向日葵の庭   泉 りょう



 梨枝子は、膨らんだ袋を両手に提げ、スーパーを出た。瞬間、思わず立ち竦んだ。
 真夏の午後の日に炙られて、戸外いちめんが白く発光していた。買い物客は梨枝子のそばをすり抜けて行く。道路に車の流れは絶えない。しかしそれらのすべてが、のっぺりとして、どこか現実感を欠いていた。立ち竦む梨枝子の肌に、たちまち、ねっとりとした空気が纏わり付く。その感触だけがリアルだった。梨枝子はサンバイザーを着けると、意を決して白い光の中に踏み出した。
 むき出しの首の後ろが、じりじりと焦げる。サンバイザーの額に当たるスポンジが、噴き出す汗で、瞬く間に湿ってくる。
 駐車場の入口で、車を誘導している男のそばを通った。水色のシャツの襟のボタンを、一番上まできっちりと留めた男の背に、黒々とした汗の染みが広がっている。
 交差点を渡った。猛威を振るう太陽に、梨枝子は無抵抗に頭を垂れて歩いた。ふと、日差しが和らいだ気がして目を上げると、街路樹の濃い影の下に差しかかっていた。
 道路沿いに等間隔に植えられた街路樹が、舗道に光と影の模様を描いていた。再び頭を垂れ、ただその模様をなぞりながら歩き続けて、マンションに辿り着いた。
 サンバイザーを外し、汗を拭おうと、ジーパンの尻ポケットにあるはずのハンカチを探した。
 その時、玄関横の非常階段の裏に気配を感じた。そして、その仄暗い場所から、何かがゆらりと立ち上がるのが見えた。
 額から首筋に沿って滴り落ちる汗が、一瞬冷えた。ハンカチを出すことも忘れて、薄暗がりを凝視した。
 ゆらりと立ち上がったものは、人間の、若い男の姿になり、梨枝子のほうを向いて、
「ねえちゃん」
 と掠れた声を出した。
「要?」
 弟の要だった。ゆっくりと日差しの中に姿を現した要を見て、梨枝子は息を呑んだ。眩しそうに目をしょぼつかせた要の顔は、赤く剥けたようになっていた。眉毛はほとんど抜け落ちている。要のアトピー性皮膚炎は酷く悪化していた。しょぼつかせた目の辺りをしきりにこすっている。しばらく会わないうちにどうしてこんなことになってしまったのだ。痛ましい要の姿に、胸がカッと熱くなる。
「なにしてるの? こんなとこで」
 しかし、裏腹に、梨枝子が発した言葉はぶっきらぼうな調子を帯びた。
「ねえちゃんを待ってた。チャイム押したら、おらんかったし」
「ほんで、ここで? もし帰って来なかったら、どうしたん?」
 要はもじもじして、再び目の辺りをこする。痒いのだろうか。そんな汚い手でこすったらますます悪化するだろうに。しかし、高校生にもなって、相変わらずはっきりしない弟だ。
 だからダメなんだ、と梨枝子は思う。だから、だから、あんな男にどつかれる……。
 梨枝子は先に立って、玄関に向う。要は足元のナップサックを拾い上げると、梨枝子について来た。尻ポケットから鍵を引っ張り出した。玄関の鍵穴に差し込むと、自動ドアが、大きく左右に開いた。要が素早く身を滑り込ませる。
 管理員が出てきた。背中を丸めて玄関を掃除する姿をたびたび見かけたことがある。小柄な割に手が異様に長く感じられて、梨枝子はいつもこの男に猿を連想した。男は奥まった小さな目を狡猾に光らせて、
「大里さん、おたくの弟さんでしたか」
 梨枝子と要を見比べるようにして言った。
「わたしが昼、出勤してきたら、非常階段の下で寝ている人がいて、びっくりしましたんや。なにかと物騒なこの頃でっさかいな」
 梨枝子は黙って頭を下げる。ここは、職業上身につけた派手なジェスチャーで、目に媚を湛え、「いやあー、すんません」と言うべきところなのだが、できない。
「ねえちゃんを待ってる、と、それっきり。ねえちゃんって誰? 何号室? と聞いても何も言わへんし」
 うるさく詮索しかける声をなかば無視して、梨枝子は一階に止まっていたエレベーターに飛び乗った。要も慌てて梨枝子の後を追う。4のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと上昇し始める。クーラーがよく効いていた。要がふう、と息を吐いた。
「いつからあそこにおったん?」
 操作ボタンの方を向いたまま、梨枝子は尋ねる。
「今朝、九時頃来て、ねえちゃんの部屋の番号を押したんやけど……」
 応答がなかった、と要は言った。このマンションを訪れた者は、応答した内部の者が開錠しない限り、マンション内には入れない仕組みになっている。
 気付かなかった。勤め先の北新地のバーから早朝に帰宅して、きっとその頃は泥のように眠りこけていたのだ。
「さっき買物に出かけたけど、同じとこにおったん?」
 要は頷いて、管理員に起こされるまで、眠ってしまっていた、と言った。そして買物に行こうと、表しか見ていなかった梨枝子は、非常階段の裏で眠っている要に気付かなかったのだ。
 二度までも、要に気付いてやれなかった。そのことが梨枝子の気持ちを塞いだ。
