またニキビが増えたような気がする。竜治は、鏡を見ながらため息をついた。中学校のトイレの壁は所々剥げていて、水道の蛇口にはレモンの形をした黄色い石けんが、ネットに入れてつり下げられている。もうすぐ昼休みが終わり午後の授業が始まるせいか、トイレには他の生徒の姿はない。竜治は、鏡にぐっと顔を近づけて、頬の一番大きなニキビを両手の人差し指で挟んでつぶした。黄色い膿がそこからぶちゅっと飛び出し、鏡にはりついた。ちっと軽く舌打ちし、レモン色の石けんを手にとって泡立て、両手でごしごしと顔にこすりつける。換気扇にこびりついた油汚れのように、いくらこすっても脂っぽさはなかなかとれない。
チャイムがなったので、竜治は急いで顔に水をかけて、石けんを洗い流した。
その時突然後ろから尻を蹴り上げられ、つんのめって水道の蛇口にしたたか頭をぶつけた。
「なにすんねん、こら!」
後ろを振り向くと、三年生の垣本が、竜治を見てニヤニヤ笑いながら立っていた。シャツのボタンを全開にして、ズボンは腰までずりさげている。坊主頭で縦横共にでかい垣本は、今春まで小学生だった竜治と並ぶと、まるで大人と子供のようだ。
しまったと思ったときは、もう遅かった。
「誰に向かって言うてんねん」
垣本はニヤニヤ笑いながら手を伸ばして、竜治の口元をひねりあげた。
「へ、へんぱい、ふふぃません」
先輩すいませんと言うつもりが、口元をひねられているので、きちんとした言葉にならない。よりにもよって何で垣本に会うんだ。竜治は自分の運の悪さを呪った。垣本の二の腕は、竜治の太ももぐらいの太さがある。この前、パンチングゲームで百三十キロを出したという噂だ。
授業が始まり校舎は静まりかえっている。開け放されたトイレの窓から、蝉の鳴き声が聞こえてくる。風もなく、淀んだ蒸し暑い空気がトイレの中に充満している。
すすぎ残した石けんが、汗と一緒に額から流れおちて、竜治の目の中に入った。竜治は口元をひねられたまま、パチパチと両目で瞬きした。石けんが目にしみて、片方がじわりと涙目になった。垣本は、ようやく竜治から手をはなした。蛇口にぶつけた頭がじんじんとしびれていて、口元はひりひりしている。
「これから午後の一服や、お前もやるか」
垣本は、学生服のポケットから煙草を取り出した。逆らったら何をされるかわからない。でも煙草を吸うのはごめんだ。
「もう授業が始まっているんで……」
竜治はこわごわと、自分の上履きの先を見ながら小声で言った。
「やっぱりお前はへたれやのう」
垣本は床にペッと唾を吐き、トイレの個室に入りバンと音を立ててドアを閉めた。
助かった。竜治はほっとため息をつき、教室に戻ろうとした。
「クラブは絶対来いよ。休んだらしばくからな」
個室の中から、大声で叫ぶ垣本の声が聞こえた。竜治はびくっとして一瞬立ち止まった。そっと振り返ると、煙草の白い煙がたちのぼり天井に漂っていた。
扉を開けると、むっと饐えたような臭いが鼻をつく。コンクリートの壁に板張りの床、殺風景な縦長の部屋だ。天井近くには所々錆びた細長い鉄の棒が二本交差しており、それに白い帯がかけられて、ハエ取り紙のようにだらりとぶらさがっている。片側の壁際にある木の棚には、雑誌やダンベルやスナック菓子の袋が、乱雑に置かれていた。部屋のあちこちに、汗だくの道着が脱ぎ散らかされている。以前は扉に掛けられていたと思われる柔道部と書かれた木のプレートが、二つに折れて部屋の隅に転がっている。
練習を終えた部員がこの部室の中で、今日もそれぞれの時間を過ごしていた。床に寝そべって雑誌を読んでいる者、学校で禁止されている携帯をいじっている者。一年生の部員達は、上から吊られた帯をターザンロープのようにして、ぶら下がって遊んでいる。
遅れて部室に戻ってきた竜治が扉を開けたとたん目に入ったのは、アーアアーと雄叫びをあげ、帯につかまって自分の方に飛んできた光男だった。悲鳴を上げる間もなく、勢いのついた光男が竜治にぶつかり、そのまま二人は床に倒れ込んだ。
「こら、おまえー」
竜治は起きあがり、そのまま光男を押さえ込んで寝技をかけた。
「きゃー助けてえ、犯されるー」
お調子者の光男が奇妙な声色で叫び、大仰に足をバタバタさせると、竜治も他の部員達も思わず吹き出してしまう。
「あかん、許さへんわ」
竜治は笑いながら、五分ぐらいの力で光男を抱え込む。二人とも汗まみれの上衣は脱いでおり、道着のズボンだけを身につけている。
「やかましいわい、お前ら男同士で何ホモってるねん」
突然、頭の上から野太い声が降ってきた。部室の奥に敷かれたボロボロのマットに寝そべって、グラビアアイドルの写真がふんだんに載った雑誌を眺めていたはずの垣本が、何時の間にか側に立ち竜治達を見下ろしていた。
「ほら、さっさと着替えて帰る用意せい。今日は、おもろいとこ連れて行ったろ」
垣本は口の端をゆがめてニヤッと笑い、寝転がっている竜治と光男の身体をつま先で蹴りとばした。
