支店長
目覚めた瞬間から違和感があった。一瞬ここはどこなんだろうと思った。
毎朝七時に枕元の目覚し時計がなる。体をよじってそれを消す。しばらくは布団の上でぐずぐずしてからおもむろに体を起こし、さあ今日も一日が始まるぞとばかりにぱんぱんとてのひらで顔を叩く。
いつもはこんな感じだった。しかし今朝は違った。目覚まし時計が枕元ではなくてどこか違う場所で鳴っているのだ。
幸雄は慌てた。鳴っている場所がわからない。足の方で鳴っているようにも思えるし、天井から鳴っているようにも聞こえる。ベッドから降りてみても分からない。音はだんだんと大きくなっていく。
「おーい、おーい」
幸雄はとっさにゆきえを呼んだ。
「おーい、目覚まし時計を止めてくれ。どこで鳴ってるのか分からないんだ。おーい、ゆきえ、来てくれ」
すぐに階下からゆきえがやってきた。寝室へ入ると迷うことなく南向きの出窓へ向かい、その上に置かれてある目覚まし時計に触れてまたすぐに部屋を出て行った。無言だった。
部屋が静かになりひと息ついたので幸雄は着替えようとした。しかしここでもまた慌てることになってしまった。いつもならベッドの隣のクローゼットに吊るされてあるワイシャツとネクタイがその場所にないのだ。用意しているのはゆきえだった。幸雄は毎晩帰りが遅く、帰宅後は食事と風呂以外ほとんど何もしなかった。クローゼットを開けることもしないし、冷蔵庫を開けることもない。台所にも立たないし洗濯物を洗濯機に入れることすらしない。もともと仕事人間だったのが三年前に支店長に昇格してこの家へ引越してきてからはよけいに何もしなくなった。家の中のことはすべてゆきえに任せっきりなのでどこに何があるのか全く分からない。
幸雄はまたゆきえを呼んだ。
「おーい、ゆきえ。シャツがないぞ。シャツとネクタイを出してくれ。おーい、ゆきえ、来てくれ」
今度は荒々しい足音を立ててゆきえは寝室へ飛び込んできた。そしていつもとは反対側のクローゼットに吊るされてあるシャツとネクタイをハンガーごと手にとってそれをベッドの上へ放り投げると、また勢いよく部屋を飛び出していった。相変わらず無言だった。
「ゆきえ、頼むからいつもの場所を変えないでくれよ。パニックになるんだ」
キッチンでは一番にそう伝えた。
「家の中ではなるべく普段と違うことをしないでほしいんだ。混乱するんだ」
幸雄は一週間前にも同じことを言っている。その時ゆきえは、「あらそうなの、分かったわ」と返事をした。ところがなにも分かっていなかった。
今日も日中は三十七度を越えるらしい。ネクタイをするしないかで暑さもだいぶ変わってくるが、支店長という立場上ノーネクタイというわけにはいかなかった。上着も必要だった。今月は月の半分以上が出張で、それも大半が日帰りだからつらい。
幸雄に食欲はなかった。バナナ一本が精一杯だった。オレンジジュースを飲んでおこうと冷蔵庫を開ける。果汁百パーセントの紙パックは十分に冷えていたがさらに氷が欲しかった。三段になっている冷蔵庫の一番下が冷凍室だ。
幸雄はごく自然に冷凍室のドアを開けた。
「あれ、なんだこれ。キャベツじゃないか」
幸雄の目に飛び込んできたのはキャベツだった。透明のビニール袋に入った丸ごとのキャベツ。となりはレタスだった。ねぎもあった。ピーマンもあった。もやしにしめじ。ブロッコリー。
ここは野菜室だ。
「おい、ゆきえ。氷はどこへいったんだ。氷だ。氷、氷、氷」
そう言って幸雄がゆきえの方を振り向くと、ゆきえは横を向いたまま右手に持った箸で冷蔵庫の真ん中あたりを指した。
氷はたしかに冷蔵庫の真ん中の引き出しにあった。冷凍室が一番下から真ん中へ変わっていたのだが、そのなぞはすぐに解けた。この前の日曜日に冷蔵庫を買い替えていたのだ。色も形もほとんど同じものを買ったためについ今までの習慣で一番下を開けてしまった。それでも幸雄はほっとしていた。もう少しでまた「普段と違うことをしないでくれよ」とゆきえに文句をいうところだった。