 エレベーターは四階に着いた。扉の外に出ると、またもや強い日差しが襲ってきた。廊下は、光の中に隈なく晒されていた。人の姿はない。どこかの部屋の前で、幼児用のピンクの三輪車が、ハンドルを少し傾がせたまま、置き去りにされていた。ついさっきまで子どもを乗せていたかのように、ペダルが、ぶらぶらと所在なさげに揺れている。
 エレベーター横の四一四号室。部屋の鍵を開けると、奥から生ぬるい空気が流れて来た。微かに臭う。他人の部屋に初めて入った時に嗅ぐ臭いに似ている。
 部屋に上って、真っ先に掃き出し窓を全開にした。要は靴脱ぎでビーチサンダルを脱いで、上って来た。珍しげに部屋の中を見渡し、突っ立っている。この前、要が来たのはいつだったか。
「ねえちゃん、ケータイ番号変えたやろう? なんで教えてくれへんの?」
 ぼそりと要が言った。
 あんたに教えたら、お母ちゃんに筒抜けやから。お母ちゃんに金の無心されるのはもうまっぴらなんよ。その言葉を梨枝子は呑み込む。
「忙しかったんよ。わざと教えへんかったんと違うよ」
 要に背を向けながら、扇風機のスイッチを入れた。
 ほんとうに忙しかったからか。要に連絡をつける時間ぐらい、いくらでもあったはずだ。お母ちゃんといっしょに、この弟も捨ててしまいたい、梨枝子は心のどこかで、きっとそう望んだのだ。
 華奢な扇風機の銀色の羽根が、重く湿った部屋の空気を攪拌し始める。
 ――あんたしか、頼るとこ、ないんよ。今月は要の授業料も払わんとあかんのに、うちの人、生活費入れてくれへん――
 北新地の喫茶店で、出勤前の梨枝子と向き合いながら、母親は梨枝子に訴えた。メソメソと鼻を啜りながら、聞き取りにくい声音であったのが、「うちの人」と言うときだけ、妙に力を込めて、明瞭に発音した。隣のボックスに陣取った梨枝子と同業の水商売の女たちに、聞こえよがしに言っているのであった。ウエストがゴムのスカートをだらしなく穿いて、顔だけこってりと白粉を塗りたくった、所帯染みた母親と向き合っていると、むかむかした。梨枝子は母親の目の前で財布を広げて見せた。ありったけの紙幣を握らせて、別れた。
 寝室のドアが開いた。ケンちゃんが出てきた。寝室でつけっぱなしのクーラーの冷気が、リビングに流れ込む。
「あ」
 ケンちゃんと要が、ほとんど同時に声にならない声をあげた。そうだった、ケンちゃんが泊まっていたんだった。
「おとうとの要」
 ぶっきらぼうに梨枝子は紹介した。
「あ、どうも」
 トランクスだけを身に着けたケンちゃんは、薄く脂肪の巻いた生白い腹をポリポリ掻きながら、顎をしゃくって、それが挨拶のつもりか、そう言った。要も顎をしゃくって、それで初対面の挨拶がすんだ。
 ケンちゃんがチラチラと要の顔を盗み見ている。要と目が合うと、慌てて目をそらす。要の、赤剥けた因幡の白兎のような顔に、一体それは? と聞いてみたいに違いない。が、そうストレートに聞いては相手を傷つける。ケンちゃんは逡巡しているのだ。湧き上がる好奇心を抑えられないでいるケンちゃんが、阿呆づらに見える。
 要は扇風機の回る方に合わせて首を巡らせて、回転する羽根に向かって、まるで小学生のように、無邪気に「あー」と声を出している。
 好奇な人の視線を跳ね返すために、わざとしているのだ。装うことを覚えた要を、梨枝子は見つめる。学校や街中や電車の中で、多くの人の好奇と憐れみの混じった視線に晒されているだろう要。その姿に、あの男のいる家で、あの男の怒りを買わぬよう、無邪気を装っている要の姿が、ふと透けて見える。
 しかし要の精一杯のポーズを、なんと正直にその顔は裏切っていることか。皮を剥かれ、眉を削がれ、このうえない哀しみの表情が要に貼り付いていた。
 要は生まれた時からアトピーに悩まされてきた。赤ん坊の頃は頭にひどい湿疹が出来た。掻き毟ったところからは膿が出た。痒がって真っ赤な顔で泣き叫ぶ要を抱くと、要の頭からは、乳と膿の混じった臭いがしていた。
 医者には行っているのか。母親はいったい何をしているのだ。どうせあの男の顔色ばかりうかがって、要をかまってやる余裕などないに違いないのだ。
 梨枝子は足元のスーパーの袋を広げると、
「何か飲む? コーラかウーロン茶しかないけど」
 と、要に声をかけた。ケンちゃんは無視した。
「コーラ」
 要がぼそりと言う。
 梨枝子は、流しに放ってあるコップの中からひとつを取ってざっと洗うと、コーラを注いで、要に手渡した。要はごくごくと喉を鳴らして飲んだ。要の痩せた喉仏がぐりぐり上下に動くのを見ていた。小さかった要が、いっぱしのオトコであることが、不思議なような気がした。
 梨枝子は蛇口をいっぱいに開き、もうひとつコップを洗う。水が跳ねてTシャツを濡らした。洗い終えたコップになみなみとコーラを注ぐ。透明のガラスコップに涼しげな気泡が立った。ひと息に飲んだ。口の中に心地よい刺激が広がって、喉に滑り落ちていく。甘い。けれど喉の渇きは充たされない。続けて飲む。いくら飲んでも喉の渇きは癒えない。気泡がつんと鼻に上って来て、げっぷが出た。
