病めるときも健やかなるときも   齊藤 貴子



 つけっぱなしのテレビはワイドショー番組を放映している。
 綾子はさっきから友人の早苗に電話をしていた。
「そうなんよ。見るからにしんどいって顔してるのに、わたしがへらへら笑っててみ。また嫌味言うに決まってるねんから。せやのに笑顔ひとつ、お疲れさまのひと言で疲れも飛ぶ、やなんて。テレビのコマーシャルやないっちゅうねん」
 電話の向こうで早苗が「まあまあ、笑顔くらい見せてあげぇよ。減るもんやなし」と言って、自分の旦那のほうがどれだけ腹の立つ言い方をするかということを延々と話し始めた。こうなると、どちらが愚痴を聞いて欲しくて電話をかけたのかわからない。適当なところで綾子は口をはさんだ。
「うん、うん。わかった。今度ゆっくり聞くわ。ほなまた連絡してきて。あ、あんた実家のおとうさんお大事に、ね」
 電話を切って綾子は肩でひとつ息をついた。
 ゆうべ、夫の文雄とちょっとした諍いがあった。めったに感情をあらわにしない文雄が珍しく激高した。綾子にしてみればそんなに怒るようなことを言ったつもりはなかったので、呆気に取られた。先に寝る、と言って布団に入ったものの考えれば考えるほど腹が立ってくる。こんなとき一戸建てなら二階と下とに分かれて寝ることも可能だろうが、狭いマンションではそれは無理だった。寝付けないままじっと目を閉じているとあとから布団に入ってきた文雄が、ものの一分もしないうちにいびきをかきはじめ、それもまた腹立たしさの原因のひとつだった。

 綾子は今年五十三歳になる。二年前に長年勤めたパートを辞めていまは専業主婦だ。三人の子どもたちもそれぞれ働いている。東京の大学に行った長男は卒業後劇団に入り、アルバイトをしながら向こうで何とかやっている。長女は京都で一人暮らしをしていて次女だけが生駒市郊外の自宅から会社へ通っている。子どもたちのことはもう心配いらないし、少しは余裕もできるだろうとホッとしたのもつかの間、文雄の会社の社長が会社を閉めると言い出した。冗談だろうと思っていたら本当に昨年の春で文雄は失業してしまった。退職金はもらったものの、残っているマンションのローンを完済するといくらも残らなかった。ただ幸いなことに文雄は同業の会社から誘われてそこでの再出発となった。職種はこれまでと同じ複写業務や製本業なのですぐに馴染めたし、得意先もそれほど変わってはいなかった。
「五十ですぐに仕事見つかるなんてラッキーやで」
「これまでちゃんとやってきたからやよ。人徳やね」
「おかあさんにもまた働いてもらわなあかんかなって思ったけど、大丈夫や。がんばるで。三年で今まで貰ってたんとおんなじ額の給料にしたるわ」
「ローンがないんやから無理せんかてええんよ。あの子らもお金、入れてくれてるんやし」
 そう言って労わりあったはずだったのに。
 綾子はもう一度ため息をついた。今まで文雄のことを年下だからと思ったことなどなかった。自分よりずっとしっかりしている。頼りになる。と誇らしかった。そりゃあ、ときどき意見の食い違いもあるがそれはどこの夫婦にも起こりうることだ。なにより綾子が先に惚れてしまった。
「死ぬまで好きな人がいる、ってよく言うけど文雄ちゃんのことは死んでからでも好きやもん」
 と、臆面もなく言ってのけた。
 それなのに、何がどうまちがってしまったのだろうか。
 仲が悪くなったとかそういうのではない。新しい会社で文雄はがんばっていた。それは綾子にはよくわかっていた。だから以前の会社の時にはあまり出なかった愚痴も、無理もないことだと耳を傾けるようにしてきた。仕事の一環だと得意先の人たちとゴルフに行くのも気持ちよく送り出してきた。
 ゆうべ、何が原因で言い争いになったのか綾子は思い出そうとした。テレビがゴルフクラブのコマーシャルを映し出している。
 そう、ゴルフだ。平日に休みを取って行くことが何度かあったので、それなら実家の母を連れて温泉に行くときも平日なら安くていいよね、と言うと文雄はとたんに眉根を寄せて
「前にも言うたやろ。平日のゴルフも仕事と一緒や、って。仕事やと思うてくれって。朝早くから仕事にいくんやな。ご苦労さんくらいに考えてくれよ」
「え、けど、そしたらあたしらと出かけるときは平日の休みとか取ってくれへんの」
「土、日やったらあかんか」
「あ、いや。せめて金曜とか休めたら泊まるんだって安いし、金土で出かけても日曜にゆっくりできるし。そのほうが文雄ちゃん楽なんちゃうん」
「べつにしんどいとか言うたことないし。かまへんし」
 頷いたものの釈然としなかった。その土曜日もほとんど仕事で家にいたためしがない。結局、日曜は遅くまで寝ているか朝からビールを飲んでいるため、夕方近くになってやっと近所を散歩するくらいしかできない。