玄関に腰を下ろしたところで思い出したことがあった。今日はゆきえの高校時代の同窓会だ。みんなで昼食をとったあと、仲の良かった数人を家へ呼んでゆっくりおしゃべりするのだと言っていた。だから夕飯は外で済ませてほしいということだった。もう一度そのことを確認しておこうと思って振り返ると、すでにキッチンのドアは閉められていた。電気も消されていて薄暗くなっている。
「おい、ゆきえ。今日は同窓会だったな。夜は外で済ませてくるぞ。おい、ゆきえ、聞いてるのか。外で食べてきていいんだな。おい、おい」
失恋
ちぇっ全然眠くならないじゃないか。いい加減にしろよ、橋本の野郎。おまえのせいで俺は今めちゃくちゃになってるんだぞ。分かってるのか。全部おまえのせいなんだぞ。おまえさえ現れなかったらうまくいってたんだ。何も問題は起きなかったんだ。そりゃおまえは確かにギターがうまいよ。おれなんかよりずっとうまい。作曲の才能もある。しかしなあ、そんなことぐらいで簡単に由美がおまえに乗り換えたなんて信じられないんだ。俺達は二年付き合ってたんだ。バンドを組んだ時からの付き合いだ。メンバー集めから始めて今じゃアマチュアコンテストで最終審査まで残れるようになった。そこそこ名前も知られるようになってきたよ。みんな俺と由美が築き上げてきたんだ。由美のボーカルと俺のギターが築き上げてきたんだ。毎日が楽しかったぜ。どこでライブをやっても楽しかった。それで遅ればせながらCDを作ろうということになったんだ。まあそれくらいは簡単にできると思っていた。実際のところ簡単に出来た。あっというまに三千枚ぐらい売れて有頂天になった。ところが落とし穴があった。CDの製作途中でどこからともなくおまえが現れたんだ。あんたたちのライブはよく見てるよ、なかなかいいじゃないかって声をかけてきた。俺もギターをやってるんだ、良かったら聞いてくれないかなってね。それがまたうまかった。センスあるなあってほめたらおまえはこの曲のイントロはこうだ、この曲のソロはこんな感じだってずかずかと俺達の中へ入り込んできた。たしかにおまえのギターは魅力的だったよ。けれど所詮おまえはよそ者だ。俺は最初から嫌な感じがしてたんだ。あつかましくてずうずうしい奴だと思ってた。でも他のメンバーは違った。演奏が良くなるんだったらいいじゃないかとおまえをすぐに受け入れた。何曲かソロでサポートに入ってもらいましょうよと言ったのは由美だ。全く余計なことを言ったもんだ。ベースとドラムのふたりはもともとサポートメンバーとして入ってきたからあまり自己主張しない。この時も適当にうなずいていた。問題は俺だった。俺がOKしなかったら話は前へ進まないんだ。少し迷ったけど、まあ様子を見ようじゃないかということで八曲中二曲だけおまえのギターソロを入れることにした。ところがどうだ。CDが出来上がってみたら憎たらしいことにおまえのギターがやけに評判いいじゃないか。仕方ないからライブにも加えてやったらますますおまえの評判が良くなった。正式なメンバーに入ってもらったらどうかしらと由美が言い出した。驚いたなあ全く。余計なことを言わなくてもいいのにと思ったが仕方がない。俺は由美にほれていた。由美の言うことは何でも受け入れたかった。由美……由美……。おい、おまえ、ひょっとしてもう由美と寝たんじゃないだろうな。まさかな。由美……由美……。今すぐ体が欲しい。由美の体が欲しい。俺の由美だ。俺だけの由美だ。由美の体、体、体、体。ああ触りたい。由美……由美……。見た目はきゃしゃだけど胸は十分にある。乳首にちょっと触れただけでも体をよじって大きな声を出す。いい声だ。ほんとにいい声だ。それみろ興奮してきたじゃないか。こうなったらもうオナニーをするしかない。