Tシャツの袖から入ってくる柔らかな風が肌に心地よい。洗濯物を干し終えると、加奈子はベランダに立ったまま手すりの方に向かって空を仰いだ。高く昇った陽が、たっぷりと朝寝をした目に眩しく感じる。そのまま軽く目を閉じて思いきり身体を伸ばした。明るい陽ざしが瞼を通して入り込んでくる。大きく息を吸い込むと、かすかに新緑の香りが鼻腔に広がるのを感じた。それをゆっくりと吐き出しながら目を開けたその時だった。強い陽ざしとともに加奈子の視界に飛び込んできたものがあった。
女の顔だ。それが加奈子の方を向いている。陽ざしを遮ろうと額に手をかざし、ようやく目が慣れたと思ったとたんその表情が崩れて口が大きく開くのがわかった。
「ごめんねー、こんなところから」
我にかえった加奈子の耳にその声は飛び込んできた。よく見ると女は鮮やかな水色のTシャツを着ている。それが背景の空の色にとけ込んで、顔だけがぽっかりと宙に浮かんでいるように見えたのだ。目の前の女の表情は人なつこそうにも見えるが、銀縁メガネの奥の眼差しまでを窺うことはできない。加奈子はとっさに言葉を返すことができなかった。
女は隣りのベランダの手すりから上体を斜めに外へ突きだし、仕切り板を越えて加奈子の部屋を覗き込むようにして顔をこちらに向けていた。危なっかしい体勢だ。身体を支えようと手すりを強く握りしめた女の指先が、ちょうどそこにかけてある芽を出したばかりの朝顔の鉢に触れている。その手の甲のあたりに耳をくっつけるような格好で女の顔はある。
「ちょっと待ってて」
そう言うと、答えられずにいる加奈子を残して女は慌ただしく足音をたてて姿を消した。ほどなく再び足音が聞こえたかと思うと、同じ場所に今度はぬっと腕が現れた。手にコンパクト洗剤を持っている。そのせいでバランスをとりにくいのか、先ほどよりも控えめに女の顔がその上に見えた。
「何度か伺ったんだけど、お留守で。お勤めなのね」
そう言われて加奈子は曖昧な笑顔を浮かべて小さく頷いた。
「これ、つまらないものだけどご挨拶に」
女は手に持っていた四角い洗剤の箱を持ち上げて上下にふってみせた。箱の角が朝顔の双葉に触れそうになる。加奈子は慌てて前に出ると、その手から洗剤の箱を受け取った。
「それじゃよろしくね」
声を残して女の顔がふいと視界から消えた。
「こちらこそ」
加奈子がようやくそう声に出した時、すでに隣からはサッシを閉める音が響いてきていた。
おずおずと首をのばして隣の方を覗いてみたが、手すりが見えるだけで女が戻ってくる気配もない。仕方なく加奈子は、渡された洗剤と空になった洗濯カゴを持つと部屋に入った。
ほんの短い間の出来事だった。食卓に置いた洗剤の箱には小さなのし紙が貼られている。加奈子は椅子をひいて、その前に座った。どうやら引っ越しの挨拶らしい。しばらくの間空室になっていた隣室に人が越してきたことには気付いていた。数日前の昼間に越してきたらしく、帰宅の際に通りがかるとすでに通路側の部屋に明かりが灯っていたのだ。
それにしても慌ただしい。加奈子は改めて先ほどの女の顔を思い出そうとしてみたが、朝顔の芽に触れそうだった指先と銀縁メガネが浮かんでくるだけで、肝心の顔は思い出せない。若そうでもあり、加奈子よりも少し上のようでもあった。
壁の時計を見ると、とうに一時を回っていた。日曜日はいつもこうだ。早めに目覚めても、テレビのスイッチを入れ、読みかけの本を開いたりして結局は昼頃まで布団の中でまどろんでしまう。起きなくてもいい。そうして過ごす時間を加奈子は気に入っていた。
それからようやく起き出してシャワーを浴び、遅い朝食をとる。洗濯にかかるのはその後なのだ。終えるとどうしても今頃の時間になってしまう。誰かに文句を言われることもない。しかし今日は、そんな遅い時間に洗濯物を干していたことを加奈子は少し恥ずかしく思った。
この部屋に越してきたのは七年前のことだ。以前住んでいたワンルームが手狭になったからだった。住人の入れ替わりの激しいこのマンションで、今まで加奈子はあまり近隣を意識することはなかった。
ふと隣室の方へ目をやってみる。この壁一枚を隔てた隣りの部屋にまったく別の生活があるのだ。共用部分とはいえ、ふいに自分の部屋のベランダに見知らぬ女の顔が現れたことに、加奈子は戸惑いを覚えた。
そう考え出すと、先ほどの女が加奈子にはひどく図々しく思えてきた。ベランダにいることに気がついたのなら、玄関のチャイムを押せばよいではないか。あんなふうに覗き込んでまで挨拶の品を渡すことなんかないのだ。加奈子はだんだん不快になり、目の前の洗剤を乱暴に棚の上にしまうとテレビのスイッチを入れた。
翌朝、いつものように六時に起きて朝食を済ませ、洗濯物を干しに加奈子はベランダへ出た。ふと気にかかって隣の方を窺ってみたが人の気配はしない。朝から隣りのサッシが開く音も聞こえなかったようだ。もっと遅い時間に洗濯を干すのかもしれない。加奈子は気を取り直して手早く洗濯物を竿に吊るした。
手すりにかけてある朝顔の双葉が昨日よりも少し大きくなっている。周りからじょうろでそっと水をやる。顔を近付けてみると双葉の間から新しい葉が小さくのぞいているのが見えた。
加奈子は朝顔が好きだった。家をあける時のことを考えてなるべく鉢植えは置かないようにしているが、毎年朝顔だけはひと鉢植える。蔓伸びせずに小振りな花を数多くつけるミニ朝顔という品種に決めていた。それは早生品種で芽を出すとぐんぐん大きくなり、ひと月もすれば花をつけはじめる。真夏のギラギラした陽ざしのもとで狂おしい程に次々と咲き続ける。そのくせ秋の気配を感じると急に諦めたように葉を枯らせはじめて結実する。その潔さを、加奈子は好きだった。多年草だとそうはいかない。少しずつ土に根付いて増えはじめる。そうなってくると植えかえもしてやらねばならない。同じ品種の鉢植えがベランダにいくつも並ぶ光景を加奈子は想像してみる。冬の寒さに耐えて加奈子の手によって少しずつ増えて花を咲かせるのだ。それはそれで愛おしいに違いない。しかし加奈子はそんなふうに必要以上にそれらに愛着を持ってしまうことが嫌だった。
朝顔の双葉にそっと手を触れてから部屋に戻ると出かける準備を始めた。
加奈子の職場は地下鉄を一度乗り換えて、ここから四十分程で着く距離にある。八時過ぎに出ても充分間に合うのだが、加奈子は七時半には家を出ることにしている。会社の近くの喫茶店で出社前にゆっくりとコーヒーを楽しむのが日課になっていた。
夜のうちにまとめておいたゴミの袋を片手に持って加奈子は部屋を出た。
鍵をかけ、隣りの部屋の前を通り過ぎようとした時、そのドアに白木のメッセージボードがぶら下がっているのに気がついた。確か昨日まではなかったはずだ。加奈子は立ち止まってそのボードに近付いてみた。両手の平ほどの大きさのボードにピンクの太い文字で名前が書かれている。丸文字で「尾崎透」と横書きされ、「透」の文字の下には「雅美」「留美」「絵美」と書かれていた。娘がいるらしい。加奈子は雅美という名前に昨日の女の顔を重ねようとしてみたが、やはりその顔をはっきりと思い出すことはできなかった。
