今年の三月、伯母から突然電話がかかってきた。
大腸癌でこれから入院するのだけれど、身内の連絡先がいるので、奈緒にその連絡先になってほしいというものだった。伯母は父の姉で、三年前に奈緒の父親が亡くなってからは、お互いが唯一の身内だった。
伯母が入院すると聞いて、最初に思い浮かんだことは、五匹もの猫をどうするのだろうということだった。伯母は猫が好きで、夫が亡くなってからは、ずっと彼女のそばに猫がいる。時々、泊りがけで家をあけるとき、世話を頼んでいる西原さんにあずけるのだろうか。一度電話をしたとき、伯母がいず、西原さんがでて、そのとき猫のことや伯母のことを話した。その中で伯母が言ったという次の言葉が心に残っている。
『わたしが死んだら、しばらく発見されないだろうから、猫たちがわたしを齧って、発見されたときはあちこちがなくなってるよ』
伯母の予想ははずれ、夏を越すことなく病院のベッドで亡くなった。連絡を受けて病院に着いたときには、伯母の胸に電気ショックをあたえ、蘇生させようとしているところだった。七十一歳の伯母の胸は白くて平らだった。乳房のふくらみや、わずかな皮のたるみもなく、男の胸のようだ。癌は全身に転移していて、分かったときには手遅れだった。しかし、高齢なので進行が遅く、長い間癌と共存してこれたのだろう。何度か見舞ったが、痛みで苦しんでいるところはみたことがなく、本当に癌なのか疑うほどだった。
マンションの集会所で行われた葬儀で、ペットシッターの西原が奈緒に話しかけてきた。目が赤くなっている。
「このたびはご愁傷さまです」
奈緒も頭を下げ、礼を言った。
伯母からマンションのことなどは西原さんに聞くようにと言われていた。ペットシッターというのは、ベビーシッターからの造語で、飼い主が留守のときに、餌をあげたりペットのトイレの掃除をしたりする人のことだ。
伯母の入院中、奈緒も何度か伯母のマンションに出入りしたが、猫の姿を見かけたことがない。ツンとする猫のオシッコの臭いと空になった餌の皿が猫のいる痕跡を残しているだけだった。また、壁は一メートルくらいの高さまで猫の爪とぎのあとが一面に残り、いつ行っても床に壁紙のカスが白く落ちていた。
「西原さん、西原さんでしたよね」
自信なげに呼びかけた。
「はい、西原一絵です」
「あの、もしよかったら、今夜か明日の夜でも伯母のマンションに来て、部屋の中に何があるか教えてもらえませんか。伯母から一絵さんに訊くようにって……」
奈緒は一絵の数珠を持った手をみた。半袖の喪服からでた腕は細くて白い。こんなに華奢な人がひとりで子どもを育てられるのかと思った。これまで一、二度しか顔を合わせたことがなかったが、シングルマザーだと伯母から聞いていたのだ。くわしいことは話してくれなかったが、二、三歳くらいの子どもをひとりで育てているらしい。伯母とは猫の世話だけではなく、歳の離れた友人のような関係みたいで、入院中の洗濯物を奈緒が取りに行くと一絵が持って帰って洗濯してくれていたことが何度かあった。
「はい、わたしも麗子さんから奈緒さんを手伝うように頼まれていました。それじゃ奈緒さんがお疲れでなければ、今夜伺いますね。昨日からわたし、頭がまわらなくって、今日はまだ猫のトイレの掃除がやれてないんです」
昨日今日と伯母の部屋は人の出入りがひっきりなしにあった。猫たちもきっと何がおこったのかわからないで、パニックに陥っているはずだ。
部屋に戻ると葬儀社の人が手際よく祭壇をつくり、箱に入った伯母の骨壷を置いた。線香がたかれ部屋に匂いが満ちていく。猫のオシッコの臭いが緩和されて調度いいと思った。
葬儀社の人が帰って行くと部屋は静まり返った。一絵がいつ来るか分からないので食事にでるわけにもいかず、部屋をひとつずつみてみることにした。
部屋は全部で四つあり、それにリビングダイニングである。マンションの間取りは、リビングダイニングが真ん中に配され、各部屋がその四辺を取り囲むようになっている。
