ZS干潟   奥野 忠昭


 男は、道路脇に車を止め、助手席に置いてあったリュックを手に持つと、ドアを開けて外に出た。
 西日が眩しく降ってきた。九月も終わりというのに日差しはまだきつい。額の上の方も暑さを感じる。最近、その辺りの髪がかなり薄くなりだした。
 車の様態が気になるので、それを点検するために辺りを見回した。私鉄の線路が河の土手の方に向かって上昇していく。道もまたそれに沿って延びていくのだが、それは水平なので土手がちょうど道の側壁のようになっている。また、道幅はかなり狭いが、道路脇に車を止めておいても、他の車が十分に通れる。それに違法駐車の監視員もめったに来ないだろう。
 男は、ふううと大きな息をはいて空を仰いだ。
 日中の仕事はこれで全部片づけた。これから河原に行って少年と会うつもりだが、その時間を得るために必死で働いたのだ。後は、夜、支店長の求めに応じて、大手の自動車販売会社の社長を接待するだけだ。
 今朝、支店長から「ちょっと、課長」と呼ばれて、廊下の端で、「今晩の接待はもちろん付き合ってくれるだろうな」と言われた。
「君が手がけてくれた例の会社の社長な、招待に応じてくれたよ。あそこにうちの損保が食い込めたら、支店の契約高が飛躍的に伸びる。そうしたら、俺も本店勤務間違いなしだ。本店に帰ったら、今度は君をしかるべきところに絶対推するからな」
 男は、車に背中をもたせかけ、さらに、その時の自分や支店長の様子を思い浮かべる。
「とりあえず、うちの正木を雑用係につけますから」
 少し困惑しながら答えた。
「いや、正木だけではだめだ、ぜひ、君に来てほしいんだ。あの社長は君をえらく気に入っている。先日のゴルフの接待、君がやってくれたんだろう。君をぜひ呼んでくれってご指名つきなんだ」
 嘘を言え。ただ、自分がゴルフ好きの社長の相手をするのが嫌で、俺に話し相手をさせて、自分はホステスと楽しくやろうと目論んでいるだけではないか、と男は思う。
 だが、支店長が本社勤務になるというのはまんざらでたらめな話ではない。支店長もこの支店の勤務が長い。それに、かなりの業績も上げた。そろそろ本店に呼び戻されても不思議ではない。だが、今晩、働くのは嫌だ。できれば時間を気にせず、ゆっくりとあの河へ行きたい。
「すでに、もう一件、夜、会わなければいけない約束をしているもので。もちろん、仕事に関係ありですよ」
 ちょっと探りを入れてみた。
「だめだ。そんなの、別のやつに行かせ。これは支店長命令だ」
「わかりました。では何とか」
 男は、一瞬躊躇したが、まあ、仕方がないか、と思った。この際、支店長に恩を売っておくのも悪くはない。それに、少しぐらい会席に遅れたって顔を出せば義理がたつ。それに少年と会うといったって、そう時間のかかるものではない。ただ、彼と会って、その後でまた仕事をするというのがどうも気が乗らないのだ。
 前回、少年に会ったとき、来週、必ず来るよと男は約束した。今日は、自分が来ると少年は信じているだろう。すでにまるまる一週間が過ぎた。
 男は、手に持っていたリュックを背中に背負うと、線路脇の道を河に向かって歩き出した。カメラの入ったリュックを背負うのは久し振りだ。
 支店長がいつか「カメラを入れているリュックなあ、あれ、なんとかならないかね。仕事中に趣味の写真なんか撮るのを許しているのかって、成績の上がらない他の支店長が会議で発言しやがったんだ。部長が、そんなやつがいるのか、と尋ねるものだから、そんなのは絶対にいませんと言ってやったよ。たまたま別の支店の営業マンが社の車の後部座席にカメラが覗いているリュックを見つけやがって、車の番号まで控えやがってよ。支店長に報告したって言うんだから。うちの車には会社のロゴが入っているだろう。それですぐわかるのさ。仕方がないから、カメラがあったって、写真を撮っていたってことにはならないでしょう。たまたま、誰かに貸してやったカメラを返してもらっただけじゃないですか、と言ってやったよ。でもね、君もそんなことを言わせないように注意してくれよ」と言ったことを思い出す。
 だが、男は、支店長からどう言われようとカメラ入りのリュックを置くのを止めるつもりはない。「これは安全祈願のお守りなんです。置いておくと心が落ち着くんです。もしこれを置かないで事故でも起こしたら、支店長、あなた、責任を取ってくれますか」と男は詰め寄った。支店長は、うんうん、と言って黙ってしまった。
 支店長にそれくらいのことを言えるほどに男は彼に恩を売ってある。
 最初は、会社が終わって、少しでも時間があれば、カメラを提げて街の中をうろつくつもりで、リュックを背負って会社に行っていたのだが、今はもう写真を撮ろうなどという気はほとんどない。ただの気休めだけだ。でも、会社には必ずリュックは背負っていく。何故だかわからないが、自分の唯一の砦のような気がしてならないのだ。
 電車の線路がどんどん河の土手に向かって上っていく。それにつれて、道の側壁も高くなっていく。
 先ほど電車が横を通り過ぎていったのだが、それが土手の上に達し、鉄橋を渡りだしたらしく、リズムを打って高い音が前方から聞こえてきた。
