突風が、顔を容赦なくなぶっていく。
地下鉄「二番出口」のプレートが貼られた階段をあがりきると、高速道路の側道のところに出た。
交差点の歩道脇で、果実を売る露天商が商品を軽トラックに積み込んで帰り支度をしている。
五時前に地下鉄に乗るとき外は明るかったのだが、一時間後の今はとっぷり日が落ちていた。何度も訪れている場所なので道順はわかっているが、この時刻に来たのは今日が初めてだった。
交差点の角に建つコンビニの看板の青が、歩道に青い光を落とし、やけに目立って違う場所に来たように思えた。
西田直也の家に行く前に、差し入れのビールとつまみを買う。
西田の家は商店街の中にあり、空き家になった洋品店を自宅兼アトリエ兼ギャラリーにしているのだ。今日は月に二日だけ開けているギャラリーの初日だった。
角を曲がると、薄暗い商店街の中で西田の家の前だけ蛍光灯の光が漏れている。三枚あるシャッターの左端を入り口専用に開けているからだ。
中に入るとコンクリートの土間になっていて、洋品店だったころはここが店舗に使われていたと思われる。西田が壁をペンキで白く塗り、その上に白いクロスを貼ったコンクリートパネルをつけて、ギャラリーの壁面を作った。
アルバイトで生活費を稼ぎ、撮影と暗室に給料のほとんどをつぎこんで、月に二日間だけギャラリーをオープンするというサイクルを一年以上続けていた。
わたしのところにギャラリーオープンを知らせるはがきが届いたのをきっかけに十年近くブランクのあった付き合いが、また頻繁になったのだった。
今日も壁面に二段掛けでモノクロの写真を飾っている。西田は二階にいるのか、ギャラリーは無人だった。コンビニの袋をわざと大きな音をたてて、低いテーブルの上に置いた。
ド、ド、ドと階段を下りる足音がして、西田が奥からでてきた。
「やあ、いらっしゃい。今日、ニムが最初のお客さんや」
野太い声で言った。
そして、「さっき電話したか」などと妙な質問をした。
わたしはしていないと答えると、「あっそう」と納得して頷いた。
写真専門学校の同期だった西田とは、苗字が同じだったので、区別をするためにすぐにあだ名をつけられた。西田は昔からのあだ名で「ニピ」と呼ばれ、わたしはクラスの誰かが、おまえは「ニムじゃ」というひと声でニムと呼ばれるようになった。以来、学校ではずっとあだ名でしか呼ばれなくなったし、今でも、学生時代の人間が多く残る写真の業界で働いているせいか、仕事関係の人たちにも苗字ではなく、ニムと呼ばれている。
ゆっくりと時間をかけて写真をみてから、ベンチ型の椅子に座った。ギャラリーの真ん中にある応接セットは寄せ集めのため、椅子もテーブルもみんなばらばらだった。
西田は向かいに座ると、今の自分の活動について話しだした。毎回そうなのだが、西田は自分の話をよくしてくる。それが自慢や日常によくある話ではなく、変な話、面白い話ばかりで、実は、その話が聞きたくて来ているところがあるのだ。
「この前、仕事のギャラが入ったんで、小冊子を一万部刷ったんですわ。全部で三十万円かかったけど、この前にレターセット刷って、企業や写真家さんのところへ送ったら、結果、雑誌の仕事とか、いろんな形でかえってきたでしょ。写真集を作って手売りしたって、そう売れるものやないし、そう考えたらこっちのほうが絶対確実やと思うんですわ」
西田はもっさりした口調で語った。
写真集のシリーズが床に平積みになっている。あれも貰ったものにちがいないはずだ。そう思って眺めていると、
「その写真集はカメラマンのUさんがくれはったんですわ。Uさんの事務所に行ったとき、くれはったんやけど、全シリーズ揃ってるのは、なかなかないらしい」
ことっと小さな音がした。入り口のほうをみると、初めてみる男が立っていた。西田も初対面らしく、いらっしゃいと声をかけてからは少し距離をとって観察しているようだった。
男は黒い皮のジャケットを着て、こげ茶の皮のショルダーをかけていた。下は、綿のパンツに靴は布のスニーカーを履いている。男の雰囲気はわたしたちと同じ世代のように思われたが、頭髪が武士のさかやきのように禿げていて、見た目では幾つくらいなのか判断できないタイプだった。
「この写真集、この前古本屋でみつけてね、買おうかどうしようか悩んだんですけど、一冊一万五千円だったんで買わなかったんですよ」
写真をみていたさっきの男が、写真集の前にきたときに言った。話し方から推して東京の人間のように思えた。
西田は、
「さっき電話くれた方ですか」
と、尋ねた。
男はそうですと答え、鞄からパースをとりだし名刺を渡した。
「根岸さん。ああそうか、ぼくが送ったレターセットにお返事くださった方ですよね。名前に心当たりがなかったから、誰だったかなって、思ってたんですよ。K市のフォトサロンの学芸員さんですか」
西田は有名な写真家の展示を常設にしているK市のフォトサロンへ写真家宛にレターセットを送ったのだ。
「いまはその写真家の名前ははずれちゃったんですけどね。別の場所で写真美術館を作られたんですよ。だから、わたしどもの施設はフォトサロンという名前にかわりました」