加奈子の住むマンションは都市機構の古い賃貸住宅で、家族用の広い間取りの他に加奈子が借りている単身者用の狭い部屋もフロアごとにいくつかあった。隣室は家族用の広めの間取りの部屋だった。賃貸専用とあって人の入れ代わりはけっこう多い。春や秋の人事異動の時期になると決まって週末ごとに引っ越しのトラックが停まっているのを見かけた。家賃は高めに設定されているものの、抽選もなく保証人もいらない。借りるには手軽なのだ。管理は都市機構から委託された業者がこなすので自治会もない。横の関係はきわめて薄かった。
あらためて加奈子はそのボードを見た。表札をあげていない部屋が多い中で、ドアにかけられた派手な白木のボードはその場所にそぐわないように見えた。
再び歩きはじめようとした時、ノブをまわす音が聞こえて目の前のドアが開いた。慌てて後ろへ飛び退いた加奈子の前に昨日の女の顔が現れた。
「あら」
女の方も驚いたようすで、加奈子と同じようにゴミ袋を下げたまま立ち止まった。
「あの、昨日はありがとうございました」
そう声をかけると、女は持っていたゴミ袋を下に置いて丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、あんなところからごめんなさい。驚いたでしょう」
女はにこやかにそう答える。今日はメガネをかけていない。
「ゴミ、いっしょに出しておきましょうか」
加奈子が手を差し出すと、女は慌てて手をふった。
「とんでもない。下までいっしょに行きます」
そう言ってドアを閉めた。
「昨日はほんとにごめんなさいね。中学と高校の娘がいるもんだからバタバタしてて」
エレベーターに乗るとすぐにまた女は申しわけなさそうに言った。
加奈子は女の顔をあらためて正面から見た。軽くウェーブのかかった髪は明るい茶色に染められている。化粧をしていない肌にはまだ張りがあった。しかし笑った目もとに小さなしみがあるのを加奈子は見のがさなかった。やはり同じくらいの歳のようだ。加奈子は今年四十三歳になる。結婚していれば、加奈子に高校生の子どもがいても不思議はない。
「こちらこそ、ろくにお礼も言わないで」
そう答えて加奈子も頭を下げた。
ゴミ置き場にはすでにたくさんのゴミ袋が積み上げられていた。十階建て、合計三棟分のゴミの量に改めて圧倒される。これからまだ収集車が来るまでの間に、その量は何倍にもなるのだろう。積み上げられたゴミの山の横に女といっしょにゴミ袋を置いた。
「あ、私尾崎といいます。おざきまさみ、雅びで美しいと書くのよ。でもちっとも名前の通りにはならなかったけれどね」
女はそう言って小さく舌を出した。
「牧野です。よろしく」
軽く会釈をして加奈子が歩き出すと、背後から「いってらっしゃい」と大きな声が聞こえた。振り返ると女が手を高々とあげて加奈子の方を向いて立っていた。加奈子は小さく手をふってそれに応えた。
尾崎雅美、とフルネームで名乗った屈託のない女の表情に、昨日とは違って加奈子は好感を持った。
金曜日の夜、久しぶりに木田から電話があった。明日会いたいと言う。今週の土曜日は出勤日ではない。夕方から一緒に食事をとる約束をすると加奈子は携帯電話の電源を切った。
木田からの連絡は三週間ぶりだった。加奈子は冷凍室をあけて氷がまだ残っているかを確認した。木田はがっちりした体格で体温が高く、真冬でも氷のたっぷり入ったミネラルウォーターを欠かさない。大きなグラスでその冷たい水を何杯もうまそうに飲む。そのくせ木田はほとんど汗をかかなかった。うだるような暑い日でも、身体が上気して赤みを帯びるだけだ。触れると驚くほど熱い身体をしているのに皮膚の表面はさらりとした感触を残していた。
買い置きの氷はもう残り少なくなっていた。
壁の時計を見ると九時半を少しまわっている。マンションの敷地内にある酒屋を兼ねたスーパーは十時まで開いている。加奈子はTシャツの上からパーカーをはおると財布を持って部屋を出た。
木田との関係はもう三年続いている。加奈子が勤める会社が商品管理のためにパソコンを導入した際、その扱い方の講習に来たのが木田だった。商品といっても工業薬品だけを専門に扱う小さな会社である。その種類は多くはなかった。在庫と注文さえ間違えずに入力すればあとはパソコンの方が表にして計算してくれる。それまで手書きで計算し、何度も検算して表にしていた手間が省けた分、加奈子の仕事は楽になった。
簡単な操作を、木田は何度も丁寧に加奈子に教えてくれた。マニュアルと画面を交互に指さし、熱心に操作方法を教える木田の頬は少しずつ紅潮し、耳たぶは見事なほど赤く染まっていた。そのひたむきにも見える横顔に、加奈子は知らず知らずのうちに見入っていた。
それから一ヶ月程したころ、加奈子が出社前に行きつけの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、そこに木田が入ってきたのだ。店のドアにつけてあるベルの重い音で加奈子は入り口の方を見た。見覚えはあるものの、とっさに誰だったか思い出せなかったが、木田の方では加奈子をよく覚えていた。名刺を差し出されて、ようやく加奈子は木田を思い出した。
スーパーの店内にはまだけっこう客の姿がある。氷の置かれているショウケースの方へ目をやると、そこでは若いカップルがアイスクリームの棚を指さしながら話していた。閉店にはまだ少し間がある。加奈子は雑誌のコーナーへ行くと、目についた一冊を手にとった。
旬のレストラン情報、と書かれたページをぱらぱらとめくってみる。色とりどりに盛り付けられた料理の写真がところ狭しと印刷されている。そのうちのひとつに加奈子は見覚えがあるような気がした。やはりそうだ。そこには、初めて木田と一緒に食事をしたイタリアンレストランの名前があった。イカスミのパスタが絶品、と添え書きされている。
喫茶店で再会してから数日後、木田は加奈子の職場に電話をしてきた。パソコンが順調に機能しているかを業務的な口調で尋ね、そのあと加奈子を食事に誘った。この人はどんなふうにものを食べるのだろう。木田の顔を思い出しながら、ふとその時加奈子はそう思った。
美味しい店があるから、と木田が案内したのがそのレストランだった。見た目の悪さであまり気のすすまない加奈子に、木田はパソコンの操作を教えた時のような熱心さでイカスミのパスタを勧めた。もしかすると木田はこんな雑誌を見てその店を知ったのかもしれない。目の前の黒々としたパスタの写真は、その時の木田の表情を思い出させた。
先ほどのカップルはもうショウケースの前からいなくなっていた。加奈子は氷とミネラルウォーターのペットボトルを抱えるとレジに向かった。
待ち合わせ場所にしていた地下鉄のターミナルの改札には、すでに木田の姿があった。どこへ行こうか、と尋ねる木田に、加奈子は昨日のレストランの名前を言ってみた。特に食べたい物はない。昨日見た雑誌で思い出した木田の表情を、何となくまた見てみたい気がしたのだ。
あさりのクリームソースを加奈子は選んだが、木田はやはりイカスミのパスタを選んだ。加えてサラダとワインを注文し、メニューを置くと木田は話し始めた。話題は高校時代に所属していた野球部の話だった。早朝にランニングをこなし、放課後は暗くなるまで練習に明け暮れた思い出を、木田はおもしろいエピソードを差し挟んで加奈子に話す。それは以前にも聞いたことのある話だった。健康な男なのだ。だが加奈子は話の内容に興味はない。