俺のこの右手を由美の手だと思って触ってやろう。そうだ、この手は由美の手だ。由美が触っているんだ。由美……由美……由美……。……おっと、もう終わってしまった。おかしいじゃないか。俺はいつから早漏になったんだ。そういえばここしばらくは断られていた。気分が乗らないと言ったり体調が悪いと言ったり。その間に由美は変わってしまったんだ。どんどんおまえに傾いていった。ちくしょう。ちくしょう。橋本の野郎。おまえさえ現れなかったら俺と由美はずっと一緒にいられたんだ。バンドも楽しくやっていけた。おまえさえいなかったら……、おまえさえいなかったら……。よし、おまえを消そう。邪魔だ。おまえがいなくなればすべてが元通りになる。由美ともまたうまくやっていける。由美のことで話があると誘ってやるから来いよ。岸壁だ。真下に海を見ながらおまえにギターを弾かせる。おだてたらその気になって何曲でも弾くよな。そして隙を見てひと突きすればいい。ギターもろとも海の中だ。ちくしょう、ちくしょう。どうして俺はこんなことを考えてるんだ。とんでもない夜だ。おまえからすぐに会いたいと電話がかかってきたのはどしゃぶりの夜だった。ふたりだけで話がしたいからといつも練習に使っている貸スタジオを指定してきた。とうとうきたかと思ったぜ。近いうちに告白されるだろうとは思っていたが、いざその時が来るとやっぱり動揺するもんだな。俺はパニックになった。どうやってスタジオまで行ったのか分からないし、おまえを待っている間に何をしていたのかも思い出せないんだ。おまえはかなり遅れてやってきた。勢いよくドアをあけて入ってくるなり背負っていたギターで一曲弾いた。そうかいそうかい、由美の詞におまえがメロディーをつけたんだ。そんなことだろうと思ったぜ。それからおまえは改めて俺の前に座り直して一気にしゃべった。悪いけどバンドを俺に譲ってくれないか。プロを目指したいんだ。いけると思うんだ。ドラムもベースもしっかりしてるし由美のボーカルもたいしたもんだ。声量があって音域も広い。ちょっとかすれているところなんかが最高だ。まともにロックを歌える女の子ってなかなかいないんだよ。探してたんだ。そこでだ。そこでまあ、ちょっとこれは言いにくいことなんだが、この際おまえに遠慮してもらいたいんだ。ギターはふたりいらない。俺ひとりで十分だ。ここまでバンドをまとめてきたのはおまえの力だと思う。たいしたもんだよ、よくやったよ。しかしなあ、さらにパワーアップしてプロを目指そうと思ったらやっぱり何かが足りない。分かるか。テクニックじゃなくてパフォーマンスだ。ビジュアルも考えて、もっとバラードも入れて、もっとMCも入れてな。俺はこのバンドで自分の力をためしたいんだ。自信はある。俺はやるぜ。悪いけどそういうことだからおまえにはこの際身を引いてもらいたい。バンド名も変えるつもりだ。他のメンバーにはもう話はしてある。みんなその気になってくれた。それと、新しくキーボードが入るんだ。そいつもプロ志向のテクニシャンだ。これで役者は揃ったって訳だ。由美のボーカルを全面に押し出して硬派のロックを目指す。いいだろう、最高だろう。……おまえを海へ突き落とそうと思ったら逆に俺の方がまっ逆さまに突き落とされてしまった。あのあとのことは全く思い出せない。気がついたらこの部屋に戻っていて夜になった。由美と別れたくない。でも別れなければならない。別れたくない。別れなければならない。その繰り返しからのがれられなくなってしまった。由美、こっちへ来い。あいつのところへなんか行くな。こっちへ戻って来るんだ。由美……由美……。よし、もう一度オナニーをしてやる。それが由美へのメッセージだ。力いっぱい俺のものを握り締めてやる。俺は諦めないぞ。ちくしょう。新しいバンドなんて応援できるもんか。おい早く勃起するんだ。由美、こっちを向いてくれ。もう一度オナニーをさせてくれ。由美。