 ケンちゃんがそばに寄って来た。梨枝子は斜めにケンちゃんをぎろりと見やった。
「なんか酔っ払いみたいやな」
 ケンちゃんはすごすご退散する。
 ケンちゃんは、梨枝子が雇われママをしている北新地のバーの常連客だった。建設会社のヒラ社員だったケンちゃんは、接待でたびたび梨枝子の店に来ていたのだ。
 あの夜、接待客を店の前でタクシーに乗せ、ケンちゃんとふたり、深々と頭を下げて見送った。頭を上げたとき、ケンちゃんと目が合った。深い疲労を滲ませた目の色に、つい同情した。「これからうちで飲み直す?」思わずそう誘ってしまった。
「ヒラ社員はつらいなあ」
「せやなあ。こっちも、オッサンの自慢話やら愚痴話に、『あほらし』思いながら、いつもにこにこ相槌打ってんねんで」
 まさかそういう会話がきっかけでもあるまいが、独立して起業する、と言い出した。独立準備に奔走しているのだが、親と同居している実家は地理的に不便なところにあって……とは、ケンちゃんの言い分だ。梨枝子のマンションに転がり込んで来て、今は半同棲のような格好になっていた。
 こんなはずじゃあなかった。と梨枝子は思う。ケンちゃんとは同じ三十二歳どうし。始まりは、同い年のちょっとした同情心、シンパシィだった。それが妙なことになってきた。
 ほとんどケンちゃんの方を見ようともしないで、無視し続けた。ケンちゃんはそんな梨枝子に追い立てられるように、慌しく身支度すると、部屋を出て行った。
 クーラーをつけたリビングで梨枝子は横になっていた。テレビはさっきから高校野球を中継していた。
「二対一。逆転ならず」
 アナウンサーが絶叫した。試合終了のサイレンが鳴り響いている。
「この夏も感動をありがとう!」
 アナウンサーの高いテンションの喋りが、部屋に空疎に響いている。梨枝子は、そしておそらくは要も、身を入れて見ていたわけではない。ただ、お互い向かい合ったまま黙りこくっているのが気詰まりだったから、つけたテレビだった。
 ピン・ポン
 突然、ドアチャイムが鳴った。
 体育座りでテレビを見ていた要は、チャイムの音に、びくりと肩を震わした。梨枝子は首を巡らしてドアの方を見る。
 しばらくの間があった。ドアの外で息を潜め中を窺っている気配だ。再び、
 ピン・ポン
 すぐまた、
 ピン・ポン、ピン・ポン
 苛立たしげな連続音がした。
 中にいることはわかっている。すぐに出てきなさい。チャイムはそう言っていた。
 梨枝子はしぶしぶ立ち上った。ドアを開けた。
 マンションの管理員だった。高圧的なチャイムの鳴らせ方に似合わず、急に内側から開けられたドアの前で、おどおどと立ち竦んでいた。
「何か?」
 昂然と胸を反らして梨枝子は言った。
 管理員は、奥まった目をパチパチさせた。そして一呼吸置くと、足元にあるゴミ袋を梨枝子の鼻先に突き出した。
「これ、おたくが出されたものですね」
 今朝方、タクシーで帰宅したとき、マンションのゴミ置場にゴミ袋が出されているのを目にした。今日はゴミの収集日なのだ、と思った。足の踏み場もないくらいに散らかった部屋が思い出された。しばらくゴミを出していなかった。部屋に入るやいなや、着替えもせずに、部屋じゅうあちこちに散らばったゴミを、袋に放り込んでいった。
 寝室ではケンちゃんがすでに眠りこけていた。梨枝子のベッドを占領しているケンちゃんの寝姿が無性に腹立たしく、床に脱ぎ散らかしたままの服を、ベッドの上に放り投げた。ケンちゃんが身じろぎしたが、かまわず放り投げた。服が積み重なると、ケンちゃんは眠ったまま寝返りを打ち、その拍子に、胸の上にかぶさったシャツを手で払いのけた。カーペットを敷いた床がようやく見えてきた。タバコの空き箱。ガムの包み紙……。それらを袋に放り込んだ。ずっしり重くなった袋を、慌しく持ち出したのだ。
 けれど、どれも同じようなゴミ袋だ。「おたくの」と言われてもわからないし、第一それがどうしたと言うのだ。
 梨枝子が黙っていると、管理員は、ゴミ袋の口を開け、中からダイレクトメールのようなものを取り出した。宛名に「大里梨枝子」の名があるところを指し示した。平べったい爪をしているな、とぼんやりと梨枝子は思い、管理員の顔を見た。勝ち誇った顔をしている。自分の名がある以上、これは多分、梨枝子が今朝出したゴミなのだろう。けれど、それがどうしたというのだ。梨枝子は、まだ状況が飲み込めないでいた。
「今日は普通ゴミの日ではありません。資源ゴミの日です」
 管理員は高らかに宣言した。
「毎回、無頓着な方がおられて、困っているんですわ。収集車は持って行ってくれないし」
 梨枝子が毎回の無頓着の常習者だと言わんばかりの口吻だ。それでその証拠を掴もうと、この男は梨枝子が出したゴミを漁ったのだ!