 何か違う。と思いながらうまく言葉が見つからず綾子は黙ってしまった。すると文雄はさらに攻撃を仕掛けてきたのだ。
「去年、職場変わってからはじめて給料貰ったとき、こんなんやったら小遣いも出されへんて言うたやろ。あれ聞いたときはショックやったで。そんなふうにしか見てくれてへんのんかって」
「え、でもあのときは正直に言うたまでやんか。それに次の月からは上がってたし、今年の四月にも昇給したやん」
「それはおれががんばってきたからやろ」
「ああ、そうやね。そうです」
「なんでそんな言い方するんや。何が気に入らんのや。おまえが金金っていうから」
 そこで文雄はぶち切れたようだった。
 こんなにお金に執着するような人ではなかったはずなのに。
 家族みんなが健康ならお金などなくてもいい、とくさいセリフを平気で言う人だったのに、まるで綾子自身が守銭奴だから文雄までそうなってしまったような言い方をされて、情けなかった。
 次女のはるかがまだ帰っていなくてよかったと思った。子どもの前でだけは喧嘩をしないでおこうと綾子は心に決めていた。

 気がついてテレビを消した。テーブルの上のチラシを片づけ壁の時計に目をやった。正午を少し回ったところだった。唐突に、どこかへ行ってしまいたいと思った。けれど、梅雨の晴れ間のこの日、大量に洗濯もしたし布団も干してある。このまま放っていくわけにはいかない。さっき電話をかけていた早苗に会いに行こうかとも考えたが、彼女も実家の父の調子がよくなくて心配だと言ってたし、彼女自身も胃の検査をしたばかりで結果によっては病院通いになりそうだと嘆いていたので、甘えてばかりもおれない。幼なじみや学生時代の友人たちは遠くに住んでいる。ふらりと旅に出るにしてもあてがない。行ったままでいられるのならいいが結局は帰ってくることになるのなら、いかないほうがましだ。
 今回に限ったことではないが文雄を疎ましく感じるときがある。きっと向こうもそう思っているだろう。以前、マンションの知り合いが話してくれた出来事を思い出した。それはある団地に住む奥さんが、犬の散歩に行ってくるといって出たままそれきり帰ってこなかったというのだ。一日だけ様子を見ようとした主人が次の日会社から戻ると、今度は奥さんの持ち物だけきれいに無くなっていて犬が部屋にちょこんと座っていたらしい。噂によると奥さんは何年も前から不倫をしていてその相手とともに出奔してしまったということだ。旦那さんは犬を抱いて途方にくれていたとか。
 その話を聞いたときと今では綾子の思いは違っていた。そのときはへえ、すごいね。と感心していたが今なら羨ましくもある。不倫相手はいないけれど、そういった思い切りみたいなものを持ちたいと思う。と言って、娘や息子に心配はかけたくないので彼らのところに行くことは選択肢にはなかった。もちろん、実家へ帰ることも。
 つまり、こうして一日が過ぎていくだけなんだわ。と綾子は呟き台所に立った。簡単に昼食をすませるとベランダに出て空を仰いだ。雲が広がってはいるけれど青空も見える。干してある布団にもたれるように身を乗り出して周りを見回した。布団を干してあるのとそうでない部屋が半々だ。久しぶりの晴れ間が惜しい気もしたが、布団を勢いよくたたいてから取り入れた。文雄の枕も腹立ちまぎれにたたいた。六畳の和室に自分たちのと次女の布団を積んで各自の枕もその上に置いた。
 今日はけんかを吹っかけないようにしなくてはと思う。いや、吹っかけるのではなくそれ以前に文雄が望むように笑顔で出迎えればすむことだ。わかってはいるのだがなんかなあ……と渋い顔になる。しかし、来週の土曜日は姪の結婚式がある。文雄の兄の長女でひとり娘だ。いつまでもわけがわからないような諍いはしたくない。言いたいことを飲み込んでにっこり笑えばすべて丸く収まるのならしばらくはそうしていよう。不本意だけど。
 結婚式は当人たちの希望で軽井沢のホテルで行なわれる。姪は二十二歳ではるかと一歳違いだ。招待状がきたとき娘たちは電話をかけあったり、長女ののぞみなどは土曜日にわざわざ帰ってきて、姉妹でひとしきり騒いでいたが、「まあね、あの子が一番早いんじゃないかって言ってたしね」と、案外さばさばとしていた。
 そうだ。結婚式の話をしよう。文雄にしても自分の兄の子だし、忙しそうにしているときでもときたま「当日、晴れたらええのにな」と嬉しそうな顔をしていた。それに、長男の太一は直接行くとして、軽井沢まで一家四人が車で行くのだからこれはもう立派な旅行だ。仕事のある子どもたちは一泊だけして帰るけれど、文雄は月曜日も休みを取ったといっていた。だから日曜日はふたりで軽井沢を散策してもいいし、ドライブに出かけてもいい。
