最後のお別れ   益池 成和



 

 昨年の暮れ、幼馴染みの父親の葬儀に参列した。
 彼とは長い付き合いである。同じ幼稚園に一緒に通い、小、中学校も同じところだった。現在も、その中学校の同窓生の集まりが盛んなこともあり、三月に一度は顔を合わせる仲である。距離的にも、三軒の家を挟むだけの近さで、それは今も変わらない。
 同じ町内と云うことで、当然両親とも昔から行き来があった。それだけではない。今年中にも販売台数で世界一になろうかという自動車メーカーの整備工場に、三十年の長きに渡り一緒になって土地を貸してもいた。経済的にも浅からぬ縁があったのである。
 彼の父親の訃報は、同窓の集まりの中心メンバーからもたらされた。意外な気がした。そんなにも悪かったのか、と云うのが正直な思いだった。
 私は地元で店とは名ばかりのたばこ店を一人でやっているのだが、つい前日まで、太り気味の彼の父親が、自転車に跨り店の前を横切っていく姿をよく目にしていたからである。又、知らせを受ける十日程前に深夜の道路で彼と偶然鉢合わせし、わずか五、六分のことだったが、二人だけで自宅まで歩いたところでもあった。共に飲み屋からの帰りであったが、むろん、その時には親が悪いなどという話は出ていなかった。
 八十を幾つか越えたあたりだから、年齢的にも致し方ないところがあるだろう。が、前を見据えたまま自転車で店の前を通り過ぎて行く姿が焼き付いていて、亡くなったと云う事実がにわかには信じがたかったのである。
 これには少し説明が必要かも知れない。
 私の父親は七年前に亡くなったのだが、何かとばたついていた通夜の当日、隣町に住む彼の父親から電話が入った。本来なら葬儀に参列しなければならないが、足が思うようにならないので遠慮させてもらいたい、と云う内容だった。
 たしかにその頃彼の父親は体調が思わしくなく、車椅子に頼っての生活ぶりだった。早くに妻を病気で亡くしていた彼の父は、その時には既に新しいパートナーを見つけ、隣町で別宅を構えた格好になっていた。父親は養子縁組で幼馴染みの家に入った人だったのである。
 新しい生活を始めていたといっても隣町のことである、様々なかたちで彼の父のことは噂話として伝わってきていた。たしかに車椅子での生活らしいが、新しい人とタクシーを利用し頻繁に外出しているらしいという話であった。そうであるならば、葬式ぐらい顔を出してもいいだろうと、どこか釈然としない思いを抱いたおぼえがある。
 幼馴染みの母親が健在だった頃は、私の父と彼の父親はかなり仲がよかった。ところが私の父が死んでしまう頃には、その関係がぎくしゃくしたものになってしまっていた。土地をめぐっての思惑が、二人の関係を難しいものに変えてしまったのである。むろん、私もそのようなことは知ってはいた。が、それにしてもと、かなり不満な思いを彼の父に感じたものであった。
 
 葬儀は隣町ではなく、私の町内に新設された葬儀会館で行われた。喪主は幼馴染みが務めた。隣町に移って二十年以上経つとはいえ、息子が跡を取る家もあることもあってか、隣近所の殆どの人が参列した。
 私は親父の時のことを思うと一抹のためらいがあるにはあったが、結局通夜にも葬儀の席にも顔を出した。葬儀委員長の名が読み上げられないことに少し驚きはしたが、それ以外は、普段に出席している式と何ら変わりないものだった。
 小一時間ほどで葬儀そのものは滞りなく済み、棺の蓋を閉める「最後のお別れ」になった。おもに親族が切り取られた花を持ち、次々に棺の中に収めていった。幼馴染みの妻や子供、そして姉の家族などが続いた。私は後ろの席で隣近所の人達と黙って最後の別れの場面を見守っていた。するとそのうちに、親族の席でない最前列のところから小柄な白髪の老女がよろよろと進み出たかと思うと、やおら棺にすがりつき声を張り上げ泣き始めたのである。棺の中に身を投げ出し、それこそ人目もかまわないような大声で「お父さん、お父さん!」と口走りながら。
 最初私はその人が誰だか分からなかった。白髪だったからである。後ろの席から「ああ、あの人や!」という声がわき起こった。声の主は同じ町内会の女性だったが、その人は続けて「あれ見てみいなあ、知らん顔してるわ、あの子」と言った。見ると、喪主席に戻っていた幼馴染みは、パイプ椅子に斜めに座り込んだまま、ただ祭壇の花を見据えたままじっとしていて動かない。彼の姉も席に戻っていて、その視線は棺にはむいてはいなかった。
 その一言でようやく私は、老女が彼の父親のパートナーであることに気付いた。
 私自身もその人には何度か顔を合わせていた。殊に親父が股関節の手術を受けて三ヶ月ほど入院していたときには、病室で二度ほど二人と鉢合わせしたことがあった。彼の父親が隣町で新しい生活を始めたばかりの頃のことで、親父が二人で頻繁に見舞いに現れることに、少々とまどっていたことがあった。当時のその人は見事な黒髪だった。
 葬儀会場の中にはいつまでも老女の泣き声が続いていた。孫だろうか、黒い学生服を着た小柄な男の子が、棺にすがりついたままのその人を後ろから手を回し、どうにか支えていた。
 やがて棺の蓋を閉めるときが来た。葬儀を取り仕切る人が、今一度親族に向かい花をたむけるよう促した。喪主席でそっぽを向いたままだった幼馴染みも、重い腰を上げ、横たわったままの父親に一輪の花を捧げた。姉も進み出た。彼女は棺の中に手を差し伸べたところで突然その場で泣き崩れた。そして棺の中に身を乗り出したまま、「お母ちゃんが待ってるで! お母ちゃんが、あっちで待っててくれてるんやで、お父ちゃん!」と絞り出すように叫んだのである。夫らしき人が彼女の背中を黙って撫でさすり続けていたが、その泣き声はすぐには止まらなかった。
 