 ようやく事情を察した梨枝子は、同時に頭に血が上ってくるのを感じた。
 今朝方、袋の底に落ちていった、梨枝子の生活の残骸を思い出す。コンビニ弁当の食べ残し、口紅を拭き取ったティッシュ、チラシにダイレクトメール……。この男はそれを押し拡げ、白日に晒し、ひとつひとつに検証を加えたというのか。眩暈がするような屈辱感に襲われた。まるで、裸の体をこの男の手で蹂躙されたような気がした。
 吐き気がする。大きく吸い込んだ息を少しずつ吐き出しながら、
「訴えますよ」
 低く言った。
 男は「えっ」と聞き返した。
「訴えます。プライバシーの侵害で」
 再び梨枝子は言った。
 ゴミ袋を投げ出すように置いて、管理員が立ち去った後、高揚した気分を持て余していた梨枝子は、
「なんか食べよう! ねえちゃんが料理作ったげるわ」
 要に向って言った。
「あんたもほら、テレビ見てんと。そこら片付けて。今日、泊まるんやろ。そこしか寝る場所ないで」
 威勢よく命令した。
 要はすぐさま立ち上がった。が、それは、命令されて反射的に体が動いてしまった、というふうに見えた。
 立ち上がった要は、そのまま自分の足元をじっと見ている。どこか普通でない気配を感じて、梨枝子は要の視線の先を追った。要の前にはテーブル代わりのホーム炬燵がある。布団は取り払ったものの、コードは本体に付いたままだ。そのオレンジ色のコードが、うねうねとリビングの床をのたうっていた。要は、それを身を硬くして凝視しているのだった。まるでそれが今にも鎌首をもたげて、自分に攻撃しかけてくるもののように見えるのだろうか。
 梨枝子は腰を屈めた。コードを束ねかけると、要が、ふっと脱力した。
「ぼくがやるわ」
 そう言って、梨枝子の手からコードを引き取った。
 梨枝子はキッチンに立った。幸いなことに、冷蔵庫に残りご飯があった。持ち帰ったスーパーの袋から、透明フィルムに包まれた葱を取り出す。フィルムはそばのゴミ入れに捨てる。俎板の上に葱を揃えて置くと、根元を二センチばかり切り取り、これもゴミ入れに放り込む。葱を刻み、冷蔵庫の中にあった焼豚の残りも刻む。十個入卵パックの、プラスチックの蓋を開けて卵を二個取り出し、ボウルに割り入れる。殻はゴミ入れに。残りの卵は、冷蔵庫の扉の卵の指定席に入れた。空になった卵パックも、ゴミ入れに放り込む。これだけでゴミ入れがいっぱいになった。料理を作るとゴミが出る。生活するということは、ゴミが出るということだ。何か文句ある? 喧嘩腰の気分になっている。
 久しぶりに鍋釜を使い、火を使って料理をした。料理は家にいない母親に代わって、小学生の頃からしていた。生きていくために、見よう見まねで覚えたのだ。あの家の日の射さない台所。冷蔵庫の中を漁っている自分……。それらを思い出しそうで、梨枝子は頭を振る。だから、台所に立つのは嫌なのだ。
 ホーム炬燵の上に、皿にこんもりと盛りあがり、湯気を上げている炒飯と、中華スープが、二人分並んだ。ペットボトルのウーロン茶を、音を立てて置く。
「いただきます」
 大きな声で言って、梨枝子は要といっしょに、箸を持つ手を合わせた。
「また、あの男にどつかれたん?」
 さりげなく聞くことができた。要は、うんとも否とも言わず、黙々と炒飯を口に運んでいる。
 ――要は黙々とスプンを口に運んでいる。スプンを持つ要の細い腕は、肘の外側がかさかさに黒ずんでいて、まるで棒切れのようだ。反対に内側は赤く爛れている。ギンガムチェックのクロスが掛かったテーブルの上には、要の好物のカレーライス。家の近所のファミリーレストランに、小学生の要を呼び出して、好物を食べさせていた。要は食事の合間も、ひっきりなしに肘の内側を掻いた。
「お医者さんに行ってる? 薬は?」
 要は梨枝子の目を見ないで頷く。
 食後に運ばれてきた大きなチョコレートパフェに、要は目を見張る。どこから食べようかと、しばらく思案している。が、最初のスプンがアイスクリームの山を崩すと、無我夢中になった。要の口はチョコレートまみれだ。拭ってやろうと、要に手を伸ばした。反射的に身を縮めた要に、梨枝子の記憶が、憤怒と屈辱にまみれた記憶が、呼び覚まされる。
「あんた、あの男に殴られてるんと違う?」
 要は激しくかぶりを振る。チョコレートのこびりついた歯を見せ、ニッと笑って見せる。が、目は溢れ出る涙で見る間に膨れ上がっていく。今にも零れ落ちそうになった時、
「痒いねん」
 そう要は言って、両手でごしごしと目を拭った――
 「もうあの家に帰るのは嫌や。ねえちゃん、ここにいさせてえな」
 俯いたまま、聞き取りにくい声で要が言っている。
 おんなじだ。と梨枝子は思う。あの男に殴られ、高校生の梨枝子は家を出たのだ。
「オレも高校やめて働くから。しばらくねえちゃんとこにおらして」
「高校だけは出とかなあかん。それにここに住む言うても、なあ」
 リビングのほかには、洋間が一室あるだけだった。梨枝子はケンちゃんのことをチラと思った。

 母親と同居しているあの男は、梨枝子の父親ではない。
 梨枝子の父親は大工だった。
 子どもの頃、父親に連れられて奈良の法隆寺に行ったことがある。
「たいしたもんや」
 感に堪えぬように、父親が唸った。
「見てみ、梨枝子。一本の釘も使うてないんやで。先人の技術はたいしたもんやろ」
 父親のごつごつした指が差す先に、五重塔の優美な姿があった。鰯雲が暢気そうに浮かんでいた。あれは、いつの秋だったのだろう。
 腕のいい大工だったが、親方と喧嘩して、親方の元を飛び出してからは、下請け仕事を求めてあちらこちらを彷徨う、流しの職人に落ちぶれた。めったに家に帰って来なくなり、たまに帰って来ても、酒ばかり飲んでいた。どろんと血走った目をした父親は、あの、梨枝子を法隆寺へ連れて行ってくれた父親ではもはやなかった。
「自分が飲む金くらい、稼いでこい」
 台所の隅でいつもこっそりと悪態を吐いていた母親が、その日、父親に面と向ってそう言った。
