小松トキオが職場である税理士事務所を出ると、周辺のビルの明かりはほとんど消えていた。午後からの雨はまだ止まない。小松はビニール傘をひらいて歩きだした。駅に向かいながら、傘を持つ反対側の手で携帯電話をチェックする。一回り年下の恋人、優子から何回も留守番メッセージが入っていた。どういうつもりなの。明日会うんじゃなかったの。とにかく連絡してきなさいよ。低い声で何度も吹き込んでいるが、怒っているためかメッセージはどれも短かった。今日までの確定申告期限が終わったら会おうと確かに約束していた。それを今の今まですっかり忘れていたのだ。まいったな。もう零時を回っている。携帯電話を耳に当て、顔を上げずに歩いていたら何かにぶつかった。閉店した定食屋の店先に積んであったゴミ袋の山だった。
最終電車に乗り込んだとたん、また電話がかかってきた。優子かと一瞬思ったが、ディスプレイを見ると最近映画サークルで知り合ったセキグチさんの名前が点滅している。こんな時間に何の用だろう。いや、もしかしてメンバーの誰かに何かあったのかもしれない。通話ボタンを押そうとすると、腕にかけていた傘が落ちた。前に座っていた女性が嫌な顔をして足を引っ込めた。
「も、も、もしもしもしもし、小松さん?」
電話を耳に当てると、いつもはおっとりとしたセキグチさんが、咳き込むようにうわずった声で呼びかけてくる。小松は車内の迷惑にならないように「はい、小松です」と小声で返答した。
「い、今映画を観てたんです。か、感動が胸いっぱいなんです。こ、小松さん、お願いです。この映画を観てください」
感極まったのかセキグチさんは時折しゃくり上げるようにして話した。泣いているのかもしれない。しかし、セキグチさんはそんなことでこんな時間に電話をかけてくる人だったろうか。
「レイトショーですか。優雅ですね。僕なんて今まで仕事で」
「小松さん、ヤ、ヤバビバですよ。ヤバビバッ」
「ヤ、バビバ?」
「この映画はすばらしい。現代人が忘れかけていた伝統を教えてくれる」
「伝統ですか……はは」
「笑い事じゃない! バカ者!」
小松は驚いた。
「す、すみません。忘れてください。……でも、ヤバビバを侮辱されたくないんです、絶対に。それに小松さん、あなたには観なければならない義務があるんです。私は……」
そこで突然電話が切れた。電車がトンネルに入ったせいだ。
小松は、取り残されたように手のひらにおさまる携帯電話をしばらく見つめていた。セキグチさんのうわずった声が耳の奥でこだました。
小松が大の映画好きになったのは、小学生の時に観た市川雷蔵主演の「眠狂四郎」がきっかけだった。本来、小松少年は気弱で大人しい子どもだったが、眠狂四郎の妖しくて格好いい姿に憧れて、毎日原っぱで竹竿を持ち、ゆっくりと剣を回す円月殺法を真似た。
「人の世は、しょせん殺し合いだ」
流し目をしながら、声色を使う小松少年を、周囲の大人は心配そうに眺めていた。
小松少年の父はその村で税理士をしていた。たいした企業も商店もないので父もたいして儲からず、三男坊の小松少年がいくら映画が好きといっても、そう簡単に連れていってやることはできなかった。
だからこそ、少年は映画への想いをいっそう強くしたのかもしれない。誕生日や正月にだけ連れていってもらえる映画館が遠くに見えてくるだけで、少年は興奮のあまり鼻血を出した。上映中は終始身を乗り出してスクリーンの世界に溶け込もうとしたし、見終われば夢見心地でしばらくのあいだ口もきかず、食事も摂らなくなるのだった。おそらく映画そのものが、小松少年の初恋だったのだ。
小松少年は大きくなったら映画監督になると心に決めていた。その想いはずっと変わらず、大学時代は映画同好会に所属して仲間たちと八ミリ映画を何本か撮った。しかし、どれもこれも仕上がりはひどいメロドラマにしかならなくて、誰にも評価を受けなかった。
代わりに、同好会の機関誌に映画評論を発表すると、こちらはいつも評判が良かった。機関誌が発行されると、知らない大学生からも「おまえの評論を読んで映画が観たくなったよ」などと声をかけられるほどで、だんだんと八ミリ映画よりも評論執筆のほうが面白くなってきた。父の勧めで税理士事務所に就職したが、大学卒業後も評論は書き続けた。そして同好会のメンバーと映画サークルを結成し、今も年三、四回の機関誌を発行しつづけている。
週末の夜、印刷会社を営んでいるメンバーのところに集まって、朝までかかって機関誌を刷る。小松を含め仲間はみな四十代に入り、仕事や家庭の事情で発行に限界を感じることもあるが、ほんの十数人の定期購読者がいることが、みんなの支えになっていた。
そのサークルに去年の暮れ、セキグチさんが入会してきた。小松の書いたジャン・リュック・ゴダール監督作品についての評論を読んで、自分も何か書いてみたいと思い立ったという。
「小松さんの着眼点って面白いですね。他の人では気づかないところに目をつけるというか。私、あなたの大ファンなんです」
社会人になると、機関誌に評論を書いてもなかなか反応が返ってこなくなる。そんな中、セキグチさんの言葉は小松にとってありがたかった。セキグチさんは小松より五歳ほど年上で、映画についても小松より詳しいくらいだが、いつも落ち着いていて酒の席でも口数の少ない人だった。一度ゆっくり話してみたいと思える人だった。
そのセキグチさんが、電話口であんなにも興奮していた。彼があそこまで強くいうのには、何かわけがあるのかもしれない。いったい、観なければならない義務がある映画とは、どんな映画なのだろう。