なるほどレターセットや小冊子を送ることでこんな出会いがあるのだと、ついさっきの西田の言葉に納得がいった。
西田が写真を見終わった根岸にビールを勧めると、気持ちよく応じた。西田は東京の写真事情をあれこれ聞きだすのに余念がなく、わたしは持参したビールとつまみを黙って口に運んでいた。
「ニム」と西田が呼んだ。根岸から貰ったかまぼこを台所で切ってきて欲しいという。わたしはそれを受け取ると土間に靴を脱いで二階へあがった。
二階は台所と畳の部屋が三つある。一部屋は現像液のタンクなどで占められ、一部屋はテレビのある居間として使われて、あとの一部屋がベッドのある寝室だ。居間にはコタツが早々とだしてあった。
西田はニムと呼ぶが、わたしはずいぶん前から西田君と呼んでいた。それは写真学校の途中からだった。
ずっと西田がいるグループに紅一点混じって、作品展を一緒にしたり、撮影旅行に行っていたのだが、そこに美幸という女の子を西田が連れてくるようになった。美幸も同じ学校の生徒だというのだが、みたことがなかった。話をきくと夜間の学生で昼はアルバイトをしているのだ。ふたりはすぐに同棲をはじめ、西田はグループから距離を置くようになった。
この家には美幸のものは何もない。
以前、美幸のことを訊くと、ドイツに行ってしまったと言っていた。別れたわけではないが、離れて寂しいというふうでもなく、西田の頭の中は結婚よりも写真で食べていけるようになることだけを考えているのだろうな、だから平気なんだろうなと思った記憶がある。
かまぼこの包装紙には築地直送と書いてある。表面が茶色の焼き色になったごく普通のかまぼこだ。端っこを薄くスライスして、口へ入れた。スーパーで売られているかまぼこと変わりない。さくさくと切り目をいれていった。皿はないのを知っていたので、板の上に載せたままにした。
両手にかまぼこ板を持って慎重に階段を降りる。下から数段は本や荷物が置かれ片足がのるだけのスペースしかないからだ。
人の声が増えている。ギャラリーに戻ると立って写真をみている男の人と、もうひとりは岡本だった。フリーのカメラマンで仲間内では一番仕事が多い男だ。わたしをみると缶ビールを軽くかかげ挨拶してくれた。
立っていた男が写真を見終わったと、西田に目配せした。
西田はそばに行き、ここを何で知ったのか尋ねた。すると、男はここで以前、学習塾をしていたと言った。
今日たまたま、近くに来たものだから、自分が使っていた場所がどうなっているのかを見たくなったらしい。それで、見にきたら灯りがついていたので入ってきたのだと。
新旧の賃貸人が並ぶところを眺めるのは可笑しかった。旧の方の身なりは、それなりに整っていておそらくは、ここに居た当時よりよくなっているのだろうとおせっかいな想像を楽しんだ。
「ここは風呂がないから不便でしょう」
旧がいうと、
「二階の板の間、腐っててやばいっすよね」
と、西田も嬉しそうに苦情をいいたてだした。ビールでもと西田が薦めると、長居しすぎたと思ったのか慌てて帰っていった。
「いやあ、面白いですね。こういう出会いってあるんですね」
根岸は大きな額に汗を滲ませて言った。
「きっとあの方、お風呂のある家に越したんだ。事業がうまくいったんでしょうかね」
岡本が持ってきた焼酎のキャップを捻りながら首をきょろきょろさせた。
「紙コップなら、暗室に行ったらあるよ」
西田は隅のほうで手紙の束をさわっていた。
岡本がわたしに目で合図をした。頷くと紙コップに麦焼酎を半分ほど注いで渡してくれた。
どこかのシャッターの閉まる音が静かな商店街に響きわたった。時計をみた西田もギャラリーのシャッターを閉めた。八時だった。
延々と酒宴は続き、気がつくと終電の時間が過ぎていた。わたしも他のふたりもすっかり酒がまわっていて、電車がないことなど、どうでもいいという感じだ。根岸にいたっては、泊まる宿をこれから探すと暢気なことを言った。
「みんな泊まったら」
西田のひとことにすぐさま同意した。
酒やつまみを二階に運びあげ、こたつを囲んでさらに飲み続けた。こたつのまわりにはさまざまなものが散らばっていて、西田は包みに入ったままのBVDのシャツを指差して、
「これ去年の冬に買って、テレビの前に放置していたらそのうち温くなったんで、ずっと置きっぱなしですわ」
と、みんなを笑わせた。
「女の匂いまるでなしやな」
岡本がこたつ布団をめくってなかを確かめてから言った。
「いや、そんなとこ見たって、女の人入ってないでしょ」
「彼女にふられたのか」
とうに知っていると思っていたのに、真顔で質問している。
「ドイツに行ってます」
西田も普通に答えた。
それをきいたら、もうそれ以上岡本は質問しなかった。わたしはなんでもっとつっこんだ質問をしてくれないのかと不満だったが、男たちの話題はどうしたら写真で食べていけるかの話題に戻っていった。
「わたし寝る」
そう言うとばたんと後ろに倒れた。頭がダンボールにあたる。枕のかわりにするには高すぎたがかまわず目をとじた。顔にスーパーのレジ袋らしきものがあたった。目をあけて中のものをみると、ハーブソルトとふりかけが入っていた。