制服に着替えた垣本が、少し背中を丸めてがに股で歩いている。竜治と光男と、もう一人一年生の登が少し後ろをついて歩く。登は十三歳にして体重が百キロ近くある巨体だが、ゾウの身体にノミの心臓と揶揄されるほど気が弱い。垣本の鞄を持たされて、ふうふうと息を切らしている。
この時期は日が長い。六時を過ぎてもまだ夜の気配はないが、真昼の乱暴な暑さはずいぶん和らいでいる。
「おい、おまえら」
垣本が歩きながら後ろを振り返った。
「この前俺の出した宿題、答えわかったか」
垣本と目を合わせないように、竜治達三人はいっせいに俯いた。垣本は三人の前に立ち、真ん中にいた竜治の頭をパンとはたいた。
「竜治、ほら答えてみ」
「えっと、あの、広辞苑ひいたけど、よくわからなくて……」
竜治は、頭を掻いた。垣本は珍しいものを見たように目をまるくして、それからニヤリと笑った。
「広辞苑やと? お前何を調べてん?」
「この前、垣本先輩に意味を聞かれた言葉を、調べました」
竜治は気をつけの姿勢で答えた。光男と登も、身動きせずに固まって竜治の両脇に突っ立っている。垣本は、もう一度竜治の頭を平手でベシッと叩いた。
「だから、その言葉を言えっていってるんじゃ」
竜治は下を向いたまま、口の中でぼそぼそと呟いた。
「全然聞こえへんわ。このへたれが。もっと大きな声ださんかい」
垣本は大声で竜治を怒鳴りつけ、今にも殴ってきそうな勢いだ。竜治の左右では、光男と登が、下を向いたまま肘で竜治をつついている。竜治は意を決して、顔を上げた。
「セックスの意味を調べました」
叫ぶような声が、響き渡った。かなり前を歩いていたセーラー服の二人連れが立ち止まり、驚いたような顔でこちらを振り返って見ている。竜治は顔が熱を帯びるのを感じた。垣本は、はじけたように声を上げて笑った。
「こっちや。ついてこい」
垣本は、竜治達三人を、学校から歩いて十分ぐらいのところにあるコンビニに連れて行った。陳列台に置かれている、煙草の箱よりも少し大きな長方形の箱を、垣本は指さした。
「これがコンドームや。お前らよう見とけ」
竜治達三人は顔を赤くして、無言で立っていた。垣本は、棚に積み重なっている箱を軽く手ではらった。箱はくずれて床に落ちた。
「ほらお前ら、一つずつ拾って元に戻せ」
終わりや、こんなとこクラスの女子に見られたら一巻の終わりや。でも、言うことを聞かないと、垣本に殴られる。
仕方なく、竜治は非常に素早い動きで、床にしゃがんでコンドームの入った箱を拾って棚に置いた。光男と登も同じように拾おうとしたが、巨体の登は慌てたあまりバランスを崩し後ろの棚にぶつかり、その拍子に今度は生理用品がバラバラと床に落ちてきた。三人は唖然として言葉も出ずに、散乱した床を見て突っ立っていた。
店員に怒られ、コンドームと生理用品を元通り綺麗に並べたあと店を出ると、知らぬフリをして先に外に出ていた垣本が、コロッケをかじりながら三人を待ちかまえていた。
「遅いやないか、さあ次行くぞ」
まだ帰られへんのか。竜治たち三人はうんざりしたが、垣本に殴られるのが恐くて逆らえない。ずいぶん日が落ちてきて、上機嫌の垣本と、その後ろを湿った道着の入った重い鞄を引きずりながら歩いている三人の影が、道路に長く伸びていた。
さらに五分ほど歩いて、神社に着いた。境内はかなり広く、木がうっそうと茂っている。夕暮れのこの時間には何か得体の知れぬものが木の陰にひそんでいて、じっとこちらの様子をうかがっているような気がする。うるさいほど鳴いていた蝉も全く声をたてず、もうすぐ訪れる夜の準備をしているようだ。
雑草の伸びた茂みに鞄を置いて、四人はその上に座った。
「お前ら、これからここで捜し物をするんや」
「何を捜すんですか」
光男の質問に、垣本はまた口をゆがめて笑った。
「エロ本や。この神社には時々落ちてるんや」
竜治達は、顔を見合わせた。
「そんなん先輩が買えばいいじゃないですか」
竜治は思わず言ってしまった。垣本は無言で立ち上がり、いきなり竜治の頭を拳で殴った。今日で垣本に殴られるのは何度目やろう。竜治はジンジン痛む頭を押さえながら思った。
「そんな金あるか。つべこべ言わずにさっさと捜せ。見つかるまで帰さんぞ。ほら、スタートや」
腰に手をあてて、垣本は高らかに宣言した。
「ただいま」
家に帰ったときは、泥の川を泳いだ後のように疲れていた。毎日垣本にからまれて、気力も体力もとことん消耗する。早いとこ飯食って横になりたい。竜治は階段を上がり、自分の部屋の扉を開けた。そのとたんに、シャーというかすれたうなり声が聞こえた。部屋の中にはベッドの上や机の上、もちろん床の上にも猫がいて竜治の方を見ていた。黒猫、キジトラ、茶トラ、八われ、三毛猫など様々な毛色の猫が全部で十匹ほどいる。そのうちベッドの上に乗った片目で尻尾が途中で切れた黒猫が、竜治を見てシャーシャー威嚇している。部屋の中には砂を入れた猫のトイレが三つ置いてあり、その一つに入った三毛猫が、ちょうど用を足している最中だった。