 葬儀の三日後、珍しく喪主を務めた幼馴染みが私の店を訪れた。当日着ていた喪服を携えて。私の店はクリーニングの取次も行っている。が、喪服のクリーニングは、おそらくは口実みたいなものだったに違いない。彼は出席の礼を口にしてから、「それにしても参ったわ」と続けた。
 彼によると、父親は隣町の自宅で亡くなったらしい。具体的な病名は口にしなかったが、どうやらかなり以前から体調は思わしくなく、十日ほど前にも一度呼ばれて見舞ったらしかった。「慌てていったら、けっこう元気で拍子抜けしたわ」と言って彼は苦笑いを浮かべた。以前深夜の道で鉢合わせしたのは、彼が父親を見舞った翌日の出来事だったらしい。どうにも気持ちの収まりがつかなかった彼が、同窓生の一人を誘って、酒場に繰り出したのであった。
 父親に死なれてみると、まずどちらの家で葬儀を出すかで一悶着あったらしい。戸籍は以前のままであるとはいえ、生活の場を隣町に移して二十年以上経っている。しかも、彼の父親は子供に何の相談もなく新たに墓地の確保もしていた。それだけではない。自ら望んで、宗派も本来の家のものとは違うところにお願いしていたというのである。
 彼は自分が喪主を務めたことを意地だと言った。あらかたのことは知れ渡っているとはいえ、隣近所にたいしての配慮も手伝っての事だとも口にした。家がある以上、自分たちはこの町で住み続けなければならないのである。
「その代わり、後のことはすべてあっちや。こっちは葬式だけ。四十九日も関係なし。これからはまったく係わり無しや!」と苦虫を噛みつぶしたような顔で続けた。
「家を出て行くときも、俺らには何の相談もなしやったんやで。気いついたら、隣町に移ってましたわ。後々のことはまったく無視して。どう思う!」
 わたしに答える術はなかった。が、その思いはよく分かる気がした。立場の違いこそあれ、男親を亡くし家を継ぐものとして。
 なくしてみてはじめて分かる、と云うことがある。わたしにとっては父親の存在がそうであった。生前は男同士と云うこともあってか、父に対してはなにかと煙たい思いに捕らわれたものだったが、いざいなくなってみると、こんなにも評判がいい男だったのかと、一度ならず感じ入ったものであった。
 わたしの父親は長い間町内会の活動に携わり続けた。区長の務めも度々経験したし、もとが農家だったこともあって、農業委員をはじめ農協関係の役を引き受けたことも度々あった。
 つい先日も起こったことだったが、殊に葬儀が済んだ後の半年ほどは、まったく面識のない人から不意に声を掛けられ、父親のことを褒められるというようなことがよくあった。
 男親が死ねば、当然その息子が隣近所との付き合いを引き継ぐことになるが、あの親の子供だからという思いが、始まりにはどうしても働くことになる。親の評判とでも云えばいいのだろうか。その点わたしは非常に楽だった。面倒見がいい親だっただけに、何の抵抗もなく町内の交わりに入っていけた気がした。それだけに、その日幼馴染みが口にした、「俺は親父に何もしてもらっていない」という言葉がよく分かるのである。
「通夜の時に、半時間ほど親父と二人だけになったことがあったんや」
 葬儀の行われた会館は二階建てで、その二階で残された親族が逝った人と最後の夜を過ごすことになるらしい。どのような状況だったのか、彼は亡くなった父親とそこで二人だけの時間が持てたらしいのである。
「親父に、思いっきり文句言うたったわ。勝手に出て行きやがって、こっちのことなんか知らぬ存ぜぬやったからなあ。二十年分の恨み、ぶちまけたったわ。なんぼ言うても、何も答えよらんかったけどなあ」
 幼馴染みはそう吐き捨てるように口にしてから帰って行った。 

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