運ばれてきたパスタを、木田は器用にフォークとスプーンで口元に運ぶ。気持ちのよい食べっぷりだ。その間も木田の話は途切れない。口を開くたびに覗く木田のきれいに並んだ歯がパスタと同じ色に染まっていく。加奈子は相づちを打ちながらそれを眺め続けた。
食事を終えると木田は加奈子の部屋に立ち寄った。それはもうふたりの間では半ば習慣になっていた。
木田がこの部屋へやって来たのは、初めて一緒に食事をした晩から半年あまりが過ぎた頃だった。師走に入って最初の寒波が訪れた週末のことで、小さな居酒屋で一緒に鍋をつついた。鍋料理で温まった身体に、ふたりともいつもより酔いが回っていたのかもしれない。店を出たとたん、容赦なくまとわりついてくる冷えた外気に、加奈子は思わず木田の方へ身体を寄せた。その時木田の手が加奈子の髪に触れ、肩を抱かれたのがわかった。そして木田はそのまま加奈子の部屋へやって来たのだ。
木田のセックスは初めての時と少しも変わらない。加奈子の隣りに横になると服の上から遠慮がちに乳房に手をのばし、それから被いかぶさるように加奈子の上にのしかかる。そして一枚ずつ加奈子の衣服を剥いでいくのだ。それに抗うことなく加奈子は身を任せている。すると耳もとから首、胸へと木田は舌を這わせていく。少しずつ身体を下にずらしていき、全身を舌で愛撫する。手を抜くこともなく丁寧に愛撫する木田を加奈子が見下ろすと、いつも耳のあたりが赤く染まって熱を帯びている。それは初めて加奈子の職場で熱心に操作を教えていた木田の表情と重なり、やがて皿に盛られた料理を平らげる木田の顔へと変わっていった。少しずつ自分が木田の中へ呑み込まれていくような感覚をおぼえ、身体の芯が熱く火照ってくる。恍惚とした意識の中で、加奈子は木田のその耳の輪郭から顎にかけてを人差し指でそっとなぞった。
愛撫を終えて木田のペニスが加奈子の中に入ると、加奈子は小さく声をあげた。木田の熱い額が頬にあたる。木田の吐く熱い息を耳たぶに受けて、もう一度加奈子は声をあげた。
その時、どっとかん高い声が響いたかと思うと、間もなくそれは囁き合うような声に変わった。
「賑やかだな」
身体の動きをとめて木田が言った。
声はどうやら隣室の壁越しに聞こえてくるようだ。尾崎雅美の部屋だ。こちらの声が聞こえたのだろうか。加奈子は首をまわして隣りに面した壁の方を見た。囁き合うような声に、時々笑い声が混じる。
「家族連れが越してきたのよ」
その声を聞いたのかどうか、木田は再び腰を動かしはじめた。
囁く声は途切れ途切れに加奈子の耳に入ってくる。あの声は雅美だろうか。ふたりの娘の声かもしれない。声を気にしながら壁の方を向いていると、やがて木田の動きが激しくなり、小さくうめくような声をもらして加奈子の上で果てた。
ゆっくりと加奈子の上から身体を剥がし、木田がベッドを抜け出してからほんの少しの間、加奈子はまどろんでいたようだ。グラスに氷がぶつかる涼やかな音が聞こえてくる。シャワーを浴びた木田がいつものようにミネラルウォーターを飲んでいるのだ。裸のままタオルケットにくるまって加奈子はその音を聞いた。
壁越しに聞こえていた声は、今は聞こえてこない。もしかすると、静かになった加奈子の部屋のようすに聞き耳をたてているのかもしれない。加奈子はベッドから這い出て、隣りに面した壁にそっと耳を当ててみた。
声は聞こえてこない。ふと加奈子は、今壁に押し当てている自分の耳が、壁を挟んで隣室の雅美の耳とぴったりと重なりあっているような錯覚にとらわれた。
「そろそろ帰るよ」
グラスを手にしたまま、木田が部屋に戻ってきた。
「何してるの」
壁にもたれかかって座り込んでいる加奈子を、木田は不思議そうに見た。
首にタオルをかけて加奈子の前に立った木田の皮膚の表面には、拭き残した水滴がはじかれて見事な球形を保って光っていた。
木田が加奈子の部屋に泊まることはない。どんなに遅くなっても、妻と小学生の息子のいる家に帰るのだ。
木田に妻子がいることは、二度目に会った時に木田自身から聞いた。加奈子はそれを聞いても驚かなかった。木田の身体が発しているのは管理された安定した健康さだった。バランスのよい食事を与えられ、清潔な環境ではぐくまれた伸びやかさが匂ってくる。そして同時にそれはどこか加奈子を安心させるものでもあった。
終電にはもう間に合わない。駅前で客待ちをするタクシーに木田は乗り込むのだろう。駅へ続く市道に出る砂利道を歩く木田の後ろ姿が、街灯に照らし出されて小さく見える。それを加奈子はベランダから見送った。
雨が近いのか肌に感じる外気は湿気を含んでいて生暖かい。雲におおわれた月の薄明かりを受けて、鉢植えの朝顔が二枚目の本葉をのぞかせていた。
雨はもう三日降り続いている。木田と会ってから二週間が過ぎていた。日曜の午後、出かける気も起きずに部屋の中からベランダ越しに見える暗い空を加奈子はぼんやりとながめていた。確か、冷凍しておいたカレーのパックが一つ残っていたはずだ。夕食はそれで済ませればいい。テレビのスイッチを入れ、ケーブルテレビの洋画のチャンネルに合わせてみると、以前見のがした映画がちょうど始まったところだった。クローゼットからクッションを持ち出してベッドの上に重ねて置く。これで簡単に特等席ができあがる。戸棚からスナック菓子の袋を持ち出すと加奈子はベッドの上に座り込んだ。
三十分もした頃、玄関のチャイムが鳴った。何かのセールスか宗教の勧誘かもしれない。日曜日にはよくあることだ。加奈子はチャイムを無視して画面に視線を戻した。するとしばらくして二度目のチャイムがなり、続いて「こんにちは、牧野さん」とくぐもった声がノックの音とともに聞こえてきた。仕方なく加奈子は立ち上がって玄関ののぞき窓から外を覗いた。
ドアの前に立っているのは、尾崎雅美だった。わきに何かを抱えている。それを見ようとした加奈子の目に、みるみる雅美の顔が近付いてきてレンズ越しに互いの目がぶつかりそうになった。慌てて加奈子はドアノブに手をのばした。
「あ、ごめんなさいね、お休みなのに」
加奈子がいることは雅美には分かっていたのだろう。ふいにドアが開いても驚いたようすはなかった。
「こんにちは」
加奈子はドアから半身だけを覗かせて答えた。
「昨日お荷物を預かったものだから、これ」
雅美は抱えていた箱を加奈子の前に差し出した。
「あ、すみません」
加奈子はドアを大きく開いて外に出た。
「夕べは牧野さん、遅かったようだから」
雅美はそう付け加えた。
デパートの包装紙に包まれた薄い長方形の箱を雅美の手から受け取ると、加奈子はそこに貼られている伝票の差出人の名前を確認した。中学の同級生からだった。四月にその同級生の父親が亡くなり、葬式に出席できなかった加奈子は香典だけを友人に託しておいた。満中陰の挨拶なのだろう。箱は軽い。加奈子は雅美に向かって丁寧に礼を言った。
「よかったら」
部屋に入ろうとする加奈子を雅美の声が追いかけた。
「よかったらこれからうちに来ませんか。お茶でも」
振り返ると雅美が笑顔をこちらに向けている。
休日はひとりでゆっくり過ごしたい。加奈子は思った。しかし、預かった荷物をわざわざ届けに来てくれたのにむげに断るのも申し訳ない気がする。
「じゃ、着替えてから」
そう答えた加奈子に、雅美は嬉しそうに頷いてみせた。
箱の中身はタオルのセットだった。思った通り満中陰と印刷されたのし紙が貼られていた。