「西田君、このハーブソルトなにするのに買ったの。自炊なんかしたっけ」
「ああそれ、自炊はしないけど、からあげ買ったときにからあげにかけようと思って買ったやつ。からあげより高かったけどな」
それなのに封もきっていない。西田には人とはちょっと違うと思わせる行動がいつもある。学生のときに、二十万円もする革ジャンを、バイトで貯めたお金をつぎ込んで買い、そのあとずっとフランスパンのみ食べる生活を何ヵ月もしたり、その革ジャンが早く自分の体に合うように、毎晩皮ジャンを着て寝たりしていたのだ。
西田が次にしたのは、美幸の写真を撮りまくることだった。それはまったく「まくる」という言葉がぴったりなほど、撮りに撮っていたのだ。
美幸には顎の左から首にかけて十センチくらいのケロイドがあった。少し赤みが残っていて、最初見たときは、にきびかなにかが悪化して膿んでいるのかと思った程度のものだったが、西田が焼いたモノクロの写真には、引きつった火傷の傷痕として生々しく浮かびあがっていた。
美しいもので儚いものに惹かれる。余分なものを極限まで削ぎおとしたとき、一本のラインだけ、これしか残らないという線を撮りたい、西田は展示した写真の前で語ったことがあった。
最初は、西田が気になる存在だったから美幸に嫉妬したのだろうと思っていた。でも、美幸をみかけるたびに目で追い続けてしまうことが、自分でも意味がわからなかった。
わたしが傷痕に興味を持ったのはこのときからだと思う。以来、傷痕から美しいものを探ることがわたしの写真を撮るうえでの欲望になってしまった。
わたしは廊下を走った。さっき教官室で担当講師に言われたことを早く仲間に伝えたくて急いでいたのだ。
教室の戸を開けると、いつも賑やかに喋っている男の子たちがじっと黙りこんで座っている。よく見るとそこに見たことのない女の子がいる。
わたしは戸を開けたらすぐに話そうとしていた言葉を飲み込んだ。
「どうしたの」
みんなの顔を見回して訊いた。
「ニピが彼女を連れてきたから、みんな緊張してるねん」
ひとりが答えた。
「彼女やないよ。なあ」
西田がその女の子に向かって言った。
「彼女のこと、ニムにも紹介しとくわ。福島美幸さん。美幸、こっちは西田依美。僕と苗字が同じやからニムってあだ名で呼ばれてる」
美幸は水色のワンピースに白いカーディガンを着、靴は編み上げのブーツを履いていた。人見知りのようで、西田が紹介しているときも、ずっと居心地が悪そうにからだをずらしたり、首を振ってあちこちを見たりして落ち着かない様子だ。そのとき、左の顎から首にかけて、赤くただれた痕が目に入った、ひと目みたときはにきびが悪化したようにみえたのだが、また首を振ったときに、その傷痕がビロードのように光るのでケロイドだとわかった。わたしはなぜかその瞬間、どきっとし、今まで感じたことのない妙な気分になった。
美幸は西田の服の袖をひっぱって耳元で何か言うと、軽い会釈をして教室をでていった。
みんながほっとして息を吐いた。
「さっき先生に呼ばれて言われたんだけど、わたし卒業展に出せるんだって」
美幸によって冷まされた喜びを、もう一度温め直して言った。
「ほんまか。ええなあ。俺らには声もかからんわ」
さっきと別のひとりが言うと、
「僕はかかったで」
と、西田が言った。
わたしはスタジオ撮影で花を被写体にした写真を作品にしてきた。それも大判カメラで接写するという女子には珍しいことをやっているのが認められたのだ。
「さっきの美幸、彼女をモデルにポートレートを撮って出す」
西田はスナップが得意で、街中で人をパシャパシャと撮ってくる。そのどれも温かみのあるユーモラスな作品ばかりでわたしは好きだった。
この会話をしてから、西田はほとんどグループの集まりに顔を出さなくなり、そうなったのは美幸のせいだとみんなが美幸を悪く言った。
わたしも西田とは特に仲がよかったので、やがては付き合うようになるのだと思っていた。失恋というには未消化な、それでいて、ちくちくするセーターを着たときのようないらだたしさが、ずっと体から離れない。
学校の近くで、西田がバイクにまたがり美幸と立ち話をしているのを見かけた。美幸の肩に手をかけて、体を引き寄せた。美幸の体はふわりと浮いたように西田の腕の中におさまり、西田が美幸の首筋に軽く口をつけて、楽しそうに笑っている。
その瞬間、顔がかっと赤くなり、体が震えだした。美幸に怒っているのか、美幸の首筋にキスをした西田に怒っているのか自分でもどっちかわからないまま、その場を走り去った。
美幸のような傷痕が欲しくて、どうすればできるのか、そんなことを毎日考えるようになった。
昔、鍋に触れて火傷したことがあったのを思い出し、熱い鍋の縁に腕をあてて火傷をいつくも作った。わたしの白い腕は幾筋もの赤い水ぶくれで腫れ上がり、それがやがてかさぶたになり、破れたりかさぶたを作ったりを繰り返した。医者にも行かず傷テープを貼るくらいの手当てしかせず、痕に残ることを願って長袖で隠してすごした。一ヵ月くらいすると、火傷は茶色い紐が両腕に巻きついたような痕になった。