 男は顔をしかめながら歩いた。が、ふっと左側を見ると、まだ新築間近を思わせる近代的なビルが目に入った。玄関には大きく金文字で「儀式会館」とあった。儀式会館? と男は少し戸惑ったが、ああ、葬儀会館のことかと納得する。何だか不愉快だった。葬儀が立派な会場でイベントのようにして行われることが気に入らないのだ。
 歩きながら、これから行こうとする河原と葦原のことを考えた。それは、通勤途中、鉄橋を渡るとき、車内から眼下に見わたせる場所だ。男はそれらをZS干潟と呼んでいる。それはそこへ行くためには降りなければならない駅名の頭文字を組み合わせて男が勝手につけた名前だ。
 それは河口からかなり離れていて、流れもあるが、潮の干満によって葦の生えている周りの川底が沈んだり現れたりする。また、大潮のときにはかなり広く川底が現れる。それに水鳥もよく見かける。さらには、今は河原になっているところも以前は干潟であったと聞いたことがある。
 干潟と言えば浜干潟を思い浮かべがちだが、河干潟もある。河干潟は、河原をも含めた一帯をそう呼んでいいだろう。
 車中の窓から、川の中ほどの、朝日を受けて朱色に輝く葦原とそれを取り囲むようにしてある濃紺の水面、さらに、それらを抱きかかえるようにして広がっていく河原を眺めているといつも心がじんとする。それに、川縁のところどころに生えている雑木にも心が惹かれる。自然に生えた木は、不器用にくねりながら天に向かって葉を開いている。
 男はそっと「ZS干潟」と呼んでみる。いい名前だ。何だかその場所が、自分にとって特別な場所のように思えてくる。
 以前、河原で熱心に写生をしていた少年から聞いた話だが、老婆がやってきて「ずっとここにいたい」と言っているらしい。その気持ちがよくわかる。自分だって歳をとればそう言うかもしれない。
 すぐに河の土手に着いた。階段を上ると、轟音が響いてきた。前を見ると、鉄橋の上を濃い紫色の列車がこちらに向かってやってくる。まるで餌に襲いかかる獣のようだ。
 俺はずっとあれに乗って会社に通っているのだなあ、と男が思う。すると、それに乗っている自分も獣のように思えてくる。
 獣で結構。自分は今獣にならないと生きていけない世界にいる。いやむしろそれを楽しんでいる。自分はそういう世界に適しているのだ。
 一ヶ月前、男は、あるタクシー会社がそれまで入っていた保険を自社の保険に変えさせた。そのお礼にと会社に立ち寄ったとき、その会社の庶務課長がやってきて耳元でそっと呟いた。「前の損保会社の担当がさ、会社でとっちめられて、鬱病にかかり、自殺したって。まったく、寝覚めの悪い話だよな」と。
 今度は河原の方に目を移す。かなり広い。端の方では葦の穂がなびいている。さらにその向こうに背の低い葦原が川の中で盆のように浮いている。
 男は土手を降りた。空気ががらりと変わった。今までの街の空気が、まったく違うものになっている。河原の空気といえばそれまでだが、何か、少年時代、山奥の村でいつもこういう空気を吸っていたような気がする。懐かしさが込み上げてくる。俺も歳をとったなあ、と思う。いやいや、そんなことはない。まだまだばりばりの現役ではないか。
 野犬が一匹、河原の端に佇んでこちらを見ている。じっと、不思議なものを見るように。凝視という言葉がぴったりするような見方だ。男が近づいていっても身動きひとつしない。
 細い足が、俊敏な動きを保証するように突っ立っている。そうだ。土手を上がるとき、見たことのない薄汚れたバンを見かけた。○○市役所野犬保護課という文字があった。
 その辺に野犬捕獲の男たちが来ているのかもしれない。野犬は男を捕獲係と間違えたのか。男は野犬に俺は違うと知らせてやりたかった。しかし、そのすべを知らない。
 男はもう一度土手の上まで引き返し、上から、河全体を見下ろした。捕獲係がどこにいるのか探す。だが、見あたらない。あの野犬は、すでに彼らの動向を感じとるだけの鋭い感性を持っているのかもしれない。 
 自分もまた捕獲係と似ているのではないか、とふっと思う。保険に入ってくれる人間を見つけ、それを捕獲するために日夜努力する。すると、捕獲係もそれほど憎むべき存在ではないのかもしれない。そう考えた途端に、身体にかゆみを覚えるほどの不快感が走った。
 リュックを降ろし、ズームレンズのついたカメラを取り出した。35ミリから300ミリのズームだ。リュックを背負い直すと、望遠にしてもう一度レンズを通して河側の草原を念入りに眺めた。その辺りにかなり木が生えている。捕獲係が隠れていそうだが、人影はない。
 野犬はようやく歩き出し、意味もなくしっぽを振って、背の高い草の中に隠れた。
 川縁の雑木の切れ目辺りを眺める。
 思った通り少年がいる。いつもの木陰のところに丸太の木ぎれを腰掛けにして絵を描いている。相変わらず、対岸の木の茂みを描いているのだろう。
 二ヶ月ほど前、男は、干潟の葦を見たくなり、ここにやってきたとき、その少年に出会った。
