「驟雨」の視点   津木林 洋



 八月の末、大阪文学学校で文章講座を行った。課題は、「三人称一視点で、人との出会いを描く」というもの。参考図書として、吉行淳之介の「驟雨」を上げておいた。
 その前の講座では、「一人称で、人との出会いを描く」という課題を与えており、その時の参考作品は太宰治の「女生徒」だった。
 吉行は太宰治と違って基本は三人称で書く作家なので、ちょうどいいと思ったのだ。手許にあった「驟雨」を読み返してみると、二箇所、明らかに作者視点で書いているところがあり、課題の三人称一視点とは厳密に言えば異なるが、まあいいだろうと考えた。
 その箇所を引用すると、
「しかし、眼の前の女が彼一人の専有の叶わぬ、多くの男たちを送り迎えしている躯であることを、今更のように自分自身に納得させようという気持も、その言葉の裏には潜んでいたのだ。そのことには、彼は気付くことが出来なかった。」
 それともう一箇所。
「内部で膨れあがりかかった感情が、彼の苦笑によって中断され、結婚というものから遠い距離に在る娼婦の位置がはっきりと眼に映し出されたため、侘しい気持が彼女の躯を満たした……、という解釈がおそらく正しいものであろう。
 しかし、女の涙は、彼に誤解させた。」
 文章講座の最初に、そのことを指摘しておかなければと、該当ページを示すと、ありませんという答えが返ってきた。あわてて、前に坐っている受講者の持っていた文庫本を借りて、見てみると、二ページほどずれており、若干活字が大きくなっている。
 やはり版を変えていたのだ。
 前回の「女生徒」(『走れメロス』に収蔵)も私の持っているものとは版が変わっていて、新しく買ったのだが、今回は、アマゾンで調べても改版版 (1965/10)とあり、私の持っているものと一緒だったので、まさか変わっているとは思わなかった。
 まあ、二ページ程度のずれなら大したことはないと、該当のページを見て、びっくりした。
 作者視点の箇所が彼の視点に変わっているのだ。
 一つめは、「そのことには、彼は気付くことが出来なかった」の代わりに、「そのことには、女と別れたあとで彼は気付いた」という文章になっていた。
 二つめは、該当箇所がそっくり削除されている。
 私の文庫本の奥付は、昭和四十七年十刷で、借りた文庫本は平成十年四十九刷改版、どちらも発行は昭和四十一年になっている。
「驟雨」が芥川賞を受賞したのは昭和二十九年だから、二十年ほどは手を入れずに、その後書き直したと考えられる。
 とここまで書いてきて、女房の書棚に新潮日本文学・吉行淳之介集があったことを思い出した。
 早速取り出して見てみると、面白いことに、一箇所目は元のままだが、二箇所目が新しい版と同様に、削除されている。
 ということは、一度に両方を書き直したわけではないということになる。
 作者視点は、どうにも傲慢な感じがするからやめようと思ったのなら、一度に書き直すはずだが、そう思いながらも作品上効果があると考えて、あえて残すという選択をしたのかもしれない。
 その後一箇所目を、「そのことには、女と別れたあとで彼は気付いた」としたのは、苦肉の策なのかもしれない。
 吉行淳之介でさえ、視点のことを気にしていたということは、それだけ難しいということだろう。初心者が戸惑うのも無理はない。
 ともかく、吉行が書き直してくれたおかげで、課題のテーマに「驟雨」がぴたりとあったということになる。