シンポジウム
起き抜けのベッドに腰かけた時からそれは始まった。
「今日はシンポジウムだ」
龍三はつぶやく。
「今日はシンポジウムだ、よし」
ゆっくりと立ち上がって台所へ向かった。そして朝食の準備をしている良子に告げた。
「今日はシンポジウムだ」
「はい、分かりました」
「いつものテーマだから適当にしゃべってくる」
「はい、それはお疲れさまです」
良子も慣れたものだった。龍三が朝からシンポジウムを言い出したときは要注意なのだ。普段は外出を促しても渋るばかりなのにシンポジウムだけは例外で、それを口にした途端に外へ出ようとする。十年前に七十歳で大学を退官してからは家で読書中心ののんびりとした生活を送っていたのだが、最近様子が変わってきた。地方行政の専門家として積極的に発言していた頃のことをなつかしむようになった。自分が出演したテレビのビデオテープを一日中見ていたり、付き合いのあった人たちへ長電話をしたり。そしてある朝、シンポジウムだと言って一人で出かけたきり夜になっても戻らず、二十キロほど離れた場所で保護されるということが起こった。本人の説明ではシンポジウムに参加したあと関係者に誘われて少し酒を飲んで帰り道が分からなくなったということだったが、もちろんそのようなことはなかった。このとき良子は覚悟した。この先シンポジウムが要注意であることを。
「間に合わないから急いでくれ」
龍三はねまきのままネクタイを首にかけていた。結び目を作ろうとするがうまくいかなくて良子の前へやってくる。
「間に合わないから急いでくれ」
「大丈夫です、間に合います」
「タクシーを呼んでくれないか」
「はい、呼びますからその前に着替えをしてください」
「着替えは終わってる。シンポジウムだ」
「はい、承知しております」
良子はすぐに肌着とシャツを用意した。ここで強引に着替えさせようとすると龍三の機嫌が悪くなる。
「あらいやだ、ズボンに穴があいているわ。いくらなんでもこれでは不細工ですよ。こちらに替えてください」
そう言って良子はまずズボンを着替えさせた。
「今日は暑くなりますからノーネクタイにしましょう。そのほうが楽でしょう」
そう言って今度は上着を着替えさせた。
「ところで今日の司会は誰だったっけな」
シンポジウムへ行く前のおきまりの確認だった。
「佐藤さんです」
「佐藤って、テレビ局の佐藤君か」
「はい」
「そうか、佐藤君か。彼も最近は随分と勉強しているようだな。そうかそうか、佐藤君か。それで他のメンバーはどうだ」
「全員ノーネクタイですって」
「違う違う。名前を聞いてるんだ」
良子はここでちょっと間をとった。とりあえず着替えさせることができたのでやれやれだった。龍三はシンポジウムに参加する他のメンバーの名前を聞いている。ここでなじみの名前を言うのはご法度だった。すぐに電話をかけてしまう。電話がつながればその先がまた大変で、最初は筋の通った話をしているのだが途中から相手がだれだか分からなくなり、君はもっと勉強したまえと説教をはじめたり、ばかやろうと怒鳴って電話を切ったりすることもある。
着替えが済めば次は食事だった。ある程度食べてから外出しないといけない。空腹はまた龍三の機嫌を悪くするだけだ。
「まだ時間がありますからトーストをいただきましょう」
良子は椅子を引いてさあこちらへとばかりにやさしく声をかけた。来賓扱いすると機嫌が良くなることが最近分かってきた。
「ジャムはどうしますか」
「いらん」
「それではハムをのせましょう」
「それもいらん。もう食事は済んだぞ」
「おやおやおやおや」
良子はさりげなく一枚のチラシをテーブルの上に置いた。十五年程前に開かれたシンポジウムの案内だった。テーマは『地方における公共事業のあり方』。龍三もパネリストのひとりとして参加していた。