 何気なく彼の描く絵を眺めた。向こう岸も干潟から河原になるところが少し崖のようになっていて、そこには雑草や低い雑木が生えていて、そのすぐ向こうには名の知れない木が三本生えている。それを写生していたのだが、写真のようにただ写しているのではなく、草や雑木はそこで絡み合って戯れているように描き、木の葉は実際より丸みを帯び、枝までまるでツタのように絡み合っていて、命を持った生き物が生気に満ちて蠢いているといったふうに描かれている。何だか気味が悪いほどだ。男はじっと見とれてしまった。
「すごくうまいじゃない」
 思わず声をかけた。少年は絵を見ている男に気づいたはずだが、何も言わずに描きつづけた。
「まるで木に魂が宿っているみたいだ。君は天才だね」
 男はこれも思わず言ってしまった。少年はようやく男を眺めた。
「あそこには神様がいるんだよ。僕には見えるから」
「神様?」
「そう。そう思って描いているんだ」
「そうか。木じゃなくてカミ様を描いているのか」
 男は改めて対岸の木をしみじみと眺めた。すると、幼いころ、森の神社の境内にあった高い樫の木を思い出した。昼でも神社の森は薄暗かった。ああ、この木にカミ様が降りてくるのだなあ、と確かにそう思った。
「おじちゃんも、会社がたいへんで、気持ちを落ち着けるためにここにやって来るの?」
「まあ、そういうものかな」
「おじちゃんも気をつけた方がいいよ。前のおじちゃんは、あそこの木の枝で首を吊って死んだんだから」
 少年は上流の方の河原を指さす。そこは花畠になっていて、その真ん中辺りに高い木がいっぽん立っていた。まるでポールのような木だ。枝振りもあまりよくない。
「あのおじちゃんもぼくの木を見てほめてくれたよ。子供のころ絵が上手だったんだって。画家になりたかったって。でも、諦めて、コンピュータ会社に勤めて、そこでえらく認められて、キャップをやっていたんだって。昼夜なく働いていたって」
 少年は突然、絵を描くのを止め、男を下から見上げる。半分驚き、半分あきれているような感じだ。
「本当によく似ているな。おじちゃんも気をつけた方がいいよ」
 男はその時の少年の言葉がやたら気にかかっている。会社にいるときでも不意にその言葉が甦ってくる。
「気持ちの悪いことを言うな」
 その言葉を思い出すごとにそう思う。しかし、少年はその後に、
「でも、ちょっとましか。おじちゃんの眼にはまだ力が残っているみたいだから」
 と付け加えた。
 それから男は何度かこの干潟を訪れ、その度ごとに少年の絵を見た。見るごとに進歩している。描いている木々がますます不思議な魅力を持ってくる。
 男はカメラをリュックにしまわずに、手に持って少年がいる川縁へと歩いていく。背の高い草の中から少年の白い帽子が動く。
「やあ、今日も熱心にやってるね」
 少年に近づき、声をかけた。少年は男をちらっと見るが、鉛筆を動かす手を止めない。4Bの鉛筆が生き物のように蠢く。するとそこに描かれる木もまた生き物のようにどんどんと現れてくる。まるで白い紙の中から自然が生まれてくるようだ。実際の木よりもスケッチブックの中の木の方がなまなましい。
 ようやく少年の手が止まる。男を見上げて微笑む。
「こんにちは。思った通りおじちゃん、来たね。来ると思っていたよ」
 少年はうれしそうな微笑みを浮かべ、両手をあげて背伸びをした。
「よく頑張るね」
 男はいつものことだが感心する。
 少年は男の持っているカメラに気づく。
「今日はカメラを持ってきたんだ。おじちゃん、カメラマン?」
「いや、ただの趣味さ」
「でも、おじさんは何かやっていると思っていたよ。僕の絵の褒め方、少し違うもの」
「そうかい。そう言われるとうれしいよ。君ほどはうまくはないけれどね」
「いつもはカメラを持ってこないけど、どうして?」
「いやあ、もう、カメラは止めたんだ。仕事が忙しくって写真を撮っている暇なんかないからね」
「首を吊ったおじさんもそう言っていた。絵を描きたいのだがそんな暇がないって。でも、今日は写真を撮るんでしょう?」
「写真か?」
「撮ったほうがいいよ」
「そうだな」
「鳥の写真はどう?」
「いいね、撮りたいと思ったことは度々あるけれど、鳥さんが来るのをじっと待っていなけりゃいけないし、忙しいだろう。とってもそんな余裕がなくって」
「そう、だったらぼくが呼んでやろうか?」
「…………」
「鳥はぼくの言うことをよくきくよ」
「鳥の写真か?」
 そう言えば、鳥の写真を撮って、一度、カメラ雑誌に投稿したことがある。頭の辺りが深青色で首の羽毛が白から黄色になっている鳥がつがいのように二羽並んで小枝にとまり、空を見上げている写真だった。写真雑誌に小さく載り、なかなかセンスのいい写真だ、この調子でどんどん撮ればさらにセンスが磨かれるだろうと批評されていた。
 美しい鳥の姿が目に浮かぶ。だがな、と思う。もう写真は止めた。いまさら、鳥の写真を撮ったってどうってことはない。
「見ててよ、おじさん」
 少年は唇を右手で挟むと、口笛を吹いた。鋭い音が川の縁を伝って流れた。すると、川下の方から一羽の鳥が、勢いよく彼の方に向かって飛んできて、肩の上をかすめるように飛び去り、それから、空中で宙返りをすると再び川の方に向かって飛んでいった。
 男は思わずカメラをそれに向けようとしたが、手が動かなかった。