「なにィ。もういっぺん言うてみい」
 血相を変えた父親が、いまにも母親に掴みかかろうとしたその時、
「まあまあ」
 まるで母親と打ち合わせでもしていたかのように、家の戸が開いて、土建屋のあの男が割って入った。酔っ払った小柄な父親が、がっしりした体躯の男に難なく組み伏せられるのを見た時、梨枝子の中で父親は死んだ。
 あの男に、はした金でも握らされたのか、父親は姿を消した。代わってあの男が家に居つくようになった。そして、しばらくして要が生まれた。幼い要は、無邪気にあの男を「とーたん」と呼んだが、男は要が自分の子であるかどうかを疑っていた。
 高校生になった梨枝子は、夜の街を遊び歩いていた。とにかく家にいるのが嫌だった。次第に、学校を遅刻、欠席するようになっていた。
 高校から親に呼び出しがかかった。電話口で母親は「はい、はい」と、低い声で繰り返していた。要を遊ばせながら、梨枝子は全身を耳にしていた。受話器を置いた母親は梨枝子を一瞥したが、何も言わなかった。
 夕方、仕事がうまくいったのか、男が上機嫌で帰宅した。男が帰ってくる前に出かけようとしていた梨枝子は、出かけるきっかけを失ったまま、男と顔を合わせないように、部屋の隅で要の相手をしていた。母親は男に、梨枝子の学校から呼び出しがかかったことを告げた。
「しゃあない奴ちゃな。よっしゃ、仕事も一段落したことやし、学校へはワシが行くか」
 男は上機嫌のまま、そう言った。
 嫌悪感が梨枝子の背筋を這い上がってきた。
「あんたは関係ないやろ」
 男の顔も見ずに、低く言い放った。
「何やと」
 男の拳が飛んできた。梨枝子は部屋の反対側まで飛ばされた。けれど梨枝子の頭の中は、かえって、しんとしていた。いつかこういう時が来るという気がしていた。冷ややかに男を睨みつける梨枝子に、男はますます逆上した。要が火がついたように泣き出した。
「やかましい! 泣き止ませろ」
 要の口を塞ぎかねない勢いの男に、母親は要を抱きかかえると外に飛び出した。あんたのせいや。あんたのせいで、わたしはこの男に殴られてるんや。母親の背に向かって、心の中でその言葉を投げつけた。梨枝子は男より母親を憎んだ。
 男の暴力は執拗に続いた。はじめ手で身を庇い、からだを丸くして縮こまっていた梨枝子は、次第に無感覚に襲われていった。自分の体が、もはや自分のものではないようだった。騒ぎを聞きつけた隣家の夫婦が止めに入るまで、男の暴力は続いた。
 梨枝子は家を出て、年上の恋人のところに転がり込んだ。
「おまえ、ホラー映画みたいやなあ」
 腫れ上がった顔を見て恋人は言い、梨枝子に、取りあえずの居場所を提供してくれた。顔の腫れが引いた頃、
「これからどうするんや?」
 と聞いた。
「もう家には帰らへん。わたしも働くから、ここにおってええやろ?」
 クラブで働く恋人が、梨枝子も雇ってもらえるように店に掛けあってくれた。
 クラブで働けることが決まり、梨枝子は男がいない時間を見計らって、家を訪ねた。
 戸を開けると、母親が卓袱台に肘をついて、ぼんやりテレビを見ていた。そばで要がミニカーを握りしめて、一人遊びをしていた。
 振り向いた母親が言葉を発するより先に、
「ねーたん」
 要が回らぬ舌で叫び、梨枝子に駆け寄ってきた。梨枝子が膝を折って迎えると、要はよだれを垂らしながら、いっしんに梨枝子の膝に這い上がってきた。ジーパンのデニムの生地を通して、要の体温と重みが伝わって来た。
 梨枝子は今、ジーパンの腿に、まざまざとあの時の感触が甦るのを感じていた。
 
 またチャイムが鳴った。
 梨枝子にうながされた要が足音を忍ばせて玄関まで行き、ドアの覗き穴から覗いて、二人いる、と梨枝子に向ってピースサインのように指を二本立てて見せた。開けていいよ、と梨枝子が頷くと、要はドアを開けた。
 管理員と、もうひとりはスーツを着た中年の男が立っていた。男は梨枝子の頭のてっぺんからつま先まで、素早く目を走らせた。そして胸ポケットから名刺を取り出し、管理会社の者だと名乗った。
「先ほどは、たいへん失礼なことを」
 丁重に詫びて、デパートの包装紙に包まれた菓子折りとおぼしきものを差し出した。梨枝子がそっぽを向いて受け取らないでいると、そっと玄関の隅に置いた。いかにも自然な動作だった。こういうことには慣れているらしかった。
「実はゴミの収集にまつわるトラブルには、ほとほと困惑しておりまして」
 と、男はまず、世間話ふうの一般論にして、決して梨枝子を犯人扱いしているわけではないことを強調してみせた。男の懐柔策に乗せられていると思った。が元々、ゴミごときの問題で、どこまでもゴテる気持ちはない。謝ってくれさえすれば、気は済む。男は巧みに梨枝子の顔色を読んでいた。梨枝子の怒りを削ぐことに成功したと確信したのか、傍らの管理員を目で促した。
 管理員は色刷りのパンフレットを梨枝子の前に出した。「ゴミ収集のきまり」と書かれてあった。
 二人が去った後、梨枝子はその冊子をパラパラと繰ってみた。
 ゴミの分別――普通ゴミ、資源ゴミ、容器包装プラスチックゴミ、粗大ゴミ。と見出しがある。
「なに? この容器包装プラスチックゴミって」
 要に向って言う。長ったらしいネーミング。センス疑うなあ。そう呟いて、梨枝子は冊子を放り出し、ウーロン茶をごくりと飲んだ。
「ねえちゃん、ペットボトルは資源ゴミ。ペットボトルのキャップとラベルは、ええっと……容器包装プラスチックゴミ!」
 梨枝子が放り出した冊子を手に取った要が、ペットボトルの絵を指して言う。ボトル本体と、キャップとラベルには、違う色で矢印が引かれてあって、その先に、要が言うように、ゴミの分別先が書かれてあった。要は真面目くさった顔で冊子を繰っている。
「めんどくさ」
 粗大ゴミと資源ゴミと普通ゴミの区別はかろうじてわかる。しかしこの上、容器包装プラスチックゴミ! だって!