何も見なかったかのように、竜治はそのままガラガラと引き戸をしめた。そして、ドタドタと音をたてて階段を駆け下りた。
「おかん」
階下の部屋ではジャージ姿の母親の万里子が、二つ折りにした座布団を枕代わりにして、寝転がってテレビを見ていた。
「おかんて!」
「あ、おかえり。ほら、ちょうどあんたの好きな漫才始まったとこやで」
万里子はテレビに目を向けたまま、振り返りもしない。竜治はリモコンを手に取り、電源のボタンを押した。
「ちょっと、なんで消すのん。いいとこやのに、はよつけてえや」
「なんで猫が全部俺の部屋におるねん!」
万里子はようやく竜治の方を振り向いた。ショートカットの髪が所々はねている。お笑い番組を見て笑っていたせいか、いつもより目尻の小じわが目立つような気がする。
その時万里子の身体の下から、小さな白い固まりがもそもそっと這い出てきた。そして、今にも消え入りそうな小さい声で、にゃあと鳴いた。
「ほら、あんたに挨拶してるで。はじめましてよろしくねって言ってるで」
それは、小さい白い子猫だった。膿が滲み出ている目は、ほとんど開かれていない。あちこち毛が抜け落ちていて、赤い皮膚が剥き出しになっている。ほとんど肉がついてなく、骨と皮でガリガリに痩せていた。
「ゴミ出しに行ったら、口がくくられたビニール袋の中から鳴き声がするねん。袋開けてみたら、猫が三匹入れられててん。二匹はもう死んでた。この子は亡くなった兄弟の間で必死で鳴いててん」
万里子は、子猫の目から出ている膿を、ガーゼでそっと拭った。
「獣医さんに連れていったら、極度の栄養失調と脱水で、猫風邪もひいてるって。風邪治るまで他の子らとは一緒にできへんから、皆をあんたの部屋に隔離しといたで」
子猫は再びにゃあと鳴いた。ここが安全な場所だとわかっているのか、万里子に寄り添うようにして、じっとしている。
竜治は手を伸ばし、子猫の頭をなでた。子猫は喉をゴロゴロと鳴らしている。こいつと比べたら俺の悩みなんてちっぽけなもんやな、と竜治は思う。
「早く着替えて、御飯食べ」
竜治は万里子の言葉に素直に従い、Tシャツとスエットに着替えて食卓についた。
「お父ちゃんは今日も残業らしいから、二人で先に食べよ」
シロと名付けられた子猫は、クッションの上で小さく丸まって目を閉じている。竜治はテーブルに置かれたカレーを、スプーンで軽くかき混ぜた。
「なあ、俺のカレー、ジャガイモだけで肉全然入ってないねんけど」
「別にあんたのだけちゃうて。今日は野菜カレーや。なすびも入ってるし、形崩れてわかりにくいけどトマトも入ってるねん」
食卓の向かい側に座った万里子は、ぼりぼりと音をたてて、らっきょうをかじっている。
「肉食いたい、肉。おかんはもうちょっと痩せた方がいいやろうけど、俺育ち盛りやのに、タンパク質が不足するやん」
文句を言いながらも、竜治はかき込むように、カレーを口に運ぶ。
「人のことはほっといて。豆腐サラダもあるやろ。それと牛乳飲んだら、タンパク質は充分やって。今月猫たちの病院代が結構かかってピンチやから、ぜいたく言わんと、しっかり家計に協力しいよ」
まったく、俺はベジタリアンか。竜治は心の中で毒づいて「おかわり」と言いカレー皿を差し出した。万里子は、御飯を皿に盛りながら言う。
「パート代は雀の涙やし、うちはエンジェル係数が高いから、しめるとこはしめんとやっていかれへんわ」
「それを言うならエンゲル係数やろ」
万里子は竜治の顔の前に人差し指をたてて、軽く左右に振った。
「猫たちの治療費、薬や高栄養のフード代、去勢や避妊の手術代、それらが家計に占める割合をエンジェル係数言うねん。よう覚えときや」
「そんなん初めて聞いたわ」
「当たり前やん。私が今作った言葉やねんから」
水を飲んでいた竜治は、むせてゴホゴホと咳をした。
「ほっておいたら死んでしまう子たちを救うねんで。まさに天使のようやろ。だからエンジェル」
もう相手にせんとこ。竜治はひたすら無言でカレーを食べ続けた。二階の部屋で猫たちが走り回っているのか、天井がドンドンと響いていた。
ベッドを猫軍団に占領されているので、竜治はタオルケットを床に敷いて、その上に寝転がった。黄色い満月の光が、網戸を通して部屋に入ってくる。歯をむき出して威嚇していた大きな黒猫は、月の光を浴びて窓際の棚の上でうずくまっていた。あいつが人間不信になるのも無理はないなと竜治は思う。
先月たまたま帰りが一緒になった竜治と万里子が公園を通りかかったときに、猫の悲鳴が聞こえた。二人が走っていってみると、学生服を来た男三人が笑いながら、歩くのもおぼつかない黒猫を的にして、次々に石をぶつけていた。「あんた達何してんの。竜治、警察や、警察に電話して」と万里子が叫んで駆け寄ると、男達はワッと走って逃げた。万里子は地面に横たわってゼイゼイ息をしている黒猫を抱き上げた。獣医に連れて行くと、ちぎれた尻尾はおそらく鋭利な刃物で切られて、身体の火傷の痕は煙草を押しつけられたのだろうと言うことだった。