「ね、どう?」
 少年は得意げに言った。
「撮る気にならない?」
 少年がそう付け加えた。
「ううん」と男はすぐには肯定の返事を出し渋った。少年はそれに抗うように、再び、唇を尖らせ、口笛を吹こうとした。
 とそのとき、急に唇を元に戻すと、慌てて身を低め、葦の中に身体を隠した。それから、葦の隙間から土手の方をしきりに覗き始める。
 男も、何事が起こったのかと、土手のほうを見ると、背の高い女が日傘をさして土手の上に立っている。ここからだとかなりの距離があるので、どのような表情なのかわからない。
「ママだよ、あれ」
 少年は再び小声で言うと、画帳や道具類を脇に抱え、崖のようになっている川縁を滑り降りた。そこはほとんど川面に近いところだった。腰をかがめて横に歩き、葦の葉で身を隠した。
「おじちゃん。ママが来ても僕がいなかったと言ってよ」
 少年は小声で言う。男が土手の方に視線を移すと女は日傘を振りながら階段を下りて、すでにこちらに向かってやってくる。辺りを見回すと、少年の鞄がまだ横に置いてある。男は慌ててそれを持ち、蔦草の生い茂った中に隠した。少年は葦の間からそれを眺めていた。
 少年は川の縁を背をかがめてどんどん遠ざかっていく。もう彼女からは見えないだろう。男は彼の素早い動作に感心した。男は、自分も少年時代、彼に負けないくらい敏捷だった、と思った。
 女はますますこちらに近づいてくる。下から見上げているためだろうか背がいっそう高く感じられる。パーマのかかった長い髪、白いブラウスに長めの黒いスカートを風に揺らしている。清楚だが勝ち気な感じがする。
 彼女は立ち止まり、男に気づいて驚いたように軽く会釈をする。男もそれにつられて会釈した。
「すみません、ここに小学校五年生ぐらいの男の子がいませんでしたか?」
 男に尋ねる。
「五年生ぐらい?」
 少年は五年生なのか、彼の年齢が初めてわかった。だが、彼に何年生という年齢は似合わない。彼はもっと幼いとも言えるし、もっと大人びているとも言える。
「さあ、子供ね」
「見かけませんでした?」
「ええ、まったく。私ひとり、水辺の小鳥を撮っているもので」
 男は持っていたカメラを上げて見せた。女は頷く。
「どこへ行ったのかしら。まったく。塾へ行っていないと言うし。このままじゃ、入試には落っこちてしまうわ。困るわ私。きっと、ここだと思ったんだけれど」
 女は首を何度もかしげた。
 男は女の顔を間近で見る。化粧の裏に、細かな皺が見える。
「仕方がないわ。パパはまた、お前のしつけが悪いって叱るけど」
 女は、くるりと背を向けると、土手の方に向かって歩き出した。
 男は、少年が立ち去った方向をじっと眺めた。たいしたやつだよ、親の言うことに無批判に従っていた自分の子供時代とはえらい違いだ、と男は思う。
 再び、河原の方を見る。女の姿は小さくなった。ここにはいないと諦めたようだ。足下で草の動きを感じ、そちらを見ると、少年が野球帽の中から微笑んでいる。
 少年は蔦草の中の鞄を探す。男はすばやく鞄を見つけて彼に手渡す。
「ありがとう、おじさん、何か、お礼をしなくちゃね」
「君はたいしたものだよ。自分のしたいことをするなんて」
「そうでもないよ。これでもパパの機嫌を取るのに苦労しているんだ。ね、ね、おじさん、鳥の写真を撮るといいよ。お礼にまた鳥を呼んでやるから」
 少年は男を見て微笑む。それから、空を向いて口笛を吹く。まるで美しい音楽だ。
 鳥が一羽、眼前の川の上に現れる。男は慌ててカメラを鉄砲のように構える。ファインダーの中にクローズアップされた鳥がとらえられる。名前は知らないが、羽根が金色に輝いている。首筋の朱色の環が美しい。
 鳥は川面すれすれに飛ぶ。男は鳥の動きに遅れまいとしてそれを追う。口笛がいっそう強く吹かれる。それが合図のように鳥は上空に上がり、次の瞬間、川面すれすれに飛び、すっと川面に脚をつけそうにしながら、羽根で川面をたたく。すると川面の水が、真珠の玉のように飛び散る。鳥は一瞬、水の宝石で包まれる。その向こうに葦の群れがうっすらとうつる。男は、今だと思い、シャッターを切る。手がすばやく動いた。
 と、そこへもう一羽の鳥がどこからともなく現れ、今度は二羽、まるで川面でダンスをするように羽根を振る。再び水粒がとび、二羽の鳥が、お見合いをしながら水滴を散らす。こんなことはめったにない。興奮しながら再びシャーッターを切った。
 いい写真が撮れた。これはすごい。コンテストの入選ものだ。男は興奮する。男の中にかつての熱意が甦ってくる。ぜひ、これはコンテストに応募してみよう。そう言えば、コンテストに入選してからもう何年経つだろうか? 六年は経っている。支店の営業課長になってからは一度もない。
 興奮はまだおさまっていない。先日送られてきたはがきを思い出す。写真教室で親しくしていた写真仲間の個展の知らせだ。「一度お顔をお見せください。あなたは写真の方はどうですか」と添え書きしてあった。行くものか、と思い、即座に破り捨てた。今男はそれを思いだし、自分は何とぶざまな姿をさらけ出したことか、と嘆く。
 鳥はもういない。空を見上げると、鳥に似た綿雲がいくつか浮かんでいる。