何度かリフォームされているようで、風呂や台所のユニットは最近のものと変わらなかった。床も今はカーペットがコンクリートに直接貼られたものになっているが、これもリフォームしたはずで、奈緒の幼いときの記憶ではピータイルと呼ばれるうす緑の床だった。
玄関に近い部屋は洋室でノブを回すと、がたがたと部屋の内部で音がした。ドアを開けると、大きな机や本棚のある書斎だった。椅子の上で白黒の猫がすやすや寝ている。
奈緒が動かずじっとみていると、茶色のトラ猫が足に擦り寄ってきた。しっぽの先がサザエを殻から抜いたときのように、螺旋を描いている。
本棚をみてみる。翻訳ものが多い。名前の知っている作者もあったが、ほとんどが知らない作家の本だった。
奈緒はピータイルの記憶と同じ頃のことを思い出した。その頃まだ幼稚園だったと思うのだが、このマンションに両親と遊びにきたのだ。当時は伯父もいた。とにかく本だらけの家だった。本はリビングまで溢れかえっていた。父は伯父の前で何かの教えを請うように正座していた。
伯母夫婦に子どもはいなかったが、一人っ子の奈緒が来ても祖父母のように、大げさに喜んでくれることもなく、従って暇をもてあまして床にスリッパを並べて遊んでみたり、部屋を覗いて探検をしたりしていたのだ。
伯父が学校の先生だったことは、伯父の十三回忌に親戚が話しているのを聞いて知った。奈緒が二十歳の時だから伯母に関する記憶は実に乏しい。
本棚の上から三毛猫がじっと奈緒の方を見ていて、目があった。ファーと威嚇の声を上げ身を固くしたので、刺激しないように部屋をでた。
リビングに面した壁には写真や絵が額に入れられて掛けられている。旅行好きだった伯母の蒐集したものだろう。最初に見たとき、奈緒が気に入ったのは、スクエアの抽象画だ。ブルー地にミロの絵のようなもので、病室の伯母に聞いたらベトナムで買ったものだと言った。
隣の和室を開けると、たくさんのキャンバスが部屋の隅に集められ、三台の大きなイーゼルと絵の具や筆が整理されておいてあった。長く使われていない様子で、布の掛かったキャンバスや画材にはうっすらと埃が積もっていた。押入れの襖が少し開いていて中から紙袋がはみ出していたが、そのままにして部屋をでた。
ひときわ大きな絵はソファの背部にかかっていて、それは一メートル以上ある油絵だった。リビングの真ん中に立って、その絵を眺めているとチャイムが鳴った。
玄関へ駆けてゆき、鍵を開けようとすると外から鍵が回されて、すっと扉が開いた。そこにTシャツ姿の一絵が立っていた。
意表をつかれたのか、びっくりしたように目を見張った。
「チャイムを鳴らしてたんですけど、いつもの癖で鍵を使っちゃいました。ごめんなさい」
一絵は失態とばかりに、深く頭をさげた。
「そんなのいいのよ。一絵さんが来るのはわかってたんだから」
奈緒は一絵に進路を譲った。一絵はスーパーの袋をかさこそといわせながら、台所へ向かって行った。
いつのまにか猫たちがしっぽをぴんと立てて、一絵のまわりにいる。数えると五匹いた。書斎の戸をきちんと閉めたはずなのに茶トラや白黒や三毛もちゃんとそこに揃っているではないか。
一絵は一匹ずつ短い名前を呼びならが、猫の缶詰を餌皿に移している。
「同じ毛並みの猫っているの」
書斎のドアの閉まっているのを確認したので、疑問に思い訊いた。
「いいえ、白黒、茶トラ、三毛、シャム、アビシニアンの五匹で毛並みは全部違いますよ」
一絵は台所のシンクで猫の飲み水を入れ替えていた。
猫の餌皿もそこで洗うのだろうかと気になった。すると空になった皿を持って洗面所へ入っていった。洗面所は台所の奥にあって、左に風呂場のドアがあり、突き当りにはベランダに出るドアがあった。洗面所や風呂場にはリビングからも行けるようになっているので、この構造は洗濯をしながら炊事をするための動線なのだろう。
「ちょっと猫トイレの掃除をします」
一絵は振り返って言った。
足元で体を舐めている猫をみた。
伯母は唯一の身内である奈緒に、この五匹の行く末をちゃんとしてやってほしいと言い続けた。