 以上が、インターネットのミクシィの日記で八月末日に書いた文章だが、「二十年ほどは手を入れずに、その後書き直したと考えられる」という言葉がどうにも気になった。
 調べもせずに憶測でものを言うのはマズイなあという気持ちだった。
 それでここは初版本を手に入れて、徹底的に調べてみようと思い立った。
 まず大阪市立と府立の図書館で「驟雨」の初版本を検索してみた。
 しかし「驟雨」の単行本は見当たらず、一冊だけ大阪府立中央図書館に『創作代表選集14(昭和29年前期)』(日本文芸家協会編)という本があり、その中に作品が収められていた。ただし個人貸出不可なので図書館まで出向かなくてはならない。
 面倒臭いなあと思いながら、今度は日本の古本屋というサイトで検索を掛けてみた。
 すると昭和二十九年発行の初版本が、三十冊ほど出てきた。しかし値段を見てびっくりした。どれも一万円以上するのである。高いものになると、十五万円の値段がついている。
 吉行淳之介のエッセイ集『軽薄のすすめ』に載っている「私の第一創作集」という文章によると、芥川賞受賞がきっかけで出版されることになったが、初版部数五千で再版はされなかったとある。当時新人作家の短編集は三千部ほどが常識らしいから二千部は賞のおかげだが、今、芥川賞受賞作品を出版するとなったら初版一万部を下ることはまずあり得ないだろう。
 つまり、世の中に「驟雨」の昭和二十九年発行の単行本は五千部しかないことになる。現存する数はもっと少ないだろう。エッセイの中にも「この本は、いま私の手もとに一冊しかない。古本屋で探してもらっているが、いまだに見つからない」とある。
 高いはずである。
 やっぱり図書館まで足を運ぶか、と検索画面をスクロールしていくと、何と2,100円の値段のついた初版本が現れた。前後の値段とは一桁違う。古本屋の値段のつけ間違いかと詳細を見ると、どうやら状態が悪いらしい。こちらとしては、落丁がなく文字が読めさえすればいいのだからと注文した。
 届いた本は確かに紙が赤茶けて糸綴じも解けかかっていたが、調べる分には何の問題もない。
 早速、新潮社版『吉行淳之介全集』第一巻(平成九年九月刊)を底本にした新潮文庫の「驟雨」と逐一読み比べていった。
 いきなり、一行目から書き換えてあることに驚きつつ、そういう箇所にポストイットを貼りながら読んでいって、面白いことを発見した。
 初版本には、主人公の相手をする娼婦道子の視点になっている部分が、九箇所もあったのだ。
 例えば、
「女は気まずさを取繕おうとして、言つてみた。」
「その言葉は、道子自身の心を最も驚かせた。それは、彼の幼な顔への不意の変貌に、どの女にも潜んでいる母親めいたところが刺戟されたのだ、と彼女は考えようとした。」
「その言葉は、道子を不意打した。そして、動搖が収つたとき、意外にもそれは安堵のおもいを伴つて彼女の心に落ちてきたのであつた。」
 など。
 文庫本では、道子の視点は削除されるか、彼の視点からの描写に変更されている。
 例えば前の例の最後は、
「道子は不意を打たれた顔になった。」だけになっている。
 さらに興味深いのは、道子の視点を作者の視点に書き換えて、さらに最終的にはそれを削除していることだ。
 ミクシィで取り上げた作者視点の二箇所目、
「内部で膨れあがりかかった感情が、彼の苦笑によって中断され、結婚というものから遠い距離に在る娼婦の位置がはっきりと眼に映し出されたため、侘しい気持が彼女の躯を満たした……、という解釈がおそらく正しいものであろう。
 しかし、女の涙は、彼に誤解させた。」
 これが初版本では道子の視点になっている。
「道子の内部で膨れあがつてゆこうとした感情が、彼の苦笑によつて中断され、結婚というものから杳かなところに在る娼婦の位置がはつきり彼女の眼に映し出されたため、侘しい気持が躯を満たしたのだ。
 女の眼の涙をみて、今度は彼が誤解した。」
 
 その他、細かい表現の書き直しなどを含めると、百箇所以上に手が入れられている。
 吉行の作品は、新潮社から新潮日本文学53として吉行淳之介集、さらに晩年には全集が出ているので、おそらくその度に書き直したものと思われる。
 視点だけに限って言えば、彼の視点+彼女の視点+作者の視点、だったものが、彼の視点+作者の視点、になり、最終的には、彼の視点だけになっている。
 それはおそらく作者の位置が神の位置からどんどん下げられて来たことと無関係ではないだろう。一人の人間から見えないところは見えないままでいい、見えないところは読者が想像すればいい、ということだろう。曖昧な方がかえっていいのだ。
 私は文学学校の初日に講義めいたことをするのだが、その中で、「始めのうちは三人称で書く時も、一視点を守るようにしましょう」と言っている。
「驟雨」の視点の変遷を見ていると、その逆の流れをたどる必要はないかなという気がしてくる。
(註 「驟雨」の原文は、旧漢字、旧仮名遣いになっていますが、フォントがないので適当な言葉に置き換えています)

 

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