物心ついてからというもの、何のために生きているのか、生きる意味は何なのか、という疑問が影のようにつきまとって離れなかった。思い詰めたあげく、酒の勢いを借りたふりをしてその疑問を口走っても、そのたぐいの疑問ははしかのようなもので、青年期を過ぎればけろりと忘れてしまうものだと、大人びた口調でいなされるのが落ちだった。そんなものかと無理に納得することで、熾火にしたまま放置していた。
しかし青年期を過ぎても、その疑念は暗い淵から底冷たい目だけを覗かせて、常に自分を見つめ続けていた。その視線を忘れるために、手当たり次第に刺激を求めた。一番熱中したのは、仕事だった。休日なしの二十四時間対応。就寝中であってさえ、電話がかかると嬉嬉として飛び出していった。たまに空白の時間が訪れると、かえって不安だった。
そしてある日、体が壊れた。病院のベッドの上で、動かなくなった体をしみじみと眺めてみた。久しぶりに向かい合うそれは、生気のない皮膚に覆われた、見知らぬ肉塊だった。そのとき、少なくとも仕事まみれの今までの日常は、疑問の答えにはなり得ない、そう、思い知ることになった。
健康を回復するまでに相当の日数がかかった。とりあえず、仕事に向けていたエネルギーを、肉体の養生に振り向けて、ようやく当たり前に機能する肉体を手に入れた。もはや新品であろうはずも無く、せいぜい余生の雨露をしのぐためのものにしかすぎないが、ぎらぎらしたところのない、日常使いの食器のような体であった。
さて、と考えた。何のために生きているのか。生きる意味は何なのか。長い回り道を経て、ようやく振り出しに戻ったようだった。そんなとき、偶然に出会ったのが、座ることだった。最初に目にしたのは、某雑誌のメンタルケア特集だった。作務衣を着た若い僧が、ゲストにていねいに座り方を教えていた。それが、坐禅との出会いだった。そこに書かれているままに、座ってみた。簡単な立ち居振る舞いの一つ、そんな認識だった。しかし、ものの五分で、それが大きな認識違いだということが分かってきた。ただ、座っているということが、どれだけ難しいことか、思い知らされることになった。切り立った崖っぷちの、ぐらつく岩の上にかろうじてしがみついている、そんな、感覚だった。
これは、ただごとではない。そう、思った。たった数ページの特集記事ではどうにもならず、それからすぐにインターネットや書籍の世界を渉猟することになった。
どんなことでもそうかもしれないが、やはり座るにも様々なやり方やうんちくがあった。中には明らかに矛盾している方法もあり、それは自分で判断してどちらかを受け入れていくしかなかった。最初は技術論を中心に学んでいき、座る時間を少しずつ増やしていった。その時間は、本も読まず、テレビも見ず、食事もせず、電話も受けず、ただ呼吸しているだけの時間だった。吐いて、吸う、それだけのことを、ひたすら見続ける時間だった。その時間、確かに私は生きていた。
闇雲に座ることだけを追い続ける日々が続いた。しかし、そのうちに、メンタルケアは座ることのほんの小さな副産物だということに気づいていった。坐禅の情報を集めていくときに、必ず付随する情報があった。坐禅のルーツとなるブッダの教えだった。宗教には興味関心が無かった。無いどころか宗教にうつつを抜かす輩は、なんとなくうさんくさいという先入観があったため、ことごとく無視してきた。しかし、座るというただそれだけのことで、いままでとは全く違う世界をかいま見させてくれるこの方法を確立した人物の教えはどのようなものか、少しぐらい知っても罰は当たらないような気がしてきた。この人物が、私の持つ青臭い疑問にどのように答えるのか、興味が無くもなかった。試しに、調べてみた。
答えは、明快であった。
生きるとは、感覚を認識することだというのである。人間には、感覚器官が六つあるという。(六根というらしい)六つとは、目、耳、鼻、舌、体、心だという。(眼耳鼻舌身意というらしい)そこに入る情報はそれぞれ決まっていて、色、音、香り、味、触覚、概念だという。(色声香味触法というらしい)その六根に入る六つの情報を感じることが生きていることだというのだ。これ以外に、人間が知ることができる情報は一切無いという。異論を差し挟む余地はなかった。青年期からあれほど自分を悩ませてきた影の正体は、こんな単純なものだったのだ。
それでは、なぜ生きているのか。その答えも実にシンプルだった。生きているから、生きているのだ。それだけだった。得体の知れない絶対者に生かされているわけでもなく、何か目的があってこの世に生まれてきた特別な存在でもなく、ただ、ここにこうして六根に対象を感じていることだけが真実なのだ、と。
それでよかったのだと思った。憑き物が落ちたような気がした。それからは、座るごとに、少しずつ垂れ込めていた雲が割れて、青い空が覗いてくる感覚があった。座ることを通して、これからしばらくは二千五百年以上前に存在したというこの人物の教えに接することになりそうだ。その思想体系は、深淵で、巨大な構造物のようであり、まだまだその入り口に呆然と立ちつくしている感がある。至るべき道は遙か遠くで、先の見極めようもないが、今日もまた坐蒲に腰を据え、遙かな人との声のない対話を積み重ねていきたいと思っている。
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