クロと名付けられたこの子は猫同士では仲良く遊んでいるのだが、体の傷が癒えた今でも、竜治や父が近づくと威嚇して素早く逃げてしまう。女性だと安心するのか、万里子だけが威嚇されずに近づけるのだが、まだ触ることはできない。
もっと人に慣れたら、里親を捜すこともできるのだが、この状態では貰ってくれる人を見つけるのは難しい。たとえ人に慣れていても、成猫はなかなか貰い手が見つからない。その為、竜治の家では新しい家族を待っている猫たちが、常時十匹ほど待機している。
カチッと音がして扇風機のタイマーが切れたので、手を伸ばしてスイッチを押す。ブーンと言う音と共に、再び三枚羽が回り始める。ベッドの上で寝ていた三毛猫が身を起こし、音もなくベッドから降りて、竜治のお腹の上にそっと乗り寝そべった。
「あちぃよ、お前」
撫でてやると、ミケはゴロゴロと喉を鳴らした。この子は元飼い主によって保健所に連れて行かれる寸前に、万里子が保護した子だった。引っ越すことになったから、奥さんが妊娠したから、猫アレルギーになったから、猫が病気になったけど治療費がないから等、様々な理由で保健所に連れて行かれ殺処分される寸前だった猫を、万里子が引き取って面倒を見ている。
ドアが細く開けられ、隙間から廊下の明かりが差し込んだ。
「何?」
竜治が目をこすって起きあがろうとすると、ミケは竜治のお腹の上からぴょんとベッドに飛び乗った。万里子が部屋に入ってきた。
「明日、茶トラ去勢手術やから今から絶食せなあかんねん。御飯残ってたら下げとくわ。水は飲んでもかまわないから」
「ん、餌入れ空っぽやったと思うで」
「それやったらいいねん。茶トラ、明日はごめんやで」
竜治の足元で丸くなっていた薄茶色と白が混ざった毛色の猫を、万里子は撫でた。
「さ、それじゃ記念撮影しとこか」
「なんやねん、記念撮影て」
竜治は怪訝な顔をした。
「いや、明日睾丸切られるから、その前に写真撮っといたろうかと思って」
万里子は手にデジカメを持っていた。そして茶トラを四つんばいにして、後ろからカメラを構えた。
「あ、こら動いたらあかん。ちょっと竜治、押さえといてよ」
「あほか、何考えてるねん」
万里子のすることは、今イチよくわからない。竜治は呆れて、再びごろんと寝転がった。
「ハイ、チーズ。ああ、また動く」
フラッシュが何度か光ったが、万里子がまともな写真を撮れたかどうかわからない。竜治は万里子に背中を向けて、寝たふりをした。
「なあ、竜治」
竜治は聞こえないふりをする。
「なあ、竜治、あんた政治家になりよ」
「はぁ?」
思わす返事をしてしまう。
「日本は年間三十五万匹も殺されているのに、ドイツでは犬や猫の殺処分はゼロやねんて。ペットショップみたいな生体販売もないんやって。不幸な動物が出ないように、国が管理してるねん。日本もその気になったらできるはずやん。でも、私ら下々の者がいくら言うたってお偉いさんは聞く耳持たないやろ。だからあんたが政治家になって、日本を変えるんや」
竜治はふぁぁと大きなあくびをした。
「なあ、この前は獣医になれって言ってなかったっけ?」
「そうやった? でもな……」
万里子は演説の続きをしかけたが、その時階下でピンポンとチャイムの音がした。
「ほら、おとん帰ってきたで」
「話の途中やのに。でも、しゃーないわ、ごはんの用意せな。それじゃ猫ちゃんたちおやすみ」
乱暴に扉を閉め、ドタドタと階段を下りていく音がした。竜治は大きなため息をついて、タオルケットを身体に巻き付けた。ベッドの上でミケがニャンと小さく鳴いた。
「お前何番やった?」
「一番でした」
垣本の質問に答えたとたんに、竜治は襟をつかんで畳の上に倒された。
部活の練習中に、垣本は一年生に期末テストの結果を尋ねた。大方の予想を裏切り、竜治は成績がよかった。万里子が望んでいる政治家や獣医に興味はないが、将来就きたい仕事がある。竜治は記者になりたかった。世界は広いし、知らないことばかりだ。自分はたくさんのことを見て聞いて、皆に伝えたい。そのために、頑張って勉強している。
それが気に入らない垣本は、片手で竜治の襟をつかみ、もう片一方の腕を脇の下を通し首の後ろに回してギリギリと締め上げた。顧問の先生がいない時に絞め技をかけることは禁止されているが、そんなことはおかまいなしだ。気道を強く圧迫されて、どんどん息が苦しくなる。気が遠くなり意識を失う寸前に、垣本は手を離した。竜治は四つんばいになって咳き込み、畳の上に嘔吐した。光男と登が、慌ててモップと雑巾を持って駆け寄ってきた。
「あはは、エロマンガ島やって」
部活終了後、竜治、光男、登の三人は部室で頭を寄せ合って、地図帳をのぞき込んでいた。
一年生は部室の鍵を閉めないといけないので、練習が終わっても、先輩が帰るまで帰宅することは出来ない。それでも友達とふざけていると、気持ちはずいぶん楽になる。