奈緒はこめかみが疼き始めるのを感じ、そこに指を持っていった。来月で三十七歳になる。結婚はしていないが、同居している男がいる。夜はショーパブのボーイをしてバンド活動を続けている年下の男だった。この上に五匹の猫を飼っていけるのだろうか。
ふと伯母は伯父と死別してから、男関係はどうだったのだろうと思った。四十歳を前に寡婦になったのだから、一度や二度は恋愛もしただろう。
一絵がスーパーの袋に汚れた猫砂を入れて洗面所から戻ってきた。それをゴミ箱に捨てると、シンクで手を洗ってから、薬缶に水を入れ、コンロにかけた。
奈緒たちがリビングのソファに腰かけると、テレビの上やソファのところに餌を食べ終えた猫たちがやってきたが、奈緒を威嚇した三毛猫だけは姿を消していた。
マグカップに紅茶を入れて一絵が持ってきてくれた。
ティーパックの紐がカップのふちから垂れさがっている。
奈緒が子どものころはこのティーパックをカップからだして、小皿かなにかの上に置いておいて、二回は出していた。
「そうだ。さっきね、書斎に居た猫がここで餌を食べてたんだけど、書斎のドア開けたっけ」
一絵は変なことを訊ねられたなという顔をして、首を捻った。紅茶を一口啜って、
「ああ、そうですよね。あの子たちが抜け穴を作ったんですよ。書斎のクローゼットと和室の押入れのしきりはベニヤ一枚なんですね。そこを爪で引っ掻いて穴をあけて、自由に出入りしているんです」
和室の襖は手で開けて出てくるらしい。
一絵は白黒の背中をゆっくりさすってやっている。
「この子はペイジっていうんですけどね、麗子さんがソファで横になって寝ていると、ダダァって走ってきて、胸を踏み板のように蹴飛ばしてテレビに飛び乗るんだそうなんですよ。熟睡しているときなんか、心臓がパクパクするっていっておられました」
何気ない話にも伯母と一絵の親密な関係が窺える。
「ねえ、一絵さんは伯母とどういう契約してたの。料金のことだとか、その後のこととかなんだけど」
「料金は入院前にまとまった額をもらってますし、まだその料金は残ってますよ。具体的に言うと半年分くらい残ってます」
「仕事が忙しくて余り病院にも行けてなかったでしょ。それに病院で家のことを訊くってことは、死んだときの話しってことになるでしょ。三年前に父親を見送ったときもほんとにくたくたになったけど、今回の伯母のほうがもっと頭がいたい。わたし、このままひとり身だったら、自分の財産や貴重品はちゃんと目録をつくってわかりやすいところに置くようにするわ。伯母が言うのよ、何でも確かめないで捨てちゃダメだよって。現金をあちこちに置いているからってね。これって、からかっているのよね」
一絵は首を横にふる。
「いえ、ほんとですよ。どこか人を試すようなことをする人でしたから」
一絵は一番最初に、伯母が旅行中に猫の世話でマンションに入ったときのことを話した。
「机の上や食器棚の引き出しなんかに現金をポンポンと置いてるんです。たぶん、それに手を付けなかったから信用してもらえたんだと思います。奈緒さん、部屋は全部みられましたか」
視線はアトリエにしていた部屋の隣を見ていた。
「いえそこはまだ見てないんだけど……、なにか」
「見てみてください」
そういうと一絵は部屋に向かって歩き出した。
ドアを開けるとそこは荷物もなにもない状態で、天井の一部が黒く煤けているのをのぞけば、白い部屋であった。
「ここ見てください」
一絵が指差したところから、数字が書かれている。二から始まった数字は、横に部屋を一周しまた一周するという形で繋がっている。
「これなんだと思います」
「まったく検討もつかないけど、円周率みたいに終わらない演算でもやってたの」
しかし伯母は奇行を働くような変人めいた人ではなかったのにと思った。
「素数って、知ってます。一とその数字でしか割れない数字なんだそうですが、それを延々と書き続けていくって始められたんです」
「何でそんな事始めたの」
こめかみの疼きが度をましてきた。
「テレビの対談番組で数学者が素数の話を易しく解説してたらしくってね……」と言って、一絵はこの話をするときを待っていたとばかりに、一気に話し始めた。