小松は電車を降りて改札を抜けた。雨はまだ降っている。優子は寝ずに連絡を待ってくれているだろうか。仕事に追われていて、これまで電話ができなかったことをまずは謝らなければならない。そして明日、その映画に一緒に行かないかと誘ってみよう。小松はそう考えて立ち止まり、携帯電話を取り出した。
一晩中降り続いた雨は明け方には止んで、休日は晴天になった。映画館の入っているビルには中庭があり、噴水の周りにベンチが並んでいた。その中のひとつに座って待っていた優子は足を放り出し、唇をとんがらせて、小松が近づいてもにこりともしなかった。
「あのさあ、あんたっていつもデートが映画でつまんないわ」
それはこれまでの恋人にもいわれてきたことだった。しかし小松にとって映画ファンであることは誇らしく、ちっとも悪い気はしなかった。
「今日は会えて嬉しいよ」
努めて明るくそういってみたが、優子は小松を睨みつけてくるだけだ。
さあ行こう、と小松は優子の手をとって立ち上がらせようとしたが、すぐにふりほどかれてしまった。
勝手にスタスタと前を歩き出す優子の後ろについて、映画館までやってくると、休日でもあり、また八本のスクリーンのあるシネコンということもあってか、人で溢れかえっていた。あまりにも人が多いので今日は特別なイベントでもやっているのかと思ったが、特にそんな張り紙もない。チケットカウンターは長い列ができていて、小松たちもそれに並んだ。
「ヤバビバ二枚」
やっとカウンターまでやってきて、係員にそう告げると、早い時間のものは満席だというので、ずっと後の、夜の上映分を購入した。料金を支払っていると、隣のカウンターに並んでいた人からも「ヤバビバ観れますか」という声が聞こえてくる。歓声が聞こえたので振り返ると、壁一面に貼られたポスターをバックに、携帯で写真を撮っているカップルがいる。ポスターにはニカッと笑うショッキングピンクのアフロヘアの男が大写しになっていて、目を見開き、鼻の穴を大きく広げて白い歯を見せている。
「あれがヤバビバなんだって」
優子が複雑そうな声でいう。しかし、セキグチさんがああまでいうのだから、やはり観ておきたかった。二人は上映時間まで、噴水広場のベンチでアイスクリームを食べたり、書店や雑貨屋をうろついた。徐々に優子の機嫌が直ってきているようにも思えたが、油断はならなかった。食事を終え、それからポップコーンと熱いコーヒーを手に、映画館の席に着いた。
客席上のライトが消えると、スクリーンの端にかかっていたカーテンが最後まで引かれた。小松はいつもそうするように、映画が始まる前に深呼吸をして背筋を伸ばした。
長い映画の予告が終わると、本編が始まった。スクリーンは深い森を、空からロングショットでぼんやりと映し出した。薄暗い。夜だろうか。格調のある旋律をヴァイオリンの低音が厳かに奏でている。カメラは徐々に森に、木々に、その合間にある明かりのついた一軒の小屋に近づいていく。それに合わせてヴァイオリンは高音を増し、ボリュームも大きくなり、テノールのオペラ歌手の声がそれに加わる。さらに小屋からは赤ん坊の泣き声がする。かん高い泣き声に交じって、何頭もの牛の声もする。モー、オギャー、モー。歌手の歌声もビブラートを効かせて盛り上がり、すべてが同じ大音量で聞こえてくる。誰か一人がさらにボリュームを上げると、あわてて他の音も大きくなる。
小屋の窓がバタリと開くと、カメラはそこから中に入っていく。牛が狭いところに並んでつながれている。その奥に、丸々と太った白人の赤ん坊が揺りかごに狭そうに収まって泣いている。赤ん坊の顔にはいたずら書きのような線が両頬に三本ずつ描かれている。赤ん坊を若い男女が嬉しげにのぞき込んでいる。牛が干し草を食べるカットが挿入されて、また男女が映し出される。赤ん坊はすごい勢いで泣き続けている。牛も鳴いている。男女のほほ笑む場面ばかりが映るが、赤ん坊は白人なのに男女はアジア系のようだ。
不安になるような長いオープニングをこらえて、とにかく小松は最初の台詞を待った。
「さあさあさあ、この子をヤバビバと名付けよう」
男はすっくと立ち上がり、かん高い声を張ってそういった。
「そうしましょうそうしましょう」
女も台詞をいう。名付けるということはやはり両親のようだが、二人とも驚くほどの棒読みで、しかも日本語だ。日本映画なのか? 名付けるといったって赤ん坊はもう丸々と太っていて、生まれたてというには無理がある。唐突に、蛙の姿が大きく画面に映る。蛙は喉をふくらませて、そしてまたしぼませる。牛のモー、に加えて次はゲコゲコが聞こえてくる。赤ん坊も負けずに泣いている。まるで火がついたように、と思ったら、赤ん坊から煙が出ている。父親はおもむろにシンバルを打ち鳴らす。何度も打ち鳴らす。テノールのビブラートはいつからかおかしな裏声になっている。牛も蛙も赤ん坊も誰もなきやまない。
騒々しいなき声から音楽はやっと軽快なワルツに切り替わった。スクリーンもタイミングのずれた長い暗転の後、母親役と三十人ほどの女性が現われて、手に持ったトンガリ帽子を被ると踊り出した。いや、これは踊りというのだろうか。とにかく何度もターンをしてそのたびに女達の履いているスカートが朝顔のように広がる。そのターンが音に合っているのかは疑わしいが、楽しげではある。何か変だと思ったら、みんな一様にカメラ目線だ。くるりと回ってはこちらにほほ笑む。クルリ。ニカ。クルリ。ニカ。同じことを繰り返す。やっと映像が切り替わると、赤ん坊のヤバビバがアップで映る。火がついたように泣き続けたためか、髪が真っ黒に焦げている。涙はもう止まっているようで、ニカニカ笑っている。頬には変わらず髭のような線が描かれ、その口元にはすでに歯が生えそろい、目はこれでもかと見開かれている。