「ふーん。こういうときは躊躇せずに休みを取るのね」
 思っても口には出さない。関西の人間が何も軽井沢まで行って式を挙げることもないのに。と、これも口にはしない。
「うるさいなあ。ほなうちのときは九州かどっかでやったらええやんけ」
 と返ってくるくらいならまだいいのだが、きっとまた眉根を寄せて黙り込んでしまうだろう。文雄の背中が、すべてを拒否しているように立ちはだかるのだから、始末が悪い。
 ま、とりあえず髪でも染めてこよう。綾子は時計を見てから行きつけの美容院に電話をかけた。一時間後に予約を取り身支度を整えて家を出た。美容院のあるビルは駅前だ。バスに乗ってもいいのだが散歩がてらに裏道を歩いていくことにした。
 たまに覗く雑貨屋に、気に入ったTシャツがあるのだがなかなか安くならない。せめて千九百円くらいなら買おうと思うのだがまだ四千円の値札がついている。いったい誰のために置いているんだろうと恨めしげに眺めながら通り過ぎた。
「だからあかんのよ、おかあさんは。いいものはやっぱりいいんやって。安もんのTシャツなんか買うから首が伸びるし、ひと夏着たら色褪せるんやよ」
 はるかがいつもいう言葉だ。そんなこと言ってもねえ、と綾子は煮え切らない様子で反論した。
 担当の美容師はよくしゃべる女の子だ。口はええから手を動かして。とつい言いたくなるのをこらえて鏡の中でにっこり笑う。しかし腕は確かで、カットのあとの手入れがすごくやりやすい。二十六歳で三人きょうだいの一番上だという。
「じゃあうちの息子といっしょね。歳も」
 毛染め液を塗りたくられて泥人形のような頭を見ながら綾子は言った。そういえば先日、太一が電話をかけてきた。
「結婚式に着る服やけど、黒でないとあかん? 面倒やから普通のスーツでええやろ」
 と言うのだ。娘たちは嬉々として新しい服を買う相談をしていたのに、男の子なんて愛想も何もないわ。とつい愚痴をこぼした。
「やー、うちの弟もそうですよ。仕事柄スーツを着ないから成人式のときのしか持ってないですよ」
 そう言えば太一も、スーツなどとは縁遠い仕事をしている。
 義母などはいつまでもうだつの上がらない太一のことを、綾子に面と向かっては言わないが、文雄には「どうするつもりなの」と、時々詰め寄っているらしい。いくら初孫だからといっても、いくら唯一の男の孫だからといっても、放っといて欲しい。
 しかめっ面をしていたら美容師と鏡の中で目が合ってしまった。なんでもない、と言うように首を振った。
 頭をラップで覆われて二十分ほどお待ちくださいと言われた。綾子はいつも思うのだが、高いお金を払って染めてもらいながらなぜ最後はラップなんだろう、と不思議でしかたない。家で染めるのならともかく、高度な技術を誇る美容室ではそれ以外にもっと方法があるんじゃないかと。疑問を正したことはないが案外こういう普通のやり方が一番いいのかもしれない。それに、映画などで最終兵器の発射ボタンは、やはり人の指が押している。コンピューター制御されていても結局のところは一番原始的なやり方で終わるのだ。
 考えが途方もないところまで広がっていった。夕飯のおかずでも考えよう。綾子は目を瞑った。おかずを考えるどころかいつのまにかうつらうつらとしてしまった。はっとして眼を開けると助手らしい若い子が「大丈夫ですか?」と覗き込んできた。綾子は笑ってごまかした。

「軽井沢、気をつけて行ってきてくださいね」
 店の外まで見送りに出た美容師がにこやかに言って頭を下げた。どうもありがとう、と言いながら同じように一礼してエスカレーターに向かった。あとは買い物をして帰るだけだ。きれいな栗色に染めてもらった髪の感触を楽しむように手でかきあげた。
 陽はまだ高い。けれど行くところがない。仕事をしていた頃はパート仲間でケーキを食べに行き、上司や社員の悪口を言っては盛り上がっていた。そういうことももうない。ただ、仕事を辞めたとき、何が嬉しいかといって、朝の時間をゆっくり過ごせることが一番嬉しかった。夫や娘を見送ったあと、好きなだけ新聞を読んだりテレビを見たりできる。洗濯も慌ててすることもない。もう一度寝ることだってОKだ。なんて自由なんだ。と思った。
 しかしそれも最初のうちだけだった。新聞だけは読むけれど、あとはさっさと洗濯や掃除を済ませて、いつ何があっても対応できるように備えていた。まあ、何もない日々の連続だったが。
 かつてのパート仲間で今も働いている何人かとたまに会うこともあったが、それすらだんだんと疎遠になっていった。だれかが声をかけないかぎり動かないものだし、それがだんだんと面倒になってきた。あの頃はあれほど盛り上がった上司の悪口も、自分がそこから離れると聞いていていい気がしなくなってくる。正直、どうでもいい、と思う。