「すごいね、君は鳥の王様だ」
「なぜだかわからないけれど、あの口笛を吹くと鳥が水面で踊り出すんだ」
 少年はこともなげに言う。
「でも、すごいよ、いい写真が撮れたよ。ありがとう」
「おじさん、写真を撮るのが好き?」
「好きだね」
 男は力強く答える。
「僕も絵を描くのが好きだ。同じだね」
「同じと言ってくれてうれしいよ」
「だったら、おじさんに教えたいことがあるんだ。これはおばあちゃん以外、誰にも教えていないんだけれど。僕の秘密の場所」
「秘密の?」
「みんなはおもしろいと思わないけれど、おじちゃんならきっと喜んでくれそうだから」
「ぜひ教えてよ。どこ?」
「写真が撮れるようなところじゃないよ。でも行く?」
「行くよ、ぜひ」
 少年は鞄を丁寧に蔦草の中に入れ直す。それから、川の流れの縁をゆっくりと歩き出す。
 どうせたいしたところではないだろう。ちょっとした洞穴か、それとも小さな小屋でも。男はカメラをリュックに入れるとそれを背負う。
 しばらく上流に向かって歩くと、川幅が左右に大きく広がり、川縁から十メートルほど離れたところにかなり広い中州が出来ていて、その中央は土が高く盛り上がり、その上に背の高い雑木が生い茂っている。中州というより、むしろ川の中にあるちょっとした島といった感じだ。こんなところに、こんなものがあったのかと男は驚いた。
 ここはもう干潟ではないだろう。川の流れも速い。
 少年は靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を臑以上にたくし上げ、脱いだ靴と靴下を手で持ちながら、両腕でバランスをとり、慎重に渡っていく。男も彼と同じように後につづいた。流れはかなりあるが深さはそれほどではない。ただ水の冷たさが電流のように身体を走り、気持ちを引き締めた。うううと声を出すほどだ。
 裸足で砂地の上に立つ。河原の砂より粒が細かいように思う。足裏が心地よい。親指を中心にして足先を回転させると、いっそう砂の感触が強まる。
 少年は靴下をポケットにしまい、素足で靴を履く。男も同じようにする。
 少年は、低い雑木の間に身体を入れ、小山の頂上に向かって歩き始める。何度も歩いているようで、すでに道が出来ている。だが、歩くごとに砂が下に向かってこぼれ落ちる。辺りが静寂なのでかすかな音でもよく響く。それが足下から身体を清めるようにしみる。靴中にも砂が入り、それが足の甲を刺激する。木の生えているところに近づくと、岸から見ていた以上に木はずっと大きくて高い。それによく繁っていて周囲が見えないほどだ。また、土の盛り上がりも案外小高く、ちょっとした山を登っているようだ。
「大丈夫?」
 少年は振り返って男を確かめる。男は微笑む。
「もう少しだよ」
「いやあ、ちょっとした高さだね」
「川のまん中って、風が強く走るんだ。砂や土をたくさん運んでくるんだ」
「これじゃあ、まるで砂丘の中の森だね」
 中州の頂上らしいところに着くが、周りがすべて背の高い木に囲まれているので、下を見下ろすことは出来ない。見えるのは空だけである。空には羊雲がゆったりと浮かんでいる。木と木の間に紐が張られていて、三角形に切られた小さな布切れが幾つか取り付けられている。それが旗のようになびいている。青、黄、白、赤だ。風があるのか、布切れがはためき、かすかな音をたてている。澄んだ音だ。いつかテレビでそれに似た旗を見たことがある。チベットの山の寺院ではためいていた。
 頂上のところに石がひとつ置かれている。大水のとき、上流から流されてきたものだろう。かなりの大きな石だ。ここまで持ち上げるのはたいへんだっただろう。
「これ、僕の秘密の場所。僕とおばあちゃんとで作った」
「おばあちゃん?」
「そう、僕と仲良しのおばあちゃん。何度かおじちゃんにも話したことがあるでしょう。あのおばあちゃん」
「ああ、ほおう。ほんとに」
「ねえ、ねえ、石の上の方に耳を傾けてごらんよ。何か聞こえてくるから」
 男は少年に言われたようにする。上の方から旗の揺らめきの音、木々の葉擦れの音、空気のこすれる音が聞こえてくる。
「風の音が聞こえてくるでしょう。だから、風のお社って名付けた。僕がつけたんだ。おばあちゃんもたいへん喜んでくれた。いい名前だと言って」
「風のお社か? いい名前だね」
「おじちゃんもそう思う」
「思うよ」
 男はじっと石の先を眺める。先が尖っている。それが天を指している。その先に精神を集中させると、以前よりもはっきりと風の音が聞こえてくる。布切れのはためきの音、木々の葉擦れの音も。チベットの山の寺院でもこのような風の音が鳴っていたのだろう。
「気に入った?」
「ああ、とっても」
 男は、先ほど思ったことを訂正しようと思う。ここはやっぱり俺のZS干潟だ。
「うれしい。僕の思っていたとおりだ。だったら、もうひとつ僕のお願いをきいてよ」
「お願い?」
「そう。僕、おじちゃんが今日絶対来てくれると思っていた。この間、僕と約束したでしょう。一週間の間に必ず来るって。今日は一週間目だから。おじさんは僕との約束を破るような人ではないと思っていたから。そうしたら、やっぱり土手の上におじちゃんが現れたよ。うれしかったよ。来たらここに連れてきて気に入ったらお願いしようと思っていた」