着替えながら加奈子は「遅かったようだから」という雅美の言葉を思い出していた。夕べは北海道に住む大学時代の友人が五年ぶりに帰省したので、久々に会って遅くまで話し込んでいた。帰宅は深夜になった。雅美は加奈子の帰宅時間にまで気をつけているのだろうか。ふと加奈子は気が重くなった。マンションの通路はよく音が響く構造になっている。特に夜になると周りが静かな分、そこを歩く足音は気をつけていなくても聞こえてくる。たまたまその音に気がついたのか。そうでなければ何度か加奈子の部屋へ荷物を届けに来てくれたのかもしれない。出がけに玄関の郵便受けを開けてみると、隣室預けと書かれた不在票が底の方に入っていた。
チャイムを押すと雅美はすぐに出てきて加奈子を出迎えた。玄関を入るとすぐ左手はバスルームと洗面所になっていた。加奈子の部屋のバスルームと背中合わせの構造になっているのだ。そのまま案内されて奥へ行くと台所と広いダイニングがベランダまで続いている。雅美は椅子をひとつひいて加奈子を座らせた。背後からは雅美が湯を沸かす音が響いてくるだけで、家の中は静まりかえっている。どうやら他の家族は不在のようだった。
台所に続く雅美の家のダイニングは、ちょうど加奈子が寝室に使っている部屋と隣りあっていることになる。木田と会った日に聞こえてきた声はこの場所からだったのか。加奈子は自分の部屋に面した壁をあらためて見た。そこには素人が描いたらしい油彩の風景画が一枚飾られているだけだった。加奈子の寝室のクローゼットはこちら側の壁ではなく、バスルームの方に面している。壁一枚なら音は筒抜けなのだろう。あの日、木田と過ごした夜を加奈子は思いだしていた。
「コーヒーの方がお好きだったかしら」
紅茶のポットとケーキの皿をのせた盆を持って雅美が戻ってきた。
「娘はふたりで買い物に出かけてしまって。お休みの日にご迷惑だったんじゃないの」
ケーキを勧めながら雅美は言った。
「いえ、どうせテレビを見てただけですから」
皿にのっているのはチーズケーキだった。半年ほど前に開店した駅前のケーキ屋のもので、加奈子も何度か買ったことがある。
「よかったわ、お隣りがいい方で」
雅美はテーブルに両肘をついて、その手をあごの下あたりで組んで話し始めた。
「ここは静かでいいわね。前のマンションはお隣りがたくさん犬を飼ってらして、真夜中に鳴き声でよく起こされたのよ」
このマンションではペットの飼育は禁止されている。それでも時折エレベーターで犬を連れた人に出会うこともあったが、鳴き声に悩まされたことはない。というより、加奈子が他の部屋の音に関心がなかっただけなのかもしれない。
「ここに越してきたのは」
紅茶のカップに砂糖を入れてかき混ぜると、雅美はスプーンを置いてひとつ大きなため息をついた。
「下の娘が中学に入ってすぐにいじめにあいましてね。いろいろと学校の方とも掛け合ったんだけど」
一年辛抱させたがおさまらないので、転校させるためにここへ越してきたのだ、と雅美は担任とのやりとりを交えて話し続ける。
「夫が単身赴任中なもんだから、女ひとりじゃだめね」
「ご主人、単身赴任なんですか」
そういえば加奈子は隣りの主人らしき男の人を見かけたことはなかった。
「名古屋の方へね、そろそろ三年になるわ」
加奈子の問いに雅美はすぐにそう答えたが、話はまた娘のことに戻った。学校の対応やいじめた同級生の親への不満を繰り返し、話の合間に「でしょう」「そう思いません」と語尾を上げて加奈子の同意を求める。
テレビや新聞でいじめについて知ることはあっても、子どものいない加奈子にとってそれは実感の伴わないものだった。雅美は加奈子相手に熱心に話し続け、加奈子の耳にはそれがいつしか抑揚の乏しい歌のように聞こえてきた。
あくびを噛み殺して頷くふりをしながら、加奈子は自分の部屋に面した壁の方を横目で盗み見た。ベッドはこちら側の壁に寄せて置いている。反対側の壁の方へ移してみようか。しかしたかだか団地の六畳程度の広さの部屋だ。どちら側に置いていても加奈子の部屋の物音は聞こえてくるに違いない。加奈子は頭の中で自分のベッドの大きさをはかり、それをもう一つの部屋へ移動させてみた。しかしその部屋は寝室に使っている部屋よりもはるかに狭い。たちまちベッドはベランダをふさぐ格好でその部屋の面積のほとんどを占めてしまった。
やはりベッドを移すのは無理なようだ。加奈子は、自分の心地よい空間に穴をあけられたような奇妙な気分に陥った。
雅美の話はなおも続いている。話の断片を加奈子はつなぎ合わせてみた。前の学校でいじめにあったことは、こちらの学校では内緒にしているらしい。そうなると娘の母親同士の会話の中ではこういう話はできないのだろう。雅美にとっては加奈子は恰好の話し相手にちがいない。悩み事を打ち明ける深刻さというよりは、雅美の表情は嬉々としてさえ加奈子の眼に映った。
気がつくといつの間にかベランダから見える空はもう暮れ始めていた。帰るタイミングを失って肘をついていると、賑やかな足音とともに玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。
娘が帰って来たらしい。立ち上がりかけた加奈子を雅美は軽く手をあげて制し、会釈をすると玄関へ小走りに駆けていった。
雅美の声に混じって、娘たちの声も聞こえてくる。加奈子はカップとケーキの皿を重ねて脇へ片付けてから玄関の方へ行った。
加奈子の姿を見つけると途端に賑やかだったふたりの娘は口をつぐんだ。
「お隣りの牧野さんよ、ご挨拶しなさい」
姉らしい娘は髪を長く伸ばしている。戸惑ったような表情を浮かべて小さく頭を下げた。おっとりとした印象だった。そのとなりで立ったまま濡れた靴下を脱いでいた妹の方は少しぽっちゃりしていて活発そうだった。これがいじめにあっていたという女の子か。「こんにちは」と言ったその子の顔は驚くほど雅美に似ていた。
「おじゃましました」
挨拶をして出ようとする加奈子に、三人はそろって頭を下げた。
「また来てくださいね」
そう言う雅美の声が、部屋に戻ろうとする加奈子の背中を背後からとらえた。
朝から強い陽ざしが照りつけている。その陽ざしを受けて朝顔が濃い緑色の葉を豊かに繁らせている。その葉を押しのけるように産毛の生えた小さなつぼみがまっすぐに上を向いている。鉢の外に大きく張り出した葉の隙間から、加奈子はたっぷりと水を与えた。
七月も半ばにさしかかり、晴天の日が五日続いていた。気象情報ではまだ梅雨明けの声は聞かれない。しかしどうやらこのまま真夏をむかえそうな気配だった。
あれから雅美は加奈子の姿を見つけると親しげに話しかけてくるようになった。朝出かける時や休日に買い物に出る時、タイミングよく家から出てきて加奈子を呼び止めるのだ。ドアを開ける音や鍵を閉める音でそれをはかっているとしか思えなかった。
先週の土曜日もそうだった。夕方に仕事を終え、地下街でウィンドウショッピングを楽しんだ後に夕食の総菜を買って帰宅した。確か八時近くになっていた。部屋に入って荷物を置き、洗濯物を取り入れたところへ玄関のチャイムが鳴った。案の定、雅美だった。「おかえりなさい」と開口一番加奈子にそう声をかけると、親しげな笑顔を向けて、娘たちを塾に通わせ始めたことや他愛もない世間話をして帰っていった。