 何か、することを見つけなければ。と焦ってしまう。趣味は? と訊かれても答えられない。ショッピングか? Tシャツ一枚買うのに値下がりを待っているくらいなのに? そういえば、以前はよく文雄ちゃんと映画に行ったなあ。前の会社のとき難波で待ち合わせて、映画を観てカラオケに行って、帰りが午前様になって、子どもたちに呆れられて。そうそう、早苗を誘ったこともあった。綾子が「文雄ちゃん」と言うものだから彼女も、文雄ちゃん文雄ちゃん、とまるで自分の旦那みたいに気安く呼んでいた。三人で、よく遊んだ。十年近くも前の話だ。
 感傷に浸っている場合ではない。スーパーマーケットに入ったものの綾子はさっきからカートを押しながら同じところを何度も回っている。適当に目についたものをかごに放り込みながら、もう一周してレジに向かった。このレジは実習生のため時間がかかります。と言う旨を書いたプレートがかかっていた。どうしようかと思ったが急ぐ用があるわけでもないし。と前の人のあとに並んだ。どの世界にもどの仕事でもはじめは誰でも新人なんだ。
 文雄も同じ職種とはいいながら、新しい場所であることには変わりはない。そこではやはり新人なんだ。人間関係だって最初から築きなおさねばならない。
 機嫌の悪い理由のひとつは多分それもあるのだろう。しかたがないか。綾子だって働いているときはそんな思いを持ったこともある。ただ綾子の場合は単なるパートだったから、嫌なら辞めればいいくらいの気持ちでいたけれど。
 少しぎこちなさそうなレジの女性に、綾子は心の中で「がんばってね」とつぶやいていた。

 夕方、食事の準備まで少し間があるし、コーヒーでも飲もうとしていたら電話が鳴った。はいはい、と言いながら出ると、吹田に住む義母からだった。長男家族と同居している義母は、このたびの結婚式も息子たちと一緒に行くことになっている。義母や義父にしてみれば、かわいい孫と過ごせるのもあとわずかしかない。
「おかあさん、どうかしはったん?」
「あ、いえ。何でもないんだけどね」
 電話の向こうに沈黙が広がった。義母がこんなふうに素っ気なさそうに言ったときに限って何かあるのだ。生まれも育ちも東京の義母はいまでもきれいな標準語を使う。綾子の関西弁丸出しのがさつなしゃべり方に、ときどき顔をしかめるときがある。綾子もわかっているのだが「ええやん、べつに」と思ってしまう。
「来週やね。お兄さんたち寂しがってはるんとちがう?」
「息子たちはいいのよ。納得してお嫁にやるんだから。でもね、そうしたら大塚の家はあの子たちの代で終わっちゃうでしょ。そのことにあたしたちは何も言えないでしょ」
「うーん。そりゃそうです。お兄さんらが決めたことやもの。口をはさむことはできへんでしょ」
 返事の代わりにため息が聞こえた。
「でも、わたしらがいてますやん。分家やけど。墓の掃除ぐらい子どもらに頼んどきますって」
「太一ちゃんを養子に、ってわけにはだめよね?」
「ダメです。太一は長男です。一応」
 綾子は即座に答えた。落胆している義母の顔が浮かぶ。文雄と同じように眉根を寄せてうつむき加減にしているのだろう。全く、よく似た親子だ。と思った。
「おかあさん、心配いりませんよ。いざとなったら四天王寺さんに永代供養頼んだらいいんですよ」
 フォローになっているのかいないのかわからないまま、元気付けるように電話口でテンションを上げた。太一の話から遠ざけなければ。しばらく義母は何も言わなかったが
「まあそれはいいとして、あなたたちは? 当日に出発するの?」
 気を取り直したように訊いてきた。
「このまえから言うてますやん。金曜日の晩に出ます。みんな仕事あるし、夜中に走ります。のぞみもはるかも運転できるし」
「そう。悪いわねえ、遠いところまで。お金もかかるのに」
 ほんまですわ。と言いたいのをこらえて、かといって、しゃあないですやん。と言ってもよい方には解釈してくれないだろうから、おめでたいことですもの。と太っ腹なところを見せておいた。
「そうそう、綾ちゃん。八尾のお母さんからもお祝いいただいて申し訳なかったわねえ」
「あ、届きましたか。はよ贈っときや、って言ってたんです」
「息子にお礼の電話しときなさいって言ったんだけど、どうなのかしら」
「さあ、わたしは何も……」
 と言葉を濁した。
 じつは二日前に実家の母から、「もうとっくに着いてるはずやのに何も言うてけえへん。お義母さんはくれはったけど」と苦情の電話があった。綾子は「ええやんか。また訊いとくし」となだめた。そんないきさつがあったから、正直、今ごろなんやのん。という気がしなくもない。義母にしても悪気はないのだろう。ちゃんと言えば「まあ、そうだったの」と、あわてて電話の一本もかけるだろう。しかし、義母に恥をかかせるのも忍びないと思う。