西田が、深夜の三時にあがるのを調べておいて、バイトをしているコンビ二店に行った。これを見たら西田がどう反応するかが、どうしてもみたかったのだ。
見せる場所はファミレスや居酒屋ではだめだと思い、カラオケボックスに誘った。
「今日あんまり金持ってない」
相談ごとならファミレスでいいというのをどうしてもと言い張ってしぶしぶ承諾させたから少し機嫌が悪かった。
カラオケの店員がドリンクを置いてでていくと、わたしは長袖のパーカーを脱いでタンクトップ姿になった。両手をだらりと伸ばし、西田の目の前に差し出した。
「何した、これ」
西田の目はわたしの両腕から離れようとしない。
「わたしのほうが西田君を幸せにできる」
プランになかった言葉が口をついてでた。
「何て」
西田は不思議そうに訊いた。
「わたしを彼女にしてくれたら、西田君が何したっていい。縛ったりしないし、かまってくれなくても大丈夫だから」
西田は笑いながら、
「そんなら付き合わなくてもいいんとちゃうの」
それはそうだと思った。
でも、わたしは美幸と自分を差し替えて欲しいのだ。それをどう言えばわかってもらえるのだろう、しばし間の抜けた沈黙が続いた。
「俺のためにこんなことしたんか」
西田は火傷痕に唇をつけた。湿った熱い舌が皮膚の上をすべる。
そして、わたしを立ち上がらせた。
西田はズボンのチャックをおろして、わたしの下着を脱がせて中に入ってきた。
壁に押し付けられ、両手を上にされた姿は磔刑のようだった。
廊下をバタバタと走る音が聞こえた。窓のところにカラオケの店員たちの頭がいくつもみえた。
カラオケボックス以来、週に一回のペースで西田とラブホテルに行った。わたしが会いたいというと、西田は図書館にでも行くようなのりでラブホテルに行ってくれた。学校の近くのラブホテル。学生割引があるところで休憩なら二時間で千五百円で使える。
ふたりとも卒業展の作品作りをしているため、会うと自然とお互いの製作の進捗状況を報告した。
ラブホテルのベッドに互いの写真ファイルを広げ、見せ合うのだ。わたしは毎回、モノクロームの美幸の裸を見なくてはならなかった。いつも先に見終わるのはわたしで時間にして二、三分だった。西田は十分以上かけてわたしの写真をみてくれる。あとは技術的なだめ出しや、ときには褒めてくれることもある。同期ながら写真のうえでは西田はわたしよりもずっと先を行く人に思えた。
ほっておくと西田はいつまでも写真の話しを続けるので、わたしは西田の左手をつかんで、Gショックの腕時計を外す。大きな手に相応しくないほど、手首は細い。
時計を取られた瞬間、何かのスイッチが入ったかのように、その左手でわたしの顔を覆うのだ。いつも掌から暗室の薬品の臭いがした。掌が下におりて、わたしの首筋を優しく撫でる。左の顎から首筋を西田の指が上下に動く。
「痛くして」
と、わたしは言う。
西田は静脈を探っていたように、美幸の傷痕と同じ場所を甘噛みしてくれるのだ。
わたしは直前にみていたモノクロームの美幸になっている。両腕、足、お腹と美幸の体には、首筋のケロイド以外にも小さな傷痕が無数にあるのを思い浮かべながら、
「どうしてこんなに傷が多いの」
西田にきいた。
「子どものときにできた傷痕だがら、よく知らない」
西田の手が乳房からわき腹へ降りてきた。まるで医者の触診のような手つきでだ。
ようやく美幸の中に入り込むことができた。それは想像の中で、自分を白い煙のように変え、美幸の口の中から入り、すっぽり美幸をかぶったわたしになりきることだった。そうなれば西田を迎えた体は、わたしの望みのままになるのだ。
目を開けると蛍光灯は消されていた。こたつの四辺にひとりずつが横になって寝ている。
わたしはいつの間にかダンボールの枕から頭をはずし、体を斜めにして寝ていた。下に柔らかいものがある。手で探ってみると、フードのところに毛のついたコートの上に寝ているようだった。こたつの中で足が密着している。隣に寝ている岡本の足だろうか。
軽いむかつきをおぼえて、階段に向かった。階段は暗く電気のスイッチを手で探したが、スイッチを押しても電気はつかなかった。
降りきったところに靴が何足もあり、適当に足を入れてみた。ぶかぶかの靴を履いて階段下のトイレに入った。
指を口の中に入れて、空えずきをしたらそれにつづいて薄黄色の液体を吐き出した。二回、三回指を入れて胃の中のものを吐き出す。ようやく胃が空になって楽になった。
こたつに戻ると岡本が寝返りをうっていて、元の場所に入る隙間がなくなっていた。反対のほうに体を滑り込ませて横になった。すぐ横に西田の頭がある。体をこたつと平行に横たえ、海老のように背中を丸めて寝ていた。
岡本が漫画チックないびきをかき始めた。がーごーとまるで怪獣のようだ。岡本のような細身の男でもこんないびきをかくのだと驚いた。体を起こしてしばらく眺めていると、西田も起きた。
こたつのうえに置いていたわたしの手を上から掴んだ。もう片方の手でたばこをとり、火をつけて一息大きく吸い込んだ。