「ビバッ」
ヤバビバが叫んだ。するとカメラの前でたくさんの人がヤバビバの周りを取り囲む。顔、顔、顔。みなおそろしくニカニカと笑って。その顔の集まりの上に「ヤバビバ!」と切り傷のような書体の赤い文字のテロップが重なり、字から血のような液体がドロリと流れる。
なんだこの映画は。間違いない。これはB級映画だ。見たこともないほどのB級ぶりだ。小松は耐え難かった。
隣にいた優子に顔を寄せて「もう帰ろう」といった。が、優子は返事をしない。
「おい」と、彼女のひじをつつくが、優子は手に持ったポップコーンを食べようともせず、スクリーンに見入っている。
「聞こえてるのか?」
「えっ、なに?」
「もう出よう」
「え……?」
「だからもう出よう」
「ん……」
優子はまたスクリーンに帰って行った。どういうことだ? どこにそんな観るべき価値があるんだ? さっぱり分からない。しかし、こんなにも優子が夢中になってくれるのなら、今日のデートはひとまず成功したといえるのかもしれない。小松にとってはひどいB級映画であったとしても、彼女の機嫌が直るのならそれでいいのではないだろうか。僕がつまらないから映画館を出ようといったのも、彼女の気持ちを無視しすぎていた。ひじをつつくだなんて失礼なことをしたものだ、と急に小松は反省した。そして、もうしばらく彼女に付き合うことにした。
スクリーンに目をやると、おそらく二、三歳になったヤバビバが腰に両手をあてて立っている。一本一本が大きくて白い歯を剥き出しにして笑っているが、同じように目も飛び出さんばかりに見開いていて、愛らしさがまったくない。三本髭は相変わらずだが、真ん丸い顔が細くなり、足がどんどん長くなる。焦げていた髪はどんどんショッキングピンクに染まっていく。エイリアンのようで気味が悪い。画面の端に俳優や監督の名前らしきローマ字がテロップで流れる。しかし、どれも聞いたことがない。だいいちこれは洋画か? どこかの合作映画か? 出演者の名前は暗号のような「Q」の一文字や「555」などで、どうもデタラメな気がしてならない。
テロップが終わるころにはヤバビバは十六、七歳くらいになっていた。相変わらずニカニカ笑っているが、青年にしては張り付けたようなウソ臭い笑顔でさわやかさがない。それにドーランを塗りすぎているのか肌の色がのっぺりとしていて顔全部がCGなのかと疑うほどだ。スクリーンを眺めていると、見開いた目が、高く丸い鼻が、白すぎる歯がすべて、顔ではない何か、花瓶の模様か何かに見えてくる。ショッキングピンクの髪はアフロのように丸く広がり、まるでピンクに染めたヒマワリを挿した花瓶人形だ。花瓶人形のヤバビバが村の中を歩く。村中の人たちがなぜかうっとりとヤバビバを眺めてため息をつく。ヤバビバが裸になって海のイルカと遊ぶ。イルカたちがキュイキュイいいながらヤバビバの周りを何匹も泳ぎ回る。「僕に乗ってください」「いいえ、私に乗ってください」とテロップが出る。イルカがヤバビバを取り合っているのか? 笑えない冗談だ。浜辺に上がった彼が髪の水気を手で払い飛ばしながら(それでもピンクアフロはくずれない)ストローでジュースを飲む。そしてカメラ目線でニカッと笑う。……これは、この花瓶人形のプロモーションビデオなのか? ばかげている。
――あなたには、観ないといけない義務があるんです。
先日、セキグチさんはそういった。この映画のどこが? 何度座り直しても、くだらない映像にすぐに嫌気がさして椅子に身体が埋もれていく。今、ヤバビバは妙なツイストを踊り出している。小松は席を立ちたくてどうしようもなくなってきた。いつもは好きな映画館のにおいが、今日は鼻について気分が悪くなってきた。外に出たい。こんな映画鑑賞はやめて、休日の街を散歩したい。
その時、映像がほんの一瞬フラッシュした。小松にはそう見えた。今のはまさか……小松は映像を凝視する。するとまた何かが光った。とっさに目を閉じてその光の形を頭で組み立てた。……いくつかの黒い固まりが横に並んでいた。なにかの文字だったのだろうか。目を開けるとヤバビバが象と一緒に能天気に踊っている。小松が次のフラッシュを待っているとやはりまた、数分後に光ったように感じた。しかし読み取れない。だめだ、これはサブリミナル効果じゃないか。ナンセンスなストーリーの上になんて手法を使うんだ。こんな映画を長時間観ていたらろくなことがない!
もう我慢できない。外に出たいと優子に伝えようとするが、優子はスクリーンを食い入るように見つめている。肩を叩いてみるが、まったく気づかない。小松は、そんな彼女にも苛立った。こんな映画を黙って観ていられるなんて、どんな神経なんだ。鈍感な女だ。芸術なんてまるっきりわかっちゃいない。
「優子、帰るぞ」
小松がたまらず声をかけたとき、
「かわいい」
優子が、ぽつりといった。小松は我が耳を疑った。今何といった? 彼女にそうたずねようとした時、後ろの席からもため息が洩れ、
――好き。
という声が聞こえた。甘いため息は連鎖するように劇場の各方向から洩れ、観客は口々に「かわいい」とつぶやいている。スクリーンにはピースサインをしてニカニカ笑う青年ヤバビバがアップで映っているだけだ。感情の読めない瞳をして。ふざけた三本ずつの髭を描いて。この男がかわいい? まさか!
