噴水
夕日が長く濃い影を地面に映し出す。
午後五時過ぎ、駅前の小さな広場は電車を降りて帰宅する人々で混雑していた。部活帰りの学生、仕事を終えたサラリーマン、買い物を済ませた主婦。皆、長い影を引きずりながら足早に通り過ぎて行く。
私は広場にある噴水の縁石に座っていた。そこは駅の出入り口の真正面に当たり、駅から出てくる人や広場を横切って行く人を見渡すことができた。
背後からの冷気が私の背をなでる。振り返ると、池の真ん中からほんの申し訳程度の水が噴き出ていた。勢いはないので、背中はしぶきを被ることはない。しかし、三月末の夕暮れ時はまだ肌寒く、細かく震える水面とともに体温を奪っていく。私は身をすぼめて駅の方に向き直った。
広場に敷かれた石畳に映る、現れては通り過ぎていく慌ただしげな影の群れ。それらとは対照的に、目の前に伸びる一つの影だけは微動だにしなかった。
私は駅から出てくる人、一人一人の顔をじっと眺めていた。大きな鞄を提げながらも軽い足取りでやってくる高校生。
違う。
油汚れの目立つ作業服を着て煙草をくわえながらやってくる中年の男性。
違う。
日はますます傾き、影は次第に長くなり石畳を覆い尽くそうとしていた。
四十歳くらいの女性がこちらに向かってくる。噴水の縁に腰かけて貪るように他人の顔を見つめている私に、いぶかしげな視線を突き刺した。黒い厚手のジャケットに身を包み、小ぶりのバッグを肩にかけ、片手にこの駅の沿線にあるスーパーマーケットの袋を提げている。これから家に帰って夕飯の支度なのだろう。私には同世代の彼女の行動が想像できた。
家の玄関を開ける。子供たちが中から駆け寄ってきて、「お腹すいたー」と口々に声をあげる。彼女は仕事で疲れた体と心を休める暇もなく、家事に追われて行くのだ。
彼女の鼠色にくすんだ顔が私に迫ってくる。目の下のどす黒いくま。弛んだ頬。
ああ、嫌。私を見ないで。あなたは私が待っている人じゃない。
顔を背け、目をつぶる。
水の湧くかすかな音が私の耳へと流れてくる。内耳の中に水が溜まっていく感触に襲われた。
ゆっくり目を開けると、私の前には誰もいない。駅から出てくる人は皆、私のことなど気付かずに、自分の帰るべき所へ一途に足を進めていく。
私だけが止まっていた。そのまま、通り過ぎる人々をただ眺め続ける。
若い男性が私の方に視線を向けた。黒いスーツに銀色のアタッシュケースを持ったその男は親しそうに笑みを浮かべこちらに歩いてくる。
男は唇の両端を耳もとまで吊りあげ歯を見せて笑う。ヤニで汚れた黄色い歯を覗かせ、手を伸ばし、私の肩に触ろうとする。
嫌だ。気持ち悪い。あなたは私の待っている人じゃない。
私は俯いて目を逸らす。
背後の池の水面がさざめいていた。途切れず流れる水の音が、耳の奥へ頭の奥へと沁み込んでくる。
顔を上げる。やはり、私は一人で噴水の前に座っていて、そばには誰もいなかった。
夕日が燃え尽きる一瞬、世界が儚げな朱に染まった。今日もまた終わってしまうのだ。
私はいつまで待てばよいのですか。
今にも闇へ溶け込みそうな影に問いかける。
もちろん、答えなど返ってはこない。
今から三十年近くも昔のことになるが、私が小学生だった頃の母のことを最近よく思い出す。
母は夕方になるといつも外へと出かけていった。
「余里子はお留守番していてね。戻ったらすぐご飯にするから」
そう言い置くと、玄関の扉を開け、夕闇の中へと消えていく。一時間ほどの外出だったが、よほどのことがない限り、その行為は謹直な儀式のように日々続けられた。
物心ついた時から、私と母は二人暮しだった。しかし、母は働きに出ることもなく始終家の中にいた。恐らく、働かずとも生活していくに十分な財産があったのだろう。
あの頃、私は貧しさを感じたことはなかった。同じように、寂しさも感じてはいなかったと思う。夕方の一時間を除いて、母は家にいて私の世話を焼き、私の話を聞き、楽しそうに笑っていた。隣には母方の祖父母も住んでいて、一緒に賑やかな夕食をとることも多くあった。
