杉尾先生、お久しぶりです。僕が農業高校で先生の教えを受けてから、十年の年月が過ぎ去ってしまいました。
僕がこの手紙を書く気になったのは、ほかでもありません。僕には、心の中の寂しさや、苦しさを打ち明けることができる友がいないからです。
当時の同級生は、農業高校を卒業しながら文系の大学へ進学した者や農業を嫌ってサラリーマンになり、新しい背広に身を包み、自家用車で通勤をしている者もいます。
それにひきかえ僕の生活は、乳牛の飼育に朝の明け方から夜の星が出る頃まで働いても、ほとんどの収益は借金の返済に消え、スーツの一着も買えない貧乏生活です。それでなくても酪農家には嫁の来てがないのに……もう一生結婚を諦めなければならないのでしょうか。
気分が滅入ってくると、懐かしい高校時代が思い起こされ、三年間担任としてお世話になった、杉尾先生の顔が浮かんできます。
先生は高そうな鰐皮のベルトを、いつもズボンに締めておられました。きつく締めているせいか、ベルトの金具が鰐皮に食い込み、皮がむくれあがっているのがわかりました。
高価なベルトは、装飾品としての値打ちをもたせるため、皮が痛まないように、緩く締めるものですが、先生は鰐皮の値打ちなど眼中にないようでした。そんな格好をつけないところに親しみを感じました。
授業中は教科書を片手に、ゆっくりと教室内を歩きながら講義をされていました。一部の者が雑談をすることもありましたが、怒鳴ることもなく、先生がその生徒のそばに立つだけで、私語が消え静寂な授業風景に変わっていました。
クラスの中には、授業についていけなくて単位を落とす者もいましたが、そんな生徒のために、放課後補習授業を自主的に行い、全員が卒業できるように努力をされておられました。
また柄の悪い生徒に弱腰な教師が増えていく中で、どんな生徒に対しても同じ態度で接しておられたのを覚えています。
先生は僕たちに、「これからの農業は頭を使った効率的な農業経営をやらなければ生き残れない時代になってくる。勉強する気があるなら、大学へ進学してもっと農業知識を深めることも、一つの選択である」と、ゆっくりとした喋り口調で、言われたのが印象に残っています。
先生の言われることもわかるのですが、大学に進学することは経済的な問題が生じてきます。国立大学ならまだしも、私立となると僕の家庭環境ではとても無理でした。
僕が酪農という職業を選んだのは、自営業であるために、頑張れば頑張るほど収入が多くなると思ったからです。乳牛を飼ったことのない僕が、酪農を興すということは、大きな不安がつきまといました。
県の出先機関である農業改良普及センターへ相談に行きました。そこには畜産担当の普及員がいて親切に教えてくれました。家族労働でやれる酪農経営は、二十頭から三十頭の飼育が効率的であることがわかりました。
また、酪農経営について勉強できる専業酪農家を紹介してもらい、一ヶ月間住み込みで働かせてもらえることになりました。ただ研修という名目だったので無給扱いでした。
両親に相談をすると、「おまえのやりたいようにせい。協力してやる」と言ってくれました。その言葉に勇気が湧いてきました。
研修先の酪農家は、乳牛を百頭飼育しており、従業員も三名雇っていました。明け方から陽が落ちるまで作業があり、働き始めた頃は身体が慣れていないせいか、一日が長く感じられ、しんどかったです。
昼は食事を挟んで三時間の休憩があったので昼寝をすることができました。毎日が同じ作業の繰り返しなので、仕事内容を覚えてしまうと指示を受けなくても、自分の判断ですることができました。
百頭いると餌を食べない牛もでてきて、そのたびに獣医を呼んでいました。診察した牛の前で、主人と獣医は神妙な顔つきでひそひそ話をしていました。乳牛の胃に病根があるらしく、手術をして治療するか、それとも肉牛として売ってしまうかを相談していたのです。