龍三はしばらくチラシをながめていたが、「あー」と大きなため息をついてそれを良子に手渡した。
「ちょっと見てくれ」
「はい」
「ちょっと、その、見てくれないか」
「はい、他のパネリストの方ですね」
「そうだそうだ。名前を読み上げてくれ」
「それではトーストを召し上がってください」
こうして時間をかけているうちに龍三は少しずつでもトーストを食べる。牛乳を飲む。トマトやレタスも食べる。
テーブルの上をパン屑だらけにしながらもとにかく食事を終えることができた。他のパネリストへの批評が十五分続いたが、それでもかなり短い方だった。今日は『地方における公共事業のあり方』というテーマが特に気に入らない様子だった。
「いつもいつも同じことばかりしゃべらせて全くふざけておる。進行役がもっとしっかりせんといかん」
と最後はかなり興奮していたが、それでも「今日は行かない」ということにはならなかった。かえって興奮すると早く家を出ようとする。
龍三が立ち上がったので良子はすかさずトイレを促した。トイレへ行かせる事が出発前の最後の大仕事だった。これは必ず必要だった。
「さっき行ったぞ」
「あらそうでしたか。でもまあもう一回お願いします」
「シンポジウムの会場で行けばいいだろう」
龍三はもう普段から何もかもが面倒くさくなっていた。シンポジウムだけが例外で、それ以外のことは箸の上げ下げさえも大儀なのだ。
三十年近く愛用してきた手提げかばんを持ち上げようとする龍三に向かって良子は
「先生」
と声をかけた。これが秘密兵器だった。
「先生、今日のシンポジウムよろしくお願いします」
先生という呼びかけに龍三はするどく反応した。両足をそろえて背筋を伸ばし、肩にぐっと力を入れ胸を張った。腰に手を当て、目線を下げて一回二回と大きくうなずく。
「シンポジウムだ」
「はい」
「シンポジウムへ行ってくる」
「先生、その前にトイレはよろしいですか」
「おっ、そうだな。済ませておこう」
中学一年生
夜中にあんな大きな音を立てられたらだれだって目が覚めてしまうじゃないかと大介は思う。ローカの壁をげんこつで叩く。床を乱暴に踏む。体ごとドアにぶつかる。そしてばかやろうと叫んでベッドに倒れこむ。それでも大介はそんな母が好きだ。母が自分のために一生懸命働いていることを知っている。強くない酒を無理して飲んで明け方までお客に付き合っていることも知っている。
大介の朝は短い。目覚めてから家を出るまでに十五分もかからない。顔を洗って歯を磨いて学生服に着替えたらそれで終わりだ。テレビはつけないし冷蔵庫も開けない。エアコンもつけないし家の中をうろうろすることもない。
ダイニングテーブルの上に置かれてある千円札を学生ズボンに押し込み電気を消す。七時二十分。いつもの時間だ。途中のコンビニで菓子パンを買ったり牛丼店に寄ったりする。それが朝食。昼は学校の購買部でサンドイッチを買う。千円あれば十分に足りる。あまれば小遣いにする。
ローカへ出たところで
「待ちな」
と声がかかる。母の部屋から酒臭い空気がエアコンの冷気と一緒になって漂って来る。
「あんた昨日どこへ行ってたの」
母は酔っ払っている。寝間着には着替えているが化粧はそのままで香水も落ちていない。茶色に染めたロングヘアーだけが右へ左へと乱れている。
「学校終わってからどこへ行ってたんだって聞いてるのよ」
「じいちゃんとこでゲームしてた」
「うそばっかり。あいつと会ってたでしょう」
母の煙草に火がつく。
「何よ、男同士でこそこそと会ったりして。どうせまたあたしの悪口言ってたんでしょう、あいつは」
「言ってないよ」
「腰の軽い浮気な女だって言ってたんでしょう」
「そんなこと言わないよ。父さんは」
「知ってるのよ。あんたたちが時々会って焼肉食べたりカラオケ行ったりしてるのを」