ザザッと冷たい風が吹いて、私はコートの襟元を手で押さえた。駅の出入り口から明かりが溢れ、広場にも街灯がともり始めた。駅前を歩く人たちは背を丸めて一目散に家路を目指している。誰も私に目を留める人などいない。
白い髪を風に乱した老婆が手押しカートを押しながら、私の方に近づいてくる。母が生きていれば同じくらいの年齢だ。カートに支えられながらゆっくりゆっくりと向かってくる。
老婆の暗い目が私を捉えていた。日が沈みきった薄闇の中でも彼女の黒目の焦点がわかる。
嫌。来ないで。
私は身をよじって顔を背ける。
老婆の顔が近づいてくる。冷気に満ちた空気が生温く澱む。ひび割れた唇が乾いた音をたてる。
よ り こ。
漏れる息に混じる微かな振動。すえた口臭が私を覆う。
あなたは私の母じゃない。私は母を待っているわけでも、あなたを待っているわけでもない。
不意に水の噴きあがる音が耳に飛び込んできた。
ハッとして目を上げると、そこに老婆はいなかった。やはり、私はただ一人で座っていた。
「待っているだけでは駄目よ。自分自身の力で掴みなさい」
母はいつも微笑みながら幼い私に語りかけていた。そして、私が中学生になった時、枯れた枝が簡単に折れるように、母は死んだ。
私は一生懸命勉強して短大まで進み、自分の力で仕事を見つけ、積極的に男性と出会い、選び、望みどおりの結婚をした。夫婦仲も円満で子供にも恵まれた。そんな私の姿を見て祖父母も満足げに頷きながら死んでいった。
妻として母として家庭に収まったはずなのに、私はいつのまにか一人でここに座っている。駅から出てくる人の顔を一人一人えぐるような眼つきで見つめている。
私は待っているのだ。誰を?
王子様でもない。金持ちでもない。
有名な人? 優しい人? 偉い人? 強い人? いいえ、いいえ。
運命の人? そうではない。
死神……、まさか。
「余里子」
頭上から声をかけられ、顔を上げる。夫が前に立ち私を見つめていた。
私は彼の瞳を見ると、さりげなく目を下に逸らす。
あなたじゃない。
「ただいま。寒かったろう。さ、早く帰ろう。翔太も家でお腹すかせて待ってるよ」
夫の声に私はゆっくりと立ち上がった。伸ばした体に冷気が沁みる。
「今日の夕ご飯はエビフライよ」
私は明るい声を出すと、家に向かって歩き出す。
夫も息子も私を待ってくれている。あの世では母も祖父母も私を待ってくれている。でも、でも……
私はあなたを待っているのです。
後ろを振り返り、耳を澄ます。暗い闇の中、噴水から水が流れる音が聞こえてくる。
指輪
「また減ってる」
体に巻きつけたバスタオルの胸元を押さえながら、私は体重計からゆっくり降りた。それでも針が耳障りな音をたてる。
湯気のこもった洗面所。曇った鏡はぼんやりと有りのままの姿を映し出す。
最近疲れているのかしら。
私は指で曇りを拭うと、品定めするように自分自身を見つめた。風呂上りの肌は潤っていて、骨ばった鎖骨も艶かしく光っている。目許の小皺も気にならない。上気した頬が可愛らしい。
これなら三十歳には見えない。
満足気に頷いて私は時計を見た。十時二十五分。
もうじき耕太がやって来る。私の部屋で一緒に夜ご飯を食べるのは今日で三回目だ。
私は何もつけずに素肌に直接ワンピースを被った。さらっと肌触りの軽い木綿生地、Aラインの裾が膝下で揺れる。赤地に白の花柄がリゾートっぽい。濡れた髪を乾かす時間もなく、タオルで緩くくるむ。
その格好のまま、台所に立つ。1DKのマンションにしては比較的広い調理台。圧力鍋はいい具合に蒸気が抜けていて、炊飯器からも香ばしく湯気が上がり、冷蔵庫を覗くとサラダは食べ頃にワインは飲み頃に冷えている。今日は赤と白のランチョンマットを敷こう。
チャイムが鳴った。私は頭のタオルを素早くはずすと、飛ぶように玄関まで行く。サンダルを踏み潰しながら扉を開ける。
「ふみちゃん、遅くなった。ごめん」
耕太は済まなそうな声とは裏腹な笑顔を私に向けた。私は堪らず彼の首に手をかける。彼も鞄を持たぬ手で私の腰を引き寄せると、軽く口づけた。