獣医が帰った後、主人は僕に「治癒する確率が七十パーセント以上なければ、手術をしない方がよい。手術をすれば痩せて肉牛としての商品価値が下がってしまう」と、教えてくれました。
主人は今まで何人もの研修生を受け入れていました。搾乳の仕方や餌の配合などを、自分から手本を見せて手ぎわよい指導で、わかりやすく大変勉強になりました。
僕が研修を受けている間に、父は同じ村に住んでいる大工に頼んで、小さな牛小屋を建ててくれました。
生まれて二週間程度の仔牛を十頭買ってきて飼い始めました。朝晩に粉ミルクをやり餌を少しずつ与えていきました。
仔牛から大きくし、成牛にして乳を搾れるようになるには、順調にいっても二年かかります。その間の収入はありません。五反の田圃はありましたが、それだけでは食べていけません。土方に行くことも考えましたが、牛の世話をしながら外へ仕事に出ることは、何事にも中途半端になってしまうのです。
現金収入がなければ生活が成り立っていきません。こんなことをしていては、じり貧になってしまう気がして、僕は思いきって、成牛をそろえてはどうだろうかと考えました。
父に相談したら、「おまえの人生や、思いどおりにやったらええ」という言葉が返ってきました。親の言葉のありがたさに涙が出ました。
それでも迷いましたが、早く現金収入を得るために思い切って、事業の拡大を図ることにしました。資金の面でも国が行っている農業近代化資金制度といって、低利でお金を貸してくれるシステムがあります。農業近代化資金を借りて新しい鉄骨の牛舎を建て、それに生業資金を借りて成牛を二十頭購入しました。
借金が膨らむことは不安も大きかったのですが、それでも、成牛から搾乳する乳は即現金収入となり、仕事の励みになります。毎日、無我夢中で働きました。
朝早く起きて夜遅くまでの仕事はやはり疲れました。昼ご飯を食べると、睡魔に襲われ座ったまま、うとうとと眠ってしまいます。それでも一時間ほどですが昼寝をすると力が湧いてきます。人とのつき合いの下手な僕には、酪農のように自分でやる仕事が最適だと思います。
しかし頭で考えるようには、なかなか毎日が順調とはいきません。乳房にしこりができ、乳の出が悪い牛が何頭か出て、獣医に診てもらいました。乳房炎という病気でした。
一ヶ月の研修内容を書いたノートを見たり、酪農を経営している地域の先輩からいろいろ聞いたりもしました。また本を読んだりして勉強もしたつもりでしたが、実際の症状が微妙に違い病気かどうかの判断ができないのです。まだまだ、僕の酪農に対する技術不足です。
牛は何も喋ってくれませんし、ただ餌を食べなくなるだけです。その原因が何であるか、当てるのが難しいのです。乳房炎が悪化して熱を出していたのです。
乳房の四本ある乳頭の一本からマヨネーズのような白い物が出ており、獣医に治療してもらいましたが、乳頭の一本がだめになってしまいました。それでも三本からは乳を出してくれますが、やはり乳量は落ちました。
毎日牛乳を搾っていると、徐々に乳量が落ちてきます。当たり前のことなのですが、乳牛はお産をすると乳が多く出るのです。年に一回お産させるのが、安定経営につながります。
人工授精師に頼んで種付けをしてもらいます。二十頭に行うには経費も馬鹿になりません。ショックだったのは出産した牛が起きあがれず、廃牛にしてしまったことです。
夏になると牛舎の横に積んでいる堆肥が臭いと、近所から文句を言ってきました。ハエが多いと言ってくる人もいます。堆肥の処理に費用をかけるほど余裕はありません。家族三人が食べていくのが精一杯なのです。
新しい牛舎に成牛が二十頭もいて、毎日それなりの牛乳を搾って出荷しているのを見ていると、大きな収入があるように思われるかもしれませんが、借金の返済と牛の共済掛金などに収入の半分以上が消えます。それに飼料代も必要です。それでも一時期でしたが、儲かる時期もあり、借金の返済も予定より早くできると、心が躍ることもありました。