母はローカの壁に背もたれて腕を組み、大介をにらみつける。父のことを話すときだけ鬼になる。煙草の灰がぎりぎりまで伸びて落ちる。
「もう会うんじゃないよ。あんたはこっちにいた方が幸せなんだから」
「どうして」
「どうしてって決まってるじゃないか。あんな男のどこがいいのさ。あいつはあたしの浮気のことばっかり責めるけどもともとはあいつが悪いんだからね。あいつが先に女を作ってあたしを裏切ったんだ。それもうんと年下の娘に金を渡してさ。汚らしい奴だよ」
酔っ払うとすぐにこれが始まる。しゃべりながら髪の毛をかきむしる。
大介は玄関に向かって歩き出す。
「待ちな、あんたまさか今日も会うんじゃないだろうね」
「………」
「あんなやつに近づくんじゃないよ。腐った男になっちまうよ。ね、近づくんじゃないよ」
母は自分がいま煙草に火をつけていたことに気付き、大介を追い抜いて玄関まで走る。脱ぎ散らかしたヒールの上に腰を下ろし、煙草を床にこすりつけてその吸殻をドアに投げつける。
「本当はね、あんたの朝ごはんもお弁当も作ってやりたいんだよ。いくらでも作れるんだよ。でも働かなくちゃいけないからね。ごめんだよ、ごめんだけど分かってくれるだろう」
「分かってるよ」
「ありがとう。分かってくれてるんだね。やさしい子だねえ。でもあんた、本当に今日もあいつと会うのかい」
「いいじゃないか」
「どこで会うんだい。何をするんだい」
「いいってば」
「何か買ってもらうのかい」
「サッカーボール」
「サッカーボールって、あんたサッカーなんてしないだろう」
「いいんだ、買ってくれるっていうから」
「やめろやめろ。欲しいんだったらあたしが買ってやるよ。な、あたしが買ってやるから」
「うるさいなあ。邪魔するな」
大介は母に向かってはじめて大きな声を出す。自分でもその声に驚きながらまとわりついてくる母の手を振り払う。スニーカーにつま先だけを突っ込み、勢いよく玄関のドアを開けてそのまま前のめりに外へ飛び出す。
「どこにも行くんじゃないよ」
バネのきいたドアはゆっくりと閉まっていく。
バスを待つ
今日も朝から雲ひとつない快晴になった。連日の暑さで乾き切ったアスファルトは、せんべいを割るように簡単に裂けてしまいそうだった。
坂の途中にあるこのバス停にも強い日差しが照りつけていた。あたりには高層マンションが建ち始めて人口は確実に増えているのに、路線バスは通勤通学の時間帯でさえ二十分おきにしかやってこなかった。だから多くの人はバイクか車で最寄の駅まで行っている。
上着を片手に幸雄がやってきた。五分も歩いてないのにもうワイシャツの背中がびしょびしょだった。ハンカチ一枚ではとても間に合わない。
「全くゆきえのやつは朝から何をむっとしてるんだ」
停留所で立ち止まると幸雄は舌打ちをして扇子を広げた。
「最近疲れがたまってるからせめて家の中ではリラックスしたいんだ。余計なことは考えたくないんだ。だから普段と違ったことはしないでくれとあれだけ頼んでるのにどうして目覚まし時計や着替えの位置を変えたりするんだ。嫌がらせなのか。それにあの態度はなんだ。氷はどこだって聞いたら横を向いたまま箸で示しやがって」
いまさっきのことを思い返していらいらするとさらに暑くなる。扇子はあまり役に立たなかった。仰いでも仰いでも熱気を帯びた生暖かい風がねっとりと首筋にまとわりついてくるだけだ。このバス停には日よけになるものは何もなかった。
しばらくすると浩一がやってきた。夜通し由美のことを考えて一睡もしていなかった。由美を奪った橋本が憎くて崖から突き落としてやりたいと思った。それでさらに眠れなくなった。オナニーをして気を紛らわせようとしたがむなしさだけが残った。気持ちの整理がつかないので続けてもう一度オナニーを試みたが二回目は勃起しなかった。握っているとペニスが痛くなってきた。夜が明けてしまったし、このまま部屋にいても落ち込むばかりなので仕方なく出てきたのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