「その素数っていうのが、数が大きくなると素数の数がまばらになるそうなんです。一兆の最後の百個の中には四個しか含まれないとかで、いずれなくなるかと思いきやまばらにはなるけど、必ず次の素数がでてくるんだそうです。麗子さんはそこが気に入ったそうで、『終わらないことを始めよう』って思ったんだそうです。数理の学生に頼んで相当なところまでプリントしてもらったらしくて、それを書き写していたんです」
「伯母らしいかもしれない。だって彼女、無宗教だったから、最後は数字の神秘に頼ったのかも……」
終わらないこととは、魂の不滅を意味するのではと、奈緒は直感的に思ったのだ。
「わたしは彼氏の影響だと思いますね」
一絵は言った。
「彼氏って、いるの」
奈緒は素数のプリントをしてくれた大学生を想像した。
「今じゃないですよ。ご主人がなくなってしばらくしてからお付き合いした男の人が高校の数学の教師だったそうです」
「再婚は考えなかったのかなあ」
「たぶんですけど、不倫じゃなかったのかな、その人とは」
一絵は自分の左手の薬指を右手の人さし指でさした。
「ふうん、それでその人とはどのくらいお付き合いしてたのか知ってる。長かったのかな」
「昔のことじゃないですか。ただ、わたしによく言ってたのは、六十五歳まで女は現役だったそうですよ。年下が好きだと言ってましたけど」
「すごい」
「ほんとすごいですよね」
一絵はため息をついて、少し黙った。
奈緒も話すことがなくなり、ソファに座ったまま部屋のあちこちに視線を向けていた。
「こっちはアルバムとか日記とかまとめてありますよ」
そう言うと、一絵は和室に入っていった。
「伯母はここで寝起きしてたのかな」
ベッドが見当たらなかったので、布団を敷いていたのだろうと想像する。
「いつもソファで寝起きされていました。わたし、一時期居候させてもらっていたんですけど、この和室を使わせてもらってました」
一絵はペットシッターになる前は動物病院のスタッフだったと言った。伯母の猫の一匹が尿管結石になり、一絵の勤める動物病院に来たのが始めだそうだ。かれこれ知り合って十年近くなるらしい。
「子どもさんとふたり暮らしってきいたけど」
「先生の子どもを産んだんです」
「動物病院の」
一絵はその先生が大学をでたての若くてハンサムな男だったと、目を潤ませた。
「まさか亡くなったの」
「違います。他の人と結婚してしまったんです」
「えっ、それならどうして先生の子どもを産んだの」
奈緒は混乱してきた。
「わたしは先生と付き合ってたって思ってたけど、先生にしたらわたしが浮気相手だったんですね。彼女に浮気がバレて結婚することになったから、わたしはクビ。そのときにここに居候させてもらったんです」
妊娠はわかっていたのかと訊いても、なかなか話そうとしなかった。言いたくないのならば、と思ったときに、
「コンドームに穴を開けてやったんです」
一絵はいたずらっ子のようにちらっと舌をみせた。
「そんなに好きだったの」
半ば執念のような一絵の行動に驚いた。
「ウソですよぉ、信じないでくださいよ。ちょうど揉めているときに生理が遅れてて、そんなもんですよね。ちゃんと避妊してきてたのに。今はなんとも思ってないです、先生のこと。でも、子どもを産めてよかったって思います。妊娠したってわかったとき、子どもを心底産みたいって思った……。ただ、麗子さんについていてもらわなかったらどうなっていたかわからないんです。わたしは黙って産むつもりだったんですけど、麗子さんがお金がなくて子どもに苦労をさせるのは、わたしのエゴだって言って、認知も養育費も全部貰えることになりました。感情的にならないためにも、連絡は麗子さんがとってくれました。先生のほうもお父さんが出てこられて、だから、わたしは嫌な思いもせずに、養育費を受け取って子どもを育てられます。奈緒さんは、どう思われます。シングルマザーは身勝手でしょうか……。奈緒さんは、今結婚とか考えてる人いらっしゃいますか」
