初めて読んだのはいつ頃のことだったのだろうか。記憶力にはどうやら恵まれているほうではないらしく、とんと思い出せない。おそらくは二十代に入ってからのことではなかろうかと思ってもみたりするのだが、はっきりしない。
さいわい自室の本箱に、緑の箱付きの実物が残っていた。五十前後の、かつての文学青年少女諸氏ならご記憶にあるのではないだろうか、河出書房から出ていた世界文学全集を。
本の奥付を見てみると、「昭和四十八年五月二十日 五十版発行」となっていた。初版の発行が昭和三十五年四月二十日になっているから、十三年かけて版を重ねること五十回、ということになるのだろうか。最近とでは出版事情は違っているかも知れないが、五十版という数字はなかなかお目にかかれない。今では、からくもごく一部のベストセラー作家の文庫本などで見かける程度のことではなかろうか。
エミリ・ブロンテの『嵐が丘』の話である。奥付の日にちから見て、もしかすると十八、九の頃の読書だったかも知れない。むろん、内容などほとんど霧の彼方である。ただ、前半部分がやたら激しく、後半が妙におとなしくなってしまった印象が残っている。
今回は新潮文庫から出たものを読んだ。訳者は鴻巣友季子。最近流行りの古典の新訳版である。この訳者はトマス・クックの『緋色の記憶』ではじめて知った。いうまでもなく、翻訳の良し悪しが分かろうはずもない。その年のベストミステリーとしてあちこちの雑誌などで取り上げられていたから、たまたま手に取ったものにすぎない。
『緋色の記憶』は、ミステリーの範疇に収まらない、なかなか読み応えのある本でした。読後の好印象もあってか、いや、おそらくは訳者が女性であること、そして、鴻巣という、あまり見慣れない名前だったことで記憶に残ったのだろう。この訳者だったからおよそ三十年ぶりに『嵐が丘』を読んでみる気になったもので、ことさらこの作品に思い入れがあったわけでもない。
久しぶりの『嵐が丘』は、これはこれでなかなか面白かった。ただ、記憶に残っている、前半がやたら激しくて後半がいささか息切れ、という感想は甦らなかったが。
今回の感想はひと言で云って、ゴチック・ロマン。最近ではこのような言い方は死語扱いだろうが、少女漫画のような作品でした。重ねてもの申すなら、たしかに面白くはあるけれど、よくよく考えてみると、分かるようでわからない話、というのがいつらわざる感想。ことにリアリティーということを考えると、いささかどころかかなりの疑問、と云わざるを得ない。なんか、無茶苦茶な話を読まされた気にもなってくる。
無茶苦茶な話と云えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も負けていない。こちらもほぼ三十年ぶりだった。『カラマーゾフの兄弟』もはじめて読んだのは緑の全集の一冊だった。訳者は米川正夫。先に『罪と罰』を読んでいた。
この『罪と罰』がよかった。かの元首相じゃああるまいが、感動した。有名な冒頭の殺人場面ももちろん残っているし、エピローグのシベリアのところも記憶にしっかり留まっている。たしか主人公のラスコーリニコフが、娼婦であるヒロインの足にキスするところがあったはずである。(もしかすると、大地にキス、かも知れないが……)
今もだろうが、ドストエフスキーの代表作なら『カラマーゾフの兄弟』を挙げる人が多かったから、その当時ヒロインのソーニャへの感動さめやらぬうちにこの大作に取り掛かった。もっと感動するに違いないと思って。
が、よく分からなかった。たしかに読了をはたしはしたが、内容はほとんど残らなかった。わずかに、ゾシマ長老が死んで死臭を放つエピソードが記憶に留まったにすぎない。おそらくは、あの有名な「大審問官」のところを読み切れなかったことに主たる原因があるのだろうが。
今回の『カラマーゾフ……』は光文社から出ている、話題の亀山郁夫新訳版を手にした。文庫で、それもそのうちの何冊かはかなり厚手のもので、五冊に分冊された奴である。話題になっているからとりあえずは買っておけと、昨年の夏すぎにアマゾンで全巻一度に注文したものである。そのうち読めばいいし、積ん読のままでもいいかと、軽い気持ちでの購入だった。
たしかにすらすらと読めた。気がついてみると読み終えていたような印象すらある。数年前、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の再読に挑戦してみたことがあったが、肝心の主人公が登場するまでに早々と挫折してしまった経験があったから、今回の読書の快調ぶりは意外でもあった。(ちなみにトルストイのほうは、新潮から出ていた白いカバーの付いた世界文学の一冊で、昔のものの純粋な再読ではあったが)