「大したもんでもないし、お兄さんたちも忙しいんでしょうし、そんなんいつでもいいですよ」
 それより当日まで体に気をつけて、おじいちゃんにも飲み過ぎないようにって言っといてくださいね。と話題を変えて電話を切った。
 食卓テーブルに座り、肘を突いてカレンダーを見つめた。
 十四日の土曜日がマルで囲んである。日曜日をまたいで矢印が月曜まで延びている。姪はジューンブライドなのだ。相手の男性は七歳年上で愛知県の出身だと聞いた。旧家の長男ということで当然のように向こうの親もとで暮らすらしい。大変だなあと綾子は姪を気遣った。でもまああの子はしっかりしているし、同居でもちゃんとやっていけるでしょう。うちの娘たちは無理だけど。
「そんなことより軽井沢までのガソリン代と高速代と、宿泊費用はどうなるんだろう。ふつうは向こうが出すんだけど」
 そっちのほうが気がかりだった。
 祝いはもう渡してある。五人が披露宴に招待されて十万円は少ないかなとも思ったが、退職金だって残り少ないのだからそれ以上出せるはずもない。その代わり祝儀袋を立派なものにした。
 文雄が帰ってきたら訊いてみようか。大人が四人泊まるのだから安く見積もっても五万や六万はするだろう。結婚が決って日にちも決ったときに兄嫁から「式のあと泊まるの」と訊いてきた。
 泊まるのなら早めに予約が必要だからと言うのだ。披露宴がすんでとんぼ返りという手もあるがせっかくだから泊まりたい、と綾子は思った。
 太一だけが仕事の都合で帰ると言う。軽井沢からなら新幹線で東京まですぐだし、娘たちもそうしようと思えばできるのだが、彼女たちは森の中のすてきなホテルの優雅な休日を味わってみたいらしい。おかあさんたちだけ泊まるなんてずるい。というわけだ。
 はるかに続いて文雄が帰ってきた。はるかも遅いが文雄はもうずっと十一時近くの帰宅だ。すぐにでもあれこれ訊きたいのをこらえて、文雄の晩酌のそばに座っていた。ノルマを果たすように大びんビールと500mlの缶を飲むとやっと人心地がついたような顔をして、さ、ごはんなに食べよ。と訊く。こんだけ飲んで食べてまだ食うんかい。と言いたいのをこらえて「納豆でも食べる?」と言うと、ソファでテレビを見ていたはるかが素早く反応して「やめてよ。匂いが充満するやんか」と顔をしかめた。
「なあに言うてんねん。納豆ほど体にええ食べもんはないんやで」
 文雄は末っ子に甘い。さんざん悪態を吐かれても辻説法の僧のように納豆の効能を説いている。あげく、ビールも刺身もええもんだらけやで、と。はるかは根負けして自分の部屋に引きあげていった。よし、言うなら今だ! 綾子はご飯をよそって納豆のパックと一緒に差し出しながら「あのさあ……」と切り出した。
「軽井沢で泊まるやん? 式のあと。そのときの宿泊代って全額うっとこ持ち、かな?」
 文雄が納豆を混ぜながら「ん?」という顔をしたので、綾子はさらにたたみかけた。
「ほら、ふつう遠いとこから来てもらったら交通費とか、たとえ片道でも主催者側が出すやんか。うちら身内やけど、軽井沢まで行くんやし、交通費は車やからまあ新幹線よりはずっと安いけど、泊まるホテル代が……。四人やったら、どうなんやろ?」
 反応をうかがうように上目で文雄を見た。「そうやなあ」と言うような顔をしながらも返事がない。
「お兄さんに訊いたほうがええんやろか。それともばあちゃん?」
「兄貴はわからんやろ。雅美に訊いてみたら」
 雅美というのは兄嫁のことだ。最初に、泊まるのかどうかを訊いてきたときに、宿泊代はこっちで持つから、と言うのが当り前だと思ったのにその言葉がなかった。自分のきょうだいや親になら堂々と訊けるが、夫の身内には特に金銭的なことは訊きにくい。それだから文雄に相談しているのに厄介なことは全部綾子にまわってくる。
「雅美ちゃんも、若いから気ィつかへんのかも」
 兄嫁といっても十歳も若い、まだ四十三だ。もちろん四十三であっても三十歳であっても、気の利く人はいくらでもいる。
「ええやんか。めでたいことで行くんやから、ご祝儀代わりや」
「なんでえな。お祝いちゃんとしたやんか。それとこれとは別の話やわ」
「けち臭いこというなよ。まだ退職金残ってんねんやろ」
「それは……もうちょっとなら」
「みんなが集まって泊まるやなんてめったにあることちゃうねんで。それくらい俺らで出してもええやろ」
 なんか話が違う方向に向き始めたぞ、と黙っていると文雄はさらに言葉を続けた。