英二のにやついた顔が浮かんだ。
「あたしのはだめだわ。奴の子どもが産みたいなんて思ったこともない。顔もぶさいくだし、三十二歳にもなってバンドやってるし、仕事はアルバイトだし」
(わたしにパラサイトしてるし)と奈緒は思った。
「確かわたしたち同じ歳ですよね。麗子さんが言ってました。このマンションを買ったときに奈緒さんが生まれたんだって」
奈緒は思い出した。このマンションの頭金を祖父が伯母に与え、父は祖父の家をもらうということになったのだと。
一絵は、さっきから壁の時計を気にしている。帰ると言い出せないのだろう。
「子どもさんのこと気になるよね。時間だったら今日はこれで、わたしももうなにもする気おこらないしね。また明日来れる」
「ええ、じゃ、これからも毎日猫の世話に来てもいいんですか」
一絵は不安そうな顔をした。
「猫の仕事は続けてもらえるとありがたいわ。わたしも一週間くらいしか休めないと思うの」
一絵はほっとしたようににっこり笑い、今日で終わりですって言われたら、どうしようって思っていたと言って帰っていった。
今、会社の話を出して嫌な気分になったことに気づいた。最近上司になった男と全然そりがあわないからだ。奈緒が仕事で意見をいうと途端に不機嫌になり、女は若いほうが使いやすいなどと大きな声で言う。いまだにこんなセクハラ発言が許されるとはと呆れるが、誰も咎めないことのほうが、もっと腹立たしかった。
英二にその話しをしたとき、「そんな奴、俺が殴ってやろうか」と言いながら体に手をのばしてくる。頭を使う仕事をしていないせいなのか精力がとりえの男だった。女がなにか不満をもらすのは、すべて欲求不満のサインと思っている。
「今度金が入ったら返すから、スタジオ借りる金貸してよ」
奈緒の上にのり征服してやったという顔で金の無心をする。返事をしないと、さらに強く体をあわせてくる。
英二とはいつでも別れられるし、浮気されても傷つかないだろうと思う。今は別れる理由がないというのが、別れない理由だった。英二もそのへんは察していて、逆らわずセックスのお相手を務めていれば、家賃も生活費も払ってくれる家主だくらいに思っているのだろう。
英二がしている音楽はデスメタルというマニアックなもので、ルックスもアウトローである。髪型はモヒカン状にかりあげ、裾の毛は馬の尻尾のように長く伸ばしている。頬骨が高く目が小さいので、サングラスをしていることが多い。並んで歩くことなどほとんどなく、友だちに紹介したこともない。逆に彼氏だと職場の同僚に知られるのが恥ずかしいと思っていた。
またすることがなくなったので、和室の押入れからアルバムや日記を引っ張り出した。
リビングのソファに胡坐をかき、古い順にアルバムをみていく。伯母は株屋だった祖父に教えられて、若い頃から株で儲けていたようだ。アルバムには企業の株主招待のようなパーティーの写真が多く残っている。祖父に相当見込まれたのか、隣りには祖父が必ず写っている。
そのうちに飽きて、日記を拾い読みしてみる。
毎日書かれた日記ではなく、何かあったら書き記すような形である。毎年同じメーカーのデスクダイアリーを買っていて、表紙に金文字で西暦が記されているものだ。一九八七年から二〇〇七年までが揃っている。
ほとんどは猫にまつわることばかりで、どれほど伯母が猫との共棲を重要としていたかがわかる。一番最初に飼ったのは白黒の猫だと書いている。奈緒の隣りで寝ているのがそうなのだろうかと、猫の背を撫でた。
絵のことも多くページを割いていた。最初は鬼瓦のデザインが好きでスケッチ旅行を始めたとある。あとは魔よけとしての鬼を求めて国内外にモチーフを求めたそうだ。
リビングの絵は大きな展覧会で入賞したものだとわかった。モデルは香川県の牛鬼でバックは更紗と言われる布のデザインを配するのが伯母の画風らしい。中でもバティックと言われるジャワ更紗が気に入り、生地を買ってはテーブルクロスや小物、服に仕立てたようだ。値段も記されていて、これも捨てられないリストに加えねばと奈緒は思った。