もしかして先ほどのフラッシュの文字は「かわいい」だったのだろうか。
「世界平和だ! ビバ!」
ヤバビバがそう台詞をいうと、劇場中から黄色い悲鳴のようなどよめきが起こった。
うそだろ。小松は周りを見回した。頭をくっつけて座るカップルを。ネクタイをゆるめるサラリーマンを。缶ビールを口にあてる中年女性を。みな一様に、大粒の涙を流していた。
この映画の前で小松は、ただ非力な傍観者だった。下品なダンス、ナンセンスな歌を浴び続け、脳みそが空っぽになっていくようだった。その後もフラッシュは繰り返され、どんな刷り込みをされているのか心配でならなかった。
「明日は今日の続きさ! ビバ!」
「死ぬのはちっとも怖くない! ビバ!」
「悲しみはピンク色! ビバ!」
台詞に脈略はなかった。まったくデタラメな映画だった。なのに優子は周りの観客と同じように、おいおいと声を上げてむせび泣いていた。中盤で何度も席を立とうとした小松は、そのうちだんだんと立ち上がる気力すら失せ、気がつけばスクリーン一杯に男たちが裸で踊るラストシーンまで観続けていた。男たちはみなショッキングピンクのアフロヘアで左右三本ずつの髭を描き、目と歯を剥き出しにして笑っていた。どの男が主人公のヤバビバなのか見分けがつかない。男たちは口々に裏声で「ビバビバ」と唱えながら、兵隊のように縦横に規則正しく並んで、なぜか次々に海へと入っていく。男たちは、時折波をかぶって姿が見えなくなった。しかし波が引くとまた、カメラ目線で笑っていた。そうしながら一歩、また一歩と沈んでいく。カメラがロングショットになると、海一面に同じ髪型、同じ表情のヤバビバが埋め尽くされていた。小松はそれを観て、理由のわからない鳥肌が立った。
「みんなー今こそーひとつになってー
選ばれた私たちーはー
ビバーハアン ヤアーバアビイバアー」
主題歌のようなものが最後になって流れ出した。
どんな映画でも、エンドロールまで観賞することが作法だと思ってきた。映画には必ず作り手の思いが込められている。コメディにも、ホラーにも、それを作ってみたいと突き動かされた何かがある。そう信じてきた。作り手たちに敬意を払うという意味で、かならず最後の名前が消えるまで客席を立たないと決めていた。だが「ヤバビバ!」の場合、エンドロール(やはりまたあのわけの分からない名前ばかり)が流れ始めると、はっと我に帰って、最後まで観てしまった自分にいい知れぬ怒りを覚えた。
しかし周りは、なぜか総立ちで拍手をしていた。指笛を鳴らす者や、奇声を上げる者もいた。小松は今度こそ上体を起こし、「行こう」と力ずくで優子の腕をつかんだ。
誰よりも早く映画館を出たかった。優子の腕を強く引っ張ったため、優子は「いやあー」と叫び、髪を振り回して抵抗した。あまりの形相に一瞬たじろいだが、犯人を連行する警察官のように有無をいわさず無理やり連れ出した。
扉を開けてロビーを過ぎ、映画館の入っているフロアを抜けて噴水広場に向かう。涙にむせぶ優子の右手首をしっかりつかみ、もう片方の手を背中に回して左肩を抱えて歩いた。噴水広場までたどり着いて、入っていた力がふと緩んだ拍子に、優子は小松の両手を思い切りはねのけた。
「どうして! どうして連れ出すのよ」
「どうしてって、もう終わったんだし」
「まだ観ていたわ残像を!」
そういうと、優子は地べたに座り込み再び泣きじゃくった。噴水の前に座り込んでいた人たちがこちらを遠巻きに見ている。小松は頭の芯が冷たくなってくるのを感じた。
「ずっと観ていたいの、ヤバビバを」
優子は切なそうに嗄れた声でつぶやくと、赤い目からこぼれる涙を手の甲で拭い続ける。
「もう泣かないでくれよ」
「いや! さわらないで!」
優子の腕に触れようとした手をきつくたたかれた。
それからは口をきかず、優子はひとしきり泣き続けた。小松はハンカチを渡そうとしたが、それも受け取ってはもらえなかった。長い時間が過ぎて、やっと泣き止んだ優子は、立ち上がると尻についた埃を払った。それから小松を正視し、あなたもすばらしい映画だと思うわよね? と挑むようにたずねた。
「……ぼくは、とてもくだらない映画だったと思う」
そういい終わるが早いか、ぎゃああ、と優子は叫び、恐ろしいものでも見るような目つきで後ずさりしながら逃げるように走っていった。
今日何が起こったのか、小松には理解できなかった。こんなおかしな出来事は夢にちがいない。夢であってほしい。「ヤバビバ!」なんて、観なければよかった。
優子が去った後、駅までとぼとぼ歩いた。とにかく疲れていた。早く家に帰りたかった。
今日はもう、これ以上考えるのはよそう。優子もあんなに取り乱していたんだ。彼女が自分で冷静さを取り戻すまで、そっとしておいたほうがいいだろう。しかしセキグチさんにしろ優子にしろ、あの映画を観た人は興奮状態に陥るようだ。危険な映画にちがいない。
駅で切符を購入していると、胸ポケットにあった携帯電話が振動した。セキグチさんだった。
「どうです、観ていただきましたか」
セキグチさんの口調は打って変わって落ち着いていた。小松はなにからいってやろうかと言葉を探した。
「あんなもの、映画にさえなってやしない」
「どうしてです?」
「ナンセンスです! くだらない洗脳映像ですよ」
「といいますと?」
「サブリミナル効果ですよ。セキグチさんも気づいたでしょう」
「ああ、あれはちょっとしたスパイスですよ」
セキグチさんの微笑んでいる顔が浮かんだ。そういう口調だった。
「何をいってるんですか」
「サブリミナルなんて非科学的で効果なんて大してない。だからあれはちょっとしたアクセントに使用されているだけなんです」
「ばかをいっちゃいけない。あんなものは許されない」
「小さいなあ、見方が。ほら、映画全体を大きくとらえてくださいよ。わかるでしょ? 今までの映画ではもういけないんだ」
確信めいたセキグチさんの低い声に、ひるんだ。
「小松さんも見たでしょう、たくさんの観客の涙を。みんなうっとりと夢中になっていたでしょう? 観客がひとつになれた。あんな映画はなかなかない。みんな待っていたんですよ、心を揺さぶるヤバビバのような存在を」
映画サークルのメンバーなのになんだこの薄っぺらな意見は。今度責任者に会ったらいってやる、セキグチさんはサークルから外したほうがいいと。
