうやな」
「すっごく楽しい。だって今日はクリスマスイブだもん」
庄吉は手に持った財布から一万円札二枚を引き抜いた。
「これ、おじいちゃんからのクリスマスプレゼントや。取っとき」
少女はびっくりした顔をした。
「いいの? ホントにいいの?」
「ええよ。おじいちゃんはサンタクロースやから」
「ありがと」
少女は一万円札を受け取ると、小さく折って手の中に入れた。
「おじいちゃん、またね」
手を振って少女が離れていく。少年に近づいて手の中のものを見せる。少年はちらっとこちらを見、二人で笑い合いながら階段を下りていった。
これでよかったんや、庄吉はひとりごつと、小銭だけになった財布を尻ポケットに押し込んで自動改札機を通った。
「第三幸福荘」は更地になっていて、道路との境に黄色いロープが張られていた。思ったより小さな土地で、こんな狭いところに住んでたのかと庄吉は感嘆すら覚えた。
庄吉は紙袋を提げ、脚を引きずりながら、更地の前を離れた。行く当てはない。
しばらく行くと、ブランコと雲梯だけの小さな公園があり、端っこに水飲み場があった。夕闇が迫っていて、がらんとしている。庄吉は中に入り、蛇口をひねって上に飛び出してくる水を飲んだ。体がぶるっと震えた。今日は刑務所で朝食を食べただけで、後は何も食べていないが、不思議と空腹は感じなかった。
一つだけある木製のベンチに腰を降ろした。歩きすぎたのか右膝が熱を持っている。庄吉は紙袋からアルバムと電車の中で拾った朝刊を取り出した。ジャンパーとセーターを脱いで、肌着の上に新聞紙を何枚も巻き、再び着る。
離れたところにある街灯の光がかろうじて届いている中で、アルバムを開いた。写真に何が写っているのかはっきりとはしない。それでも庄吉は台紙を一枚一枚めくっていった。
最後までめくると、残りの新聞紙を体の上に広げて横になり、アルバムを胸に乗せた。
ふっと額に冷たいものが当たった。目を開けると、暗い空から点々と白いものが落ちてくるのが見えた。
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