日記を書くという行為は、いつか誰かに読まれることを意識して書いているのだろうという気がしてきた。伯母の日記は読んでいる者、すなわち奈緒に伝えたいことを書いているのだ。
芭蕉布のことは特に大事だと書いてある。沖縄地方の織物で今では手に入らない貴重品だとある。黄土色の着物に仕立て直したものだ。それならと、アルバムを開いた。つい丈の渋い着物をきた伯母がどこかの日本庭園で写っている。
部屋の中に伯母の記憶が充満してくるようだった。
眠気がしたので、コーヒーを飲もうと台所に立った。洗面所のあたりに人の気配がするが、怖くて見にいけない。コンロに薬缶をかけリビングに戻った。部屋中の電気をつけ、テレビの音を少し大きくしてソファに横になった。
シューっという長く伸びる音。それがボリュームを上げたテレビのように次第に大きく聞こえてきた。実際は音が大きくなったのではなく、奈緒が徐々に覚醒してきたためだとわかった。
―違う―
目を開け、ソファ越しにコンロに載った薬缶を見て、奈緒はそう思った。体をはね起こし台所に向かっていく。コンロのつまみを戻す一瞬、炎が見えた。青くほっそりした炎だった。
アルミ製の薬缶は粉を吹いたように白っぽくなっていて、プラスチックの部分は溶けて凸凹に変形していた。
やけにしんとしていて、片方の耳を塞いだときのような、もしくは水の中で聞こえる音のような、くぐもった音が遠くでする。
―違う―
もう一度思った。ガスをつけたまま寝たのできっと不完全燃焼を起こして、奈緒は眠ったまま死んだのだと思った。そしてこれは現実に似せた世界なのだと。
テレビは生きているときと同じようにエンドレスで映像と音を出し続けているが、もう現実とは違うのだ。白っぽい空気が、スポンジを踏んだような床の感覚が現実ではないと訴えつづけている。
三毛猫がポンとテーブルのうえに載って、奈緒を見ている。生きているときは近寄らなかったのに、死ぬと逆になるものなのだなぁと思った。三毛猫はテーブルを降りて、和室に入っていく。ぼおっと見ていると、また戻ってきて和室に帰る。ついて行くべきなのだと思い、腰をあげた。
押入れに潜り、例の猫の通り道になっている穴をくぐった。穴は真下に開いて、奈緒は落ちていくときの風圧を感じた。底に当たったと思った瞬間、天井を抜けて素数の書かれている白い部屋に落ちてきた。上を見上げると天井の黒く煤けた部分が見えた。
白い部屋には男が立っていた。近づいてみると英二だった。髪型がスポーツ刈りのような短髪で、服もスラックスにXネックのセーターなどを着ているので一見してわからなかったのだ。
「英二」
奈緒は呼びかけた。すると男は、「もうその名前は使わない。僕のことはデッサーと呼んでくれ」と言う。
そしてデッサーは壁の数字を見ながら、喋り始めた。
「この世はすべて数字で表せる。元素周期表がそうだ。四や六といえば何の元素かが自明なのだ。人間が生まれるのも何番目の卵子と何番目の精子が結合するかだろう。細胞も骨も実は人間の不規則な動きだって、数字で表せるはずなんだ。音も色も諧調という数字を持っているし、そうやって、数字になるトリビアルなるものを消去し尽くしたのが、今の僕たちだよ」
奈緒は反論した。
「でも、ここに書かれているのは数字だし、素数もトリビアルなんじゃないの」
「そこが違うんだよ。素数だと思ってただけなんだ。これは砂を数えているんだよ。数えたと思えば、融解を始めまた結合している」
「伯母はどうして生きているうちに、こんなことを始めたの。終わらないことを始めるって何を意味するものなの。ここは死なないと来られないところなんでしょう。ここにいない伯母がこれを知る方法ってなんだったの」
「一度に質問するな。そう、無限であることと、一瞬は同じだと思えばいいじゃないか。伯母さんはきっと生きていながら、『肉体は思考の器だ』と理解できたんだよ。だからここに白い部屋を作っていたんだ」