「沖縄に漫湖っていうのがあるで」
光男はユニークな地名に、赤ペンで丸をつけていく。
「やめろや。それ俺の地図帳やぞ」
登が光男のペンを奪おうとするが、光男は取られまいと抵抗する。「キャーやめてー」と女性の声色で光男が狭い部室の中を逃げ回り、登がドスドスと追いかける。皆がそれを笑って見ていた。
その時光男が、寝そべって携帯をいじっていた垣本の足につまずいた。勢いあまった登が光男にぶつかり、二人はそのまま垣本の上に倒れ込んだ。
その様子を見て、竜治は青くなった。他の部員達は、皆目をそらして素知らぬ顔をした。
光男と登がはじかれたように飛び退いた後、垣本はゆっくりした動作で起きあがった。真夏だというのに、部室の中の空気は凍り付いている。
光男と登は気をつけの姿勢で、垣本の前に立った。二人とも上半身は裸で下半身は道着のみ、蒸れからくる皮膚疾患予防のために、夏場は道着の下にパンツをはいていない。垣本の凶暴な目が、赤く光ったような気がした。
「脱げ」
光男と登は顔を見合わせた。
「脱げって言ってるのがわからないんか。お前らもあいつみたいに絞められたいんか」
垣本は竜治を指さした。二人は顔を真っ赤にして突っ立っていた。周りは皆、固唾をのんで成り行きを見守っている。
光男が意を決して、ズボンを一気にくるぶしまで下ろした。垣本は、携帯を光男に向けて写メールのボタンを押した。静まりかえった部室の中に、撮影時の電子音が響いた。
「ワンショット三百円よ」
光男は重い空気を払うように、黄色い声をあげた。そして、頬に手をあててシナを作り、全裸で様々なポーズを取り始めた。見ていた部員達は安堵して笑い声をあげた。竜治は笑うことができずに体をこわばらせていた。
「次はお前や」
一通り光男の写真を撮った後で、垣本は登に携帯を向けた。
登は、人前で裸になるのを極度に嫌がる。着替える時はトイレの個室に入るし、小学校の修学旅行でも先月の学年旅行でも、風邪をひいてると言い張って風呂に入らなかった。
登が突っ立ったまま動かないので、垣本は苛つきだした。
「お前、なめてるんか。殺すぞ、こら」
それでも登は微動だにしない。部室は再び静まりかえった。垣本の目に凶暴な光が宿った。
垣本は登の腕とズボンの裾を掴んで倒し、顔面を思い切り殴りつける。
「ワレ、なめとったらしばき倒すぞ、カスが」
「ず、ずいあぜん」
登は、顔を踏まれて声がうまく出ない。
「こんぐらいで済むと思うな」
垣本は俯せになっている登を蹴り倒し、股間を掴んだ。登は声を出す気力も失っている。
「オラ、死ね」
そして空いている左手で、登の首に腕を巻き付けるようにして、締めていった。登は白目を剥いた。
「けっ、雑魚が」
垣本が、白目を剥いた登を再び殴ろうとした。
あかん、このままじゃ登が死んでしまう。竜治はとっさに、登の上に覆い被さった。後頭部に垣本の拳がめり込み、痛みが炸裂した。
「お前、何邪魔してくれてるねん。お前も一緒にいてまうぞ」
垣本の目は血走っていた。
「僕が、登の代わりに僕が脱ぎます」
垣本の返事を待たずに、竜治は立ち上がりズボンを下ろした。恐怖のあまり性器が縮み上がっている。俺って去勢された猫みたいやな、と竜治は項垂れながらつまらぬことを考えた。
「ええ度胸やな」
垣本はニタリと笑った。
「シコれ」
「え?」
竜治は、一瞬垣本が何を言ったのかわからなかった。
「自分の手でシコれって言ってるんじゃ」
部室は静まりかえっていた。誰も微動だにしない。登が床に転がったまま、うぅっと小さく声をあげた。どうやら意識を取り戻したようだ。垣本は、携帯を動画モードに切り替えて竜治の方に向けた。
「できないんやったら、登もお前もまとめて血祭りじゃ」
竜治は右手をぐっと握った。握り拳が小刻みに震えていた。
竜治の拳が、垣本の顔面を捕らえた。驚いたように目を見開いて、垣本はゆっくりと後ろに倒れていく。光男と登が竜治の元に駆け寄って、賞賛の言葉を浴びせる。試合で勝ったボクサーのように、竜治は右手を高々と突き上げた。
「痛いっ。痛いって」
目が覚めると、クロが竜治の右手をバリバリと引っ掻いていた。
帰ってすぐに部屋に直行し、ベッドの上の猫たちをシッシッと追い払って制服のままベッドに倒れ込んだ竜治は、何時の間にか眠っていたようだ。寝ぼけて右手を振り上げたら、どうやらその場にいたクロに当たったらしい。右手の甲には、赤いひっかき傷が三本走っていた。
帰宅したら、万里子はどこかへ出かけていなかったのが不幸中の幸いだった。もう口を聞く気力も残っていない。
それにしても、夢の中の自分と現実の自分は、なんてかけ離れているのだろう。このまま記憶を失ってしまえば、どれ程よいか。朝になったら、中学の入学式まで時間が戻っていればいいのに。そしたら、絶対柔道部なんかに入らない。陸上でも水泳でも、とにかく垣本のいないクラブならどこでもいい。
ガチャリと鍵の開く音がした。どうやら万里子が帰ってきたようだ。階段を上がってくる音がして、部屋の扉が開けられた。猫のキャリーバッグを抱えた万里子が、入ってくる。