結構楽しめました。たしかに「大審問官」のところなど、考えようによっては哲学論争めいて解釈が難しくもあるが、読み終えてみるとなかなかのエンターテーメントですよ、この大作は。第一に、父殺しがテーマの推理小説。そして熱っぽい法廷劇。総じて無茶苦茶な一家の愛憎劇。そこにキリスト教を根底にした、宗教のテーマがふんだんに散りばめられている。いささか何でもあり、という気がしなくもなかったが。
まあ、長編大作だからこれでいいのかも知れない。いろいろなテーマがあるし、いろいろな読み方が出来る。なにも、ことさら哲学や宗教的なものばかりこの大作から読み解く必要もないでしょう。ドストエフスキーと云えども小説作品に変わりはないし、小説である以上、昔も今も読んで楽しくなければ意味がないはずでしょうし。
たまたま昔読んだ『カラマーゾフ……』の本の解説に目をとおしてみたところ、以前この作品を楽しめなかった原因がわかりました。解説者は荒正人という人。当時はかなり有名な文芸評論家だったはずです。ちょっと長いかも知れませんが、引用してみます。(著作権は大丈夫かしら!?)
「『カラマーゾフの兄弟』を理解するためには、十九世紀のロシア史も、ドストエフスキーの伝記も、他の作品も、おびただしい研究書も読むに越したことはない。だが、実は、そういう解説は、あくまでも補助手段でしかない。第二義的なものである。まず作品を熟読することが大切である。ある個所は何回もくりかえし読むことが必要である。その時、私たちの体験と思索の一切を活用しなければならぬ。自分の頭で、かんがえて、心でかんじなければならぬ……」
自分で熟読し、よく考えろ、ということを強調しているのでしょうが、なんか生真面目ですよねえ。小説だからどう読もうがその人の勝手なはずですが、これじゃあ哲学書をひもとくような印象がする。どこかの高僧にでも恫喝されてる感じさえしてくる。その昔『カラマーゾフの兄弟』がわからなかったのは、おそらくこの解説のせいだったかも知れない。(今になってうらみごと言っても仕方ないけれど)
それにしても、最近の自身の読書のことを考えてみると、先の二作に代表されるように、けっこう昔に読んだものの再読が多くなって来ている。いずれも光文社の「古典新訳文庫」シリーズのものだが、ツルゲーネフの『初恋』やアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』もそうだし、村上春樹の新訳で、サリンジャーの『キャッチ・イン・ザ・ライ』(以前読んだ野崎孝訳では『ライ麦畑で捕まえて』)やフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(『偉大なギャッツビー』)なども。
これは如何なる事かと、ふと思ったりする。
いやあ、如何なることも何もない。わかり切った話です、ズバリ、年のせい。懐古趣味と言っていいかも知れない。
ここで比較対照に持ち出すのはいささかためらいがあるけれど、これが昔好きだった異性との再会だとすると、文学作品の再読みたいなことにはならない。(当たり前といえば当たり前ですが)
本の再読なら、今ならどう読む、という知的興味はあるだろうが、間違ってもドキドキ感など起こらない。これが異性となると違うんですねえ。新しい出会いでも、五十過ぎのこの年になったってドキドキするのに、ましてや昔好きな女性だったなら尚更、ですよ。
もう、五、六年前になりますが、中学の三年間密かに思い続けていた人に再会したことがありました。三年生の最後あたりに手紙送ったから、密かにというのは当たらないけれど。
ご主人が地方議員になってしまったので、今は店を畳んでしまってますが、その当時幹線道路脇でお好みの店をやってました。それで会うことが出来たんですが、店に着くまでは随分とドキドキしたものでした。
三十前から禿頭を晒し、酒をおぼえたことをいいことに、だらしなくぶくぶく太ったまま五十を越えてしまった男が口にするセリフじゃあないけれど、かつて憧れたその人の今の姿を見て、妙に安心した記憶がある。いわゆる、おばさん、ではなかった。憧れていたそのままに、美しい人でした。これは、うれしかったですねえ。
再読の話が妙なところへ行ってしまったが、これからも昔読んだものを再び手にすることが多くなるに違いない。文芸作品の再読では、残念ながらドキドキすることはないだろうが、それはそれで、又楽しからずや!?
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