「ふふ、すごいいびきやな」
こたつの中に手を入れ、わたしの足を掴んで自分の胡坐を組んだ股の間に引き入れた。
わたしはそれを無視するように、
「美幸ちゃんはどうしてるの」
と、訊いた。
西田の手が止まった。
返事がないのでさらに、
「美幸ちゃんがドイツに行った理由は」
つま先で催促した。
「UKのバンドにはまったのがきっかけで、バイトで必死に金貯めてはツアーについて回ってた。ドイツに行ったというより、ドイツで沈んで帰ってこなくなったんかなあ」
西田は向こうで元気ならいいと、兄弟の近況を話すような感じで言った。
「それでいいの、やろうね、ふたりとも。結婚とか考えてないわけでしょ」
わたしはなぜか否定形の質問で訊いた。
「結婚は考えてないなあ。自分ひとりでも食えていけない状態だし、いまは写真の仕事で食べていけるようになることしか考えてない」
「でも、美幸ちゃんが戻ってきたら、一緒に住むんでしょ」
訊かなければよかったと思った。
「いや、それはないと思う」
西田の答えは、思いもよらず早かった。そのせいか、わたしは気持ちが弾んで、
「わたしは自分の凡庸さがほとほと嫌になってきたよ。西田君のような信念もなく、ただ流されて生きてるだけで。不服なのに、美幸ちゃんのように思い切ったことをする度胸なんかなくて」 と軽口を言った。
するとこたつの向こうから、
「凡庸な人間の方が繁殖に成功したということになるんじゃないかな」
根岸がむくりと起き上がった。黒い皮のジャケットを着たまま寝ていたらしく、首や肩をしきりに回している。
「ちょうどここ、敷居のうえで痛かった。えっと、そう、話戻しますけど、ぼくだって凡庸な人間だと思いますよ。でも、仕事柄、天才だなと思う人たちに出会いますけど、あれじゃ生きていきづらいだろうなという性格の人多いですよ。内向的な人がほとんどだし、バランス悪いし。だから凡庸さは質ではなくて、数と考えることもできると思います。生きのびる術をもった、もしくは戦って生き残った、方法が同じだということは、考え方が同じとも言えるから、生き残るための考えが同じ人間は多く存在するということですよ」
西田の方をみて、
「西田さんは、その点が他の天才と違うって気がするな」
「いや、ぼくは天才ちゃいますよ」
うれしそうに西田が笑った。
「いや十分、非凡でしょ。でも人好きというか、社交性があって、それが写真にもでてますよ。生きているうちに写真で成功するには、才能と営業能力とどっちもいりますからね」
西田、と岡本が声をかけた。起き上がると首筋をぼりぼりかきながら、喉がからからだとつぶやいた。
「お前に言わなあかんと思ってたけどなあ、美幸、日本に帰ってるぞ」
西田は黙っている。
「完全に地下に潜ってドラックやセックスなんでもありのライブハウスあるの知ってるやろ。あそこで見かけたってきいたぞ。そうとうやばい状態らしいぞ」
西田は掌をこすりあわせながら、
「もうそこにはいませんよ。警察につかまって、拘置所に入ってましたけど、体の具合が悪くて入院してます」
岡本も手の中になにかあるかのように、じっと自分の掌をながめ、またそれを力強く握り締めながら、
「お前のとこには連絡あったんやな」と長い息とともに吐き出した。
すると西田は黙って立ち上がり、下へ降りていった。戻ってきたときには、手紙の束を持っていた。
三ヵ月前から届きだしたという手紙の主は美幸の家族からだ。拘置所というところは制限がいろいろあるらしい。西田に宛てた手紙を家族が持ち帰って改めて投函しているのだという。
「なんでこうなったのか分かりませんけど、音楽って瞬間の芸術でしょ。だからドラッグやセックスで自分自身を興奮させるっていうのはわかる気がするし、結局そのそばにいて流されたのかと思うんだけど」
それはトリガーじゃないのと、言おうとしたとき、
「手紙読んでみてください。コピーされてて読みにくいですけど、ぼくに宛ててるのは、直也へって書いてるところからです」
そう言って、こたつの上に十数通の封筒をバラバラと落とした。
「読んだら、どう思ったかきかせてください」
西田はこたつの上の手紙をみつめながら言った。
それじゃあと、根岸が言った。
「ぼくはその辺を歩いてきます。朝食みつくろって帰ってきますから」
根岸が立ち去ったところをみると、むき出しの敷居が真横に通っていた。
わたしは躊躇することなく手紙をひとつ取り上げたが、岡本は黙って手紙をみているだけだった。
好奇心で他人に書かれた手紙を読むのは間違っているのだろうかと思ったが、西田が読んでくれというのは、読んだうえでないと話が進まないからだ。岡本が読まなくてもいい、わたしは読むんだと、封筒から手紙を抜いた。
便箋ではない大きな紙一枚だった。それをひろげると、手紙の出だしのほうは、美幸の母親への頼みごとのようだった。拘置所に来るときに持ってきて欲しいものなどを書いている。痛いとか寒いという単語が相当でてくる。具合が悪かったことが手に取るようにわかる。
その手紙の一番最後に直也へと行を変えて書いている。
直也へ
春子は元気?
