フィリピンのセブ島へスキューバダイビングに行った。
関西国際空港からフィリピン航空に搭乗し、約四時間でマニラの空港に着いた。大阪から行くには、マニラで乗り継がなければならない。東京は成田から直行便がセブの空港まで運航している。以前は大阪からも直行便があったが、何年か前に廃止されている。したがって、朝十時頃の便でマニラに入り、そこから乗り継ぎ、セブに着くのは夕刻五時頃になる。
マニラの空港は数年前に新しく建設されている。国際線と国内線が中央から左右に扇形に配置されている。空港に着いて、乗り継ぐために、いったん外に出ると、夏の熱気にすっぽりと体をつつまれた。とにかく暑い。
旧空港の時の話であるが、古びた空港の建物から出ると、柵にフィリピンの人達がむらがっていた。出迎えに来ている人達もいるようだが、旅行者を目当てにした人も多い。
国際線の出口から柵の方へ、大型トランクをゴロゴロところがしながら歩いて行くと、どっとフィリピンの大人や子供が近寄ってくる。私の手からトランクを受け取ろうとする。ポーターとしてのチップが目的である。子供がトランクを運ぼうとすると、大人が近寄って来て追い払う。子供と大人のトランクの奪い合いである。真剣にケンカ腰でやりあっている。
現在はどうなっているのかと思うが、新空港の柵にもたれかかっているフィリピンの子供や大人はまだ多い。
日本で搭乗前に預けたトランクは、マニラでいったんピックアップせずに、今は最終目的地のセブまでスルーになっている。私は機内持ち込みのバッグだけで、国内線にむかった。旧空港の時は国際線と国内線はシャトルバスで移動しなければならない距離にあったので、非常に楽になっている。同じ建物内の移動である。
国内線の入り口には何人かの列が出来ていた。私はその列の後について、バッグからパスポートと航空券を出し、乗り継ぎの時間を確認した。それほど余裕はないが、まず大丈夫である。
その時、後ろから肩を軽くたたかれた。ふりかえると肩章をつけた白い服をきっちりと身につけた小柄なフィリピン人の若い男が、私を見つめている。空港の職員かなと思ったが、白い服にPOLICEという文字が縫いとられていた。
「ジャパニーズ?」
「イエス、トランスファ、セブ」
日本人かと確認したポリスマンに、チケットを見せて、目的地を告げた。
「オーケィ、オーケィ」
ポリスマンは顔の筋肉をゆるめて、親しげに指で入口を指し示す。数回、横にふって、入れというのである。まだ、三、四人列に並んでいたが、私はポリスマンにともなわれて、いいのかなと思いつつ、そのわきをすりぬけた。
ガラス扉を入ると手荷物検査の機械があり、ポリスマンとは明らかに違うグレーの色の服を着た係員がその横にいた。ポリスマンはベルトコンベア部分を指差し、そこにバッグを置くよう指示してくれる。ベルトコンベアが動き、バッグが機械の中を通っていく。
私は検査用のゲートをくぐり、ステップ台の上に立った。係員が両手をあげた私の体を服の上からチェックする。ポリスマンが係員に何事か言う。
「オーケィ、オーケィ」
ポリスマンはうなずきながら、私に向かって白い歯を見せた。係員が二、三回、私の服のポケットなどを確認した。心なしか、通常のボディチェックより、簡単に思える。
係員から解放され、ベルトコンベアの上のバッグを手に取った私を、ポリスマンが待っていた。身ぶりと英語で空港使用税を払う場所を教えてくれる。
「サンキュウ、ありがとう」
ポリスマンに声をかけて、バッグを持って、そのカウンターにむかおうとする。ポリスマンもいっしょについて来た。ポリスマンはこきざみな早足になり、私を追い越すと、くるりとむき直った。右手の平をあげて、腰のあたりでひらひらさせて、私の顔を上目使いで見上げている。
「気持ちだけね」
たどたどしい日本語で喋りかけてくる。