早朝だというのに、ベランダにさし込む陽ざしは容赦なく照りつけてくる。やはりこのまま梅雨明けするのかもしれない。晴れ渡った空を見上げてから加奈子は手すりに身を乗り出して下を見た。まだ人影もまばらだ。駅に向かう道とは反対側の方向へ加奈子は目をやった。そこには春先から建設中だったスーパーマーケットの幟がはためいている。
土曜日、雅美は帰り際に一枚のチラシを置いていった。この新しいスーパーの開店セールのもので、「新鮮なものが安かった」と加奈子にも行ってみるように勧めて帰ったのだ。
団地の裏側にもスーパーがある。古い住宅街に加えて加奈子の住む大型マンションを抱えるこの地域では、かなりの数の住人が生活していることになる。それを見込んでの新規参入なのだろう。加奈子は空になったじょうろを足元に置くと部屋に入った。
着替えてテーブルの前に腰掛けると、雑誌の下に雅美が残していったチラシが置いたままになっているのが目に入った。加奈子はそれを手に取ってみた。開店記念特別セール、と赤い大きな文字が真ん中にある。それをとり囲むように青果や精肉、鮮魚のたぐいの写真が、特徴のある字体の価格と共に一面に鮮やかに印刷されている。ざっと眺めた後、加奈子はそれを丸めてゴミ箱に放り込んだ。
この部屋に住み始めて七年になるが、加奈子はこのあたりの地理には疎かった。朝仕事に出かけると帰宅は夜になってしまう。夕食は帰りに外食で済ませるか、総菜を買ってきてここで食べるかのどちらかになる。かかりつけの歯科医院も美容院も会社の近くにある。日常の消耗品にしても乗換駅の地下街で事足りてしまうのだ。チラシは加奈子にとっては無用のものだった。
雅美は越してきてまだ三ヶ月足らずだというのに、すでにこのあたりの情報に精通しているのが会話の中から知れた。優秀な主婦なのだ。家族のために献立を考え、できるだけ安価で新鮮なものを手に入れてやりくりしているのだろう。
雅美にはいじめられた経験があるのかもしれない、ふと加奈子はそんな風に考えたりもした。加奈子にも同じように夫や子どもがいれば、雅美は好ましい隣人だったろう。しかし現実には加奈子はまったく違うペースで生活しているのだ。年齢が近くて隣同士。ただそれだけで雅美は無防備に加奈子に親近感を寄せられるようだった。
寝室に面した壁を通して、雅美の部屋から人の立ち動く気配が次第にはっきりと聞こえ始めた。このところ加奈子は普段より早く目覚めるようになっている。日の出が早くなったせいもあるが、雅美の部屋は七時頃から慌ただしい音がし始め、加奈子が出かける七時半頃になるとそれが一段落する。その時間に部屋を出ると、雅美がひょっこりドアから顔を出すことがあるのだ。そろそろ七時をまわる。加奈子はバッグを手に持って、そっと部屋の鍵を閉めた。
木田が連絡を寄越したのは、その日の夕方のことだった。仕事を終えてロッカールームで着替えた後、携帯電話が木田からのメールを受信していたことに気がついたのだ。明日の土曜日の都合を訊く内容だった。
加奈子は迷った。雅美はまた訪ねてくるのだろうか。翌日が日曜日で娘たちの学校が休みとあって余裕ができるのか、土曜日に雅美が訪ねてくる頻度は高い。居留守を使えばいいのかもしれない。しかし耳ざとい雅美のことだ。加奈子が木田を連れて部屋に入る音を聞き逃すとは思えない。メールの画面を見つめながら、加奈子は迷い続けた。
前に木田と会ってからそろそろ一ヶ月になる。明日会う機会を逃すと夏休みに入ってしまう。子煩悩な木田は、子どもの夏休み中、週末のほとんどを息子のために費やすのだ。去年息子をリトルリーグに入れてからは、週末ごとに練習試合につきあっているようだった。たまには食事だけで帰宅してもよいのだ。それとも会うのを見送ろうか。食事の後、別の場所で過ごしてみるのもいい。しかし加奈子は、自分の身体やベッドに木田が残していく感触を無性に懐かしいと思った。
加奈子は、待ち合わせ場所と時間を記した簡単なメールを返信した。
いつもどおり木田は約束の時間よりも早めに待ち合わせ場所に来ていた。寿司を肴に軽く飲んだ後、加奈子は木田とともにマンションへ戻ってきた。通路を歩きながら、この音を雅美が聞いているかと思うと加奈子は思わず忍び足になったが、木田の方はまったく気にせず通路に足音を響かせて歩いた。
部屋に入るとすぐに木田はテレビをつけた。寿司屋の店内で放映されていた野球中継の続きを見るためだ。氷水の入ったグラスを片手に木田は時々歓声を上げてテレビに見入っている。
試合は延長戦に入っていた。雅美がやって来る気配はない。加奈子はクーラーのスイッチを入れた。クーラーの冷気は好まないが、その音は少しは室内の気配を紛らわせてくれるだろう。サッシを開け放つと、テレビの音も木田の歓声もベランダの外気に乗って雅美の部屋へ届いてしまうだろう。しかしこんなことをしても、雅美はすでに加奈子が木田を伴って部屋に入ったことに気がついているのかもしれない。加奈子の部屋の気配にじっと耳を澄ませる雅美の姿を、加奈子は壁越しに見たような気がした。
加奈子の上にある木田の身体は熱い。手も、腿に触れる脚も熱を帯びて加奈子の身体を包み込む。先ほどまで口にしていた氷水のせいで、唇だけがまだ冷たい感触を残していた。丁寧な愛撫が変わらぬペースで繰り返される。木田が身体を動かすたびにベッドの軋む音が部屋の中に響いた。
木田の熱い額が、加奈子の頬を何度も押し上げる。加奈子は首を回して壁の方へ目をやった。まだ十一時にもなっていない。普段なら雅美たちの話し声やテレビの音が聞こえてくる時間だ。それが今日に限ってその物音は聞こえてこない。三人でどこかへ出かけてしまったのだろうか。明日からは夏休みだ。休みを利用して単身赴任だという夫の元へ出かけたのかもしれない。
木田の体温はますます高くなり、冷えた感触の残っていた唇も熱を帯びて加奈子の耳元を這っていた。しかし加奈子の身体には少しも木田の体温が移らず、先ほどの木田の冷えた唇の感触をところどころしみのように身体に残したまま萎えていく木田を受け止めていた。
帰っていく木田の姿をベランダから見送り、加奈子は雅美の部屋の方をそっと覗いてみた。街灯の下でうるさく鳴き続ける蝉の声が響き渡って隣りの気配ははかれない。明かりはついていないようだった。やはり留守にしているのだ。加奈子は少し安心して眠りについた。
木田と会った翌日の朝寝は心地よかった。夕べは奇妙に皮膚に残っていた冷ややかな感触も真夏の朝の暑い空気にさらされて消えている。早めに目覚めた加奈子はリモコンでテレビのスイッチを入れた。ニュースを読むアナウンサーの低い声が子守歌のように聞こえてくる。そのまま加奈子はまどろみはじめた。
木田の身体は重すぎず、身体から発せられる熱は体温の低い加奈子を柔らかく包んでくれる。木田が残していった体温は、加奈子の身体の表面からゆっくりと内側へ浸透し身体の芯に到達する。それを熾き火のように抱え込んだまままどろむ心地よさは、木田と身体を重ねている時よりもはるかに勝る。自分は木田を愛しているのだろうか。横になったまま膝を抱くような姿勢で、加奈子は再び眠りに落ちた。