「竜治帰ってたん。茶トラ無事去勢手術終わったで」
キャリーバッグのファスナーを開けると、茶トラがのそっと這い出てきて、部屋の隅に行き丸くなった。クロが近づいて、茶トラの体をペロペロとなめた。
「昨日保護したシロが、具合悪いねん。何も食べないし、水もほとんど口つけなくて。病院連れて行ったら、今日は入院した方がいいって言われたから、お願いしてきたわ」
竜治は返事もせずに、窓の方を向いたまま寝転がっていた。
「あんた、なんか撮影されたらしいやん」
竜治は、はじかれたように起きあがった。万里子は、勉強机の椅子に腰かけた。
「光男君と登君が玄関前にいてたから上がりって言うてんけど、あんたが忘れたサブバッグを届けに来ただけやからって。なんか様子が変やったから問いつめたら、垣本先輩が携帯でどうのこうのと言いやったよ」
竜治は顔をひきつらせて、万里子の顔を見ていた。
「何を撮られたん?」
言えるわけがない。黙っていたら、万里子は追い打ちをかけるように言う。
「ふーん、それじゃ垣本って子に電話して聞こうかな」
それも困る。何故こうも次から次へと、災難が訪れるのか。
「さて、クラブの連絡網はどこに置いてあったかな」
わざとらしく呟きながら、万里子は部屋を出て行こうとした。
「ちょっと、待てよ」
万里子は立ち止まって、振り向いた。竜治は小声でぼそっと呟いた。
「ん? なんて言ったん? 聞こえなかった。何を撮られたって?」
「オナ……」
「んっ?」
「オナニーや」
竜治はやけになって、声をはりあげた。その声に驚いて、ベッドの上にいた猫たちがバタバタっと部屋を駆け回った。万里子は、目を見開いて竜治を見ている。
「え……あんた……」
万里子は唖然としたように固まって動かない。息子がそんなことをされて、ひどいショックを受けたに違いない。少しの間微動だにしなかった万里子は、おずおずと竜治を指さし口を開いた。
「あんた……もう射精できるん?」
竜治は万里子に向かって、枕を投げつけた。枕は、素早く万里子が閉めた扉に当たって、床に落ちた。
重い、背中が重い。俯せになって寝ている竜治の背中に、猫が三匹乗っている。一匹につき四キロとして全部で十二キロ。米一袋よりも重いし、何より暑い。
まだ出えへんわ。布団に顔を押しつけて、竜治はボソッと呟いた。今頃誰にも聞こえないように、先ほどの万里子の質問に答えても仕方ない。
それにしても、と竜治は思う。万里子の頭の中は、いったいどんな構造をしているんだろう。
先程から、階下はやけに静かだ。食欲はまるでないが、ひどく喉が乾いていた。デリカシーのかけらもない万里子と顔を合わせるのは気が進まなかったが、水が飲みたい。身体をゆすって背中に乗っている猫たちを振り落とし、立ち上がりふらふらと階段を下りていく。
いつもなら、そろそろ万里子が夕食の用意をする時間だが、台所は人気がない。グラスに水を注ぎ、一息に飲み干してから隣室をそっと覗くと、万里子が鏡台に向かって座り化粧をしていた。
「竜治!」
鏡にちらりと映った竜治をめざとく見つけた万里子が、呼びかける。
「なぁ、この服どう思う?」
万里子は立ち上がり、くるりと一回転をしてポーズをとった。いつもより念入りに化粧をして、真っ赤なスーツを着ている。スーツには大きな金のボタンが二つ付いていた。
「あのな……いったい、何してんの」
竜治は、万里子の予想外の行動にあっけにとられた。
「いや、最近全然服買ってないから、独身の時のスーツ出してきてんけど。どう?」
「ガンダムみたい」
竜治は思わず口にした。
「うーん、バブルの頃のスーツやからなあ。やっぱりこの肩パットがあかんのかな」
そう呟きながら、万里子は上衣を脱いで、肩パットを一つずつ力任せに引きちぎった。
「これでどう? スカートのファスナー途中までしか上がれへんけど、わかれへんよな」
竜治は無視して、部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待ちいよ、話の途中やのに。化粧は、もう少し薄い方がええと思う?」
万里子は竜治のTシャツの背中あたりを、むんずとつかんで引っ張った。布地が引っ張られて、一瞬首がぐっとしまった。垣本に絞められた時の、不快感が甦る。それに、万里子のこの不可解な行動は一体何だろう。息子のことが心配じゃないのか。
竜治は万里子に向き合って、声を荒げた。
「いい加減にしてくれよ。俺がどういう状況かわかってんの? それに、シロが死にそうなんちゃうの? それやのに、いったいなんやねん。何やってるねん!」
竜治は真っ赤な顔をして、万里子をにらみつけた。万里子は、まじまじと竜治の顔を見た。
しばらく間があって、万里子が口を開いた。
「あのね、竜治」
竜治は無言のまま、万里子をにらむ。
「さっき、光男君達が届けてくれたあんたのサブバッグなんやけど」
サブバッグ?