そうか、そういうことだったのか。便宜をはかる見返りとしてチップをくれと言っているのだ。私はフィリピンの三悪人として軍人、弁護士、警官があげられていることを思い出した。これに政治家、官僚も追加されるらしい。警官はたいていがワルだと考えて間違いないとのことで、ポリスマンまでが外国人にチップを要求するのだ。日本では考えられないことだが、ここは外国である。
「オーケィ、気持ちだけね」
チップは通常二十ペソぐらいだが、どうもそれではすみそうにない顔をしている。ここでゴネて、別部屋に引っ張っていかれるのもいやだ。私はサイフから百ペソを取り出し、四角折りにしてから差し出した。ポリスマンは他に見つからぬように、目をきょろきょろと走らせて、素早く握り拳の中に紙幣を隠す。
ポリスマンはうれしそうに、にったりとした笑みを浮かべ、再び私に声をかけた。
「奥さんフィリピンね。パパさんね」
私がフィリピン妻を持っていると言うのだ。パパさん疑惑である。
フィリピンに渡航する日本人の男性には、私のような年齢の人がかなりいる。五十歳代から六十歳代、さらにその少し上ぐらいの世代である。つまり人生の後半にさしかかった男達である。
日本の旅行社の若い女性社員たちは、この男達のことを「フィリピンおやじ」と言っているらしい。いい年をして、フィリピンで女遊びをしたいために渡航をする。フィリピンおやじの為に、日本ではご丁寧に「フィリピン/夜の歩き方」なる怪しげなガイド本までが出ている。
頭髪がやや薄くなり、小柄でメタボリックに腹の出ている私など、まさにフィリピンおやじの典型なのである。スキューバダイビングに行くことなど、旅行社の女子社員は考えていない。「あれだけ何回も行くのは、よほど女遊びが好きなのだ」ぐらいに思われているのだろう。
このフィリピンおやじの中にはパパさんと呼ばれる人達がいる。フィリピンの若い女性と結婚した男達である。ほとんどの人がフィリピン女性との間に子供をつくっている。
日本で妻と死別し、または離婚し、あるいは結婚する機会もなく独身のまま老境にさしかかった男達。こうした人がフィリピンに渡航し、パパさんになる。
フィリピンでは、外国人は土地、建物等の不動産は法律上、取得出来ない。したがってパパさんとなった日本の男は、フィリピン妻の名義で土地を買い、共に住む家を建てる。日本とフィリピンの貨幣価値の違いがパパさんに有利にはたらく。家が建つと、フィリピン妻の父母はもとより兄弟達も、そこにどっと入り込んでくるケースが多い。共同生活が始まる。資金力に余裕があれば、妻の親族の為に、もう一軒の家を建てるはめになる。
自分が死ねば、この家も土地も全て妻のものになるのは勿論のことである。死ななくとも、何らかの事情で離別せざるをえなくなれば、出て行くのはパパさんである。
この年齢の日本の男性は英会話もままならない者が多い。まして、フィリピンのタガログ語やビザヤ語など、まともにわかりもしない。カタコトの英語と現地語で、共同生活が出来ると考える方が不思議である。文化、風習、生活環境も大いに異なっているのに。結婚する率も増えているが、それと同じように離婚率も増えているのは当然の帰結かもしれない。
いったいパパさん達は日本でどんな人生を送ってきたのか、考えさせられてしまう。
人が生きていくなかで、まさにこれから死にむかう者が、若い生命と共生したい。自分も若さとともにあることで若返りたい。日本で不遇であった生を、もう一度再生し、新しい生を得たい。思いはわかるが、しょせん不自然で無理なことである。坂道を下っていく者が上っていく者と共に歩むことはできない。
パパさんとして、フィリピンに根づき成功する幸せな者がいないとは言わない。しかし、それはほとんどひとにぎりのまれなケースであろう。もう一度の人生など、夢のまた夢であるということを知るべきだ。太陽が西から昇る≠アとはありえない。
「フィリピン奥さんいないね」
疑い深そうな目つきで見つめているポリスマンに、私は顔の横にあげた手を左右にふった。ポリスマンに背をむけると、空港使用税を支払うべく、カウンターにむかって歩き始めた。
|