目覚めるともう午後だった。起き出してトーストを焼き、コーヒーを淹れる。夏の陽は長い。のんびりと洗濯をすませると加奈子はベランダへ出た。洗い上がったパジャマを吊るしていると、強い陽ざしが剥きだしの腕をじりじりと灼く。ふと加奈子は、その陽ざしが時おり陰るのに気がついた。はっとして手すりから身を乗り出すと、雅美の家のベランダに布団が干してあるのが見えた。布団に掛けられたシーツが風に煽られてはためき、そのたびに斜めに差し込んでくる陽ざしを遮っている。やはり夕べ雅美は家に居たのだ。あの壁の向こうに確かに居たのだ。身体に残っていた心地よさが、たちまち褪せていくのを加奈子は感じた。そして雅美の存在が、柔らかく強靱な力で壁を押して加奈子の部屋の内側まで膨らんでくるように思えた。
その夜遅く雅美はやってきた。大きな梨を二つ胸に抱えていた。それは普段加奈子が立ち寄るような店で見かけるものよりもはるかに大きかった。中元に貰ったものだと言って加奈子の前に立つ雅美はいつもと変わらぬ親しげな表情を浮かべていた。
「まだ出始めだから美味しいかどうかわからないけど、お二つ」
雅美の手から、加奈子の左右の手にひとつずつ乗せられた梨はずっしりと重い。
「二つ」と雅美は確かにそう言った。ひとつだけだと少ないと思ったのだろうか。それとも夕べ加奈子の部屋に来ていた木田を勘定に入れたのだろうか。他意はないのかもしれない。しかし雅美が口にした「二つ」という言葉が、いやにくっきりと加奈子の耳に残った。
それ以来加奈子は帰宅の際、自分の部屋のある九階ではエレベーターを降りず、ひとつ下の階で降りて通路を横切ったところにある非常階段を使うようになった。これなら雅美の部屋の前を通らずに自分の部屋まで行ける。足音を忍ばせて通路を歩き、そっと鍵を開けて部屋に入った。帰宅したことを雅美に悟られたくない。仕事を終えて部屋に戻ったら自分だけの自由な時間を過ごしたい。ベッドに身体を横たえてビデオを楽しむことも、木田とこの部屋で過ごす時間も、その余韻をむさぼる心地よさも、加奈子ひとりだけのものだ。誰にもそれを邪魔されたくはない。この場所に親しい隣人などいらないのだ。
それでもベランダから漏れる明かりで加奈子の帰宅を知るのか、夜遅くでも雅美は訪ねてくる。そのたびに加奈子は、くつろいだ時間を中断して玄関まで出なければならなかった。億劫だった。あの日、雅美が荷物を届けにきた時、雅美の部屋に行かなければよかった。六月のあの雨の日のことが頭をよぎる。互いの部屋を行き来するような関係。雅美はそんなものを求めていたのだろうか。ますます気が重くなる。部屋の中に入られるのはどうしても嫌だった。
加奈子はドアを開けて雅美の姿を確認すると素早く隙間から外に出、後ろ手でドアを閉めた。しかしいざ雅美を目の前にしてみるとかすかな後ろめたさを感じ、つい笑顔を作ってしまう。雅美はそれを加奈子の好意と感じるのか、楽しそうに話に興じて帰る。本を参考に作ってみたという菓子を持参することもあれば、時には娘の進学について深刻な顔つきで加奈子に意見を求めてくることもあった。しかしその話題の何ひとつ、加奈子の興味を引くものはなかった。
居留守を使ってみたこともあった。しかし時間をおいて雅美はまたやって来た。注意を払っていても、壁ひとつ向こうにいる雅美には容易に加奈子の存在が知れるのだ。
マンションの一室というこの仕切られた空間は、周りのものを遮断し、独立して存在する場所だったはずだ。だが結局のところ生活音は漏れる。加奈子のようにひとり暮らしで大した物音をたてなくても、明かりもつければ水も使う。それは加奈子の生活習慣までをも知らしめるものかもしれなかった。そう考えだすと、加奈子はまるで身にまとっていた柔らかな毛布を、無遠慮に剥ぎ取られたような居心地の悪さを感じた。
朝顔の花が競い合うように咲き誇っている。それとは対照的に葉の方は水分を失って力なく垂れ下がっている。八月に入って暑さはピークを迎えていた。今日も暑くなるのだろう。まだ六時を過ぎたばかりなのに陽ざしが白く感じる。夏休みに入ってから、雅美の部屋では生活のリズムが崩れたようだった。加奈子が出かける頃になっても、以前のような慌ただしい物音はしなくなっていた。隣りのベランダの気配を窺ってみたが、やはりまだ眠っているようだった。
じょうろで朝顔に水を与える。乾いた鉢の土は待ちかまえていたようにみるみる水分を吸い込んでいった。そのようすをしばらく眺めてから、加奈子は注意深く物干し竿を外すと、それをそっと部屋の中へ運び入れた。洗濯物が出ていれば加奈子の在宅は知れる。仕事から戻って取り込めば、当然帰宅も知れてしまうのだ。
クローゼットの扉とカーテンレールを利用して竿を渡すと、そこに洗濯物を吊した。元々狭い加奈子の部屋がますます狭く見える。洗濯物から発散される水分で、部屋の湿度までが上がってくるような気がした。
逃れるように台所に行くと、食卓の上に赤いリボンで括られた小さな包みが並んでいるのが目に入った。マドレーヌにクッキー、チーズケーキ。どれも手作りの菓子だ。夏休みに入って時間の余裕ができたのか、来るたびに雅美は何かを持参するようになっていた。
それは単に雅美の好意に過ぎないのかもしれない。しかしそれに対して返すものが、加奈子には何もなかった。
袋の上からクッキーの端を指で押してみる。手つかずのままのそれは、すでに湿気を含んでいて柔らかく潰れた。袋の外に滲みだした油分が指先に膜のように貼りつく。ティッシュで丁寧に指先をぬぐってから、加奈子は菓子の袋をまとめてゴミ袋の中に押し込んだ。
仕事の帰りにデパートで遮光カーテンを買った。そしてその日から加奈子はサッシを閉めきって過ごすようになった。機密性の高いマンションの部屋は閉めきってしまうと息苦しくなる。例年にない記録を更新し続けるこの夏の厳しい暑さも加奈子の身体にはこたえた。しかしクーラーをつけると室外機の音がベランダに響く。仕方なく加奈子は扇風機で涼をとった。
そうしていてもやはり雅美はやって来た。ドアを開ける音や明かりは漏れなくても、加奈子が部屋に居る気配が壁を通して雅美の耳に伝わるのだ。しかしもう、再び加奈子がそれに応えてドアを開けることはなかった。
自分の気配はどこまで消せるものなのだろう。加奈子はテレビの音を消して画面だけを目で追うようになった。足音を忍ばせて部屋の中を移動し、音が響かないようにバスルームの床にタオルを敷きつめてシャワーを浴びた。それでも雅美は時折やって来てはチャイムを鳴らす。それを加奈子は息をひそめてやり過ごした。
テレビの画面に大きく開いた鮫の口が大写しになる。「ジョーズ」だった。何度も見た映画だ。加奈子はベッドに横たわってそれを眺めていた。テレビの音を消すようになってから、加奈子が見るものはほとんどが洋画か録画した海外ドラマだった。音がなくても字幕でストーリーは追える。臨場感には欠けるものの、ぼんやりと過ごすにはそれで充分だった。
遮光カーテンを買って二週間が経っていた。加奈子は次第に音のない生活に慣れてきていた。足音をたてずに部屋を歩くことも、水圧を落としてシャワーを浴びることも気にならなくなった。不思議な感覚だった。そうして自分の部屋の音を消してしまうと、逆に雅美の部屋の物音は一層はっきりと加奈子の耳に届く。食卓を囲んでいるだろう雅美たちの笑い声や流しの水の音、床を歩くスリッパの音までもが聞こえてくる。加奈子が帰宅するのはたいてい七時から八時の間になる。その頃ちょうど雅美の部屋では夕食をとっているようだった。それが済むとテレビの音に混じって雅美が洗い物をしているらしい水音が聞こえてくる。それから翌日の食事の下ごしらえをするのか、換気扇の通風口を伝って香ばしい匂いが漏れてくることもあった。