それが雪印食中毒事件から、消費者は牛乳離れをおこしてしまい、牛乳はだぶつくようになり、乳価は下がってしまいました。追い打ちをかけたのがBSE感染牛の発見事件です。乳牛肉の価格は大きく下落し、目の前が真っ暗になってしまいました。
お金を儲けて両親を楽にさせてあげたいと思って始めた酪農、それが借金を積み重ねただけで、なかなか減ってくれません。それでも両親は何も言わず黙々と牛の世話を手伝ってくれます。そんな姿を目の前にすると、早く楽をさせてあげたいと気が焦ります。
家の近くに大きな池があります。小学生の頃、この池で泳いでいて溺れたことがありました。そのときは上級生が助けてくれましたが、妙に親しみを感じる池なのです。
精神的にしんどくなったときは、その池の土手に寝ころんで、水面を走ってきた風に吹かれながら、空を見ていると気が落ち着くのです。それでも、この頃は、借金のことを考えると憂鬱になってしまいます。「サラリーマンになっていた方が良かったのでは……」と後悔が膨れあがってきます。
そんなことを考えながら水面を見つめていると、池に引っ張り込まれそうな気がしてきます。僕が溺れた時、あのまま水の中から引き上げられなかったら、両親に苦労をかけることもなかったのではないかと、思うこともあります。
先生、どうしたらいいのでしょうか。多額の借金をつくってしまいました。酪農をやめて精算したところで乳牛の値は下落し、今はほとんど売れません。
先生を落胆させることばかり書いて申し訳ありません。でも今はこの心の中に詰まった、もやもやしたものを思いっきり吐き出したいのです。こんなこと親には話せません。心配をかけるだけです。
少し前までは産後の起立不能になった牛でも肉として、いくらかでも売れていたのですが、BSE感染牛の発見事件以降は売れません。逆に廃牛の処理に費用がかかるようになりました。
牛舎の中に、ぽっかり空いた牛の寝場所を見ると何とかいっぱいにして、早く借金を返したい心境におそわれ、無理して妊娠牛を買ってしまいます。それが反対に借金を増やす結果となり、八方塞がりの状態になってしまいました。
このような酪農生活に青春のすべてを費やしていて、いいのだろうかと考えることもあります。まわりに同じ世代で酪農をしている人がいないのです。話し相手がいないことはストレスがたまります。
地域の行事に出ていっても同じ世代の者は、頭の髪をきれいに七、三に分け、流行の服装をしています。僕といえば、作業服に毛が生えたような服装で、積極的に話しかけられない僕は、いつも孤独です。
僕は大学に行くことについて、何もわかっていなかったのです。今の世の中は学歴よりか、実力で世の中をわたることが、できるのだと思っていました。でも今、気が付いたことは、学校とは、何も勉強だけがすべてではないということです。自分が生きていくのに必要な友だちを、心を打ちあけられる友だちをつくるのも、学校へ行く大きな目的であるということがわかったのです。
生活のことなど何も考えずに、遊び惚けていた高校時代が思い出されます。あのときは、ただ目先のことだけに心が奪われ、喜怒哀楽を繰り返していたことが、幸せであったということが、今となって、よくわかりました。
僕は当時の出来事をノートに残しています。読み返すたびに懐かしさの中に、淡い恋も混じっています。僕の心を支えているのは、ノートに書かれている出来事です。先生もノートに書いてあることを知ったならば、「そういえばそんなこともあったなあ」と懐かしがられると思います。
ノートを読んでいると、当時のことが走馬燈のように浮かんできます。恥ずかしい気もしますが、この手紙に充実していた高校時代のことを書きたいと思います。ぜひお読みください。
そして、お会いしたときに、昔話に花を咲かせたいと思います。やはり印象深いのは二年生のときです。
僕が高校二年生になったとき、どのクラスも新学期を迎え、新しい委員長を決めようとしていました。小中学校を通して勉学に優秀でなかった僕は、今まで正副委員長という肩書にはまったく縁がありません。
