フォロー研修余話   阿井 フミオ



 一月の下旬にフォロー研修で講話をすることになった。
 フォロー研修とは、毎年、定期採用した新卒新入社員が、本務になって半年過ぎたころに実施する集合教育である。一日も早く会社に貢献できる人材にするためのアシストであり、一昔前に私が新任の人事課長だったころから始めたものである。ある人材教育が専門のコンサルティング会社のプログラムを自社用に改良したもの、つまりパクリである。
 講話といっても、事務局からのオーダーは、「ジョハリの窓」の概要を説明すればよいことになっていた。サブタイトルは「対人関係のよりよき理解への道」とある。新人が社会人となって、まず突き当たる壁のひとつが対人関係であり、これはそのことを考える教材としては最適ということであった。
 まぁ、「人間関係」は、新人に限らず万人に係わる今も昔も変わらない、いわば永遠のテーマであることには違いない。
 昔と異なるといえば、昨今の若い人は男も女も以前と比べ、いとも簡単に会社を辞めてしまうことである。退職願も大半がワープロ書きである。せめて署名ぐらい自筆にしろ、と言いたいが、これも時勢か。そのうちメールで辞表が送られてくるのではないかと、秘かに楽しみにしている。離職という行為と悲壮感とは、いつの間にか離婚してしまったらしい。もちろん一般論としての話ではあるが……。


 去年、「トイレが汚い」という理由で、入社後一ヶ月で退職した女子社員がいた。
 甲南女子大出のコピーライターの卵なのだが、前代未聞の理由だっただけに、社中にセンセーションを発生させた。トップダウンにより中期投資計画の見直しが行われ、施設整備の優先順位が変更された。次年度に実施される予定の耐震工事が見送られ、トイレの美装化工事が四千万円の予算で前倒しされることとなったのである。
 実は、本社ビルが建っているU台地には、結構有名な活断層が走っているのだが……「地震、雷、火事、親父」より「お姉ちゃん」の方が怖いという訳だ。やれやれ、である。

 今年も半年足らずで去った新人が一人いる。石本(仮名)の場合は、辞めたというより、辞めざるを得ない状況に追い込まれた、という方が正確かもしれないが。原因を突き詰めると希望の職種につけなかったということになる。
 最近、当社では最終面接時に、美大系の特別な専門職を除いては、職種と勤務地を第一から第三希望ぐらいまで申告させている。しかし、これは会社側にしてみれば、あくまでも参考資料に過ぎない。ヒヤリングしたのは約一年前のことであり、4月中旬の全社レベルでの人員構成の状況等によって配属案は作成される。営業職になるか、企画部門に回されるか、あるいは管理部署の事務職になるかはその時にならなければ人事でも分からない。つまり需要と供給のバランスである。
 その結果、毎年、数名は第一希望と違う辞令を交付されることとなる。
 石本の場合は彼の方にも問題があった。去年の連休明けに行われた面接時、石本の頭は、やや長めではあるが普通の若者のスタイルであり、希望は営業であった。入社一ヶ月前に開催された懇親会ではアフロヘアーになっていた。昔「およげ、たいやきくん」の子門真人が、今ならスキマスイッチの常田真太郎がしている爆弾頭である。「入社式までには切ってきます」と、本人が言っていたと報告を受けていたのだが、四月に入ってもそのままの状態であった。
 石本は入社内定後、宣伝会議の「プランニング講座」を受講していたらしい。そこの講師の一人から広告会社に入ったのだから個性がなによりも重要、だからそのヘアースタイルで頑張れと言われたそうだ。彼は業界ではかなり有名なディレクターなのだが、島倉千代子も歌っているように「人生いろいろ」、「広告会社もいろいろ」なのだ。当社でもクリエート部門はスーツを着なくてもよいのだが、どうも若い者は中身より形式から入りたがる傾向がある。困ったものだ。
 その影響か、石本の志望職種はいつの間にか、「プランナー」に変わっていた。
 しかし、選択権は石本にはなく、気の毒なことに彼は当社でも一番地味でかつ保守的な交通広告の媒体管理部署へと配属された。偏執狂気味の上司から毎日毎日、髪を切れと言われ続け、それでも三ヶ月間抵抗を試みたが、結局は務所帰りのような中途半端な五分刈へと一旦変身した二週間後、とうとう辞表の提出ということとなった。
 その後、彼が東京に行ったと噂で聞いたが、念願のプランナーになれたかどうかは定かではない。

 昨年の新入社員の中にもう一人、特記すべき者がいた。
 彼女のあだ名は、「飛んで、飛んでの円(まどか)ちゃん」という。彼女は階段の壁面にあけられた穴に、花を飾ったのである。
 4階の踊り場から5階にかけて、ちょうど拳骨大の穴が十個ほど穿たれるという出来事が起きた。総務課の営繕担当者が犯人探しをしたのだが、結局誰の仕業か判らなかった。「このような不適切な行為をした者を見つけた場合、社員就業規程に則り、厳重に処罰する」という旨の総務部長通知が出され、この件が収まりかけた時に、その穴にコスモス、ひまわり、パンジー、サンセペリアなどの花々を生けた者が現れた。その様はまるで壁の穴から花が生えてきたかのようで実に清々しかった。
 彼女は、「営業に女性の感性を反映させよう!」という名目で、採用された女性キャリアの一人なのだが、いわゆる「天然」で、ものの役には立たなかった。「可愛いから、いいじゃん」というのは周囲の声で、直属の上司とすれば戦力外にもかかわらず売上予算額の基準となる人員の一人にカウントされるのでたまったものではない。
 仕掛人がそんな不思議ちゃんだっただけに、「壁の花」事件も評判となった。かの上司はここがチャンスと思ったのか、「遊び心、探究心、型にはまらない発想力」を駆使できる貴重な人材を活用しないのはもったいないと、クリエイティブ部への配転を画策したのだが、企画担当の責任者は、アマとプロの違いを熟知しており、その陰謀は虚しく失敗の泡と化して消えた。
 そんな訳で円ちゃんは、未だに窓際でボーっとしています。