わたしは体がだるくてしかたないことをのぞけば、 最悪な気分はだいぶましになったよ。眠れるようにな ったし、ご飯も食べれるようになりました。
離れたこと後悔してるけど、間違ってなかったと思 いたい。お母さんからきいたけど、面会したいって、 面会には絶対来ないでね。
だって、こんなところ見られたくない!
仕事順調? あまりバイトしすぎないでちゃんと睡 眠とってね。
美幸
何度目かの手紙らしい。手紙を封筒に戻そうとしたら岡本が横から手を出した。
次の封筒をとる。
直也へ
わたしの人見知りは病気かもって言われました。
直也はすぐに誰とでも親しくなれてたけど、わたし は興味が沸かなかった。でも病気だなんて。
じゃあ病気じゃない人なんているのかな。
このまま誰ともかかわらずに生きていけたら最高な のにって思うけど、どうやって生きていくんだって考 えると気分が悪くなる。本当に具合が悪くなるの。
あ、やっぱり病気か、なんて。
美幸
読み終わって岡本に渡すが、岡本はもう読みたくない
ようだった。
そして拘置所からの最後の手紙であろう一通を読んでいると、夜中に叫び声をあげたと書いてあった。
直也へ
また叫んだみたい。
まわりはみんな起きるし、事件がおきたと騒ぎにな りました。怖い夢をみるとこうなると説明したけど、 大変だった。
そのときにみていた夢は、家の中にいるときに、建 築家の男の人を怒らせたために、家のあらゆるところ から砂がちりちりと降ってくるという夢だったの。天 井や壁の隙間や柱の間なんかから、砂がずっと出てく るの。すぐに砂はいっぱいになって体を埋めていくの。 最後に顔まで埋まって息ができないっていう夢。
直也といるときも、ときどきあったけど、まわりの 人が初めてだからね。でも、その夢のあとから熱がで てさがらないの。
美幸
残りの手紙は美幸の母親からのものだった。
病院に入院したことや熱の原因は腎盂炎だということが書いてあったが、一通だけ読んで残りを読むのをやめた。
「西田君、美幸ちゃん、なんでこんなことになったの」
咎めるような口調になってしまった。
西田は何も言わない。
すると岡本が、
「西田のせいやないやろ。もともとそういう因子を持った子やったんや」
そういう因子。それでは岡本も気がついていたのだろうか。美幸が何にも媚びなくて、孤独であることを選んで、冷めていたということ。
「美幸のお母さんとも話してたんだけど、外の美幸と家族の前の美幸はまったく違う人間だったって。子どものころの美幸は、お母さんがごみを捨てにちょっと家をでただけで、泣きわめいてパニックになったそうや。美幸の火傷の痕やほかの体の傷痕は、暴れたりして自分で怪我をして作ったらしい」
「まるで何かの発作みたい。あの美幸ちゃんからそんなところ想像もつかいないわ」
西田が写真のファイルを持ってきた。
「最初に美幸を撮りだしたのは、付き合いだしたころに些細なことで揉めてね、物を投げたり暴れたりするんで、押さえこんだんですわ。そしたら興奮が収まって、かわりに、さあっと体が冷めていくのがわかった。カメラを取ってきて、その姿を何枚も何枚も撮ったんですよ」
ファイルを開くと、モノクロプリントで美幸の顔のアップが写っていた。次々めくっていくと、全身を撮ったものや、手だけ足だけというプリントもある。わたしの知らない写真の方が多いみたいだ。
美幸の体には顎の火傷の痕だけでなく、腕や肩にも無数の傷痕があるのは知っていたが、改めて見直すと、ひとつひとつの傷痕は何かの事故でできたのもののようだが、数が数だけにリストカットを何度も繰り返している子のように、傷痕が美幸を証明するごとく染み込んでいるように思えた。
西田はさらに、
「ぼくといると何もできなくなったって、ずっと言われ続けてたんです。美幸の写真を撮りだしてからです。レンズを向けることは嫌がらなかったけれど、レンズを向けると生気が抜けていくっていうか、冷めていったし、ほら、昔の人は写真を撮ると魂が抜かれるって信じてたでしょ。まるでそんな感じなんですよ」
「じゃ美幸ちゃんを撮るときは、最初のときのように、興奮して暴れたときに撮ってたわけ」
どの写真も静かに横たわる美幸の体が写っている。
「そんなときばかりじゃない。気分の悪そうなとき楽しそうなとき、怒っているとき、いろんなときにレンズを向けてた。でも、必ず同じように美幸は冷えていく。体温を奪っていくみたいに。ぼくはそういう写真が撮れることがたまらなく嬉しかった。喜怒哀楽のない無機的な人間の中から微かに聞こえてくる鼓動こそ真実だ、みたいな。美幸を撮ったシリーズは回りの評価もよかった。それを美幸も喜んでくれてたし」