「柔道着洗おうと思って出したら、その下に雑誌入ってたよ」
「えっ、雑誌って……」
この前、神社で拾ったエロ本だった。垣本がもう飽きたからとやるわといって放り投げたのを、光男と登と竜治でジャンケンをして、勝った竜治が鞄の底に入れておいた。
あれを見られたのか。思いがけない万里子の逆襲に、竜治は振り上げた拳のもって行き場が無くなった。
「あんたも、茶トラと一緒に去勢してもらえばよかったんちゃう? 撮影も済んでることやし」
言葉も出ずに突っ立っている竜治の横をすり抜けて、万里子は玄関に向かった。
「それじゃ、行ってきまーす」
ちょっと待て。我にかえった竜治は、玄関まで行った。
「そんな格好でどこ行くねん」
真っ白のハイヒールを履いている万里子の背中に向かって、竜治は言った。
「ちゅ・う・がっ・こ・う」
顔だけ振り返った万里子は人差し指をたてて、にっこり笑った。唖然としている竜治の鼻先で、バタンと音をたててドアが閉められた。
中学校へ行くだって? 我にかえった竜治は、草履に足を突っ込み、慌てて万里子を追いかけた。万里子はハイヒールの踵をカツカツ鳴らして、早足で歩いている。竜治は小走りで万里子に追いつき、横に並んだ。
「ちょっと、何しに中学校行くねん」
「ショートカットは今イチやな。この服には、やっぱりワンレンやないと」
万里子は竜治を無視して、独り言のように呟く。
わんれんって何のことやと思うが、そんなことを考えている場合ではない。竜治は、万里子の肩をつかんだ。
「待てよ。何でそんな格好して、中学校に行くねん。一体何をするつもりやねん」
万里子は足を止めて、竜治に向き直った。
「これは私の戦闘服。これから校長室に殴り込み」
それだけ言って、また万里子は歩き出す。竜治は唖然として立ち止まる。
「戦闘服って……」
「若いときな、この服着てマハラジャ行って、お父ちゃんひっかけてん」
俺の両親はインドで知りあったんやろかとチラッと思ったが、今はそれどころではない。校長室に行ってどうする気や。
万里子は、くるりと振り向いた。
「言い忘れたけど、猫たちに御飯あげといてな。あんたの動画が残ってる携帯とメモリーカード取り返すまで、うちに帰らへんから」
「ちょっと待てよ。おかんは口出さんといてや」
「阿呆。産湯に浸かっていた時から、あんたの映像は全部うちで保存してるねん。他人さんのところにあるのは、筋違いや」
夕陽で逆光になっており、万里子の表情はよく見えない。アスファルトの地面には、二人の影と側に立っている電柱の影が、長く伸びている。
その時、小さい黒い影がふたつ走り寄って来た。
「あれ、うちの子たちやんか。竜治、あんたドアちゃんと閉めてけえへんかったやろ。脱走させてどうするねん」
ミケと茶トラが、にゃごにゃごと万里子の足元にまとわりついた。
「早くこの子らうちに連れて帰って。他の子も出てきたら大変やで」
竜治は猫たちを抱き上げようとしたが、二匹は嫌がって竜治の腕をすり抜けようとする。
「こいつら俺の言うこと聞かへんで。学校なんか行かんでいいから、こいつら連れて、一緒にうち帰ろ」
万里子は一匹ずつよいしょと抱き上げて、竜治に渡した。
「ほら、これでええやろ。あんたら、おとなしく捕まっときや。それじゃ私は行ってくるから」
「行かんでいいって言ってるやろ!」
その時、万里子の鞄の中から音楽が鳴り出した。万里子は携帯を取り出し、開いて耳に当てる。
「ええ、ええ。はい、そうですか。わかりました」
万里子が何やら話している間、竜治は黙って立っていた。猫たちはおとなしく竜治にしがみついている。
どうやら話が終わったらしく、万里子はパチンと音をたてて携帯を閉じた。
「予定変更。シロを迎えに獣医さんとこ行ってくるわ」
「シロどうかしたん?」
「寂しがってずっと鳴いてるんやって。療養食は食べるようになったし水分もとれるから、家に連れて帰ってあげた方がいいって。学校はその後で行くわ。絶対行くから。それじゃその子ら頼むわな」
万里子は気もそぞろという感じで、足早に立ち去った。
あの赤い服で獣医に行くんか、牛がいてたらやばいんちゃうか。竜治はつまらぬことを考えながら、二匹を抱きかかえて、仕方なくぶらぶらと家に向かう。
角を曲がったとたんに、大きな人影とぶつかりそうになった。