 ところで、今年のフォロー研修は伊勢志摩のリゾートホテルで一泊二日の日程で行われる。
 大阪、東京、名古屋等から集められた半熟卵たちを所属や職種が重複しないように5、6名のチームに分け、テーマを与え、討議をさせ、順次発表させる、というプログラムである。グループ討議の主な課題は、「現在の職場の良い点・悪い点」「悪い点のうち一点を取上げ、その解決策を考える」「仕事上の失敗例をあげ、原因と対策案を作成する」等である。
 他部署は良く見えるものである。同期同士で、上司や先輩、あるいはクライアントなどについて愚痴らせることにより、どこも似たり寄ったりであることに気づかすのが目的なのである。つまり、「ガス抜き」なのだ。

 私が担当する「ジョハリの窓」とは、アメリカのJosep LuftとHarry Inghamという心理学者が共同で考案したもので、別名「心の窓」あるいは「心の四つの窓」とも呼ばれている。
 この考え方は個人と個人との間における対人関係を「自分自身が知る自分」と「他人から見た自分」という切り口で四つの領域に分類し、他者との人間関係において、それぞれの領域がどういう状態になるかを視覚的に表現してみることによって、自分自身の対人関係の特徴に気づくヒントにするというのが、その狙いであるそうだ。
 その構図と各領域の概要を書くと次のようになる。

A領域「開かれた窓」
あなた自身も気づいていて、他人も知っているあなたです。言いかえるとあなたがオープンにしている部分です。したがって、もう自分も他者も認めていることなので自由に行動がとれる領域です。
B領域「無自覚の窓」
他人には見えているけど、自分では気づいていないあなたです。この部分は他者に指摘してもらわないと、いつまで経っても直らないということで、いかに早く知るかが重要です。
C領域「隠された窓」
これは、他人には見せていないあなたです。当然他人は気づいていません。周囲から見るともうひとりのあなたという部分です。自分は知っているけれど他人には知られていない自分……これは「秘密」の窓です。
D領域「暗い窓」
あなた自身も周囲の人も気づいていないあなたです。日々の生活の中ふとしたきっかけで、こんな自分もいたのだ! と気づくことがあります。まだ自分でも発見していない潜在的可能性の部分といえます。

 つまり「ジョハリの窓」を教育研修的に「まとめ」ると、こうなる。
 人間は社会性のある動物で、他人とのコミュニケーションがうまく取れないと、それだけでストレスを感じてしまう。「自分が他人からどう見られているのか?」誰でも気になる部分であると思われる。
 だが、実際に自分自身を変えられるのは自分自身だけで、他人の評価も、自分自身が意識して良い方向へ自分自身を変えていく事でしか変わらない。
 ところが、この 「自分自身を変える」 ということが非常に難しいと感じている人は決して少なくないのではないだろうか? そんな時、この 「ジョハリの窓」の考え方が役に立つ。
 自分が知っている自分自身(C領域)を積極的に表現し、自分の周囲の人に手伝ってもらいながら(時には厳しく指摘してもらうことも必要)自分自身の気付いていない点(B領域)を認識し、「暗い(未知)窓」(D領域)を小さくしていくことで、つまり自己開示することで、自分の能力を最大限に発揮できる状態に持っていくことがはじめて可能となる、ということである。
 「開かれた窓」(A領域)の拡大こそが、他者の心の開示を呼び起こし、より良いコミュニケーションへとつながるのであり、自己の潜在的な新たな可能性と出会える機会を生むこととなる。

 では、「ジョハリの窓」を「せる」的、つまり文学的に言うと、どうなるのだろうか。あえて「こじつけ」を恐れずに言えば、こんなふうになるのではないだろうか。
 まず、「読書」という行為は、それぞれ別々の「心の四つの窓」を持つ「作者」と「読者」が、「書物」という媒体、言葉の集合体を通して向き合う対人関係である。
 告白とか私小説という形式は、「隠された窓」C領域に重心を移動したもので、そこで提示される事項が、個人の領域を超え、ある種の普遍性を有した場合、他者である読者に感動や救済を与えることがある。
 また、「無自覚の窓」B領域を拡大するには、批評等により自分自身を他者の目で見て自己批判する作業が必要となる。そのための手法のひとつがフィクションという仕掛けなのかもしれない。
 これらの作業により生まれた小説は、豊かなA領域(「開かれた窓」)を持つフィールドのようなものなのだろう。そこで人々はそれぞれの嗜好や必要性に応じていろいろなゲームに興じることができるのである。
 そしてある種の幸運な読者は、本来受身的な行為である読書を通じて他者の状況を追体験することで、普段は堅固に閉じられている「暗い窓」が開き、潜在的な領域に生息している未知の自己が出現することとなる。
 書く上でも、読む上でも幸運の前髪をつかむためには、ジョハリの窓の人格構造、自分の中に、自分が意識している領域と他者にしか判らない領域そして通常は認識されない領域があるということを自覚している必要があるような気がする。
 
 花々を咲かさなければいけない穴ぼこは、非常階段だけでなく、そこらじゅうにあることを忘れないようにしたいものである……。


 

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