「暴れるにせよ、西田と会う前は、エネルギーを発散させてたわけだから、それができないことが、美幸がほんとうの美幸じゃなかった理由と違うか」
岡本はファイルを引き寄せながら言った。
「ああこれは、西田にはやめられへんかったのがわかるな」
何枚か写真をみたあとに岡本はつぶやいた。写真をする者だから分かるのではなく、おそらく男の本性が嗅ぎつけた共通のものが岡本にはみえたのだろう。
「西田君は何かしらを美幸ちゃんから奪っていたという自覚はあったの」
美幸から奪った熱は西田の体に吸収されたのだろうか。
「奪うって、ちょっと暴力的な感じやな。ぼくは傷つけたつもりはなかったよ。少なくとも意識的には」
「とにかく」と、岡本が言った。
「だれも美幸を救い出せない気がする。彼女は彼女の感性によって自ら消えてなくなっていく、いわば蜉蝣なんとちがうか」
なんか陳腐だなと思った。美幸のことを判ったように話す岡本にすこし腹が立った。
わたしは途中だったので、岡本からファイルを取り戻すと残りの写真をみていった。
布団のうえに横たわった写真がある。全裸であお向けに寝た姿は昔の映画のワンシーンのようだった。細い骨格にうっすら肉を貼りつけたような美幸の体から立ち昇るエロスはまったく下品ではない。柔らかそうな陰毛が控えめに性器を隠している。そこに窓辺の柔らかな光がのびて、静かな陰影を形作っていた。
西田によってプリントの中に閉じ込められた美幸をみると、かつての嫉妬が蘇ってきた。
誰もが目をひく顔とスタイルを持ったうえで、たくさんの傷痕を体に刻むことは、二十歳前後のわたしにとっては、近寄りがたい崇高な存在に思えたのだ。常にまわりの反応を気にして、本当の自分のありかさえわからなかったわたしには、赤く光る襞を表に晒すことができる美幸と替わりたいと願った。美幸のようになれば、嫌いなわたし、ではなくなると思えたから。
しかし、わたしは美幸の全部を知っていた訳でもなく、すべてがかってな思い込みなのだ。本質はそこではないし、そこではだめだと分かっている。だからわたしは凡庸に生き続けることができるのだ。
ファイルの最後のページにきた。そこには美幸ではなく、建物の写った風景の写真がはいっている。しかもその一枚だけがカラープリントだった。
なんだこれは、と思ったときに根岸が散歩から戻ってきた。焼きたてのパンを買ってきたと、テーブルにのせたので、ひとまずファイルを閉じて下に置いた。
「この辺って、団地が多かったんですね。昨日は真っ暗だったんで全然わからなかったけど。団地って昭和の遺物だと思いませんか」
四、五階建ての四角い箱が大きな道路を挟んで南北に何棟も立ち並んでいる。棟には階段しかなく一階の居住者には箱庭がついているが、だいたいの家が菜園と植木の混合した庭だった。
自転車と洗濯物がどの棟にもみうけられ、ここがまだ現役であることを示しているのだった。
「団地に萌える写真家って、結構いますね。それに取り壊しになるっていうアパートなんて、何冊も写真集でたりして」と西田がいたずらっぽく言った。
岡本が団地萌えのひとりということを、わたしも西田も知っていたからだ。
根岸が買ってきたのは、チョコクロワッサンとメロンパンとカレーパンとブリオッシュの四つだった。
さあどうぞと言われても、みんながパンを見たまま手をださないので、わたしが最初にチョコクロワッサンを取った。そしたら次々と手が伸びて分配が済んだ。メロンパンが岡本でブリオッシュが根岸、朝からカレーパンは誰も敬遠したくなるのものだから、西田が残ったカレーパンを食べることになった。
「みなさんの好みがわからないので、西田さんがお好きな缶コーヒーを買ってきました」
そう言って、皮のジャケットからボスレインボーマウンテンを四つ取り出した。
ボスという銘柄のレインボーマウンテンというのは、缶が虹色のもので、台所の流し台に同じ空き缶が転がっていた。
四人が同じように、顎を重そうに動かしてパンを食べていると、かさこそと何かが動いているような音がする。
音源が天井裏なのか台所なのか判然としないが、少しするとまた、かさこそと音がするので、
「この音、ねずみ」と訊いた。
すると、
「亀」と西田が答えた。
岡本が体をのけぞらせ、そっちをみろと指差した。そこにはプラスチックのケースに入った亀が飼われていた。
「亀、飼ってたの」
驚いて言った。
「はるこ」
「えっ、なんて」
「それが春子や」
ああ、と分かった。手紙にでてきた春子というのは、亀の名前だったのだ。
「美幸が飼ってたのをぼくが引き継いで飼ってるだけや。もうすぐ冬眠する時期にきてる」
冬眠という言葉を久しぶりに聞いた気がする。