「あの映画には現代人が失ったものが多く含まれている。みんなそれを教えられたかったんですよ」
何をいっているんだろう。
「今日発売の『月刊シネマ』にも特集記事が載るそうですよ、またご覧になってみてください」
「……僕には興味ありません」
「それではすまされない」
「すまされないって、あなたね」
「小松さんはまったく、考えが偏っている」
意味がわからなかった。もう何も話したくなかった。小松は電話を一方的に切った。
それから数日間、小松は仕事場と自宅を規則正しく行き来した。申告後の細々とした処理に彼は救われた。優子と過ごした日々が遠いものになっていく。彼女から音沙汰はなかったし、小松から連絡をしたくても、なんと切り出せばいいのかわからなかった。
そんなある夜、風呂に入ってからテレビをつけた。テレビの前の小さな机にコンビニ弁当を広げる。箸を割り、カリカリ梅を挟んで口に入れようとした時、テレビのタレントが明るくいい放った。
「あなたのヤバビバ度チェーック!」
箸で挟んでいたカリカリ梅が床へ落ちた。
「チェック1 ヤバビバ語が使える。
チェック2 ヤバビバストラップを持っている。
チェック3……」
なんだ、これは。
画面に映る多くのタレントが、三本髭を描いている。かつらだろうか、ショッキングピンクのアフロヘアも多くいる。
「チェック7 『死ぬなんてぜーんぜん怖くない』か」
おおげさに手をあげるタレントたちが、目と歯を剥き出しにして笑っていた。
「リンコさん最下位です! 落ちこぼれですよ、ビバ!」
ビバ、ってなんだ? リンコと呼ばれる中年女性が恥ずかしそうに笑っている。死ぬのは怖いとでも答えたのだろうか。
テレビの電源を切った。持っていた箸を机に置き、気持ちを落ち着かせるためにビールを飲もうと思った。キッチンまで行き、ワンドアの小型冷蔵庫を開ける。開けたとたんにスイッチが切り替わったのか、冷却器のモーターが止まって音がやんだ。すると、どこからかかすかな音がするのに気がついた。
小さい音だが、ねじれた強風が路地を行き過ぎるような、ごう、という音だ。耳をそばだてて音のする方向を探ると、キッチン小窓の外から聞こえてきているのがわかった。風でも吹いているのだろうか。しかし窓の磨りガラスはかたりとも震えない。ただ小さい音が振動を伴って内臓に、ごう、と響いてくる。
小窓の錠を外した。掃除をしたことのない小窓がカタカタと引っ掛かりながら開く。顔を突き出したら網戸に鼻先がぶつかった。
しばらく耳を澄ませてみた。だんだんと耳の奥がこそばゆくなる。しかし、何も聞こえはしなかった。音の方向と思われた遠い山のあるほうに目をこらしても、ただ暗くて湿った夜があるだけだった。
新聞では連日、「ヤバビバ!」の動員数が記録を更新中だと書きたてられていた。テレビでは若い女性や子ども、小松と同年代のサラリーマンまでもが、カメラの前で感動したと涙を流して訴えた。映画のシーンをタレントが再現したり、若者たちがヤバビバファッションというものを確立したという話題がとりあげられたりした。
一番彼を驚かせたのは、彼の尊敬する映画監督が「ヤバビバ!」を手放しで大絶賛していたことだった。
――あの完璧な構成、見事なキャスティング、カメラワークといい選曲といい、今世紀最高の映画です。私などもう三十年映画を撮り続けているが、これまでの作品を束にしてかかっても、とてもじゃないが太刀打ちできない。ヤバビバが語るように、我々は今、心をひとつにしなければならない。そのことに気づかせてくれるんです。忘れてしまった、けれど忘れてはいけない大切なことが描かれている素晴らしい作品だ。ぜひ皆さんご家族ご友人をお誘いの上、映画館に足をお運びください。
自分の映画のときでも控えめな宣伝しかしない監督が、大々的に「ヤバビバ!」を売り込んでいた。いつもサングラスをかけているのに今回は外して、意識しているのかヤバビバのように目を見開き、歯を見せて笑っていた。
二週間後の休日、会いたいと優子から電話が入った。以前に行ったことのあるイタリアンレストランで会おうと彼女はいった。
レストランにいた優子は微笑んでいて、明るいトーンで天候について話し出した。まるで何事もなかったようだ。むしろ以前より彼に対して優しい気がする。彼女も冷静になったんだと、小松はほっとした。
二人が選んだパスタやサラダの大皿がテーブルに並んでいく。久しぶりの優子との食事は、とても楽しかった。
「評論のほうは、書けてるの?」
最近は機関誌をろくに手にもしなかった優子が、評論の心配をしてくれている。
「うん、今書いているのは好きなドキュメンタリー映画についてで……」
映画、と口にして、あの日のことを回想させてしまうのではないかと心配したが、優子はそんな素振りも見せず、頷いて小松の話を聞いている。そうして、小松が嬉しそうに話し続けているときだった。
「ぜひ書いて欲しいの」
「ん?」
「あの映画について」
最近見ることのなかった優子の美しい笑顔だった。店員がピザを運んできたので、二人の会話が止まる。テーブルの上は料理で一杯になっていた。それらを寄せ合ってピザを置いた。その時、テーブルの隅に置いていた優子の携帯電話が落ちた。
携帯電話には、ピンクの丸いストラップがついていた。よく見ると、ヤバビバの人形だった。
「私、あれからもう一度観に行ったのよ。あんなすごい映画を観たのは初めて。私、ヤバビバを観て変わったの」
確かに変わったのかもしれなかった。以前のように口をとんがらせてつまらなさそうにする表情を今日はしない。
「私、駄目になりかけてた。でももう大丈夫。ヤバビバに出会えたから」
「僕にはさっぱりわからない」
「もう一度観てみない? 付き合ってあげるから」
「遠慮しとくよ」
「あなたには観なければならない義務があるわ」
セキグチさんと同じ言葉だった。優子が歯を見せて笑っている。心なしか目も見開いているように見える。
「君は、フラッシュみたいに文字が点滅したのに気づいたり、気分が悪くなったりはしなかった?」
「フラッシュ? なに?」
「サブリミナル効果だよ。フラッシュで印象付けたいことを映し出す。マインドコントロールさ」
「やめなさいよ」
優子の目つきが一変し、声が低くなった。なぜか周囲を見渡してから、小さな声でこう続けた。