「僕、委員長に立候補します!」
手を挙げながら、叫ぶような大きな声を出しました。少し度胸がいりました。クラスの者たちは、こちらを振り返りました。
みんなに見つめられると、顔が熱くなったのを覚えています。開き直りの気持ちと、照れ臭い気持ちもありましたが、一度は経験してみたいとかねがね思っていたのです。
それに僕は小田原雪子という生活科の同じ二年生の、可愛い女生徒が気に入っていました。雪子は甘ったるい声で明るく喋り、ポチャッとした顔に目が大きくて何かあると顔をよく赤くしました。その彼女が生活科の委員長になったと聞いていたのです。
男子生徒ばかりのクラスの中で優秀な者は、委員長という肩書が勉学の邪魔になるのか立候補しようとはしません。結局立候補したのは僕だけでした。しかし、みんなから承認する拍手もなければ、反対する声もあがりません。あまり関心がないようです。
生まれて初めて委員長という肩書きが付きました。胸の鼓動が速くなっているのを感じます。早くひとりになって、この喜びを思い切りかみしめたい。少し偉くなったような気分が押し寄せてきました。
委員長という肩書きを使って、生活科クラスの委員長との打ち合わせという名目をつくって生活科の教室に行き、雪子と話し合う機会をつくりました。親しく話をしていると、他の女生徒から好奇の目で見られましたが、一向に気になりませんでした。好きな女性と話をしていると胸がはずみます。また、学校に行くのが楽しく、人生に張りができました。
「男子生徒の長髪について、どう思う?」
僕は雪子に声をかけました。
「どこの高校も長髪になっているのに、どうしてうちの学校はだめなんだろうね」
きょとんとした顔で彼女は、心もち頭を傾けて答えました。僕はそんな雪子の仕草を見ていると、たまらなく可愛いと思うのです。
今、学校で問題になっていたのが長髪のことでした。隣接市の工業高校を除いては、どこの高校も男子生徒の長髪が認められていたのに、なぜかわが校は丸坊主頭だったのです。
長髪問題は生徒間においては大きな関心事であり、学校側と生徒会がくすぶり続けた状況にありました。これを大きく日の目を見させようと、行動に移したのが僕らのクラスです。
六月のある日、梅雨の合間を縫うように雲ひとつない晴天日でした。二年生の僕たちは校門に机を引っ張り出し、朝七時半から通学して来る全校生を対象に署名運動をやりました。
前日の放課後、長髪についてクラス全員で意見交換をし、その結果、全校生に対し署名運動を行い、それをクラス全員で校長室へ持って行くことになったのです。
万一聞き入れてもらえない場合は、まずクラス全員が長髪を実行し、そして、全校生にも長髪の協力をお願いするのです。実力行使で長髪を学校側に認めさせることになりました。不安はないこともなかったのですが、男らしくやるしかないと思ったのです。
登校してくる生徒に署名の協力を頼みましたが、なかなか思いどおりにはいかないものです。それに、急いで登校している者には署名の趣旨を説明するだけの時間的余裕がありませんでした。素直に署名をしてくれる者、無視して通り過ぎていく者、関心を示し署名の主旨を聞いてくる者、冷やかしていく者いろいろです。
行動に移してみて、沢山の生徒に署名をしてもらうためには、事前に各クラスの代表者に根回しをしておくべきだったことが、わかりました。計画性のないやり方は、興味半分にやった行動としか受け取られても仕方がなかったのです。
校門から職員室が見えます。窓際に先生たちが寄り添い疑いの目でこちらを見ています。「何をしているんだ」という雑談の声が顔の仕草から窺えます。
僕たちは職員室を無視するように背を向けました。結果は思ったほど署名が集まらず、とくに上級生の協力が少なかったです。百五十人ほどの署名が集まりましたが、これだけでは校長室には持っていけません。全校生の五分の一です。