 ゴミ出しがこんなに複雑になって、たとえば一人暮らしの老人はどうするのだろう。ちゃんとゴミの分別を理解して、日々生み出されるゴミを、こまめに仕分けることのできる者ばかりではないだろうに。市民に負担を押し付けるな。行政の責任転嫁だ。いや過剰包装のメーカーが悪い。梨枝子は心の中で悪態をつく。たかがゴミごときに、これほど振り回されるとは。そう、たかがゴミではないか。生活の残りカスではないか。
 出勤の時間が迫っていた。髪を結いに美容院へ行かなければいけない。梨枝子は重い腰を上げた。
 マンションの玄関で、数人の主婦が立ち話をしていた。梨枝子を見て話をやめた。
「こんにちは」
 嫣然と挨拶すると、主婦たちは黙って輪を解いて、梨枝子が通る道を空けた。
「ほんと、困るわ。ちゃんとゴミ出しのルールを守ってくれない人が、このマンションにいて」
 ひときわ大きな声が、まっすぐ矢のように梨枝子の背に向けて放たれた。

 梨枝子は明け方に帰宅した。深夜に一人で店にやってきたケンちゃんが、当たり前のようについて来た。部屋のドアをそっと開けると、リビングの隅で丸くなって眠っている要の姿が、薄明かりの中に見えた。リビングの明かりを点けようとするケンちゃんを押し止め、足音を忍ばせて寝室に入った。まずは商売モノの着物を脱ぐ。大事に衣紋掻けに吊るしていると、
「おとうと、いつまでここにおるんや?」
 と、ネクタイを緩めながらケンちゃんが不服そうに言う。ケンちゃんは今日の梨枝子の冷たい態度は、要が来ているせいだと信じている。
「さあ」
 と曖昧な返事をしながら、あんたこそ、なんで今日もここにおるん? 家に帰ったら? あんたは帰る家がちゃあんとあるやないの。と、心の中で梨枝子は言う。ここはわたしの部屋だ。要はわたしの弟だ。
 シャワーを浴びていると、ケンちゃんが入ってきた。うしろから梨枝子の乳房を掴む。硬くなったペニスが尻にあたる。ケンちゃんの手を邪険に払い、身を捩って拒絶する。
 先に浴室を出た。体にバスタオルを巻きつけたまま、冷蔵庫を開け、ウーロン茶をコップに注いで飲んだ。要がゴソゴソと動いている。起きているのだな、と察したが、声はかけないで寝室に入った。
 髪を乾かしているとケンちゃんが戻ってきた。体から雫を垂らしている。そのまま梨枝子に覆いかぶさって来た。
「今日は嫌」
「おとうと、寝てるから、大丈夫や、て」
 要は起きている。ドアの向こうから回らぬ舌で「ねーたん、ねーたん」と呼んでいる。
 ――梨枝子はボストンバッグに、服や下着など、手当たりしだいに詰め込んでいた。要は、梨枝子が洗面所に立てば洗面所へ、箪笥を開ければ箪笥のそばへ、と梨枝子の後を追ってくる。高校の制服がきちんとアイロンを当てられ、ハンガーに吊るされていた。それをちらりと見やったが、それはもう梨枝子に必要のないものだった。梨枝子はボストンバッグのファスナーを締めると、立ち上がった。
「どこへ行くん?」
 母親が不機嫌に言った。
「どこでもええやろ」
 そう言い放って戸口に向った。要が纏わりついてくる。
「要、また来るから、ね」
 頭を撫でて、ついて来ようとする要の鼻先で、戸を閉めた。戸の向こうでひと声、鋭く「ねーたん」と叫ぶ声が聞こえた。「要!」と母親の声がする。今、母親が要を抱き上げた。母親に抱き止められたまま、ミニカーを握りしめた手を梨枝子に向って必死で伸ばして、「ねーたん、ねーたん」と要が呼んでいる――
 
 ルルル、ラララ、ラン
 間延びした単調なメロディーが繰り返されるのを、梨枝子は夢うつつに聞いていた。どこかで聞いたこのメロディは? ゴミ収集車が奏でる音楽だ。そう気が付いて、目を開けた。枕元の時計を見た。午後二時を指している。今なら間に合う、そう思いながら、ケンちゃんが出かけた後の乱れたシーツを眺める。部屋が臭った。
 手を伸ばして枕元にあるコンビニのポリ袋の中を見ると、コーヒーの空き缶の中に、ケンちゃんの吸った煙草の吸殻が押し込んであった。それに混じって、昨夜のコンドームが無造作に放り込んであった。精液が零れ出ていた。再びタオルケットを頭からすっぽりと被る。
「ねえちゃん」
 ドアの外から要が遠慮がちに声をかけた。
「ゴミ出さんと」
 タオルケットを引き剥がし、やおら梨枝子は半身を起こした。昨日片付けた床は、再び脱ぎ散らかした服で埋もれていた。その中を掻き回して、掴んだ短パンを穿く。そして立ち上がり、クローゼットに向おうとした時、足首に何か絡まった。つんのめって、思わず壁に手をついた。絡まっていたのはケンちゃんのネクタイだった。壁に手をついたまま、足で邪険にそれを振り払った。
「今日は、普通ゴミの日」
 ドアを開けると、要が昨日のゴミ袋を手に突っ立っていた。梨枝子はベッドの枕元のコンビニの袋の口をきつく縛ると、要の持つゴミ袋にすばやく放り込んだ。ほかに捨てるものはないかと寝室を見渡した。さっき足首に絡まったネクタイが目に止まった。よく見ると、以前、梨枝子がプレゼントしたブランドものだ。そのピンクのドット柄が急に嫌らしく見えてきた。ええい、捨ててしまおう。梨枝子は、ネクタイを丸めるとゴミ袋の中に放り込んだ。
「それは普通ゴミかなあ?」