「遅くまで残業お疲れさま。お腹空いてるでしょ。さ、入って入って」
私の誘いに従って、耕太は「おじゃまします」と部屋に上がってきた。背広の上を脱ぎネクタイを外すとテーブルについた。
「うまそうだな」
私がよそうスペアリブと野菜のリヨン風煮込みに彼の目は釘づけだ。牛肉、玉ねぎ、人参……見目良く盛りつけ、仕上げに赤ワインとダシと牛脂の利いたソースをたっぷりとかける。
「今日は何時に帰るの」
ご飯をよそいながら何気なく尋ねる。
「朝までいたいところだけど、明日も休日出勤するつもりだから、二時くらいになったらタクシーで帰るよ」
あと三時間ちょっとしかないじゃない。私は彼に見えないように顔を歪めると、自分の席についた。
ワインの栓を抜くのは耕太の役目だ。私はいつも栓抜きを真っ直ぐに差し込むことができず、コルクをボロボロにしてしまうのだ。彼は迷いもなく栓抜きの螺旋をねじ込み、事もなくコルクを引き抜く。ボトルを押さえる左手の薬指に銀色の指輪が光っている。私は黙ってそれを見つめていた。
耕太は私と同じ年だけど結婚している。
心地良い音をたててワインが注がれる。
「乾杯」
私たちは何に乾杯するのか口にすることもなく、グラスの縁を軽く合わせた。透明な液体が私の喉元を冷たく通り過ぎていく。
「ふみちゃんも八時過ぎまで残業してるのに、帰ってきてこれだけの料理よく作れるな」
耕太は小さな食卓に所狭しと並べられた皿を見て感心したように言う。
「十年も一人暮ししてたら、もう慣れっこよ」
私はシーザーサラダを頬張りながら少し得意げに言う。
「耕太のとこは共働きだよね。大変でしょ」
「俺よりもカミサンの方がね。結婚した当初は料理の段取りよりも俺の舌に合わせるのが大変だったみたい。今では俺好みの薄味になってるけど」
「和食が多いんだ?」
「まあ、俺は魚が好きだから。今日みたいな凝った料理は久しぶりだよ。うまい」
そう言ってスペアリブを手で掴み噛りついた。
「疲れてるときは少し味強めの方がおいしく感じるからね」
私は胡瓜の甘酢漬けと共にご飯を食べる。私だって和食も作れる。この胡瓜も砂糖と酢の加減が絶妙だ。
耕太がちょうど食べ終わった頃を見計らって、私は冷蔵庫から大皿に乗ったデザートを取り出す。
「生姜ゼリーなの」
ゼリーには似つかわしくない材料の名に、耕太は少しためらっているようだった。しかし、興味の方が強かったのだろう。その琥珀色の塊にスプーンをえぐり込んだ。
「うまい」
一匙口にして、耕太は意外そうに目を見開いた。
「口の中、すっきりするでしょ。甘さも控えめだし」
「甘さ控えめで助かるわ。うちのカミサンも甘いもの好きでさ、ついつい俺も付き合って食べてしまって。二人揃ってダイエットしなきゃって言ってるんだけどな」
「結婚しましたハガキの写真、奥さん細かったよ」
「そりゃ、二年前の話」
彼が大袈裟に手を振る。薬指の根元がキラと光った。私は目を細め視線を背ける。
結局、なんだかんだ言いながらも、耕太は直径二十センチのババロア型のゼリーを一人で半分食べた。
ワインのフルボトルをすっかり飲みきった頃には時計の針はもう十二時近くを指していた。
「お風呂沸いてるからどうぞ」
私は耕太に勧めると、彼はその場でワイシャツを脱ぎ時計や指輪を外し、洗面所の方に消えていった。しばらくしてシャワーの水音が聞こえてくる。
私は食器を洗いながらも、テーブルの上に光る指輪がずっと気になっていた。
手を休めると、おもむろに腕を伸ばす。泡が付いた指先でそれをつまんだ。蛍光灯の明かりを受けて眩しく反射する。
「貴金属を身につけるのは苦手なんだけど、『これだけは絶対して』とカミサンに強くお願いされて」
半年前、耕太と初めて二人で飲みに行った時、彼の薬指を見て冷やかした私に照れながら答えた。
その安穏とした様子に無邪気にも邪気を覚えた。この身勝手な感情は羨みだったのか、妬みだったのか。それは彼に対して? それとも、奥さんに対して?