その日、授業が始まる一時間目に、杉尾先生に教室の外に呼び出され、署名のことについて、いろいろ説教をされました。
「どうしてあんなことをしたんだ」
苦り切った渋い顔から、ゆっくりした口調でした。長身から見下ろす視線に、針のようなものを感じました。
「それは……、みんなの総意です」
弁解するように言葉を返しました。
「やるまえに、どうして担任である、わしに話してくれなかったんや」
「先生に話をしたら、やめろと言われるのがわかっていますから」
「あたりまえや!」
僕は黙ってしまいました。何を言っても叱られるのはわかっていたからです。
三、四時間目も杉尾先生に廊下で説教をされました。先生の真剣な眼差しを見ていて、ことの重大さがわかってきました。
隣接市の工業高校では、長髪に絡んだ学園紛争で、校舎の窓ガラスが割られ、また校内暴力などで新聞紙上をにぎわしていました。
校長は、わが校に飛び火することを恐れていたのだと思います。職員会議で署名運動に対する先導者の処分を話し合われたのは当然です。クラスの委員長である僕の処分です。
数学の先生が職員会議の内容を教えてくれました。年齢が二十五歳と若く僕らのクラスで数学の授業を持っており、なぜか僕たちと気が合いました。
職員会議では、杉尾先生が矢面に立たされ、「今後、同じような行動があれば私が責任を取ります」と言い切られたそうです。僕は処分を受けませんでした。しかし、後味が悪かったです。
クラスの者たちは、計画的でなく信念も持ち合わせていませんでした。ただお祭り気分でやっただけです。僕だけが踊らされ、委員長という肩書きの格好良さだけでなく、マイナス面も味わされました。
杉尾先生にしてみれば、担任であるクラスの者から相談もされず、無視された格好で惨めな思いをされたことだと思います。僕は委員長としての行為が軽率であったことを反省しました。
署名運動から二週間がたったある日、五、六時間目に体育館で生徒総会が開かれました。校長はあいさつに立ち、「当分、長髪にはなりません」学校の最高権威者として、自信に満ちた言葉でした。座って聞いている生徒の中から、ざわめきが広がりました。
無性に腹がたちました。生徒を馬鹿にしているとしか思えなかったのです。署名運動の件がなければ、立って発言していたかも知れません。校長の喋り方には、権力をちらつかせた態度が見え隠れしていました。当然、長髪問題は、校長のペースで進もうとしています。
生徒会執行部は『校則を守る会』の設置を提案しました。設置の意味は全校生が校則を守ることによって、校長から近いうちに長髪に対して、前向きの回答を引き出そうという考えらしかったです。
校長の顔に、勝者の笑みが浮かんでいました。このままでは負け犬のようで……。僕は校長に一撃を加えたかったのです。そうでなければ気が治まりませんでした。
自分の気持ちに押されるようにその場に立っていました。「なぜ校則を守る会をつくって、生徒を縛ろうとするのか、反対だ!」と発言しました。
ひとりでは何もできない生徒であっても、多くの生徒が集まれば、群衆となりうるのです。七百人余りの生徒を含んだ体育館の中は騒然としました。手をたたく者、床をたたく者、やじを飛ばす者、いろいろでした。結局、全生徒の賛否がとられ、生徒会執行部の提案は廃案となりました。
次の日、番長格の上級生に呼び出され、今にも殴りかかろうとする態度で、怒鳴られました。
「なぜ、あんなこと言ったんや。わしらがやってきたことが水の泡やないか、いい加減にしたらんかい!」
「悪かった、もうあんなこと言えへん」
恐ろしくなり謝りました。
生徒会の執行部は、三年生の番長格のグループで占められていたのです。
後で聞いたことですが、学校側と生徒会との間で長髪問題については、話が進んでいたそうで、『校則を守る会』の提案も、当初から筋書きができていたのです。それを僕が発言したことによって、筋書きが狂ってしまったらしいです。