「お願いて何だね」
「ちょっと僕のお仕事を手伝ってよ。おばあちゃんと約束したんだから」
「約束? どんな?」
「いっしょに手伝ってくれたらわかるよ」
「いつ?」
「今」
 男は一瞬躊躇する。支店長との約束が思い浮かんだ。時間がかかることだろうか? それなら困る。しかし、だめだという言葉が出てこない。
「ああ、いいよ」
 男はそう答えてしまう。車の販売店の社長の接待は、六時からだ。間に合いさえすればいい。いや、少しぐらい遅れたってどうってことはないだろう。誠意さえ示せばいいだけだ。
「どこへ行けばいいんだい?」
「僕についてきてよ。歩きながら話すから」
 少年は、黙って、先ほど来た道を引き返した。足下に力を入れると砂が落ちる。砂と靴裏とのきしみの音が心地よく胸まで上がってくる。いいなあ、ここは。何度でも来たいような気がする。
 葦の葉が腕を擦る。それさえも心地よさを感じる。後ろからまた木々の葉擦れの音が聞こえてくる。
「おばあちゃんをここへ何度も連れてきてやったよ。身体は弱っていたのに足だけは丈夫だったから。手を引いてやったり、後ろから背中を押してあげるだけで、頂上まで行けたんだから。おばあちゃんは、どこへ連れていってもらうよりここがいい、と言っていた。カミさんの声が聞こえてきそうだとも。風の鳴る音が、カミさんの声のようだって。病院へ入る前の日もここへ来た。僕がおんぶして上がってやったんだ。少し疲れたけどね。おばあちゃん、軽かったから僕にでも出来た。カミさまが手伝ってくれたのかもしれない」
 川の浅瀬を越え、河原についた。先ほど絵を描いていた近くに来た。
「あそこを見てよ」
 少年が指さす。何の変哲もない五階建てのビルだ。
「病院なんだ。あそこの四階の端におばあちゃんが入院していた。おばあちゃんはもう生きてはここに来れないと言っていた。生きている間は、看護婦さんに頼んで、白い手ぬぐいをぶら下げておくって。でも、四日前、手ぬぐいが消えた。おばあちゃんが死んだんだ」
 少年はさらにどんどんと歩く。
「何をするんだい、いったい」
「黙って僕についてきて」
 少年は何も説明せず、河原を横切り、堤防の土手をのぼり、再びそれを降りて街の路地へと出た。
「ほんとに、どこへ行くんだい。いったい」
「まあ、いいから。おばあちゃんのご主人、子供がまだ小さいときに死んだんだって。それから、子供二人、一生懸命女育てて、一人前にしたんだって。下の子が結婚をしたときはもう六十歳を越えていたって。やれやれと思った途端、いろんな病気が襲ってきて、どこへも行かれなくなったと言っていた。若いときに無理をしたから身体ががたがたになってしまったって。長男の嫁がいい人で、いろいろお世話をしてくれるらしいが、それが重荷で、自分の思うこともあまり言えずに、遠慮して暮らしているって。だから、せめて最期ぐらいは自分の思うようにしたいって」
 細い路地を二、三百メートルほど歩いたところで少年は止まった。
「この家だ。ここがおばあちゃんのお家」
 家は二階建てで、築三十年は経っていそうな家だが、家の端には、プレハブの部屋がくっついている。きっと後から建て増したのだろう。そこにおばあちゃんが住んでいたに違いない。最初の家は、苦労しておばあちゃんが手に入れたのに違いない。しかし、長男がここに移り住んで来たとき、プレハブに移ったのだろう。
 男は質素なプレハブを見ながら、ふっと昔の人が住んだ草庵を思い出す。考えてみれば自分が汗水垂らして働いてようやく手に入れた住処を子供にゆずって、自分はその片隅のボロ屋に住むのは理不尽なことのように思うのだが、それも人の在り方かもしれない。腹を赤く染めながら、川を上り、産卵して朽ち果てていくサケの一生を思い起こす。
「ここで何をするんだい?」
 少し不安になった。
「まあ、任しておいて。ぼくの言うとおりにして。と言っても、おばあちゃんの言ったとおりにするだけなんだけど」
「おばあちゃんの言ったとおりって」
「僕についてきて」
 少年は黙って門扉を開けて中に入る。そっとプレハブの横を回ると勝手口の扉がある。少年はポケットから鍵を出し、それを難無く開ける。
「おばあちゃんにもらっていたんだ」
 少年は振り返って笑顔を見せる。
「おじちゃんはそこで誰か来ないか見張っていて。ここの人、お嫁さん以外はみんな学校か仕事場に出払っているって。お嫁さんは四時過ぎから一時間ほどはお買い物に出て行くって。だから今は家には誰もいないはず」
「おい、何をするんだ、これじゃまるで空き巣じゃないか」
「シー、声が大きいよ」
 少年は身体を家の中に入れる。扉は開けられたままだ。少年は靴を脱いで中に入った。あがりかまちのところにかわいらしいスニーカーが脱がれている。
「見つかったらたいへんだな」と男は思う。空き巣に入っていると言われても申し開きが出来ない。少なくとも住居不法侵入罪だ。俺はいったい何をしているんだ。いい歳をして子供の言うとおりにのこのこついてきて。もしこれがばれたら会社は首になる。例え自分のいい訳を信じてくれたとしても、会社に大きな借りを作ることになる。みんなのひんしゅくを買い、今までの努力や実績がパーになる。まだ誰にも見つかっていない。今のうちにそっとこの家を離れろ。でないとえらいことになる。