「無限と一瞬がどうして同じだと思えるの。英二、そんな口からでまかせ言うのは、くだらないバンドのときだけにしてくれない。だいたい、経済力もないのにロックやって遊んでるあんたに、哲学を語る資格なんかない」
デッサーは指で輪を結んだ。そして鷹揚な身振りで、
「この指はくっついているかい」と言った。
「うるさい、馬鹿」、奈緒は小馬鹿にされたようで本当に腹をたてていた。
首を横にふって、
「僕たちが存在しているか、いないかなんか、関係あるとおもうか。僕たちはスケールを感じるための受動態なんだから」
白い部屋がやがてあかあかとしてきて奈緒は眩しくて目を閉じた。
再び目を開くと前にリビングのテーブルがあり、アルバムや日記が目に入った。テレビでは学習クイズの番組が流れ、数学の博士が解説をしているところだった。
あっ、と思い台所に行った。
薬缶はコンロの上に載っているが火にかけた形跡はない。確かに薬缶をかけた記憶があるのに、それも夢だったのだろうか。
英二に向かって吐いた言葉がリアルすぎて不思議だった。うるさい馬鹿と言い放ったときの胸のすくような感覚が余韻として残っている。
奈緒は鞄から携帯電話を取り出した。携帯はバイブにしていて、鞄に入れっぱなしていた。
二つ折りの電話を開くとディスプレイにメール受信のマークと着信のあったことを知らせるマークがでていた。
まずメールをあけてみる。受信ボックスに5という数字がでていた。順にOKボタンを押していくと、発信者の名前が五人あった。職場の同僚や友だちからだった。
本文は読む気になれず、メールを閉じた。
着信履歴は真ん中の丸いボタンの横矢印を押すと表示される。一絵と葬儀社の人、あと登録外の番号表示の電話が一本あった。奈緒は登録していない電話には出ないことにしていた。また未登録の着信があってもかけ直すようなことはしない。なぜなら、ほんとに用事がある人なら留守録になんらかのメッセージを残すからだ。
この未登録の番号の主は録音を残していた。着信時間は三十分くらい前だった。
メッセージには伯母の訃報を知ったのでかけましたと男の声で入っていた。奈緒の携帯にかかってきたのは、伯母が亡くなってすぐに、伯母の携帯の留守番メッセージに奈緒自身が伯母が今日亡くなったことと、奈緒の電話番号を吹き込んだからだった。
奈緒は英二からメールの一通もないことにあきれた。
伯母が死んだことや通夜、葬儀をひとりでやらなければならないことは知っているのにだ。
「俺も葬式でようか」とへらへら笑って言ったが、それはモヒカン男を人前に出したがらない奈緒の本心を見透かして、冗談として言ったにすぎない。
さっきの夢のせいか、英二にやたらいらいらしていることに気づいた。奈緒は英二との生活を納得して続けていたつもりだったが、お金をださないかわりに、何らかの見返りを求めていたのか。
伯母の日記に書かれていた言葉を思い出した。
「見返りを求めない愛情なんて人間同士では無理だ。異種だからこそ、最初から見返りという概念がなく、わたしは猫を愛せるのだ」
すたっと白黒の猫がテレビに飛び乗った。そして箱のように手足を体の中にしまいこんでうずくまると、奈緒の方を見下ろした。アーモンドのような大きな瞳はまばたきもせずじっとこちらを見たままだ。奈緒も同じようにまばたきを我慢してみるが、すぐに目が乾いてだめだった。
立って白い部屋の前に行った。
部屋はがらんとして、夕方みたときと同じだった。
奈緒は中に入るのを躊躇った。足を踏み入れて、また妙な世界に戻りはしないかと思ったからだ。そこへ、白黒の猫が奈緒の足元をすり抜けて部屋の真ん中までいき、ごろんと寝そべった。
どうもないからおいでよ、というように、前足をまげて手招きのようにゆらゆらと動かしている。
奈緒は部屋に片足をのばし入れた。
ここに奈緒の家にあるものを運び込むほうが楽だなと思った。
猫たちは死ぬまでここで面倒みようと決めた。
「ペイジ、一緒に暮らすか」
奈緒が話しかけると、
「ナオン」
とひと声鳴いた。
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