「あんなこと言ったら、今度、先生たちに長髪のことを言っても、取り上げてくれへんようになるわ」
放課後、頬を赤めた雪子に強い口調で、そう言われました。僕は落ち込みました。後悔もしたがどうすることもできません。
生徒総会から二週間が過ぎ、期末テストが始まりました。学校の近くまで校則違反の単車で登校する途中、交通事故を起こしてしまいました。単車同士の接触事故で、相手は二人乗りをしていました。三週間と十日間のケガでした。僕は腰の打撲と腕に一週間のケガでありました。全治三週間の相手は入院しました。
事故現場が学校の近くだったので、現場検証のとき、杉尾先生がようすを見に来られました。先生の顔が恥ずかしくて見られませんでした。先生にいろいろと迷惑をかけておきながら、校則を破って交通事故を起こしてしまったのです。
先生は下を向いて立っていた僕に対し、「明日は必ず学校に来るように」それだけを言うと、向きを変えて校舎の方に戻って行かれました。先生の後ろ姿を見送りながら、またひとつ迷惑をかける火種をつくってしまったと気分が滅入りました。
校長に対して夏の太陽のように燃えていた敵対心が、力尽きて消えていく心境です。僕の置かれている立場が、校長という料理人によって料理をされようとしている、まな板の上に乗せられた鯉と同じであることを悟ったからです。
事故のことについて父は怒りませんでした。寝床に入ると身体の痛みより、胸が締め付けられる痛みがおそいました。「停学になるかも知れないなあ……」そんなことを考えました。
高校入学のときのことが、頭の中をかけめぐりました。「中学校の担任、親父、すまん。せっかく高校に行かせてもらったのに……」心の中で詫びました。天井を見つめている目に、涙がにじんで暗闇の中に白く浮かんでいた電灯の笠が、かすれて見えました。
次の朝、起きてみましたが、腰に針を刺すような痛みが走りました。事故の後、病院でレントゲンを撮ってもらい、医者からは、骨に異常はなく打撲傷だと言われました。しかし、打った腰の方の足が思うように動かせません。今日も期末テストがあるし……。
父は、「そんなに痛いなら休め」と言いました。しかし、杉尾先生との約束は守りたかったのです。学校の近くまで父に車で送ってもらい、そこから足を引きずり登校しました。
下駄箱のところで、生徒指導の先生に声をかけられました。先生たちはもちろんのこと、全校生に事故のことは知れわたっていました。
一か月ほど前には、署名運動をやり担任に迷惑をかけ、生徒総会では生徒会の提案した『校則を守る会』の設置に反対し、そして校則を破る単車で登校し、その揚げ句の果てに交通事故を起こしてしまったのです。
処分の結果はどうであれ、悔いのない青春時代を過ごせればそれでよいと、自分自身に言い聞かせました。そう割り切らなければ、悶々としたものが身体中に充満して、気持ちの整理がつかないからです。
学校からは、何等処分は発表されませんでした。それよりか事故で休んだ日の、期末テストの追試まで受けさせてもらいました。
この寛大な学校の措置と、杉尾先生の誠意に対し感謝するとともに、僕が今まで行ってきた軽率な行為に、後ろめたさを感じました。それに校長は僕など眼中にないことがわかったのです。ひとり相撲を取っていたのです。
長い夏休みがやってきました。中学生のときは、夏休みを楽しみにしていましたが、高校生になってからは、寂しい思いがします。雪子に会えなくなるというのが最大の理由です。
雪子の家には何回か電話をして話したことがありますが、学校以外で二人だけで会ったことはありません。クラスの者から、雪子が他の男子生徒と話をしているのを見たと聞かされると嫉妬しました。
七月の末に学校で実習があり、校庭で作業をしていると雨が降ってきました。作業を中断して体育館へ女子バレーの試合を見に行くことになりました。わが校の女子バレー部が他校と練習試合をしていたのです。