 男はそんなことを考えながら、勝手口を離れ、プレハブの角のところまで来て、門扉の方を見る。
 誰もいない。歩いている人もいない。男の足はそこで止まる。じっと、誰か来ないか見張る。斜光によって家の影が道の向こうまで延びている。
 ぴぴぴ。携帯の着信音がなる。危ない。男は慌てて携帯を切る。と、門扉の向こうに頭と肩だけの女の姿が見え始める。この家に関係ない女かもしれない。いけない。女は門扉のところで止まった。すでに女の手が門扉の留め具のところにかかっている。男は慌てて勝手口のところへと戻る。
「おい、ここの人が帰ってきたぞ」
 門扉が開けられる音が聞こえてきた。
 少年が靴を引っ掛けながら出てくる。布に包まれた箱を男の手に手渡し、自分はしゃがみ込んで靴を履いている。
「早くしろ、早くしろ」
 男は、包みを持ちながら、先ほどのプレハブの角まできて、耳をそばだてる。やはり、この家の人らしい。玄関の扉を開けている音が聞こえる。扉の開く音、再び、閉まる音。そっと、首を出す。誰もいない。入ったときと同じような静寂さが庭を包んでいる。よし、今だ。男は足音を偲ばせ、門扉に近づき、それを開く。少年が後につづいてくる。路上に出る。ほっとする。何かと闘った後のような清々しさを覚える。変なことだ。いったい何と闘ったのか?
 早足で再び河の方に向かって歩き始める。少年も後をついてくる。
「これはなんだい?」
 男は包みを少しさし上げる。
「おばあちゃんのお骨」
「やっぱりな」男はそうではないかと思っていた。
「ばれないように、別のお骨入れと取り替えていたんだ。それで時間がかかった。おばあちゃん、ちゃんとお骨入れを作っていて、それに石が入れてあるって。それを隠してあるところも教えてくれていた。だから、この骨壺を持ってきたってわからない」
「これはどうするんだい?」
「風のお社へ連れていく」
「ああ、あそこか?」
「それから、僕たちだけのお葬式をする」
「お葬式?」
「頼まれていたんだ。頼まれていたとおりにする」
「どんなふうに?」
「来たらわかるよ。おじさんもいっしょに付き合ってくれる?」
「うん、いいよ」
 またも、言ってしまう。自分には、損保の契約をたくさん取ってくれるであろう社長を接待する仕事が残っているぞ。それをすっぽかすとたいへんなことになるぞ、やっておけば社内での地位は安泰だ。支店長への昇格も夢ではない。
 そんなことを考えながらも男は河に向かって歩く。

 前と同じようにズボンの裾をたくし上げ、裸足になって中州に渡り、素足のまんま靴をはき、林に入った。大人の背の二倍近くはある木を見上げると、多くの木は風に吹かれて揺れている。
 少年は穏やかな顔をし、男を見つめる。
「もう少しするときっと森の木が赤くなるよ。今日は絶対大丈夫。めったにないような夕焼けが起こるよ。僕の祈りが通じるから。おじちゃんはそれを写真に撮ったら」
 少年は天の方に手を合わせ、お祈りの姿勢をとる。男もふっと手を合わせてしまう。だが、願い事はしない。ただ、自分がなぜあのときそっとあの家を離れなかったのか、と考える。なんだか深い理由がありそうだ。
 そうだ、支店長に連絡をとらなけりゃ、と突然思う。それだけはしておこう。何かいい言い訳はないだろうか? 携帯をオンにし、ボタンを押して正木を呼び出す。
「正木君か? すまん、えらい渋滞に巻き込まれた。予定の時刻には到底そちらには行けそうにない。支店長にその旨伝えてくれ。申し訳ない。あとはよろしく頼むよ。うまく抜け出せたら何とか行くから。それまで、付き合っておいてくれ」
「困ります。そんなの。支店長はあまり人付き合いの上手な方じゃないし、私も、まだ……」
「大丈夫。君ならうまくやれる」
 正木がさらに何かを言いそうなので慌てて携帯を切った。これでいい。正木に彼を認めさせる絶好のチャンスを与えてやったと思えばいい。まさか、自分が行かなかったために、社長の機嫌が悪くなるなんてことはないだろう。でも、あの社長にさらに私を売り込み、彼をつてにして他の会社への食い込みを計るという計画が少し狂うかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。挽回することなんてたやすいことだ。
 携帯をオフにする。これで会社のことが当面うまく切り抜けた。
 尖った石の方を見る。少年は包みをほどき、中から骨壺を取りだして石の横に置く。どんなおばあさんだったか姿形が浮かばないのだが、おばあさんがそこにいるような気がする。形のない意志だけになった人間が、しかしはっきりとそこにいるという実感が湧く。もし、それを霊魂というのならそこに霊魂がいる。
 たいしたものだ、自分の死後をきっぱりとイメージできるなんて。それに、死んでからさえそれを実行させるなんて。
 風が強く吹いてきた。周りの木がしなって揺れ、空気をはげしく切った。音が鳴り、それがかえって辺りの静寂さを増す。清浄な気分になる。