「気をつけろや、こら」
ドスの効いた聞き覚えのある声が、頭上から降ってきた。
「せ、せんぱい……」
「なんや、竜治やないか。偶然やな。今日はおもろかったの」
ジャージ姿の垣本が、ニヤニヤ笑いながら竜治を見下ろしていた。竜治は目を疑った。これはきっと幻覚だ。一度強く目を閉じて再び開いたが、垣本の顔は消えるどころか、より近づいていた。
「なんや、その猫は。お前のか」
「はい……」
猫たちは、首を回して垣本をじっと見ている。垣本は何かを思いついたかのように、口を開いた。
「ちょっと、ついてこい」
「俺、帰らないといけないから」
「ええから来いって言うてるんや」
何かに操られたかのように、竜治はトボトボと垣本の後ろを付いていった。連れて行かれたのは、住宅街から外れたところにある狭い空き地だった。竜治が小学生の頃、時々ここで遊んでいた。今では雑草がボウボウと伸びていて、立ち入り禁止と書かれた札が立っている。青いビニールシートで覆われた建築資材が、高く積み重ねて置かれていた。
夕陽が空を赤く染めているが、竜治にはその色が、何か不吉な前兆のように思われた。
「猫をボールにしてサッカーしたら、おもろそうやな」
垣本は薄笑いを浮かべ、竜治が抱いている二匹の猫に目をやった。
「おまえ、そいつらちょっと蹴ってみろ」
「………」
「俺の言うこと聞かれへんのか。お前の動画学校中に広めるぞ」
垣本はニヤニヤ笑いながら言った。竜治は、絶望的な気分だった。そんなことをされたら、女子には完全に無視されるだろう。それどころか、もう学校に行けなくなるかもしれない。
二匹は竜治に抱えられて、おとなしくしている。腕に重みが伝わってくる。触れている肌が、じんわりと温かい。
「蹴れません」
少しも迷うことはなかった。
「動画広めるぞ。ええねんな」
「嫌です。でも、蹴るのは出来ません」
垣本の目がつりあがってきた。竜治が自分に逆らうとは、思っていなかったのだろう。竜治は二匹を抱く手に力をこめた。
それが窮屈に感じたのだろうか。ミケが竜治の腕から身を乗り出し、地面に飛び降りた。
「あ、こら」
人慣れしているミケは垣本に近づき、足にまとわりついて臭いをかぎはじめた。茶トラも真似をして垣本に近づいた。
「お前が逆らうんやったら、俺がこいつら蹴り飛ばすぞ」
「やめてください」
「動画広めるか、蹴るかどっちかじゃ」
「どっちも嫌や!」
竜治は思わず声をあげた。
「ふざけんなや、カスが」
垣本は足元の二匹を蹴ろうとしたが、一瞬躊躇したのか動きが遅れた。
その瞬間、竜治が突っ込んでいき、垣本の右足にしがみついた。垣本はバランスをくずして、背中から地面に転がった。
はずみで、垣本のズボンのポケットから、携帯電話が飛び出て地面に落ちた。竜治はとっさにそれを掴んで走り、空き地のすぐ横にある池に向かって、放り投げた。それは柵を越え、水草に覆われてどんよりと濁った池の中に吸い込まれるように、落ちていった。
騒動に驚いた猫たちは、積まれた建築資材の一番上までのぼって、こっちを見下ろしている。あの高さなら、捕まることはないだろう。竜治はその場にへたりこんだ。
背後から、草を踏む足音が近づいてきた。振り返る勇気はない。そのまま後頭部をガシッと掴まれた。竜治は観念して目を閉じた。
雲の縁が金色に輝いている。竜治は地面に仰向けに倒れて、空を見ていた。口の端が切れて血がでている。身体中を殴られて、起きあがる力が出ない。あちこちがズキズキと痛んで、熱をもっているようだ。沈んでいく夕陽が、周囲を赤く染めている。
きれいやな、と竜治は思う。それに比べて、俺は虫けらみたいやな。
手の甲に生暖かい感触があった。顔を向けると、人間不信のクロがいて、ペロペロと竜治の手をなめていた。ミケと茶トラも、その横にいる。
「なんや、クロ。お前も脱走してきたんか。早く家帰れよ」
竜治はクロの頭を撫でようと、手を動かした。そのとたんクロは飛び退き、シャーっと歯を剥きだして威嚇した。
なんだかおかしくなってきて、竜治はあははと声を出して笑った。夕陽の眩しさが目にしみる。空はどこまでも高く広かった。
(了)
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