指輪の裏側に二人のイニシャルが刻み込まれているのに気が付いた。心臓が雑巾のようにギュッと絞られる。
生臭く澱んだ何かがシンクの底へ筋をつけて垂れていく。
私は流し台の隅にある三角コーナーに指輪を投げ捨てた。食べかすのスペアリブの骨の合間を滑り、底の方に落ちていく。
いい気味だ。
私は鍋を持ち上げると、冷え固まった牛脂が浮かぶ煮汁を三角コーナーに流し込んだ。
風呂場から耕太の鼻歌が聞こえる。声が小さくて何の曲だかよくわからない。
私もつられてでたらめに鼻歌を歌う。手際よく食器を洗う。サラダの余ったドレッシングを三角コーナーに捨てる。
よく泡だったスポンジで皿をこする。二切れほど残った胡瓜の甘酢漬けもつまみ食いして、残りの醤油色した漬け汁を三角コーナーに捨てる。
湯で皿についた泡と油を洗い流す。炊飯器に残ったご飯粒も湯をかけ根こそぎ三角コーナーに捨てる。
きれいになった食器が水切りカゴに積まれていくたびに、三角コーナーはドロドロさを増していく。
いつのまにか、耕太が風呂からあがったようだった。扉の向こう側から勢いよく体重計の針が揺れる音がした。
「お、また太った。まいったな」
耕太の声が上がる。
私は残飯だらけの三角コーナーに手を突っ込むと、手探りで指輪をつかみ出した。油で濁った彼の結婚指輪。
洗剤をつけたスポンジでそれを丁寧に洗う。湯で泡を流し、布巾でしっかり拭いた。指輪は先ほど以上に銀色の輝きを増している。
私は自分の中指を立てると、そこにはめてみた。私の肉の薄い指より一回りしか大きくない。思ったよりも細い。
もっと太ってこんな指輪はめられなくなればいいのに。
私は指輪を抜き取ると、ワンピースの裾をたくし上げ、なま温かいヴァキナの入口にそれを挟みこんだ。
洗面所の扉が開く。私はサッと裾を下ろして彼を迎えた。耕太が腰にバスタオルを巻いた姿で現れる。
私は彼の胸に抱きつき、耳元で囁いた。
「宝探しの時間よ」
彼は訳がわからず、もの問いたげな微笑で私を見つめる。
私は想像する。
明日の朝、自宅で出勤の準備をする彼。その横で「あなた、忘れちゃ駄目よ」と声をかける妻。そして、彼女は手の平で大事に包むようにして、この指輪を差し出す。
私は可笑しくて苦しくて愛しくて悲しくて複雑な思いに身を引きちぎられながら、彼に口づける。当たり前のように欲しいものを手に入れ、その上にあぐらをかいている彼に。
私は抱き寄せられながら、次は上品でほろ苦くでも砂糖のたっぷり入ったチョコレートケーキを彼に食べさせようと思った。
弦月
帰りたい。
あたしは青空を見ながらそう呟く。白い雲の代わりに白い月が浮かんでいた。
「なら、早く掃除終わらせようよ」
横から久恵が口をはさむ。そして、窓辺に突っ立ったままのあたしの足をホウキで掃いた。六時間目が終わった後の掃除の時間。あたしの班は特別教室棟の四階廊下の掃除当番だった。
「そういう意味じゃない」
あたしは窓の手すりに寄りかかったまま、まだ空を見ていた。
「はいはい、あんたはただ掃除サボりたいだけでしょ。中三にもなって大人げないんだから」
久恵はそんなあたしに付き合っちゃいられないという風情で廊下の先の方を掃いていく。
「そうじゃないけど」
あたしは少しふてくされながら、持っていた雑巾で手すりを拭き始めた。
手すりは廊下の先の先まで続いている。窓は途中、柱に隔てられて青空を見せなくするが、手すりはずっと続く。銀色につややかに光った円柱が近未来の空間に走るチューブ型道路のような気がして、少しワクワクする。
このまま、どこかに辿りついたらいいのに。