 明るさが薄れていく。いよいよ夕焼けが始まるのだろう。真上の空は深いエメラルドグリーンになり、薄くたなびいている雲は朱色のまじった黄色になっている。その下にゆったりと浮いている羊雲はすでに赤みを帯び始めている。夕焼けはもうすぐだ。確かに、今日は今までにない濃い夕焼けになりそうだ。
 少年はしゃがみ込み、骨壺の蓋をゆっくり開いた。男はそれを横上から覗き込む。骨片が幾つも入っている。焼けたためだろうか少し褐色になっているものもあるが、ほとんどが灰色か白色である。
 生きている人間とその様態との余りの違いにリアリティーのない奇妙な思いがする。まさに、「死」とはこういうことなのだ。
 少年は、広げたハンカチの中に骨を入れている。それを包み、天を指す石のところに持っていき、その下の方に沿わせ、どこからか持ってきた拳大の石でたたき始める。
「何をしているんだい」
「骨を粉にしているのさ。おばあちゃんに頼まれた」
 少年は力を込めて言う。そんなことまで指示していたのか。さくさくさくと清潔な音をたててハンカチの中で骨の砕ける音がする。その音を少年の横に立っておばあちゃんがじっと聞いているような気がする。自分の死をこんなにも真っ直ぐに見つめられたおばあちゃんの精神の強さに改めて感心する。まるで「超人」ではないか。俺には到底出来ることではないな、と男は思う。しかし、そんな勇気を自分も持ちたい。
「さあ、これでいい」
 少年はそっと大きなハンカチで作った袋の先を覗く。再び、先を結んで、骨粉がこぼれないようにする。それから、ゆっくりと空を仰ぐ。男も彼と同じようにする。
 真上に近いところには筋雲が朱色に長く尾を引いている。西に近いところに鱗雲がある。雲の芯は濃い灰色だがその周りはすでに赤い。そんな雲が何筋もの列になって遠くまで連なっている。遠くになればなるほど赫々と輝いている。
「おばあちゃんは小さいとき、お勉強がよくできたんだって。お医者さんになりたくてそれの学校にやらせてくれと頼んだら、お父さんがえらく反対して、女の子が上の学校に行くなんて結婚の邪魔になるだけだとか何とか言ってやらせてもらえなかったんだって。それで、子供だけはどうしても大学に行かせたくてがんばったって。僕のお父さんも僕が絵を書く学校に行くといったら怒るだろうな。でも、おばあちゃんが言っていた。お父さんが反対しても行きなさいって。僕はそうするつもり」
「君はきっとすごい画家になるよ」
 男は言う。
「もっと、もっと空が赤く染まりますように」
 少年は空に向かって呟く。心持ちか空が赤くなったように思う。
 風が強くなった。辺りからざわめきが起こる。木の揺れる音だが、滝からの水音にも似ている。緑色を失い濃い灰色がかった葉裏が空からの反射光を受けて時々きらりと光る。その色が少し赤みがかる。しかもそれは木の先のほうほど赤い。木の先から燃えだしたようだ。
「そろそろ始めようか」
 少年は包みを砂土の上に置き、ハンカチの結び目を開いて、一握りの骨粉を握る。
「おばあちゃん。おばあちゃん。僕たちを見守っていてね」
 空に向かって手を振る。よくつぶされた粉は周囲の雑木を超えてその向こうまで飛び散る。
「おじちゃんもやってよ」
 男は両手を差し出す。少年は男の掌いっぱいにハンカチから骨粉を入れる。男はそれを受け取る。
 男は空の方を睨みながら両腕を大きく振る。途端に強い風が吹いてきてそれらを吹き上げる。骨粉は赤い夕焼けの空に無数の小さな蝶のように飛び散る。
 少年はまだ少し残っていた骨粉を同じようにして撒いた。
 空はいっそう赤くなる。確かに、最近こんなに濃い夕焼けを見たことがない。
「赤くなった。よかった。おばあちゃんは、きっとお空を赤くするからと言っていた」
 少年は、空になった骨壺を砂の中に埋める。
 男は背負っていたリュックを降ろし、カメラを取りだしてレンズを夕焼けの空に向ける。だが、シャッターは切れない。再び、カメラを下に降ろす。こんな美しさはけっしてフィルムには写らない。
「ありがとう、おじちゃん。さあ、早くここがよく見えるところまで帰って、また絵を描きたいよ」
 男は再びカメラをしまい、リュックを背負った。少年はそれを見届けると、身体を回転させ、降りる道に向かって歩き始めた。男もそれにつづいた。背の後ろでしきりに風の音が鳴る。

 陽は落ちたが、夕焼けからの反射のためか辺りは明るい。少年は、スケッチブックを開き、鉛筆をさかんに動かせて川とその向こうの中州の林をスケッチし始める。
 絵の中の中州の木は、黒っぽくて、みんなざわついている。一本一本がみんなおばあさんが立っているようにも見える。先ほどの木よりも数段迫力があり、不気味だ。少年は何も言わないで、絵に熱中している。
 目をそらし、空を眺める。朱色の雲はほとんど無くなり、その代わり、透明な青色が深みを帯びて急速に広がっていく。
 ああ、今日はもう、これで仕事を終わりたい、と男はしきりに思う。
                        了

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