「そんなこと、あんまり人にいわないほうがいいわよ」
意味ありげに自分でいって自分で頷いている。会話が途絶えると、彼女の携帯電話が鳴った。着信メロディは、あの主題歌だった。
みんなー今こそーひとつになってー
選ばれた私たちーはー
ビバーハアン ヤアーバアビイバアー……
優子だけでなく、あの変な主題歌を着メロにする人をあちこちで目撃した。いくつものコマーシャルソングや、甲子園の入場曲にも採用されて、耳にしない日は一日としてなかった。
気がつけば歌だけでなく、街にはヤバビバがあふれていた。街の看板、電車の吊り革広告。それから、あちこちに半裸になって踊ることができるディスコができた。
町内を行きすぎる選挙宣伝カーは、
「かならずやってみせます! ビバッ!」
と繰り返し呼びかけ、総理大臣さえピンクのアフロをかぶってパフォーマンスに忙しかった。
中には、映画に出てきたわけではないのに流行っているものもあった。原色の食材をふんだんに使った「ヤバビーフード」、「ヤバビバ!」をイメージしたエッセンシャルオイルでマッサージをする「ヤバビゼーション」。それらはただヤバビバ「っぽい」だけだった。
学者たちはあの映画について、有史以来連綿と続く村社会の重要性、伝統的文化や民間信仰の必要性までもを教えられる映画だといった。小松には、人々の発言は映画からかけ離れているとしか思えなかった。数ヶ月すると、とうとうヤバビバと瓜二つの教祖が崇められる宗教まで出てくる始末だった。
職場のボスもヤバビバにはまり、毎朝全社員で拝む神棚の横に、大きなヤバビバのポスターを飾った。
「お客様は海の味! ビバ!」
朝礼で読み上げる社訓に加えられた言葉だった。最初のうちはみなぼそぼそと読み上げていたが、しばらくすれば腕を振り上げて絶叫する社員まで出てきた。
ヤバビバブームは、どのクライアント先にも広がっていた。小松は、ヤバビバを好きじゃないという人に、会ったためしがなかった。
映画サークルのメンバーから、次回の機関誌のページ割りについて連絡が回ってきたが、やはり心配していたように特集記事は「ヤバビバ!」だった。セキグチさんが強く勧めたのか、それとも他のメンバーもあの駄作を評価したのか。
版下作業日直前まで彼は行くかどうか迷った。長年、仲間としてやってきた人々と決裂したくはなかった。けれど、たとえ世の中に対してはあきらめられたとしても、同じ方向を向いて歩んできた仲間とだけは、きっちりと話し合っておく必要があると思った。
週末の夜、いつも集まる印刷会社に向かった。扉を開くと、セキグチさんが立っていた。
「待っていましたよ、小松さん」
セキグチさんは実に落ち着いていた。しかし小松はもう、セキグチさんとは話し合うつもりはなかったので、軽く会釈をすると中へと入っていった。
いつも作業をする部屋に近づいていくと、中から笑い声が聞こえた。
「こんばんは」
部屋に入ると、「おう、来たか」と誰かが声をかけてくれた。まだ作業は始まっていないらしく、四人ほどのメンバーが缶コーヒーを手に雑談をしていた。
小松はいつものように奥まで行って、ジャケットを脱いだりワイシャツを腕まくりしたり、カバンから原稿やフロッピーを取り出したりと準備をした。原稿は、あるドキュメンタリー映画監督の軌跡をまとめたものだった。
「ビバビバ!」
ふいに耳に聞こえてきた。誰かが、そういった。振り返ってメンバーたちの顔を見渡す。みんな腹を抱えて笑っていた。
「でさ、うちのかみさんもビバビバで」
そういいながら笑いすぎて涙を流している。
「ヤバビバだねえ」
「ビバだよビバ」
相槌を打ち合って、どっと笑っている。
盛り上がっていて切り出しにくくはあったが、小松は黙っていられなかった。
「みんなに聞きたいんだけど」
笑っていたメンバーたちが、一斉にこちらを向く。
「あんな、映画の、どこが、いいんだ?」
そう、一言ずつはっきりといってみた。
「小松!」
メンバーの一人が大声で名を呼んだ。みんなの目つきが一瞬にして冷ややかになる。
「恥ずかしいとは思わないのか」大学時代から一緒にやってきたメンバーだった。
「見損なったよ」かつて一緒におかしな八ミリ映画を作った友人が、今、怒りのせいか声を震わせている。
小松は、数歩前へ進んだ。
「ちょっと待ってよ、僕はみんなに聞きたいだけなんだ。教えてくれよ、あれが面白いというのか?」
必死にそう訴えたが、また別のメンバーが立ち上がり、それまで座っていたパイプ椅子を持ち上げた。小松は後ずさった。
「やめとけ!」
他のメンバーが制止しようとしたが、パイプ椅子は投げられ、小松のすぐ足許に音を立てて落下した。心臓がバクバク打ち出した。
「小松、観客はな、夢中になれたらそれでいいんだ」
学生時代、自主上映のビラ配りを共にし、お互いの下宿先を行き来しては映画論をいやというほど戦わせた仲間たちが、今は遠く思えた。小松は肩を落とした。しかたなく、先ほど脱いだジャケットを持ち、原稿をカバンに戻して出口に向かった。誰も止めてはくれなかった。玄関でセキグチさんとすれ違ったとき、「さよなら」と声をかけられたが、視線を落としたまま力なく外へと出た。
電車に乗り込むと乗客が多く、席はどこも空いていなかった。閉まった扉にもたれて、原稿の入ったカバンをタスキがけにした。何度か首を回すと音が鳴った。この原稿を仕上げるためにずっと睡眠不足だった。今までサークルを辞める日が来るなんて、考えたこともなかった。そう思うと涙がこみ上げた。上を向くと「ヤバビバ祭り」と書かれたビアガーデンの吊り革広告が揺れていたので、また下を向いた。
そばに立つ中年のサラリーマンの二人組が大声で話をしていた。二人組からは酒のにおいがした。聞こえてくる話題は「ヤバビバU」の上映が決まったという内容だった。
「興奮しますなあ」
「ほんとほんと」
「今度は何回観に行こうかなあ」
「そうはいっても、なかなかチケットが手に入りませんよ」
二人は、野球少年が試合観戦の話に夢中になっているように、目をきらきらとさせていた。二人とも笑い声が大きく、大きい図体で吊り革に両手でつかまって、体重をかけてぶらんぶらんと揺れている。隣の車両に移動しよう。小松はそう考えて歩き出した。そして連結部分の扉を開けようと手をかけたそのときだった。