コートの中に六人の選手がいました。雪子が汗まみれになりながら、ボールを追っている姿が目にはいりました。一進一退の好ゲームです。汗を流しながら必死にボールを拾う雪子の姿を見ていると、なぜか胸が締め付けられ息苦しくなりました。
雪子から視線を離せませんでした。大きな声をかけ白いボールを追っています。ユニホームが汗にまみれて身体に密着していました。髪の毛が汗の噴き出た顔に付着しています。それをかきあげる仕草をしながらも、ボールをにらみつけていました。
回転レシーブをし、ボールを拾おうとする姿。「雪子、ガンバレ!」心の中で叫んでいました。
知らず知らずのうちに、目の中に涙がにじんできました。自分がやっている普段の行動を思うと、恥ずかしくて正面から雪子の姿が見られません。体育館の二階の欄干に隠れるようにしていました。
今まで格好付けばかりしていた自分が、恥ずかしくなったのです。また雪子が男子生徒と話をしているだけで、嫉妬をした自分の心の狭さにやるせない思いが込み上げてきました。
雪子のことでくよくよしたり、嫉妬したりすることが、なんだか阿呆らしく思えました。雪子に青春について教えられた気がします。
九月下旬の職員会議において、生徒の長髪が決まりました。何ともあっけない幕切れでした。
その日の夜、雪子がいつもの甘ったるい声で電話をかけてきてくれました。
「長髪になって良かったね」
「ああ、でも何か素直に喜べないところがあるんだ。校長たちも汚い」
「どうして?」
「だってそうだろう。今まで長髪はダメだと言っておきながら、揉めそうになると、うちの学校でも髪を伸ばしてもよろしい。それはないだろう。今まで僕たちがやってきたのは何だったんだ。結果的には何もしなくても長髪になったということになるだろう」
「そんなことないよ。みんなが頑張ったからなったんじゃない」
「釈然としないんだ。杉尾先生に申し訳ない気がして……」
「杉尾先生もわかってくれるよ」
「だったらいいんだけど」
「それより、明日の大会……頑張ろうね」
雪子は、明るく甘いやわらかな声で激励してくれました。彼女からの電話は、うれしくて踊りたい気持ちになります。明日は、計算尺の校内競技大会が行われることになっていました。
一年から三年の十八クラスから各十名代表者が出場し、決められた時間内に出題を解き、正解の合計点数を競う大会でした。僕も十名の中に入っていました。
競技は全校生が見守る中、体育館で行われました。やはり大会となると緊張し、計算尺を握る掌から汗が滲み出てきます。焦れば焦るほど微かに指先が震えます。いかに速く正確に問題を解くか、時間との戦いでした。
雪子も生活科クラスの代表者に入っていました。お互い頑張り優勝を争い、彼女と一緒に喜びを分かち合いたい気持ちでした。
計算尺は三本の尺がひとつにセットされており、上と下の二本の尺が固定され、真ん中に挟まれた尺を左右に動かすことによって、端の目盛り数字を読み取り値を求めます。ただ難しいのは数字の位取りです。位取りは暗算が必要であり、尺を目盛りに合わすには指先の細かな動きが求められます。
計算尺は掛け算や割り算だけでなく三角関数などの、概算値を計算する尺です。今は関数電卓が市販されており、実際に仕事現場で計算尺を使うことがないかもしれませんが、基礎の大切さを生徒に教えるため、わが校は計算尺を授業に取り入れ奨励していたのです。
優勝は三年生のクラスに取られましたが、わがクラスは準優勝になりました。校長から賞状をもらって振り返ったときに、雪子と視線が合いました。笑顔を見せてくれた彼女に、「準優勝は雪子のおかげだよ」と、視線で言葉を返しました。
普段から僕に対して、渋い顔をしていた杉尾先生から、この時ばかりは笑顔で、「よく頑張った」と、声をかけてもらい心底うれしかったです。
僕の高校時代の内容を読まれて、杉尾先生はどう思われましたか。懐かしく思うと同時に、不愉快な思いをされたかもわかりません。長髪に関する署名運動では先生に多大な迷惑をかけてしまいました。先生が校長に責められても、体を張って僕をかばってくれたことを、今でも感謝しております。