あたしは手すりに沿ってひたすら足を進める。
目の前に壁が現れる。ちぇ、もう行き止まりだ。
そこで廊下は終わり、突き当たりは非常扉になっていた。
「雅美、掃除終わったよー」
久恵の声が遠くから聞こえる。いつもなら回れ右をして廊下の真ん中を歩いて戻るのだが、今日は非常扉に貼られた緑の表示板がやけに目に入る。
あたしはそっと扉のノブに手をかけた。回してみる。何の抵抗もなくノブは回り、あたしのかけた体重で扉はゆっくりと押し開かれた。
「こら、何やってるんだ」
背後から急に声をかけられ、あたしは扉から手を離し振り返った。
生物の池野先生が立ってこちらを睨みおろしていた。小さく黒い瞳が薄気味悪い。あたしはその目を避けるように顔を伏せた。後ろで非常扉の閉まる重たい音が響いた。
「勝手に非常扉を開けてはいけない決まりになってるだろ」
池野先生はあたしの頭に怒鳴りつける。
「だって、簡単に開いたんだもん」
あたしが呟いた反撃の言葉を先生は聞き逃さなかったようだ。
「扉が独りでに開くわけない。おまえが開けたんだろ。まったく、何でもかんでも人の所為にしようとするな」
先生の足元は黒の突っかけサンダルだった。スーパーで七百五十円くらいで売っていそうなヤツ。その先から毛玉のついたグレーのソックスが見える。所帯じみた感じがうっとうしくなって、あたしは顔をあげた。先生の小さな黒目と再会した。
「先生、結婚してるんだっけ」
突拍子もない質問に池野先生は少し慌てたようだった。
「急に何を。そんなこと関係ないだろ」
目が見開かれますます黒目が小さく見える。
「うん。あたしには何の関係もない」
あたしは頭をさげてお辞儀をすると、先生の脇をすり抜けて廊下をひたすら戻った。
「雅美、なに池野につかまってんのよ」
下校途中、久恵が話しかけてきた。
「別に」
答えるのも面倒くさい。
「もう何怒ってんの。憂さ晴らしにカラオケでも行く?」
「行かない」
まっすぐ前を向いたまま歩き続ける。あたしが行きたいのは、学校でも家でもカラオケでもない。どこか分からないけれど、心から帰ったと思える場所。
「雅美、最近つきあい悪いよ。どうしたの」
久恵は心配そうにあたしの顔をのぞきこむ。あたしは仕方なく笑った。たぶんとっても情けない笑顔。
「ちょっとヘコミ気分なだけ」
「なんで」
「理由なし。なんか何もする気になれない」
「五月病?」
久恵の言葉にあたしは首をひねる。
「さあ。家で寝とくわ」
久恵に別れを告げると、家に向かってダラダラと歩き始めた。
「ご飯よー」
お母さんが下から呼んでいる。あたしはベッドから起きあがると仕方なく部屋を出る。隣の部屋のドアが勢いよく開くと、「はーい」という返事とともに妹が階段を駆け降りていく。
「お腹すいたでしょ。今日は煮込みハンバーグよ」
お母さんがお味噌汁をよそう。妹は嬉しそうに席について食べ始めた。あたしはその横に座る。
「雅美、最近学校はどう? 中学三年になると受験一色になるんでしょ」
お母さんが知ったふうに話しかけてくる。
「別に、まだそんな感じじゃないよ。中二と変わらないよー」
あたしは気乗りせずに答えた。ハンバーグを箸で割る。トマトソースの滲みこんだお肉はそれなりにおいしかった。
「睦美はどう」
お母さんは平等に妹にも会話を投げかける。
「六年生はすっごく楽しい」
妹は屈託がなかった。あたしはこっそりとため息をついた。
次の日の放課後、あたしは昨日の非常扉へ一人で行ってみた。その廊下は社会科教室や理科室が並んでいて放課後はあまり生徒が通らない。