「また貯金していったらいいやんか。そのために残業かてしてるんやし。子どもらにお金かからへん分残せるやろ。はるかかて入れてくれてるし。まあ、あれはあいつのためにおいといてやらなあかんけど。のぞみや太一は全部自分でやってるねんし。それに去年の夏は、ほんの雀の涙ほどのボーナスやったけど、今年はもうちょっとあると思うし。俺の貰ってくる仕事かて増えてるし。がんばってるんやで。自慢みたいであんまり言いたくないけど」
 演説に熱がこもってきた、と綾子は思っていた。もうホテル代の話どころではない。わたしはただ、世間一般の常識から言ってこんな場合はホスト側がたとえ一部でも負担するのじゃないかと思っただけであって、そして「費用はこっちが出すわ」と言ってきたら「いえ、そんな申し訳ないし、わたしたちで出します」くらいの気構えだって持っている。その是非を問うているだけなのに。と綾子は納豆の匂いにむせながら文雄に聞こえないように舌打ちをした。
 月曜日に銀行に行って旅費と宿泊代とその他もろもろの費用の、合わせて三十万ほど下ろしてこよう。
 お金にまつわる厄介なあれこれを、初夏の軽井沢に行く、という心弾むことで忘れてしまおう。こうなったら披露宴の料理もしっかり食べてこなければ。パンはやはり食べ放題かしら。お酒ももしかして飲み放題。綾子はあれこれ思いをめぐらせながら自然に顔がほころんでいった。
 あと一週間。険悪にならないように気をつけねば。

 マンション内で知り合いに会うたびに、話の最後に「結婚式で軽井沢までいくんよ」と付け足した。綾子にとっては一大イベントになってしまっていたのだ。全国の週間天気予報を毎日確かめては長野県は晴れだとか、でも次の日は曇りだわとか、一喜一憂している。
 あっという間に一週間が過ぎた。金曜日は飲めないからといって、文雄は前日に仕事仲間と飲んで帰ってきた。
 明日まだ一日あるというのに、綾子は持っていく式服や靴の準備に余念がない。もう十二時回ってるし俺は寝るで、と布団に横になった文雄が声をかけた。
「ねえ、のぞみはどうするの? 迎えに行ってあげるの」
「仕事終わったら来いって言えば?」
 応えて文雄は大あくびをした。
「えー、そんなんかわいそうやわ。荷物もあるのに」
「でも、京都へまわってたら遠回りになるで」
 寝返りを打って顔だけこちらに向けた。
「いやあ、それでも京都南から名神乗ったらいいんちゃうん」
 綾子は負けじと食い下がった。
「まあおかあさんがそう言うんやったら。のぞみには何て言うてあるんや」
「え、迎えに行ってあげようか? って訊いたらそうしてって」
「そりゃ行ってやろうかって言ったら来てくれって言うで。もう甘いんやから」
 そう言って背中を向けた。
 ときどき綾子は、自分の子どもに甘いことがそんなにいけないことなのか、と思う。過分な小遣いを与えるとか罪を犯したのを庇うとかではないのだ。ただ、仕事をして帰ってきて、さらにまた電車に乗って生駒の実家にやって来る娘を気遣うことが甘いといわれたら、返す言葉がない。
「いいやん。あの子だって働いてるんやし。わたしが運転できたら文雄ちゃんに気兼ねせんといくらでも迎えにいけるんやけど」
 そう言うのが精一杯だった。
 いやな雰囲気になったらどうしよう。とそればかり気にしていた。しかし文雄は「こっち出る時間だけ知らせときや」と言っただけだった。

 金曜日は何となく落ち着かない気持ちのまま、夕方になるのを待った。普段より早く帰ってきた文雄に風呂に入るように促して、綾子は夜食用のおにぎりを握ることにした。
「のぞみに何時に行くって伝えたんや」
「九時にはこっち出るから、って」
 言いながら壁の時計に目をやった。七時を回ったところだった。こんどはまだ帰ってきていないはるかのことが気になりだした。
 あれだけ言ってあるのに、と綾子は指についたご飯粒を口で取りながらもう一度時計を見た。きっと、まだ二時間あるやんか。と言うだろうから電話はかけないでおくことにした。文雄ははるかのことは訊きもしないで皿に盛られたおにぎりをつまんだ。綾子も冷蔵庫から漬け物や煮豆を取り出してテーブルに並べた。
「二日や三日は大丈夫と思うけど、できたら食べてしまってくれへん?」
「へいへい。ビール以外やったらなんでも食うで」
「そうやね。ビール飲まれへんのはつらいね」
「つらいね、って、アル中か俺は」
 綾子はそれには応えず、自分とはるかが今食べる分のおにぎりを皿に残してあとはパックに詰めた。台所で立ったままおにぎりをほうばりお茶で流し込んで、後片付けをはじめ、それがすむと娘の帰りを待たずに先に風呂に入った。洗濯もやっておきたいのに、と少し苛立ちながら出てきたが、はるかはまだ帰っていなかった。何時? と訊くと、八時前。と文雄の声が返ってきた。