少し引きずるような癖のあるスリッパの音を間近に聞いて、はっと加奈子は目を覚ました。いつの間にかうとうとしていたようだ。映画はすでに終わったらしく、テレビの画面は天気予報を映し出している。十時前になっていた。
雅美だ。加奈子はすでに、雅美のスリッパの音を聞き分けられるようになっていた。それがリビングを移動し、玄関の開く音が聞こえる。時を置かず加奈子の部屋のチャイムが鳴った。ベッドの上で身体を固くして息をひそめていると、しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。二度、三度。その音はいつもより執拗だった。首から胸にかけて汗が伝って落ちる。やがて諦めたのか、再び雅美の部屋のドアが開きスリッパの音が近づいてくる。それが止まって、雅美が椅子に座る気配がはっきりとわかった。
私はここに居る。その時無意識のうちに加奈子はゆっくりとベッドの上に立ち上がっていた。上下に身体を揺らしてみる。ベッドの軋む音が部屋の中に響いた。雅美の耳に届いただろうか。加奈子は耳を澄ました。椅子が床をする音がかすかに聞こえる。もう一度大きく体を揺らしてみた。足裏にベッドスプリングの感触を感じる。
その時だった。加奈子はバランスを崩し、とっさに何かを掴もうと伸ばした手が、部屋に渡してある物干し竿に触れた。ベッドに倒れ込むのと竿が床に落ちるのと同時だった。大きな音が部屋中に響きわたった。しばらく呆気にとられて天井を眺めているうちに、加奈子は無性に可笑しくなった。腹の底から笑いが込み上げてくる。身体を二つ折りにして加奈子は思いきり笑った。そのたびにベッドの軋む音が響く。やがて大きくため息をついて、加奈子は大の字になった。隣りからは物音ひとつ漏れてこない。雅美は加奈子のすぐそばに座っているはずだった。
それは隣りあった部屋というよりは、雅美の部屋の壁の中に加奈子の空間が存在するようにさえ思えた。
木田からの連絡はない。家族との時間を過ごしているのだろう。それは加奈子にとっても好都合だった。相変わらず音を消した加奈子の生活は続いていた。雅美の部屋からは食卓を囲む賑やかな話し声が響いてきている。あれから一週間、雅美は一度もやって来なかった。
夕べ遅くのことだった。加奈子は雅美の部屋のドアが開く音を聞いた。身体を固くして聞き耳を立てていると、足音は加奈子の部屋の前で止まった。しかし玄関のチャイムは鳴らなかった。かさかさという小さな音がしたあと、再び足音が聞こえて雅美の部屋のドアが閉まる音が響いた。隣室が寝静まる頃合いを見計らって、加奈子はそっとドアを開けてみた。するとドアノブにはスーパーの手提げ袋がひっかけてあった。キュウリとトマトがひとつずつ入っている。それと一緒に「買いすぎたので食べてください」と書かれた紙片が添えられていた。
ドアノブにかけてあった野菜がなくなっていれば、加奈子が部屋に居たことは知れたはずだ。いや、雅美にはすでにわかっていたはずだった。しかし今日も雅美はやって来なかった。加奈子が居留守を使っていることがわかって諦めたのかもしれない。もしや、居留守を使う自分の話をしているのではないかと聞き耳をたててみたが、壁を通して聞こえるかすかな笑い声の中から言葉を拾うことはできなかった。
加奈子はベランダに出てみた。朝顔の鉢を覗き込んでみると、萎んだ花の根元に小さな青い実が膨らみはじめていた。隣りのベランダに雅美の部屋の明かりが漏れている。これでいい。加奈子は自分なりのやり方で雅美に応えたのだ。あれほどうるさかった蝉の声はもう聞こえてこない。夏休みも間もなく終わる。わずかに冷気を含んだ緩やかな風が首筋をなでる。加奈子は大きくため息をついた。
九月に入って最初の金曜日、木田から連絡があった。うっかりマナーモードにし忘れていた加奈子の携帯電話は、食卓の上で派手な着信音を部屋の中に響かせた。思わず加奈子は隣りの気配を窺ってみた。電話の音を聞きつけた雅美が、またやって来るかも知れないと思ったのだ。
しかし雅美はその夜もやって来なかった。
九階でエレベーターを降りるのは久しぶりだった。加奈子は木田を伴って通路にヒールの音を響かせて歩いた。雅美の部屋の前を通る。通路に面した雅美の部屋には明かりが灯り、中からは賑やかな話し声が外にまで聞こえている。
部屋の中で木田はグラスに入った氷の音を響かせ、加奈子はベランダに顔を覗かせた。九月に入って、陽が落ちてからの空気は少しずつ秋の気配を漂わせている。その外気を取り入れようと、加奈子は思いきってサッシを開け放った。
木田は少しも変わらない。熱を帯びた身体も、繰り返す愛撫も以前と同じだった。しかし加奈子はかすかな違和感を覚えていた。もう雅美の耳を気にする必要などない。音は壁を通して雅美の部屋に届けばいい。雅美に雅美の生活があるように、加奈子の自由な空間がここにあるのだ。それなのにいつしか静けさに慣れた加奈子の耳には、木田の吐く息の音が妙に大きく響いて聞こえ、それが次第に加奈子の中に侵入し支配してしまうような奇妙な感覚に襲われていた。加奈子は木田の熱い身体から逃れるように何度も身体をよじった。普段とは違う加奈子の態度に気付いたのか、木田はそのたびに身体の動きを止めて加奈子を見た。
「怒ってるのか」
シャワーを浴びて戻ってきた木田は加奈子に向かってそう訊いた。
別に怒っているわけではない。加奈子は黙って木田の紅潮した身体に目をやった。
「夏休みだったからな、会えなかったんだ」
夏の間会えなかったことに加奈子が腹を立てているのだと木田は解釈したらしい。
「仕方ないんだ」
なおも木田は繰り返す。その言葉に、加奈子は木田の向こう側にある家族の存在をはっきりと感じた。そしてそれが、木田の身体を突き破ってこちらに迫ってくるような錯覚を覚えた。
見上げると、力を失った木田のペニスが濡れた陰毛を絡ませて緩やかに下を向いているのが眼に入った。
木田が帰った後食卓を見ると、加奈子が買ったばかりの雑誌の上に木田が手にしていた飲みかけの氷水のグラスが置かれたままになっていた。グラスを持ち上げるとそこにはくっきりとグラスの痕が丸く濡れて残っていた。加奈子はそれを手でぬぐってみたが、水分を吸った雑誌の表紙は丸くグラスのかたちに盛り上がって消えない。加奈子は無性に木田が残していったその痕跡を不快に感じた。思い切って雑誌を取り上げると、そのままゴミ箱の中にそれを放り込んだ。
それからも雅美はやって来なかった。加奈子が再び雅美の部屋の前を通るようになってから出がけに二度ほど顔を合わせることがあったが、雅美は会釈するだけで話しかけてくることはなかった。
木田と会ってから十日が経っていた。仕事を終えてマンションに着くと、エレベーターの前に会社員らしい男が立っていた。加奈子が後ろに並ぶと、男は振り返って小さく頭を下げた。
「何階ですか」
エレベーターに乗り込むと、男は九階のボタンを押して後から乗ってきた加奈子の方を向いて尋ねた。
「あ、私も九階です」
見かけない顔だった。エレベーターで同じ階の人と乗り合わせることはある。しかし以前に乗り合わせたどの顔も、目の前に立っている男の顔とは重ならなかった。マンションは三棟がコの字形につながっていて、二基のエレベーターを三棟で共用している。そろそろ異動の季節だ。最近他の棟に越してきたのかもしれなかった。