緑色の表示板の前に立った。緑色の人が外へと走っていく姿。たぶん、あの人は帰る場所を見つけたんだ。きっと、この扉を開ければ、そこがあるに違いない。
扉のノブに手をかけた。だが、そのノブは回らなかった。右に左に回そうとしたが、びくとも動かない。カチャという音すらしなかった。
昨日は開いたのに。
あたしはがっかりして非常扉におでこをつけてもたれた。
「また、おまえか」
後ろから声がした。振り向くのもおっくうだ。おでこを扉につけたまま床を見つめていると、黒い突っかけサンダルが視界に現れた。今日のソックスは紺色だった。爪先の部分がうっすらと透けている。
「先生が鍵かけたの?」
「ここは四階だから。大事な生徒たちにもしものことがあったら困るだろ」
「火事になったらどうすんの」
あたしは姿勢を変えずに、ソックスから透けて見える親指の爪に向かって話しかけた。
「理科室に予備の鍵を置くようにしたから、それで開ける」
ふーん。あたしは池野先生の方に向き直った。
「じゃ、今、開けてみてよ」
「駄目だ」
先生は小さな黒い瞳でこちらを睨みながら言った。
「ケチ」
「第一、 何のために開けなきゃならない」
あたしは先生の問いを無視する。廊下の窓をのぞくと、上空に白い月が浮かんで見えた。夜に見える月と同じものとは思えない。青空の色に侵食されたような月。
先生のため息が聞こえた。
「もういい。早く帰りなさい」
「どこに」
突飛な返事に先生は面食らったようだ。
「家に決まってるじゃないか。それとも、月にでも帰るのか」
あたしは先生の方に目を向けた。先生は窓の外をチラッと見てこちらに目を戻した。
「先生、変なこと言うね」
池野先生は少し気分を害したようだった。眉間にしわを寄せ目を細める。小さく黒い瞳が半分見えなくなった。
「でも、それ、なんか気に入った」
呆気にとられる先生を尻目に、足取り軽くその場を立ち去った。
夜寝る前に窓から外を眺めた。濃紺の星空にはもちろん月は浮かんでいない。
白い月を思い出して、あたしは少し笑った。
週末に家族四人でデパートに出かけた。今日は母の日だから、お父さんと妹とあたしでお母さんに好きなものを買ってあげることにしたのだ。お母さんは洋服売り場に行くと何回も試着した後、白いカーディガンを選んだ。
「あ」
あたしは思わず声をあげた。
池野先生がベビーカーを押してこちらに歩いてくる。横には女の人が一緒だった。
向こうもこちらに気づいたようだった。驚いたように少し立ち止まる。たぶん、見開かれた目の中で小さな瞳が点になっているに違いない。決心したかのようにこちらに進んでくる。
「井伊田さんのご両親ですか。私、佐々中学で生物を担当してます池野と申します」
先生と両親が挨拶をしている。あたしはベビーカーの中の赤ちゃんをのぞきこんだ。ふてくされたような顔で眠っている。ピンクの服を着ているから女の子なんだろう。
あんたも帰りたそうだね。
あたしは強い視線で問いかける。でも、赤ちゃんはまったく反応してくれなかった。
一通りの挨拶が終わると先生は笑顔で立ち去っていく。その姿をあたしはぼんやりと見送った。
「じゃ、帰ろうか」
「どこへ」
あたしは口を押さえたが、すでに遅かった。お父さんが怪訝そうな目でこちらを見る。
「どこへって、家に決まってるじゃないか」
当たり前と言わんばかりの声音に、あたしはあいまいに笑ってごまかすしかなかった。
「夕食どこかで食べてから帰りましょうか」
お母さんが話をついだ。妹が声をあげて飛び上がる。
あたしは情けなく笑い続ける。白い月が脳裏に浮かんで消えた。