「ちょっとかけてみるわ」
 バスタオルを巻いただけの格好で、綾子は自分の携帯電話を手にした。呼び出しているのに一向に出ない。文雄が、どうや? という目を向けた。綾子は見返しながら首を横に振った。
「留守番電話サービスになってしもたわ」
「電車の中とちがうか。出られへんのは」
「もう。はよ帰って来なさいって朝もあれだけ言うたのに」
 言いながらテーブルに携帯を置いて和室に行き、着替えをすませた。
「まあまあ。九時までに帰ってきたらええんやし」
「洗濯もしておきたいやんか。そんなぎりぎりに帰ってこられても、忙しいだけやわ」
「べつに九時ちょうどに出ることもないやろ」
「のぞみが待ってるでしょ。あの子もあたしらが行くのに合わせて用意してるかもしれへんのに」
「遅くなりそうやったら連絡して待たしといたらええんや」
 一瞬綾子は、はじき出そうとした言葉を飲み込んだ。
 ああいやだ。と奥歯をかみ締めた。そんなことを言っているのではない。ひとりの勝手がみんなに迷惑をかけるということを、はるかはわかっていない。文雄もそうだ。こんな時だからこそ決めたことは守ってほしい。でも、ここで何か言えばまた気が重くなるだけだし、それだけは避けたい。
「じゃあ、のんちゃんに言っとくわ」
 椅子を引いて腰を下ろし、気を静めてのぞみに電話をかけた。ところがこちらも同じように繋がらない。留守番電話サービスどころではなかった。何度呼んでも出ないばかりかそのうちに呼び出し音が途切れてしまった。そして
「電波の届かない場所にいるか電源が入ってないって言ってる」
 綾子は夫を見た。文雄が何も言わないのでもう一度かけてみた。やはり同じだった。無機質な女性の声が不安を煽る。時間を置いて二度、三度と繰り返したが同じことだった。携帯電話を握りしめ壁の時計を見上げてから、意を決したように言った。
「ねえ、あたし行ってみる。はるかが帰ってきたら荷物積んで迎えにきてよ」
「行ってみるって、伏見へか」
「だって、他に連絡の取りようがないやん」
「大丈夫やって。電源入ってないって言うてるんやろ。ほな入ってないねんやろ」
「なんでよ」
 噛み付かんばかりに顔を近づけた。新聞やテレビで報道された最悪の事件のすべてを思い浮かべた。一人暮らしの女性襲われる。通り魔に切りつけられる。死後数日たって発見される。死体は人目につかない山林に遺棄されて……。
「やっぱり行く」
 立ち上がったとき、手の中の携帯が軽やかなメロディで着信を報せた。綾子はもう少しで床に落としそうになった。見るとのぞみからだった。
「のんちゃん、あんた、どこにおるん。何してたん」
 早口で訊ねる綾子に、のぞみはいたってのんきに
「ごめんごめん。充電せなあかんと思いながら忘れててん。そのままシャワー浴びてチョィ寝てしまって」
「もう……。心配したんやで。何かあったんとちがうかって」
 電話の向こうでのぞみがくすっと笑った。笑いごとやないよ。と言おうとしたとき、玄関のドアが開いて「ただいまあ」というはるかの声が聞こえた。おう、おかえり。と文雄が応えている。
「あ、はるちゃん帰ってきたわ。ほなこれから洗濯して干して、それから出るから九時過ぎるかもしれへん。あんた、何か食べたん? おにぎり握ってるから食べてないんやったらそれ食べなさい。途中でまた電話入れるわね。寝たらあかんよ」
「わかったわかった。もう寝えへんから」
「ほな、ええね? 切るよ」
 電話を切って振り返ると、はるかが「よっ」と片手を挙げた。
「おかえり。はよシャワー浴びてきなさい。洗濯待ってたんやから」
「電話、おネエから? 寝てたとか言うてるんでしょ」
「ええから。はよいきなさい」
 はるかを風呂場に追いやる綾子の後ろから、文雄が声をかけた。
「ほな、俺は荷物をぼちぼち積んどこうかな」
「そうやね。お願い。あ、スーツとかは最後にね。靴は袋に入れてあるから」
「わかってま」
「はるか、あんた持っていくものは?」
「あとでする」
「もう八時半まわってるよ。さっさとしなさいよ」
 ひとりで騒いでひとりで疲れている。綾子は洗濯機が回っている間食卓の椅子に座って一息入れた。放っておいてもみんな大人なんだからちゃんとすることはわかっているのだが、つい口やかましくなってしまう。
 スッピンは嫌だと言うはるかに、誰も見てないからと、自分がいつも文雄からいわれる言葉を言って、車に押し込んだ。
「ほな、出発するぞ」
 マンションの駐車場を出たのは九時三十分をゆうに過ぎていた。伏見でのぞみを乗せたあと綾子はいつのまにか眠ってしまった。