九階に着くと男は開放ボタンを押して加奈子を先に降ろした。
加奈子が歩き出すと、すぐ後ろに男の足音が付いてくる。同じ棟らしい。部屋の前に着くと加奈子は鍵を取り出してドアの方に身体を寄せた。男がそのまま後ろを通り過ぎると思ったのだ。しかし男は加奈子のひとつ手前の部屋のドアの前で立ち止まった。雅美の部屋だ。
「やぁ、お隣りさんでしたか」
加奈子と目が合うと男は今度は丁寧に頭を下げた。
チャイムの音でドアが開き、そこから雅美の顔が覗いた。
「おかえりなさい」
そう言った雅美が加奈子に気付いてこちらを向いた。加奈子は慌てて頭を下げた。
「こんばんは、お久しぶりね」
そう言った雅美の顔は最初にベランダに現れた時のような笑顔だった。メガネの奥の眼の表情を窺うことはできない。
「先週赴任先から帰ってきましたのよ。急だったのでご挨拶できなくて」
外に出た雅美は男の隣りに並んで頭を下げた。
閉じられた雅美の部屋のドアからは、いつの間に取り払ってしまったのか、あの派手なコルクボードがなくなっていた。代わりにドア枠の左肩のあたりに大理石を模したアクリルの表札がかかっていた。名字だけを黒い明朝体で刻んだ表札はおとなしくそこに馴染んで見えた。
雅美が話しかけてこなかったのは、夫が単身赴任から戻ってきたからだったのか。先日からの顔を合わせた時の雅美の慌ただしいようすを加奈子は思いだしていた。雅美が初めてベランダに顔を覗かせてから四ヶ月が経っていた。いつの間にか雅美は、七年もここに住む自分よりもはるかに深くこの場所に、ひとりの生活者として根を下ろしているように加奈子には思えた。
九月の末をむかえて、ベランダの朝顔が葉を枯らしはじめている。しかしいつもの年とは違って朝顔はわき芽を伸ばしはじめていた。加奈子が植えている朝顔は蔓を伸ばさない品種のはずだ。短い茎に折り重なるように葉を繁らせてその中心に競い合うように何輪も花をつける。そして夜の気温が下がりはじめると根元の葉から順番に枯らしはじめる。ここ数日の涼しさで下の葉は黄色く変色しはじめていた。それなのにその根元から新しいわき芽が伸びてきているのだ。それは萎れかけた本葉とは対照的に青々としていた。
数日後、わき芽はまた伸びていた。それはわき芽というよりも蔓だった。日に数センチは伸びている。驚くほどの勢いでわき芽は伸び続けているのだ。ふつうの朝顔のように巻き付きはしないものの、その一方は手すりの上を這い、もう一方はまっすぐ上に伸びていた。
考えてみると加奈子には思い当たることがあった。いつもなら春先に園芸店でミニ朝顔の種を買ってきてそれを植える。しかし今年はちょうどその頃、週末ごとに雨が降ったので園芸店には行かずに前の年に加奈子のベランダで収穫した種を植えたのだ。一代を経て朝顔は原種にかえりはじめたのかもしれない。
潔く枯れてしまうはずのものが、根元を枯らしながら新しく蔓を伸ばしている。どこまで伸び続けるのか。その蔓は、枯れていく自身の養分を吸い上げてしたたかに生き延びているようだった。
その週末、木田が連絡を寄越した。
待ち合わせ場所に現れた木田は、何だか落ち着かないように加奈子には見えた。食事をしている時も何かと加奈子を気遣い、頬を上気させている。初めて会った時の木田を加奈子は思いだしていたが、その熱心な表情とは少し違う気がした。
加奈子の部屋に入ると、木田はいきなり加奈子を後ろから抱きしめた。そして耳元で囁いた。
「いいものがあるんだ」
加奈子をベッドに座らせると、木田は鞄からビデオテープを持ち出してデッキにセットした。リモコンで再生ボタンを押すとテープが回り始めて、青い画面が現れた。どうやらアダルトビデオらしい。
「たまにはこういうのもいいだろ」
加奈子には、そう言った木田の顔が奇妙にゆがんで見えた。
木田の手が加奈子の身体に伸びてきてボタンをはずしていく。画面には高校生らしい女の子が制服を着てベッドの上に座っていた。そこにマイクが伸びてきて男の声が聞こえてくる。
「いくつ? こういうことは初めてなのかな」
インタビューの形をとっているようだ。女の子は時折うつむいて笑顔を作ってそれに答えている。やがて声の主である男が画面に現れた。すでに何も身につけていなかった。その身体は、日焼けサロンででも灼いたらしく水着の痕もなく全身が均等に小麦色に灼けていた。はじめから全裸である姿を意識してそうしたものなのだろう。それはひどく人工的で隙がないように見えた。男は何か耳元で囁きながら女の子の服を一枚ずつ脱がせていった。
木田の身体はすでに熱を帯びて加奈子の上にのしかかっている。時折顔を上げて画面を見ているのか、そのたびに木田は動きを止めた。木田の舌が加奈子の身体を這い続ける。いつもと同じ速度で、いつもと同じ工程で丁寧に繰り返される。すぐ目の下に愛おしいはずの木田の赤く染まった耳があった。しかし木田の体温が上がれば上がるほど、加奈子の身体は冷えていくようだった。
自分は木田の何に惹かれていたのだろう。繰り返される愛撫、木田の身体の重み。それらは、自分が這い出たままのかたちと体温の残った布団に戻るような心地よさだったはずだ。そして加奈子にはそれで充分だったのだ。木田は自分に何を求めているのだろう。
木田が加奈子の肩のあたりに顔をうずめた時、加奈子はもう一度首を回して画面の方へ目をやった。服を脱がされた女の子は大きく股を広げられ、その上に男が顔をうずめている。下着もすべて脱がされているのに、女の子の首には制服の赤いリボンだけが残されてぶら下がっていた。
やがて画面が変わって男の背中がアップになった。カメラは女の子に覆い被さる男の背中をなぞるように下に降りていく。女の子の脚を押し広げるように男が膝を開くと、男の灼けた尻の肉が画面いっぱいに広がった。その左右に大きく開いた男の尻の肉の間に、わずかに灼き残した白い皮膚が露わになるのが加奈子の眼に入った。画面の中の男の身体の動きに合わせてその白い部分が、まるで小さな生き物のように画面の中央で縮んだり広がったりを繰り返している。
木田の動きが少しずつ激しくなってくる。加奈子は木田の背中に回した手の指先に力がこもるのを感じながらふとその場所に、得体の知れぬ小さなものが息づいているように思えた。
木田が帰ると、加奈子はベランダへ出た。朝顔の根元の葉はもうほとんどすべて黄色く色を変えている。その間から伸びた蔓は前の日よりもさらに伸びていた。上に伸びていた片方の蔓は頼りなく外側に向かって揺れ、もう片方は仕切り板を越えて雅美の部屋のベランダの手すりにまで届いている。その蔓の先には産毛を生やした小さなつぼみが顔をのぞかせていた。
部屋に戻った加奈子は、冷凍室を開けて買い置きの氷の袋を取り出した。その封を開けて、加奈子は氷を流しに向かってひとつずつ放り投げはじめた。氷はステンレスの流しに当たって大きな音を台所に響かせる。加奈子はそれを何度も繰り返した。雅美はもう眠っているのだろう。隣りからは何も聞こえてこない。響き渡る氷の砕ける音は部屋の壁に跳ね返っては消え、加奈子の四角い部屋の空間をくっきりと浮かび上がらせた。
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