休み明けの放課後、あたしは性懲りもなく非常扉の前にいた。
やはり、ノブは動かない。
扉にもたれながら窓の外を眺めた。あいかわらず青い空が広がっている。が、月は見えなかった。窓辺に寄って見渡せるだけ見渡してみたが、白い月はどこにも浮かんでいなかった。
どこまでも澄んだ青色が目に沁みる。目頭がジワリと熱くなった。
「おい、また、おまえか」
あたしは窓から顔を引きはがし、ノロノロと振り向いた。池野先生が立っていた。
「いつもここで何してるんだ」
小さく黒い瞳はいつも通りこちらを睨んでいたが、その視線は少しだけ柔らかい気がした。
「家庭に問題があって家に帰りたくないわけじゃないんだろ。良さそうなご両親だったもんな」
「……うん」
あたしは先生の小さな瞳を見ながら聞いた。
「先生は? やっぱり家に帰りたい?」
「まぁな。妻も子供も待ってるからな」
あたしは床に視線を落とす。
待ってるから、帰りたい? 違う。そうじゃない。待ってるとか、待ってないとか関係ない。帰りたいから、帰るんだ。でも、それはどこ?
先生は何も話しかけてこなかった。黙ってあたしの様子をうかがっているようだ。
あたしはそのまま回れ右をして、窓の外を眺めた。やはり月は出ていない。
「先生、月はどこにあるの」
不意の問いに、池野先生は無言で窓辺に来た。窓を開けて上空をのぞいてみたが、やはり見つけられはしない。無言で窓を閉める。
あたしはがっかりして壁を背にしゃがみこんだ。黒い突っかけサンダルが目の前に現れ去っていく。サンダルの先からはみ出た黒いソックスは新品のようだった。
突っかけサンダルは非常扉の方に進んでいく。あたしは立ち上がって先生の背中を見つめる。白衣のポケットに手を入れて何かを取り出す仕草をした。
「今回だけだぞ」
こちらに振り向きながら言う。眉間にしわが寄っている。指先には鍵が揺れていた。
あたしはフラフラと非常扉に向かう。
先生はノブの鍵穴に差し込んで回した。ガチャンと派手な開錠音が響く。そーっと扉が開かれた。あたしは先生の後ろから扉の向こうの光景をのぞく。
「来なさい」
先生があたしを呼ぶ。非常扉から一歩踏み出した。
下から風が吹き上げてきて、あたしはスカートを押さえた。四階から一階へと落ちていく校舎の壁が見慣れなくて不思議な気分にさせる。日が西に傾きかけているので、この非常階段は校舎の影になっていた。
「ほら」
下ばかり気にしていたあたしは、先生の呼び声と立てられた指に導かれ、上空を見上げる。
青い空に半円の白い月がぽっかりと浮かんでいた。
あたしは非常階段の手すりにつかまりながら、じーっとそれを眺める。
「別にここからじゃなくたって、外に出ればどこからでも見えるのに」
先生はブツブツと文句を言っているが、あたしはすべて聞き流す。
あそこがあたしの帰りたい場所……なわけじゃない。そんなおとぎ話みたいなこと望んでいるわけじゃない。あたしを包むこの広い世界が、あたしのすべての場所だって分かっている。
でも、あたしは睨むように白い月を見つめる。
帰るところがあると思うと、なにか安心するのだ。帰りたいどこかじゃなくて、帰りたいあそこ。
「もう中に入るぞ、かぐや姫」
池野先生が非常扉に手をかける。あたしは思わず吹きだした。
「先生、また変なこと言ってる」
先生は小さく黒い瞳でこちらをひと睨みすると、校舎の中へ戻っていく。
あたしは白い月にもう一度目をやると、笑いながら先生の背を追いかけた。
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