 途中、娘たちが交代で運転をした。そのときだけ綾子は眠い目を見開いて前方を睨んでいた。夜中なので長距離の大型トラックが何台も走る。のぞみは安全運転なのだがはるかときたらトラックを追い越そうとする。そのたびに「やめなさい、はるちゃん」と、助手席で何度も叫んだ。文雄は後ろの席で目を閉じ、腕を組んだまま身じろぎもしない。「寝てるの?」とのぞみに小声で訊ねるとのぞみは笑いをこらえながら首を振った。
 八ヶ岳を望む辺りで夜明けを迎えた。徐々に白く明るくなっていく空に浮かび上がる稜線を綾子はうっとりと眺めていた。そのころは文雄が運転をしていた。せっかくの景色を見せてあげようと思っても、二人の娘は熟睡していて起きる気配もない。夜食のおにぎりだけでは足りないからと、途中でラーメンやうどんを食べたのがいけなかったのか、文雄はずっとあくびをかみ殺しながらハンドルを握っている。
「眠い?」
「ああ。しっかり食ったら絶対眠たくなるねん。せやからパンとかそんなんでええって言うたのに」
 文雄は眩しそうに目をしばたたかせてもう一度あくびをした。
「それやったらそうしたらよかったのに。なにもこの子らと一緒になって食べんでも。言うてくれへんとわからへんやん」
「なんで逆ギレすんねん。ええやんか、ちゃんと運転してんねんから」
 綾子はしまった、と思った。思ってからしかし、自分は絶対悪くないと確信したが、先々のことを考えて一応謝っておくことにした。
「ごめん」
 小さくつぶやく綾子に文雄は「わかればよろしい」と、腹の立つことを言った。

 軽井沢には十一時間ほどかかって到着した。
 はるばる来た、という感じだ。綾子は車から降りて腰に手を当てて上体を逸らせた。晴れ上がった青空が目に眩しい。空気もおいしいと思った。が、同時に疲れがどっと出てきた。振り返ると娘たちも無言で降りてきた。
「お疲れさん。はいはい、笑顔笑顔」
「だるーい。新幹線でくればよかった」
「あー。髪、どうしよう。サイアク」
 いちいちかまっていられないので車のトランクを開けて各自の荷物をてきぱきと渡していった。
 着替えてから控え室に行くと一足先に着いた太一が待っていた。文雄が自分の親族と話しているのをいいことに「聞いてよ」と、ゆうべの一件や今朝の文雄の言動を一気にしゃべった。黙って耳を傾けていた太一が、
「おかんも大変やな。ま、きみが惚れたんやからしゃあないね」
 と、肩をたたいた。綾子がまだ何か言いたそうにしているのを尻目に、文雄のそばへ行ってしまった。
 挙式が行なわれる教会はホテルの敷地内にあるのだが、バスで移動する。緑の木立の中をゆっくり走るバスにゆられていると眠くなっていくのがわかる。寝てはいけないと、綾子は手のひらで顔をたたいた。
 石で造ったアーチ状の教会は、ガラスを嵌めた天井から入ってくる光だけが唯一の明りで、人工的な照明は一切ない。あとは祭壇のろうそくが静かに揺らめいている。ツタの絡まる壁からは微かな音を立てて水が流れている。
「あかん。また眠たくなる」
 小声で呟く綾子のわき腹を文雄はつねった。贅肉をつままれた綾子は文雄の手の甲を軽く打った。打ってから後ろの視線が気になった。
 やがて音楽に先導されて義兄とともに入場してきた姪は、神妙な面持ちながらもはちきれんばかりの嬉しさを、どう表現すればいいのかとまどっているようでもあった。彼女の晴れやかな笑顔に眠気の飛んだ綾子は、若いということはそれだけでも財産なんだなと、しみじみ感じた。
 横を通る義兄の顔を覗き見ると、今にも泣き出しそうだった。
 いつか、自分たちもこの立場になるのだろうか。太一やのぞみやはるかが結婚するとき、文雄はポーカーフェイスでいられるだろうか。前の席の義母がハンカチを目元に当てている。
 式はおごそかに進められていく。そのつど、立ったり座ったり黙祷をしたり、アーメンとつぶやいたりした。聖書の朗読のあと牧師の説教があり、誓約があった。
「病めるときも健やかなるときも……誓いますか」と牧師は問う。
 新郎新婦はそれぞれ「誓います」と応える。
 わたしたちは神前結婚だった。と綾子は思った。
 誓いの言葉は読んだけれど、神主さんはこの牧師さんのように問うただろうか。どんなときも愛し、信じ、いたわり、死が二人を分かつまで、と。何を誓約したのだろう。誓いの言葉とはどのようなものだったのか。最後に、「妻、綾子」と言ったことしか覚えていない。誰でもそんなものかもしれない。
 綾子の胸の中に牧師の言葉が残った。
 となりにいる文雄の手にそっと触れた。訝しそうにチラッと視線を動かした文雄だったが、何も言わず綾子の手を握り返してきた。

 

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