ドン、という音が背後で聞こえた。振り返るとやせた男が床にうずくまっていて、さきほどのサラリーマンの一人がその男の前に立ちはだかっている。
「もっぺんいってみろや」
サラリーマンが、人が変わったような口調になっている。やせた男は倒れたまま、顔だけサラリーマンに向けている。
「……ヤバビバは、インチキだ」
小松は、はっとした。
「おまえ!」
サラリーマンがやせた男の腹を蹴り上げた。うめき声と共に、男はさっきよりも丸くなって転がる。小松は男に近づこうと引き返した。しかし他の乗客が彼らを囲み、進めなくなった。
――謝罪しなさいよ。
――電車から降ろせ。
周りから声がした。
「次で引きずりおろしてやるよ」
今はやくざ然となったサラリーマンが、やせた男の髪をつかんでそういった。到着を知らせるアナウンスの後、ブレーキ音が響いて扉が開いた。
――警察に突き出しなよ、不審者だって。
――突き出せ、突き出せ。
男は髪を引っ張られながら、足をもつれさせて転がるように薄暗い駅で降ろされた。降ろされる間際、男は乗客たちに向かって声をしぼり出した。
「どんな目にあったって私はいい続ける。いい続ける権利がある、たとえ何があっても……」
すると、サラリーマンが躊躇することなく男の顔にこぶしを振り落とし、水枕が床に落ちたような、鈍い音がした。
小松はいつもの駅で電車を降り、いくつもの人の靴を見ながら歩いていく。改札口を抜けて階段を降りる。時々目を強くつむっては開ける。目も身体も心も、疲れ果ててどんよりとしている。
街灯の光をいくつもやり過ごし、いつしか人気のない夜の歩道に出る。眺めていた人の靴たちは徐々にまばらになっていき、今は自分の靴が視界に入るだけだ。
どうしてこんなことになったのだろう。
深くため息をついた。さっきのやせた男は、あれからどうなったのか。そう考えると鼓動が早くなった。映画を評価する者とそうでない者。ただそれだけのことなのに。評価しなければあんなに敵意を向けられる。いつからこんなことになってしまったのだろう。
怖かった。本当にわからなかった。あんな映画の何がいいんだ? どうして人々は疑いもなくのめり込むんだ? そのわけを誰も教えてくれない。僕にはわからない。あのやせた男と同じようにインチキな映画だとしか思えない。僕がおかしい? どうして? 僕が悪い? どこが? どうして僕は、みんなが面白いと思うことが、面白いと思えないのだろう。
警察に突き出せ。誰かがあの男にいった。ヤバビバを批判する者には警察が動くとでもいうのか。もしもセキグチさんや優子が密告でもしていたら? 小松トキオという名前がブラックリストに載る? いつか僕も追われるのだろうか。いや、今だってどうだかわからない。
夜道を歩く小松の両膝が震える。つけられていないか気になって何度も振り返るが、誰もいないようだった。小松は家路を急いだ。
部屋に入って鍵をかける。緊張が解けて玄関に座り込んだ。やせた男の、殴られて歪んだ顔が脳裏から離れない。泣きたかった。大声を上げて泣けたらすっきりするだろう。しかし涙は出なかった。
風呂に入ろうと湯を張った。服を脱いで浴室に入ったが、そのとたん不安に押しつぶされそうになって、ろくに洗いもせずに出てしまった。食事は摂る気にならなかった。飲んで眠ってしまおう。冷蔵庫から冷えたビールを取り出して、すいた胃袋に流し込んだ。胃の痛みを我慢してまた次の一本を手にした。
いつもそうするようにベッドにもたれて座る。テレビは目の前にあるが、最近つけなくなっていた。
電車のやせた男の顔が何度もよみがえる。頭を振った。すると今度はメンバーの顔が一人、また一人と浮かんだ。もうすでに、懐かしくさえ感じた。最後に、優子の笑顔を思い出した。涙が出た。
うとうとしていたら、かすかな音が聞こえてきて目が覚めた。小さな地響きのような音だ。前にも聞いたことがある音だと思った。しかし前よりはっきりとしている。地響きが身体を小刻みに揺らした。食器棚に並べたグラスが、机の中の鉛筆が、歯ブラシ立ての歯ブラシが、微動してカチカチと音をたてている。
目を開けると、照明のかさが揺れていた。起きるべきか。以前この音がしたときはすぐにおさまった。小松は頭まで毛布を被って眠りなおすことにした。今日はもう疲れたんだ。意識が覚めると、また今日の断片が思い出される。
だが、地響きはいやでも耳に入ってきた。地響きには一定のリズムがあるようだった。ごう、のあと二秒の間があいてまた、ごう、という。しかもどこか遠くのほうからこちらに近づいてくるようで、徐々に大きくなっている。ごう……ごう……。それは途切れることがなかった。小松は毛布から目だけを出すと、ベッドから転がり落ちた時計を探す。手を伸ばしてそれを拾い、かすかな揺れの中、数字盤を凝視すると深夜三時を回ったところだった。
飲みすぎたためか喉が渇いた。水が飲みたかった。微動するベッドから足を下ろし立ち上がろうとしたら、ごううん、と急に大きく揺れた。そしてまた二秒あいてごううん、と来る。二秒の合間にバランスをとろうとしてもまた揺れがくるのでうまく歩けず、匍匐前進のような格好でキッチンに向かう。地震だったらこんなリズミカルなはずはない。キッチンに着くまでにもどんどん振動が大きくなっている。でも不気味なことに二秒間隔は変わらない。
流しで右へ左へと転がるマグカップをつかまえて、水道の蛇口を開けた。水は勢いよく出た。ごううん、という揺れのたびに、カップから水が踊り出す。やっと汲んだ水をしゃがみ込んで口にしながらようやく、こんなことをしてる場合じゃない、逃げ出さなければ、と考えた。
窓の外から人の声が聞こえた。きっと近所の人が逃げ出したんだ。一刻も早く僕も避難しなければ、と小松は考えたが、立ち上がっては振動でよろけた。
ごうううううううん。揺れはまた一段と大きくなった。そこにあったタオルかけのポールにしがみつくと、ネジごと取れて、ポールを握ったままひっくり返った。ごうううううん。音は部屋全体を持ち上げるかのように大きくなっている。と、その二秒間隔の空白部分に人の笑い声がかすかに聞こえた。笑っている? こんな時に? そう不思議に思っていたらまた笑い声がする。小松は床を這って再びキッチン小窓に近づいた。いったい窓の外はどうなっているんだ。どうして、誰が笑っているんだ? いったいこの揺れは何なんだ?