 要が首を傾げる。かまわず寝室を出て、リビング、キッチン、と移動した。昨日料理したせいで、キッチンのゴミ入れは溢れている。
「生ゴミと容器包装プラスチックゴミを分けんと」
 要が言うのを無視して、全部一緒にスーパーの小袋に入れて、固く口を結んだ。昨日の袋には入りきらず、もうひとつ使った。
 要と一袋ずつ持って部屋を出る。エレベーターまで誰にも会わずにすんだ。エレベーターの中も無人で、ゴミ置場まで、そおっと運んだ。まるで、切断した死体をこっそりと運び出してでもいる気がした。
 ゴミ出しを終え、エレベーターを待っていると、上で子どもの騒ぐ声がした。なかなかエレベーターが降りて来ないのは、きっとあいつらのせいだ。「エレベーターで遊んでいる子どもがいます」と管理員室に投書してやろうか。びくびくと小心にゴミ出しする自分への苛立ちから、ふと、そんな悪意が立ち上ってくる。あの管理員は、どの部屋に住む子どもかと、今度も犯人探しにやっきになることだろう。誰かに仕返したい。
「もうっ! 階段で行こう」
 降りて来ないエレベーターに業を煮やして、要を促すと、梨枝子は非常階段に続くドアを内側から開けた。上り始めると、刺々した気持ちに呼応するように、サンダルがカンカンと甲高い音を響かせた。二階へとさしかかったとき、ゴミ置場に人の姿があるのが目に止まった。奇異な感じがしたのは、このマンションでは見かけない老人であったからだ。後ろ向きで顔は見えない。灰色の汚れた髪が、痩せて骨ばかり目立つ肩に垂れている。元は白であっただろうが、煮染めたような色に染まったTシャツを着て、タイツのようなズボンを穿いている。身長は一六〇センチ以上はありそうだ。老人にしては結構背が高い。おじいさんなのか、おばあさんなのか。
 梨枝子は足を止めた。同じように要も立ち止まる。老人はゴミの山の前に身を屈めている。さっき梨枝子が出したゴミ袋の口を開けた。中を見られている。梨枝子の体の内が、かあっと熱くなる。出て行って怒鳴りつけてやろうか、という気持ちをかろうじて押しとどめる。老人が何をしようとしているのか、見届けたい。
 老人は他のゴミ袋もいくつか開けて見ていたが、未練がありそうにそれらの口をまた結びなおすと、梨枝子の出したゴミ袋のひとつを持って立ち上がった。振り返った。梨枝子と要は、とっさに非常階段の手すりの陰に身を隠す。垣間見た老人の顔は、痩せているせいか、いかつい感じがした。けれどどこかで会ったことがある気がした。どこで? そしてTシャツの胸に微かに乳房らしき膨らみがあった。おばあさんだ!
 老女は、梨枝子のゴミ袋を持つと、スタスタと歩き出した。
 梨枝子は非常階段を駆け下りた。要もついて来る。外に出る側のドアを開け、表に飛び出すと、老女の後を追った。
 老女はマンションの裏手にある、古い住宅が密集した地域に入って行く。朽ちかけた低い塀に沿って角を曲がると、路地に入った。複雑に入り組んだ路地を、ためらうことなく右に左に曲がって行く。
 駅とは反対側にあるこの地域に、梨枝子は足を踏み入れたことがなかった。老女は意外な足の速さで、大きなゴミ袋をものともせずに進んで行く。見失うまいと、二人とも小走りになる。
 迷路のような路地をくねくねと廻り、もう東も西もわからなくなった頃、老女は一軒の家の前で立ち止まった。軒先に所狭しと、大小さまざまな鉢植えの植物を並べた、下町でよく見かける、ごく普通の家だ。が、ぴたりと閉じられたガラス窓は煤け、サッシに砂埃が溜まっている。長く手入れをされず、開けられることもなかったような佇まいだ。
 老女は玄関の引き戸を開けた。
 光に晒された白い外壁に、黒々とした洞が穿たれた。その中に老女の姿が消えていく。一瞬のためらいがあったが、梨枝子も老女に続こうとした。そして、息を呑んだ。
 玄関口にまでゴミ袋が溢れていた。梨枝子の上げた足が地に下りた瞬間、そのひとつを踏んだ。足の下でぐちゃっと何か崩れ、どろどろしたものが流れ出した。ひどい腐臭がする。
 老女が振り向いた。今度は目が合った。やはりどこかで見た顔だ。が、思い出せない。
「まだ、思い出せないかい?」
 そんな声を聞いた気がした。老女が、にやりとしたように思った。
 梨枝子たちが後をつけて来ていたことなど、とうから知っているというふうだった。老女は再び背を向けると、梨枝子のゴミ袋を持ったまま、奥へと進んで行く。導かれるように梨枝子は後に続く。いつしか要としっかり手を繋いでいる。
 饐えた臭いが襲う。外を歩いて来た目は、室内の暗さに目潰しをくらったように、何も見えない。
 ルルル、ラララ、ラン
 ゴミ収集車の音楽が聞こえる。早くしないと行ってしまう。わたしのゴミを取り戻さなくては。梨枝子は老女を追うが、夥しいゴミの山に行く手を阻まれ、なかなか思うように前に進めない。要がつんのめった。思わず繋いだ手に力を込める。そのとき、要の手の感触が違っていることに気が付いた。柔らかくすべすべとしていて、まあるい感触。幼児の要と手を繋いでいるのだ。その梨枝子の手も、要と変わらぬくらい小さい。梨枝子も少女になっていた。
「ねーたん、これぜんぶ、ふつうゴミ……?」
 要が、唾で口の中がぐちゃぐちゃになったような、幼児の声で言う。