僕が崖っぷちに立たされたとき、仮の話ですが、自ら命を絶ってしまったら、先生は怒りを身体中に表し、棺桶から僕を引きずり出し、「起きろ!」と怒鳴ってくれると思います。「高校では、何のためにおまえをかばったのだ。自殺をするのがわかっていたら、かまわずに、退学処分にさせた方がよかった」そう言われる気がします。
恩を受けた先生を悲しませることなく、むしろ良い報告ができるように頑張ろうと思っております。心のよりどころは、僕の後ろに先生がおってくださることです。それが張りとなっており、明日への活力となっております。僕の一生の師として尊敬しております。
杉尾先生以外の先生に、きつく叱られた記憶がありません。だから余計に先生のことが深く心に残っているのです。
先生が言われたように、最近、大学に進まなかったことを後悔するようになりました。今からでも少しずつ教科書を読んで、通信教育の大学に入ろうかと考えることがあります。
通信制の大学へ行くとしても、もし行けたらの話ですが、みんなと年齢が違うし、ほとんどの者は働いているので、スクーリング授業だけでは、そんなに話し合える時間があるかどうか、また気の合う友達ができるかどうかもわかりません。
今の心境を両親に打ちあけることはできません。通信制の大学に行くことは、酪農経営を中途半端にさせてしまう可能性があります。借金をして事業を興した以上、甘ったれた行動は許されないのはわかっています。それでも今の悩みを先生に、聞いてほしかったのです。
それとひとつ先生にお願いなのですが、この手紙に書いていたように、僕は生活科の小田原雪子が好きなのです。結婚したいなんて、そんな厚かましいことは言いません……。
それでも夢の中に雪子が出てきます。今どうしているのでしょうか。彼女はもてていたので、結婚しているかもわかりませんが……その点を確認したいのです。
お互いが委員長であった二年生のときは、雪子に対して躊躇せずに話しかけられていました。それが三年生に進級すると、僕も彼女も委員長の肩書きが取れ、出会う口実がなくなってしまったのです。
雪子の姿を見かけるたびに、話をしなければと意識だけが先行し、身体中が硬直して、なかなか行動に移すことができませんでした。
卒業が近づいてくると、気持ちに焦りが出てきました。雪子は僕のこと、どう思っているのか気になりました。直接会って訊く勇気はありません。「ただのお友だちでしょう」と、さらりと言われるのが怖かったのです。
雪子のにこやかな笑顔を見るたびに、有名人かお金持ちになって、「付き合ってほしい」と言える男になりたい。そんなことを考えながら、彼女の姿に視線を送り、落ち込む自分自身を振るい立たせました。
何とかきっかけをつかもうとしましたが、いらいらとした時間だけが過ぎ、結局何も言えず中途半端な気持ちのまま卒業してしまいました。
もう卒業してから十年がたち、僕の周りには高校時代の友達はいません。雪子の動向がわからないのです。できたら教えていただきたいのです。どうしても彼女が忘れられないのです。
酪農経営も今が正念場だと思います。今を乗り越えれば自信もつくし、経営技術も向上しているだろうし、そうなれば明るい未来が待っていると思うのです。
そして酪農経営が安定して、小田原雪子が独身だったら、ぱりっとしたスーツを着て胸を張って彼女に会いに行きたいと思います。そう思うことによって、酪農経営に力が入るのです。
こんな空想も考えています。結婚していた彼女が離婚していたら、結婚を申し込みたい……。
この手紙を先生に出すことによって、心の奥底にたまった鬱憤が沢山吐き出された気がします。
杉尾先生には健康に留意され、ますますご活躍されますようお祈りしております。失礼します。
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