「なんかわたしも疲れたから、冬眠したいな」
まじめに言ったつもりなのに、みんなに笑われた。
「冬眠するなら来年のほうがええよ。ちゃんと蓄えておかんと冬眠中に死ぬこともあるんやから」
西田は可笑しそうに言った。
冬眠は目覚めることを前提に眠ることなのだと、西田の言葉は当たり前のことをわたしに認識させてくれた。ただ、わたしが冬眠したいと口をついてでてしまったのは、生き延びるためのものではなく、一時停止の意味である。望むだけ、食わず動かず夢ばかりみていられたらいいなと思ったからだ。
寝ているときに夢をみる。覚えているいないはあっても、必ずみているという確信がわたしにはある。そして夢の中では現実と夢の区別はつかない。夢の中で感じていることは、現実の感覚となんの差異もないのだから、別にずっと夢の中だけでも生きていけると、本気で思っているのだ。
「ときどき、食べたり、掃除したり、洗濯したり、そういう発展していかないことをすることが嫌になることない」
わたしは冬眠から思いついたつまらない質問をした。
さあ別にと、三人はとりたてて考えたこともないと首を振った。仕事以外目的以外のどうでもいいことには興味がないといった感じだ。
「みんなは仕事とか、目標とか、好きな女の人のことだけ考えてたら、考えることに不便しないって、いうことなのかな」
と、加えて言った。
あまり愛想がないのは悪いと思ったのか根岸が、
「しょうもないことも考えることはありますよ。でも、分量でしょうね。仕事があって、ライフワークがあって、かみさんや子どものことなんかが占めてて、ほんの少し時間ができると作れるみたいな」
根岸は夢の話をすることが逃避しているといいかたであった。わたしは現実の生活でいいのか、と、問いかけたのだが、質問の意味さえ伝わってなかったようだ。
「脳リョウって部分があって、右脳と左脳を繋ぐ橋の役目らしいけど、男と女じゃ、太さが違うらしいよ」
岡本が続けた。
「男のほうが細くて、情報の伝達が細いからひとつひとつって感じで論理的になるらしい。女は太くて一遍にいろんな情報が流れ込むから、感情的になる。男はなにか問題に直面して追い込まれたら、フリーズしてしまうから、なにもかも放棄して逃げる行動にでる場合があるってどこかできいた」
これも的外れだと思った。人間は眠らなければ生きていけないということを疑問に思わないのか。一日七時間前後眠る。そうすると人生の四分の一から三分の一は眠っていることになる。考察に充分値すると思うのだが。どちらにせよ、どうでもいいことに違いない。次の言葉もみつからないのでわたしはファイルを取り上げて、さっき気になった最後の写真をみた。
一面に大きな石がごろごろある寂寥とした土地に、グレーの四角い建物がひとつあるだけの写真だ。何より目を惹くのは、柿のような色の空だった。夕焼けなのか、その空の色といったら見たこともない色で、建物と荒れた土地に、さらに重くのしかかるようだ。こんなところで生活するのはさぞ辛いだろうと思った。
「西田君、これはどこで撮ったの」
もしかしたらこんなところに美幸が入院させられているのではないかと想像した。
西田はもう一度、亀の方を指差した。
プラスチックのケースの中に、プラモデルの小さなビルが入れてある。
「あれをマクロレンズで撮ったんや。後ろの障子に西日があたって、ほんまに橙色に部屋中が焼けてなんとも綺麗かったんで」
まさかと思いケースの中をじっくりと見てみる。
亀と目があった。前足の水かきを目いっぱい開き、何度も砂利を掻き分けているが、砂利が動くのはほんの少しだけで大半が空を切っている。
亀がつくった凹凸の間に写真と同じ色形の建物が入っている。
現実の建物と思ってみていたものが、掌にのるようなおもちゃの建物だったのだ。
なんだか、いままで聞いてきた美幸の話も手紙さえも、全部これと同じように作り物だったのではないかという気になってきた。
見たり聞いたりしたことや現実の中にあることでさえ、真実だという証明にはならないのだ。
ケースの蓋を取り、プラスチックの建物を掌においた。建物に重さはなく、小さな窓がいくつも開いている。
わたしは模型に顔を近づけて窓の中を覗き込んだ。建物の中はただの平面だった。階段も踊り場もないただの平面に目を凝らすと、そこに人が立っていた。こちらを振り返る。首筋に赤いものが見えた。
なんだか気配がして、わたしもうしろを振り返ってみると、窓から柿色の日差しとともに、大きな目がわたしを覗き込んでいた。
※ウロボロス Ouroboros(ウロボロス)とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています。
|