幸雄と浩一は言葉を交わした。時々このバス停で顔を合わせることがある。
「今日も朝から暑いね」
「そうですね」
「たまらんよまったく。通勤だけでぐったりだ。この年になるときついんだよ。君みたいに若かったらへっちゃらだろうけど」
「そんなことないですよ。まいってますよ」
浩一はTシャツ、短パンにサンダル姿だった。顔も腕も足もしっかりと日に焼けていて今すぐにでもどこかへ駆け出していきそうだったが、今朝に限っては体が重かった。
「ギターの方はどうなんだい。ライブ活動をやってるんだろう」
幸雄はネクタイをゆるめ、首にハンカチを当てたままにした。
「かなりうまいっていう評判じゃないか。女房から聞いたよ。女房の友達の娘さんが君達のバンドのおっかけをしてるんだって。君のギターが格好いいってさ」
「へえー、そうなんですか。うれしいな。でもギターのうまいやつなんていくらでもいますからね。僕なんかたいしたことありませんよ」
「まだ二十歳なんだろう。これからますますうまくなるじゃないか」
それは違う、と浩一は思った。これからどんどん下手になっていく。いいんだもう。俺はお払い箱になったんだ。由美と一緒にできないなら練習したって仕方ないし、うまくなったってしょうがないんだ。
「やっぱりプロを目指してるんだろう」
「いえ、それは絶対に無理です」
浩一は強く否定した。そしてすぐに「でも音楽で食べていけたら最高ですよね」といい直し、またすぐに「プロになっても大変みたいだからやっぱりアマチュアでいいです」と言い直した。
そろそろバスがやってきてもいい頃だ。
シンポジウムへ向かう龍三と良子が坂の途中に姿を現した。小柄で細身のふたりだった。ゆっくりとバス停へ近づいてくる。龍三の歩き方には特徴があった。ゼンマイ仕掛けのおもちゃのロボットのように一回一回しっかりとひざを上げ、またしっかりとひざを伸ばして地面に足をつける。それを右左右左と規則正しく繰り返している。歩数が多い割りになかなか前へ進まないのは一歩一歩が短いからだ。その場で足踏みをしているようでもあった。
車が通り過ぎるたびに砂ぼこりのような痛々しい風が起こり、それがさらに体感温度を上げていた。
「おはようございます」
良子は日傘の中から幸雄と浩一に深々と頭を下げた。
「間に合いましたね」
と幸雄が返事をした。
「おかげさまで、ありがとうございます」
「今日も暑くなりますよ」
「はい、年寄りにはこたえます」
「でもおふたりはいつもお元気だ」
話しながら幸雄は腕時計を見た。バスの到着時刻は過ぎていた。渋滞する場所もないので遅れるのはめずらしいことだった。
「今日はどちらへ」
と幸雄が話を続けた。すると今まで静かだった龍三が待ってましたとばかりに大きな声を出した。
「シンポジウムです」
そう言って胸を張った。
「シンポジウムですか」
「そうです。シンポジウムです。ところであなた、選挙はどうですか」
「は、どうですか、というのは」
「行ってますか、行ってませんか。最近はどの選挙も投票率が低くていけませんなあ。みんなもっと選挙へ行くべきです。きちんと権利を行使すべきです。そうでしょう」
「はあ」
「行ってくださいよ、必ず」
「ええ」
良子は龍三の隣でにこにこしながら聞いている。
「君も行ってくださいよ」
龍三は体の向きを変えて浩一にも声をかけた。
「ちぇっ」と浩一は舌打ちをした。それは龍三に対してではなく、遅れているバスに対して、心変わりした由美に対して、そして由美を奪った橋本に対しての舌打ちだった。
「急いでるのかい」と幸雄は尋ねた。
「別に。ちょっと大学へ行くだけですから」
「友だちに会いに行くんだろう」
「講義にも出ますよ」