 廊下の右手は台所のようだった。暗がりに少し慣れてきた目がそう認識したとたんに、台所がくっきりと目の前に現れた。流しのステンレスには薄緑色のプラスチックの洗い桶。そこに放り込まれてあるのは、ご飯粒がこびりついた茶碗。太い筆で無造作に引かれた紺と赤のライン……。あれは昔、家で使っていた茶碗だ。流しの反対側にあるのは旧式の冷蔵庫。扉の中にあるのは、干からびたにんじんの切れ端と、切り口が茶色く変色したキャベツの残り……。ここはあの家だ。梨枝子は激しく頭を振る。床に目を落とす。床いっぱいにゴミ袋が溢れている。
「みんなゴミだと思っているだろうが」
 老女がそう言ったように思える。
「ぜんぶ大事なもの。かけがえのない、わたしの……」
 なぜこんなところに来てしまったのか、なぜ自分は帰ろうとしないのか、訳のわからない腹立ちで、梨枝子が老女に反論する。
「ゴミでしょ。ゴミでなかったら、何?」
 かん高い子どもの声だ。
「やめて! 叩かんといて!」
 怯えた要が絶叫する。
 梨枝子は要の手を強く握りしめてやる。握りしめた手から手へ、要の恐怖がじわじわと梨枝子に浸透する。梨枝子を打った男の拳が甦る。梨枝子の頬は、あの時と同じ熱を持つ。
「かわいそうに。痛かったろう」
 老女の声が言う。
「かわいそうだなんて、何を今更。あんたは子どもを捨てた。ゴミみたいに。あんたは自分のためだけに、あんな男と……」
 ああ、老女は母親だったのだ、と梨枝子は思う。老女の母親に向って、子どもの声で梨枝子は叫んでいる。
「捨ててなんか、捨ててなんか、いるもんか」
 老女の母親が呟いている。
 要の手がぶるっと震える。
「要。ごめんよ、要。また痒いのかい? 薬を塗ってやろうね。ああ、たいへんだ。あの人が帰って来た。早いこと夕飯の仕度をしないとまた殴られる……」
 握り合った二人の手が、汗でべとべとしている。
 ルルル、ラララ、ラン
 またあのメロディが聞こえる。
 廊下に押し出されたゴミ袋の山を、要を抱きかかえて越える。
 左は和室。梨枝子にはわかっている。そして、襖を開けることを梨枝子は怖れている。襖を開けると、ゴミよりおぞましい、母親の情痴の姿があるはずだった。
 ――押し殺した男の声と母親のあえぎ声。梨枝子は布団の中で目を開く。天井の染みがおばけの顔になる。かぁと口を開け、梨枝子に怖ろしい呪いの言葉を吐く。梨枝子は布団の縁を握り締め、しばらく我慢している。けれど耐え切れなくなって、布団を抜け出し、そっと襖を開ける。母親の上に覆いかぶさる男がいる。母親は苦しげな声をあげている。「お母ちゃんが死んでしまう」。震えながら梨枝子は思うが、足が竦んで助けに行くことができない。いや、どこかでそうではないと直感している。苦しそうな母親のあえぎ声に、甘いなにかを、本能的に察知している。梨枝子は立ち尽くす――
「待っていたよ、あんたが帰るのをずっと待っていた。あんたが脱ぎ散らかしたままの高校の制服をハンガーに掛けて、吊るして、ブラシをかけて……」
 母親の声に梨枝子は耳を塞ぐ。梨枝子ににじり寄ってきた、酒臭い母親の息の臭いを嗅ぐ。
 この家は長い腸だ。夥しいものを飲み込んだまま、排泄を忘れた腸だ。パンパンに膨れ上がり、破裂しかけている。どろどろに腐敗した、異臭を放つ腸だ。
 一刻も早く抜け出したい。引き返すことはもはや不可能だ。
 ええい、ままよ。
 目をつぶって、梨枝子は襖に手をかけた。勢いよく引いた。
 まぶたの裏に光を感じた。恐る恐る目を開けた。
 光が溢れていた。今までに見たことのない光だった。たとえば夏の早朝、部屋のカーテンを引き放った時、初めて部屋に訪れる、その日生まれたての、まっさらな光……。要が驚いた目で辺りを見渡している。
 そこは小さな中庭のような場所だった。夥しい何かが、光に向って伸びている。何本も、何本も……。
 いちめんの向日葵だった。
 狭い場所に、ひしめき合うように置かれた鉢植えの全てに、向日葵が咲き誇っていた。光はその花弁を隈なく金色に輝かせている。
 向日葵の中に老女の背中があった。節くれ立ち、しみの浮き出た老女の手が、おずおずと差し出された。震える指が一本の向日葵に触れると、いとおしげにそれを愛撫し始めた。利枝子と要は声もなく立ち尽くす。老女の指先を見つめていた。
 中庭に一陣の風が来た。みっしりとした金色の花弁が、いっせいに揺れる。老女の背中で、老女の銀白色の髪が風を受け逆立つ。風は、まるで絡まった長い糸をほどくように、老女の髪を空に解き放っていく。
 梨枝子のたっぷりと量のある金茶色の長い髪も、風を孕む。同じ風の中で、同じように髪を逆立てながら、梨枝子は老女の背中を見つめ続けた。風の長い咆哮を聞いていた。
 風は中庭を吹き渡り、去った。
 つと老女が振り向いた。
 見知らぬ顔だった。
 赤銅色の皮膚に覆われた、のっぺりとした顔は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも見えた。
 
 ルルル、ラララ、ラン
 ゴミ収集車が近付いて来ていた。

 

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