窓を開けて外を見ようとシンクの縁にしがみついて手を伸ばした。鍵を開けようとするが指が思うようにつまみを捉えられない。やっとつまんでも、重くて動かない。重い? そうだ確かに重い。窓全体に外から強い力がかかっている。何が? わからない。ただ鍵が重くて開かない!
得体の知れない巨大な生き物が、向こうから窓全体を圧迫しているように感じた。小松は力に任せて乱暴に鍵を引っ張る。何度か繰り返していると突然、窓全体が一気に外れ、大量の水がどっと押し寄せた。窓ガラスは目の前で粉々に砕け、小松は顔面でそれを受けた。一瞬の出来事だった。目が痛さを通り越して熱くて開かない。そのまま冷たい水がものすごい勢いで全身を打ち、小松をすっと持ち上げて、一気に遠いところまで押しやろうとする。とっさに、小松は手に当たったものにしがみついた。
小型冷蔵庫だった。目が開かないまま、とにかく夢中でしがみついた。冷蔵庫がゆっくりと倒れていく。あわてて側面に顔を押しつけ、四肢を巻きつけた。
目の前が真っ暗な小松の周りを、ごううう、という音が渦巻いた。どれくらいそうしていたのか。全身ずぶ濡れだった。なぜか潮のにおいがして、しょっぱかった。肩で息をしながら痛みをこらえ、そっと目を開けた。
部屋は室内プールのように水が満ちていた。床から天井までの半分くらいが水の中だ。ゴミ箱も体重計もテーブルも、ぷかぷかと水に浮かんでいた。見上げると、天井が手の届くところにあった。ぽっかりとあいたキッチン小窓から湧き出るように水が流れ込んでいる。ガラスで怪我をした顔面から血のにおいがするが、それどころじゃなかった。小松は愕然とした。この部屋は七階だ。洪水にしたっておかしい! これはどうなってるんだ?
と、割れた窓から突然何かがぬっと出て、小松はびっくりした。大人の足だった。水を吸ったグレーの靴下をはいている。するともう一本同じ大きさの足も出てきて、こちらは靴をはいていた。足の向こうから笑い声が聞こえる。まるでボーリングで連続スコアでも取ったような屈託ない笑い声だ。足がそろうと勢いのよい流しそうめんのように胴が出てきて顔が見えた。仰向けでも腹が出ているのがわかるほど肉づきのよい男だ。小松と同年代だが知らない男だった。流されていることが愉快なのか、丸い腹を抱えて笑っている。水は流れがあるようで、男は小松の目の前を通り過ぎ、ベッドのある部屋へと流れて行く。男の姿が見えなくなると、ベッドの部屋で激しくぶつかる音が響いた。首を伸ばして見てみると、男が壁に穴を空けて向こう側に流れていった。
……うそだろ。小松はつぶやいて向こう側をのぞき込む。まだ豆電球のついた部屋の壁に穴があいている。真っ黒な穴だ。どこにつながっているのか。水はごぼごぼと音を立てて穴に吸い込まれていく。その真っ黒な穴の中にごく小さな光が見えた。星のように光っている。まさか、あれは夜空か!
男を眺めているあいだにも、キッチンの窓から人が流れてきていた。今度は若い女性で、やはり笑っていた。濡れたためか化粧が溶け、目の回りが真っ黒になっている。「ビバってえー」といいながら、手をたたいて笑っている。その女の頭には、すね毛の濃い足がくっついて出てきた。すね毛の顔は髭だらけだった。髭だらけはシャアシャアと漏れるような声で笑った。その髭だらけの手にからまるように、今度はネグリジェ姿の中年の女がケケケと笑って、そしてまた中年女にひっついて、メガネを逆さにつけたサラリーマンが、そのサラリーマンにひっついて、人のよさそうな老婆が、老婆に青年がひっついて、みな笑いながら時々目と歯を剥き出した。窓から流れて来る人に切れ間はなかった。冷蔵庫にしがみついている小松の前を次々と過ぎ、そしてベッドのある部屋まで流されて行く。首を伸ばして向こうの部屋を見ていると、壁に体当たりして穴を作り、一人ずつ外へと消えていく。一人飛び出すと、二秒後に次の人が体当たりする。小松は目を疑った。壁は今、ウエハースのようにもろく、簡単に穴が開き、みるみるうちに夜空がよく見えるようになった。
外に出ていく人よりも流れ込む人の数が多いのか、壁の前で出て行くのを待つように人がどんどんたまって、部屋中に人がひしめいていた。時折、聞き覚えのある笑い声が耳に入ったが、余りにも人が多くて、その声が誰なのかを探すことは難しかった。
いつの間にか、波が起こっていた。最初はまったく気がつかなかったが、笑う人々の顔が時折白い波で隠れるほど、知らないうちに波は激しくなっていた。
天井まであと一メートルほどのところで、水かさは保たれているようにも思えた。もし水が増えればどうなるのかと考えると怖かったが、今、小松の冷蔵庫は笑う人々に包囲されていて、逃げようもなかった。穴はどんどん広がっているのに、二秒間隔で一人ずつ流れ出るのは変わらなかった。小松は指先がしびれてきた。足も滑る。これ以上しがみ続けるのは無理な気がした。でも、簡単に手を離すわけにもいかなかった。
穴の向こうに何があるのか。それを覗きこんでみようとした。見届けておきたかった。流れていった人々が、どこに向かっているのか。今、何が起こっているのか。
いつかの映画で観たような波が、小松のしがみつく冷蔵庫を揺らしている。
|