「その格好でかい。短パンにサンダルじゃないか」
「そんなのへっちゃらですよ」
浩一はもうずっとバスの来る方向を向いている。幸雄も良子もその方向を気にしているのに龍三だけが反対の方向を向いて、誰に話しかけるわけでもなく「シンポジウム」と「選挙」を繰り返している。
「シンポジウムというのは進行役が大事なんだよ。しっかり加減をとってもらわないとだらだらするからね。最近は特におしゃべりなのが多くて困ったもんだ。ええっと、今日はだれだったっけな」
「佐藤さんです」
良子が助けた。
「ああ、佐藤君か。まあいいだろう。彼も最近はよく勉強している。それに比べて君達は何だ」
と、ここでまた龍三は幸雄と浩一の前へやってきた。
「君達はもっと勉強したまえ」
「あらあらどうしましょう。このおふたりは十分に勉強されてますよ。優秀な方です」
良子は大きく腰を曲げてふたりに深々と頭を下げながら龍三を元の場所へ連れ戻した。
「先生、時間は十分にありますから落ち着いて待ちましょう」
「おっ、そうだったな。よし」
アスファルトには四人の浅黒い影がねっとりとしみついていた。
うめき声らしいものが近づいてきた。最初は「うーうー」だったが、「うぉー、うぉー」、そして「くそっー、くそっー」とはっきりしてきて、バス停のすぐ前の道から学生服の大介が飛び出してきた。手提げかばんを振り回しながら全速力でやってくる。母を振り切ってマンションを飛び出してきたままの勢いだ。
四人の前で急ブレーキがかかった。どうしたんだとばかりにみんなの顔を見回し、バスが遅れていることを理解するとすぐにまた走り出した。今度は「くそっー、くそっー」という雄叫びが下り坂を遠ざかっていくにつれて「うぉー、うぉー」に変わり、最後は「うー、うー」とあいまいになって姿と共に消えていった。
浩一がバス停を離れようとした。それを見て幸雄が声をかけた。
「ちょっと君、駅まで行くんだろう。今女房に電話して車を出してもらうから一緒に乗っていけばいいじゃないか」
しかし家の電話にゆきえは出なかった。携帯電話にかけ直しても出なかった。
「おかしいなあ、トイレにでもいってるのか」
再度携帯電話を鳴りっぱなしにした。
「部屋に戻って寝ます」
浩一はふうーと大きなため息をついた。ようやく気持ちが落ち着いてきて少し眠くなってきたのだ。
「朝寝か。うらやましいなあ」
「きのうは徹夜だったもんで」
「それもうらやましいなあ。この年になったらもう徹夜なんてできないよ」
ゆきえは電話に出ない。諦めて切った。
浩一はTシャツを脱いで首にかけた。胸も背中も同じように日に焼けていて黒光りしていた。みずみずしい二十歳の体だった。
続いて龍三が足踏みを始めた。一回一回がゆったりとした大きな足踏みだ。右手に持っている薄っぺらな古びたかばんが揺れ、水玉のネクタイも揺れ始める。
「今日のシンポジウムは止めだ」
龍三は良子に告げた。
「医者へ行く」
「はい分かりました。市民病院ですね」
「そうだ。佐藤君に欠席すると連絡してくれ」
「承知しました」
しばらく歩いたところで良子が振り返り、幸雄に向かって大きく頭を下げた。ふたりはなかなか前へ進まなかったが、それでも少しづつバス停から離れていった。
もう次のバスの到着時刻さえ過ぎていた。しかし来ないのはバスだけではなかった。毎日この時間にバスを待っている何人かも今日に限って姿を見せなかった。
とうとう幸雄も辛抱しきれなくなった。いったん家へ戻って車で行こうと思った。ゆきえが使っているのなら仕方がない。タクシーを呼ぼう。
歩き始めると今まで感じていた暑さが遠のき、思いがけない涼しい空気に包まれた。そのひとかたまりの風はだれもいなくなったバス停からやってくるのだった。
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